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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2024/01/03(水)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ秘話 ⑦ 触地印の仏
あけましておめでとうございます。

 年頭恒例エッセイ、ダライラマ秘話シリーズも七回目を迎えました。
 今回は、ダライラマなどチベットの高僧がプレゼントに多用する「触地印の仏」について扱います。

 古來より現在にいたるまで、チベットのお坊さんが俗人などにプレゼントをする場合、受者の仏教の実践に資するようなもの、仏像、仏典、お線香などを授ける。2008年、北京オリンピックの年、なんやかんやでチベット人のために行動してくださった護国寺さまと善光寺さまに、事後、ダライラマ14世は表敬訪問し、その記念として仏像を授与した。それらの仏像はいずれも触地印の釈迦像であった。

 多くの人がチベット仏教といってイメージするのは、手や足のいっぱいある密教尊ではないだろうか。なのになぜ、マハーカーラ尊でも、ダーキニー尊でも、ヤマーンタカ尊でも、グヒヤサマージャ尊でもなく触地印の仏なのだろうか。「日本仏教に合わせたのでは」と思う方もいるだろうが、日本では触地印の仏像はほとんど作例がない。当時不思議に思っていたが、何となくその答えがわかったような気がしてきた。

 まずは触地印の意味について解説。

 お釈迦様の伝記(仏伝)によると、釈迦はナイレンジャー川のほとりで瞑想に入り覚りを開く直前、自分の中にある煩悩(魔)に戦いを挑まれ、それらの魔を降して大地の神を証人として覚りを開いた。なので、成道の時の姿は、右手を大地につけ(触地印/ 降魔印)、左手を膝の上においた結跏趺坐の姿で表される。つまり、触地印は釈迦の伝記のハイライトを具象化したものである。

 釈迦が覚りを開いた場(現ブッダガヤ)は金剛座とよばれ、世界の終わりがきても崩れない不動点といわれ、『大唐西域記』(8世紀)が書かれた時代には、2.5mくらいの触地印の仏が祀られていたことが記されている。インドで仏教が衰退すると同時にブッダガヤの大塔はヒンドゥー教の寺院へと改変され、仏像も姿を消した。
触地印の仏1
触地印の仏2

  この触地印の仏は、20世紀初頭になると、仏教徒間での贈答の際や大寺の本尊として頻繁に用いられるようになる。たとえば、
 写真1,2は、1901(明治34)年7月27日 雍和宮貫主アキャ・リンポチェが来日した際に、宮中に献上した仏像である(「喇嘛貫主来朝日誌」『教学報知』639、1901年8月21日)。二体とも見ての通り触地印の仏である(国立博物館所蔵)。

 1904年にイギリス軍を率いてチベットの鎖国をうちやぶったイギリスのヤングハズバンド大尉も、チベットから撤退する際にガンデン座主から仏像を授かっている。金子民雄『ヤングハズバンド伝』によると、この仏像は終生ヤングハズバンドの傍らにあり、ヤングハズバンドが死去すると遺体とともに埋葬されたという。この仏像がどのような様式のものであったかは不明であるが、王立地理学協会が所蔵するヤングハズバンドの仏像といわれる画像はやはり触地印である(写真3)。

 写真5は1911年に、鶴見に移転した 総持寺の本尊として外務官僚から寄贈された清朝由来の像であり、これも触地印である(『総持寺名宝100選』2011)。
 写真4は1912年9月、 河口慧海が第2回チベット旅行でインドの考古部長より贈呈されたというブッダガヤの金剛道場に安置されていた仏像も、触地印である(堺市博物館(2023); 『企画展河口慧海』No.47: 国立博物館TJ-4834-14)。
 1914年6月9日 ロシア帝国の首都サンクト・ペテルスブルグにたった初めてのチベット寺(通称ダツァン)にタイ(当時はシャム)から寄贈された二体の仏像のうち一体は触地印であり、当時の写真をみるとこのダツァンの本尊も触地印ぽい。
  これらの諸事例において、送り手と受け手は、モンゴル系チベット僧→日本宮廷、タイ宮廷→ロシアのチベット寺、日本の外務官僚→総持寺、インド考古局→日本人河口慧海、と様々であり、送り主は受け主の事情も考慮するであろうことを考慮すれば、20世紀初頭、触地印の仏がかなりグローバルに認知された様式であったことがわかる。ではなぜ20世紀初頭、国も民族も様々な仏教徒間で触地印の仏が贈答されたのか。一番ありえそうな話は、インドにおけるブッダガヤ復興運動の影響である。

ブッダガヤ復興運動についてものすごく巻いて説明すると、こう。

インドで仏教が滅びるとブッダガヤの大塔はヒンドゥー教の寺院へと変わった。しかし、19世紀に欧米人の知識人が、キリスト教なきあとの理性ある世界宗教候補として仏教を称賛したため、仏教は大ブームをひきおこした。中でも釈迦の伝記のクライマックスにあたるブッダガヤでの成道はとくに西洋人に人気があり、ブッダガヤがヒンドゥー教の寺院であることが惜しまれるようになっていた。

1885年 『アジアの光』(釈迦の伝記を散文詩にしたベストセラー)の著者であるエドゥイン・アーノルド(1832-190)が、「十字軍がキリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還したように、ブッダガヤをヒンドゥー教徒の手から取り戻そう」と檄を飛ばし、ブッダガヤに対する世界の注目度は上がっていった。

1891年 5月31日 神智学協会の会長オルコット大佐の下で仏教の価値を学んだセイロン(スリランカ) 人のダルマバーラは、ブッダガヤの復興を目的としてオルコットを理事長に担ぎ、マハーボディ・ソサイエティ(大菩提会)を設立し、日本の仏教徒にも協力を呼びかけた。9月、ダルマパーラの呼びかけに応えて日本でも、真言宗の釋雲照(三浦梧楼などが施主をしていた当代の名僧)が中心となって印度仏蹟興復会が設立された。同年、10月31日 ダルマパーラがブッダガヤで国際仏教会議を開催した。

 オルコット大佐は、世界中の仏教徒を協力させるため、上座部仏教であれ、大乗仏教であれ受け入れ可能な仏教の教義を、14ヶ条の基本的な信仰条規にまとめて、その書類を手に著名な仏教徒の署名を集めてまわった。オルコットは神智学協会の機関紙 Theosophist の中で、自ら14条の信仰条規携えて、ビルマ、セイロン、日本、チッタゴンの高僧たちと会い、その批判に応え、また、その兄弟愛に訴えて、この信仰条規を受け入れさせたと主張し、これに署名した日本、ビルマ、セイロン、チッタゴンの高僧たちのサインを公開した(Theosophist, 1892 年1 月号: 239-240)。

 肝腎の聖地復興についてはイギリス・インド政府がヒンドゥー教・仏教の対立に加わることを避けて何もしなかったこと、かつ、ブッダガヤの地権者であるヒンドゥー教徒のマハントも頑として仏教徒に譲らなかったため、なかなか進捗しなかった。しかし、1901年にブリヤート人のイロルトゥエフがインドを巡礼に訪れ大菩提会の活動に賛同を示すと、オルコットはこの仏教徒大同団結に「東シベリアの仏教徒」(チベット仏教徒のブリヤート人)も加わった、とぶちあげた。

また、1902 (明治35年)12/24 浄土真宗本願寺派の藤井宣正、同派法主の大谷光瑞、哲学館(現東洋大学)創立者の井上円了、ラサから脱出したばかりの河口慧海がブッダガヤで会合し、神智学協会のアニー・ベサント、オルコットの演説を聞いている。

 ここで触地印の仏に話を戻すと、ダルマパーラとオルコットが上座部仏教、大乗仏教、チベット仏教などの異なる地域の仏教を聖地復興のために協力させるため、西洋人に評価されていた仏教の教義を十四か条に抽出して示したように、触地印の仏はブッダガヤ復興のシンボルとして全仏教徒の理解できる共通のアイコンとして当時機能していたのではないかという仮説が建てられよう。

 そう考えると、もともと触地印の仏の作例がほとんどなかった日本において、総持寺のような大寺の本尊に触地印の清朝の仏が選ばれていたこと(現在は別の本尊になっている)、ダライラマ13世とサンクトペテルスブルグのオリエンタリストが施主となってたてたペテルスブルグのチベット寺院の本尊が触地印の仏になったことなどに説明がつく。

 世界中の仏教徒が19世紀末から20世紀初頭、一瞬だけ互いを認識し、共通の基盤をもとうとしていた時代の名残が、現在ダライラマ14世による触地印の仏の授与にも続いているのではないだろうか。
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