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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/04/23(土)   CATEGORY: 未分類
タイとロシアの古い縁
2022年4月7日、国連人権委員会でロシアの理事国資格を停止する決議が行われた。結果は93ヶ国が賛成(セルビア、アルメニアも含めて欧州諸国はまとまった)。24ヶ国が反対。58ヶ国が棄権。
タイ

 反対国はアレな国々なので分かりやすいが、棄権国の中に仏教国家で平和な国のイメージのあるタイが含まれていることを意外と思う人がいるかもしれない。しかし、実はタイ(当時はシャム)とロシアの繋がりはロシア帝国期に遡る長い関係があるのである。

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世は皇太子時代(1890〜1891)ロシアの軍艦にのってアジアを旅をした。旅の記録はオリエンタリストとして有名なウフトンスキー公が行って豪華本で出版された(Travels in the East of Nicholas II. Emperor of Russia: when Cesarewitch, 1890-91)。ちなみに、現在ペテルスブルグにあるチベット・コレクションの大半はこのウフトンスキー公の力でそこにあるものである。

 ニコライ二世(当時皇太子)とウフトンスキー公は1890年12月23日にインドに上陸し、マドラスにおいてブッダガヤ復興運動が始まる直前の神智学協会の本部を訪れている。翌1891年にはセイロン(現スリランカ)、3月19日にはシャム(現タイ)に上陸し、ラーマ五世(チュラロンコン大王)とその皇子たちと交遊した。

 ニコライの旅は日本の大津で精神がちょっとアレな巡査に切りつけられ終わったが(大津事件)、この旅を通じてニコライはオリエンタリスティックな嗜好を強く持つようになった。てか、当時のヨーロッパのオリエンタリズムの流行にそのまま染まった。

 このあとロシアとシャム皇室同士の関係はどんどん深まり、この年の暮れにはシャムのダムロン王子がニコライのパパ、アレクサンドル三世とクリミア半島のリヴァディャ宮で謁見。


1896年にニコライ二世が即位すると、1897年にはラーマ五世自身がロシア帝国の都サンクトペテルスブルグを訪れ、シャム・ロシア関係は公式のものとなった。大使の交換も行われ、ラーマ五世お気に入りのまだ十代のチャクラボンス皇子 (Chakrabongse1883-1920)がロシアに送られた。

chakrabongse.png1899年には友好条約も締結された。

シャムが当時ロシアを非常に重視していたことは、インドで発掘されたばかりの舎利(仏様の遺骨)をラーマ五世は、他の仏教国をさしおいて、まずロシアに分骨したことにも現れている。

ことの起こりは、1898(明治31)、イギリス人の考古学者ウィリアム・ペッペがピプフラワーで舎利の入った容器を発見したことに始まる。その容器の銘文はアショーカ王時代のものであったため、舎利は限りなく真正に思われた(実は世界中の舎利を集めると象三頭分になるというくらい舎利は後世になるほど増え続けていたw)。
 
 当時、欧米で仏教は大ブームとなっており、それを追い風として伝統的な仏教国(スリランカ、ビルマ、日本)が結束して仏陀が悟りを開いたブッダガヤーの地を仏教徒に返還せよ、という運動をおこしていた(聖地復興運動)。それに対してブッダガヤーを支配するヒンドゥー教徒の地主は対立していた。インドを支配するイギリスはインド、スリランカ、ビルマ、いずれも自国の植民地であることから、どちらの側につくこともできずにいた。

 そこに、イギリス人の手によって真正の舎利が発掘されたのである。インド・イギリス政府は仏教徒の怒りを買わないため,舎利を仏教徒に寄贈することとし、当時唯一仏教王として独立国をはっていたシャムに白羽の矢が立った。
 1899年1月、ラーマ五世はインドに舎利奉迎の使節を派遣し、3月、持ち帰られた舎利はシャム各地で歓迎をうけた。

 仏教徒にとって真正の舎利は相当な権威をもつので、スリランカ独立の父のダルマパーラはこの舎利を手土産に鎖国中のチベットにいるダライラマ13世と連絡をとろうと考えていたという。

 ラーマ五世はこの舎利をスリランカとビルマに分骨することを決めていたが、その前に、たまたまロシアから一時帰国中であったチャクラボンス皇太子に舎利をロシアに持ち帰らせた(しかしこの事実は翌年まで伏せられた)。

1900年、3月4日、 ウフトンスキー公がロシア帝国下のチベット仏教徒60人を率いてチャクラボンス皇太子を訪れ、舎利を奉迎した。このチベット仏教徒はほとんどがブリヤート人で、二名程カルムック人が入っていたという*註1。

*註1以上のロシアの仏教徒への仏骨寄贈問題は、村嶋英治(2022)「稲垣満次郎と石川舜台の仏骨奉迎に因る仏教徒の団結構想:ピプラワ仏骨のタイ奉迎から日本奉迎まで(1898-1900)」 『アジア太平洋討究』 43: 215-257に詳しい。

 なぜ、ロシアに舎利を送ったことが伏せられたのかは、当時イギリスとロシアが対立しており、イギリスの植民地となっている他の仏教国(スリランカ、ビルマ) に先んじて、ロシアの仏教徒を優遇したことが露見すると外交的にまずかったからであろう。

チャクラボンス王子はロシア女性と結婚し、1906年にシャムに帰国した後、空軍の創設に尽力した。そう、つまりシャムの軍隊はロシア帝国式なのである。
 
 ではなぜシャムはロシアと仲が良かったのか? これは普通に地政学で説明がつく。シヤムは西の国境にイギリスの植民地ビルマ(現ミャンマー)、東の国境にカンボジアとラオスというフランスの植民地がせまり、英仏にごりごり領土を削られている状況下だったので、軍事的にはこの両国と対立するロシアと友好関係を保ちたかったのであろう。

 1904年にイギリスに攻め込まれたダライラマ13世が、ロシアの庇護をもとめて北上したのもその流れである。イギリスの敵は自分の味方というわけ。

 ちなみに、舎利がロシアに送られたことを知ったシャム公使稲垣満次郎は「あのにっくきロシアが舎利を手に入れたとな。日本も仏教国として負けていられない」、と日本からもラーマ五世に働きかけ、東本願寺の僧侶を中心とする仏骨奉迎団がにぎにぎしくタイに旅立ったのであった。

 しかし、持ち帰った舎利をどこにお祀りするかで各宗派でもめまくった挙げ句、結局名古屋の日泰寺(日暹寺)を新しく建立してそこでお祀りすることとなった。現在もこのお寺は日本・タイ友好のシンボルである(→詳しくはここ)。
日泰寺

 仏教の存在感が今よりもずっと大きかった20世紀初頭、イギリス人の手によって発掘された舎利は各国仏教徒のナショナリズムを刺激しまくっていたのであった。

 日泰寺の初代管長は舎利奉迎団の一員でもあった曹洞宗の日置黙仙(ひおきもくせん1847-1920)。この人は辛亥革命直後の1912年にインドで仏跡巡礼を行った際、ダライラマ13世とカリンポンで謁見している。その時の通訳が当時カルカッタ大学で教鞭をとっていた山上 曹源(やまがみそうげん1878-1957)なのである(前エントリー参照)。

このダライラマ13世謁見記録の詳細は山上 曹源が山上天川名でかいた『今日の印度』の最後の方に付録でついているので、ごらんあれ*註2。
今日の印度

*註2 デジタル化されていますのでどなたでもここで読めます

 この謁見記によると、山上曹源はチベットの御用商人ニイジャンを「友人」と呼んでおり、ダライラマはカルカッタ大学で山上がパーリ語の授業をやっていることに興味をもっている。これは山上はこの時点である程度チベットと通じており、ダライラマも明らかに山上が身を置いている神智学協会(協会長がカルカッタ大学の学長)やそこから分岐した聖地復興運動などに親しみ始めていたことを示している(それ以前にダライラマは1908年に北京でシッキムのクマル王子から聖地復興運動などについて聞き及んでいる)。

 というわけでタイ(シャム)とロシアの友好はいまなお続いているのである。ちなみに、ダライラマ14世が亡命後はじめての外遊先がタイ経由日本だった。日本とタイは同じ仏教国で植民地になったことがないという共通点があるものの(日本は敗戦後アメリカに占領されたがたった五年だし)、日露戦争でも、第二次世界大戦でもロシアと干戈を交えており、決して友好国とは言えないことを考えると、随分異なる歴史を歩んだものである。

 
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DATE: 2022/03/24(木)   CATEGORY: 未分類
矢島は結構重大な使命負ってた
3月23日、ウクライナのゼレンスキー大統領が戦火のキエフからオンラインで日本の国会に向けて演説をした。ウクライナの街々は瓦礫と化し、民間人の犠牲も増える中、とにかく国際社会の支援を得ようと大統領は各国の国家にむけてオンライン演説を続けている。大統領の演説はどこの国でもスタンディング・オベーションで迎えられている。

 一方、プーチン大統領は、大義のない暴力を振るっているのでどこの国からも共感されず、情報統制を行っている国民に向けてしか演説はしていない、ていうかできない。

 無辜の市民が死んでいく現在、一刻も早くプーチンの権力基盤が崩れて欲しいと願う毎日であるが、北朝鮮にしても天安門事件後の中国にしても、いかに暴挙を行い世界から制裁をうけても、独裁国家の足腰は強い。しかし、今度こそは国連を骨抜きにするあの二大常任理事国が心を入れ替える契機になってほしい(入れ替えるのは心だけで無くてもいいのよw)。

 ゼレンスキーが奇しくも言ったように、ロシアは面積で大国でも、倫理的には小国である。どことはいわないが、海を隔てた隣の国も同じ。『論語』が「徳は必ず孤ならず。必ず隣り有り」というけど、正しい行動をとっていれば、必ず助ける人がでてくるという意味である。聞こえてますか、あなたの国の伝統倫理だよ。

 さて、ここでチベットネタにハンドルきります。

 今から110年前の1912年、ダライラマはラサを占領する清朝軍をさけて英領インドに亡命していた。同年清朝が崩壊したことを受けて、ダライラマは清朝軍を追い出してラサに帰還を考えていた。しかし、仏教国家であるため、軍事力がない。近年の研究で、1912年当時チベット政府は、今のゼレンスキー大統領のようにラサを取り戻すために各国に軍事支援を求めていたことが分かってきた。
 そのうちの一国が日本であった。

 矢島保治郎(1882-1963)という日本人がいる。1911年3月4日に日本人として四番目、東チベットルートでは初めてチベットの都ラサに入ったことで知られる。この男がちょうどこの1912年にチベット入りをしている。
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矢島保治郎の研究者である浅田晃彦氏は『世界無銭旅行者』の中で、矢島が1911年の第一回目ラサ旅行からの帰国後、短い日本滞在期間後にとんぼ返りで二度目のラサ入りをした背景には、矢島がその短い日本滞在期間に川島浪速と接触し、何らかの使命を受けたからだという。

 清朝崩壊の直前、1911年12月に、外モンゴルはすでに転生僧ジェブツンダンパ8世を国王に戴いて独立宣言を行っており、清朝と外モンゴルに夾まれた内モンゴルの諸王公は中華民国につくかモンゴルにつくかの選択を迫られていた。川島浪速はこの時、内モンゴルを中国から離そうと、内モンゴルの有力王公クンサンノルブや清朝皇室の粛親王と動いた大陸浪人である。この川島が同じくチベットから中国(清朝)軍を追い出そうしていたダライラマにもかかわろうとしていたことは十分にありうる。

 矢島以前にラサ入りした河口慧海、成田安輝、寺本婉雅が仏教界や日本の未来などを背負ってラサ入りしていたのとは対照的に、矢島は世界無銭旅行を推奨する力行会というバンカラ集団のメンバーとして行動していた。なので、そのお気楽かつ破天荒な言動に今にいたるまでファンが多い。

 この前寺本婉雅のエントリーをFBにあげた時、九州のWさんが「矢島の『入藏日誌』を見直してみたが矢島も寺本同様、ダライラマに工作するには役不足だったかも」とコメントされたのをみて、『入藏日誌』に興味をもってとりよせてみることとした。

 そう、私は日本とチベットの関係については「日本語でできるから、私がやらなくても誰かがやるだろう」と思い、基本的な文献すら揃えていなかったのだ(威張っていうことではない)。ネットで探してみると、群馬の古本屋さんに一冊きりしかなく、これを私が買ってしまったのでみなさんは図書館にいってください。
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『入藏日誌』が届いて、それを紐解いたのは、寿司屋のカウンターでランチをまつ間であった。二頁目まで読んだ時、矢島のチベットへの水先案内人として、「チベット政府の御用商人「ニャンチャンツォンペン」(ツォンペンはtshong dponすなわち「交易商の長」という意味)の名前があることに瞠目した。「ニャンチャン?。見覚えある!」
 さらに、矢島がこのチベット行を報告している「山上」なる名にも心に響くものが。この二つの名は同じ機密外交文書に載っていた。
 その文書とは以下のものである。若干読みやすくするため手を入れている。

 明治45(1912)年5月14日付け、柴田總領事代理から内田康哉外務大臣宛  2966暗号 第一三號

ダライラマの総理大臣の深き信用を受け名は御用商人なるも、その実財政上の遣繰り(やりくり)はもちろん、一般重要国務の相談にも与(あず)かると云う西蔵人「ニイジャン」なる者、山上ソウゲンを通じて面会を請へるにつき、五月十二日密に会見したるところ、
 同人は[チベット]総理大臣の内意を受けて、第一大臣会議に於て清国兵のチベットより駆逐し、出来べくは、モンゴルと同じく独立を布告せんことに決したるも、第一の憂慮は清国よりの応報により清国、もし優勢の援軍を派遣するに於けば、チベットの独力、到底(とうてい)これに抵抗すること能はざるべきに付ては、日本は同種の好(よしみ)を以て、援助をチベットに致し、場合に依りては、これをその保護の下に置くの意向を有せざるべきか


 この後も文書は続くが、要は、チベット政府の「御用商人ニィジャン」なるものが「山上ソウゲン」を通じて、日本にチベットへの軍事支援を求めた文書である、それをカルカッタの柴田總領事代理が外務大臣内田康哉に自分の考えも加えて送った文書である。

 引用しなかった部文では、日本以外にイギリスとロシアにも支援を求めたが、1907年の英露協商にしばられて両国に却下されたことが縷々説明されている。
 
 浅田氏は矢島の書簡の中にでてくる「山上」については不明とし、かつ、「御用商人ニィジャン」に至ってはスルーしているが、この山上ソウゲンとは、明治期の曹洞宗の名僧山上 曹源(1878-1957)である。彼は1906年にセイロン(現スリランカ)に留学し、1907年にはカルカッタ大学でパーリ語などの教鞭をとっていた。山上は帰国後、駒澤大学でインドの宗教・哲学を担当し(後に学長に就任)、駒沢学園を創立するなど明治期の曹洞宗の教育者の中でも出色の人物である。

 ちなみに、カルカッタ大学での山上の後援を行っていたのはカルカッタ大学の学長Ashutosh Mukherjeeであり、この人物は大菩提協会(Mahabodhi Society) の会長でもあった。神智学協会は仏教を非常に高く評価しており、鎖国中のチベットのダライラマを名誉総裁にするほどであった(コンタクトとれてなくても)。

また、このカルカッタの總領事柴田の代理は平田知夫といい、無一文の矢島が第一回のチベット旅行からインドに戻ってきた後、五ヶ月も居候をさせてあげた奇特な官僚である。平田總領事代理、山上曹源、ニィジャンと当時のインドのチベット支援人脈の中に、矢島が加わっていたことがこれで明らかになった。とにもかくにもチベット政府の要人であるニィジャン/ニンチャンとともにチベット入りを開始し、山上の支援をうけていたことから、浅田氏がいうように、矢島が何らかの使命をえてチベットに向かっていたことは疑いない

 しかし、W氏が「役不足」といみじくも指摘したように、『入藏日誌』によると、矢島は旅のかなり初めの頃に、ニィジャン/ニンチャンに捨てられて、単独でダライラマのキャラバンを必死でおいかける展開になる(笑)。おそらくこの時点では矢島も寺本同様、あまりチベット側から信頼されていなかったものと思われる。

 ラサの清朝軍はチベット軍のがんばりとイギリスの調停もあって無事退去させることに成功し、1913年1月、ダライラマ13世がラサに凱旋した。この流れの中で日本の外務省はダライラマにラサ帰還を自重するように求めつづけており、軍事支援についても非協力的であった。チベット側からみて日本の支援は頼りにならなかったが、この後、多田等観、青木文教、河口慧海、矢島保治郎の日本人四名はお客分の扱いでラサ滞在を許され、矢島にいたってはチベットの貴婦人を娶り、人生の絶頂期を体験する。
 
 以下、1912年の略年表メモ。

●1912 年(明治45) 年

2/2 川島浪速が粛親王を北京からつれだす。
2/12 清朝最後の皇帝溥儀、退位。清朝崩壊。
2/17 カリンポン滞在中のダライラマ13世河口慧海を通じて明治天皇へ上書。
2/28 カルカッタ總領事柴田から外務大臣内田に報告。外務省が受け取ったのは4/30 。
2/21 落合謙太郎奉天總領事から内田に川島を封じるように電報。
3/1 川嶋浪速と参謀本部は、ハラチンのクンサンノルブとバーリン王ジャガルへ送金。外務省の反対で計画は中止に追い込まれる。クンサンノルブ、北京からモンゴルへ戻る。
3/28 大谷光瑞から徳富蘇峰へ、「ダライラマ13世から頻繁にチベットの支那兵を撤兵させるよう袁世凱に勧告しろといってきたけど、そんなこと言えないよ」。
3/28 ラサでチベットと清軍が衝突。
5/14 カルカッタ柴田總領事代理から内田康哉外務大臣へ、チベットの御用商人が独立のための軍事支援を要請。
6/19 矢島カルカッタをラサにむけて出発(入藏日誌)
7/8 第三回日露協約。辛亥革命を受け日露で内モンゴルを東西に分割。ロシアはモンゴルと単独交渉権を得る。
7/23 矢島、ラサに到着。
7/24 内田外務大臣が北京の伊集院公使に宛てて「西蔵ヨリ帝国政府ノ援助申出ニ関スル件」機密80号

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DATE: 2022/02/27(日)   CATEGORY: 未分類
ロシア市民は戦争を望んでいない(付近著の紹介)
プーチンがウクライナに侵攻し、ウクライナが戦場になってしまった。プーチンの思考回路はソ連時代そのままで、なんと核までちらつかせて欧米を威圧している。あの中国ですら今回のプーチンの行動に動揺しているのはワロタ(そのあと尻馬にのる可能性もあるけど)。去年のミャンマーの軍事クーデターも、アフガニスタンのタリバン復権も衝撃であったが、今回、こんな野蛮な形の戦争が始まったことに、衝撃を禁じ得ない。

 日本のマスコミがプーチンの言い分まで伝えているが、これ必要ないと思う。「過去に同一国であった」、とか、「NATOの東方拡大を続けている」とか、過去に遡った国境画定なんてはじめたら世界中で紛争がおきるから現今の国境線を護ろうときめたんじゃん。NATOに入るか入らないかは主権国家であるウクライナの判断である。しかも、ウクライナがNATOに入れるとしても10年後とかいわれている状況で、なぜプーチンはこんな野蛮な行為に走るのか。

 ロシア情勢に通じている人たちがすべて驚いている。プーチンはこの軍事行動で何を得ようとしているのか、それを得たとして代償を考えているのか。その行動があまりに非合理なので、過去のソ連時代の栄光を取り戻そうとするプーチン個人の感情の暴走ではないかと評する人がいた。実際、転落して刑務所に入ったり、病院に入ったりする人の共通項として、自らの現状認識ができず、過去の栄光にしがみついて、間違った選択を続けるというものがある。プーチン、ほんとそれかも(誰か認知症といっていた)。

 独裁国家では独裁者が戦争を始めれば、国民は従わざるを得ない。可愛そうなのはロシア市民である。私は3回しかロシアにいったことがないが、インフラはボロボロ、国民の生活は決して豊かとはいえず、戦争する金があるなら内政にあてろと思う(実際プーチンはシベリアにあてるお金をクリミア半島のインフラ整備に用いた)。オリンピック誘致するお金があるなら除雪にまわせと叫ぶ札幌市民と同じ感覚は当然わくだろう。

昨日だけでも以下の記事が(ソースはクリックするとでてきます)。

★2/26/ 00:03 『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙:50万人以上の市民が政府に対ウクライナ戦争を止めるように要求。
★《カザフスタン220226》
2022/2/26 04:01ロシアがカザフスタンにウクライナ戦参戦を要請して、拒絶される。

★2022, 2/26/ 11:02 何百人もの医師がプーチンに戦争の中止を要求。



つい最近拙編著の THE EARLY 20TH CENTURY RESURGENCE OF THE BUDDHIST WORLD IN CENTRAL ASIAが上梓された(末尾に目次の和訳を参考までにあげた)。本書にはロシア国籍の方が三人が寄稿してくださっている。このうちツェレンピロフ氏はブリヤート史研究の一人者、クチャーノフ氏はカルムック史研究の一人者、クズミン氏はスラブ系であるが、ロシア語資料をもちいて近代チベット史をチベット政府の視点から研究している。前二者は民族的にはブリヤート人である。

 そのツェレンピロフ氏が25日Facebookに以下の投稿をあげていた。DeepLで英訳してから和訳したのを以下にあげる。

Военная операция моей страны в Украине является полнейшим безумием. Я, гражданин России, не считаю, что любовь и преданность своей стране непременно означает поддержку политики правящего в ней режима. За этот режим я никогда не голосовал. Хочу выразить слова поддержки и солидарности с теми людьми, которые страдают от военных действий на территории Украины. Нет войне.
 
私の国のウクライナにおける軍事行動は全く狂気の沙汰である。ロシア市民として、私は祖国への愛と忠誠心はかならずしもその体制の政策に対する支持を意味しないと信じている。私はこの体制に投票したことはない。私はウクライナの領土で軍事行動で苦しんでいる人々に支持と連帯を示したいと思う。戦争反対。
ツェレンピロフ2
合体

この投稿に対して、次々と民族コミニュティの人々が、ロシア語で支持します、戦争反対のコメントがつり下がっていく(和訳したものと原文をあげときます)。中には「ロシアのほとんどの市民は同じように考えている」とコメントする人もいた。実際、ニュースではロシアの街頭には「この戦争はプーチン以外望んでいない」というプラカードを掲げてデモする人を映し出している。世界各国のロシア系の人々がウクライナ人とともに街頭にくりだして戦争反対を叫んでいる。

もう独裁者が戦争を始めていい時代ではないのである。

もちろんロシア市民、とくに高齢者は、ロシア国営テレビにでてくるようなそのままの言説をする市民もいるであろう。が、多くの市民は独裁者の戦争につきあうことを望んでいない。

 逆にいえば市民がこれだけやりたくないといっているのに戦争ができてしまうところが独裁の恐ろしさである。始まってしまえば、ロシア・ウクライナ双方で犠牲者がでる。彼らには親も兄弟も友人もいる。破壊された建てものに住んでいる人は住居を失う。この戦争は長い目でみればロシアの終わりの始まり以外の何物でも無い。プーチン、ロシアを本当に愛しているなら、即刻戦争をやめろ。

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近著の解説を最後にあげときます。

●20世紀初頭中央アジアにおける仏教世界の復興(THE EARLY 20TH CENTURY RESURGENCE OF THE BUDDHIST WORLD IN CENTRAL ASIA)

目次
はじめに 石濱裕美子& アレックス・マッケイ (Ishihama Yumiko and Alex McKay)

第一章  石濱裕美子
 ダライラマ13世のモンゴル滞在のインパクト: 1904年から1908年にかけてのチベト仏教徒のナショナリズムの覚醒
The Impact of the 13th Dalai Lama’s Sojourn in Mongolia: Arousing the National Consciousness of Tibetan Buddhists from 1904 to 1908

第二章 和田大知
ハルハ・青海滞在期のダライラマ13世の近代的・伝統的な政策
The Modern and Traditional Diplomacy of the 13th Dalai Lama, during his Sojourn in Khalkha and Qinghai (1904-1907)

第三章 橘 誠
友情と敵意: 20世紀初頭のチベット人と金融
Friendship and Antagonism: Tibetans and Money in Early Twentieth Century Mongolia

第四章 セルゲイ・クズミン(Sergius L. Kuzmin)
チベット? ロシア文書に基づく、20世紀初頭のモンゴルの政治的インターフェース。
The Tibet ? Mongolia Political Interface in the First Half of the 20th Century.
Data from Russian Archives

第五章  バートル・クチャーノフ(Baatr U. Kitinov)
19世紀末から20世紀初頭にかけて生じたカルムック人の間にみられる仏教リバイバルを示すロシアの文書
The Russian Archival Documents on the Revitalization of Buddhism among the Kalmyks in the late 19th and early 20th centuries

第六章 井上岳彦
ロシア皇帝に対する仏教徒の信仰: 1830年代のドン・カルムックの僧団とロシア正教会
Buddhist Devotion to the Russian Tsar: the Bicultural Environment of the Don Kalmyk Sangha and Russian Orthodox Church in the 1830s

第七章 ハムゴト(Hamugetu)
20世紀初頭のチベット仏教世界における伝統と近代化の相克:1912年から
The Struggle between Tradition and Modernity in the Early 20th Century of the Tibetan Buddhist World: a case study of the 7th lCang-skya’s activities from 1912-1957

第八章 ニコライ・ツェレンビロフ (Nikolay Tsyrempilov )
転輪聖王してのロシア皇帝: ブリヤートのラマたちはニコライ二世の戴冠式をどうみたか
Russian Tsar as Cakravartin: A Buriat Lama’s View of the Coronation of Nicholas II

第九章 石濱裕美子& 井上岳彦
ロシア科学アカデミー所蔵、ドルジエフに帰せられた三通の手紙について
A Study of Three Tibetan Letters Attributed to Dorzhiev held by the St. Petersburg Branch of the Archive of the Russian Academy of Sciences
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DATE: 2022/01/30(日)   CATEGORY: 未分類
寺本婉雅の黒歴史パート2
さて、正月休みに傑作なことが分かったのですが、肩折ってしばらくブログが書けなかったので、今書きます。

 主人公は1905年に日本人として三番目にラサに到達した寺本婉雅(てらもとえんが) という僧。以前このブログで寺本が北京公使矢野龍渓の肩書きを自分で偽造していたことを明らかにしたが(ここで過去記事みられます)、今回も彼の黒歴史について。

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1905年にラサ潜入に成功した寺本は、参謀本部に目をかけられるようになり、1906年に、福島安正の命令で東北チベットのクンブムに滞在するダライラマ13世に直接工作をかけにいく。

 参謀本部はダライラマ13世を日本に来させて近代化を目の当たりにさせることによって、ロシアの支援を求めていたダライラマ13世を親日に変えてしまおう、というチキチキ接待大作戦を考えていた。その実行役が寺本だったのである。

 1906 年11月22日、寺本はクンブム大僧院に滞在するダライラマ13世との謁見に成功する。その後、寺本は日本への報告書や書簡に、ダライラマ13世との面会は十数回に及び,日々親交が深まっていると自信満々にかいて送ってきたが、ダライラマ13世が日本に観光にこなかったのは歴史的事実。やっとのことでダライラマ13世ではなく、高僧ツァワ・ティトゥルが日本にきたのは1911年5月のことであった。

 チベットの要人を日本に招くことがなぜこんなに遅延したのか。その上1911年には青木文教・多田等観などがツァワ・ティトゥルの接待にあたり、当初この計画を遂行していた寺本が消えたのはなぜなのか。これらの理由についてはいままではっきりとした説明はつけられていなかった。

 正月休みに寺本の旅日記をまじめに読んでいて、あることに気づいた。11月22日の寺本の初めてのダライラマ13世との謁見をした後 (寺本はおそらくはダライラマ13世が日本人と認識してあった最初の人である)、寺本の日記は翌年二月まで無音になるのである。

謁見直前の寺本は、希望に満ちあふれていた。10月26日の日記には「達頼喇嘛に謁見して、日本仏教の盛大なるを説き、日本帝国、強大なる威光を達頼の頭上に蒙らしめんと欲するなり。」とこんな感じで日本の威光にチベットやダライラマ13世がひれ伏すことを疑っていない。日記には日本仏教が主導する東西仏教の提携という夢にうざいばかりの情熱が溢れていて、うっぷという感じである。寺本がとくにいっちゃった国士様であったわけでなく、日露戦争に勝利した当時の日本人は大体こんな感じであった。日本がアジアを指導するんだ、という信念に燃えていたのである。

 なのに、肝腎の謁見のあと日記は中断。翌年再開するものの、その内容は時局の話やダライラマ13世の側近に対する不満などが目立ち、かつての勢いはなくなっている。

 そこで改めて寺本とダライラマの個別の会見について記した記事を洗うと、クンブムにおいてダライラマと初対面したこの1906年の11月22日の謁見と、クンブムから一時帰国する際に告別のために行われた1907年11月24日の謁見の二回しかないことに気づく。これは到着の謁見と告別の謁見であって普通のプロトコールである。

1907年11月20日の寺本の大隈重信宛書簡では「達頼と小生との交通は日を逐ふて誼厚を加へ候昨冬達頼此地に来錫致候時より自から謁見十数囬に及ひ」とあるが、十数回も面談していたなら饒舌で自信家の寺本のこと、いちいちそれを誇らしげに記録し、ダライラマ13世がいかに日本の勢威に恐れ入ったかを書くはずである。それがない。あるのは、たった二回の簡単な記事のみ。

これは何を意味するのか。

ここでこの前に寺本の偽造に気づいた時と同じアンテナが反応する。寺本はクンブム滞在中、この二回の形式的な謁見以外ダライラマ13世と直接会えていなかったのではないか。寺本の尊大な態度はダライラマ13世側近の不興を買い、寺本の提言は直接上申すらされていなかったのではないのか。しかしそれを参謀本部に伝えるわけにいかないから、ダライラマ13世は行きたがっているが、〜の理由で今は行かれない、という話にしてすりかえていたのではないか。と。

 では十数回のダライラマ13世との面談とは何を指すのか。寺本が何度も訪問し、留学生問題を話し合った相手、東本願寺法主の書簡を寺本にかわってダライラマに奉呈し、また、ダライラマから本願寺法主への返信を寺本に受け渡した人物は、ダライラマの側近の一人であるドゥルワ=ケンポである。つまり、寺本の主張する十数回のダライラマとの謁見とは、この側近ドゥルワを仲立ちにしたやりとりを指している可能性が高い。

寺本がダライラマとともに北京に滞在していた時期に外務省に提出した「北京駐錫達頼喇嘛随從官ト其策謀者」(1908年10月25日付) と題する報告書によると、「列国使臣に交渉せる堪布(ダライラマ13世の側近の尊称・ケンポ)」という項目の筆頭に、ドゥルワの名前を挙げ以下のようにそのプロフィールを記している。

一、謝堪布(一名ドゥルワ堪布、蒙古喀喇泌旗下の人)  (中略)
ドゥルワ堪布一名謝堪布は清朝黨にして総て喀喇泌王の下命に依て動くものなるも・・・(以下略)、


 注目すべきは、ドゥルワが内モンゴルのハラチン(喀喇泌)出身であり、ハラチン王即ちクンサンノルブの命令に従っていたという部分である。これでなぜドゥルワが日本人寺本のために動いたのかという謎がとける。ハラチンの郡王クンサンノルブは1903年に日本に視察に訪れ、日本から教習を受け入れ、又、留学生を日本に送り込んだぶっちゃけて言えば親日のモンゴル人である。

 ラサの僧院は内外モンゴルや遠くはブリヤートからの修行僧を受け入れており、彼等は僧院の地域寮を通じて故郷の人脈とも連絡がつながっている。ハラチン出身のダライラマ13世の側近がハラチン王からの情報を下に日本人寺本をダライラマ13世に取り次いだ可能性は極めて高い。

 話が細かくなるので省略するが、ダライラマ13世は参謀本部の福島安正宛の書簡も、東本願寺法主宛書簡もすべて臣下に宛てる形式でだしており、寺本が期待したような、日本の勢威に恐れ入って、日本に学ばせて戴こうなんて雰囲気はみじんもない。

 ダライラマ13世はチベット仏教が世界的に高い評価を受けていることを知っているので日本仏教に恐れいるはずもないし、そもそも物質文明の発展に重きを置かないチベット僧に、日本視察をさせても大した効果は見込めなかったであろう。
 
 それでも、ドゥルワが1907年の5月から寺本をダライラマ13世につなぎ始めたのは、英露協商の締結などによりダライラマ13世の選択肢が狭まってきたことから、日本への支援要請も考慮されるようになったというだけであろう。

 ご想像のとおり、日本はダライラマ13世が希望したような支援はおこなわなかったため、ドゥルワはダライラマ13世の側近の協議の場から外されることになる。先ほどのドゥルワに関する報告は以下の言葉で結ばれている。

然れども今や彼は秘密の相談には毫も預かるの権なし。只達頼の命令を奉る而巳。

参謀本部がダライラマ13世に直接工作をかけた理由は、ダライラマ13世との関係を構築することによって、清やイギリスのために謀ること、また、モンゴルにロシアが南下する時の生け籬をつくることであった。しかし、ダライラマ13世が日本と接触した理由はチベットの主権を清朝から取り戻すための支援をえることにある。日本に操られ清やイギリスのためになるような行動をとろうなんてみじんも思っていないわけである。

つまり、両者の思惑は常にすれちがっていたため、ダライラマ13世の日本観光は実現しないし、寺本も評価されなかったわけである。久々に面白い資料批判ができたので昨日これを一部にふくめた論文を提出した。詳しいことを知りたい方はそれをご覧あれ。

 
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DATE: 2022/01/03(月)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ秘話⑥「何人もダライラマの上にたつことはできない」
みなさん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
何回目かか忘れましたが、御正月恒例、ダライラマ宮廷のトリビアについて語るコーナーです。
本日のテーマは、「かつてのチベット社会では、何人も物理的にダライラマの上に立つことはできなかった」というお話です。

 仏の悟りの境地は仏の宮殿、すなわちマンダラによって表されるが(一尊、一尊が仏の境地の様々な側面を象徴している)、これを3Dにすれば東西南北に門のある正方形の宮殿となる。そしてこの宮殿の中心にして最高処、すなわち、マンダラの中心には仏=本尊が君臨する。ダライラマはチベット社会で最高位の存在であるため、この本尊になぞらえられ、かつて「何人もダライラマの上にたつことはできな」かった。

 具体的にはかつて、ダライラマは移動の際には人がかつぐ御輿の上にのって移動し、ダライラマが滞在する部屋はそれが亡命中の地方の僧院であれ、何であれ最上階の部屋が準備された。もし最上階でないと上階の人の足がダライラマの頭上にくるからである。

 幼少期のダライラマ14世の宮廷を目撃したハインリッヒ・ハラーはその回顧録『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の中で幼いダライラマ14世が御正月15日の満月の日に人々の前に現れる際について以下のように記している([ ]内は私の補訳)。

この日(正月15日)にはダライラマ一行の行列があるのだ。ツァロン(チベット政府で外国人担当のようになっていた大臣) はパルコル(ラサの中心にある釈迦堂を一周する一番繁華な巡礼路)に面した窓の一つを約束してくれた。その席は一階に相違ない。というのはこの生き神様を二階や、まして屋根から見下すことは禁じられているからだ。パルコルに沿う家は三階建て以上のものは建てられない。これはポタラ[宮]と大寺院(釈迦堂)二つの見通しを悪くして、神を冒涜することになるからである。この規則は厳重に守られていて、貴族は屋根の上に、夏にはバラックを組むが、これは一時的なものでダライ・ラマか摂政が何かの儀式に参列することを予告されると[彼等を見下ろさないように]すぐ取除けられる(H.ハーラー『チベットの七年』128)。

 ちなみに、ダライラマが漢人文化圏に入ると漢人の町は城壁に囲まれており、城門には門神が祀られているので、ダライラマの上に神はいちゃいけないということで、門がぶっ壊されることになる。ダライラマ13世が西寧でこれをやっていたのを当時青海を調査中のドイツの地理学者ターフェルが目撃している。ダライラマ13世が西寧にくるまでの過程はこうである。

 ダライラマ13世は1904年イギリス軍のラサ侵攻を避けてチベットを脱出してロシアの支援を求めてイフ・フレー(現在のウラーンバートル)に向かった。しかし、日露戦争に負け、英露協商を結んだロシアにチベットを支援することはできず、1906年にダライラマは南下して10月31日には青海最大の漢人の町西寧府に到着したのである。

 この際、清朝官僚のトップである蘭州総督升允がダライラマを奉迎した。この時の様子をターフェルは自著Meine Tibetreiseの中でこう述べている(寺本婉雅の和訳による)。
 
 西寧府に到着したダライラマは暫くの間、城外の東方に居を定め、然る後にアンバン(満洲語で大臣の意味) の招きを容れて彼の衙門(役所)に居を移すことになっていた。ところでこの(ダライラマが城内に入る)ためにはアンバンはまずもって城門を取り壊さねばならなかった。なぜならダライラマが門をくぐるような屈辱を忍ぶはずは無かったからである。
 アジアの皇帝ないし天子にとっては「越える」ことはあっても「くぐる」ことはあり得ないのである。・・・城門の上には門神などが祀ってあるが、たとえ瞬時であろうともそれらが皇帝ないし天子を見下ろすことは許されない。天子ないし皇帝はそれ自身が神であるばかりでなく、最高の神である。いわば神の中の神であって、・・・天以外に彼の上に立つものはないのである。ダライラマも自分に対しこれと全く同様のことを主張し、彼の部下に対しても同種のことを配慮を要求したのである。


 この結果、西寧においてダライラマが通過する道は皇帝が通過する時と同じく、穴は埋められ、石が取り除かれて整備され、楼門の中の神祠も取り壊された。ダライラマは清朝の接待を謝絶していたが、清朝は自分が主人であることを示すためにダライラマに接待を受けるよう強要したための西寧府入城であった。現地官僚は、ダライラマ一行の奉迎のための支度、滞在にかかる費用をまかなうため増税したため、チベット仏教徒でない漢人は当然激怒していた。
 ターフェルによると

 ある支那寺院などは取り壊しに手間取っていたところをチベット人たちが祭仏ともどへも焼き払ってしまった。という。

 ターフェルは天子の天にかけて、天以外が上にあってはいけないという解釈をしているが、チベット仏教においては普通にご本尊の上に人や神が足おいちゃいけないという感覚である。
 ちなみに、ラサの中心にあるジョカン(釈迦堂)にまつられる釈迦牟尼仏像はチベットでもっとも大事にされている仏であり一階に祀られているが、その直上の二階にはチベット(とダライラマの)の守護女尊ペルテンラモが祀られている。これはチベット人が、「ペルテンラモだってお釈迦様の上にいるのだから、チベットで女性が強いのは当たりまえ」的なジョークネタになっている。
 
 ダライラマ14世が1959年にチベットをでると、昔ほど厳格にダライラマの上を禁地にすることはなくなったが、今でも外遊先で準備されるホテルの部屋は最上階であることが多い。
 ちなみに私は數年前ダライラマ14世がおとまりになった部屋の真下に泊まったことがあるが、ありがたくてテンション上がった。だって、私は蓮華座の下にいたんだから。
 
 ちなみに、今年のチベット暦の正月は西暦三月三日。はいみなさん、今年初めての「チベットに自由を!」
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