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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/05/22(水)   CATEGORY: 未分類
出雲で修験!
 5月18日は出雲の山中で山伏の先達に率いられ全長18kmの巡礼道を、若干ワープしたものの、歩いてきた。このハードな行程になぜ東京くんだりから参加したのか、その理由を説明する。

●神仏霊場という奇跡

明治元年に神仏分離令がでるまで、日本の神仏は一体であった。仏が日本に合わせた姿で適宜あらわれたものが日本の神々と考えられたため、お寺が神社を管理していた。しかし、明治元年、神仏分離令により神と仏は切り分けられ、神は明治政府の庇護の下、独立した新しい伝統を創始する一方、寺は幕府の庇護を失い多大なダメージを受けた。中でも被害が大きかったのは神仏を一体のものとして祀っていた修験道であった。修験道はほぼ壊滅した。

 そして現在に至るまで、お寺と神社はお世辞にも仲がよいとは言えない状況にある。しかし、ここ出雲では20の神社と寺が協力して神仏霊場を構成し(サイトは→ここ)、寺と神社を結ぶ巡礼路をつくり、その巡礼路を大峯修験の山伏がひきいて歩く「行脚」を行っている。神話の国出雲であるから、神社は風土記にのっているような由緒があり、寺も松江の藩主からみの名刹が多い。第一番はもちろん出雲大社である。

神仏を一つの霊場として考え、山伏の歩いたであろう古道を、本物の山伏に導かれて歩けば、古式の巡礼を追体験できる。もともと古道オタクで、百観音巡礼も十年かけてやっているし、修験の山も若い頃は結構登山していたので、東京から参加となったわけである。参加を決めたもうひとつの理由は、前々からの知り合いの出雲峯寺の住職快遍師が先達となっているから。万一私が山道から転げ落ちた時も知らない山伏よりは親身になって拾いにきてくれるだろう (迷惑)。

行脚はずっと廃れていたわけだから、復活すれば、考えようによっちゃもっとも新しいトレッキングスタイルである。私は時代の先端をいっている。折りしも5月。 脳内イメージでは、風かおる中、花々の咲く出雲の山を山伏のふく法螺貝の音をききつつ、古い道を歩くのは気持ちいいであろう。

しかし、そんなもんじゃなかったのは以下の通り。
 
 集合場所となるのはゴールの日御碕灯台。車社会の出雲ではゴールに車を置くのが合理的らしい。一般参加者はと見ると思ったより少ない。この日十年に一度のホーランエンヤという神事があること、いままでになくきっつい山道であることが少ない理由だという。

鰐淵寺から山へ

まずはスタート地点の鰐淵寺において正式参拝する。お寺の方に迎えられ、山伏さんたちが本堂前で法螺貝をふき、全員で般若心経を唱える。それから8:07くらいに裏山を登り始める。
鰐淵寺

先頭に立つ山伏さんが、
ざーんき、ざんげ (慙愧・懺悔)、というと

続く人々は「ろっこん、しょーじょう」(六根(眼・耳・鼻・舌・身体・意識)が清浄たれ)と答える。

これを歩きながらずっと続ける。下りの時はみな声は大きくなるが、上りの時は小さくなる。一方、さすが先達の声は上り下りのいかんにかかわらず、ぶれない、みだれない、
スゴイ!

一時間ちょっと歩いて遥堪(ようかん)峠につくと、ここで、山中を通しで歩く山道ルートと最初と最後だけ山道を歩き途中は出雲大社でゆっくりする地道ルートとの2つのグループに分かれる。私は山道ルートを希望したが何と私を除けば男性二人しか一般参加者はいない。ちらっと不安がよぎるが、まあ修験世界にもダイバーシティは必要であろうと、すべての女性を代表する気概で山道ルートに入る。かつては山の神様は女性なので女が山に登ると山が荒れると忌み嫌われたが、私は心はおっさんなのでたぶん山の神様気にしない(実際荒れなかった)。

まず、鈴谷峠にいくまでは何の問題もなし。尾根筋を歩くとシャクナゲは残念ながら終わっているものの、新緑は美しい。何時間歩いてもOKな感じである。

恐怖の弥山登山

とか余裕をこいていると、弥山の頂上手前にきて半端ない急勾配がはじまる。人間の力だけでは登れないためロープがはってあり、それにすがってよじのぼるのだが、最近雨がふらず山内は乾燥しきっており、落ち葉や枯れ木や乾いた土が足を滑らせるため、摩擦係数ゼロ。すべるすべる。木の枝をつかみ、ある時は木の根をつかむという、文字通りはいのぼり、ずりおちる世界。

やっと足場の悪いところは終わったかなとおもいきや、次は岩がそそりたつ。

まんま岩。

そこにロープが下がっている。山伏さんはそこをレンジャー部隊のように登っていく。
ちょっと待て。足は鍛えてあるが、腕は何も鍛えてない。キーボードより重いものをうったこともない。当然のことながら、体をひっぱりあげられず、最後は先達快遍さんのさしだす金剛杖にすがってひっぱりあげられた。
まるで、蜘蛛の糸でひっぱりあげられるカンダタである。芥川龍之介である。

 教訓。修験行脚は腕も鍛えないとつとまらない。あと、軍手と地下足袋も必須。

このありえないレンジャー訓練の後、尾根筋にでて、木が伐採されているため視界がひらけた。マツクイムシにやられた森を伐採して新たな森を再生させる出雲市のプロジェクトが行われているとのこと。もともとの豊かな森に戻せば、山の動物たちが里におりてもこなくなるし、スギ花粉で皆が苦しむこともないだろう。

やがて弥山の頂上につくと、眼下にひろがる出雲平野は文句なく美しい。上がったり降りたりしてきたので、こんな高さまでのぼっていた実感はなかった。山上の祠に山伏さんが、法螺貝と祝詞を奉納。われわれは般若心経を唱えて、もたせていただいたおにぎりを食べてここで休憩。平岡先生からひやかしの着信が何個かはいっている (怒)。
須弥山長城

私「いくらなんでも、ここから先はもう少しマシな道ですよね」

快遍師「ここから猪目峠に向けてダラダラ下りですが、下りも足にくるんですよ。それから登ったり下ったりしますが、あともう少しかと歩き始めてもまだまだで結構きつくて大変でした。」

私の中の何かが「これ以上いってはいけない」とささやく・・・。

私「適当なところで車道におりて、タクシーよんで地道に合流します」そう、私はもうダイバーシティはどうでもよくなっていた。この道はやばすぎる。

快遍師「ケータイが入るようなので、坪背山の登山道に入る直前に車道をよぎるので、そこにバスに迎えにきてもらいましょう」。

私「ありがたきしあわせ」

そこで、弥山の頂上から下り始めたのだが、すべるすべる。ロープをつかんでおりはじめたが、仰向けにすべり、左手を地面につこうとしたらそこに石。肘をしたたかにうつ。一瞬折れたかと思ったが、関節が動くので「大丈夫です。折れてません」と叫ぶ。

みかねた快邉師、金剛杖のはしっこをつかむようにいう。これが不思議。先達と歩幅があうせいか、転ばなくなった。上りになっても息が切れないので、六根清浄が唱えられる。不思議だ。これは山伏の力が金剛杖を通じて私に入ってきているに違いない。

かくして、無事に車道におりたつ。修験の神秘。

登山口にでると、ちょうどバスがついたところで、地道のスタッフが山道の山伏さんとともに登山路の確認をはじめる。全体に予定が遅れているといっているようだが、私のせいではない(ビリじゃないもん)。とにかく道がすべるのが原因。

一般参加者のお二人のうち年配の方が「大山修験よりも、大峯修験よりも、きつい」とか言っている。

快遍師「大峯はたかだか四キロですから」

三代さん(ウォーキング協会の元事務局長。地道の参加者を案内されていて、私に金剛杖を貸してくださった)「このルートはアルプス登る人の訓練に使われているんですよ」

ここで私は迷うことなくリタイヤをきめ、快遍さんたちが坪背山の登山道に入っていくのを「心は師と一緒です。いってらっしゃーい」と手を振っておみおくり。

出雲歴史博物館で一生分の勾玉を見る

さて、出雲大社につくと、地道の方たちに一時間遅れることをつげて、その間出雲歴史博物館で行われている「古墳文化の珠玉」という特別展を見に行く。昨日空港についた時盛大に宣伝されていたので、見に行きたいと思っていたので嬉しい。
こふんぶんか

私がころんで傷ついた肘を気にしていると参加者の山ガールのお二人が、バンドエイドをはってくださる。出雲の人はアホな東京もんにもやさしい。この特別展は今度東京にいくらしく、その間こちらは二〜三ヶ月休館するとのこと。東京でみるより絶対こっちの方が空いてるし並ばなくていいので嬉しい。

古墳時代、玉は権威の象徴であり、副葬品として出土した勾玉のネックレスや腕輪は現代にも通用する美しさ。原石が磨かれて瑪瑙や翡翠の勾玉などにかわっていく過程は「金剛石もみがかずば、玉の光はそわざらん」という昭憲皇太后の歌を思い出させる (誰も知らんわ)。

展示によると、江戸時代の国学や明治維新以後の神道ブームにより、玉は古代の装飾品の象徴とみなさるようになり、お札に記された想像上の神功皇后や天照大神の胸を、菩薩の装飾品に勾玉くっつけたような折衷飾りが覆うことになる。極めて面白い。

現代中国の仏教政策

この博物館で、地道スタッフの一人伯耆大山寺のX師とお話しする。

X師によると、今度、中国仏教界に招待されて普陀山に行くとのこと。向こうの方は真言密教の勉強がしたいそうで、彼はあちらの仏教学院で真言宗の講義をするとのこと。前に招待されて中国にいった時は、日本のお寺を正確に真似て伽藍を作っていたので驚いたとのこと。

私はここでピンときた。13世紀にモンゴル帝国が元朝をたてチベット仏教に帰依して以後、中国ではチベット仏教が皇室の仏教として力をもち、漢地の仏教はどんどん衰退していった。しかし、辛亥革命以後、漢人ナショナリズムはボーボー燃え盛っている。中国のアキレス腱であるダライラマがチベット仏教の最高権威者であることもあり、中国政府はいま、仏教の脱チベット化に邁進している。

 彼らのマイノリティ嫌いは漢服復興にも現れている。チャイナドレスとして知られるあの服装は実は満州人が漢地を征服してたてた清朝の貴族の着衣であり、辮髪も満州人のヘアスタイルである。今、漢人はヤバンな満州人の服装は中国じゃない! 漢人の伝統衣装、漢服をリバイバルしようと息巻く。しかし、いかんせん資料がない。早稲田大学の卒業式の時もそれとおぼしき服装をしてくる中国人留学生もいるのだが、靴がスポーツシューズであったり、デザインも迷走していたりで、なんかうまくいってない感じ。

しかし、仏教なら日本に中国から直輸入された伽藍や教義をまもる真言宗・天台宗・禅宗諸派がある。これを手本とすれば具体的な漢仏教の姿を再現できる。これをどう評価するかであるが、日本仏教が維持できなくなった僧伽や教義が、今後は中国大陸に戻り、復活していくのなら仏教全体としては望ましいことであろう。しかし、漢人ナショナリズムと中国共産党の政策が原動力である以上、あまり明るい未来は想像できない。

 外来の影響力が全くない純粋な文化なんてどこの国にも存在しない。文化は伝播し、習合していくものだから。他者の影響をうけない純粋なものを追求するのは、ナルシストとかナショナリストとかの病んだ心である。

とか、沈思黙考しているうちに一時間たったので、坪背山の登山口にバスで移動して山から降りてくる山道グループの一行を待つ。しかし、でてこない。地道スタッフの山伏さんが法螺貝で呼びかけるが応えはない。ケータイは国道にいる我々が、そもそも圏外である(爆笑)。

私はバスの中でハトムギ茶のみながら昼寝。しばらくすると快遍師一行が登山道を降りてきたので私もバスを降りてお迎えする。全員、よれよれの土ホコリまみれ。聞けば四人全員がそれぞれ転んで、一人は五メートルほど滑落したという。行かなくてよかったあ。

ここから地道ルートと山道ルートのメンバーが合流して高尾山の中腹をまわってゴールの日御碕神社に向かう。鹿よけの柵をあけて山中の柵にそってあるく。しばらくして山中の下り坂がはじまると、親指の爪が靴の中で前に圧迫されて痛い。疲れよりも足の親指が痛いのがつらい。ここはチベット人がヒマラヤをこえてインドに亡命した苦しみを思い耐える


●市街地でロッコンショージョー

しばらくおりると宇龍地区の市街地にでた。

市街地を、ザーンキ、ザンゲ、ロッコン、ショージョーと叫びながら歩くと、家の中から「なんだなんだ」とお年寄りがでてくる。行脚の山伏が錫杖の音をひびかせながら、この通りをロッコンショージョーするのは江戸時代以来であろう。失われた生活音がいっときここに蘇っているのである。私は江戸時代を今体感している(自分でも何いってんのか分からない)。
市街地

 海にでると目の前に権現島という美しい島が現れた。三代さんによるとここでは和布刈神事が行われるのだという。写真をとっているとまた取り残され、走って一行を追う。しばらく山中の舗装道路を歩くとかつて日御碕神社の親寺であった神宮寺があり、いよいよ日御碕神社の門がみえてくる。
権現島jpg


●そして、ゴールへ

何と神仏霊場の20社寺の宮司さん、住職さん達総出で迎えてくれている。拍手で「行脚おつかれさま」と声もかけていただく。この時、一番うしろで動画をとっていたのだが、あとでみたら画面が下に向きがちでワロタ。
拝殿前で山伏四人が法螺貝を奉納し、みなで般若心経を唱え、昇殿して正式参拝をする。
しぬほど歩き回ったあとなので正座がつらい。胡座をかきたい(こらこら)。
日御碕神社

宮司さんはスサノオノミコトの息子、天葺根命(あめのふきぬのみこと)のご子孫。天葺根命はスサノオノミコトがヤマタノオロチを倒して手に入れたアメノムラクモノツルギを天照大神に献上した人物である。その方にお祓いをしていただき、代表して快遍師が神前に榊をけんじる。見ればかかとに大きな穴が開いているが、山道の厳しさが感じられたと綺麗にまとめておく。

 快遍師が榊を献ずると、今度は日御碕の側の代表が榊を献じて、お神酒を頂戴し、お札などを拝領して、神仏霊場の合同祭事が完了。

 この神社は天照大神とスサノオの尊の二柱の神をお祭りしており、別名日沈宮。三代さんに導かれて海にでると、目の前に経島(ふみじま)という島があり、御神体はもともとこの山の上に祀られていたのだという。今はうみねこの島になっている。最後に大量の鳥を見ることができたのは嬉しかった。この日はほぼ満月。行脚・巡礼で若干でも六根が清浄になったような気がする。

 昔の人はみな歩いていた。しかし、車や電車が発達すると、かつての道はより大きな道に潰され、使われなくなった道は草や木に埋もれた。山中にある修験の道はとくに明治以後衰退したため、おそらくは一部は登山道とも重なっているであろうが、その実態はようとして知れない。土地の学芸員さんが修験の古道を現在、探索中というので、新しい道が発見されたらトライしてみたい。
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●後日談

 翌日、筋肉痛で死んでいると、快遍師から「昨日は能海寛(1900年にチベットに侵入試みて消息不明になった方)の誕生日だったんですよ。彼の故郷の浜田では能海寛ウォークがあったようです」と新聞記事を送ってくださった。私は霊感ゼロだが、こういう時は不思議を感じる。また三代さんから河口慧海にパーリ語を教えた出雲出身の釋興然の出身寺、奥出雲の岩屋寺の現状を教えていただく。現在明治期の日本とチベットの関わりを調べているので非常に参考になった。

今丁度百二十年前の日本とチベットの関係を調べているが、行脚の功徳で上記のように資料集めがはかどりそうな予感がある。もうちょっと楽なルートならまたいってみたい。
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DATE: 2019/05/09(木)   CATEGORY: 未分類
仁和寺でオススメチベット灌頂
仁和寺は七世紀に創建された古刹であり、かつては皇族出身の法親王が主をつとめていた格式の高い寺である。去年国立博物館で仁和寺の宝物に関する展覧会があったが、これは六年越しの観音堂の修復基金を集めるための出開帳。観音堂が修復中のためご本尊の千手千眼観音様と観音さまの眷属である二八部衆が展示され、インスタOKであったため、多くの人が写真をとりまくっていたのも記憶に新しい(かくいう私もいろいろな角度から激写した)。

 で、いよいよこの観音堂の修復が終わり、375年前の姿にもどったのである(新聞記事)。この盛儀を記念して行われる一連の行事の内に、チューロ・リンポチェが行われる千手千眼観音の灌頂がある。以下フライヤー。
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日時:5月25日(土)
阿闍梨: チューロ・リンポチェ 通訳: 平岡宏一(清風学園校長・種智院大学客員教授)
場所: 仁和寺御室会館2F(京都市右京区御室大内33)
会費: 一万円(昼食代・拝観込)
お申込み先は info@samya.jp / Fax 075-352-0900

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灌頂を受けた方にはもれなく修復なった観音堂の内拝も許可されるため、鮮やかに修復された壁画を間近に見ることもできる。
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 チューロ・リンポチェは2009年に遷化されたロサン・ガワン先生の下で幼児より学び、先生のシャプチ(高僧の付き人僧)として日本に何度も来られ、その間清風学園の校長先生である平岡宏一先生と強い縁を結ばれた。彼は博士の学位をとる前後に生まれ故郷のネゴ僧院の僧院長生まれ代わりに認定され、その名に転生僧の敬称であるリンポチェを加号されるようになった。

 幼児期に転生僧に任命されると、甘やかされた結果勉強がおろそかになる者も多い中、彼の場合は学位をとる直前に認定されたため学問もできる転生僧となった。

彼は自らの前世が主催していた僧院に戻ろうと、これまで何度も中国当局に申請をだしているが、転生僧を迎えて地域のナショナリズムが高揚することを恐れ、当局はいまだ入国を許可していない。

 2016年にダライラマ14世が清風学園でチッタマニの灌頂を授けられた際、来日したチューロ・リンポチェは綺麗なカップを大切にもっていて、法王様に使って頂くのだ、と嬉しそうに話していた。実は、ダライラマが口をつけたコップ、座った席、用いた法具、お供えとかを式後、モンゴル人は奪い合うように持ち去っていく。ダライラマの近くにあるからその力を帯びていると思うのである。なので、リンポチェもこのコップを宝物にするかと思いきや「このコップはダライラマに会うことのできない故郷の人々の下に送る」とおっしゃっており、ほろりとさせられた。

 リンポチェは法話のうまいお坊さんとして今ひっぱりだこである。2017年から2018年にかけてガンデン大僧院はヨーロッパに布教ツァーを組んだが、その団長が何を隠そうこのチューロ・リンポチェであった。チベットやっててしみじみ思うのが、昔からの知り合いが欧米でもチベットでもどんどん偉くなっていく。

私は2012年に出雲の峰寺で彼の話を初めて聞いたが、阿闍梨としての風格があることはむろんのこと、法話が非常にうまいことに感心した。詳しくはこのエントリーをご覧いただきたい。

 そして観音様はチベットに深いご縁のある仏様。何しろチベットは観音菩薩によって開かれたとされ、歴代ダライラマも観音の化身として崇められている。観音さまの本場からきた高僧は当然観音灌頂を十八番としている。観音の力をもっともよく知る高僧から灌頂を授かることができ、巧みな法話がきけ、仁和寺観音堂の内拝もできることのできる稀有な機会ですので、みなさんぜひふるってご参加。以下にリンポチェの略歴をおいときます。

●チューロ・リンポチェの経歴

1971年 東チベットのリタンのババ地方に生まれる。
1980子供の頃に通称ネゴ・ゴンパ(gnas sgo byang chub chos gling)_というお寺に入門。ネゴ・ゴンパはバクバ地方最大の名刹で、ネゴとは一番霊場を意味する。250人のお坊さんが共同生活し、仏教の勉強、修行に励んでいる。
1983年に9人のグループでインドに亡命。
同年、ガンデン大僧院ジャンツェ学堂ファラ地域寮に入門しロサン・ガンワン師に師事
2002年 ネゴのチューロ・リンポーチェの転生者に認定。
2003年 博士(ゲシェー)位獲得
2004年 密教を収めるためギュメ密教大学へ。
2014年 ギュメのゲクゥ(律僧)就任中、ダライ・ラマ法王の説法会。
2017~2018年 ガンデン大僧院チャンツェ学堂ヨーロッパツァー団長を勤める。 イタリア・スイス・フランス・ベルギーを歴訪。



 
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DATE: 2019/05/06(月)   CATEGORY: 未分類
天皇陛下即位にダライラマ猊下がメッセージ
チベット政府がダライラマによる新天皇陛下に対するメッセージを公表した。以下に原文とともに和訳しました。
ちなみに、曙橋のチベットレストラン「タシテレ」では、令和が「re wa」(希望)に通じてめでたい、天皇陛下の即位めでたいということで、水曜日より「REWA(令和)セット」の提供を始めました。お近くの方、お得なセットですのでどうぞ。


水曜日、ダライラマ猊下は日本の新天皇ナルヒト陛下が即位し新しい令和の時代が始まったことを寿がれた。

猊下はこう書かれた「あなたの 敬愛されている父上アキヒト陛下の、国家の象徴としての責任を果たしつつ、国民と親密に交流するという慈愛にみちたアプローチを継いだ、ナルヒト陛下のご決断を心から称賛します」

私は日本人のレジリエンスに対して、また、日本という国家が第二次世界大戦の灰の中から再起した様に深い敬意を抱いております。近年は日本は前例のない自然災害に見舞われましたが、精神力と勤勉さによってまた回復されました。2011年の津波と地震によって荒れ果てた地域を訪れた際に私は自分の目でそれを見ました。私はこれらの災害にあった人々とそこで出会い、多くの命を失ったコミニュティーの人々と共に祈りました。

この15年間、わたしは定期的に日本を訪れております。その際、慈愛と宗教間の調和という人間の基本的な価値の育成を私が推進しようとしていることに対して、あらゆる種類の人々が、関心と熱意をもってくださっていることに深く感謝しております。」

猊下は「陛下の御代が成功を収め、人々が幸福になり、新しい時代がより平和で慈愛に満ちた世界になることを祈願する」という祈りで結んだ。

(原文)
His Holiness the Dalai Lama on Wednesday congratulated Japan’s new Emperor Naruhito on his enthronement and the dawning of the new Reiwa era.

“I warmly admire Your Majesty’s determination,” His Holiness wrote, “to continue your respected father’s, the Emperor Emeritus’s, compassionate approach of interacting closely with the public, while fulfilling the responsibility of Symbol of the State.

“I have profound respect for the resilience of the people of Japan and for the way the nation rose up again from the ashes of World War II. In subsequent years too, Japan has faced unprecedented, natural disasters but has recovered thanks to a combination of hard work and strength of spirit. I have seen this with my own eyes when I had the opportunity to visit areas struck by the devastating earthquake and the tsunami of 2011. I met there with people affected by these calamities and we prayed together for those members of the community who had lost their lives.

“Over the last fifty years or so, during regular visits to Japan, I have deeply appreciated the interest and enthusiasm that people from all walks of life have shown in my efforts to encourage the cultivation of such fundamental human values as compassion and religious harmony.”

His Holiness concluded with a prayer that His Majesty’s reign will be successful, that the people will be happy, and that the new era will contribute to a more peaceful, compassionate world.
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DATE: 2019/05/01(水)   CATEGORY: 未分類
平成最後の大灌頂
平成最後の3日間はロサン・テレ先生が主催する大灌頂(最初の二日間はグヒヤサマージャ尊・三日目はチッタマニ・ターラー尊本尊とする)を清風学園で受けてきた。

 灌頂とは一言でいえば、本尊と一体となった導師(阿闍梨)によってその本尊の修行をはじめる許可を頂戴する儀礼。日本でも中世期には新天皇の即位に際して輪王灌頂(仏教によって人々を導く宇宙帝王となる儀式)が行われていたように、真言宗・天台宗などでも普通に行われている儀礼である。

今回の灌頂会は実は長い長い前振りがある。清風学園の校長先生の宏一先生は、高野山大学の院生時代からグヒヤサマージャ尊の研究と行を続けていて、その総決算として2016年にダライラマ14世をお迎えしてグヒヤサマージャ尊の灌頂会をやろうとした。灌頂の際につくるマンダラも仏画ではなく、正式に砂マンダラを用いるため、インドのギュメ密教大学から19人のお坊さんを招聘して前もって砂曼荼羅の作成をして頂いていた。
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 「砂マンダラの最初の砂をおく儀式が明日あるよ」と前日に聞かされ、取材のために夜行バスにのったのもいまは懐かしい思い出(遠い眼)。しかし、それから間もなく、宏一先生から着信があり「今、駅にいる」というと、「帰宅してから電話ください」というので電話すると、何とダライラマの体調不良により、灌頂の本尊がグヒヤサマージャ尊からチッタマニ・ターラー尊になったという。

 しらん人にとっては「どっちだってええだろ」だろうが、30年にもおよぶ宏一先生のグヒヤサマージャに対する情熱を知る私は「げっ」となった。

私「だってせっかく作った砂マンダラどうすんですか。本尊グヒヤサマージャでしょ。」

宏一先生「しょうがないです。チッタマニは灌頂を受けている仏様なので助かりました。あと十日でチッタマニ尊のテクストもつくらなければ」と現実を健気に受け入れようとしているのが却って痛々しかった。

 今回の灌頂ではその時、作ったままになっていた砂曼荼羅を用い、ダライラマの代理としてセラ大僧院の元管長ロサン・テレ先生が阿闍梨をつとめられ無事成満したものである。宏一先生は平成元年にこの仏さまの研究と行をはじめたので、平成の終わりとともに心残りがはたされるのもなにかの因縁であろう。今回の灌頂は外に向けては非公開で、学園関係者と宏一先生の勉強会関係者が集まったもので、それでも以下の写真にみるように結構な数になっていた。

さて私がどこいるかわかるかな?

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 ロサン・テレ先生は当日の朝は何時間も前から道場に入り、グヒヤサマージャ尊の経典を通し読みし、真言を唱えた。それは綺麗な状態で我々に授戒するためであるという。

ロサン・テレ先生「私の状態は万全であるから、あとはあなたたちの問題である。供養をしたり、祈願をしたりは他の宗教にもある。あなたがたは仏教を志すのであるから、仕事がうまくいくように、幸せになりますようにとただ祈願するだけではなく、仏教をよく理解しなさい。」

思えば、この世には素晴らしい哲学があり、素晴らしい人もたくさんいる。しかし、それを理解する能力がなければないに等しい。どんなに素晴らしい法があって、それを素晴らしい人が説いていても、受ける側に理解する力や実践する能力がなければ何も変わらない。

先生は「何か尊いものにすがって棚ぼたを願うのではなく、素晴らしい思想や人から学んで自分が変わりなさい」というのである。


ロサン・テレ先生が私達に授けようとした菩薩戒は「自分が仏教を志すのは、自分のためではなく、他者を救う力をえるためである」と誓う他者救済の誓いである。「誰が他人のために自分を犠牲にするか」という人にはちょっと考えてもらいたい。

人はみな幸せになりたいと思っているが、自分の幸せだけを求めて、楽しいと思う事だけをして身勝手に生きれば、周りから人がさっていき、やがては仕事も人生もまわらなくなる。一方、他者のことを思って行動する人は、結果としては人から信頼されサポートされ、仕事も人生も実り多いものになる。このことをかつてダライラマは「かしこい利己心」と表現された。

 他者を思って行動すれば自分のことはほっておいても何とかなる。

仏教では、人が幸せを求めても結局は不幸になっていくのは我執が原因であり、この我執がなくなれば幸福になれるととく。我執と煩悩が残したものが全部なくなったものが仏の境地(菩提)であり、その仏の境地に少しずつでも近付こうとする日々のシミレーションが密教の行である。とにかく毎日続けることで少しずつ人格を矯正するのである。
 
 たとえは悪いが我々が我執から解放されるための密教の日々の行は、アルコール依存症や薬物依存症の治療にも通じるものがある。

 依存症の治療では依存によって壊れた脳の機能を回復させるため、とにかく一日でも長く「しらふ」(sobriety)を続けることが重視される。毎日毎日飲まない日を積み重ねると、何年後かに依存をしていた時にはわからなかった正常な意識に自分が戻っていることに気づく。

 そして、最終的には同じように依存に苦しむ人を今度はスポンサーになって救う側になることで治療は完遂する。脳の機能が正常になってくると自分がいた場所が見えてきて、その場所で現在苦しんでいる人を今度は救おうという視点が生まれくるため可能となるのである。他者を想うことによって依存=我執を乗り越えるのである。

 菩薩戒は仏教の勉強を正しい動機をもって行うという誓いであり、灌頂は密教の行を開始する許可の儀礼である。依存症の治療にくらべるのも失礼な話だが、もう「飲まない」と同病の人の前で誓うのも、「もう我執を捨てる」と仏さま(阿闍梨)の前で誓うのも同じ構造であろう。

 チベットでは灌頂も菩薩戒も何度受けてもいいものだとされる。その理屈は、初めて受けた人はこれから戒律を守ると誓うことができ、かつて戒律を受けたけど破ってしまった人はまたここで新たに戒を再スタートでき、菩薩戒をすでに受けてずっと守っている人はさらにその気持を強くすることができるからだとのこと。

 良いことを始めることは素晴らしいし、やめてもまた続ければいい、というあかんやつを見捨てないふところの広さは大乗仏教の一番美しい部分だと個人的には思う。

 三日目のチッタマニ尊の灌頂の際、チッタマニの祠の左右にYさんがお花をお供えされた。灌頂が終わったあと、Yさんが私の下にきて「右側のお花は先生のお母さんの命日が昨日だと聞いたので、お母様に。左側は今までなくなっていった患者さんたちのために」と言われて感無量。母がなくなってから長い月日がたち、母の日という概念も消えて久しいが、その花もりはカーネーションがポイント・ポイントに使われていた。
おそなえ

 思えば、私の平成は、母親が死に、悲しみに沈んでいたら愛鳥と出会い、楽しい生活が始まり、博士号をとり専門書三冊だし研究は一応順調で、しかして2017年に愛鳥に死なれ、悲しんでいたらまた別の体で戻ってきてくれたというまあ、総じていえば幸せと総括できるかな。

 

 
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DATE: 2019/04/01(月)   CATEGORY: 未分類
ギュメ僧たちの証言(ロサン・テレ先生来日)
ダライラマ法王がチベットからインドに亡命して今年で60年。チベット動乱の3月10日の前後より新聞各紙やNHKなどで、中国政府がチベット人、ウイグル人に対して強硬な同化政策を行っていること、また、「辺境」への積極投資によりチベット人の生活が急速に変化していくことなどが報道された。とくに、BS1では去年に引き続き、ラルンガル僧院のドキュメンタリーが放映され、中国に強いNHKの面目躍如たるものがあった。このように一時に比べると日本のマスコミはチベットに優しくなったものの、チベット本土の状況は悪化の一途なので手放しでは喜べない。

さて、この春、二大密教学堂の一つ、ギュメの僧院長、セラの学堂長など大僧院の長を歴任した高僧、ロサン・テレ先生が来日されて一切悪趣救済観世音菩薩の灌頂(仏様の力を授ける儀式)を行います。
ロサンテレ

 本尊となる「一切悪趣救済観世音菩薩」とは、タクプ五世(gar gyi dbang po: 1765~1792)がビジョンの中で得た観音様の一種で、この観音様の修行を完成すると地獄(悪趣)に落ちても一回はキャンセルできるという噂です。私は2017年にインドのセラ大僧院のロサン・テレ先生の坊で受けて以来、毎日マントラを唱えて、地獄行きませんようにと念じています(笑)。ちなみに、ダライラマ14世もラダックのデスキットで2017年の7月12日にこの灌頂を授けています。

一切悪趣救済観世音菩薩の許可灌頂

導師: ロサン・デレ先生(ギュメ寺第101世管長)
通訳: 平岡宏一先生(清風中学校・高等学校校長/種智院大学客員教授)
日時: 2019年5月11日(土)14:00~17:00(受付開始:13:00)※時間厳守でお願い致します。
会場: ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(東京都新宿区西落合 3-26-1)
お志 お一人様 1万円
お申し込みはこちらから


 通訳をつとめられる清風学園校長の平岡宏一先生はロサン・テレ先生とは平岡先生が27才でインドのギュメ大僧院に留学した時以来のつながりがあるので、非常に息の合った会になると思われます。

 ここで、ロサン・テレ先生の来日とチベット動乱60年を記念して、2017年にお坊さんたちから聞き取った「チベットの僧侶たちの今」を以下に記しておきたいと思います。

(1) ロサン・テレ先生 (2017年8月15日 於セラ大僧院のロサン・テレ先生の坊)

 中国政府はインド在住の難民僧侶たちが本土チベットを訪問したいというと許可証をだす。しかし、影響力が強い僧侶であったりすると、その許可は出ない。私は「もう余命も残り少ないので、死ぬ前に本土にいる兄弟に一目逢いたい」と申請し(先生の弟子になった甥の母は存命)、2016年の一月二十日から七月までチベットに滞在した。1998年以来二度目の本土チベット訪問だった。

[1998年の時とくらべて]道はよくなっていたが、自由はなくなっていた。[チベットでは]アムド、クンブム、タシキル[などの大きな僧院と]、法王様がうまれたタクツェルとかパンチェンラマの生まれた場所とかの聖地を沢山まわった。最初は身バレしていなかったので、いろいろなところに行けたが、そのうち[高僧であることがばれて]ガンツェの自宅で瞑想(ツァム)にはいって秘密集会の行をやっていた。そのうち、いろいろな寺から招待がきて、来年の五月までスケジュールが埋まった。セルシュ寺で3000人ほど集めて説法会を25日ほどして、そのあとヒヤサマージャ尊とチャクラサンヴァラ尊の灌頂をしようとして、秘密集会をまずしたら、何万人もの人が集まってきた。そしてグヒヤサマージャ尊の漢書ヴが終わった晩、当局が宴会を開いて呼ばれて、「お前が余命いくばくもないというから許可をだしてやったが、元気じゃないか」(爆笑)、セラの僧としか書いてなかったが、管長じゃないか、などと絡んできた。私は今は管長の座を退いていると反論した。彼らは宗教の自由がないと批判されるのが怖いのであくまでも法律に触れたという理由で批判してきた。妹も公安に呼ばれたが、耳が遠いのでずっとオンマニペメフンといっていた。説教する公安は上に報告するためか録音していた。結局、宗教行事をしないのならいていいと言われたが、その晩、本土にいる直弟子がきて、何がおこるかわからないから明日すぐに帰国した方がいい、飛行場まではセルシュの僧院長と一緒にいった方がいい。僧院長は名士だからへんなことはできないはずだ、というので、翌日ネパールにもどった。集まってきた人の半分は漢人で、一対一では信仰心がある様をみせるが、大量に人が集まった後は何が起きるかわからないというので、味方になってはくれなかった。

 
(2) テレ先生の甥御さんソナムグードゥプ(48) (同上)

宗教によってしか中国は変わらないと思う。仏教を勉強をすれば命が大切なことがわかる。そうすると命を傷つけてはいけないことがわかる。お互いに思いやりあってよくなろうという気持ちが自然とおきてくる。最近は科学によって人の本質とは慈愛をもつものであることが証明されてきた。これは希望のもてることだと思います。中国の人たちも仏教を勉強すればその状態は向上していく。漢人も良いお手本があればゆっくりよくなっていくと思います。それはどの国でも同じです。

 インド[の難民社会]で勉強をおえたお坊さんが、本土チベットにわたりカム地方(東チベット)とアムド地方(東北チベット)の大きな僧院にいらっしゃいます。インドからチベットに入る時のパスを、[本土に定住する決意を示して]捨てると説法の自由が与えられるのです。ただし、人気がでて人が集まり始めると、どうなるか分かりません。法王様のお加減が悪くなった際、法王の長寿儀礼を行った仏教博士二人が刑務所に入れられました。

 寺ごとの僧侶の定員については、地域の政治家の裁量に委ねられています。理解のある政治家の場合は[定員より多くの僧が集まっても]見て見ぬふりをしてくれますが、それも中央から何か言われたらどうなるかわかりません。


トゥプテン・ウーセル (83) (日時: 2017年8月14日 場所: 自坊)

平岡宏一先生談「この方は1990年にギュメが再建された時のギュメの財政部長 (phyag mdzod)でした。1989年に二週間日本に滞在している間、[当時のギュメの僧院長]ゴソ=リンポチェと彼をつれて鳥取の霊感のある人を訪ねたら、その方はこのトゥプテン・ウーセルの全身からお経みたいなイメージを受けるといって、[ギュメの再建のために]多額のお布施をだしてくれました。若い時は精悍で、この人大好きです。昔は正月になると電話をくれていたけど、最近はもうくれませんね。」
掌

・トゥプテン・ウーセルのお話 

掌の△の傷をみせながら]、この傷は前世、掌をあげて「弓で当ててみろ」といって射貫かれたあとだ。私の前世は両親の友達だったので、私がこの傷をもって生まれると、「あの人の生まれ変わりだ」と分かったという。私は17歳の時までアムドのこの写真の村にいた。父さんは刀をもった怒りやすい人だったが早くに死んで、お母さんといた。

 四歳半からお寺に預けられて、師匠(実は叔父さん。親族を師にするのはよくあること)について勉強した。近くにパンチェンの前世ゆかりのビントゥ僧院(500人はいたそう)があったので、パンチェンラマに憧れて、まず[パンチェンラマの座である]タシルンポに向かった。そこに九ヶ月滞在した後、ラサにでて、経典の暗記とかして、20才になったのでギュメに入門した。1959年以前、ギュメは20才にならないと入れなかったんだ。
掌の主jpg

 25歳になった時、中国がきた(1959年のチベット動乱)。シュー(未詳)という場所にいた時、そこにいた200人で衆議一決してインドへの亡命を決めた。その中には当時のギュメの僧院長もいた。僧院長は馬に乗っていたので先に行った。私は入門五年目までの若いお坊さんたちのグループに入って道に迷いながらインドに向かった。亡命を決めたのは三月だった。インドが南にあるのは知っていたのでひたすら南に向かって歩いた。

後にブータン経由で亡命したグループとも一緒に歩いていて、自分ら20人のグループは途中から加わったカムの軍人たちともに移動した。チベット人狩りがあったから昼は潜んで夜中に移動した。六人の軍人は人からもらった銃をもっていた。インドにつくまで一ヶ月かかったような気がする。タワン(アルナチャール・プラデーシュ)を経由して逃げた (ダライラマ14世とほぼ同じルートをたどって亡命したものと思われる)。

 ブータンを経由して逃げたグループが亡命ギュメ僧たちの本体で、彼らはツォンカパが[ギュメの創立者]シェーラプセンゲに与えた門外不出のタンカ(佛画)を奉じていた。分かれ道にきた時、一つはインドに向かう道であったが中国軍がいて、もう一つの道はどこにいくのか分からない道であった。どちらに行くべきかわからないので、セラ大僧院からギュメに留学していた仏教博士が(おととし逝去)、タンカの前で占いをたてようといいだし、占いの結果は何と中国軍のいる道にいけという卦がでた。

 その道をいくと、中国の将軍が「お前等はどこにいくんだ」と通訳を介して質問してきたので、「戦火を逃れて安全なところにいきます」と言うと、その将軍が通行証をだしてくれたのでその後インドへ行くことができた。もしタンカの前での占いがなかったから、ギュメ僧は散り散りになっていた。

これらの僧はブータンを経由して、[インドの]ダルハウジーにしばらく滞在し(密教僧はダルハウジーに顕教僧はバクサドアルに当時集められた)、1972年に[現在ギュメが再建されている]フンスールへきた。[ギュメの至宝であるこの]タンカには金剛怖畏尊が描かれているというが、開けてないからみたことがない。ギュメのもう一つの至宝であるツォンカパがシェーラプセンゲに授けた秘密集会仏像は(50~60cmくらいのものらしい)、ラサのギュメ寺からチベット語を介するネパール人がもちだして、法王に献上したので[ダライラマ14世の居殿のある]ダラムサラの寺にある。その時、ともに亡命したギュメの僧侶は200名ほどでいたが、現在生き残っているのは14人くらいである。チベットは涼しくて気持ちの良いところだった。

ツォンカパがシェーラプセンゲに授けた秘密集会尊の複注(ティカ)四巻は持ち出すことはできなかった。自分の下の妹は生きていて、三人子供がいるそうだが、「一人弟子にしろ」といってもしなかったので、「チベット本土に」帰ってこいと言われたが無視している。何をきめるもすべて中国人が決めるチベットにもどっても意味がない。戻った人もたくさんおり、中には人望があって議員をやった者もいるが、インドから戻った人間は中国側に監視されていて何をしたかすべて中国側は知っていた。寺の中にスパイがいるんだ。
 本土に戻った人は目立たなければそんなひどいことはされない。昔よりは本土に戻りやすくなった「私は中国人です」という書類にサインすれば戻れるが、私は死んでもそれをする気はない。

●ダワゲルツェン (82)

平岡先生談 「ギュメがお金がなくて困っていた時期、デリーでレストランを経営していて、その時この方は会計やっていました。あんまりありがたい表情をしていたので、聞いてみたらクショラ(高僧)でした。」

・ダワゲルツェン師のお話

私はカムの出で19歳でツァワゴンパに、22歳にギュメに入門した。法王様をどう思っているか? 尊敬しているに決まっている。私はラサで法王様の下で一人前の僧の戒(比丘)を受けたんだぞ。中国が来た時はブータン経由で亡命した(先ほどのブータン経由で亡命したギュメ僧グループの人)。[インドで]35歳で密教博士を取得した。その後、砂マンダラ作成を学んだ。1984年と1996年に短期間本土チベットに戻ってラサのギュメ寺にいて、それから[故郷の]カムの寺にいったが、中国はあてにならんので、インドに戻った。ここなら誰にもジャマされずに祈ることができる。
 
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