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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2023/06/21(水)   CATEGORY: 未分類
伊東忠太のチベット風仏塔
伊東 忠太(1867-1954)は有名なジョサイア・コンドルの弟子で、平安神宮とか築地本願寺とか、ついでにいえばサハリン神社とか台湾伊勢神宮とかもつくった帝大卒の有名建築家。現在の自分の研究に何となく絡んでいるので、今年に入ってから、隙あらば伊東忠太建築をまわってきた。以下忘れないうちに気がついたことを記しておく。

●日泰寺舎利殿

 3月22日に名古屋にいく用事があったため、伊東忠太が設計し1918年に名古屋の覚王山にたった仏舎利殿を見に行った。この寺は、タイの国王ラーマ五世から寄贈されたお釈迦様のお骨を奉納するために立てられた寺で、かつては日暹寺、現在は日泰寺という名で、今も昔も名前のまま日本とタイの友好の場となっている。特定の宗派に属さず管長は複数の宗派の長が輪番で行っているのも特徴的である。

ついでにいえば初代管長は伊東忠太のサポーターでもあり、ダライラマ13世とカリンポンで会見したこともある曹洞宗の日置黙仙である。ご縁があるのである。私の研究と(笑)。

 覚王山駅で地下鉄をおりると、広大な参道がある。いかにも、かつては繁華な門前町があったであろう道幅だが、現在は団子屋と仏具屋の数軒が名残を留めるのみで、寂しい限り。境内は広大でご本尊はもちろんタイ式お釈迦様。仏舎利塔はこの広大な境内からさらに東北にむかって歩いた先にある。舎利殿までの道を歩いていると、道の脇に小さなお堂のようなものがたくさんある。小さいものはお地蔵さんのお堂くらい、大きいのはイナバの物置くらいある。うっそうとしげった森の中にそれらの小屋が点在しており、よくみると、一軒一軒が四国八十八箇所のうつしである。しかし、荒れ果てており、ホームレスの人が勝手にすみつくのか「お堂を勝手に改造しないでください」とか立て札がたっている。

 かつてこの本堂から舎利殿までの道を昭和の巡礼者が88箇所めぐりも行いながら歩いていたのである。エンターティメントがお寺参りとか神社参りしかない時代には、ここがどれだけ栄えていたかと思うと、今の状況が悲しい。今はやさしくいっても心霊スポットである。

 舎利殿につくと壁に囲まれて近づけず、一段高く木に囲まれているため、塀の外から中をみることもできない。台座しか見えない。でも大丈夫。私はネットでおとした写真も平面図ももってる。このたびは設置環境を確認しにきたのである。環境という意味で特筆すべきは、初代松坂屋の社長伊藤次郎左衛門が「仏舎利の近くに住みたい」と立てた別荘揚輝荘が近くにあり、かつては皇族・華族・実業家が集まっていたという。揚輝荘の庭の池には日泰寺の五重塔が逆さにうつるように設計されている。

 この初代社長は家の行事として大般若転読をやるなど気合いのはいった仏教徒であった。私の目には大正、昭和初期の賑わう覚王山の姿がまぼろしのように見えたが、実際にあるのは揚輝荘をぶったぎる覚王山マンションである。帰り道、傷心を覚王山のスタバで癒す。

●総持寺のチベット仏塔

 5月の連休、チベット・フェスティバルからの帰り電車をまっている時、仏像オタクのKくんがツイッターで総持寺の伊東忠太建築をまわったという記事を投稿していた。うらやましくなった私も翌日、総持寺駅におりたった。晴れてはいるがものすごい強風。地図をみると総持寺の広大な境内は駅近くなので、とりあえず適当に歩き出し、迷う。やっと境内に入り、後方にある墓地にはいると、K君からきいていたように、いきなり忠太のたてた田中家墓のチベット式仏塔が目に入る。これはすぐわかるから後にしよう。

 総持寺は伊東忠太の作品が多く、この田中新七墓(1925年?) 以外にも、浅野セメントの初代社長の墓林謙吉郎(1865-1920)の墓、何より伊東忠太の墓がある。これら田中、浅野、林らは当時関西で鉄道や東京でガス会社などを経営していた実業家たちである。

 北陸の曹洞宗の名刹、総持寺が全焼して、再建を断念して鶴見にうつってきたのは1911年のこと。総持寺の宝物館の館長さんによると、当時は鶴見の町をあげてお寺を大歓迎したそうである。まもなくしてこのような実業家たちの墓がたっているのもその歓迎っぷりを示している。しかし、この寺も覚王山と同じく、今は町からの人の流れがない。広大な境内に信徒の姿がない。寂しい。

  伊東忠太の墓はなかなかみつからずKくんに電話すると、「石原裕次郎のお墓のある通りをまっすぐ境内側に歩け」といわれ、やっと見つける。荒廃している。「このお墓の持ち主が分かる方は連絡ください」、的な看板がたっており、かなりヤバイ。15年くらい前の『東京人』の伊東忠太特集では伊東忠太の孫がインタビューされていたけど、あの人はいまどこにいるのだろう?。*(以下写真はすべてクリックするとおおきくなります)
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 最後に、楽しみにとっておいた、チベット式仏塔墓の田中新七墓にいく。近づいてみると仏塔の四面の一面ごとにチベット文字が二つずつきざまれている。反時計回りに一周してみるとオンマニペメフンとなった。チベットの観音真言である。そして残る正面にはShri m'aMと書いてある。ShrIは吉祥を意味するサンスクリット語、m'aMはそのままだと「母」。母音を表裏間違えて刻んでいたとするとmuM でお釈迦様の種字となる。このほかにも一面ごとに二つずつ花や傘のマークがあるが、これが純粋にチベット式なら八吉祥紋になるはずが、微妙に違う。なんともイラっとくるデザインであるが、このお墓ももう御世話をする人がいないのか伊東家のお墓と同じく管理者不在の立て看がたっている。
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仏教の衰勢はおおうべくもない。明治・大正期の実業家たちの墓もこうして維持管理が放棄されはじめている。伊東忠太の建築史上における業績が忘れ去られれば、このチベット仏塔墓も処分されてしまうかもしれない。歴史家がこまめに記録していかないと一度目の前から失われるとそれは無になってしまう。

●護国寺で伊東忠太

5月28日、今度は護国寺でフィールドをする。護国寺は伊東忠太のサポーターの一人大倉財閥の創始者大倉喜八郎夫妻の墓があるのだ。もちろんお墓は伊東忠太のデザインである。当時名のある人の墓は一人一墓、しかも巨大なものゴリゴリ立てることが流行っていた。寛永寺墓地で渋沢栄一の墓をみたときはその巨大さに驚いたものだ。しかし、伊東忠太は仏塔形式の墓に家族で一緒にはいることを推奨していた。

 忠太のたてた仏塔形式の建築物をリストアップすると以下のようになるが(リストは完璧ではない)、写真をみればわかるが大倉喜八郎の墓もふくめてなんとなく共通点がある。
1911 可睡斎護国塔(静岡)
1918 日泰寺舎利殿(名古屋市覚王山)
1920 林謙吉郎墓(総持寺)
1927 田中新七家墓(総持寺)
1928 大倉喜八郎墓(護国寺)
1931 中山法華経寺聖教殿(市川市)
1934 築地本願寺(築地)
1938 鮎川家墓(多磨霊園)
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忠太はこの手のエキゾチック仏塔をガンダーラ式とよんでいる。覆鉢部分はガンダーラ式曲線にみえるが、しかし、相輪部分(塔のトップ部分)はチベット仏塔に近い。以下の写真で、伊東のフィールドノートに記されたチベット式仏塔の相輪部とガンダーラ式仏塔の相輪部を比べてほしい。

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 とくに可睡斎の護国塔、日泰寺舎利殿、総持寺の田中家墓はかなりチベット仏塔よりである。中でも一番チベットそのままは田中家であろう。オンマニペメフンがサンスクリット文字ではなく、チベット文字で彫り込まれていることもチベット式に伊東がかなり精通していたことを示している。

 忠太はたくさんの建築を手がけたが、官公庁とかビルはてがけず、宗教建築(寺社墓)や政治家や実業家の邸宅を主に手がけていた。西洋建築には否定的で、神社をたてる時はちゃんと神社としてたて、和洋折衷の帝冠様式を嫌っていたそうだ。

 「じゃあ築地本願寺はなんであんなにエキゾチックなんだよ」と考えたあなた、あなたのお寺のイメージは日本のお寺ではありませんか? 忠太のたてるお寺や仏塔は、1900年前後に発掘などによって明らかになってきた紀元前後の初期仏教の精舎形式、仏塔形式なのである。仏教を日本仏教ばかりか、インドからガンダーラをとおって、中国、日本、東南アジアに展開する世界宗教ととしてとらえた結果、源流にもどるあのようなデザインなっているのだ。

 忠太は1902年から1905年まで、中国、雲南、ビルマ、インド、トルコなどをまわって建築調査を行い、その後も満洲で清朝皇帝の夏の離宮熱河の保護にあたっている。距離的にも近い、北京や満洲でみたチベット式の仏塔に影響を受けた作品が初期から昭和期まで存在するのもむべなるかなである。
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● 沖縄神社 由緒
マサムネ | URL | 2023/06/25(日) 16:01 [EDIT]
県民の熱烈な敬神崇祖の念から大正11年12月、県社沖縄神社創立の議が起った。祭神は県民に最も由縁の深い国祖 ・舜天王、又その後四百年間に功績のあった中興の国王・尚圓王及び本県の文化事業に貢献した英主・尚敬王、更に明治維新の 宏謨(こうぼ)によって県民の向うところを定めた最後の国主・尚泰王を主神として、報本反始(ほうほんはんし) の意から舜天王の父君・源爲朝公を配祀することとした。
 敷地は舜天王以来、七百年間本県政治の中心地であった首里城を選定し、大正12年3月31日創立を許可され、 創立奉賛会を組織し、県下一般より募金した。同年9月起工、同14年1月竣工、同15年10月20日県社に昇格した 同11月2日、神饌幣帛料を共進する神社に指定される。戦後有志により再建期成会を結成し、昭和37年より那覇市首里鳥堀町弁ケ嶽小嶽の市有地を賃借し境内地とし、小祠を設け祭祀を続けている。
【沖縄神社の創建】  明治42年(1909年)10月の県社及び町村社建立の議が起こった。明治 43年(1910)4月25日「県社・村社建設理由書」に祭神を正座・舜天王、脇座・源為朝、脇座・尚泰王の三神とし、同年9月10日付内務省神社局に照会したようだが、回答内容は不明。その後、明治45年(1912)2月12日、天皇 御即位50年記念祝典記念として沖縄県兵事課より県社創立案が提出されるも、明治天皇崩御により具体化せず中止とな った。(第1次県社創立事業)
大正12年(1923)3月31日、御祭神に舜天王・尚圓王・尚敬王・尚泰王を主神にし、源爲朝公を配祀とすることで内務省より沖縄神社創立許可を受け、創立奉賛会が組織された。大正12年9月、沖縄神社御造営に着工し、大正14年(1925)1月に竣工した。4次に亘る県社創立の大事業は、提案から16年を経て、遂に成就した。大正13年(1924)7月、伊東忠太・黒板勝美両氏、文化財調査のため来宮。大正14年4月24日、沖縄神社拝殿(首里城正殿)は、古社寺保存法に基づき特別保護建造物(国宝)に指定された。
 大正15年(1926)2月1日、沖縄神社奉賛会所有の沖縄神社敷地・本殿・拝殿(首里城正殿)・社務所(世誇御殿)・基本財産(現金五千円)を沖縄神社に移管することに決定し、首里市助役・高安玉兎氏に引継された。 同年10月8日、神社敷地として地目組替。10月20日、内務大臣より社格が県社に昇格せられた。(以後10月20日が例祭日となる)
 昭和20年(1945)5月12日、戦火とともに沖縄神社社殿は焼失したと 推定される。沖縄神社周辺一帯は、神社周辺の地下壕にあった旧日本軍沖縄司令部は5月28日南部(摩文仁)に転戦するまで、完膚なきまで米軍の砲火にさらされ壊滅した。

【戦後の沖縄神社】  戦後、昭和25年(1950)5月22日に琉球大学が首里城跡に開学。 昭和27年(1952)4月1日施行の米国民政府布告第16号により、地方自治体が所在者不明になっている神社仏閣の敷地を管理することとなり、沖縄神社境内地は首里市の管理するところとなる。なお、昭和29年(1954)9月1日、首里市は那覇市に吸収合併された。  昭和35年(1960)、首里文化部・首里市会議員・同各町有志による沖縄神社再建の議が起こり、首里城正殿から東方の境内地返還を琉球大学に要請するも拒否された。その理由は当該地を含む周辺地が昭和32年(1957)6月28日、那覇市より琉球大学用地として贈与されており、既に学校として使用されていた為であった。

 昭和36年(1961)(昭和37年2月11日建立説もあり)首里支所長又吉盛弘・首里各自治会長、鳥堀町や汀良町の有志・料亭小川が沖縄神社仮神殿を弁ヶ嶽入口の杜に建立した。
 昭和44年(1969)1月13日、沖縄神社復興期成会の総代・大城朝善は、那覇市と沖縄神社仮神殿境内地として市有地の賃貸借契約を締結した。
● 米沢有為会
マサムネ | URL | 2023/06/25(日) 16:04 [EDIT]
米沢有為会は、創立120年超の歴史を有する、米沢地方(置賜)の奨学育英、産業・文化振興と会員親睦を目的とした出身者、在住者による会員制・公益社団法人です。2013年7月より公益社団法人移行が認定され、さらなる当会の
公益事業や活動の充実へ向け、新たな会員を募集中です。
第19回文化大学は7月17日(日)東京興譲館(調布)で開催されました。
・演題;明治の建築家伊東忠太 オスマン帝国をゆく

・講師;ジラルデッリ青木美由紀(美術史家・イスタンブール工科大学)

当米沢有為会の創設者・伊東忠太の業績をトルコ調査中心に、トルコ在住の講師に語って頂きました。伊東忠太の孫・祐満氏や上杉名誉会長など多くのかたの参加を頂きました。
● 伊東忠太資料整備小委員会
マサムネ | URL | 2023/06/25(日) 16:11 [EDIT]
伊東忠太博士の自筆の貴重な資料がご遺族のところにあると、当時はまだ大学院生であった会員の何人かが、伊東忠太博士のご次男祐信さん(故人)・知恵子さんご夫妻の文京区音羽の家を訪ねるようになってから、すでに20年が過ぎようとしています。伊東忠太とその時代に興味を持つ学生はその頃から増え始め、音羽の伊東家を入れ替わり立ち代わり訪れるそうした学生たちを、いつも暖かく迎えて下さり、そして資料を快く見せて下さいました。
 伊東忠太博士が残された資料は、東京大学の研究室に残されたもの、ご自宅に残されたものなどがありましたが、主として日記やフィールドノート、葉書絵、未整理の写真など個人的な資料が、最終的に都内にあった次男の伊東祐信さんの家に保存されることとなりました。
 伊東祐信さん・知恵子さんご夫妻は、資料の整理を自らも続けてこられましたが、同時にこの貴重な資料をどのように将来的に保存していくかについて気遣っておられました。1994年に祐信氏が故人となられてからは、知恵子さんが祐信さんの遺志を継ぎ、伊東家に出入りしていた会員たちが相談を受けることとなりました。
 伊東忠太博士の資料の引き取り先としては、一般の図書館や資料館ということも考えられました。しかしそれよりも何よりも、伊東忠太博士が日本の建築学の発達に寄与された業績を考えると、日本建築学会以外にふさわしいところは考えられませんでした。1996年にまずは寄託というかたちで資料を学会に移管し、伊東忠太未公開資料特別研究委員会による研究活動が始まりました。
 伊東忠太未公開資料特別研究委員会は、1997年4月から2000年3月まで3年間の間、資料の目録整備、資料の特質及び資料的価値を明らかにすることを目的に活動を行い、研究成果を報告書にまとめました。
 そして2000年4月以降は、図書委員会傘下の伊東忠太資料整備小委員会と名称を変え、委員を拡充して活動を継続し、主として資料の保存・公開のための整備を中心に作業を進めてきました。一方、伊東家でも、伊東知恵子さんが中心となって、知恵子さんご子息の伊東祐満さんとそのご家族、また伊東忠太博士長男祐基氏(故人)のご長女淳子さんとそのご家族ら、伊東忠太博士のご遺族の間で正式な寄贈の手続きに向けて相談が行われ、2000年4月正式に資料がご遺族から学会に寄贈されました。その後、2002年度に建築博物館委員会が設置され、伊東忠太資料はその博物館の所蔵資料第一号となりました。2005年3月までの5年間、研究協議会や二回の展覧会を含む、様々な活動を行ってきました。本報告書はその活動の成果のまとめとなります。
 最後に、貴重な資料を日本建築学会へ寄贈された伊東家、および5年間の活動を支えていただいた学会事務局、そして報告書に寄稿してくださった委員各位に感謝申し上げます。今後、この伊東忠太資料がより幅広く活用されることを、願って止みません。

伊東忠太資料整備小委員会

(問い合わせ)
108-8414 東京都港区芝5-26-20 一般社団法人 日本建築学会
  ホームページ //www.aij.or.jp/
  Eメール   kaiin@aij.or.jp
  電話 03-3456-2055  FAX 03-3456-2058
 
● お孫さん伊東祐満
マサムネ | URL | 2023/06/25(日) 16:13 [EDIT]
https://www.facebook.com/sukemitsu.ito

2014年10月11日(土)
ギャラリートーク「民俗資料室ギャラリー展示(19) 承徳の民藝品 -伊東祐信・知恵子コレクション展-」
伊東コレクションの来歴とともに、それらが生まれた承徳の様子を当時の映像や写真とともに紹介します。

会期
2014年10月11日(土)
時間
13:00‐15:00
会場
武蔵野美術大学 美術館・図書館 美術館ホール

出演者
甲田洋二(本学学長)・伊東祐満(寄贈者)

参加費
無料

主催
武蔵野美術大学 美術館・図書館

お問い合わせ
武蔵野美術大学 美術館・図書館 民俗資料室
電話:042-342-6006
Eメール:m-l@musabi.ac.jp
● 合 祀
マサムネ | URL | 2023/06/28(水) 17:03 [EDIT]
安倍昭恵
@akie_official
茨城県下妻市にある宗任神社の合祀祭に参列。
安倍家のご先祖と言われている安倍宗任を祀っている神社です。
午後4:14 · 2023年5月15日
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宗任神社
鎮座地:〒304-0813 下妻市本宗道89
宮司名 :松本 秀勝
電話番号 :0296-43-5460
アクセス :関東鉄道常総線宗道駅より徒歩10 分国道に看板あり

安倍宗任公(あべむねとうこう)安倍 貞任公(あべさだとうこう)
江戸時代より子供の虫封じがさかん
【御由緒】平安時代後期に陸奥国でおこった 前九年の役(1051~61年)で源頼義の軍勢に敗れた安倍宗任公を祀った神社。
 縁起記に天仁2年、安倍氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により旧臣二十余名と共に公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地(旧黒の里)来往して鎮齊した。鎮座するにあたって宗任公の霊は、「天の道、人の道を 行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げる。以来この地は宗道となった。
 鎌倉時代には、豊田三十三郷幸嶋十二郷の総社として多くの人々から信仰され、地方の豪族小田氏治・豊田将基なども信仰した。江戸時代、三代将軍家光公よ り代々、朱印地五石を与えられる。本殿拝殿寛永年間に家光公より寄進。明治6年4月1日村社に列格。同12年村内大火のため類焼。同17年再建造営。同 42年5月20日(第238号)供進指定。昭和27年8月22日宗教法人設立。 銀杏又アラカシの大木、銀杏や欅、杉、樫などの樹木がしげり、アラカシの森として平成元年に茨城の自然百選に選ばれる
【祭礼】
1月11日 おめざめ祭・追儺祭
4月3日に近い手前の日曜日 神武祭 (天狗・山神・風神の三神が氏子各戸をお祓いして歩く)
小中学生夏休み最初の土・日の2日間 祇園祭
8月14日 霊神社例祭
8月15日 水無月祓
8月16日 輪くぐり祭・交通神社例祭
11月25日 例祭
12月30日 大祓・あとおねむり祭
● 感謝の気持ちを込めて
マサムネ | URL | 2023/07/07(金) 18:19 [EDIT]
産経新聞
ジャーナリスト・井上和彦

感謝の気持ちを込めて

令和4(2022)年9月24日、亡き安倍晋三元首相の銅像が建立された。日本ではない。台湾高雄市にある鳳山紅毛港保安堂という廟に建てられたのである。

その頃、日本では国葬を巡って心ない反対論まで出てくるありさまだった。ところがその国葬の3日前に台湾人有志の寄付で安倍元首相の等身大の銅像が台湾にお目見えしたのだった。

プレートには「安倍氏は日本の偉大な政治家であり、生前は台湾を全力で支持してくれた。この立派な人柄に、台湾人は感謝の気持ちを込めてこの銅像を製作した。(中略)安倍晋三元首相は永遠に世の人々の心に残るでしょう」と台湾語で表記されており、銅像の台座には「臺灣永遠的朋友」(台湾の永遠の友)という文字も刻まれている。

そして銅像の横には「加油台湾」(がんばれ台湾)という安倍元首相の揮毫(きごう)が刻まれた大きな石もある。2018年に起きた台湾東部の地震時に安倍元首相が贈った言葉だった。

そもそも、この保安堂は、大東亜戦争最中の昭和19(1944)年11月25日にバシー海峡で沈没した日本海軍の第38号哨戒艇が、艇長の高田又男大尉と共に祀(まつ)られている道教霊廟なのである。そんな日本との縁もあって、台湾でも敬愛された安倍元首相の銅像が、人々の哀悼の気持ちを込めて建立されたのだった。

台湾には、日本人や日本軍人が祀られている廟が点在する。

屛東県にある「東龍宮」には、明治期の田中綱常海軍少将が祀られている。

日本ではあまり知られていないが、田中少将は台北県知事や台湾総督府の民政事務官などを歴任し、台湾との縁が深い。

だがそれだけではない。田中少将は明治23(1890)年に起きたオスマン帝国(トルコ)軍艦エルトゥールル号の海難事故の生存者69人を、軍艦「比叡」でトルコまで送り届け、後にトルコ皇帝から勲章を授与された日本―トルコ友好の立役者の一人だった。廟の1階は田中少将の軍歴とエルトゥールル号海難事故に関する展示館となっている。

語り継がれていること
台湾、トルコでその功績が讃(たた)えられた田中少将―その存在が日本ではほとんど知られていないことが残念でならない。実はこの東龍宮には、第3代台湾総督を務めた乃木希典大将、領台前の台湾出兵で戦死した最初の日本兵となった北川直征伍長、さらに2人の日本人従軍看護婦が祀られていることも添えておきたい。

そして台南の「飛虎将軍廟」には、昭和19年に米軍機との空中戦で戦死した零戦パイロットの杉浦茂峰飛行兵曹長が祀られている。杉浦兵曹長が祭神として祀られるようになった経緯には諸説あるが、この廟では「君が代」や「海ゆかば」が歌われ、日本人参拝者も訪れている。

このように台湾では日本軍人に対する感情は好意的だ。そうしたことから日本軍人の顕彰や慰霊が今も続いているのである。

そして現在、台湾最南端の恒春(屛東県)で日本軍将兵の遺骨収容のための調査を続けている日本人女性がいる。栃木県出身の舘量子(たち・かずこ)さん(40)だ。

語り継がれてゆくこと
舘さんは大学時代にゼミ研修で台湾を訪れたとき台湾人元日本兵に出会い、彼らが日本軍人であったことを誇りに思っている話を聞かされて衝撃を受けた。その後、彼らと同じ経験をしようと陸上自衛隊に入隊した。

任期満了後、そのときの台湾人元日本兵に会って本当の日本の歴史を学ぶために再び渡台した。台湾で日本語教師をしながら、バシー海峡で戦死した兵士の遺骨収容に身を投じることを決意したのである。舘さんは一人で、当時を知る地元の年配者から、バシー海峡から流れ着いた日本兵が埋葬された場所を聞いて回り、埋葬場所を特定する調査を続けている。

女性一人で活動してまわることに苦労も多かった。だがやがてその地道な活動は台湾の人々に知られるようになり、地元紙でも大きく取り上げられた。

令和元(2019)年12月、舘さんのもとに、厚生労働省が沈没した艦艇などに残る「海没遺骨」の収容を行うことになったというニュースが飛び込んできた。そして知人から、どうやらそれは当時の安倍首相の強い働きかけによるものだと聞かされたのだった。

翌2020年8月15日、自衛官時代にラッパ手だった舘さんは、日本兵が埋葬されている場所でラッパを手にバシー海峡に向かって「葬送の譜」を吹奏した。たった一人の慰霊祭だった。

親愛の情をもって台湾に手を差し伸べ、バシー海峡をはじめ海没遺骨の収容にも心を砕いた安倍晋三元首相は、これからも偉大な政治家として台湾で語り継がれてゆくことだろう。(いのうえ かずひこ)

安倍昭恵さん、7月に台湾訪問へ 安倍元首相の銅像がある廟など視察予定5/9(火)
東京中央社)安倍晋三元首相の妻、昭恵さんは8日、台湾メディアの取材に対し、7月17日から3日間台湾を訪問する予定だと明らかにした。

北部・台北には行かず、南部の台南と高雄を訪問するという。高雄では安倍元首相の銅像が設置された廟、紅毛港保安堂に足を運ぶとしている。

昭恵さんはこの日、東京で行われた台湾フィルハーモニック(国家交響楽団、NSO)の公演を鑑賞。鑑賞後には今年2月に日本で出版された「安倍晋三回顧録」を台北駐日経済文化代表処の謝長廷(しゃちょうてい)代表(大使に相当)と李登輝(りとうき)元総統の次女で李登輝基金会の李安妮(りあんじ)董事長(会長)に手渡した。安妮さんは訪台を楽しみにしていると語った。

(楊明珠/編集:齊藤啓介)
● これ、ホントにやばいです
海野勇 | URL | 2023/07/18(火) 21:24 [EDIT]
>「このお墓の持ち主が分かる方は連絡ください」、的な看板

これは無縁墓になっているという「公知」で、お寺はこの看板たてるのと同時に、「官報にも公知」手続きをしているはず。お寺は、法律的には、1年間の公知ののち、このお墓を「無縁墓」として撤去が可能になります。
● マルチレス
シラユキ | URL | 2023/07/19(水) 21:08 [EDIT]
>マサムネさん
伊東忠太は首里城の調査とかもしていて、彼の建築にひっついているユーモラスな動物はシーサーとかの影響もあるかもしれません。沖縄は岡本太郎とかいろいろな人に影響を与えていますね。あと、伊東忠太の遺品が日本建築学会に保存されたのは本当によかったと思います。

>海野さん
いくらなんでも総持寺もあの有名な伊東忠太の墓を軽々に撤去はしないと思いますが、田中さんの墓は危ないかもしれません。
● このエントリーを見れば・・
海野勇 | URL | 2023/07/24(月) 17:43 [EDIT]
総持寺さんは、「伊東忠太造仏塔形式建築物群」リストの8件のうちみっつもご自分の境内にある、ということは把握しているのでしょうか。

このエントリーをお寺さんにみてもらえれば、田中家のお墓が「単なる無縁墓として撤去」されてしまうことを、防げるかも・・。

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