円覚寺中興の背景にある近代ナショナリズム
博多湾の元寇(げんこう)遺跡群が、幕末から明治にかけてもりあがった「神風よ、もう一度」的な近代ナショナリズムの下に再評価されていたことを、かつてブログに書いた。今回は元寇時に政権担当者であった北条時宗ゆかりの円覚寺を訪い、近代ナショナリズムの聖地ではないか? という視点から歩いてみた。結論から先に言うと、案の定境内には日露戦争前後からの「神風よもう一度」の痕跡が多数みいだされた。

そもそも、円覚寺に興味をもったきっかけは、『花田仲之介先生の生涯』である。花田仲之助は日露戦争時に馬賊を率いてロシア軍の後方攪乱をしたことで有名で、日露戦争直前には西本願寺の僧侶に化けてウラジオストックに潜入していた。潜入中、花田は清水松月と名乗り、土地の日本人コミニュティー(といっても女郎屋やばくち打ち)に仏教を説法し、軍関係者が訪れても「私はもう坊主で結構です」とスパイ業を廃業したかのようにふるまっていた。しかし、1904年日本とロシアが開戦するや、乞食坊主の衣をぬぎすて軍服に着替え馬賊を率いた。「敵を欺くにはまず味方から」を地で行ったのである。ちなみに1901年に河口慧海についでチベット入りした成田安輝は、この花田仲之助と同郷で、成田は花田に促されてアメリカから帰国し、その後チベット潜入の特別任務についた。
この花田は、日清・日露戦争に先立つ1892(明治25)年、円覚寺の禅仲間とともに励精会を結成している。この禅仲間のメンツは錚々たるもので、日露戦争で遼西義軍を率いた同郷の橋口勇馬(1862-1918)、後に総理となる平沼騏一郎 (1867-1952)、澤柳政太郎(1865-1927)、早川千吉郎(1863-1922)、北条時敬(1858-1929)、根津一(1860-1927)、神尾光臣(1855-1927) 、与倉喜平(1868-1919) である(残りはwikipediaで確認してw)。
花田が励精会を結成した1892年は明治9年から円覚寺の管長をつとめていた今北洪川がなくなり、弱冠34歳の釈宗演が住職の座をついだ年であった。この釈宗演は当時の僧侶としては珍しく慶應義塾大学に入学し、仏教を学びにセイロンに留学し、明治26年にはシカゴ宗教万博に参加し日本仏教の評価をあげ、彼がアメリカにおくった鈴木大拙が禅を世界のZenにまで普及させた。これらの事蹟から、彼が円覚寺中興の祖とあがめられるのもむべなるかなである。
日本史に疎い私はそれまでの円覚寺のイメージは「北鎌倉の駅から一番近い寺」「鈴木大拙?」くらいであったが(ひどい)、調べたらこのお寺、北条時宗が元寇の際に戦没した人々を敵味方なく弔うために建てた寺であり、34歳でなくなった時宗自身の墓所でもあった(写真は彼の遺体の上に立てられた仏日庵の中にある時宗像)。つまり、円覚寺とは、外国からの暴力を奇跡的な「神風」によって切り抜けたあの鎌倉時代を想起させる格好の場なのである。

なのでその線で調べてみると、明治天皇の后である昭憲皇太后も、「讐(あだ)なみは ふたたびよせず なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに」という歌をよせているし、日露戦争勃発の年には明治政府は北条時宗に従一位を追贈している(もともとは従四位)。境内には神風特攻でなくなった方の慰霊碑「呑龍地蔵大菩薩」も祀られており、博多の元寇遺跡と同じく、円覚寺の再興には近代ナショナリズムの勃興が作用していた痕跡はいたるところにあった。

円覚寺を訪れた日は関東に雪が舞った翌日であった。当初のプランでは、歴史散歩ということでまず金沢文庫駅で待ち合わせをし、称名寺で鎌倉文化をみたあと、中世古道の朝比奈切り通しを歩きでこえて円覚寺にいく予定であった。しかし,いきなり人身事故で金沢文庫と能見台駅間京急が運転見合わせとの報が入り、仕方なく集合地点を北鎌倉に切り替えた。結果円覚寺周辺をゆっくり回ることができたので、このあたりに天の配剤を感じる。
明治維新を境に幕府の庇護を失った日本の出家集団は縮小し、必然的に在家仏教に力を入れざるを得ず、円覚寺も明治に入ると在家の仏教者(居士)の参禅を積極的にうけいれ始めた。たとえば、1894年には夏目漱石も円覚寺内の帰禅院で参禅している。
円覚寺が明治・大正期・昭和初期の知識人・文化人のサロンでもあったことは夙に指摘されてきた。円覚寺の近郊にある東慶寺の墓地にはゆかりの知識人がねむっている(東慶寺のトップは1905年に円覚寺の住職である釈宗演が兼任している)。墓地は本堂を通り過ぎた谷戸の奥の斜面にあり晴天の日でも薄暗い冥界の雰囲気をもつ場である。お墓はだいたい五輪塔で、小林秀雄など著名人のお墓であっても、墓標を見なければ墓主が分からない。有名どころとしては鈴木大拙・西田幾多郎(この二人同郷)、岩波茂雄(夏目漱石の弟子で岩波書店の創業者)、和辻哲郎(帝大で美学教えていた『古寺巡礼』の著者)などの墓が同区画に並び、円覚寺の住職であった釈宗演・井上禅定らも別区画にともに眠っている。
学生たちと薄暗い墓所をあがっていくと、一番奥に自然石でできた苔むした碑文が見えた。何となく興味を引かれてすいよせられていくと、「向陵塚」という三文字が記されている。由来を記した石版を読み進めてびっくり。これ一高の墓である。奇しくも同行していたゼミ生のAちゃんは、一高文化が好きで日比谷高校文化について卒論を書いていたため、二人で苔むした碑文を読み上げる。ネットでは誰も記録していないようなので以下に全文を記す(句読点は私がつけた)。

向陵塚由来
我等が、ここに向陵塚を建立したのは、その昔
向陵の地に寝食を共にして、学を修め、友情を温
めた第一高等学校同窓生の魂の落着き所として
永く後世に残そうとするものであります。
第一高等学校(通商「一高」)は、明治八年東京英語
学校として創立され、同十年東京大学預備門と
改称、更に同十九年第一高等中学校となり、同二
十七年第一高等学校としてその輝しい歴史を
繰り広げ、戦後昭和二十五年学制改革により終
焉となりました
この間明治二十三年本郷向が丘(故に我等は
「向陵」と呼ぶ)の地に校舎の外に寄宿寮を設け、全
寮制の下に切磋琢磨し幾多の人材を世に送り
ました
柏葉と橄欖をあしらった校章、二本の白線の
帽子は、時の世に有名で毎春行われた紀念祭や
紀念祭毎に生徒達によって作られた寮歌は、満
天下を風靡?しました。寮歌のうちでも「嗚呼玉
杯に花うけて」「春爛漫の花の色」「アムール川の流
血や」等現代でもよく唱われている歌が多々あ
ります
今はなき第一高等学校の同窓生が、ありし日の
良き寮生活に育まれた智恵と正義(まことょと
友情の絆をいとおしみ、永く我等の魂をともど
も止めんとした所以はかくの如くであります
昭和五十二年五月
向陵塚建立世話人会
この「アムール川の流血や」という寮歌は1900年の義和団事件の折、ブラゴヴェシチェンスク市のコサック隊が中国人市民3000人を虐殺してアムール川に投げ込んだ事件を受けて作られたものである。その酸鼻極まりない光景は、現場にいあわせたスパイ石光真清が『石光真清の手記』で記している(この手記は花田仲之助の僧侶時代の話も詳しいw)。石光はこの事件でロシアの脅威を肌で感じ、参謀本部の出資でハルピンで写真館を開き、シベリア鉄道沿いのロシアの動向について情報収集に努めることになる。
ちなみに、石光はその後すぐ日露戦争に召集され、戦場でばったり軍人にもどった花田仲之助と再会する。日露戦争直後の1906年にはチベット・モンゴルから戻った成田安輝ともばったり大陸の草河口であっている(成田と石光は同じ薩摩出身で陸軍幼年学校で一緒だったので互いの素性をしっていた。成田は成績不良で落ちこぼれてエリート軍人になりそこなっていたけど)。
向陵塚は先ほどの呑龍大菩薩と同じ年、時の円覚寺の住職井上禅定師の時代に建立されている。敗戦とともに日本の空気はがらっと代わり、戦中の青春を美化することはできなくなり、そのうちどんどん同じ時代を知る人がいなくなっていく。この二つの記念碑からは生存者たちの寂寞がつたわってくる。苔むした名刺入れをみながら、「最後の一高生がここで寮歌うたったのはいつのことだろう」と感傷に浸たる(2007年に永代供養にきりかわっているのでその時かも)。
日比谷高校文化で卒論を書いたゼミ生のAちゃんは「先生、一高のお墓につれてきてくれてありがとうございました」と喜んでいるので、ここで「今日みるべきものは見たな」とつきものが落ちたような気分になり、家路についた。思えば出だしに人身事故がなければ、この墓地をゆっくりまわる時間もなかったので、くるべくしてこの塚の前に私とAちゃんはたったのであろう。
近代にはいった日本は外国からの脅威を強く感じ、駆り立てられるように戦争を拡大し続けた。その戦いはつねにきついものであったため、ことあるごとに元寇の時と同じく「神風」が待望された。博多や円覚寺などの元寇遺跡はその過程で注目をあび、新旧のナショナリズムが時代をこえて一体化した場へと昇華したのである。
最後にアムール川の流血の歌詞をwiki からコピペしておく。当時の東アジア情勢の不穏と一高の自治の精神が伝わってくる歌詞である。
一、
アムール川の流血や
凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ
二、
コサック兵の剣戟(けんげき)や
怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は
荒波海に立ちさわぐ
三、
満清(まんしん)すでに力つき
末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
仰ぐはひとり日東(にっとう)の
名もかんばしき秋津島
四、
桜の匂い衰えて
皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ
沈滞ここに幾春秋
五、
向が丘の健男児
虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ
自治寮たてて十一年
六、
世紀新たに来れども
北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて
自治の本領あらわさん

そもそも、円覚寺に興味をもったきっかけは、『花田仲之介先生の生涯』である。花田仲之助は日露戦争時に馬賊を率いてロシア軍の後方攪乱をしたことで有名で、日露戦争直前には西本願寺の僧侶に化けてウラジオストックに潜入していた。潜入中、花田は清水松月と名乗り、土地の日本人コミニュティー(といっても女郎屋やばくち打ち)に仏教を説法し、軍関係者が訪れても「私はもう坊主で結構です」とスパイ業を廃業したかのようにふるまっていた。しかし、1904年日本とロシアが開戦するや、乞食坊主の衣をぬぎすて軍服に着替え馬賊を率いた。「敵を欺くにはまず味方から」を地で行ったのである。ちなみに1901年に河口慧海についでチベット入りした成田安輝は、この花田仲之助と同郷で、成田は花田に促されてアメリカから帰国し、その後チベット潜入の特別任務についた。
この花田は、日清・日露戦争に先立つ1892(明治25)年、円覚寺の禅仲間とともに励精会を結成している。この禅仲間のメンツは錚々たるもので、日露戦争で遼西義軍を率いた同郷の橋口勇馬(1862-1918)、後に総理となる平沼騏一郎 (1867-1952)、澤柳政太郎(1865-1927)、早川千吉郎(1863-1922)、北条時敬(1858-1929)、根津一(1860-1927)、神尾光臣(1855-1927) 、与倉喜平(1868-1919) である(残りはwikipediaで確認してw)。
花田が励精会を結成した1892年は明治9年から円覚寺の管長をつとめていた今北洪川がなくなり、弱冠34歳の釈宗演が住職の座をついだ年であった。この釈宗演は当時の僧侶としては珍しく慶應義塾大学に入学し、仏教を学びにセイロンに留学し、明治26年にはシカゴ宗教万博に参加し日本仏教の評価をあげ、彼がアメリカにおくった鈴木大拙が禅を世界のZenにまで普及させた。これらの事蹟から、彼が円覚寺中興の祖とあがめられるのもむべなるかなである。
日本史に疎い私はそれまでの円覚寺のイメージは「北鎌倉の駅から一番近い寺」「鈴木大拙?」くらいであったが(ひどい)、調べたらこのお寺、北条時宗が元寇の際に戦没した人々を敵味方なく弔うために建てた寺であり、34歳でなくなった時宗自身の墓所でもあった(写真は彼の遺体の上に立てられた仏日庵の中にある時宗像)。つまり、円覚寺とは、外国からの暴力を奇跡的な「神風」によって切り抜けたあの鎌倉時代を想起させる格好の場なのである。

なのでその線で調べてみると、明治天皇の后である昭憲皇太后も、「讐(あだ)なみは ふたたびよせず なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに」という歌をよせているし、日露戦争勃発の年には明治政府は北条時宗に従一位を追贈している(もともとは従四位)。境内には神風特攻でなくなった方の慰霊碑「呑龍地蔵大菩薩」も祀られており、博多の元寇遺跡と同じく、円覚寺の再興には近代ナショナリズムの勃興が作用していた痕跡はいたるところにあった。

円覚寺を訪れた日は関東に雪が舞った翌日であった。当初のプランでは、歴史散歩ということでまず金沢文庫駅で待ち合わせをし、称名寺で鎌倉文化をみたあと、中世古道の朝比奈切り通しを歩きでこえて円覚寺にいく予定であった。しかし,いきなり人身事故で金沢文庫と能見台駅間京急が運転見合わせとの報が入り、仕方なく集合地点を北鎌倉に切り替えた。結果円覚寺周辺をゆっくり回ることができたので、このあたりに天の配剤を感じる。
明治維新を境に幕府の庇護を失った日本の出家集団は縮小し、必然的に在家仏教に力を入れざるを得ず、円覚寺も明治に入ると在家の仏教者(居士)の参禅を積極的にうけいれ始めた。たとえば、1894年には夏目漱石も円覚寺内の帰禅院で参禅している。
円覚寺が明治・大正期・昭和初期の知識人・文化人のサロンでもあったことは夙に指摘されてきた。円覚寺の近郊にある東慶寺の墓地にはゆかりの知識人がねむっている(東慶寺のトップは1905年に円覚寺の住職である釈宗演が兼任している)。墓地は本堂を通り過ぎた谷戸の奥の斜面にあり晴天の日でも薄暗い冥界の雰囲気をもつ場である。お墓はだいたい五輪塔で、小林秀雄など著名人のお墓であっても、墓標を見なければ墓主が分からない。有名どころとしては鈴木大拙・西田幾多郎(この二人同郷)、岩波茂雄(夏目漱石の弟子で岩波書店の創業者)、和辻哲郎(帝大で美学教えていた『古寺巡礼』の著者)などの墓が同区画に並び、円覚寺の住職であった釈宗演・井上禅定らも別区画にともに眠っている。
学生たちと薄暗い墓所をあがっていくと、一番奥に自然石でできた苔むした碑文が見えた。何となく興味を引かれてすいよせられていくと、「向陵塚」という三文字が記されている。由来を記した石版を読み進めてびっくり。これ一高の墓である。奇しくも同行していたゼミ生のAちゃんは、一高文化が好きで日比谷高校文化について卒論を書いていたため、二人で苔むした碑文を読み上げる。ネットでは誰も記録していないようなので以下に全文を記す(句読点は私がつけた)。

向陵塚由来
我等が、ここに向陵塚を建立したのは、その昔
向陵の地に寝食を共にして、学を修め、友情を温
めた第一高等学校同窓生の魂の落着き所として
永く後世に残そうとするものであります。
第一高等学校(通商「一高」)は、明治八年東京英語
学校として創立され、同十年東京大学預備門と
改称、更に同十九年第一高等中学校となり、同二
十七年第一高等学校としてその輝しい歴史を
繰り広げ、戦後昭和二十五年学制改革により終
焉となりました
この間明治二十三年本郷向が丘(故に我等は
「向陵」と呼ぶ)の地に校舎の外に寄宿寮を設け、全
寮制の下に切磋琢磨し幾多の人材を世に送り
ました
柏葉と橄欖をあしらった校章、二本の白線の
帽子は、時の世に有名で毎春行われた紀念祭や
紀念祭毎に生徒達によって作られた寮歌は、満
天下を風靡?しました。寮歌のうちでも「嗚呼玉
杯に花うけて」「春爛漫の花の色」「アムール川の流
血や」等現代でもよく唱われている歌が多々あ
ります
今はなき第一高等学校の同窓生が、ありし日の
良き寮生活に育まれた智恵と正義(まことょと
友情の絆をいとおしみ、永く我等の魂をともど
も止めんとした所以はかくの如くであります
昭和五十二年五月
向陵塚建立世話人会
この「アムール川の流血や」という寮歌は1900年の義和団事件の折、ブラゴヴェシチェンスク市のコサック隊が中国人市民3000人を虐殺してアムール川に投げ込んだ事件を受けて作られたものである。その酸鼻極まりない光景は、現場にいあわせたスパイ石光真清が『石光真清の手記』で記している(この手記は花田仲之助の僧侶時代の話も詳しいw)。石光はこの事件でロシアの脅威を肌で感じ、参謀本部の出資でハルピンで写真館を開き、シベリア鉄道沿いのロシアの動向について情報収集に努めることになる。
ちなみに、石光はその後すぐ日露戦争に召集され、戦場でばったり軍人にもどった花田仲之助と再会する。日露戦争直後の1906年にはチベット・モンゴルから戻った成田安輝ともばったり大陸の草河口であっている(成田と石光は同じ薩摩出身で陸軍幼年学校で一緒だったので互いの素性をしっていた。成田は成績不良で落ちこぼれてエリート軍人になりそこなっていたけど)。
向陵塚は先ほどの呑龍大菩薩と同じ年、時の円覚寺の住職井上禅定師の時代に建立されている。敗戦とともに日本の空気はがらっと代わり、戦中の青春を美化することはできなくなり、そのうちどんどん同じ時代を知る人がいなくなっていく。この二つの記念碑からは生存者たちの寂寞がつたわってくる。苔むした名刺入れをみながら、「最後の一高生がここで寮歌うたったのはいつのことだろう」と感傷に浸たる(2007年に永代供養にきりかわっているのでその時かも)。
日比谷高校文化で卒論を書いたゼミ生のAちゃんは「先生、一高のお墓につれてきてくれてありがとうございました」と喜んでいるので、ここで「今日みるべきものは見たな」とつきものが落ちたような気分になり、家路についた。思えば出だしに人身事故がなければ、この墓地をゆっくりまわる時間もなかったので、くるべくしてこの塚の前に私とAちゃんはたったのであろう。
近代にはいった日本は外国からの脅威を強く感じ、駆り立てられるように戦争を拡大し続けた。その戦いはつねにきついものであったため、ことあるごとに元寇の時と同じく「神風」が待望された。博多や円覚寺などの元寇遺跡はその過程で注目をあび、新旧のナショナリズムが時代をこえて一体化した場へと昇華したのである。
最後にアムール川の流血の歌詞をwiki からコピペしておく。当時の東アジア情勢の不穏と一高の自治の精神が伝わってくる歌詞である。
一、
アムール川の流血や
凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ
二、
コサック兵の剣戟(けんげき)や
怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は
荒波海に立ちさわぐ
三、
満清(まんしん)すでに力つき
末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
仰ぐはひとり日東(にっとう)の
名もかんばしき秋津島
四、
桜の匂い衰えて
皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ
沈滞ここに幾春秋
五、
向が丘の健男児
虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ
自治寮たてて十一年
六、
世紀新たに来れども
北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて
自治の本領あらわさん
COMMENT
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
安倍晋三元首相は、その温かい御心でチベットを私利私欲なく支えてくださいました。本土のチベット人、世界中の亡命チベット人、支援者にとってかえがえのない希望でした。困難の中において、明るく光る灯火でした。今は言葉もありません。皆様と共に祈りを捧げたいと思います。
Tibetan News Japan
午後8:12 · 2022年7月8日
清水ともみさんがリツイートしました
https://twitter.com/TibetanNewsJP/status/1619537690260799492?s=20&t=1EZBKeK7MzQK5vDt9pNcGQ
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
中国は、#チベット 仏教の聖地 #ラサ の伝統や風習を極端にデフォルメし、中国人による中国人のための「テーマパーク化」を推し進めています。その結果、敬虔なチベット仏教徒の祈りの場が妨害されています。チベット人は、何も言えない恐怖の中で生きています。
引用ツイート
Free Tibet
@freetibetorg
·
1月27日
One of the many unpleasant results of China’s #Disneyfication of Lhasa, Tibet, not limited to blocking Tibetans in their circumambulation of prayer wheels. twitter.com/sangyalkunchok…
https://twitter.com/freetibetorg/status/1618712451046060033?s=20&t=1EZBKeK7MzQK5vDt9pNcGQ
@TibetanNewsJP
安倍晋三元首相は、その温かい御心でチベットを私利私欲なく支えてくださいました。本土のチベット人、世界中の亡命チベット人、支援者にとってかえがえのない希望でした。困難の中において、明るく光る灯火でした。今は言葉もありません。皆様と共に祈りを捧げたいと思います。
Tibetan News Japan
午後8:12 · 2022年7月8日
清水ともみさんがリツイートしました
https://twitter.com/TibetanNewsJP/status/1619537690260799492?s=20&t=1EZBKeK7MzQK5vDt9pNcGQ
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
中国は、#チベット 仏教の聖地 #ラサ の伝統や風習を極端にデフォルメし、中国人による中国人のための「テーマパーク化」を推し進めています。その結果、敬虔なチベット仏教徒の祈りの場が妨害されています。チベット人は、何も言えない恐怖の中で生きています。
引用ツイート
Free Tibet
@freetibetorg
·
1月27日
One of the many unpleasant results of China’s #Disneyfication of Lhasa, Tibet, not limited to blocking Tibetans in their circumambulation of prayer wheels. twitter.com/sangyalkunchok…
https://twitter.com/freetibetorg/status/1618712451046060033?s=20&t=1EZBKeK7MzQK5vDt9pNcGQ
● 石光真清は肥後熊本ご出生
マサムネ | URL | 2023/02/01(水) 08:22 [EDIT]
マサムネ | URL | 2023/02/01(水) 08:22 [EDIT]
熊本駅近傍に生家保存公会
鈴木大拙が出会った人々(1)北条時敬
蓮沼 直應
2022/7/21
はじめに
1870年(明治3年)、鈴木貞太郎という名の男の子が北陸金沢の地に生まれました。のちに禅学者・鈴木大拙《すずき だいせつ》として知られることになる人物です。
仏教研究に生涯を捧げた彼は、1966年(昭和41年)に亡くなるまでの96年の生涯を通じて、100冊を優に超える著作を残しました。また戦後間もない頃に海外へ赴いて英語での講演を繰り返し行うなど、国際的日本人の先駆けでもありました。
そうした彼の活動を通じて、日本の禅は海外、特に欧米へと広く知られるようになり、20世紀後半にはアメリカにおいてZENと呼ばれる仏教の新しい思潮が生まれるに至りました。鈴木大拙は間違いなく、20世紀仏教伝道の最大の立役者です。
しかし、そうした20世紀の一大ムーブメントとも称すべき現象を、すべて鈴木大拙という一個人の功績に帰するということは極端に過ぎます。彼に先立つ人物、彼に続いた人物、彼を導いた人物、彼を支えた人物、あらゆる因縁が結実して、彼を中心とした大事業が果たされたということもまた、揺るぎない真実でしょう。
そこで本連載では、「禅からZENへ」と題して、鈴木大拙と、彼を取り巻く人物との関わりを眺めつつ、禅をめぐる大拙居士(1)の人生を追っていきたいと思います。
教育者・北条時敬
第1回となる今回は、北条時敬《ほうじょう ときゆき》という人物を取り上げたいと思います。
北条時敬は金沢出身の教育者です。数学者として非常に優れた学識をもっていながらも、実際には山口高等学校、第四高等学校、広島高等師範学校、東北帝国大学、学習院といった学校で校長・総長・院長を歴任した人物です。彼は学校教育に携わりながら、みずから禅に参じた居士でもありました。
この人物はこれまで西田幾多郎(2)の恩師として語られることが多く、鈴木大拙との関わりは、それほど密接なものとしては語られません。しかし、のちの鈴木大拙を生み出す苗床を用意した人物は間違いなくこの北条時敬という人物です。
北条時敬は金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を修めた秀才でした。県からも将来を嘱望されて、給付生として、東京への留学を命じられます。北条は東京大学理学部数学科に入学し、勉学に心身を捧げました。狭き門を潜り抜け無事に大学を卒業した彼は、そのまま大学院にて数学の研究を続けようとしましたが、県の給付生であった彼は一度郷里へ戻り教員とならねばなりませんでした。
そうして北条は1885年(明治18年)に石川県専門学校の教諭となったのです。そしてその当時、その学び舎に名を連ねていたのが、西田幾多郎や鈴木貞太郎といった、のちに日本の思想界を牽引することになる少年たちだったのです。
大拙最初の参禅
北条時敬がなぜ禅を志したのか、はっきりしたこと記録には残されていません。おそらく、彼の生来の脱俗的な気質が、禅の空気と馴染んだものと思われます。彼は1886年(明治19年)に富山国泰寺(3)の雪門玄松老師(4)の下で参禅を始めます。北条は自分自身だけでなく自分の教え子たちも禅の教えに触れられるように、白隠禅師(5)の『遠羅天釜』(6)を活字にして学生たちに配布していました。
しかしこの頃、鈴木貞太郎は家計が困窮していたため、学校に通い続けることができなくなり、石川県専門学校が第四高等中学校へと改編される1888年(明治21年)に同校を中退してしまいます。そのため、北条時敬と鈴木貞太郎が接することのできたのは短い期間でした。
しかし、その間にも鈴木貞太郎は北条から鋭い示唆を得ていたようです。当時、鈴木貞太郎は北条の書生であった西田幾多郎と一緒に、「禅学とはどのようなものか」と北条に尋ねたことがあったようです。これに対して、北条は「脇腹に刀を尽き立てる覚悟があるならやってみろ」と答えたといいます。禅に対する彼の峻烈な決心を窺い知ることのできる言葉です。
結局、鈴木貞太郎は学校を去ります。しかし、彼は北条の作った『遠羅天釜』を手に、禅を学ぶため北条と同じように国泰寺の雪門玄松老師を訪ねて行きました。単身片道数十キロの道を行き、苦労しつつも国泰寺へ辿りつくことはできました。
しかし、この時の鈴木貞太郎は誰の紹介状も持たず参禅の予備知識もなかったために、雪門老師と会うことはできましたが、その指導の真意をくみ取ることができず、一週間と経たないうちに寺を去ってしまいました。満足のいく結果ではなかったものの、これが大拙居士の最初の参禅でした。
久徴館から円覚寺へ
こののち1891年に鈴木貞太郎は上京します。彼は本郷駒込にあった北陸出身学生のための寄宿舎・久徴館《きゅうちょうかん》に下宿して新たな生活を始めました。
当初、早稲田大学の前身である東京専門学校に通い始めたものの、間もなく通学をやめ、鎌倉の円覚寺(7)へ行くこととなります。このとき鈴木貞太郎は今北洪川老師(8)と初めて相見し、円覚寺に一ヶ月余り留まって本格的な参禅修行を始めます。東京専門学校もすぐに退校してしまいます。
このとき、上京してきた彼を鎌倉の洪川老師の元へ行くよう勧めた人物が、同じ金沢出身の早川千吉郎(9)でした。早川もまた久徴館に下宿していた人物で、彼は東京帝国大学を卒業し、のちに三井銀行の重役になったエリートでした。
しかし、早川はなぜ円覚寺の洪川老師を紹介したのでしょうか。
実は鈴木貞太郎が第四高等学校を中退した2か月後、同校で教師をしていた北条時敬も、依願退職という形で学校を去っていました。北条時敬は鈴木貞太郎に先立ち、上京して東京大学大学院で数学を再び学びながら、第一高等中学校嘱託として働きはじめます。
居士禅の先駆者・北条時敬
この時期から北条は、鎌倉の洪川老師の下で参禅を始めます。1889年(明治22年)には、市ヶ谷の月桂寺に洪川老師を招いて摂心を催します。励精会と名付けられたこの会に参加していたのは、平沼騏一郎(10)、早川千吉郎、沢柳政太郎(11)といった錚々たる面々でした。
鈴木貞太郎が上京するのは、この2年後のことです。早川が、久徴館を訪れた若き鈴木貞太郎に、円覚寺の洪川老師を紹介した背景に、北条時敬を中心とする励精会の活動があったことは間違いないでしょう。
そもそもこの久徴館は、東京へ留学してきた若き北条時敬が他の有志学生とともに1882年(明治15年)に設立したものでした。
大拙に禅を知らせた男
このように考えると、鈴木貞太郎に数年先立って、雪門や洪川に参じ、その道を拓いたということ、また後進のための教育的環境(学問においても宗教においても)を整えたということ。このように直接的ではないものの、居士・鈴木大拙が生まれるに至る隠れた因縁を用意したという点で、北条時敬は大拙の先駆者であり、優れた教育者であったのです。
円覚寺における明治の居士禅の系譜、金沢という同郷者の相互扶助のネットワーク、これら二重の縁が結果として大拙に禅を知らせることとなったのです。
その後、この四半世紀のち、互いに別々の人生を歩んでいた二人は、東京の学習院において再会します。教育者となった大拙のもとに、新たな院長として北条が赴任してきます。まさしく奇縁と言うほかありません。この話については、いずれ回を改めてご紹介できればと思っています。
『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第2回「今北洪川 前編」は、2022年9月22日掲載予定です。
国泰寺《こくたいじ》:摩頂山 国泰寺(富山県高岡市)。慈雲妙意禅師が開いた摩頂山東松寺がもとなり、1328年、後醍醐天皇より「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。現在、臨済宗国泰寺派大本山。
→臨済宗 国泰寺派
雪門玄松《せつもん げんしょう》:臨済宗の僧(1850~1915年)。和歌山出身。相国寺の荻野独園老師の下で修行し、のち富山国泰寺に住した。北陸各地で洗心会と呼ばれる禅会を行ない、出家在家問わず多くの修行者を指導した。戒律を守ること堅固であったため、山岡鉄舟より「禅門の律僧」と称された。
白隠慧鶴《はくいん えかく》:臨済宗の僧(1686~1769年)。現在の沼津市原に生まれる。臨済宗中興の祖と呼ばれ、現代に伝わる公案修行の体系の基礎を築いた。
遠羅天釜《おらてがま》:白隠による仮名法語。1749年初版。参禅修行をする上での注意などが語られている。
円覚寺《えんがくじ》:瑞鹿山 円覚寺(神奈川県鎌倉市)。元寇の戦いで没した兵士を敵味方の区別なく平等に供養するために、執権北条時宗が無学祖元禅師を宋から招いて創建した寺。現在、臨済宗円覚寺派大本山。
→臨済宗大本山 円覚寺
今北洪川《いまきた こうせん》:臨済宗の僧(1816~92年)。若くして儒学者となり、大坂中之島に私塾を開くものの、禅僧として出家する。岩国の永興寺に住したのち、臨済宗十山総黌の長となり、そののち初代円覚寺派管長となる。塔頭正伝庵を居士のための道場として開放し、居士禅の隆興に尽くした。
早川千吉郎《はやかわ せんきちろう》:金沢出身の大蔵官僚・実業家(1863~1922年)。東京帝国大学法科大学、同大学院を卒業したのち、大蔵省に入る。大臣秘書官や日本銀行管理官などを歴任。退官後、三井銀行専務理事や常務取締役となり、同行の発展に貢献した。
平沼騏一郎《ひらぬま きいちろう》:津山出身の司法官、政治家(1867~1952年)。東京帝国大学法科大学を卒業したのち、各地裁判所の判事、東京控訴院検事、大審院長を歴任。1923年司法大臣、日本大学総長となり、翌年貴族院議員に勅選される。1939年には内閣総理大臣となる。戦後東京裁判においてA級戦犯とされた。
沢柳政太郎《さわやなぎ まさたろう》:松本出身の文部官僚・教育学者(1865~1927年)。東京大学卒業と同時に文部省に入り、第二次大戦期まで存続する初等・中等教育制度の基礎を築いた。その後、東北帝国大学総長を経て、帝国教育会会長となり、生涯、日本の教育に携わった。
蓮沼 直應
2022/7/21
はじめに
1870年(明治3年)、鈴木貞太郎という名の男の子が北陸金沢の地に生まれました。のちに禅学者・鈴木大拙《すずき だいせつ》として知られることになる人物です。
仏教研究に生涯を捧げた彼は、1966年(昭和41年)に亡くなるまでの96年の生涯を通じて、100冊を優に超える著作を残しました。また戦後間もない頃に海外へ赴いて英語での講演を繰り返し行うなど、国際的日本人の先駆けでもありました。
そうした彼の活動を通じて、日本の禅は海外、特に欧米へと広く知られるようになり、20世紀後半にはアメリカにおいてZENと呼ばれる仏教の新しい思潮が生まれるに至りました。鈴木大拙は間違いなく、20世紀仏教伝道の最大の立役者です。
しかし、そうした20世紀の一大ムーブメントとも称すべき現象を、すべて鈴木大拙という一個人の功績に帰するということは極端に過ぎます。彼に先立つ人物、彼に続いた人物、彼を導いた人物、彼を支えた人物、あらゆる因縁が結実して、彼を中心とした大事業が果たされたということもまた、揺るぎない真実でしょう。
そこで本連載では、「禅からZENへ」と題して、鈴木大拙と、彼を取り巻く人物との関わりを眺めつつ、禅をめぐる大拙居士(1)の人生を追っていきたいと思います。
教育者・北条時敬
第1回となる今回は、北条時敬《ほうじょう ときゆき》という人物を取り上げたいと思います。
北条時敬は金沢出身の教育者です。数学者として非常に優れた学識をもっていながらも、実際には山口高等学校、第四高等学校、広島高等師範学校、東北帝国大学、学習院といった学校で校長・総長・院長を歴任した人物です。彼は学校教育に携わりながら、みずから禅に参じた居士でもありました。
この人物はこれまで西田幾多郎(2)の恩師として語られることが多く、鈴木大拙との関わりは、それほど密接なものとしては語られません。しかし、のちの鈴木大拙を生み出す苗床を用意した人物は間違いなくこの北条時敬という人物です。
北条時敬は金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を修めた秀才でした。県からも将来を嘱望されて、給付生として、東京への留学を命じられます。北条は東京大学理学部数学科に入学し、勉学に心身を捧げました。狭き門を潜り抜け無事に大学を卒業した彼は、そのまま大学院にて数学の研究を続けようとしましたが、県の給付生であった彼は一度郷里へ戻り教員とならねばなりませんでした。
そうして北条は1885年(明治18年)に石川県専門学校の教諭となったのです。そしてその当時、その学び舎に名を連ねていたのが、西田幾多郎や鈴木貞太郎といった、のちに日本の思想界を牽引することになる少年たちだったのです。
大拙最初の参禅
北条時敬がなぜ禅を志したのか、はっきりしたこと記録には残されていません。おそらく、彼の生来の脱俗的な気質が、禅の空気と馴染んだものと思われます。彼は1886年(明治19年)に富山国泰寺(3)の雪門玄松老師(4)の下で参禅を始めます。北条は自分自身だけでなく自分の教え子たちも禅の教えに触れられるように、白隠禅師(5)の『遠羅天釜』(6)を活字にして学生たちに配布していました。
しかしこの頃、鈴木貞太郎は家計が困窮していたため、学校に通い続けることができなくなり、石川県専門学校が第四高等中学校へと改編される1888年(明治21年)に同校を中退してしまいます。そのため、北条時敬と鈴木貞太郎が接することのできたのは短い期間でした。
しかし、その間にも鈴木貞太郎は北条から鋭い示唆を得ていたようです。当時、鈴木貞太郎は北条の書生であった西田幾多郎と一緒に、「禅学とはどのようなものか」と北条に尋ねたことがあったようです。これに対して、北条は「脇腹に刀を尽き立てる覚悟があるならやってみろ」と答えたといいます。禅に対する彼の峻烈な決心を窺い知ることのできる言葉です。
結局、鈴木貞太郎は学校を去ります。しかし、彼は北条の作った『遠羅天釜』を手に、禅を学ぶため北条と同じように国泰寺の雪門玄松老師を訪ねて行きました。単身片道数十キロの道を行き、苦労しつつも国泰寺へ辿りつくことはできました。
しかし、この時の鈴木貞太郎は誰の紹介状も持たず参禅の予備知識もなかったために、雪門老師と会うことはできましたが、その指導の真意をくみ取ることができず、一週間と経たないうちに寺を去ってしまいました。満足のいく結果ではなかったものの、これが大拙居士の最初の参禅でした。
久徴館から円覚寺へ
こののち1891年に鈴木貞太郎は上京します。彼は本郷駒込にあった北陸出身学生のための寄宿舎・久徴館《きゅうちょうかん》に下宿して新たな生活を始めました。
当初、早稲田大学の前身である東京専門学校に通い始めたものの、間もなく通学をやめ、鎌倉の円覚寺(7)へ行くこととなります。このとき鈴木貞太郎は今北洪川老師(8)と初めて相見し、円覚寺に一ヶ月余り留まって本格的な参禅修行を始めます。東京専門学校もすぐに退校してしまいます。
このとき、上京してきた彼を鎌倉の洪川老師の元へ行くよう勧めた人物が、同じ金沢出身の早川千吉郎(9)でした。早川もまた久徴館に下宿していた人物で、彼は東京帝国大学を卒業し、のちに三井銀行の重役になったエリートでした。
しかし、早川はなぜ円覚寺の洪川老師を紹介したのでしょうか。
実は鈴木貞太郎が第四高等学校を中退した2か月後、同校で教師をしていた北条時敬も、依願退職という形で学校を去っていました。北条時敬は鈴木貞太郎に先立ち、上京して東京大学大学院で数学を再び学びながら、第一高等中学校嘱託として働きはじめます。
居士禅の先駆者・北条時敬
この時期から北条は、鎌倉の洪川老師の下で参禅を始めます。1889年(明治22年)には、市ヶ谷の月桂寺に洪川老師を招いて摂心を催します。励精会と名付けられたこの会に参加していたのは、平沼騏一郎(10)、早川千吉郎、沢柳政太郎(11)といった錚々たる面々でした。
鈴木貞太郎が上京するのは、この2年後のことです。早川が、久徴館を訪れた若き鈴木貞太郎に、円覚寺の洪川老師を紹介した背景に、北条時敬を中心とする励精会の活動があったことは間違いないでしょう。
そもそもこの久徴館は、東京へ留学してきた若き北条時敬が他の有志学生とともに1882年(明治15年)に設立したものでした。
大拙に禅を知らせた男
このように考えると、鈴木貞太郎に数年先立って、雪門や洪川に参じ、その道を拓いたということ、また後進のための教育的環境(学問においても宗教においても)を整えたということ。このように直接的ではないものの、居士・鈴木大拙が生まれるに至る隠れた因縁を用意したという点で、北条時敬は大拙の先駆者であり、優れた教育者であったのです。
円覚寺における明治の居士禅の系譜、金沢という同郷者の相互扶助のネットワーク、これら二重の縁が結果として大拙に禅を知らせることとなったのです。
その後、この四半世紀のち、互いに別々の人生を歩んでいた二人は、東京の学習院において再会します。教育者となった大拙のもとに、新たな院長として北条が赴任してきます。まさしく奇縁と言うほかありません。この話については、いずれ回を改めてご紹介できればと思っています。
『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第2回「今北洪川 前編」は、2022年9月22日掲載予定です。
国泰寺《こくたいじ》:摩頂山 国泰寺(富山県高岡市)。慈雲妙意禅師が開いた摩頂山東松寺がもとなり、1328年、後醍醐天皇より「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。現在、臨済宗国泰寺派大本山。
→臨済宗 国泰寺派
雪門玄松《せつもん げんしょう》:臨済宗の僧(1850~1915年)。和歌山出身。相国寺の荻野独園老師の下で修行し、のち富山国泰寺に住した。北陸各地で洗心会と呼ばれる禅会を行ない、出家在家問わず多くの修行者を指導した。戒律を守ること堅固であったため、山岡鉄舟より「禅門の律僧」と称された。
白隠慧鶴《はくいん えかく》:臨済宗の僧(1686~1769年)。現在の沼津市原に生まれる。臨済宗中興の祖と呼ばれ、現代に伝わる公案修行の体系の基礎を築いた。
遠羅天釜《おらてがま》:白隠による仮名法語。1749年初版。参禅修行をする上での注意などが語られている。
円覚寺《えんがくじ》:瑞鹿山 円覚寺(神奈川県鎌倉市)。元寇の戦いで没した兵士を敵味方の区別なく平等に供養するために、執権北条時宗が無学祖元禅師を宋から招いて創建した寺。現在、臨済宗円覚寺派大本山。
→臨済宗大本山 円覚寺
今北洪川《いまきた こうせん》:臨済宗の僧(1816~92年)。若くして儒学者となり、大坂中之島に私塾を開くものの、禅僧として出家する。岩国の永興寺に住したのち、臨済宗十山総黌の長となり、そののち初代円覚寺派管長となる。塔頭正伝庵を居士のための道場として開放し、居士禅の隆興に尽くした。
早川千吉郎《はやかわ せんきちろう》:金沢出身の大蔵官僚・実業家(1863~1922年)。東京帝国大学法科大学、同大学院を卒業したのち、大蔵省に入る。大臣秘書官や日本銀行管理官などを歴任。退官後、三井銀行専務理事や常務取締役となり、同行の発展に貢献した。
平沼騏一郎《ひらぬま きいちろう》:津山出身の司法官、政治家(1867~1952年)。東京帝国大学法科大学を卒業したのち、各地裁判所の判事、東京控訴院検事、大審院長を歴任。1923年司法大臣、日本大学総長となり、翌年貴族院議員に勅選される。1939年には内閣総理大臣となる。戦後東京裁判においてA級戦犯とされた。
沢柳政太郎《さわやなぎ まさたろう》:松本出身の文部官僚・教育学者(1865~1927年)。東京大学卒業と同時に文部省に入り、第二次大戦期まで存続する初等・中等教育制度の基礎を築いた。その後、東北帝国大学総長を経て、帝国教育会会長となり、生涯、日本の教育に携わった。
二宮金次郎の思想に基づく報徳会運動〰花田仲之と上原勇作
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.l.yamaguchi-pu.ac.jp/archives/2013/01.part1/01.intercultural%2520studies/02.inter_IZAO.pdf&ved=2ahUKEwjLoJbRg_P8AhX3cGwGHffQCaQ4FBAWegQIAxAB&usg=AOvVaw1fsctgrkzviteD6tAdVNBI
日本の諜報活動家としては、明石元ニ郎とともに有名な石光真清ですが、これまでは陸軍では田中義一派とされていました。しかし、吉薗手記によって上原勇作の股肱であることが分かりました。
●周蔵の護送と教育係として渡欧
*大正5年5月8日、吉薗周蔵氏は、ラントシュタイナーの血液型判別法の技術を入手するために渡欧します。その際、武田内蔵丞の名義で旅券が下付されましたが、香港でもたついたらしく旅券を取り直しました。シドニーで石光真清(久原鉱業遠藤名義)と待ち合わせを行いました。ウィーンにはまずシドニーに行きそこから英国に渡り、英国からウィーンに行きました。スパイとして敵国に入る周蔵氏にとっては、英国領を通過することに意義があったようです。英国もドイツ・オーストリアから見れば敵国であるが国力があるので英国領から入る者には取り扱いが違ったと思われます。シドニーの出発からウィーンでの活動までは、「陸軍特務吉薗周蔵の手記」 ニューリーダー1996.11,12月号に詳しく書かれています。
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.l.yamaguchi-pu.ac.jp/archives/2013/01.part1/01.intercultural%2520studies/02.inter_IZAO.pdf&ved=2ahUKEwjLoJbRg_P8AhX3cGwGHffQCaQ4FBAWegQIAxAB&usg=AOvVaw1fsctgrkzviteD6tAdVNBI
日本の諜報活動家としては、明石元ニ郎とともに有名な石光真清ですが、これまでは陸軍では田中義一派とされていました。しかし、吉薗手記によって上原勇作の股肱であることが分かりました。
●周蔵の護送と教育係として渡欧
*大正5年5月8日、吉薗周蔵氏は、ラントシュタイナーの血液型判別法の技術を入手するために渡欧します。その際、武田内蔵丞の名義で旅券が下付されましたが、香港でもたついたらしく旅券を取り直しました。シドニーで石光真清(久原鉱業遠藤名義)と待ち合わせを行いました。ウィーンにはまずシドニーに行きそこから英国に渡り、英国からウィーンに行きました。スパイとして敵国に入る周蔵氏にとっては、英国領を通過することに意義があったようです。英国もドイツ・オーストリアから見れば敵国であるが国力があるので英国領から入る者には取り扱いが違ったと思われます。シドニーの出発からウィーンでの活動までは、「陸軍特務吉薗周蔵の手記」 ニューリーダー1996.11,12月号に詳しく書かれています。
(29)トルコ 離散の民「祖国とは」 青い瞳、滑らかな日本語 晩年迎えたタタール人
共同通信
「祖国、ですか。自分が生まれた場所かな。子ども時代の思い出がある」。トルコ系少数民族タタール人のカスム・バハプ(90)は少し考えてから、望郷の思いを語り出した。長身と透き通る青い目からは想像もつかない、滑らかな日本語だ。
ロシア革命の混乱を逃れ、離散した民族だ。自身は昭和初期の東京で生まれた。無国籍のまま育ち、20代でトルコに移住した。晩年を迎え、時代に翻弄(ほんろう)された人生を振り返る時、瞳に映るのは鮮明な日本の記憶だった。
カスムは子どものころ、東京の自宅近くにあった明治神宮でよく遊んだ。毎年秋のお祭りでサーカスや出店を見るのが楽しかった。空襲で自宅が焼けた時に逃げ込んだ先も同神宮だった。一家はその後、疎開したという=アンカラ、2022年2月
▽母の日記
トルコ首都アンカラのマンションで、カスムは古いノートをめくった。日焼けしたページには青いインクで書かれた美しいアラビア文字が並ぶ。亡き母サラの日記だ。19世紀生まれのサラは、母語のタタール語をアラビア文字で書いていた。今ではカスム以外、読める親族はいない。
タタール人は大半がイスラム教徒だ。ウクライナ南部クリミア半島や、サラの故郷、ロシア西部を流れるボルガ川中流のカザンに暮らしてきた。
カザンのタタール人は商才にたけ、シベリア鉄道開通を機に極東まで進出した。1917年にロシア革命が勃発すると、迫害を恐れ、極東や欧州に逃れた。日本も避難先の一つで、千人前後が逃れてきたと言われる。
「私たちは(東京の)千駄ケ谷駅の近くに住んでいた。どこに行くにも電車を使った」。サラの日記に書かれているのは、ありふれた日常だ。好みのフライパンがないと嘆き、家族旅行に出かけたと心を弾ませていた。
サラの人生は波瀾(はらん)万丈だった。親の決めた相手と結婚し、革命のさなかに初出産した。日本に渡るが、夫は急死した。カザンに帰ると今度は幼子も病死する。カスムの父となる在京タタール人の男性に手紙をもらって東京に戻り、再婚した。
日記の中のサラはいつもカザンに残る親戚を気にかけていた。カスムは、サラがノートに何か書きこんでいる姿を覚えている。当時は中を見せてくれなかった。ただ大学進学のため日本をたつとき、サラは1冊のノートを渡して言った。「あなたも書きなさい」
▽1銭のあめ玉
カスムは33年、4人きょうだいの末っ子として東京・信濃町で生まれた。父はタタール人社会のまとめ役だった。家ではタタール語を話し、母の作る郷土料理を食べ、学校ではタタール人子弟向けの教育を受けた。
日本語は近所の子と遊ぶうちに身についた。「きよしろう、という友達が裏に住んでいてね」と懐かしむ。「毎日一緒に紙芝居を見に行った。まず1銭のあめ玉を買って、なめながら見るんだ。とても楽しかった」
穏やかな日常に太平洋戦争が忍び寄っていた。外国人は移動が制限され、食糧は配給制になった。空襲が激化し、長野・軽井沢に疎開した。それでもあまりつらさは感じなかった。「周りの日本人はみな親切だったから」
思い出があふれるカスムの家族写真。中央上は1951年5月、静岡・熱海を旅行するカスム(前列右)ら。ボートで島を回ったという=アンカラ、2022年2月
タタール人にとっての転機は50年に始まった朝鮮戦争だった。トルコが国連軍側に派兵し、負傷兵が東京に搬送された。トルコ人とは言語的、宗教的に近いことから、身の回りの世話に奔走した。トルコ政府が感謝の印に国籍付与を決め、トルコ移住が始まった。
カスムも高校卒業後、アンカラ大学に進学した。「それまでみんな無国籍だった。必要も感じなかったんだ。僕もトルコ国籍をもらった時はうれしかった」と振り返る。
▽薄れるルーツ
大学時代のカスムはサラの勧めに従って時おり日記を書いた。アラビア文字のタタール語を使ったが、母のように長続きはしなかった。卒業後に兵役を務め、アンカラ出身の女性と結婚した。商務省(当時)に入省し、外交官として日本勤務も経験した。国籍、仕事、家族の全てがトルコに染まっていった。
時代は流れ、民族のルーツは薄れてきた。日本から移住してきた世代には老いが迫る。サラもトルコで生涯を終えた。カスムの姉スレイヤ・ヤズジュオール(95)は「昨年だけで4人の友達が亡くなったの。寂しいわ」と残念がった。
トルコで生まれ育ったヤズジュオールの長男キュシャット(69)は、自身をトルコ人だと思っている。小さい時はサラの昔話も退屈だった。「若い世代はタタール語も知らない。トルコに同化して生きている」と話す。
同胞が集う「カザン文化相互支援協会」には最大約150家族が登録していたが、今や3分の1だ。会長のフアト・ティニシュ(66)は「移住世代の孫は参加してない。タタール人としての自覚もないだろう」と嘆く。
カスムに子どもはいない。4年前に妻を亡くし、新型コロナウイルス禍で人付き合いも減った。1人で暮らすマンションには日本の調度品と、古いカセットテープが並ぶ。「演歌が好きでね。特に吉幾三(よし・いくぞう)の『酒よ』という歌。あれはいいねぇ」と目を細める。「日本は心の中にある国。また行きたいよ」(敬称略、文・安尾亜紀、写真・フセイン・アルデミル)
◎取材後記「記者ノートから」
「あら、あなた日本人?」。10年ほど前、トルコ・イスタンブールの公園で高齢の女性に日本語で話しかけられ驚いた。日本で生まれ、トルコで暮らすタタール人ラヒメ・ソナットだった。彼らの存在を知ったのは、このときが初めてだった。
仕事で東京・代々木上原のモスク「東京ジャーミイ」を訪れた時、タタール人が建てた東京回教礼拝堂が前身だと知った。隣には子弟が通った学校があったという。今回取り上げたカスム、そしてソナットが通った学校だ。
タタール人の取材をしようと思った時、真っ先に思い浮かんだのがソナットだった。ただ連絡を取ろうとすると、既に亡くなっていたことが分かった。日本を知る世代の高齢化が進んでいる。焦りにも似た思いに駆り立てられ、カスムたちの話を聞いた。(敬称略)
筆者は共同通信イスタンブール支局助手、写真は共同通信契約カメラマン。年齢は2023年2月1日現在。
共同通信
「祖国、ですか。自分が生まれた場所かな。子ども時代の思い出がある」。トルコ系少数民族タタール人のカスム・バハプ(90)は少し考えてから、望郷の思いを語り出した。長身と透き通る青い目からは想像もつかない、滑らかな日本語だ。
ロシア革命の混乱を逃れ、離散した民族だ。自身は昭和初期の東京で生まれた。無国籍のまま育ち、20代でトルコに移住した。晩年を迎え、時代に翻弄(ほんろう)された人生を振り返る時、瞳に映るのは鮮明な日本の記憶だった。
カスムは子どものころ、東京の自宅近くにあった明治神宮でよく遊んだ。毎年秋のお祭りでサーカスや出店を見るのが楽しかった。空襲で自宅が焼けた時に逃げ込んだ先も同神宮だった。一家はその後、疎開したという=アンカラ、2022年2月
▽母の日記
トルコ首都アンカラのマンションで、カスムは古いノートをめくった。日焼けしたページには青いインクで書かれた美しいアラビア文字が並ぶ。亡き母サラの日記だ。19世紀生まれのサラは、母語のタタール語をアラビア文字で書いていた。今ではカスム以外、読める親族はいない。
タタール人は大半がイスラム教徒だ。ウクライナ南部クリミア半島や、サラの故郷、ロシア西部を流れるボルガ川中流のカザンに暮らしてきた。
カザンのタタール人は商才にたけ、シベリア鉄道開通を機に極東まで進出した。1917年にロシア革命が勃発すると、迫害を恐れ、極東や欧州に逃れた。日本も避難先の一つで、千人前後が逃れてきたと言われる。
「私たちは(東京の)千駄ケ谷駅の近くに住んでいた。どこに行くにも電車を使った」。サラの日記に書かれているのは、ありふれた日常だ。好みのフライパンがないと嘆き、家族旅行に出かけたと心を弾ませていた。
サラの人生は波瀾(はらん)万丈だった。親の決めた相手と結婚し、革命のさなかに初出産した。日本に渡るが、夫は急死した。カザンに帰ると今度は幼子も病死する。カスムの父となる在京タタール人の男性に手紙をもらって東京に戻り、再婚した。
日記の中のサラはいつもカザンに残る親戚を気にかけていた。カスムは、サラがノートに何か書きこんでいる姿を覚えている。当時は中を見せてくれなかった。ただ大学進学のため日本をたつとき、サラは1冊のノートを渡して言った。「あなたも書きなさい」
▽1銭のあめ玉
カスムは33年、4人きょうだいの末っ子として東京・信濃町で生まれた。父はタタール人社会のまとめ役だった。家ではタタール語を話し、母の作る郷土料理を食べ、学校ではタタール人子弟向けの教育を受けた。
日本語は近所の子と遊ぶうちに身についた。「きよしろう、という友達が裏に住んでいてね」と懐かしむ。「毎日一緒に紙芝居を見に行った。まず1銭のあめ玉を買って、なめながら見るんだ。とても楽しかった」
穏やかな日常に太平洋戦争が忍び寄っていた。外国人は移動が制限され、食糧は配給制になった。空襲が激化し、長野・軽井沢に疎開した。それでもあまりつらさは感じなかった。「周りの日本人はみな親切だったから」
思い出があふれるカスムの家族写真。中央上は1951年5月、静岡・熱海を旅行するカスム(前列右)ら。ボートで島を回ったという=アンカラ、2022年2月
タタール人にとっての転機は50年に始まった朝鮮戦争だった。トルコが国連軍側に派兵し、負傷兵が東京に搬送された。トルコ人とは言語的、宗教的に近いことから、身の回りの世話に奔走した。トルコ政府が感謝の印に国籍付与を決め、トルコ移住が始まった。
カスムも高校卒業後、アンカラ大学に進学した。「それまでみんな無国籍だった。必要も感じなかったんだ。僕もトルコ国籍をもらった時はうれしかった」と振り返る。
▽薄れるルーツ
大学時代のカスムはサラの勧めに従って時おり日記を書いた。アラビア文字のタタール語を使ったが、母のように長続きはしなかった。卒業後に兵役を務め、アンカラ出身の女性と結婚した。商務省(当時)に入省し、外交官として日本勤務も経験した。国籍、仕事、家族の全てがトルコに染まっていった。
時代は流れ、民族のルーツは薄れてきた。日本から移住してきた世代には老いが迫る。サラもトルコで生涯を終えた。カスムの姉スレイヤ・ヤズジュオール(95)は「昨年だけで4人の友達が亡くなったの。寂しいわ」と残念がった。
トルコで生まれ育ったヤズジュオールの長男キュシャット(69)は、自身をトルコ人だと思っている。小さい時はサラの昔話も退屈だった。「若い世代はタタール語も知らない。トルコに同化して生きている」と話す。
同胞が集う「カザン文化相互支援協会」には最大約150家族が登録していたが、今や3分の1だ。会長のフアト・ティニシュ(66)は「移住世代の孫は参加してない。タタール人としての自覚もないだろう」と嘆く。
カスムに子どもはいない。4年前に妻を亡くし、新型コロナウイルス禍で人付き合いも減った。1人で暮らすマンションには日本の調度品と、古いカセットテープが並ぶ。「演歌が好きでね。特に吉幾三(よし・いくぞう)の『酒よ』という歌。あれはいいねぇ」と目を細める。「日本は心の中にある国。また行きたいよ」(敬称略、文・安尾亜紀、写真・フセイン・アルデミル)
◎取材後記「記者ノートから」
「あら、あなた日本人?」。10年ほど前、トルコ・イスタンブールの公園で高齢の女性に日本語で話しかけられ驚いた。日本で生まれ、トルコで暮らすタタール人ラヒメ・ソナットだった。彼らの存在を知ったのは、このときが初めてだった。
仕事で東京・代々木上原のモスク「東京ジャーミイ」を訪れた時、タタール人が建てた東京回教礼拝堂が前身だと知った。隣には子弟が通った学校があったという。今回取り上げたカスム、そしてソナットが通った学校だ。
タタール人の取材をしようと思った時、真っ先に思い浮かんだのがソナットだった。ただ連絡を取ろうとすると、既に亡くなっていたことが分かった。日本を知る世代の高齢化が進んでいる。焦りにも似た思いに駆り立てられ、カスムたちの話を聞いた。(敬称略)
筆者は共同通信イスタンブール支局助手、写真は共同通信契約カメラマン。年齢は2023年2月1日現在。
上田令子(東京都議/自由を守る会代表)
@uedareiko
拡散希望【鳥好き大集合🦜】
いよいよ明日からです♪
🍀ことのわ✖️BIRDESTin浅草橋🍀
ここでしか手に入らない
マニア垂涎の作家さんグッズ
食べるのがもったいないカワウマ🐥スイーツ🍩
明日は終日お姐もいますよ♪
引用ツイート
上田令子(東京都議/自由を守る会代表)
@uedareiko
·
1月28日
《虐待、飼育放棄0を目指して》
【べるを商店】様に
個人で活動する べるをさんの今までに保護した鳥たちの報告会
映像を見ながら保護した鳥たちの治療、少しずつ元気になる姿、里親さんへの譲渡などをお話しして頂きます
4羽のセキセイ東京鳥飼議員お姐が司会を務めます🦜 https://ameblo.jp/kotonowa2016/entry-12770890364.html
午後2:04 · 2023年2月3日
·
1,736
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@uedareiko
拡散希望【鳥好き大集合🦜】
いよいよ明日からです♪
🍀ことのわ✖️BIRDESTin浅草橋🍀
ここでしか手に入らない
マニア垂涎の作家さんグッズ
食べるのがもったいないカワウマ🐥スイーツ🍩
明日は終日お姐もいますよ♪
引用ツイート
上田令子(東京都議/自由を守る会代表)
@uedareiko
·
1月28日
《虐待、飼育放棄0を目指して》
【べるを商店】様に
個人で活動する べるをさんの今までに保護した鳥たちの報告会
映像を見ながら保護した鳥たちの治療、少しずつ元気になる姿、里親さんへの譲渡などをお話しして頂きます
4羽のセキセイ東京鳥飼議員お姐が司会を務めます🦜 https://ameblo.jp/kotonowa2016/entry-12770890364.html
午後2:04 · 2023年2月3日
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● いま コロナの影響もあり 3ヶ所の 施設の運営費が資金難です。 鳥たちの引き取りは増えてます。 寄付、会員さん、里親さんを募集して います。
マサムネ | URL | 2023/02/06(月) 20:43 [EDIT]
マサムネ | URL | 2023/02/06(月) 20:43 [EDIT]
小鳥レスキュー隊の隊長
@bono2019
NPO法人小鳥レスキュー会 レスキュー隊長bonoの Twitter (=^x^=) http://kotori99.org
NPO法人小鳥レスキュー会 鳥の保護施【鳥の駅】運営 現在750羽の鳥を保護飼養中 レスキューの現場を直接お伝えします。 警察署との提携により放置迷子の鳥も保護しています。
埼玉県戸田市美女木1-18-6
kotori99.org
2019年7月からTwitterを利用しています
@bono2019
NPO法人小鳥レスキュー会 レスキュー隊長bonoの Twitter (=^x^=) http://kotori99.org
NPO法人小鳥レスキュー会 鳥の保護施【鳥の駅】運営 現在750羽の鳥を保護飼養中 レスキューの現場を直接お伝えします。 警察署との提携により放置迷子の鳥も保護しています。
埼玉県戸田市美女木1-18-6
kotori99.org
2019年7月からTwitterを利用しています
● 連帯
マースレニツァ | URL | 2023/02/07(火) 21:14 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2023/02/07(火) 21:14 [EDIT]
セルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ特命全権大使
@KorsunskySergiy
ウクライナは、北方領土に対する日本の主権を全面的に支持する。ロシアは占領者であり、国際法を遵守しなければならない。
午後11:36 · 2023年2月6日
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1,93件のリツイート
79件の引用ツイート
@KorsunskySergiy
ウクライナは、北方領土に対する日本の主権を全面的に支持する。ロシアは占領者であり、国際法を遵守しなければならない。
午後11:36 · 2023年2月6日
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東雲くによし(孫向文)
@sonkoubun
中国共産党が本日、こっそりとサハリンを「庫頁島」と改名した、もうロシアが解体を予測して、どさくさ紛れて樺太を乗っ取ろうとするようです
中国語WIKIと百度でも「中国の固有領土」と書いてる
@sonkoubun
中国共産党が本日、こっそりとサハリンを「庫頁島」と改名した、もうロシアが解体を予測して、どさくさ紛れて樺太を乗っ取ろうとするようです
中国語WIKIと百度でも「中国の固有領土」と書いてる
2/20(月)
nippon.com
斉藤 勝久
引き揚げのまち”として知られる京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」と、シベリア抑留や引き揚げの資料を展示・所蔵している「平和祈念展示資料館」(東京・新宿区)の合同展示が、2月22日から12日間、東京・丸の内で開催される。戦争を知らない若い世代に、戦争後に起きた史実を伝えるためだ。世界記憶遺産になっている「日本人の引き揚げ」の歴史と課題を考える。
悲惨だったソ連軍支配下の在留邦人
1945年8月の敗戦時、海外に軍人・軍属と、民間人がほぼ半数ずつの計約660万の日本人が残された。ポツダム宣言の第9項に「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和的な生活ができる機会が与えられる」とされたため、軍人の復員は同年9月から徐々に始まった。引き揚げ者を迎える港には博多、佐世保、舞鶴、浦賀など18カ所が指定された。
一方、民間人の日本への引き揚げは法的根拠がなく、また最初期に日本政府が外地の日本人の現地定着を指示したことで、引き揚げ政策が大きく遅れてしまったため、一部の地域では大混乱となる。在外日本人は中国、ソ連、米国(南洋諸島、フィリピン、朝鮮南部など)、英国・オランダ(東南アジアなど)、豪州(ボルネオ島など)の5つの軍管区の軍隊の支配下に入った。しかし、各国の軍隊で日本人に対する扱いが大きく違った。
特に悲惨だったのは、ソ連軍管区となる旧満州(現中国東北部)や朝鮮北部、樺太、千島列島にいた在留日本人である。大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連は、開拓団を含め日本人約155万人が居住していた満州に侵攻した。
青壮年男子が関東軍に“根こそぎ召集”されていたので、女性、老人、子どもだけの避難行となった。現地民の襲撃を避けて原野をさまよい、やっと都市部にたどり着くとソ連兵の暴行、略奪が待っていた。現地で中国人に引き取られる子どもや、生きるために帰国をあきらめる女性もいた。
ソ連軍は満州などに取り残された日本人の送還について関心を見せず、ソ連軍が撤退した後の1946年5月、ようやく引き揚げが米軍の輸送船を使って始まった。引き揚げ船が出る満州南部の葫蘆(ころ)島まで、ソ満国境から2000キロを逃げてきた人もいたという。満州からの引き揚げの犠牲者は、日ソ戦の死亡者を含め約24万5000人。東京大空襲、広島原爆、沖縄戦よりも多い死者数となった。
ソ連軍は一方で、武装解除した日本兵ら約57万5000人をシベリアなどに連れていき、零下20~40度となる厳冬、乏しい食糧の中で、強制労働をさせた。このため、その1割の約5万5000人が亡くなった。「シベリア抑留」である。
伝染病のため本土目前で亡くなった人たち
外地からの引き揚げ船には2000~3000人が乗っており、伝染病対策として厳しい検疫が課せられた。1946年4月、中国・広東から浦賀に入港した船内でコレラが発生し、20隻が海上隔離のため沖合停泊となった。このため7万人近い引き揚げ者が本土の前で待機させられ、約400人が船内で死亡したという記録も残っている。
平和祈念展示資料館の山口隆行・学芸員の説明によると、引き揚げ者は帰国後も苦しい生活を強いられた。財産のほとんどは外地に残したままで、帰国しても日本に生活の基盤がなかった人が多く、さらにソ連軍管理地域からの引き揚げ者の場合、一家の働き手である青壮年の男性が抑留されて何年も帰って来なかったことが多かったため、戦後の混乱の中では生活の再建が厳しかった。
その貧しい生活実態がたびたび社会問題となった。政府は引揚者給付金制度を設けたり、特別交付金を支給したりしたが、“すずめの涙”ほどの額で、在外財産が戻ってくることはなかった。
最後の引き揚げ港・舞鶴
引き揚げは1958年まで続くが、50年以降では舞鶴だけとなる。舞鶴は日本海側で唯一の軍港として栄えた都市で、戦後13年間にわたり約66万人と遺骨1万6000余柱を受け入れる「引き揚げのまち」となった。シベリア抑留は最長で11年にも及んだが、最後の帰還者を出迎えたのもここである。
舞鶴市は88年に引揚記念館を開館した。そして、所蔵する関係資料をユネスコ世界記憶遺産に申請し、2015年、「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が国際登録された。
シベリア抑留の過酷な日々の中で、日本に帰れることを信じて収容所(ラーゲリ)に希望の灯をともした主人公と、再会を願う家族との愛を描いた映画『ラーゲリより愛を込めて』が、2022年12月から上映中だ。また、ロシアの侵攻によるウクライナ戦争が続いている。戦争をこれまで以上に身近なものとして感じるようになった日本人が増える中で、戦争の記憶を次世代につなぎ、平和の願いを発信するイベントが開催される。
今回の合同展示に出品される、世界記憶遺産の登録資料「白樺日誌」。シベリア抑留者が紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷への想いを約200首の和歌にして書き記した。(舞鶴引揚記念館提供)
舞鶴引揚記念館と平和祈念展示資料館の資料90点を合同展示する「ラーゲリからのメッセージ シベリア抑留の記憶をつなぐ」と題した初めてのイベントで、2月22日から3月5日まで。会場は東京駅丸の内南口前のKITTE(東京中央郵便局)だ。入場無料。
舞鶴から出品されるのは、世界記憶遺産登録資料として、シベリア抑留者が現地で紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷の想いを和歌に書き記した「白樺日誌」。出征兵士となった一人息子の帰国を信じ、引き揚げ船の入港に合わせて何度も舞鶴に通い、「岸壁の母」の歌のモデルとなった端野(はしの)いせさんの資料。舞鶴の湾内に造られ、引き揚げ者を迎えた「平(たいら)桟橋」の模型などだ。
同館の長嶺睦・学芸員は、「これまで全国の引き揚げ港を巡回して、引き揚げやシベリア抑留の史実と、平和の尊さを発信してきた。戦後80年(2025年)を目前にして今一度、全国の皆さんに平和について考えていただく機会となるよう、首都東京での合同展示を行う」と企画の意図を話す。
今回のイベントの特徴は、舞鶴から若い「学生語り部」が登場することだ。これまで体験者が語っていたものを、21世紀生まれの若い世代が伝える。同館では、次世代への継承は、「次世代による継承」にシフトしており、中学生15名、高校生13名、大学生と専門学校生各1名の学生語り部が、「同世代に伝えたい」と活動している。
消えつつある貴重な資料
引き揚げの問題で現在、深刻なのは体験者が高齢となり、次々に亡くなって、関係者が所持、保管していた資料が散逸、廃棄されていることだ。世界遺産登録に尽力した長嶺学芸員は、「630万人が引き揚げで生還した壮大な出来事が日本の歴史から消えようとしている」と訴える。
平和祈念展示資料館によると、体験者や、その子世代の人が終活の一環として、既に亡くなっている親が持っていた引き揚げ当時の物を持ち込んだり、寄贈について相談したりするケースが増えているという。しかし今後、孫の世代になると祖父らが大事にしていた物にはあまり興味がなく、処分されてしまうことが予想される。
「1月から4月まで館内で開かれている企画展『収容所と日本を結んだ葉書』は、シベリア抑留の最終引き揚げ船で帰ってきた10年以上の長期抑留者が、家族や友人と交わした葉書を集めたものです。関係者から昨年8月に寄贈されたばかりの資料58枚のうち、19枚が展示されている。このように時々だが、貴重な資料が持ち込まれることもある。こうした資料は散逸すると、もう戻らないものなので、処分する前に公的な資料館などに相談してほしい」(同館の山口学芸員)。
在留邦人の引き揚げは世界的にも極めて広範囲で大規模だったが、その記憶と重要な史料が消えないよう、国民的理解を増すためにも、今回の合同展が期待されている。
【Profile】
斉藤 勝久
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。
nippon.com
斉藤 勝久
引き揚げのまち”として知られる京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」と、シベリア抑留や引き揚げの資料を展示・所蔵している「平和祈念展示資料館」(東京・新宿区)の合同展示が、2月22日から12日間、東京・丸の内で開催される。戦争を知らない若い世代に、戦争後に起きた史実を伝えるためだ。世界記憶遺産になっている「日本人の引き揚げ」の歴史と課題を考える。
悲惨だったソ連軍支配下の在留邦人
1945年8月の敗戦時、海外に軍人・軍属と、民間人がほぼ半数ずつの計約660万の日本人が残された。ポツダム宣言の第9項に「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和的な生活ができる機会が与えられる」とされたため、軍人の復員は同年9月から徐々に始まった。引き揚げ者を迎える港には博多、佐世保、舞鶴、浦賀など18カ所が指定された。
一方、民間人の日本への引き揚げは法的根拠がなく、また最初期に日本政府が外地の日本人の現地定着を指示したことで、引き揚げ政策が大きく遅れてしまったため、一部の地域では大混乱となる。在外日本人は中国、ソ連、米国(南洋諸島、フィリピン、朝鮮南部など)、英国・オランダ(東南アジアなど)、豪州(ボルネオ島など)の5つの軍管区の軍隊の支配下に入った。しかし、各国の軍隊で日本人に対する扱いが大きく違った。
特に悲惨だったのは、ソ連軍管区となる旧満州(現中国東北部)や朝鮮北部、樺太、千島列島にいた在留日本人である。大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連は、開拓団を含め日本人約155万人が居住していた満州に侵攻した。
青壮年男子が関東軍に“根こそぎ召集”されていたので、女性、老人、子どもだけの避難行となった。現地民の襲撃を避けて原野をさまよい、やっと都市部にたどり着くとソ連兵の暴行、略奪が待っていた。現地で中国人に引き取られる子どもや、生きるために帰国をあきらめる女性もいた。
ソ連軍は満州などに取り残された日本人の送還について関心を見せず、ソ連軍が撤退した後の1946年5月、ようやく引き揚げが米軍の輸送船を使って始まった。引き揚げ船が出る満州南部の葫蘆(ころ)島まで、ソ満国境から2000キロを逃げてきた人もいたという。満州からの引き揚げの犠牲者は、日ソ戦の死亡者を含め約24万5000人。東京大空襲、広島原爆、沖縄戦よりも多い死者数となった。
ソ連軍は一方で、武装解除した日本兵ら約57万5000人をシベリアなどに連れていき、零下20~40度となる厳冬、乏しい食糧の中で、強制労働をさせた。このため、その1割の約5万5000人が亡くなった。「シベリア抑留」である。
伝染病のため本土目前で亡くなった人たち
外地からの引き揚げ船には2000~3000人が乗っており、伝染病対策として厳しい検疫が課せられた。1946年4月、中国・広東から浦賀に入港した船内でコレラが発生し、20隻が海上隔離のため沖合停泊となった。このため7万人近い引き揚げ者が本土の前で待機させられ、約400人が船内で死亡したという記録も残っている。
平和祈念展示資料館の山口隆行・学芸員の説明によると、引き揚げ者は帰国後も苦しい生活を強いられた。財産のほとんどは外地に残したままで、帰国しても日本に生活の基盤がなかった人が多く、さらにソ連軍管理地域からの引き揚げ者の場合、一家の働き手である青壮年の男性が抑留されて何年も帰って来なかったことが多かったため、戦後の混乱の中では生活の再建が厳しかった。
その貧しい生活実態がたびたび社会問題となった。政府は引揚者給付金制度を設けたり、特別交付金を支給したりしたが、“すずめの涙”ほどの額で、在外財産が戻ってくることはなかった。
最後の引き揚げ港・舞鶴
引き揚げは1958年まで続くが、50年以降では舞鶴だけとなる。舞鶴は日本海側で唯一の軍港として栄えた都市で、戦後13年間にわたり約66万人と遺骨1万6000余柱を受け入れる「引き揚げのまち」となった。シベリア抑留は最長で11年にも及んだが、最後の帰還者を出迎えたのもここである。
舞鶴市は88年に引揚記念館を開館した。そして、所蔵する関係資料をユネスコ世界記憶遺産に申請し、2015年、「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が国際登録された。
シベリア抑留の過酷な日々の中で、日本に帰れることを信じて収容所(ラーゲリ)に希望の灯をともした主人公と、再会を願う家族との愛を描いた映画『ラーゲリより愛を込めて』が、2022年12月から上映中だ。また、ロシアの侵攻によるウクライナ戦争が続いている。戦争をこれまで以上に身近なものとして感じるようになった日本人が増える中で、戦争の記憶を次世代につなぎ、平和の願いを発信するイベントが開催される。
今回の合同展示に出品される、世界記憶遺産の登録資料「白樺日誌」。シベリア抑留者が紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷への想いを約200首の和歌にして書き記した。(舞鶴引揚記念館提供)
舞鶴引揚記念館と平和祈念展示資料館の資料90点を合同展示する「ラーゲリからのメッセージ シベリア抑留の記憶をつなぐ」と題した初めてのイベントで、2月22日から3月5日まで。会場は東京駅丸の内南口前のKITTE(東京中央郵便局)だ。入場無料。
舞鶴から出品されるのは、世界記憶遺産登録資料として、シベリア抑留者が現地で紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷の想いを和歌に書き記した「白樺日誌」。出征兵士となった一人息子の帰国を信じ、引き揚げ船の入港に合わせて何度も舞鶴に通い、「岸壁の母」の歌のモデルとなった端野(はしの)いせさんの資料。舞鶴の湾内に造られ、引き揚げ者を迎えた「平(たいら)桟橋」の模型などだ。
同館の長嶺睦・学芸員は、「これまで全国の引き揚げ港を巡回して、引き揚げやシベリア抑留の史実と、平和の尊さを発信してきた。戦後80年(2025年)を目前にして今一度、全国の皆さんに平和について考えていただく機会となるよう、首都東京での合同展示を行う」と企画の意図を話す。
今回のイベントの特徴は、舞鶴から若い「学生語り部」が登場することだ。これまで体験者が語っていたものを、21世紀生まれの若い世代が伝える。同館では、次世代への継承は、「次世代による継承」にシフトしており、中学生15名、高校生13名、大学生と専門学校生各1名の学生語り部が、「同世代に伝えたい」と活動している。
消えつつある貴重な資料
引き揚げの問題で現在、深刻なのは体験者が高齢となり、次々に亡くなって、関係者が所持、保管していた資料が散逸、廃棄されていることだ。世界遺産登録に尽力した長嶺学芸員は、「630万人が引き揚げで生還した壮大な出来事が日本の歴史から消えようとしている」と訴える。
平和祈念展示資料館によると、体験者や、その子世代の人が終活の一環として、既に亡くなっている親が持っていた引き揚げ当時の物を持ち込んだり、寄贈について相談したりするケースが増えているという。しかし今後、孫の世代になると祖父らが大事にしていた物にはあまり興味がなく、処分されてしまうことが予想される。
「1月から4月まで館内で開かれている企画展『収容所と日本を結んだ葉書』は、シベリア抑留の最終引き揚げ船で帰ってきた10年以上の長期抑留者が、家族や友人と交わした葉書を集めたものです。関係者から昨年8月に寄贈されたばかりの資料58枚のうち、19枚が展示されている。このように時々だが、貴重な資料が持ち込まれることもある。こうした資料は散逸すると、もう戻らないものなので、処分する前に公的な資料館などに相談してほしい」(同館の山口学芸員)。
在留邦人の引き揚げは世界的にも極めて広範囲で大規模だったが、その記憶と重要な史料が消えないよう、国民的理解を増すためにも、今回の合同展が期待されている。
【Profile】
斉藤 勝久
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。
● パラグワイでメノニータの家に招かれて行くと、ドイツ人の3世でも、ドイツ語を話して読み書きが出来るのを見て、その勉強方法は簡単で根気が要る方法でした。 毎日、ドイツ語の1ページを書き写して、それを読まなければ夕食を食べられないと言う勉強方法でした。
マサムネ | URL | 2023/02/23(木) 08:02 [EDIT]
マサムネ | URL | 2023/02/23(木) 08:02 [EDIT]
「 ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の補強につとめていたのであろう。」
将来、日本の危機、崩壊が訪れ、政治家、指導者、報道などの無策、失敗の責任を問われるだろう。
「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。」
『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)
将来、日本の危機、崩壊が訪れ、政治家、指導者、報道などの無策、失敗の責任を問われるだろう。
「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。」
『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)
つまり彼女の様な人々は、社会の解体、日本社会の弱体化を、書物、テレビで宣伝しまくり、上位層大学の若い人に刷り込んでいた。あの家族否定メッセージを刷り込まれた人々はどうなったか?
あれを鵜呑みにして未婚、子供なしのまま歳をとったり、あのメッセージが裏にある政策や教育をやる側になってしまった。
事実そういう人はかなりいます。
若い人の潜在意識に残り、大衆は言われたことを鵜呑みにしますから。
若い人は官僚や専門職や教師や管理職になった。でも彼女の様な嘘つきプロパガンダマシンに接触していなかったヤンキー層や庶民層の価値観はそのままだったから、家族を持って穏健に暮らしている。上野千鶴子氏の様な二枚舌の嘘つきを招聘し、若い人に家族解体、社会規範の破壊というマルクス主義のメッセージを送り続けた大学やメディアの罪は重い。彼女は他人には結婚は悪だと解きつつ自分はちゃっかり伝統的婚姻。ただの嘘つき。ヤク中で生活がめちゃくちゃな自己啓発本の著者と変わりませんよ
清水ともみさんがリツイートしました
木曽崇/Takashi Kiso
@takashikiso
上野千鶴子がポジショントークの塊でしかないってことは、僕は昔から言及してきたけど、まさか長年の不倫相手の正妻への当てつけで結婚制度を否定し、「おひとり様」を主張し、正妻が亡くなったらまんまと結婚してていたとは。。誰だよ、あんなんを東大の教授にしたのは
(って、元旦那か)
引用ツイート
木曽崇/Takashi Kiso
@takashikiso
·
2019年7月17日
上野なんて、自分自身でも「ポジショントーク」を自認してる学者では「ない」人種なので、あんなもんをマジメに受け止めても意味ない
→【上野千鶴子先生と東大生のライブ討論】それでも消えない祝辞への疑問を、本人に投げかける http://todai-umeet.com/article/39141/ @UmeeT_mediaさんから
午前4:11 · 2023年2月22日
あれを鵜呑みにして未婚、子供なしのまま歳をとったり、あのメッセージが裏にある政策や教育をやる側になってしまった。
事実そういう人はかなりいます。
若い人の潜在意識に残り、大衆は言われたことを鵜呑みにしますから。
若い人は官僚や専門職や教師や管理職になった。でも彼女の様な嘘つきプロパガンダマシンに接触していなかったヤンキー層や庶民層の価値観はそのままだったから、家族を持って穏健に暮らしている。上野千鶴子氏の様な二枚舌の嘘つきを招聘し、若い人に家族解体、社会規範の破壊というマルクス主義のメッセージを送り続けた大学やメディアの罪は重い。彼女は他人には結婚は悪だと解きつつ自分はちゃっかり伝統的婚姻。ただの嘘つき。ヤク中で生活がめちゃくちゃな自己啓発本の著者と変わりませんよ
清水ともみさんがリツイートしました
木曽崇/Takashi Kiso
@takashikiso
上野千鶴子がポジショントークの塊でしかないってことは、僕は昔から言及してきたけど、まさか長年の不倫相手の正妻への当てつけで結婚制度を否定し、「おひとり様」を主張し、正妻が亡くなったらまんまと結婚してていたとは。。誰だよ、あんなんを東大の教授にしたのは
(って、元旦那か)
引用ツイート
木曽崇/Takashi Kiso
@takashikiso
·
2019年7月17日
上野なんて、自分自身でも「ポジショントーク」を自認してる学者では「ない」人種なので、あんなもんをマジメに受け止めても意味ない
→【上野千鶴子先生と東大生のライブ討論】それでも消えない祝辞への疑問を、本人に投げかける http://todai-umeet.com/article/39141/ @UmeeT_mediaさんから
午前4:11 · 2023年2月22日
「知らずにいるという暗闇晴れる」 中国の流出データでウイグル族が知る、不明家族の実態
流出した中国警察のデータから兄弟が投獄されたことを知ったママジャン・ジュマさん/CNN
2023.02.20 Mon posted at 21:00 JST
ファイルを見て「安堵(あんど)」の気持ちを抱いた。何年も知らずにいた状態が解消されて、「力を与えられる」思いだと語った。
「自暴自棄の苦い思いが消えてなくなる」、「知らずにいるという暗闇も晴れていく」(ジュマさん)
それでも、自分が故郷を去ったために家族が迫害されているという罪悪感に耐えるのは容易ではない。
「日々それに苦しめられている」と、ジュマさんは語った。
た。サライさんによればそれは事実ではない。中国国外で2人が渡航した経験があるのは、休暇で出かけたマレーシアだけだ。
「こんなことは馬鹿げている。ひどい」。甥のファイルを読み進めながら、サライさんはそう口にした。「後2~3カ月で彼は18歳になる。彼らはあの子を逮捕するつもりだろうか?」
2人の母親でサライさんの姉妹にあたるマイラ・ヤクフさんは、数年を収容所で過ごした後、20年の終わりに禁錮6年半の判決を言い渡された。
ヤクフさんは13年、サライさんと両親がオーストラリアで家を購入できるように送金した後でテロ行為に資金援助した疑いをかけられていた。
サライさんとヤクフさんには1998年に新疆を後にし、2007年にオーストラリアで事故死した兄弟がいる。警察はこの兄弟との血縁関係を理由に甥を疑っていると、サライさんはみている。兄弟と甥が会ったことは一度もないという。
「心の痛みを感じる。いつ姪と甥が捕まるかと、おびえながら暮らすことになるだろう」(サライさん)
「心のウイルスのように」
「関係性による罪」が子どもたちにまで及ぶ実態は、中国という国家がウイグル人口に対して抱く被害妄想を反映していると、ゼンツ氏は指摘する。
「国家は、家族全体が汚染されていると考える」「これは習近平氏をはじめとする当局者らが内々で話す内容と一致すると思う。彼らはイスラム教を人々に感染する心のウイルスのように形容している」
今回の新たなデータ流出を受け、研究者らは新疆内部での政策に関する証拠が一段と拡大するのを期待する。またファイルへの広範なアクセスを提供することで、各国政府や人権団体には改めて中国に責任を課すよう取り組んでほしいと願う。
「これがウイグルの人々の間にいくらかの希望を呼び起こすことを切に願う」(ゼンツ氏)
必死の思いで再会を果たそうとする世界中のウイグルの家族にとっては、ファイルに記された83万の名前の一つひとつが愛する人の象徴に他ならない。
米国で暮らすジュマさんは、「美しい魂が、これらの数字の裏で破壊されている」「全くいわれのない苦しみがそこにある」と語った。
流出した中国警察のデータから兄弟が投獄されたことを知ったママジャン・ジュマさん/CNN
2023.02.20 Mon posted at 21:00 JST
ファイルを見て「安堵(あんど)」の気持ちを抱いた。何年も知らずにいた状態が解消されて、「力を与えられる」思いだと語った。
「自暴自棄の苦い思いが消えてなくなる」、「知らずにいるという暗闇も晴れていく」(ジュマさん)
それでも、自分が故郷を去ったために家族が迫害されているという罪悪感に耐えるのは容易ではない。
「日々それに苦しめられている」と、ジュマさんは語った。
た。サライさんによればそれは事実ではない。中国国外で2人が渡航した経験があるのは、休暇で出かけたマレーシアだけだ。
「こんなことは馬鹿げている。ひどい」。甥のファイルを読み進めながら、サライさんはそう口にした。「後2~3カ月で彼は18歳になる。彼らはあの子を逮捕するつもりだろうか?」
2人の母親でサライさんの姉妹にあたるマイラ・ヤクフさんは、数年を収容所で過ごした後、20年の終わりに禁錮6年半の判決を言い渡された。
ヤクフさんは13年、サライさんと両親がオーストラリアで家を購入できるように送金した後でテロ行為に資金援助した疑いをかけられていた。
サライさんとヤクフさんには1998年に新疆を後にし、2007年にオーストラリアで事故死した兄弟がいる。警察はこの兄弟との血縁関係を理由に甥を疑っていると、サライさんはみている。兄弟と甥が会ったことは一度もないという。
「心の痛みを感じる。いつ姪と甥が捕まるかと、おびえながら暮らすことになるだろう」(サライさん)
「心のウイルスのように」
「関係性による罪」が子どもたちにまで及ぶ実態は、中国という国家がウイグル人口に対して抱く被害妄想を反映していると、ゼンツ氏は指摘する。
「国家は、家族全体が汚染されていると考える」「これは習近平氏をはじめとする当局者らが内々で話す内容と一致すると思う。彼らはイスラム教を人々に感染する心のウイルスのように形容している」
今回の新たなデータ流出を受け、研究者らは新疆内部での政策に関する証拠が一段と拡大するのを期待する。またファイルへの広範なアクセスを提供することで、各国政府や人権団体には改めて中国に責任を課すよう取り組んでほしいと願う。
「これがウイグルの人々の間にいくらかの希望を呼び起こすことを切に願う」(ゼンツ氏)
必死の思いで再会を果たそうとする世界中のウイグルの家族にとっては、ファイルに記された83万の名前の一つひとつが愛する人の象徴に他ならない。
米国で暮らすジュマさんは、「美しい魂が、これらの数字の裏で破壊されている」「全くいわれのない苦しみがそこにある」と語った。
シュプナル・法純(僧侶)
ロシアによるウクライナ侵攻という最悪の状況が続いており、この戦争に仏教はどう向き合えばよいのか、問いを続けずにはいられない。そしてこの時代に、日本で活動を続けるウクライナの隣国ポーランド出身の禅僧がいる。シュプナル・法純師である。法純師はこの戦争をどのように考えているのか、また、ポーランドでの仏教との出会いやこれまでの人生なども踏まえて、今こそ立ち返るべき仏教が目指す道についてお話をうかがった。
第1回 カトリックから禅へ
■カトリックの国、ポーランドに生まれて
──法純さんはポーランドご出身ですが、どのような経緯で仏教に出会い、日本に来られたのですか?
私はポーランド出身で、現在は日本の曹洞宗の僧侶ですが、伝統的なカトリック教徒の家族で生まれ育ちました。ポーランドでは宗教は一番の基本ですが、日本は無宗教の方も多いようですね。また、昔から色々な宗派があり、そのうえ「神仏習合」もあったので、私の知る限りではどれが神道でどれが仏教なのか区別ができない方もかなりいるようです。そこは日本人のかなり特種なところではないでしょうか。
私は日本に住んでいるので外国人ですが、特に最近はポーランド人としてのアイデンティティを感じるようになりました。ポーランドは966年に初代ポーランド国王がキリスト教に改宗して以来、ローマ・カトリックを国教としています。さまざまな習慣や祝祭日もカトリックの教義に基づきます。
日本は島国なので少し違いますが、そもそも国というのは、「地図に引いたAの線からBの線まではA国で、Bの線からCの線まではB国」というように単純に分けるのでなく、何を信じているのかを基準にしていました。キリスト教やイスラム教といった宗教の違いだけでなく、同じキリスト教でもカトリックとかギリシャ正教とか、プロテスタントとかいろいろあり、それもまた争いの原因になりました。そのように歴史をみると、欧州の国民性の中心には宗教観があると言えるでしょう。
ポーランドも、決して例外ではないです。今の若い世代はそれほど宗教観が強くないかもしれませんが、もう少し年配の私の両親の世代をみるととても強いです。私も宗教があるのが当たり前で、宗教がないという世界が想像できないくらい大切に感じていました。
私は生まれたばかりで幼児洗礼を受けキリスト教徒になりました。両親は毎日、朝起きてすぐと寝る前には壁に掛けた十字架の前で主の祈りを唱え、私も子どものときは当たり前のこととして一緒に祈っていました。信仰がある家庭は幸せです。
■道を求めて
そのような環境で育った私ですが、17歳の頃から自分の宗教観が震え始めました。当時の神父さんたちが、私が求めていた「神様」をオファーすることができなくて、ある意味では、教会で教える「神様」に対して疑問を持つようになりました。そして違う宗教やスピリチュアル的な道を探すようになったのです。元々哲学が大好きでしたから、そういったことに関心を持って自分の道を探していましたが、それは教会では見つからないと思い、だんだんと教会から離れるようになりました。
当時は両親と一緒に住んでいて日曜にミサに行くのは当然のことでしたが、家族には「ミサに行く」と言って公園や街中で時間をつぶしていました。そしてミサが終わるころ家に帰りましたが、誰にも疑われませんでした。
■チベット仏教の瞑想センター
そのころ、ソギャル・リンポチェの『チベットの生と死の書』という本に出会いました。仏教では人が亡くなってから次に生まれる前に「中有」という時間があり、その時に、死者の心をどうやって導けばいいかというマニュアルのような本です。ヨーロッパですごいロングセラーになって、私も読んでみると不思議に心に響きました。今まで聞いた教会の話とは少し違う、そういう道もあるのかと思い、もっと知りたくなりました。
大学に入学して、家を出て大きな街に住み始めると、その街にチベット仏教の瞑想センターがありました。瞑想センターといっても、実際は普通のアパートです。さっそく仲間に入りチベット仏教を学び、瞑想をしましたが、すぐにそのグループに違和感を持つようになりました。おそらく、その時はまだ、完全に自分のキリスト教さを脱皮してなかったため、そういうエキゾチックなことをやるのが怖かったのでしょう。さらに言えば、日本のある意味での、なんでもいい、ゆるい宗教観に対して、ポーランド人の宗教の「堅さ」もあったかと思います。
また、その瞑想会のメンバーのなかで、私だけ初心者でした。他のメンバーはある程度経験があり専門的なことを当たり前として知っていましたから、若干、初心者である私をバカにして偉そうにしている雰囲気もありました。それで、間もなくやめました。
■禅との出会い
次に、禅のイベントに参加しました。どこかの街角で坐禅入門というポスターを目にして興味を持ち、参加することにしました。そこもボロボロのアパートで、参加している人はヨガの先生など独特の雰囲気のある人が多かったです。今はヨガがポーランドでも市民権を得て、街中にホットヨガやコールドヨガの看板もよく見かけますが、二十年以上前の当時は違っていました。カトリックからすると、ヨガというのは悪魔の教えでした。仏教もそうですよ。神父さんたちは平気でそう言います。そういった話をする神父さんは、まだ今でもいると思いますね。
坐禅会に参加していたのはヨガの先生の他にも、自分で事業をしている人や無職の人などもかなりいました。つまりポーランドにおいては、メインストリームの常識的な社会人ではなく、ちょっと外れた人たちばかりでした。
そこにいたお和尚さんは日本でずっと修行されたポーランド人です。当時42か43歳でしたから、今の私とほぼ同じ年齢ですね。そのお和尚さんがされた法話が、教会の説教とは全然違っていて驚きました。根本的にわかりやすいし、響いてくる。「あっ、これは私のことを言っている」と自然に心に入ってくるんですね。
特に、日常生活をどう生きるべきかというお話が響きました。「殺してはいけない、嘘をついてはいけないということをブッダは教えた」とてもシンプルですが、そこが本当に素晴らしい。私はそんなことを初めて言われました。他の多くの宗教のように、絶対的な神様がいるので信じなさいではありませんでした。
こんな教えもあるのだと惹かれました。特に勧誘されたのではなくて、もっと話を聞きたいという気持ちで、お和尚さんが指導されている禅道場に入り、そこの人たちと一生懸命に坐禅をしました。その後、お和尚さんは私の得度師匠になりました。
■ミサと坐禅会の大きな違い
今はそうではありませんが、その頃の私はカトリックに批判的な態度をとっていました。カトリックとキリスト教の教えは少し別ですが、カトリック教会という権威的な組織に対しては結構批判的でしたね。禅の方が素朴で、お袈裟もかっこいい。お和尚さんも神父さんのように祭壇に立っていて崇めるような、権威的な存在ではありませんでした。法話のあとで「なにか質問ありますか?」と聞いてくださり、いくらでも質問ができました。しかも、坐禅会が終わると「じゃあ、一緒にお茶を飲みましょうか」と声をかけてくれてフレンドリーです。日本はわかりませんが、ポーランドの教会ではミサでいきなり「ハイ! 質問があります!」とかありえないです。儀式プラス短い説教があるだけで終わりです。
今でも欧米の禅道場やチベット仏教のセンターをみると、やはりみんなそんな感じです。日本の禅はまだ硬いですよね、日本に行ってびっくりしました。お和尚さんは偉い存在だからみんな遠慮していますし、寺のことがなんとなく怖いという場合も少なくない。でも、向こうは全くそうじゃないんですね。
第2回 禅僧への道
■柔軟心に憧れて
やがて私は坐禅グループのリーダー的な立場になりました。人を引っ張る気持ちはなかったのですが、坐禅会や接心、師匠の法話会などを主催するようになり、自然にみんなを引っぱり始めたんですね。同時に、当時は大学の英語学科に在籍していたので、例えばチベット人のラマさんたちがポーランドに来られた時は、頼まれて通訳などもしていました。そうして、だんだん仏教の世界で顔が広くなっていきました。
属していた禅センターの他のメンバーは日本の剣道に興味があったり、書道に興味があったり、あるいは禅にひかれたという人たちでした。でも、当時の私は日本には興味がありませんでしたし、日本語も勉強していませんでした。日本という国は、当時の自分にとって存在感がなかったのですね。
最初から禅というより、仏教そのものに惹かれていたところが大きかったのかもしれません。欧米では禅というと、かっこいいとか、「今ここに成りきる」とか、ゾーンに入るとか、武士や刀といったイメージがありますが、私はそこはあまり魅力的に思えませんでした。逆に釈尊の柔軟心(にゅうなんしん)という柔らかい心を育てる方法に憧れていました。
ロシアによるウクライナ侵攻という最悪の状況が続いており、この戦争に仏教はどう向き合えばよいのか、問いを続けずにはいられない。そしてこの時代に、日本で活動を続けるウクライナの隣国ポーランド出身の禅僧がいる。シュプナル・法純師である。法純師はこの戦争をどのように考えているのか、また、ポーランドでの仏教との出会いやこれまでの人生なども踏まえて、今こそ立ち返るべき仏教が目指す道についてお話をうかがった。
第1回 カトリックから禅へ
■カトリックの国、ポーランドに生まれて
──法純さんはポーランドご出身ですが、どのような経緯で仏教に出会い、日本に来られたのですか?
私はポーランド出身で、現在は日本の曹洞宗の僧侶ですが、伝統的なカトリック教徒の家族で生まれ育ちました。ポーランドでは宗教は一番の基本ですが、日本は無宗教の方も多いようですね。また、昔から色々な宗派があり、そのうえ「神仏習合」もあったので、私の知る限りではどれが神道でどれが仏教なのか区別ができない方もかなりいるようです。そこは日本人のかなり特種なところではないでしょうか。
私は日本に住んでいるので外国人ですが、特に最近はポーランド人としてのアイデンティティを感じるようになりました。ポーランドは966年に初代ポーランド国王がキリスト教に改宗して以来、ローマ・カトリックを国教としています。さまざまな習慣や祝祭日もカトリックの教義に基づきます。
日本は島国なので少し違いますが、そもそも国というのは、「地図に引いたAの線からBの線まではA国で、Bの線からCの線まではB国」というように単純に分けるのでなく、何を信じているのかを基準にしていました。キリスト教やイスラム教といった宗教の違いだけでなく、同じキリスト教でもカトリックとかギリシャ正教とか、プロテスタントとかいろいろあり、それもまた争いの原因になりました。そのように歴史をみると、欧州の国民性の中心には宗教観があると言えるでしょう。
ポーランドも、決して例外ではないです。今の若い世代はそれほど宗教観が強くないかもしれませんが、もう少し年配の私の両親の世代をみるととても強いです。私も宗教があるのが当たり前で、宗教がないという世界が想像できないくらい大切に感じていました。
私は生まれたばかりで幼児洗礼を受けキリスト教徒になりました。両親は毎日、朝起きてすぐと寝る前には壁に掛けた十字架の前で主の祈りを唱え、私も子どものときは当たり前のこととして一緒に祈っていました。信仰がある家庭は幸せです。
■道を求めて
そのような環境で育った私ですが、17歳の頃から自分の宗教観が震え始めました。当時の神父さんたちが、私が求めていた「神様」をオファーすることができなくて、ある意味では、教会で教える「神様」に対して疑問を持つようになりました。そして違う宗教やスピリチュアル的な道を探すようになったのです。元々哲学が大好きでしたから、そういったことに関心を持って自分の道を探していましたが、それは教会では見つからないと思い、だんだんと教会から離れるようになりました。
当時は両親と一緒に住んでいて日曜にミサに行くのは当然のことでしたが、家族には「ミサに行く」と言って公園や街中で時間をつぶしていました。そしてミサが終わるころ家に帰りましたが、誰にも疑われませんでした。
■チベット仏教の瞑想センター
そのころ、ソギャル・リンポチェの『チベットの生と死の書』という本に出会いました。仏教では人が亡くなってから次に生まれる前に「中有」という時間があり、その時に、死者の心をどうやって導けばいいかというマニュアルのような本です。ヨーロッパですごいロングセラーになって、私も読んでみると不思議に心に響きました。今まで聞いた教会の話とは少し違う、そういう道もあるのかと思い、もっと知りたくなりました。
大学に入学して、家を出て大きな街に住み始めると、その街にチベット仏教の瞑想センターがありました。瞑想センターといっても、実際は普通のアパートです。さっそく仲間に入りチベット仏教を学び、瞑想をしましたが、すぐにそのグループに違和感を持つようになりました。おそらく、その時はまだ、完全に自分のキリスト教さを脱皮してなかったため、そういうエキゾチックなことをやるのが怖かったのでしょう。さらに言えば、日本のある意味での、なんでもいい、ゆるい宗教観に対して、ポーランド人の宗教の「堅さ」もあったかと思います。
また、その瞑想会のメンバーのなかで、私だけ初心者でした。他のメンバーはある程度経験があり専門的なことを当たり前として知っていましたから、若干、初心者である私をバカにして偉そうにしている雰囲気もありました。それで、間もなくやめました。
■禅との出会い
次に、禅のイベントに参加しました。どこかの街角で坐禅入門というポスターを目にして興味を持ち、参加することにしました。そこもボロボロのアパートで、参加している人はヨガの先生など独特の雰囲気のある人が多かったです。今はヨガがポーランドでも市民権を得て、街中にホットヨガやコールドヨガの看板もよく見かけますが、二十年以上前の当時は違っていました。カトリックからすると、ヨガというのは悪魔の教えでした。仏教もそうですよ。神父さんたちは平気でそう言います。そういった話をする神父さんは、まだ今でもいると思いますね。
坐禅会に参加していたのはヨガの先生の他にも、自分で事業をしている人や無職の人などもかなりいました。つまりポーランドにおいては、メインストリームの常識的な社会人ではなく、ちょっと外れた人たちばかりでした。
そこにいたお和尚さんは日本でずっと修行されたポーランド人です。当時42か43歳でしたから、今の私とほぼ同じ年齢ですね。そのお和尚さんがされた法話が、教会の説教とは全然違っていて驚きました。根本的にわかりやすいし、響いてくる。「あっ、これは私のことを言っている」と自然に心に入ってくるんですね。
特に、日常生活をどう生きるべきかというお話が響きました。「殺してはいけない、嘘をついてはいけないということをブッダは教えた」とてもシンプルですが、そこが本当に素晴らしい。私はそんなことを初めて言われました。他の多くの宗教のように、絶対的な神様がいるので信じなさいではありませんでした。
こんな教えもあるのだと惹かれました。特に勧誘されたのではなくて、もっと話を聞きたいという気持ちで、お和尚さんが指導されている禅道場に入り、そこの人たちと一生懸命に坐禅をしました。その後、お和尚さんは私の得度師匠になりました。
■ミサと坐禅会の大きな違い
今はそうではありませんが、その頃の私はカトリックに批判的な態度をとっていました。カトリックとキリスト教の教えは少し別ですが、カトリック教会という権威的な組織に対しては結構批判的でしたね。禅の方が素朴で、お袈裟もかっこいい。お和尚さんも神父さんのように祭壇に立っていて崇めるような、権威的な存在ではありませんでした。法話のあとで「なにか質問ありますか?」と聞いてくださり、いくらでも質問ができました。しかも、坐禅会が終わると「じゃあ、一緒にお茶を飲みましょうか」と声をかけてくれてフレンドリーです。日本はわかりませんが、ポーランドの教会ではミサでいきなり「ハイ! 質問があります!」とかありえないです。儀式プラス短い説教があるだけで終わりです。
今でも欧米の禅道場やチベット仏教のセンターをみると、やはりみんなそんな感じです。日本の禅はまだ硬いですよね、日本に行ってびっくりしました。お和尚さんは偉い存在だからみんな遠慮していますし、寺のことがなんとなく怖いという場合も少なくない。でも、向こうは全くそうじゃないんですね。
第2回 禅僧への道
■柔軟心に憧れて
やがて私は坐禅グループのリーダー的な立場になりました。人を引っ張る気持ちはなかったのですが、坐禅会や接心、師匠の法話会などを主催するようになり、自然にみんなを引っぱり始めたんですね。同時に、当時は大学の英語学科に在籍していたので、例えばチベット人のラマさんたちがポーランドに来られた時は、頼まれて通訳などもしていました。そうして、だんだん仏教の世界で顔が広くなっていきました。
属していた禅センターの他のメンバーは日本の剣道に興味があったり、書道に興味があったり、あるいは禅にひかれたという人たちでした。でも、当時の私は日本には興味がありませんでしたし、日本語も勉強していませんでした。日本という国は、当時の自分にとって存在感がなかったのですね。
最初から禅というより、仏教そのものに惹かれていたところが大きかったのかもしれません。欧米では禅というと、かっこいいとか、「今ここに成りきる」とか、ゾーンに入るとか、武士や刀といったイメージがありますが、私はそこはあまり魅力的に思えませんでした。逆に釈尊の柔軟心(にゅうなんしん)という柔らかい心を育てる方法に憧れていました。
ヤルタ会談以前にソ連参戦の情報を入手した男がいた! 公使館員、特派員としても活躍した男はスパイなのか? ポーランドを愛し、生涯を捧げた一人の歴史家の、数奇な生涯。
テヘラン会談で、「ドイツが降伏した後、ソ連は対日参戦する」という機密を入手した日本人がいた。その男の名は、梅田良忠。ポーランド語をはじめとする外国語の達人である彼は、ある時は外交官として大物と渡り合い、またある時は特派員記者として戦地からリポートを送った。誰もが振り返るような美女を連れ、バイオリンを弾き、詩をものした男は、なぜ日本人でありながら、ポーランド人として死ぬことを願ったのか―。第二次大戦下の欧州で、インテリジェンスの世界に身を投じた男の波瀾に満ちた生涯。
目次
謎の人物
若き禅僧の旅立ち
ポーランドに溶け込んだ日本人
ブルガリア公使館付の広報官
「単なるスパイ」
ウメダを監視下に置け
クルロバという女
グループB―ソフィアのポーランド人地下組織
特派員としての苦渋―記者として1
テヘラン会談―記者として2
錯綜する人脈
プロメテウス同盟
地下ポーランド情報機関と日本の協力
失意の帰国、そして敗戦
再生と死と
国境を越えた「連帯」
著者等紹介
梅原季哉[ウメハラトシヤ]
1964年、東京生まれ。朝日新聞ヨーロッパ総局長(ロンドン特派員)。国際基督教大学(ICU)教養学部卒業。88年、朝日新聞社入社。長崎支局で記者生活をスタートし、西部本社社会部、外報部などを経て、97~98年ヨーロッパ総局ブリュッセル駐在、98~2001年ウィーン支局長、06~09年アメリカ総局員(ワシントン特派員)。帰国後、国際報道部デスク、東京社会部デスクなどを経て、13年9月より現職。1993~94年、米ジョージタウン大学外交学大学院(School of Foreign Service)にFellow in Foreign Serviceとして派遣
テヘラン会談で、「ドイツが降伏した後、ソ連は対日参戦する」という機密を入手した日本人がいた。その男の名は、梅田良忠。ポーランド語をはじめとする外国語の達人である彼は、ある時は外交官として大物と渡り合い、またある時は特派員記者として戦地からリポートを送った。誰もが振り返るような美女を連れ、バイオリンを弾き、詩をものした男は、なぜ日本人でありながら、ポーランド人として死ぬことを願ったのか―。第二次大戦下の欧州で、インテリジェンスの世界に身を投じた男の波瀾に満ちた生涯。
目次
謎の人物
若き禅僧の旅立ち
ポーランドに溶け込んだ日本人
ブルガリア公使館付の広報官
「単なるスパイ」
ウメダを監視下に置け
クルロバという女
グループB―ソフィアのポーランド人地下組織
特派員としての苦渋―記者として1
テヘラン会談―記者として2
錯綜する人脈
プロメテウス同盟
地下ポーランド情報機関と日本の協力
失意の帰国、そして敗戦
再生と死と
国境を越えた「連帯」
著者等紹介
梅原季哉[ウメハラトシヤ]
1964年、東京生まれ。朝日新聞ヨーロッパ総局長(ロンドン特派員)。国際基督教大学(ICU)教養学部卒業。88年、朝日新聞社入社。長崎支局で記者生活をスタートし、西部本社社会部、外報部などを経て、97~98年ヨーロッパ総局ブリュッセル駐在、98~2001年ウィーン支局長、06~09年アメリカ総局員(ワシントン特派員)。帰国後、国際報道部デスク、東京社会部デスクなどを経て、13年9月より現職。1993~94年、米ジョージタウン大学外交学大学院(School of Foreign Service)にFellow in Foreign Serviceとして派遣
ロアネア@最多情報源バズニュース
@roaneatan
トルコは地震の捜索に参加した救助犬に対し、貨物室で母国に戻ることを許可しなかった。ファーストクラスの座席で帰宅させた。
補足:「clase de negocios」ではなく「primera clase」と書かれているのでビジネスではなくファーストクラスですが、確かにビジネスっぽく見える。どこの航空会社だか分からないので何ともですが。
@roaneatan
トルコは地震の捜索に参加した救助犬に対し、貨物室で母国に戻ることを許可しなかった。ファーストクラスの座席で帰宅させた。
補足:「clase de negocios」ではなく「primera clase」と書かれているのでビジネスではなくファーストクラスですが、確かにビジネスっぽく見える。どこの航空会社だか分からないので何ともですが。
台湾独立建国聯盟日本本部 林 省吾
2月6日にトルコ・シリア大地震が発生したのを受け、日本、台湾を始め各国の救助隊がすぐさま現地入りした。一刻の猶予もない中、政治的な動機により人命救助の足を引っ張ろうとする国がいた。それは案の定、中国である。台湾の救助隊は震災翌日の7日に現地に到着した。現地で不足している高機能の設備を持ち込んだため、難度の高い現場を任されるなど、重宝される存在となった。帰国の際には設備をそのまま寄付し、トルコ国内メディアにも取り上げられて話題になった。この状況がよほど気に食わなかったのだろう。中国のサイバー部隊の仕業と思われるフェイクニュースがすぐさまネットを通じて拡散され、メディアでも報道された。以下は台湾のシンクタンクの分析で判明した中国による情報操作侵略の実態である。まず2月10日、ウェイボーのアカウント「斯图卡98」が「台湾の救助隊は台湾の宣伝など政治的な目的のために現地入りしたから、宣伝を優先してトルコ人の命は二の次」と発信。更に2月12日、ロシア通信社のウェイボーのアカウントが「台湾の救助隊は救助のパフォーマンスしかしないので、トルコ側に撤退させられた」と発信。この2件のフェイクニュースはその後、多くの偽のSNSアカウントに引用され、まるで事実のように拡散された挙げ句、台湾の親中メディアがニュースとして報道した。極め付けは中国の国務院台湾事務弁公室(国台弁)が記者会見で「台湾は不幸な震災を利用して政治宣伝をした」と批判。ゼロから事象でっち上げ→拡散→報道と一連の生産ラインを全て網羅する正真正銘のフェイクニュース工場である。しかし、嘘に少し真実味を混ぜないとバレてしまう。中国の嘘の質が高いのは、正に少しの真実が入っているからだ。実はこのフェイクニュースの主語を中国に変えたら、ほぼ真実であると言える。中国の救助隊は必ず救助現場に大きな中国国旗を掲げ、「あんたたちを救い出したのは中国だ、忘れるなよ」と視覚的に記憶を刷り込む。他国の救助隊は静かに帰国したのに対し、中国の救助隊は帰途あえてイスタンブールの繁華街に立ち寄り、トルコ国民から拍手を受けた映像を撮って報道。更に中国のメディアが被災者にギャラを渡し、中国を美化するコメントをさせていたヤラセも判明した。他人の不幸を利用するのは、いつも中国である。今回の震災で見えた中国産フェイクニュースは一見笑い話に見えなくもないが、こういった台湾の政府機関へのネガティブキャンペーンが積み重ねられていくと、政府への不信感に繋がってしまう。近年、同じような世論操作は日本の沖縄問題にも見られる。このような中国による「超限戦」に対し、日本と台湾の間で一刻も早く実務レベルで連携し、対処すべきだ。
2月6日にトルコ・シリア大地震が発生したのを受け、日本、台湾を始め各国の救助隊がすぐさま現地入りした。一刻の猶予もない中、政治的な動機により人命救助の足を引っ張ろうとする国がいた。それは案の定、中国である。台湾の救助隊は震災翌日の7日に現地に到着した。現地で不足している高機能の設備を持ち込んだため、難度の高い現場を任されるなど、重宝される存在となった。帰国の際には設備をそのまま寄付し、トルコ国内メディアにも取り上げられて話題になった。この状況がよほど気に食わなかったのだろう。中国のサイバー部隊の仕業と思われるフェイクニュースがすぐさまネットを通じて拡散され、メディアでも報道された。以下は台湾のシンクタンクの分析で判明した中国による情報操作侵略の実態である。まず2月10日、ウェイボーのアカウント「斯图卡98」が「台湾の救助隊は台湾の宣伝など政治的な目的のために現地入りしたから、宣伝を優先してトルコ人の命は二の次」と発信。更に2月12日、ロシア通信社のウェイボーのアカウントが「台湾の救助隊は救助のパフォーマンスしかしないので、トルコ側に撤退させられた」と発信。この2件のフェイクニュースはその後、多くの偽のSNSアカウントに引用され、まるで事実のように拡散された挙げ句、台湾の親中メディアがニュースとして報道した。極め付けは中国の国務院台湾事務弁公室(国台弁)が記者会見で「台湾は不幸な震災を利用して政治宣伝をした」と批判。ゼロから事象でっち上げ→拡散→報道と一連の生産ラインを全て網羅する正真正銘のフェイクニュース工場である。しかし、嘘に少し真実味を混ぜないとバレてしまう。中国の嘘の質が高いのは、正に少しの真実が入っているからだ。実はこのフェイクニュースの主語を中国に変えたら、ほぼ真実であると言える。中国の救助隊は必ず救助現場に大きな中国国旗を掲げ、「あんたたちを救い出したのは中国だ、忘れるなよ」と視覚的に記憶を刷り込む。他国の救助隊は静かに帰国したのに対し、中国の救助隊は帰途あえてイスタンブールの繁華街に立ち寄り、トルコ国民から拍手を受けた映像を撮って報道。更に中国のメディアが被災者にギャラを渡し、中国を美化するコメントをさせていたヤラセも判明した。他人の不幸を利用するのは、いつも中国である。今回の震災で見えた中国産フェイクニュースは一見笑い話に見えなくもないが、こういった台湾の政府機関へのネガティブキャンペーンが積み重ねられていくと、政府への不信感に繋がってしまう。近年、同じような世論操作は日本の沖縄問題にも見られる。このような中国による「超限戦」に対し、日本と台湾の間で一刻も早く実務レベルで連携し、対処すべきだ。
夕遊
2020年8月30日
1943年11月28日から12月1日にかけて、イランで開かれたテヘラン会談。ここで「ドイツが降伏した後、ソ連が対日参戦する」という情報を入手したのは、曹洞宗の僧籍を持つ梅田良忠でした。
梅田良忠は、1922年、曹洞宗学林(後の駒沢大学)から奨学金をもらい、バイオリンを片手にドイツに留学……するはずが、船上でポーランド人のスタニスワ・ミホフスキと知り合い、留学先をポーランドに変更する。
その後、ワルシャワ大学で日本語を教えたり、日本公使館の関係者として仕事をしたり、朝日新聞特派員として記事を日本に送りつつ、ポーランドを愛し、ドイツによる占領後はブルガリアで亡命ポーランド人を支援する活動を続けた。
梅田本人の著作は概ね紛失してしまったので、著者は家族へのインタビューをもとに、アメリカ、イギリス、日本などの公文書館で裏付け調査を行ったそうだ。戦前の僧籍を持つ人には仏教系大学の財力によって教養を身につけることができた人がいて、彼らの多くは日本に帰って活躍したけれど、中には梅田さんのように海外で活躍した人たちもわりといる。そんな事実にあらためて感心。そして、どんなに正直な人の著作も、やはり必ず公文書等べつの資料で事実関係を確認する必要があることを確認。
梅田良忠もかなりおもしろい人だけれど、やはり当時の国際情勢や彼を取り巻く人々も重要で、スリリングな本でした。
余談ですが。
高校時代に読んで大好きだった『ワルシャワ猫物語』の作者は、梅田さんと結婚していたとか。驚きました。世の中は狭いです。
猫たちが支えてくれた生活。『ワルシャワ猫物語』工藤久代
2020年10月19日
工藤久代さんが語るのは、ポーランドで飼った16匹の猫たちの話。そして、猫と暮らした社会主義時代のポーランドの7年間の生活。
工藤さんにとって初めての海外生活は、不自由ばかりだった社会主義ポーランド。猫との生活が唯一のなぐさめで、支え。ポーランドに赴任して、ようやく妊娠できたのに、結局流産してしまったことも、猫との生活にのめり込む理由だったそうだ。
それにしても、猫と一緒に生活を通して見えてくるポーランドというのは本当にずるい世界で、ロシアでの生活を描いたエッセイなんかとよく似ている。もちろん、いい人もいるのだけれど、1960年代から70年代の社会主義的お役所体制と、それを利用するズルイ人たちの方がよりたくさん出てくる。そして、何事も理不尽だし、いい人たちはあきらめるか、辛い思いをした仲間でなぐさめあうか……。
高校時代にこの本を読んだとき、教科書に出てくる”社会主義”のいいイメージとはほど遠くて、不思議だったっけ。もちろん、同じ社会主義でもいろいろあって、中国はまたちょっと違ったり。
20年近くたって突然思い出して懐かしくなって、ネットの古書店で探して購入してみたら、実は別の本と勘違いしていたことが判明。もう1冊の欲しかった本は絶版になっていて、古書店で高値がついていたので、とりあえず図書館の本を再読した。
再読したときには、ちょうど子供ができなくて、いろいろ悩んでいた時期だったので、工藤さんの悩みに共感できた。しかも、猫に助けられたことまで共通していて、不思議な縁を感じたっけ。
やっぱり、高校生は読書の時間はあるけれど、あっという的に経験が足りないから理解力も足りないし、記憶もあいまい。で、社会人になると、経験値は足りるけれど、あっという的に時間がない。難しい。
余談ですが。その後、『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』って本を読んだら、なんとこの方、工藤さんのだんなさんだった。世の中狭すぎる!
2020年8月30日
1943年11月28日から12月1日にかけて、イランで開かれたテヘラン会談。ここで「ドイツが降伏した後、ソ連が対日参戦する」という情報を入手したのは、曹洞宗の僧籍を持つ梅田良忠でした。
梅田良忠は、1922年、曹洞宗学林(後の駒沢大学)から奨学金をもらい、バイオリンを片手にドイツに留学……するはずが、船上でポーランド人のスタニスワ・ミホフスキと知り合い、留学先をポーランドに変更する。
その後、ワルシャワ大学で日本語を教えたり、日本公使館の関係者として仕事をしたり、朝日新聞特派員として記事を日本に送りつつ、ポーランドを愛し、ドイツによる占領後はブルガリアで亡命ポーランド人を支援する活動を続けた。
梅田本人の著作は概ね紛失してしまったので、著者は家族へのインタビューをもとに、アメリカ、イギリス、日本などの公文書館で裏付け調査を行ったそうだ。戦前の僧籍を持つ人には仏教系大学の財力によって教養を身につけることができた人がいて、彼らの多くは日本に帰って活躍したけれど、中には梅田さんのように海外で活躍した人たちもわりといる。そんな事実にあらためて感心。そして、どんなに正直な人の著作も、やはり必ず公文書等べつの資料で事実関係を確認する必要があることを確認。
梅田良忠もかなりおもしろい人だけれど、やはり当時の国際情勢や彼を取り巻く人々も重要で、スリリングな本でした。
余談ですが。
高校時代に読んで大好きだった『ワルシャワ猫物語』の作者は、梅田さんと結婚していたとか。驚きました。世の中は狭いです。
猫たちが支えてくれた生活。『ワルシャワ猫物語』工藤久代
2020年10月19日
工藤久代さんが語るのは、ポーランドで飼った16匹の猫たちの話。そして、猫と暮らした社会主義時代のポーランドの7年間の生活。
工藤さんにとって初めての海外生活は、不自由ばかりだった社会主義ポーランド。猫との生活が唯一のなぐさめで、支え。ポーランドに赴任して、ようやく妊娠できたのに、結局流産してしまったことも、猫との生活にのめり込む理由だったそうだ。
それにしても、猫と一緒に生活を通して見えてくるポーランドというのは本当にずるい世界で、ロシアでの生活を描いたエッセイなんかとよく似ている。もちろん、いい人もいるのだけれど、1960年代から70年代の社会主義的お役所体制と、それを利用するズルイ人たちの方がよりたくさん出てくる。そして、何事も理不尽だし、いい人たちはあきらめるか、辛い思いをした仲間でなぐさめあうか……。
高校時代にこの本を読んだとき、教科書に出てくる”社会主義”のいいイメージとはほど遠くて、不思議だったっけ。もちろん、同じ社会主義でもいろいろあって、中国はまたちょっと違ったり。
20年近くたって突然思い出して懐かしくなって、ネットの古書店で探して購入してみたら、実は別の本と勘違いしていたことが判明。もう1冊の欲しかった本は絶版になっていて、古書店で高値がついていたので、とりあえず図書館の本を再読した。
再読したときには、ちょうど子供ができなくて、いろいろ悩んでいた時期だったので、工藤さんの悩みに共感できた。しかも、猫に助けられたことまで共通していて、不思議な縁を感じたっけ。
やっぱり、高校生は読書の時間はあるけれど、あっという的に経験が足りないから理解力も足りないし、記憶もあいまい。で、社会人になると、経験値は足りるけれど、あっという的に時間がない。難しい。
余談ですが。その後、『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』って本を読んだら、なんとこの方、工藤さんのだんなさんだった。世の中狭すぎる!
● マルチレス
シラユキ | URL | 2023/02/28(火) 22:01 [EDIT]
シラユキ | URL | 2023/02/28(火) 22:01 [EDIT]
>マサムネさん
北条時敬の話、興味深いです。ありがとうございます。鈴木大拙は教育者、哲学者、出版人、軍人、様々な人を繋いでいたことは驚くべきことです。ここにでてくる名前が励精会のメンバーとかなりかぶる!
またクリミアはウクライナに編入する前は様々な民族の古里であり、今のロシアとウクライナは歴史的にいえばこの地域の新参者です。
サハリンの件、呆れました。
>マースレニツァさん
カトリックの國ポーランドから禅僧の方がでているとは知りませんでした。この方はチベット仏教から禅ですが、アメリカの俳優リチャード・ギアは禅にまず親しんだ後、チベット仏教にはいっています。この方は禅のフラットな雰囲気が合ったんですね。
北条時敬の話、興味深いです。ありがとうございます。鈴木大拙は教育者、哲学者、出版人、軍人、様々な人を繋いでいたことは驚くべきことです。ここにでてくる名前が励精会のメンバーとかなりかぶる!
またクリミアはウクライナに編入する前は様々な民族の古里であり、今のロシアとウクライナは歴史的にいえばこの地域の新参者です。
サハリンの件、呆れました。
>マースレニツァさん
カトリックの國ポーランドから禅僧の方がでているとは知りませんでした。この方はチベット仏教から禅ですが、アメリカの俳優リチャード・ギアは禅にまず親しんだ後、チベット仏教にはいっています。この方は禅のフラットな雰囲気が合ったんですね。
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