新刊の紹介とチベット・フェスティバルのお知らせ
研究書も一般書もいままでいろいろだしてきたが、今回は通史であり、かつまた中公新書であることから感動もひとしおです。歴史家にとって研究対象の通史を書くのは夢である(失敗すれば悪夢だが)。また、 学生時代から中公新書を愛読し、「いつかはここから自分の本がだせたらなあ」が現実になったことも嬉しい。運を使い果たして明日死ぬかもしれん。
クロード・ルヴァンソンが「チベット人の生き方は、チベット問題に携わった者に、目に見えない印章で永遠の刻印を残す」(文庫クセジュ『チベット』p.124)と奇しくもいったように、チベットは私にとって研究対象以上の生き方を変える力をもつものであった。愛と知恵を育むチベットの精神文化は人類の未来にとってなくてはならない。本書がチベットの消滅を防ぐための防波堤のテトラポッドの一つになれればこんな嬉しいことはない。
本書後半の記述はブログ主の最新の研究が反映しており、唯一無二です。チベットに興味のある方も、これから興味をもたれる方もどうかお手にとってご覧ください。
●チベットフェスティバル 2023 講演のお知らせ
2023年5月3日(水)- 4日(木)にかけて築地本願寺で行われるチベット・フェスティバルの開会式で『チベットと出会った本願寺僧たち 青木文教・多田等観をはじめとして』という演題で講演します。ご興味のある方どうぞ。↓クリックすると拡大します

演題:『チベットと出会った本願寺僧たち 青木文教・多田等観をはじめとして』
日時:5月3日 10:30 〜12:00 ※チベット・ハウス代表の開会の挨拶の後です。
場所:築地本願寺 〒104-8435 東京都中央区築地3-15-1
問い合わせ先:E-mail:tibethouse.jp@tibet.net TEL:03-5988-3576
ポタラ・カレッジのソナム先生、クンチョク先生の仏教講座、チベットの地で比丘となったテンジン・ケンツェさんの講演もあります。他にも物販、軽食などの出店もあり、ライブもあります。
詳しくはこのサイトでご覧ください。
COMMENT
● 今こそ「シベリア出兵」の再評価を 「尼港事件」で流刑のポーランド人孤児らを救った日本軍 「緑ウクライナ」の建国では独立を支援
マースレニツァ | URL | 2023/05/07(日) 09:50 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2023/05/07(日) 09:50 [EDIT]
学校の歴史授業では、第一次世界大戦(1914~18年=大正3~7年)の連合国(英国とフランス、米国、日本など)が、18(同7)年から22(同11)年に行った「シベリア出兵」は、ロシアの共産主義革命(17~23年=同6~12年)に対する干渉戦争と教えられたはずだ。
だが、ロシア革命の実相は血なまぐさい権力闘争であり、各国はこの危険なイデオロギーが自国に波及することを恐れてロシアに出兵した。
第一次世界大戦でロシアは連合軍の一員だったが、ロシア革命のために戦争継続を放棄して敵国ドイツら同盟国側と単独で講和(ブレスト=リトフスク条約)して戦線離脱した。これでドイツは全戦力を西方に集中させることができた。英仏など連合軍は頭を抱えた。ロシアの状況を大転換させるには、ロシア国内の反革命勢力を支援するほかない。そのロシア内戦への介入の糸口が、極東でとらわれの身となっている「チェコ軍団救出」だった。こうして、日本と英国、フランス、米国、イタリア、カナダ、中華民国がロシアに派兵した。
第一次世界大戦が続くなか、英仏は欧州方面でドイツとの戦いに兵力を割かれており、余力があるのは欧州に陸軍を派遣していない日本だけだった。そこで、日本は約7万3000人も派兵して、シベリア各地で赤軍やパルチザンと戦ったのである。そんな最中の18年11月、第一次大戦が終結した。これを機に各国はロシアから兵を引いたが、日本軍は残留した。赤化ロシアの隣国であった日本は、危険な共産主義思想が伝播してくることを、どこの国よりも恐れたのだった。
そこへ尼港事件(20=同9=年3月12日)が起きた。
アムール川河口のニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが居留民を襲い、日本人731人を含む外国人居留民、および白系ロシア人など約6000人を虐殺したのである。この事件は、日本のシベリア出兵を長引かせる要因となった。だが、結果的に、そのことによって日本軍は、赤軍の残虐行為によって親を失ったポーランド人孤児をシベリア各地で救助し、最終的に765人の児童を日本に運んで養護して本国へ送り帰すことができた。ロシアによって政治犯としてシベリアに流刑されたポーランド人の孤児らを日本が救ったのである。
さて、「緑ウクライナ」という国をご存じだろうか。
ロシア革命がおきるや、シベリアに居留していたウクライナ人がロシア極東に緑ウクライナ(極東ウクライナ共和国)を建国する計画が持ち上がった。その後、ボルシェビキが日本との緩衝国家として「極東共和国」を建国すると、ウクライナ人はこれに組み込まれることを嫌って、独自に「緑ウクライナ」の建国を企図した。18(同7)年2月、ハバロフスクで開かれた全ウクライナ極東会議にて、遠く離れたウクライナの一部であることが宣言され、以後、独自の軍隊を持つまでになった。そうなると緑ウクライナの建国は日本の国益にもかなう。
神戸学院大学の岡部芳彦教授によれば、だからこそ日本軍がその独立を支援していたという。だが、22(同11)年にソビエト連邦が誕生するに至って、「ウクライナ人の独立国家建設」の夢は潰(つい)えたのだった。ウクライナ人政治学者のグレンコ・アンドリー氏は「もう少し、日本軍が頑張ってくれていたら、緑ウクライナという国が誕生して、極東はロシアから分離できていたはず」と語っている。
今、シベリア出兵の再評価が必要ではないだろうか。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」受賞。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『日本が感謝された日英同盟』(同)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)など多数。
だが、ロシア革命の実相は血なまぐさい権力闘争であり、各国はこの危険なイデオロギーが自国に波及することを恐れてロシアに出兵した。
第一次世界大戦でロシアは連合軍の一員だったが、ロシア革命のために戦争継続を放棄して敵国ドイツら同盟国側と単独で講和(ブレスト=リトフスク条約)して戦線離脱した。これでドイツは全戦力を西方に集中させることができた。英仏など連合軍は頭を抱えた。ロシアの状況を大転換させるには、ロシア国内の反革命勢力を支援するほかない。そのロシア内戦への介入の糸口が、極東でとらわれの身となっている「チェコ軍団救出」だった。こうして、日本と英国、フランス、米国、イタリア、カナダ、中華民国がロシアに派兵した。
第一次世界大戦が続くなか、英仏は欧州方面でドイツとの戦いに兵力を割かれており、余力があるのは欧州に陸軍を派遣していない日本だけだった。そこで、日本は約7万3000人も派兵して、シベリア各地で赤軍やパルチザンと戦ったのである。そんな最中の18年11月、第一次大戦が終結した。これを機に各国はロシアから兵を引いたが、日本軍は残留した。赤化ロシアの隣国であった日本は、危険な共産主義思想が伝播してくることを、どこの国よりも恐れたのだった。
そこへ尼港事件(20=同9=年3月12日)が起きた。
アムール川河口のニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが居留民を襲い、日本人731人を含む外国人居留民、および白系ロシア人など約6000人を虐殺したのである。この事件は、日本のシベリア出兵を長引かせる要因となった。だが、結果的に、そのことによって日本軍は、赤軍の残虐行為によって親を失ったポーランド人孤児をシベリア各地で救助し、最終的に765人の児童を日本に運んで養護して本国へ送り帰すことができた。ロシアによって政治犯としてシベリアに流刑されたポーランド人の孤児らを日本が救ったのである。
さて、「緑ウクライナ」という国をご存じだろうか。
ロシア革命がおきるや、シベリアに居留していたウクライナ人がロシア極東に緑ウクライナ(極東ウクライナ共和国)を建国する計画が持ち上がった。その後、ボルシェビキが日本との緩衝国家として「極東共和国」を建国すると、ウクライナ人はこれに組み込まれることを嫌って、独自に「緑ウクライナ」の建国を企図した。18(同7)年2月、ハバロフスクで開かれた全ウクライナ極東会議にて、遠く離れたウクライナの一部であることが宣言され、以後、独自の軍隊を持つまでになった。そうなると緑ウクライナの建国は日本の国益にもかなう。
神戸学院大学の岡部芳彦教授によれば、だからこそ日本軍がその独立を支援していたという。だが、22(同11)年にソビエト連邦が誕生するに至って、「ウクライナ人の独立国家建設」の夢は潰(つい)えたのだった。ウクライナ人政治学者のグレンコ・アンドリー氏は「もう少し、日本軍が頑張ってくれていたら、緑ウクライナという国が誕生して、極東はロシアから分離できていたはず」と語っている。
今、シベリア出兵の再評価が必要ではないだろうか。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」受賞。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『日本が感謝された日英同盟』(同)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)など多数。
● 明治期にチベット入りした探検家、矢島保治郎(群馬・伊勢崎市出身)の足跡に光_谷川岳山岳資料館が企画展2023/5/2
マサムネ | URL | 2023/05/11(木) 13:39 [EDIT]
マサムネ | URL | 2023/05/11(木) 13:39 [EDIT]
外国人として明治後期に初めて中国四川省を通り、チベットに入った群馬県伊勢崎市出身の探検家、矢島保治郎の足跡を振り返る企画展が1日、みなかみ町の谷川岳山岳資料館で始まった。今年は保治郎の没後60年に当たり、関係者から写真や書簡などの資料を借りて企画展を開いた。8月31日まで。
エベレスト登頂などを果たした同館の八木原圀明館長(76)=前橋市=が、ヒマラヤ登山に情熱を傾けていた40年ほど前に上毛新聞の記事で保治郎を知った。「自分と同じような冒険心あふれる人」と興味を抱き、資料を収集してきた。
保治郎は生涯で2度、チベット入りし計約6年半滞在した。チベット仏教の最高指導者、ダライラマ13世に信頼され軍事面の指導をしたとされる。現地の女性、ノブラーと結婚。長男の意志信(いしのぶ)を授かった。3人で帰国後は前橋で暮らした。
会場には、軍装の保治郎や意志信を抱くノブラーと保治郎といった写真約30点と、保治郎が1回目のチベット訪問後、帰国する船の中で描いたと見られる自画像(複製)を展示。保治郎の生涯が書かれた本など、チベット関連の200冊超の書籍や八木原さんが収集した仏具類が並んでいる。
八木原さんは「保治郎の滞在したチベットの最大都市、ラサは標高3600メートルほどで、当時は登山技術も装備も十分ではなかった。展示を通して、若い人が挑戦や冒険について考えるきっかけになればうれしい」と話している。
午前9時半~午後4時半。無休。入場無料。問い合わせは同館(☎0278-72-6446)へ。
矢島保治郎 1882(明治15)~1963(昭和38)年。殖蓮村(現伊勢崎市)出身で、11(明治44)年、鎖国状態だったチベットに、中国四川省ルートから外国人として初めて入った。測量や軍事訓練などを指導したとされる。
エベレスト登頂などを果たした同館の八木原圀明館長(76)=前橋市=が、ヒマラヤ登山に情熱を傾けていた40年ほど前に上毛新聞の記事で保治郎を知った。「自分と同じような冒険心あふれる人」と興味を抱き、資料を収集してきた。
保治郎は生涯で2度、チベット入りし計約6年半滞在した。チベット仏教の最高指導者、ダライラマ13世に信頼され軍事面の指導をしたとされる。現地の女性、ノブラーと結婚。長男の意志信(いしのぶ)を授かった。3人で帰国後は前橋で暮らした。
会場には、軍装の保治郎や意志信を抱くノブラーと保治郎といった写真約30点と、保治郎が1回目のチベット訪問後、帰国する船の中で描いたと見られる自画像(複製)を展示。保治郎の生涯が書かれた本など、チベット関連の200冊超の書籍や八木原さんが収集した仏具類が並んでいる。
八木原さんは「保治郎の滞在したチベットの最大都市、ラサは標高3600メートルほどで、当時は登山技術も装備も十分ではなかった。展示を通して、若い人が挑戦や冒険について考えるきっかけになればうれしい」と話している。
午前9時半~午後4時半。無休。入場無料。問い合わせは同館(☎0278-72-6446)へ。
矢島保治郎 1882(明治15)~1963(昭和38)年。殖蓮村(現伊勢崎市)出身で、11(明治44)年、鎖国状態だったチベットに、中国四川省ルートから外国人として初めて入った。測量や軍事訓練などを指導したとされる。
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