チベットを求めて可睡斎に行く
お盆直後の8月17日に調査とレジャー兼ねて静岡県の名刹可睡斎(かすいさい)にいく計画をたてた。しかし、お盆に台風が直撃し、出だしは波乱に満ちていた。
●台風でとまる新幹線
8月15日、台風七号が近畿を直撃したことにより、東海道新幹線は計画運休となった。翌日復旧するかと思えば今度は静岡県内の大雨により車両のやりくりがきかず新幹線は朝からとまりっばなし。新大阪・名古屋・東京などの新幹線の主要駅には帰宅難民となった人々が滞留し、インドの鉄道駅のよう。午後七時のニュースでは「明日(17日)の運行についても見通せないので、最新の情報をHPで」となんか不安な予告をしている。でかけるのは無理かとも思ったが、可睡斎の精進料理の予約をいれていたので(笑)、17日、とにかく家を出た。
可睡斎は「こだま」の掛川駅から在来線で二駅。ホームでJR東海の駅員さんに「一番早いこだまはいつ来ますか?」と聞くと、「HPみて頂くとわかるのですが、いま東京〜新横浜間に何も走っていません。「こだま」はまだ東京駅に入線もして・・・あっ今入線して準備中表示になりました」とのこと。
普通こだまは自由席でも座れるのだが、帰宅難民が加わり70分おくれてつく「こだま」に途中駅からのる我々の座席はたぶんない。覚悟を決めて最初にきた「こだま」にのったら8:50分に発車。この列車的には70分遅れているが、予定では8:45分にでるつもりだったので主観的にはほぼ遅れナシ。小田原で降りた人の後に座れたため、席もOK。今回に関しては台風の影響ナシ。日頃の行いがいいのか悪運か。
掛川駅で降車して在来線で袋井駅にいき、タクシーで可睡斎へ。可睡斎は家康ゆかりの寺である。戦国時代、可睡斎の住職が、今川の人質だった家康(竹千代)を助けたことから、家康が駿河の城主になった時に恩人として住職を御前に呼んだ。しかし、この住職は家康の前で居眠りをはじめたので、まわりが咎めようとすると家康
「居眠りしてもヨシ!」といったことから、この住職、ひいてはこの寺は可睡斎(ねむってもヨシ)と呼ばれるようになった。

●目的は日置黙仙
今年の大河は家康が主人公であるため、袋井の駅にも可睡斎にも大河のポスターが貼りまくられている。しかし目的は家康ではない。もっと時代がくだった、1892年から1916年までこの寺の住職であった日置黙仙禅師である。
日置黙仙はグローバルな活躍をした曹洞宗の有力僧で、以下にあるように、1912年1月にインドでダライラマ13世と謁見している。以下、一目で分かる彼の年譜。
1892年 西有穆山の後任として、日置、可睡斎住職に就任。
1895年 日置、総持寺東京出張所執事 。
1896年 日置、可睡斎に僧堂開設願い。
1900年 高村光雲作の活人剣のモニュメントを可睡斎にたてる。
1901年 西有穆山、総持寺貫首に(この頃総持寺が北陸から鶴見に移転)。
1900年6月 日置、真正の仏舎利を奉迎するため暹羅(タイ)へ渡航。
1902年 西有穆山、曹洞宗管長に。
1907年 日置、日露戦争の戦跡をまわって慰霊。
同年10月30日 日置、タイから奉迎した仏舎利をまつる寺院日暹寺の住職に就任。
1911年4月2日 可睡斎に日露戦争の戦場の土をおさめた護国塔(設計伊東忠太)をたてる。
1911年12月 日置、タイのラーマ六世の戴冠式に日本仏教を代表して列席。來馬琢道も同道。
1912年1月 日置、ダライラマとダージリンで謁見。山上曹源も同道。このあとインドで仏跡巡礼。
1914年 ダライラマ13世から日置黙仙にチベット大蔵経(ナルタン版)が寄贈され、日置は総持寺に奉呈。
1915年8月1日 日置、サンフランシスコ世界宗教会議に出席。
1916年 日置、可睡斎住職を退任し、永平寺六十六世貫首に当選する。
同年6月 日置、来日したタゴールを迎える。
1920年 遷化。
ざっと見ても明治から大正期にかけての内外仏教界において日本を代表する活躍をしていたことが分かると思う。この彼がもっとも活動的であった20世紀初頭、可睡斎にいたので、これは一度はいかねばならないと思っていた。
●活人剣
山門をくぐると左手に、地面につきささり切っ先を空にむけた剣のモニュメントがある。その名も「活人剣」。「るろうに剣心」の神谷活心流ではない。史実に基づく由緒ある建造物である。日清戦争後、下関条約が締結された時、清國の全權大使として来日した李鴻章は日本の暴漢に襲われた。この時、李鴻章の治療に当たったのが陸軍軍医総監の佐藤進。李鴻章は佐藤が医者でありながら佩刀していることを問うと、佐藤は李鴻章に「私は毎日病とたたかっているこれは活人剣である」といい、剣禅一致の境地をといた。

この逸話に基づいて日置黙仙が高村光雲に作らせたモニュメントがこの「活人剣」である。このお寺愛国だったので、戦時中に剣は金属供出され、現在のものは2015年に再建されたものである。新旧を比べた写真をおいたのでご覧あれ。私は高村版活人剣が好き。
●伊東忠太の護国塔
まずは、総受付で護国塔への道をきく。この塔は日露戦争の戦没者を弔うべく立てられたもので、日置黙仙が大陸の戦場をまわって集めた土が塔の基壇におさめられている。設計は東大の工学博士伊東忠太。場所は谷ひとつこえてかなり急な坂をのぼった(舗装道はすべるのでもう一本ある山道を推奨)境内の西側の丘の上である。

ひーひー坂を登っていくといきなり視界が開けて護国塔が現れる。忠太らしくデザインはインド・チベット風で翼のついた狛犬が門番をしており、柱は真ん中がこころもちふくらんでいる(エンタシス。忠太は法隆寺の柱のエンタシスはギリシアのパルテノン神殿様式がインドを介して日本に伝わったと考えていた)。塔のファサードは一世紀のアジャンターやブッダガヤのマハーボディ寺院風、相輪部は前回述べたようにチベット仏塔様式である。
現存する塔は伊東忠太の設計図通りではないため、宝物館には伊東忠太の設計通りにつくられた護国塔の模型があった。この原案をみると、翼のついたライオンは四隅に配され、二段ある基壇は現在よりも高く、基壇二段目には北京のチベット寺昭廟風の階段がついていた。
当時の静岡民友新聞によると、塔の発起人たちはどのような様式で塔を建てるかでもめた。三浦梧楼中将は日本の伝統様式である五重塔・三重塔を主張し、渡邊子爵はインド様式を主張した。そこに日置の師である西有禅師が割って入り、「しじゅう(始終・四重)はやっかいでごじゅう(後住・五重)が迷惑する」、とダジャレをとばして、インド・チベット風に決着した。つまり、可睡斎側はインド・チベット様式を支持していたのである。当時としては最先端のデザインを可睡斎側は推していたのである。
●チベット・ホルンにトイレの神様
世代が変わり、現在可睡斎にいるお坊さんたちはこの時代についての話を知らなかったが、歴代住職の位牌をまつるお堂にチベットホルン(ドゥン)があり、「カルラの笛」と名付けられていた。解説文をよむと平成5年(1993)にチベットのドゥンを模して開発したとあるので、少なくとも1993年にはチベットに興味をもつお坊さんがいたわけだ。

この可睡斎、とにかく盛りだくさん。境内ではインスタ映えする風鈴祭をやっており、まるで「うる★奴ら」の「ビューティフルドリーマー」の世界(若いもんは知らんだろう)。そして見所は昭和10年に建設された当時は最先端の水洗トイレ。「日本一の禅寺院のトイレ」(東司)を謳うだけあり、それは迫力。

今はやりの男女兼用だけど、トイレのまんなかに烏枢沙摩明王がたち、蓮華の水盤からは手洗いの水がちょろちょろおちているので、たぶん変な人種はよりつかない。歌舞伎町タワーにも真ん中に烏枢沙摩明王を据えたら問題は解決するのではないか(土地柄がアレか)。
拝観料には堂内をめぐる権利、このトイレ見学、宝物館、風鈴のなる日本庭園をながめながらの冷やしぜんざいもこみとなっており、とてもオトク。2000円だすとこれに加えて精進料理もいただけます。このお寺もっと交通の便のよいところにあったら観光客がつめかけるだろう。

本堂の右手に秋葉總本殿があり、ここには火伏せの神である秋葉権現が祀られている。神仏習合時代ここは修験者の集まる場所で堂内には天狗の面がかざられている。むかーし、江戸には火事がたえなかったため、秋葉さんのお札は火災保険のように飛ぶように売れた。
ちなみに、現在の可睡斎のお土産は、トイレにはる烏枢沙摩明王とひぶせの秋葉権現のお札である。残念ながら日置禅師関連の資料がどこにあるのかはいまいるお坊さんたちでは分からないとのことで、また後日を期す。

●台風でとまる新幹線
8月15日、台風七号が近畿を直撃したことにより、東海道新幹線は計画運休となった。翌日復旧するかと思えば今度は静岡県内の大雨により車両のやりくりがきかず新幹線は朝からとまりっばなし。新大阪・名古屋・東京などの新幹線の主要駅には帰宅難民となった人々が滞留し、インドの鉄道駅のよう。午後七時のニュースでは「明日(17日)の運行についても見通せないので、最新の情報をHPで」となんか不安な予告をしている。でかけるのは無理かとも思ったが、可睡斎の精進料理の予約をいれていたので(笑)、17日、とにかく家を出た。
可睡斎は「こだま」の掛川駅から在来線で二駅。ホームでJR東海の駅員さんに「一番早いこだまはいつ来ますか?」と聞くと、「HPみて頂くとわかるのですが、いま東京〜新横浜間に何も走っていません。「こだま」はまだ東京駅に入線もして・・・あっ今入線して準備中表示になりました」とのこと。
普通こだまは自由席でも座れるのだが、帰宅難民が加わり70分おくれてつく「こだま」に途中駅からのる我々の座席はたぶんない。覚悟を決めて最初にきた「こだま」にのったら8:50分に発車。この列車的には70分遅れているが、予定では8:45分にでるつもりだったので主観的にはほぼ遅れナシ。小田原で降りた人の後に座れたため、席もOK。今回に関しては台風の影響ナシ。日頃の行いがいいのか悪運か。
掛川駅で降車して在来線で袋井駅にいき、タクシーで可睡斎へ。可睡斎は家康ゆかりの寺である。戦国時代、可睡斎の住職が、今川の人質だった家康(竹千代)を助けたことから、家康が駿河の城主になった時に恩人として住職を御前に呼んだ。しかし、この住職は家康の前で居眠りをはじめたので、まわりが咎めようとすると家康
「居眠りしてもヨシ!」といったことから、この住職、ひいてはこの寺は可睡斎(ねむってもヨシ)と呼ばれるようになった。

●目的は日置黙仙
今年の大河は家康が主人公であるため、袋井の駅にも可睡斎にも大河のポスターが貼りまくられている。しかし目的は家康ではない。もっと時代がくだった、1892年から1916年までこの寺の住職であった日置黙仙禅師である。
日置黙仙はグローバルな活躍をした曹洞宗の有力僧で、以下にあるように、1912年1月にインドでダライラマ13世と謁見している。以下、一目で分かる彼の年譜。
1892年 西有穆山の後任として、日置、可睡斎住職に就任。
1895年 日置、総持寺東京出張所執事 。
1896年 日置、可睡斎に僧堂開設願い。
1900年 高村光雲作の活人剣のモニュメントを可睡斎にたてる。
1901年 西有穆山、総持寺貫首に(この頃総持寺が北陸から鶴見に移転)。
1900年6月 日置、真正の仏舎利を奉迎するため暹羅(タイ)へ渡航。
1902年 西有穆山、曹洞宗管長に。
1907年 日置、日露戦争の戦跡をまわって慰霊。
同年10月30日 日置、タイから奉迎した仏舎利をまつる寺院日暹寺の住職に就任。
1911年4月2日 可睡斎に日露戦争の戦場の土をおさめた護国塔(設計伊東忠太)をたてる。
1911年12月 日置、タイのラーマ六世の戴冠式に日本仏教を代表して列席。來馬琢道も同道。
1912年1月 日置、ダライラマとダージリンで謁見。山上曹源も同道。このあとインドで仏跡巡礼。
1914年 ダライラマ13世から日置黙仙にチベット大蔵経(ナルタン版)が寄贈され、日置は総持寺に奉呈。
1915年8月1日 日置、サンフランシスコ世界宗教会議に出席。
1916年 日置、可睡斎住職を退任し、永平寺六十六世貫首に当選する。
同年6月 日置、来日したタゴールを迎える。
1920年 遷化。
ざっと見ても明治から大正期にかけての内外仏教界において日本を代表する活躍をしていたことが分かると思う。この彼がもっとも活動的であった20世紀初頭、可睡斎にいたので、これは一度はいかねばならないと思っていた。
●活人剣
山門をくぐると左手に、地面につきささり切っ先を空にむけた剣のモニュメントがある。その名も「活人剣」。「るろうに剣心」の神谷活心流ではない。史実に基づく由緒ある建造物である。日清戦争後、下関条約が締結された時、清國の全權大使として来日した李鴻章は日本の暴漢に襲われた。この時、李鴻章の治療に当たったのが陸軍軍医総監の佐藤進。李鴻章は佐藤が医者でありながら佩刀していることを問うと、佐藤は李鴻章に「私は毎日病とたたかっているこれは活人剣である」といい、剣禅一致の境地をといた。

この逸話に基づいて日置黙仙が高村光雲に作らせたモニュメントがこの「活人剣」である。このお寺愛国だったので、戦時中に剣は金属供出され、現在のものは2015年に再建されたものである。新旧を比べた写真をおいたのでご覧あれ。私は高村版活人剣が好き。
●伊東忠太の護国塔
まずは、総受付で護国塔への道をきく。この塔は日露戦争の戦没者を弔うべく立てられたもので、日置黙仙が大陸の戦場をまわって集めた土が塔の基壇におさめられている。設計は東大の工学博士伊東忠太。場所は谷ひとつこえてかなり急な坂をのぼった(舗装道はすべるのでもう一本ある山道を推奨)境内の西側の丘の上である。

ひーひー坂を登っていくといきなり視界が開けて護国塔が現れる。忠太らしくデザインはインド・チベット風で翼のついた狛犬が門番をしており、柱は真ん中がこころもちふくらんでいる(エンタシス。忠太は法隆寺の柱のエンタシスはギリシアのパルテノン神殿様式がインドを介して日本に伝わったと考えていた)。塔のファサードは一世紀のアジャンターやブッダガヤのマハーボディ寺院風、相輪部は前回述べたようにチベット仏塔様式である。
現存する塔は伊東忠太の設計図通りではないため、宝物館には伊東忠太の設計通りにつくられた護国塔の模型があった。この原案をみると、翼のついたライオンは四隅に配され、二段ある基壇は現在よりも高く、基壇二段目には北京のチベット寺昭廟風の階段がついていた。
当時の静岡民友新聞によると、塔の発起人たちはどのような様式で塔を建てるかでもめた。三浦梧楼中将は日本の伝統様式である五重塔・三重塔を主張し、渡邊子爵はインド様式を主張した。そこに日置の師である西有禅師が割って入り、「しじゅう(始終・四重)はやっかいでごじゅう(後住・五重)が迷惑する」、とダジャレをとばして、インド・チベット風に決着した。つまり、可睡斎側はインド・チベット様式を支持していたのである。当時としては最先端のデザインを可睡斎側は推していたのである。
●チベット・ホルンにトイレの神様
世代が変わり、現在可睡斎にいるお坊さんたちはこの時代についての話を知らなかったが、歴代住職の位牌をまつるお堂にチベットホルン(ドゥン)があり、「カルラの笛」と名付けられていた。解説文をよむと平成5年(1993)にチベットのドゥンを模して開発したとあるので、少なくとも1993年にはチベットに興味をもつお坊さんがいたわけだ。

この可睡斎、とにかく盛りだくさん。境内ではインスタ映えする風鈴祭をやっており、まるで「うる★奴ら」の「ビューティフルドリーマー」の世界(若いもんは知らんだろう)。そして見所は昭和10年に建設された当時は最先端の水洗トイレ。「日本一の禅寺院のトイレ」(東司)を謳うだけあり、それは迫力。

今はやりの男女兼用だけど、トイレのまんなかに烏枢沙摩明王がたち、蓮華の水盤からは手洗いの水がちょろちょろおちているので、たぶん変な人種はよりつかない。歌舞伎町タワーにも真ん中に烏枢沙摩明王を据えたら問題は解決するのではないか(土地柄がアレか)。
拝観料には堂内をめぐる権利、このトイレ見学、宝物館、風鈴のなる日本庭園をながめながらの冷やしぜんざいもこみとなっており、とてもオトク。2000円だすとこれに加えて精進料理もいただけます。このお寺もっと交通の便のよいところにあったら観光客がつめかけるだろう。

本堂の右手に秋葉總本殿があり、ここには火伏せの神である秋葉権現が祀られている。神仏習合時代ここは修験者の集まる場所で堂内には天狗の面がかざられている。むかーし、江戸には火事がたえなかったため、秋葉さんのお札は火災保険のように飛ぶように売れた。
ちなみに、現在の可睡斎のお土産は、トイレにはる烏枢沙摩明王とひぶせの秋葉権現のお札である。残念ながら日置禅師関連の資料がどこにあるのかはいまいるお坊さんたちでは分からないとのことで、また後日を期す。

COMMENT
明治17年の創業より、多くの著名な方々にご宿泊頂いております。(一部ご紹介。敬称略。)
政治家:大隈重信・後藤新平・石破二朗
作家:志賀直哉・幸田露伴・田山花袋・小泉八雲
宗教家:清水公照(東大寺管長)・日置黙仙禅師(曹洞宗第九代管長)
詳しくは下記ページをご覧ください。
▼養生館の歴史
https://yozyokan.jp/history/
政治家:大隈重信・後藤新平・石破二朗
作家:志賀直哉・幸田露伴・田山花袋・小泉八雲
宗教家:清水公照(東大寺管長)・日置黙仙禅師(曹洞宗第九代管長)
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