明治期政界の奥座敷は大磯
梅雨空が一変し夏らしい晴れとなった7月2日、明治・大正期の政界の奥座敷、大磯にいった。以下備忘の訪問記である。大磯駅は昭和な趣がそのままな感じで、巣立ったばかりの燕のヒナがいてとてもかわいい。となりの二宮駅は米軍の機銃掃射あとがそのまま残っているそう。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
COMMENT
中里村(神奈川県二宮町)の名主水島伝左衛門は、このとき、助郷惣代として大磯宿に詰めていた。大磯宿の次が小田原宿であるから、官軍からすれば大磯宿はまさに戊辰箱根戦争の前線基地であった。だからこそ問罪使が派遣されたのである。それだけに、伝左衛門は、この戊辰箱根戦争を周辺の、それも大磯宿のなかからみていた、まさに当事者のひとりであった。伝左衛門は後に、このときに出された触書や廻状、嘆願書、戦場の記録などを書き留め、それに自らの見聞などを加えて「官軍小田原表御出陣用向控」と題する文書にまとめている(『大磯町史』2 近世 No.241)。
官軍の出陣について、人馬の調達にそうとうに苦労したことは、今さら想像するまでもないであろう。このときの助郷の範囲が、神奈川県内では現在の厚木市・愛川町から相模原市津久井にかけての地域と、埼玉県の奥まで広がっていたことは先にみたとおりである。ただ、この間の具体的な人馬の数量については、残念ながらわからない。しかしながら、伝左衛門が大磯宿年寄の壮蔵と、同じ助郷惣代の金目村(神奈川県平塚市)の名主長右衛門と連名で出した嘆願書では、いずれも先触すら来ないままに、昼夜の区別もなく不容易に継ぎ立てなければならず、「御継立高一倍増」にもなっていると訴えている。とくに日々に何挺も命じられる早駕籠には、多くの掛人足を調達しなければならないので難渋しているという。何より、大磯宿は戦地の近宿なので、鉄砲の音が聞こえてきて恐怖した。それでも粉骨を尽して人馬の御賄いをしたのだというのである。
さらに伝左衛門ら助郷惣代には、別に「兵食御賄」が命じられていた。いわゆる兵粮米の調達を命じられたのである。戦争を前提として在陣するわけであるから、それが単なる軍隊の通行とは異なる大きな特徴となっていた。伝左衛門らは、大磯宿へ白米10俵と味噌1樽、山西村(神奈川県二宮町)へも白米8俵と味噌1樽を用意し、そのほか平塚宿や馬入村(神奈川県平塚市)へも兵食を送ったという。山西村には間の宿(あいのしゅく)である梅沢があったから、官軍の一行はここにも陣取っていたのである。また、馬入村や厚木町(神奈川県厚木市)では、渡船場の船留めも行なわれており、まさに臨戦体制であった。
とくにこの兵食御用に対しては、伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の元幕府代官江川太郎左衛門英武の手附富沢正右衛門らから苗字帯刀と割羽織の着用許可の特権を受けている。このとき、苗字帯刀と割羽織着用を許されたのは、伝左衛門のほか、大磯宿年寄岩田慎右衛門・生沢村(神奈川県大磯町)名主二宮太平・河内村名主大館金兵衛(神奈川県平塚市、以下同じ)・南河内村名主森勘六・北金目村名主柳川長右衛門の6名である。江川英武は、このとき、大総督府から「兵食御賄人馬方御用」を命じられており、実質的に大磯宿周辺での人馬の調達と兵食の準備を取り仕切っていた。箱根宿から藤沢宿までの5か宿に対する官軍通行の準備は、本来、小田原藩の役目であったが、先の事件によって、江川氏と武蔵国六浦(むつら)藩(神奈川県横浜市金沢区)米倉家に命じられたのであった。
こうしたなかにあって、大磯宿は官軍の前線基地の役割をはたしていたのであったから、それだけ負担も大きかった。このとき、助郷惣代を務めていた水島伝左衛門は、多分の賄い費用を急には村々から徴収することができなかったために、持ち合わせの米穀を大磯宿台町の米屋(平井)清右衛門に売り渡し、この代金をもって伝馬出金の賄い金にあてていた。ところが、その後清右衛門が多額の借金による困窮を理由に、売り渡し代金のうち残金の30両を滞納してしまったことから後に訴訟にまで発展している。この決着がついたのは、明治6年(1873)のことで、戊辰箱根戦争の負担はその後にも大きな禍根を残すことになった(『大磯町史』2 近世 No.249)。ともあれ、この箱根戊辰戦争の終結をもって、箱根関所から江戸にいたる「関東」の地、そして相模国は、完全に官軍―新政府の支配下にはいったのである。関東に本格的に御一新がやってきたのであった。
官軍の出陣について、人馬の調達にそうとうに苦労したことは、今さら想像するまでもないであろう。このときの助郷の範囲が、神奈川県内では現在の厚木市・愛川町から相模原市津久井にかけての地域と、埼玉県の奥まで広がっていたことは先にみたとおりである。ただ、この間の具体的な人馬の数量については、残念ながらわからない。しかしながら、伝左衛門が大磯宿年寄の壮蔵と、同じ助郷惣代の金目村(神奈川県平塚市)の名主長右衛門と連名で出した嘆願書では、いずれも先触すら来ないままに、昼夜の区別もなく不容易に継ぎ立てなければならず、「御継立高一倍増」にもなっていると訴えている。とくに日々に何挺も命じられる早駕籠には、多くの掛人足を調達しなければならないので難渋しているという。何より、大磯宿は戦地の近宿なので、鉄砲の音が聞こえてきて恐怖した。それでも粉骨を尽して人馬の御賄いをしたのだというのである。
さらに伝左衛門ら助郷惣代には、別に「兵食御賄」が命じられていた。いわゆる兵粮米の調達を命じられたのである。戦争を前提として在陣するわけであるから、それが単なる軍隊の通行とは異なる大きな特徴となっていた。伝左衛門らは、大磯宿へ白米10俵と味噌1樽、山西村(神奈川県二宮町)へも白米8俵と味噌1樽を用意し、そのほか平塚宿や馬入村(神奈川県平塚市)へも兵食を送ったという。山西村には間の宿(あいのしゅく)である梅沢があったから、官軍の一行はここにも陣取っていたのである。また、馬入村や厚木町(神奈川県厚木市)では、渡船場の船留めも行なわれており、まさに臨戦体制であった。
とくにこの兵食御用に対しては、伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の元幕府代官江川太郎左衛門英武の手附富沢正右衛門らから苗字帯刀と割羽織の着用許可の特権を受けている。このとき、苗字帯刀と割羽織着用を許されたのは、伝左衛門のほか、大磯宿年寄岩田慎右衛門・生沢村(神奈川県大磯町)名主二宮太平・河内村名主大館金兵衛(神奈川県平塚市、以下同じ)・南河内村名主森勘六・北金目村名主柳川長右衛門の6名である。江川英武は、このとき、大総督府から「兵食御賄人馬方御用」を命じられており、実質的に大磯宿周辺での人馬の調達と兵食の準備を取り仕切っていた。箱根宿から藤沢宿までの5か宿に対する官軍通行の準備は、本来、小田原藩の役目であったが、先の事件によって、江川氏と武蔵国六浦(むつら)藩(神奈川県横浜市金沢区)米倉家に命じられたのであった。
こうしたなかにあって、大磯宿は官軍の前線基地の役割をはたしていたのであったから、それだけ負担も大きかった。このとき、助郷惣代を務めていた水島伝左衛門は、多分の賄い費用を急には村々から徴収することができなかったために、持ち合わせの米穀を大磯宿台町の米屋(平井)清右衛門に売り渡し、この代金をもって伝馬出金の賄い金にあてていた。ところが、その後清右衛門が多額の借金による困窮を理由に、売り渡し代金のうち残金の30両を滞納してしまったことから後に訴訟にまで発展している。この決着がついたのは、明治6年(1873)のことで、戊辰箱根戦争の負担はその後にも大きな禍根を残すことになった(『大磯町史』2 近世 No.249)。ともあれ、この箱根戊辰戦争の終結をもって、箱根関所から江戸にいたる「関東」の地、そして相模国は、完全に官軍―新政府の支配下にはいったのである。関東に本格的に御一新がやってきたのであった。
大磯宿は、東海道8番目の宿場町で、相模国淘綾郡に属していた。宿高は「元禄郷帳」553石余、「天保郷帳」597石余であった。隣村の東小磯村が加宿(宿場町に付属する村)となっていて、宿内は南本町、北本町、茶屋町、南台町、神明町、山王町、北下町、南下町の8か町からなっていた。南北両下町は漁師町でもあった。東隣の宿場町平塚宿とは距離が短い反面、大磯宿から西の小田原宿までは4里(約16Km)と東海道で2番目の長さ、また、平塚宿から藤沢宿まも3里(約12Km)でこれは4番目の長さであったことから、最合(もあい)といって、共同で伝馬役を務めることがあった。こうしたこともあって、将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝などの大通行の際にも大磯宿は宿所として使われることが多かった。明治天皇の東幸の際もまた、宿所となっている。
明治天皇が京都の御所を鳳輿(ほうよ)したのは明治元年(1868)9月21日のことであった。大磯宿に到着したのが10月9日のことで、将軍家茂や有栖川宮のときと同様、本陣の小島才三郎家が宿泊所となった。通輦(つうれん)にあたっては、沿道の辻固め警衛には軍隊や足軽が配置されるという厳戒態勢であった。大磯宿では京方の警衛担当者が妙昌寺を、東京方が楊谷寺(ようこくじ)を宿舎とした。ただし、厳戒態勢であったとしても、沿道筋の近在や近郷から拝礼のために出てくることは勝手次第とされた。その際、雨露を凌ぐために仮屋を建ててもかまわないともいっている。それどころか、道筋の宿駅の農商どもののなかには通輦前から職業を休む者もいると聞いているが、それはけしからんことで、よく片付けておくことは必要であるが、職業を休むことはないようにと申し渡している。今回の行幸は、そもそも「安撫御巡幸(あんぶごじゅんこう)」、すなわち国を治める者として、人民が安心して生活できることを願って巡幸しているのだから、下民の情状を詳しく知りたい。だから、農商ともいずれも平常のとおり職業を勤めるようにしてほしいし、それを「御巡覧」するのが天皇の意志なのだという。また、当春以来、関東の人民兵乱のために艱難(かんなん)におよんでいたことで、天皇は深く宸襟(しんきん)を悩ませられていた。だからこそ御親臨、つまり自ら民情をみた上で、普(あまね)く御安撫遊ばされたいと思っておられる、とも述べている。
天皇は、午後に海岸に出て、供奉した諸藩の兵隊が鴉の群れを鉄砲で試射するようすをご覧になった。続いて漁夫たちが底引き網をするようすをこれまた叡覧(えいらん)されたのだが、この時に、漁夫の一人が採った魚を桶に入れて、裸のままで御座所に運んできたという。その後、漁夫たちにはお菓子が下されたという。
東幸の際に天皇が民と交わることはそう多くなかったようで、熱田神宮を参拝した後、浜新海松原で、農民が収穫するようすを叡覧されたことなどがわかっている。この時は、岩倉具視が農民に命じて稲穂を天覧に供して、またお菓子を下賜されたという。稲の収穫に、漁獲のようすと、いずれも事前に企図されたものであったことは間違いはないであろう。
これを将軍徳川家茂の上洛時と進発時のようすと比べてみると興味深い。文久3年(1863)の上洛中の家茂は、大磯宿に着くと、歩いて北神明町から海側の下町へ抜けて大磯の浜を見物している。その際に、その家茂を一目拝もうと宿民が大挙して押しかけたという。上洛が通告された場合は、一般民衆が将軍を拝むは禁止されていたが、直前になって許されたのである。ただし、その場では誰一人として咳払い一つする者はなく、皆しかと頭を垂れていたため、実際に家茂の顔を拝んだ者はいなかったというまた、御供の面々も皆柔和で、これを制する者も「荒言」をいう者もなかったと述べている(『梅沢御本陣』)。また、この時、浜に打ち寄せられた海草を見た家茂が、その名前を尋ねたところ、案内した本陣が「かぢめ」という名前であると申し上げた。すると家茂は、これを「勝目」と読み替え、「吉相之名」であるということで江戸城へ送るようにと申し付けたという(茅ヶ崎市史史料集第五集『藤間柳庵「太平年表録」』№77)。
慶応元年(1865)に長州藩征討のために進発した家茂は、大磯宿と小田原宿の「間の宿(あいのしゅく)」である梅沢(神奈川県二宮町)の茶屋本陣松屋で休息をとった。松屋では、このようにして休憩する大名や幕府の役人、公家などに献上品を差し上げ、休息料とあわせて心付けの礼金を受け取る仕来りとなっていた。ここで松屋の主人作右衛門が献上品として用意したのが、白木の三宝(三方)にそれぞれ鰺と鮎を載せたもの一台ずつと、別におはぎを載せた三宝が一台であった。おはぎを献上するにあたって作右衛門は、「この度の御進発は、長州萩への御進発であり、これにより早速『萩』を公方様がお召し上がりになることと存じます。つきましてはそのために『おはぎ』を献上つかまつり、『縁喜』(縁起)祝いの言上としたい」と存じますと述べている。長州藩の居城である萩になぞらえて、おはぎを召し上がることは萩を食らうことに通じて縁起がいいというのである。なかなかの演出である。思惑通り、将軍家茂はもとより、老中・若年寄をはじめとする供奉の面々もたいそう喜んだという。さらに家茂は、老中や若年寄などにも食べさせたいとしておはぎの追加を命じたが、急なことであずきが間に合わない。その旨を申し上げると、あずきがなくともよいというので、白飯をおはぎに見立てて差し上げた。その時に作右衛門は「はぎの白(萩の城)」を召し上がることで、これまた「縁喜」がよいことですと言上し、さらに家茂らを喜ばせている(『梅沢御本陣』)。京では当時、長州藩びいきで「おはぎ」が流行ったというから、対象的なエピソードで興味深い。
これらのエピソードにみえる将軍家茂は、なるべくフレンドリー民衆と接しようとする姿勢がみえるが、あくまでも将軍は将軍であった。これらに比べると、裸で漁夫が桶に入れた魚を平気で天皇のもとにもっていったというエピソードは、この段階ではまだ「天皇」というものの存在を民衆の方が熟知していないようである。天皇の権威化の進む明治に入ってからでは考えられない光景であろう。
ただし、このエピソードには続きがあって、天皇が宿泊したという事実とともに昭和3年(1928)になって「木標」が立てられることになった。昭和3年は、明治維新から60年となった年で、昭和天皇の即位とあわせて、これらを記念して11月3日を「明治節」とする法案が、この前年に成立していた。これを記念しての建碑であった。その後、これらの木標は、石碑に変えられて現在にいたっている。天皇が宿泊した旧本陣の小島家の前には「明治大帝御東幸行在所記念」の石碑が、内侍所と鳳輦が安置された神明社には「明治元年十月九日御東幸之途次 内侍所雄羽車奉安之所」の碑が、そして北下町南浜岳には「明治天皇観漁紀念碑」今も静かに佇んでいる。行在所は、天皇が仮の住まいとした場所、転じて宿泊した場所、内侍所は(ないしどころ)、内裏(だいり)内の場所の一つで、内侍司女官の詰所を言い、この場合は、こうした御供の人々が宿泊した場所をさしている。
明治天皇が京都の御所を鳳輿(ほうよ)したのは明治元年(1868)9月21日のことであった。大磯宿に到着したのが10月9日のことで、将軍家茂や有栖川宮のときと同様、本陣の小島才三郎家が宿泊所となった。通輦(つうれん)にあたっては、沿道の辻固め警衛には軍隊や足軽が配置されるという厳戒態勢であった。大磯宿では京方の警衛担当者が妙昌寺を、東京方が楊谷寺(ようこくじ)を宿舎とした。ただし、厳戒態勢であったとしても、沿道筋の近在や近郷から拝礼のために出てくることは勝手次第とされた。その際、雨露を凌ぐために仮屋を建ててもかまわないともいっている。それどころか、道筋の宿駅の農商どもののなかには通輦前から職業を休む者もいると聞いているが、それはけしからんことで、よく片付けておくことは必要であるが、職業を休むことはないようにと申し渡している。今回の行幸は、そもそも「安撫御巡幸(あんぶごじゅんこう)」、すなわち国を治める者として、人民が安心して生活できることを願って巡幸しているのだから、下民の情状を詳しく知りたい。だから、農商ともいずれも平常のとおり職業を勤めるようにしてほしいし、それを「御巡覧」するのが天皇の意志なのだという。また、当春以来、関東の人民兵乱のために艱難(かんなん)におよんでいたことで、天皇は深く宸襟(しんきん)を悩ませられていた。だからこそ御親臨、つまり自ら民情をみた上で、普(あまね)く御安撫遊ばされたいと思っておられる、とも述べている。
天皇は、午後に海岸に出て、供奉した諸藩の兵隊が鴉の群れを鉄砲で試射するようすをご覧になった。続いて漁夫たちが底引き網をするようすをこれまた叡覧(えいらん)されたのだが、この時に、漁夫の一人が採った魚を桶に入れて、裸のままで御座所に運んできたという。その後、漁夫たちにはお菓子が下されたという。
東幸の際に天皇が民と交わることはそう多くなかったようで、熱田神宮を参拝した後、浜新海松原で、農民が収穫するようすを叡覧されたことなどがわかっている。この時は、岩倉具視が農民に命じて稲穂を天覧に供して、またお菓子を下賜されたという。稲の収穫に、漁獲のようすと、いずれも事前に企図されたものであったことは間違いはないであろう。
これを将軍徳川家茂の上洛時と進発時のようすと比べてみると興味深い。文久3年(1863)の上洛中の家茂は、大磯宿に着くと、歩いて北神明町から海側の下町へ抜けて大磯の浜を見物している。その際に、その家茂を一目拝もうと宿民が大挙して押しかけたという。上洛が通告された場合は、一般民衆が将軍を拝むは禁止されていたが、直前になって許されたのである。ただし、その場では誰一人として咳払い一つする者はなく、皆しかと頭を垂れていたため、実際に家茂の顔を拝んだ者はいなかったというまた、御供の面々も皆柔和で、これを制する者も「荒言」をいう者もなかったと述べている(『梅沢御本陣』)。また、この時、浜に打ち寄せられた海草を見た家茂が、その名前を尋ねたところ、案内した本陣が「かぢめ」という名前であると申し上げた。すると家茂は、これを「勝目」と読み替え、「吉相之名」であるということで江戸城へ送るようにと申し付けたという(茅ヶ崎市史史料集第五集『藤間柳庵「太平年表録」』№77)。
慶応元年(1865)に長州藩征討のために進発した家茂は、大磯宿と小田原宿の「間の宿(あいのしゅく)」である梅沢(神奈川県二宮町)の茶屋本陣松屋で休息をとった。松屋では、このようにして休憩する大名や幕府の役人、公家などに献上品を差し上げ、休息料とあわせて心付けの礼金を受け取る仕来りとなっていた。ここで松屋の主人作右衛門が献上品として用意したのが、白木の三宝(三方)にそれぞれ鰺と鮎を載せたもの一台ずつと、別におはぎを載せた三宝が一台であった。おはぎを献上するにあたって作右衛門は、「この度の御進発は、長州萩への御進発であり、これにより早速『萩』を公方様がお召し上がりになることと存じます。つきましてはそのために『おはぎ』を献上つかまつり、『縁喜』(縁起)祝いの言上としたい」と存じますと述べている。長州藩の居城である萩になぞらえて、おはぎを召し上がることは萩を食らうことに通じて縁起がいいというのである。なかなかの演出である。思惑通り、将軍家茂はもとより、老中・若年寄をはじめとする供奉の面々もたいそう喜んだという。さらに家茂は、老中や若年寄などにも食べさせたいとしておはぎの追加を命じたが、急なことであずきが間に合わない。その旨を申し上げると、あずきがなくともよいというので、白飯をおはぎに見立てて差し上げた。その時に作右衛門は「はぎの白(萩の城)」を召し上がることで、これまた「縁喜」がよいことですと言上し、さらに家茂らを喜ばせている(『梅沢御本陣』)。京では当時、長州藩びいきで「おはぎ」が流行ったというから、対象的なエピソードで興味深い。
これらのエピソードにみえる将軍家茂は、なるべくフレンドリー民衆と接しようとする姿勢がみえるが、あくまでも将軍は将軍であった。これらに比べると、裸で漁夫が桶に入れた魚を平気で天皇のもとにもっていったというエピソードは、この段階ではまだ「天皇」というものの存在を民衆の方が熟知していないようである。天皇の権威化の進む明治に入ってからでは考えられない光景であろう。
ただし、このエピソードには続きがあって、天皇が宿泊したという事実とともに昭和3年(1928)になって「木標」が立てられることになった。昭和3年は、明治維新から60年となった年で、昭和天皇の即位とあわせて、これらを記念して11月3日を「明治節」とする法案が、この前年に成立していた。これを記念しての建碑であった。その後、これらの木標は、石碑に変えられて現在にいたっている。天皇が宿泊した旧本陣の小島家の前には「明治大帝御東幸行在所記念」の石碑が、内侍所と鳳輦が安置された神明社には「明治元年十月九日御東幸之途次 内侍所雄羽車奉安之所」の碑が、そして北下町南浜岳には「明治天皇観漁紀念碑」今も静かに佇んでいる。行在所は、天皇が仮の住まいとした場所、転じて宿泊した場所、内侍所は(ないしどころ)、内裏(だいり)内の場所の一つで、内侍司女官の詰所を言い、この場合は、こうした御供の人々が宿泊した場所をさしている。
「国の行く末お守りください」安倍氏銃撃1年、板垣退助の玄孫らが慰霊祭
2023/7/8
安倍晋三元首相銃撃事件から1年となる8日、安倍氏の大叔父でもある佐藤栄作元首相が名誉総裁となり設立された団体「板垣退助先生顕彰会」が、大阪護国神社(大阪市住之江区)で安倍氏の慰霊祭を行った。
同団体は自由民権運動を推進し、遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を顕彰するため、昭和43年の板垣の五十回忌に設立。平成30年の百回忌では、新調した位牌(いはい)に、当時自民党総裁だった安倍氏が言葉を揮毫(きごう)したという縁がある。
同日午前に行われた慰霊祭には、各地の市議会議員や安倍氏の妻、昭恵さんとも交流のある関係者約50人が参列。同団体理事長で板垣の玄孫、高岡功太郎氏(49)は「歴代最長の通算8年8カ月にわたり国政を執られ、積極的に国際平和の秩序構築に貢献されました」と祭文を読み上げ、「安倍先生の神霊がわれわれとこの国の行く末をお守りくださいますよう」と締めくくった。
境内に設置された献花台には朝から多くの人が訪れた。同区の主婦(52)は「安倍さんは大きな役割を果たし、長い間日本を導いてくれた。1年たった今でも寂しい気持ちはなくならないが、安らかに眠ってほしい」と涙ながらに話した。
2023/7/8
安倍晋三元首相銃撃事件から1年となる8日、安倍氏の大叔父でもある佐藤栄作元首相が名誉総裁となり設立された団体「板垣退助先生顕彰会」が、大阪護国神社(大阪市住之江区)で安倍氏の慰霊祭を行った。
同団体は自由民権運動を推進し、遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を顕彰するため、昭和43年の板垣の五十回忌に設立。平成30年の百回忌では、新調した位牌(いはい)に、当時自民党総裁だった安倍氏が言葉を揮毫(きごう)したという縁がある。
同日午前に行われた慰霊祭には、各地の市議会議員や安倍氏の妻、昭恵さんとも交流のある関係者約50人が参列。同団体理事長で板垣の玄孫、高岡功太郎氏(49)は「歴代最長の通算8年8カ月にわたり国政を執られ、積極的に国際平和の秩序構築に貢献されました」と祭文を読み上げ、「安倍先生の神霊がわれわれとこの国の行く末をお守りくださいますよう」と締めくくった。
境内に設置された献花台には朝から多くの人が訪れた。同区の主婦(52)は「安倍さんは大きな役割を果たし、長い間日本を導いてくれた。1年たった今でも寂しい気持ちはなくならないが、安らかに眠ってほしい」と涙ながらに話した。
● >マサムネさん
シラユキ | URL | 2023/08/19(土) 11:08 [EDIT]
シラユキ | URL | 2023/08/19(土) 11:08 [EDIT]
大磯宿の幕末事情面白かったです。家茂にあいにいった民衆が平伏して顔を拝めなかったというのは、チベット人のダライラマに対する態度と同じだなあと思いました。顔も直視できないくらい尊いという感覚は今の人には理解できないでしょうが、歴史家にとってはやはり時代相として興味深いです。
| ホーム |