22年秋のチベット・イベント三つ
エリザベス女王が崩御されチャールズ国王が即位し、ウクライナが反撃し、インドのモディ首相がプーチンに「21世紀は戦争の時代ではない」と諭す昨今、みなさまはいかがお過ごしでしょうか。秋のチベット・イベントをご紹介。
チベット・ハウスジャパンが主催する「チベット・ウイグル・南モンゴルセミナー」は日付が迫ってて恐縮ですが、23日です。ペンパ・ツェリン首相が来日されます。
文学フェスと「チベット文化に触れよう」は、両方とも同じ会場です。文学フェスは東京外語大学の星先生主催、チベット文化イベントはカワチェンのケルサン・タウア氏が主催しています。
●①チベット・ウイグル・南モンゴルセミナー〜中国共産党政権下の占領地:共通基盤の構築〜
開催日時 2022年9月23日(金) 13:00~16:00(開場12:30)
16:30~17:30は報道関係者のみの記者会見となります。
会場 文京シビックセンター 26階 スカイホール
※ オンライン配信https://www.facebook.com/ootjapan
無料(ご寄付を歓迎いたします)
主宰者ページ
パネリスト
ペンパ・ツェリン 氏(中央チベット政権 主席大臣)
下村 博文 氏(衆議院議員/日本チベット支援議員連盟 会長)
櫻井 よしこ 氏(国家基本問題研究所 理事長)
三ツ林 裕巳 氏(衆議院議員/日本ウイグル支援議員連盟 事務局長)
石川 昭正 氏 (衆議院議員/日本チベット支援議員連盟 事務局長)
ウダ・ケリム 氏 (日本ウイグル協会 会長)
オルホノド・ダイチン 氏(南モンゴル会議 副議長)
牧野 聖修 氏 (セーブ・チベット・ネットワーク・ジャパン 会長)
アリア・ツェワン・ギャルポ氏 (チベットハウス・ジャパン 代表)
●② チベット現代文学フェス2022
日程:2022年10月8日(土)—9日(日)
場所:新宿歴史博物館 講堂(東京都新宿区三栄町22番地
(丸ノ内線「四谷三丁目駅」より徒歩8分、都営新宿線「曙橋駅」より徒歩8分)
料金:入場無料 要申込
プログラム
10/8(土)午前の部
9:45 受付開始
10:00-10:10 開会あいさつ 星泉
10:10-12:10 ペマ・ツェテン監督「ティメー・クンデンを探して」上映
10/8(土)午後の部
13:00 受付開始
13:20-14:20 「セルニャの話をしよう」 星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,ソナム・ツェリン
14:20-14:30 朗読
14:30-16:40 「翻訳者と味わうチベット現代文学 その1 」
星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,ソナム・ツェリン
10/9(日)午前の部
9:45 受付開始
10:15-12:15「翻訳者と味わうチベット現代文学 その2」
星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,大川謙作,ソナム・ツェリン
取り上げる作品:
トンドゥプジャ著『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』
ペマ・ツェテン著『ティメー・クンデンを探して』
ペマ・ツェテン著『風船』
タクブンジャ著『ハバ犬を育てる話』
12:15-12:20
閉会あいさつ 星泉
●③カワチェン主宰「チベット文化に触れよう」
日程:2022年10月9日(日)—10日(月)
場所:新宿歴史博物館 講堂(東京都新宿区三栄町22番地
(丸ノ内線「四谷三丁目駅」より徒歩8分、都営新宿線「曙橋駅」より徒歩8分)
主宰者ページ
10/9(日)午後
A.チベットの古い映像上映とチベット音楽ミニ・コンサート(←イチ推し)
1939年頃の映像(白黒、無声)。チベット高原、チベットの宗教行事、チベットの人々の生活と民俗芸能を上映。最初と上映中に簡単な解説付き。ダムニェン(チベットの弦楽器)を用いたチベットの伝統的な曲、アムドの伝統的な山歌(無伴奏独唱)、ギターなどを用いた現代的な曲などを予定。
10/0(月・祝)午前
B.チベット文字の世界(トークと映像上映)
チベット文字や習字にまつわる話、チベット文字の書体の種類、木版や写本のチベット大蔵経の例、美しいチベット文字の書き方(チベット文字カリグラフィー)の例などを紹介し、複数の書体の文字を書く映像を上映予定。
10/10(月・祝)午後
C.チベット仏教の宗教舞踊(チャム)映像上映
インドにあるチベット仏教寺院でのツェチュと呼ばれる祭りなどの宗教舞踊(チャム)の映像を上映。宗教舞踊(チャム)や楽器、各踊りなどについての解説付き。
チベット・ハウスジャパンが主催する「チベット・ウイグル・南モンゴルセミナー」は日付が迫ってて恐縮ですが、23日です。ペンパ・ツェリン首相が来日されます。
文学フェスと「チベット文化に触れよう」は、両方とも同じ会場です。文学フェスは東京外語大学の星先生主催、チベット文化イベントはカワチェンのケルサン・タウア氏が主催しています。
●①チベット・ウイグル・南モンゴルセミナー〜中国共産党政権下の占領地:共通基盤の構築〜
開催日時 2022年9月23日(金) 13:00~16:00(開場12:30)
16:30~17:30は報道関係者のみの記者会見となります。
会場 文京シビックセンター 26階 スカイホール
※ オンライン配信https://www.facebook.com/ootjapan
無料(ご寄付を歓迎いたします)
主宰者ページ
パネリスト
ペンパ・ツェリン 氏(中央チベット政権 主席大臣)
下村 博文 氏(衆議院議員/日本チベット支援議員連盟 会長)
櫻井 よしこ 氏(国家基本問題研究所 理事長)
三ツ林 裕巳 氏(衆議院議員/日本ウイグル支援議員連盟 事務局長)
石川 昭正 氏 (衆議院議員/日本チベット支援議員連盟 事務局長)
ウダ・ケリム 氏 (日本ウイグル協会 会長)
オルホノド・ダイチン 氏(南モンゴル会議 副議長)
牧野 聖修 氏 (セーブ・チベット・ネットワーク・ジャパン 会長)
アリア・ツェワン・ギャルポ氏 (チベットハウス・ジャパン 代表)
●② チベット現代文学フェス2022
日程:2022年10月8日(土)—9日(日)
場所:新宿歴史博物館 講堂(東京都新宿区三栄町22番地
(丸ノ内線「四谷三丁目駅」より徒歩8分、都営新宿線「曙橋駅」より徒歩8分)
料金:入場無料 要申込
プログラム
10/8(土)午前の部
9:45 受付開始
10:00-10:10 開会あいさつ 星泉
10:10-12:10 ペマ・ツェテン監督「ティメー・クンデンを探して」上映
10/8(土)午後の部
13:00 受付開始
13:20-14:20 「セルニャの話をしよう」 星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,ソナム・ツェリン
14:20-14:30 朗読
14:30-16:40 「翻訳者と味わうチベット現代文学 その1 」
星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,ソナム・ツェリン
10/9(日)午前の部
9:45 受付開始
10:15-12:15「翻訳者と味わうチベット現代文学 その2」
星泉,海老原志穂,岩田啓介,三浦順子,大川謙作,ソナム・ツェリン
取り上げる作品:
トンドゥプジャ著『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』
ペマ・ツェテン著『ティメー・クンデンを探して』
ペマ・ツェテン著『風船』
タクブンジャ著『ハバ犬を育てる話』
12:15-12:20
閉会あいさつ 星泉
●③カワチェン主宰「チベット文化に触れよう」
日程:2022年10月9日(日)—10日(月)
場所:新宿歴史博物館 講堂(東京都新宿区三栄町22番地
(丸ノ内線「四谷三丁目駅」より徒歩8分、都営新宿線「曙橋駅」より徒歩8分)
主宰者ページ
10/9(日)午後
A.チベットの古い映像上映とチベット音楽ミニ・コンサート(←イチ推し)
1939年頃の映像(白黒、無声)。チベット高原、チベットの宗教行事、チベットの人々の生活と民俗芸能を上映。最初と上映中に簡単な解説付き。ダムニェン(チベットの弦楽器)を用いたチベットの伝統的な曲、アムドの伝統的な山歌(無伴奏独唱)、ギターなどを用いた現代的な曲などを予定。
10/0(月・祝)午前
B.チベット文字の世界(トークと映像上映)
チベット文字や習字にまつわる話、チベット文字の書体の種類、木版や写本のチベット大蔵経の例、美しいチベット文字の書き方(チベット文字カリグラフィー)の例などを紹介し、複数の書体の文字を書く映像を上映予定。
10/10(月・祝)午後
C.チベット仏教の宗教舞踊(チャム)映像上映
インドにあるチベット仏教寺院でのツェチュと呼ばれる祭りなどの宗教舞踊(チャム)の映像を上映。宗教舞踊(チャム)や楽器、各踊りなどについての解説付き。
COMMENT
● 中央チベット政権ペンパ・ツェリン主席大臣による特別講演会を開催 ――麗澤高等学校の生徒たちへのメッセージ 2022-09-22
マサムネ | URL | 2022/09/23(金) 17:23 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/09/23(金) 17:23 [EDIT]
令和4年9月22日、中央チベット政権ペンパ・ツェリン主席大臣がご来園。麗澤高等学校の生徒たちを対象とした特別講演会を開催しました。講演テーマは「Tibetan Internatinal Context(国際情勢におけるチベット問題)」。廣池千九郎記念講堂で高校1年生と教職員約200名のほか、高校校舎でも生徒と教職員約120名がオンラインで視聴しました。
講演に先立ち、廣池幹堂・学校法人廣池学園理事長・モラロジー道徳教育財団理事長は、「2018年11月のダライ・ラマ法王14世のご来園に引き続き、特別なゲストとして、中央チベット政府の主席大臣をお迎えすることは本学園としても大変大きな名誉です。
チベットは長い歴史、伝統文化、宗教を持ち、優れたリーダのもと、平和で豊かな生活を送っていた国でしたが、現在、中国政府による弾圧を受け、チベットがどのような状況にあるのかを、ペンパ・ツェリン主席大臣より直接にお聞か壇上に立たれたツェリン主席大臣は、講演の機会を得たことに謝辞を述べられた後、チベットの地理や歴史について説明され、以下のように訴えられました。
「廣池理事長がおっしゃられたように、民主主義は当たり前にあるものではなく、明日、なくなってしまうかもしれません。
日本には、報道の自由、情報の自由がありますが、中国政府は、チベットの人たちにそうした自由を与えようとしません。チベット人のみならず、中国人に対しても同様です。それどころか、中国政府は偽った情報を世界全体に発信しています。
現在、中国政府は、チベットは中国のものであると主張して、私たちが大切にしてきた言語や宗教、文化や環境も破壊し、チベット人を中国人にするための教育を行っています。10数年後の未来において、チベットの子供たちは全員中国人になってしまうでしょう。
中国の指導者・習近平氏は常々、『一つの民族、一つの国家、一人の指導者』と言っています。多様性あふれる時代に、中国は世界の中国化を狙い、一つに統一しようとしているのです」
と、中国による弾圧の状況やその動きに対して警鐘を鳴らしました。
続いて、ツェリン主席大臣は、
「私は子供のころ、中国人に対して戦う気満々でしたが、ダライ・ラマ法王14世は、『攻撃してくる中国人を憎むな。中国人であっても人間である。批難されるべきは、間違った政策を打ち立て実行してきた指導者である』とおっしゃっています」
と述べた後、会場の高校生たちに向けて、
「皆さんが成長して中国に対峙するとき、相手が強大な存在だと感じても『とてもかなわない』などと諦めないようにしてください。日本が取引相手として中国を必要としている以上に、中国は日本を必要としていると感じています。
不当と感じた時には声を上げ、立ち上がって、ひるむことなく中国と対等に付き合っていくことが大事だと思います」
と力強いメッセージを送り、講演を結ばれました。
講演後、高校生から「国を守ることへの心構え」について質問されたツェリン主席大臣は、「今までにいろいろな質問を受けましたけど、もっとも難しい質問ですね」と前置きした後、
「中国はここ数十年で大国となり、周辺諸国に対して軍事力を見せつけています。こうしたことに対抗措置を取らなければ、中国は際限なく自己主張を繰り返してくるでしょう。
非暴力というポリシーを持って進むことは大事ですが、危機に瀕しときには戦う勇気も必要だと思います。そうでなければ、殲滅されます。
国防力を強化して攻撃のために武器を使うのではなく、相手の攻撃を止めるための抑止に使うとよいと思います」
と日本の事情を考慮してお答えされました。
高校生たちは日常触れることのない厳然たる国際情勢の現実に真剣に聴き入っていました。
講演後、改装を終えた麗澤大学の“学生食堂ひいらぎ”のテープカットセレモニーにはツェリン主席大臣にもご参加いただき、昼食を摂られた後、キャンパスをあとにされました。
講演に先立ち、廣池幹堂・学校法人廣池学園理事長・モラロジー道徳教育財団理事長は、「2018年11月のダライ・ラマ法王14世のご来園に引き続き、特別なゲストとして、中央チベット政府の主席大臣をお迎えすることは本学園としても大変大きな名誉です。
チベットは長い歴史、伝統文化、宗教を持ち、優れたリーダのもと、平和で豊かな生活を送っていた国でしたが、現在、中国政府による弾圧を受け、チベットがどのような状況にあるのかを、ペンパ・ツェリン主席大臣より直接にお聞か壇上に立たれたツェリン主席大臣は、講演の機会を得たことに謝辞を述べられた後、チベットの地理や歴史について説明され、以下のように訴えられました。
「廣池理事長がおっしゃられたように、民主主義は当たり前にあるものではなく、明日、なくなってしまうかもしれません。
日本には、報道の自由、情報の自由がありますが、中国政府は、チベットの人たちにそうした自由を与えようとしません。チベット人のみならず、中国人に対しても同様です。それどころか、中国政府は偽った情報を世界全体に発信しています。
現在、中国政府は、チベットは中国のものであると主張して、私たちが大切にしてきた言語や宗教、文化や環境も破壊し、チベット人を中国人にするための教育を行っています。10数年後の未来において、チベットの子供たちは全員中国人になってしまうでしょう。
中国の指導者・習近平氏は常々、『一つの民族、一つの国家、一人の指導者』と言っています。多様性あふれる時代に、中国は世界の中国化を狙い、一つに統一しようとしているのです」
と、中国による弾圧の状況やその動きに対して警鐘を鳴らしました。
続いて、ツェリン主席大臣は、
「私は子供のころ、中国人に対して戦う気満々でしたが、ダライ・ラマ法王14世は、『攻撃してくる中国人を憎むな。中国人であっても人間である。批難されるべきは、間違った政策を打ち立て実行してきた指導者である』とおっしゃっています」
と述べた後、会場の高校生たちに向けて、
「皆さんが成長して中国に対峙するとき、相手が強大な存在だと感じても『とてもかなわない』などと諦めないようにしてください。日本が取引相手として中国を必要としている以上に、中国は日本を必要としていると感じています。
不当と感じた時には声を上げ、立ち上がって、ひるむことなく中国と対等に付き合っていくことが大事だと思います」
と力強いメッセージを送り、講演を結ばれました。
講演後、高校生から「国を守ることへの心構え」について質問されたツェリン主席大臣は、「今までにいろいろな質問を受けましたけど、もっとも難しい質問ですね」と前置きした後、
「中国はここ数十年で大国となり、周辺諸国に対して軍事力を見せつけています。こうしたことに対抗措置を取らなければ、中国は際限なく自己主張を繰り返してくるでしょう。
非暴力というポリシーを持って進むことは大事ですが、危機に瀕しときには戦う勇気も必要だと思います。そうでなければ、殲滅されます。
国防力を強化して攻撃のために武器を使うのではなく、相手の攻撃を止めるための抑止に使うとよいと思います」
と日本の事情を考慮してお答えされました。
高校生たちは日常触れることのない厳然たる国際情勢の現実に真剣に聴き入っていました。
講演後、改装を終えた麗澤大学の“学生食堂ひいらぎ”のテープカットセレモニーにはツェリン主席大臣にもご参加いただき、昼食を摂られた後、キャンパスをあとにされました。
取材に応じたチベット亡命政府のペンパ・ツェリン首相=ニューデリーで2022年6月16日午後5時31分、川上珠実撮影
日本チベット国会議員連盟(下村博文会長)の石川昭政事務局長は21日、チベット亡命政府(インド北部ダラムサラ)のペンパ・ツェリン首相が安倍晋三元首相の国葬に出席できるよう働きかけたが、日本政府から拒否されたと明らかにした。国会内にツェリン氏を招いた議連の総会後、記者団に「中国への配慮だと思う」と語った。石川氏によると、ツェリン氏は21日に来日し、国葬が行われる27日まで滞在予定だという。石川氏は「本来であれば、安倍元首相の国葬への出席を兼ねた訪日だった。外務省とやりとりしたが『今回はちょっと難しい』という答えだった。誠に残念だ」と述べた。また石川氏は、外務省側に「台湾は(国葬に出席しても)良いです」と言われたと明かし、「亡命政府の立場の方を政府として正式には呼べない。残念だ」とも語った。 外務省の担当者は取材に「チベットは政府ではなく、台湾のように国際機関に属している『地域』でもないため、招待していない。参加の意向は直接聞いていない」と説明した。
これは大問題ではないですか。理由が中国への配慮だとすれば間違っています。中国が何と言おうと、弔意を示したい要人を断る理由になりません。外務省、岸田さんは国民に説明すべきです。
日本チベット国会議員連盟(下村博文会長)の石川昭政事務局長は21日、チベット亡命政府(インド北部ダラムサラ)のペンパ・ツェリン首相が安倍晋三元首相の国葬に出席できるよう働きかけたが、日本政府から拒否されたと明らかにした。国会内にツェリン氏を招いた議連の総会後、記者団に「中国への配慮だと思う」と語った。石川氏によると、ツェリン氏は21日に来日し、国葬が行われる27日まで滞在予定だという。石川氏は「本来であれば、安倍元首相の国葬への出席を兼ねた訪日だった。外務省とやりとりしたが『今回はちょっと難しい』という答えだった。誠に残念だ」と述べた。また石川氏は、外務省側に「台湾は(国葬に出席しても)良いです」と言われたと明かし、「亡命政府の立場の方を政府として正式には呼べない。残念だ」とも語った。 外務省の担当者は取材に「チベットは政府ではなく、台湾のように国際機関に属している『地域』でもないため、招待していない。参加の意向は直接聞いていない」と説明した。
これは大問題ではないですか。理由が中国への配慮だとすれば間違っています。中国が何と言おうと、弔意を示したい要人を断る理由になりません。外務省、岸田さんは国民に説明すべきです。
On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~
「中国共産党はチベットの子供が3歳になると ( 家庭から引き剥がして ) 寄宿舎に連れ去り、中国語を教えて、チベット語を忘れさせる」・・・チベット亡命政府の主席大臣の生々しい証言です
( 衆議院の国際会議室で開かれた、日本チベット国会議員連盟の総会です )
( 講演をなさった、チベット亡命政権のペンパ・ツェリン主席大臣。明晰にして温厚な優れた政治家です。
冷静な語り口ながら、その表情には苦渋の色が滲んでおられると感じました。中国共産党の苛烈にして残酷なチベット消滅政策に、苦しまれる日々とお察しします )
▼きょう9月21日水曜、国会内で、日本チベット国会議員連盟の総会が開かれ、そこで写真のツェリン主席大臣が講演をされました。
主席大臣というのは、日本で言えば首相です。チベット亡命政権の首相ですね。
チベット亡命政権を、あまりよくご存じない方もいらっしゃるかも知れません。
中国共産党が人民解放軍をチベットに侵入させてから、信じがたいほどの虐殺を繰り返し行い、確認できていると言ってよい範囲だけで少なくとも合計25万人前後のチベット人を虐殺しています。
そのなかで、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世猊下 ( げいか ) は、西暦1959年にインドへ亡命なさいました。
そこから始まり、インド北部のダラムサラには、チベットの亡命政権が存在しています。チベット難民の臨時政府と言っても良いかと考えます。
▼さて、来日されたツェリン主席大臣は、チベットの現状を、きょうの議連で赤裸々に語られました。
エントリーのタイトルに記したことで申せば、「もはやチベットで子供たちにチベット語を教える手段は無くなっている。チベット語を教えようとする学校はみな、中国の手で閉鎖された。亡命政府にもできることは無い」と明言されました。
▼チベットの問題は、最近はアメリカでも日本でも、ウイグルの人々の受難と比べて、やや語られる頻度が少なくなっています。
それは、ツェリン主席大臣も言及されていました。
しかし非道の「チベット消滅作戦」は、文化を言葉ごと消滅させることも含めて、続いているのです。
ツェリン主席大臣のきょうのナマ発言を中心に、これも「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の収録で、取りあげたいと考えています。
「中国共産党はチベットの子供が3歳になると ( 家庭から引き剥がして ) 寄宿舎に連れ去り、中国語を教えて、チベット語を忘れさせる」・・・チベット亡命政府の主席大臣の生々しい証言です
( 衆議院の国際会議室で開かれた、日本チベット国会議員連盟の総会です )
( 講演をなさった、チベット亡命政権のペンパ・ツェリン主席大臣。明晰にして温厚な優れた政治家です。
冷静な語り口ながら、その表情には苦渋の色が滲んでおられると感じました。中国共産党の苛烈にして残酷なチベット消滅政策に、苦しまれる日々とお察しします )
▼きょう9月21日水曜、国会内で、日本チベット国会議員連盟の総会が開かれ、そこで写真のツェリン主席大臣が講演をされました。
主席大臣というのは、日本で言えば首相です。チベット亡命政権の首相ですね。
チベット亡命政権を、あまりよくご存じない方もいらっしゃるかも知れません。
中国共産党が人民解放軍をチベットに侵入させてから、信じがたいほどの虐殺を繰り返し行い、確認できていると言ってよい範囲だけで少なくとも合計25万人前後のチベット人を虐殺しています。
そのなかで、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世猊下 ( げいか ) は、西暦1959年にインドへ亡命なさいました。
そこから始まり、インド北部のダラムサラには、チベットの亡命政権が存在しています。チベット難民の臨時政府と言っても良いかと考えます。
▼さて、来日されたツェリン主席大臣は、チベットの現状を、きょうの議連で赤裸々に語られました。
エントリーのタイトルに記したことで申せば、「もはやチベットで子供たちにチベット語を教える手段は無くなっている。チベット語を教えようとする学校はみな、中国の手で閉鎖された。亡命政府にもできることは無い」と明言されました。
▼チベットの問題は、最近はアメリカでも日本でも、ウイグルの人々の受難と比べて、やや語られる頻度が少なくなっています。
それは、ツェリン主席大臣も言及されていました。
しかし非道の「チベット消滅作戦」は、文化を言葉ごと消滅させることも含めて、続いているのです。
ツェリン主席大臣のきょうのナマ発言を中心に、これも「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の収録で、取りあげたいと考えています。
● ロシア人、モンゴルへ脱出 国境に行列、現地報道
マースレニツァ | URL | 2022/09/23(金) 18:33 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/09/23(金) 18:33 [EDIT]
【ウランバートル共同】ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を巡り部分動員令を出して以降、隣国モンゴルにロシアから入国する人々が急増している。モンゴルのメディアが23日報じた。不安になったロシア国民がビザ(査証)なしで入れるモンゴルを目指しているもようだ。陸続きの国境には長い行列ができた。モンゴル北部、アルタンブラグの入国管理施設では、動員令が出た21日以降にロシア人の入国者が急増。入国手続きを待つ車の列が1キロ以上に及んだ。周辺住民によると若いロシア人が多く「戦争に行くより、状況が落ち着くまで国外に滞在する」と話す人もいた。
ロシア部分動員令受け出国者急増、フィンランドは入国禁止検討
バーリマー(フィンランド)/トビリシ(ジョージア) 22日 ロイター] - ロシアのプーチン大統領が21日にウクライナでの戦闘継続のために部分的な動員令に署名したことを受け、招集される可能性のある男性の出国が増加している。フィンランドは22日、大部分のロシア人の入国禁止を検討していると発表した。
フィンランドはロシアと1300キロにわたって国境を接している。ロシア第2の都市サンクトペテルブルクから車で約3時間の距離にあるバーリマーの境検問所にはフィンランドに入国しようとする車が押し寄せ、国境当局によると、3車線ある道路で最大400メートルにわたり渋滞が発生した。
ジョージアへの出国も増えており、ロシアとジョージアとの間の国境検問所沿いでも渋滞が発生している。
ロシア大統領府のペスコフ報道官はこの日、部分動員の決定を受け招集の対象になる男性の出国が増加しているとの報道は誇張されたものとの見方を示した。
フィンランドと同様に欧州連合(EU)加盟国でロシアと国境を接するエストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランドは19日からロシア人の入国を禁止。バルト3国は21日、部分動員令による招集を逃れるロシア人に保護は提供しないと表明した。
ロシア部分動員令受け出国者急増、フィンランドは入国禁止検討
バーリマー(フィンランド)/トビリシ(ジョージア) 22日 ロイター] - ロシアのプーチン大統領が21日にウクライナでの戦闘継続のために部分的な動員令に署名したことを受け、招集される可能性のある男性の出国が増加している。フィンランドは22日、大部分のロシア人の入国禁止を検討していると発表した。
フィンランドはロシアと1300キロにわたって国境を接している。ロシア第2の都市サンクトペテルブルクから車で約3時間の距離にあるバーリマーの境検問所にはフィンランドに入国しようとする車が押し寄せ、国境当局によると、3車線ある道路で最大400メートルにわたり渋滞が発生した。
ジョージアへの出国も増えており、ロシアとジョージアとの間の国境検問所沿いでも渋滞が発生している。
ロシア大統領府のペスコフ報道官はこの日、部分動員の決定を受け招集の対象になる男性の出国が増加しているとの報道は誇張されたものとの見方を示した。
フィンランドと同様に欧州連合(EU)加盟国でロシアと国境を接するエストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランドは19日からロシア人の入国を禁止。バルト3国は21日、部分動員令による招集を逃れるロシア人に保護は提供しないと表明した。
ジョルジャ・メローニ(イタリア語: Giorgia Meloni、1977年1月15日 – )は イタリアの政治家。イタリアの同胞(FdI)党首。
無任所大臣(第4次ベルルスコーニ内閣)、下院副議長、下院議員(4期)、国民同盟(AN)及び自由の人民(PdL)党青年団書記長、イタリアの同胞(FdI)副党首などを歴任した。
生誕 1977年1月15日(45歳)
イタリアの旗 イタリア、ラツィオ州
ローマ県ローマ
国籍 イタリア民族
政党 イタリア社会運動 (1992-1995)
国民同盟 (1995-2009)
自由の人民 (2009-2012)
イタリアの同胞 (2012-)
配偶者 アンドレア・ジャンブルノ
専業 ジャーナリスト
宗教 ローマ・カトリック
イタリア総選挙、極右政党が第1党に 現地メディア報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR260280W2A920C2000000/
イタリア上下院の総選挙で右翼政党「イタリアの同胞(FDI)」が第一党となり、ジョルジャ・メローニ党首(45)が右派連合による次期政権の首相に就任する公算が強まった。ウクライナ侵攻後のエネルギー危機に苦しむ市民の不満の受け皿になり、イタリア初の女性首相としての期待を背負う。一方で、「極右」の政治家として警戒する声も根強い。いったい何者なのか。
15歳の時、ムソリーニの精神を受け継ぐネオファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」の青年組織に加入して政治の道に入った。MSIが1995年に解党されると、その流れをくむ右翼政党「国民同盟」に加わり、学生組織で責任者を務めた。
19歳だった当時、フランスのテレビ局の取材に応じており、「ムソリーニはよい政治家だったと思う。彼がしたことはすべてイタリアのためだった」と語った。
いつものように、FdIリーダーがファンから送られた1枚の写真を掲載。この場合、それは「マンガ」の特徴を持つ、未来の太陽を見ている可愛い金髪の女性である。
キャプションには、「伝統的な家族を守ろう」と書かれています。ジョルジアが妊娠を発表するためにファミリーデーを選んだことを考えると、この明確で断固としたメッセージは、間違いなくメロンの人々を喜ばせるものだ。
しかし、ひとつだけ問題があります。描かれているのはメロニちゃん、つまりメロニを戯画化したものではなく、大原まりという漫画&アニメ『ラブライブ!』の主人公の一人である。これはイタリアでも非常に有名なアニメです。でも、大切なのは、「伝統的な家族(日本かイタリアか)を守ろう」というメッセージなのです。
無任所大臣(第4次ベルルスコーニ内閣)、下院副議長、下院議員(4期)、国民同盟(AN)及び自由の人民(PdL)党青年団書記長、イタリアの同胞(FdI)副党首などを歴任した。
生誕 1977年1月15日(45歳)
イタリアの旗 イタリア、ラツィオ州
ローマ県ローマ
国籍 イタリア民族
政党 イタリア社会運動 (1992-1995)
国民同盟 (1995-2009)
自由の人民 (2009-2012)
イタリアの同胞 (2012-)
配偶者 アンドレア・ジャンブルノ
専業 ジャーナリスト
宗教 ローマ・カトリック
イタリア総選挙、極右政党が第1党に 現地メディア報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR260280W2A920C2000000/
イタリア上下院の総選挙で右翼政党「イタリアの同胞(FDI)」が第一党となり、ジョルジャ・メローニ党首(45)が右派連合による次期政権の首相に就任する公算が強まった。ウクライナ侵攻後のエネルギー危機に苦しむ市民の不満の受け皿になり、イタリア初の女性首相としての期待を背負う。一方で、「極右」の政治家として警戒する声も根強い。いったい何者なのか。
15歳の時、ムソリーニの精神を受け継ぐネオファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」の青年組織に加入して政治の道に入った。MSIが1995年に解党されると、その流れをくむ右翼政党「国民同盟」に加わり、学生組織で責任者を務めた。
19歳だった当時、フランスのテレビ局の取材に応じており、「ムソリーニはよい政治家だったと思う。彼がしたことはすべてイタリアのためだった」と語った。
いつものように、FdIリーダーがファンから送られた1枚の写真を掲載。この場合、それは「マンガ」の特徴を持つ、未来の太陽を見ている可愛い金髪の女性である。
キャプションには、「伝統的な家族を守ろう」と書かれています。ジョルジアが妊娠を発表するためにファミリーデーを選んだことを考えると、この明確で断固としたメッセージは、間違いなくメロンの人々を喜ばせるものだ。
しかし、ひとつだけ問題があります。描かれているのはメロニちゃん、つまりメロニを戯画化したものではなく、大原まりという漫画&アニメ『ラブライブ!』の主人公の一人である。これはイタリアでも非常に有名なアニメです。でも、大切なのは、「伝統的な家族(日本かイタリアか)を守ろう」というメッセージなのです。
● 県内チベット人と会談 亡命政府首相 埼玉医科大を見学/埼玉 2022/9/30
マサムネ | URL | 2022/10/06(木) 20:44 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/10/06(木) 20:44 [EDIT]
チベット亡命政府(インド北部ダラムサラ)から来日したペンパ・ツェリン首相が、毛呂山町の埼玉医科大を訪れ、県内のチベット人と会談した。
ツェリン氏は2021年5月の首相就任後、初の来日。亡命政府樹立の背景となった「チベット動乱」(1959年)後に日本に受け入れられた難民の経緯や近況を知ろうと、24日、県内を訪れた。医師の西蔵ツワンさん(70)=武蔵台病院(日高市)院長=ら在住50年以上のチベット人8人が埼玉医科大に集まり、ツェリン氏と会食した。
毛呂山町では65~70年、毛呂病院(現埼玉医科大)の丸木清美(せいみ)元院長(故人)が、難民となってチベットを逃れた10~14歳の子どもたち計21人を迎え入れた。日本政府は留学生としてビザを発給。西蔵さんもその一人で、65年に13歳で来日した。町立毛呂山中、県立飯能高、埼玉医科大で学び、内科医となった。
ツェリン氏は2021年5月の首相就任後、初の来日。亡命政府樹立の背景となった「チベット動乱」(1959年)後に日本に受け入れられた難民の経緯や近況を知ろうと、24日、県内を訪れた。医師の西蔵ツワンさん(70)=武蔵台病院(日高市)院長=ら在住50年以上のチベット人8人が埼玉医科大に集まり、ツェリン氏と会食した。
毛呂山町では65~70年、毛呂病院(現埼玉医科大)の丸木清美(せいみ)元院長(故人)が、難民となってチベットを逃れた10~14歳の子どもたち計21人を迎え入れた。日本政府は留学生としてビザを発給。西蔵さんもその一人で、65年に13歳で来日した。町立毛呂山中、県立飯能高、埼玉医科大で学び、内科医となった。
● 「訃報は日本人と同等か、それ以上の衝撃」安倍元首相邸に弔問の世界ウイグル会議総裁 昭恵夫人に謝辞、責任感や覚悟は今の政界にない 同行した有本香氏に聞く 10/4(火)
マサムネ | URL | 2022/10/06(木) 20:48 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/10/06(木) 20:48 [EDIT]
亡命ウイグル人でつくる世界ウイグル会議(WUC=本部・ドイツ)のドルクン・エイサ総裁が1日、東京・富ヶ谷の安倍晋三元首相邸に弔問に訪れた。昭恵夫人とも面会した。安倍氏は長年、中国当局による新疆ウイグル自治区での人権弾圧を国内外に提起し、ウイグル人に寄り添ってきた。弔問に同行したジャーナリストの有本香氏に聞いた。
「安倍氏が凶弾に倒れた7月8日夜、ドルクン氏から『一刻も早く日本に行って、夫人に直接お悔やみを伝えたい』との連絡があった。ウイグル人にとって、安倍氏は世界で最も大切な政治家の1人だった」
有本氏はこう語った。
安倍氏は首相在任中、中国の習近平国家主席に直接、人権問題の改善を求めるなど、長年にわたって国内外で問題提起し続けてきた。昭恵夫人もウイグルの惨状に心を痛め、一貫して寄り添う姿勢を示し、SNSなどでウイグル文化に親しむ様子などを発信してきた。
ドルクン氏は、同会議のメンバーらと1日午後、1時間半ほど安倍邸を訪れた。ドルクン氏は「安倍氏は、ウイグル問題に力を尽くしてくれた」と昭恵夫人に謝辞を述べ、「安倍氏の訃報が、ウイグル人にとって日本人と同等か、それ以上の衝撃だった」などとしのんだという。
ドルクン氏は、安倍氏の「国葬(国葬儀)」当日(9月27日)、会場の日本武道館近くの九段坂公園に設置された一般の献花台に約1時間並び、弔意を示したという。
有本氏は「昭恵夫人は、ドルクン氏の弔問を受け、ウイグルの現状を聞いて、『自分も変わらない気持ちをずっと寄せていきたい』と伝えていた。安倍夫妻ほど人道主義に徹することはなかなか難しい。この問題を何とかしなければという責任感や覚悟は、今の政界からは感じられない」と語った。
「安倍氏が凶弾に倒れた7月8日夜、ドルクン氏から『一刻も早く日本に行って、夫人に直接お悔やみを伝えたい』との連絡があった。ウイグル人にとって、安倍氏は世界で最も大切な政治家の1人だった」
有本氏はこう語った。
安倍氏は首相在任中、中国の習近平国家主席に直接、人権問題の改善を求めるなど、長年にわたって国内外で問題提起し続けてきた。昭恵夫人もウイグルの惨状に心を痛め、一貫して寄り添う姿勢を示し、SNSなどでウイグル文化に親しむ様子などを発信してきた。
ドルクン氏は、同会議のメンバーらと1日午後、1時間半ほど安倍邸を訪れた。ドルクン氏は「安倍氏は、ウイグル問題に力を尽くしてくれた」と昭恵夫人に謝辞を述べ、「安倍氏の訃報が、ウイグル人にとって日本人と同等か、それ以上の衝撃だった」などとしのんだという。
ドルクン氏は、安倍氏の「国葬(国葬儀)」当日(9月27日)、会場の日本武道館近くの九段坂公園に設置された一般の献花台に約1時間並び、弔意を示したという。
有本氏は「昭恵夫人は、ドルクン氏の弔問を受け、ウイグルの現状を聞いて、『自分も変わらない気持ちをずっと寄せていきたい』と伝えていた。安倍夫妻ほど人道主義に徹することはなかなか難しい。この問題を何とかしなければという責任感や覚悟は、今の政界からは感じられない」と語った。
地酒「女将」を持参して当時の安倍首相を訪問した立尾さん(右から2人目)ら=2016年2月9日、東京都の首相官邸で
安倍元首相銃撃
安倍晋三元首相が奈良市で演説中に銃撃され、死亡した事件から一夜明けた九日、面識があった県内関係者らが本紙の取材に思い出を語った。「笑顔が魅力的だった」「きちんと話をきいてくれる方だった」など、穏やかで気さくな人柄が記憶に刻まれていた。 (北原愛、中場賢一、相原豪)
あわら温泉(あわら市)の旅館「白和荘」の女将(おかみ)、立尾清美さん(59)は「オーラがあって、笑顔が魅力的だった」と悼む。二〇一六(平成二十八)年二月、あわら温泉女将の会のメンバーで首相官邸を訪ね、酒米栽培から手がけた地酒を届けた。「関東の人は辛口が好みじゃないかな」。熱心に相づちを打ち、話を聞いてくれた。「あのときの写真は私の『勲章』。酒造りやあわらの発信を頑張っていこう、って思う」。最後の来県となった六月二十六日は温泉街に宿泊し、かつて届けた地酒「女将」もたしなんだという。
「安全保障の問題に切り込んだかと思えば、『同期の岸田さんは男前だったけど、私は三枚目で』と会場を笑わせ、皆を引きつけていた」。最後の来県で演説会場に足を運んだ田川農産(あわら市)の田川幹雄社長(55)はこう話す。拉致問題に取り組んだ手腕を評価し「生きていたら、どんなことをしてくれただろうか」と、惜しんだ。
福井市立郷土歴史博物館の前館長で、県立大客員教授の角鹿尚計(なおかづ)さん(62)も「年齢や職業に関係なく話に耳を傾ける、優しい方だった」としのんだ。安倍元首相は幕末・明治期の偉人顕彰会の会長、角鹿さんは会員という関係。会合で「橋本左内と吉田松陰について、安倍先生に対し十分以上熱く語ってしまったが、話を聞いてくれた。続きをいつか、と思っていた」と涙ぐんだ。
小浜市の羽賀寺の玉川正隆(しょうりゅう)住職(58)は「暴力は良くない。そういうことがない世の中にならないと」と言葉に力を込めた。同寺は、安倍元首相とゆかりがあるとされる奥州の安倍氏が室町時代に再建した。安倍元首相も幾度と足を運んでおり、今年四月が最後の訪問になった。本堂や境内にある父・晋太郎氏の記念碑を参ったという。「どうぞ、安らかに」と住職は話した。
安倍元首相銃撃
安倍晋三元首相が奈良市で演説中に銃撃され、死亡した事件から一夜明けた九日、面識があった県内関係者らが本紙の取材に思い出を語った。「笑顔が魅力的だった」「きちんと話をきいてくれる方だった」など、穏やかで気さくな人柄が記憶に刻まれていた。 (北原愛、中場賢一、相原豪)
あわら温泉(あわら市)の旅館「白和荘」の女将(おかみ)、立尾清美さん(59)は「オーラがあって、笑顔が魅力的だった」と悼む。二〇一六(平成二十八)年二月、あわら温泉女将の会のメンバーで首相官邸を訪ね、酒米栽培から手がけた地酒を届けた。「関東の人は辛口が好みじゃないかな」。熱心に相づちを打ち、話を聞いてくれた。「あのときの写真は私の『勲章』。酒造りやあわらの発信を頑張っていこう、って思う」。最後の来県となった六月二十六日は温泉街に宿泊し、かつて届けた地酒「女将」もたしなんだという。
「安全保障の問題に切り込んだかと思えば、『同期の岸田さんは男前だったけど、私は三枚目で』と会場を笑わせ、皆を引きつけていた」。最後の来県で演説会場に足を運んだ田川農産(あわら市)の田川幹雄社長(55)はこう話す。拉致問題に取り組んだ手腕を評価し「生きていたら、どんなことをしてくれただろうか」と、惜しんだ。
福井市立郷土歴史博物館の前館長で、県立大客員教授の角鹿尚計(なおかづ)さん(62)も「年齢や職業に関係なく話に耳を傾ける、優しい方だった」としのんだ。安倍元首相は幕末・明治期の偉人顕彰会の会長、角鹿さんは会員という関係。会合で「橋本左内と吉田松陰について、安倍先生に対し十分以上熱く語ってしまったが、話を聞いてくれた。続きをいつか、と思っていた」と涙ぐんだ。
小浜市の羽賀寺の玉川正隆(しょうりゅう)住職(58)は「暴力は良くない。そういうことがない世の中にならないと」と言葉に力を込めた。同寺は、安倍元首相とゆかりがあるとされる奥州の安倍氏が室町時代に再建した。安倍元首相も幾度と足を運んでおり、今年四月が最後の訪問になった。本堂や境内にある父・晋太郎氏の記念碑を参ったという。「どうぞ、安らかに」と住職は話した。
福岡県宗像市の離島、大島に、安倍晋三元首相の先祖とされる安倍(あべの)宗任(むねとう)の墓がある。平安時代に東北地方の有力な豪族だった安倍一族の武将が大島に流されたことを伝える歴史的に価値のある史跡で、安倍元首相も昨年、墓参りに訪れた。7月に発生した銃撃事件以降、安倍元首相を慕う人々が献花に訪れており、ゆかりのある島民らは27日、国葬(国葬儀)に合わせて法要を営み、心から冥福を祈る。
墓のある安昌院の安川至道住職(72)によると、安倍元首相は昨年11月1日に初めて墓参りに訪れ、妻の昭恵さんや自民党の県議らとともに1時間半ほど寺に滞在した。安川氏が墓や島の歴史などを伝えると、安倍元首相は質問を交えて熱心に聞き、墓を感慨深そうに見つめて手を合わせた。
安川氏は10年以上前、安倍元首相と福岡県久山町で面会し、墓について話す機会があったという。その際、安倍元首相は「一線を退いたら必ず墓参りに行きたい」と語っており、安川氏は「約束を果たそうと来られたのだと思う。島は日中には風が吹くことが多いが、安倍元首相が訪れた日は、こんな日があるのかというほど風がなく、先祖が来訪を歓迎しているように感じた」と語る。
前日が衆院選の投開票日だったため、安倍元首相には関係者から次々と電話が入っていた。表情からは多少の疲れもうかがえたが、島民の写真撮影の依頼に笑顔で応じ、島は来訪に沸いた。
墓参り当日は、旧大島村で職員を務めた板矢英之氏(78)も対応した。昭和63年に安倍元首相の母が、宗任の没後880年の法要で島を訪れた際の写真を見せると、安倍元首相は写っている人々を懐かしんでいたという。
板矢氏の祖先も宗任とともに島に流されてきたと伝わる。板矢氏は、銃撃事件で安倍元首相が心肺停止となったとの報道を受け、宗任の墓前で「命だけは助かってほしい」と祈った。しかし願いはかなわず、再び墓に向かって追悼し、その後も毎日手を合わせている。
戦い望まず
安倍宗任は平安時代、安倍氏の一族と、朝廷から派遣された源頼義が戦った前九年の役で降伏し、京都や四国を経て大島に流されたと伝わる。大島は当時、中国との交易の拠点に位置付けられており、周辺で勢力を持っていた宗像族が、交易にあたり宗任らの力を借りようとしたことも、宗任がこの地に着いた背景にあるとみられている。
岩手県金ケ崎町がまとめた「やさしく読める金ケ崎の歴史」によると、宗任は最後の合戦でほとんど戦わずに投降した。安倍一族は戦いを望んでおらず、「臆病というより殺し合いを拒んだからではないか」と推察されている。平和を尊ぶ精神は後の人にも影響を与えた。
宗任は大島で41年にわたって生活し、77歳で死去した。罪人として流されながらも、人格者で信心深いことから島民に敬愛され、安昌院は宗任が開基したといわれる。墓の背後には樹齢約900年の榎が近年まであったといい、代々ここで宗任をしのんでいたとみられる。
一方、子孫の安倍元首相は「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を主体的に展開し、各国から高い評価を受けた。安川氏は「墓には安倍元首相を慕う人が島外からも花束を持って訪れる。国葬の日はゆかりのある人たちでしのびたい。どうか安らかにお眠りください」と語る。27日は菩提寺(ぼだいじ)の安昌院で法要を営み、参列者と生前の安倍元首相に思いをはせる。(一居真由子)
墓のある安昌院の安川至道住職(72)によると、安倍元首相は昨年11月1日に初めて墓参りに訪れ、妻の昭恵さんや自民党の県議らとともに1時間半ほど寺に滞在した。安川氏が墓や島の歴史などを伝えると、安倍元首相は質問を交えて熱心に聞き、墓を感慨深そうに見つめて手を合わせた。
安川氏は10年以上前、安倍元首相と福岡県久山町で面会し、墓について話す機会があったという。その際、安倍元首相は「一線を退いたら必ず墓参りに行きたい」と語っており、安川氏は「約束を果たそうと来られたのだと思う。島は日中には風が吹くことが多いが、安倍元首相が訪れた日は、こんな日があるのかというほど風がなく、先祖が来訪を歓迎しているように感じた」と語る。
前日が衆院選の投開票日だったため、安倍元首相には関係者から次々と電話が入っていた。表情からは多少の疲れもうかがえたが、島民の写真撮影の依頼に笑顔で応じ、島は来訪に沸いた。
墓参り当日は、旧大島村で職員を務めた板矢英之氏(78)も対応した。昭和63年に安倍元首相の母が、宗任の没後880年の法要で島を訪れた際の写真を見せると、安倍元首相は写っている人々を懐かしんでいたという。
板矢氏の祖先も宗任とともに島に流されてきたと伝わる。板矢氏は、銃撃事件で安倍元首相が心肺停止となったとの報道を受け、宗任の墓前で「命だけは助かってほしい」と祈った。しかし願いはかなわず、再び墓に向かって追悼し、その後も毎日手を合わせている。
戦い望まず
安倍宗任は平安時代、安倍氏の一族と、朝廷から派遣された源頼義が戦った前九年の役で降伏し、京都や四国を経て大島に流されたと伝わる。大島は当時、中国との交易の拠点に位置付けられており、周辺で勢力を持っていた宗像族が、交易にあたり宗任らの力を借りようとしたことも、宗任がこの地に着いた背景にあるとみられている。
岩手県金ケ崎町がまとめた「やさしく読める金ケ崎の歴史」によると、宗任は最後の合戦でほとんど戦わずに投降した。安倍一族は戦いを望んでおらず、「臆病というより殺し合いを拒んだからではないか」と推察されている。平和を尊ぶ精神は後の人にも影響を与えた。
宗任は大島で41年にわたって生活し、77歳で死去した。罪人として流されながらも、人格者で信心深いことから島民に敬愛され、安昌院は宗任が開基したといわれる。墓の背後には樹齢約900年の榎が近年まであったといい、代々ここで宗任をしのんでいたとみられる。
一方、子孫の安倍元首相は「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を主体的に展開し、各国から高い評価を受けた。安川氏は「墓には安倍元首相を慕う人が島外からも花束を持って訪れる。国葬の日はゆかりのある人たちでしのびたい。どうか安らかにお眠りください」と語る。27日は菩提寺(ぼだいじ)の安昌院で法要を営み、参列者と生前の安倍元首相に思いをはせる。(一居真由子)
指 定 所在地 管理者
平成6.5.20 県指定 小浜市羽賀 高野山真言宗羽賀寺
愛季像は、承応2年(1653)6月の造像。衣冠束帯形に作られて、像高75㎝、袖幅81㎝。彩色。桧材。背銘は「竜穏院殿、前侍従者、日下将軍第七代末孫、安倍愛季万生鉄、大居士卅九才入寂、承応二年六月子息、城介造立之、羽賀寺第八住持、法印来雄」(、本文改行)と陰刻されている。
実季像は、江戸初期の造像と思われる。僧形に作られている。像高61.5㎝、袖幅105.5㎝。彩色。檜材。背銘は陰刻されている。「高乾院殿前拾遺空巌梁空、大居士者日下将軍安倍安康、第八代後胤也名秋田城介安倍、実季永禄本堂上葺外當寺寄進霊宝等、数多也秋田自此代始、法印来雄書」。
当寺は、「羽賀寺縁起」によれば応永5年(1398)と永享7年(1435)と二度の火災に遭い、三重塔や本堂などを焼失した。この事を聞いた後花園天皇は、奥州十三湊の日下将軍に命じて、羽賀寺の再建に取り掛からせたという記事が見える。
永享7年に本堂が焼失した後、同8年莫大な資材を投じてこれを再建工事に着手した安倍康季は、完成を見ないまま文安2年(1445)に津軽岩木山麓の引根館で病死してしまうが、引続き工事は進められ、文安4年に安倍義季の代に至り完成したものが現本堂である。この木像2体は、現在の羽賀寺の本堂を再建した由緒から安置されているもので、実季自身が自ら人形師に作らせ、この羽賀寺に奉納したものと推察される。
本像は羽賀寺にとっても、また、若狭小浜と東北の歴史にとっても重要な意味をもつものである。
平成6.5.20 県指定 小浜市羽賀 高野山真言宗羽賀寺
愛季像は、承応2年(1653)6月の造像。衣冠束帯形に作られて、像高75㎝、袖幅81㎝。彩色。桧材。背銘は「竜穏院殿、前侍従者、日下将軍第七代末孫、安倍愛季万生鉄、大居士卅九才入寂、承応二年六月子息、城介造立之、羽賀寺第八住持、法印来雄」(、本文改行)と陰刻されている。
実季像は、江戸初期の造像と思われる。僧形に作られている。像高61.5㎝、袖幅105.5㎝。彩色。檜材。背銘は陰刻されている。「高乾院殿前拾遺空巌梁空、大居士者日下将軍安倍安康、第八代後胤也名秋田城介安倍、実季永禄本堂上葺外當寺寄進霊宝等、数多也秋田自此代始、法印来雄書」。
当寺は、「羽賀寺縁起」によれば応永5年(1398)と永享7年(1435)と二度の火災に遭い、三重塔や本堂などを焼失した。この事を聞いた後花園天皇は、奥州十三湊の日下将軍に命じて、羽賀寺の再建に取り掛からせたという記事が見える。
永享7年に本堂が焼失した後、同8年莫大な資材を投じてこれを再建工事に着手した安倍康季は、完成を見ないまま文安2年(1445)に津軽岩木山麓の引根館で病死してしまうが、引続き工事は進められ、文安4年に安倍義季の代に至り完成したものが現本堂である。この木像2体は、現在の羽賀寺の本堂を再建した由緒から安置されているもので、実季自身が自ら人形師に作らせ、この羽賀寺に奉納したものと推察される。
本像は羽賀寺にとっても、また、若狭小浜と東北の歴史にとっても重要な意味をもつものである。
清水ともみさんがリツイートしました
はっち
@hachii_mitu
返信先:
@swim_shu
さん
今年2月、ポタラ宮前で焼身抗議自殺したチベット人歌手のツェワンノルブ
https://twitter.com/i/status/1578914217679544322
彼の死後、彼の父親も拘束され暴行を受け自殺と報道がありました。
同化政策に抗議する者の親族への暴行や拷問も行っているようです。
#TsewangNorbu #才旺罗布 #Tibet #西藏 #ツェワンノルブ
はっち
@hachii_mitu
返信先:
@swim_shu
さん
今年2月、ポタラ宮前で焼身抗議自殺したチベット人歌手のツェワンノルブ
https://twitter.com/i/status/1578914217679544322
彼の死後、彼の父親も拘束され暴行を受け自殺と報道がありました。
同化政策に抗議する者の親族への暴行や拷問も行っているようです。
#TsewangNorbu #才旺罗布 #Tibet #西藏 #ツェワンノルブ
参院選の街頭演説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の山口県民葬(県民葬儀)が15日、下関市・県国際総合センター「海峡メッセ下関」で営まれた。遺族代表であいさつした喪主の昭恵夫人は「主人の67年、本当に素晴らしい人たちと多くの出会いがあり、多くの方に支えられて、そして、大好きな日本の国のために大きな仕事をさせていただき、豊かな67年の人生だった。本当にありがとうございました」と述べた。昭恵夫人のあいさつの詳細は以下の通り。
「本日は主人の県民葬、立派に挙行していただき、村岡(嗣政)知事、柳居(俊学)県議会議長をはじめ、県議会関係者の皆様方には厚くお礼を申し上げます。細田(博之)衆院議長はじめ、国会議員の先生方には大変、お忙しい中、わざわざ下関まで足を運んでいただきましたこと、ありがとうございました。地元の議員の皆さま、市長、町長はじめ、主人がお世話になった多くの方にご参列をいただき、また、台湾からも遠くたくさん、ご参列いただきました。主人も喜んでいることと思います。本当にありがとうございます」
「7月8日にこのような形で命を絶ちまして、今日でちょうど百か日を迎えました。信じられないような中で日々が過ぎていき、それでも四十九日を迎え、先日は武道館で立派な国葬儀を挙行していただき、だんだんと私も実感が湧いてきて、『あっ、本当にいなくなってしまったんだな』と寂しさが増してきているような日々でございます」
「平成3年、1991年、主人の父、安倍晋太郎は膵臓(すいぞう)がんで志半ば、総理目前といわれながら亡くなりました。主人と同じ67歳でございました。秘書をしていた主人は、おそらく誰よりも、その無念さを感じたことと思います。
その後、父の遺志を継いで、政治家になる決意をして、この下関に帰ってきて、毎日、毎日、多くの方に自分の思いを伝え、お願いをして回っておりました。1991年という年は湾岸戦争があり、ソ連崩壊という激動の時代でもありました。主人はその中で、政治家になる決意をして、そして、『未来は不変のものではなく、われわれの努力によって作り上げていく』という信念のもと、『世界平和のために新しい秩序、この日本が中心になって作っていかなくてはならない』。そんなことを語っておりました。それは政治家になる前から、本当に最後まで一貫していたのではないかなと思います」
「主人を支えてくださったのは、本当にこの地元にいる皆様方でした。初めて選挙に出たときは志は高かったと思いますけれども、また、父の秘書をしていたとはいえ、政治家としては全くの未知数で、30代という人間としても、まだまだ未熟だったと思いますが、主人を信じてずっと支えてきてくださいました。時に厳しい言葉をかけていただくこともありましたけれども、おかげさまで、主人を大きな政治家に育てていただけたのだろうなと思っております。ことあるごとに主人は『自分が東京で安心して仕事ができるのは、地元で支えてくださる皆様方がいらっしゃるからだ』と口にしておりました」
「特に2007年、第1次政権、病気のために辞任することになったときには『突然、総理を投げ出して無責任な男だ』と大変な批難を浴びることになり、私も本当に悔しい思いをしておりましたけれども、しばらくして、この地元に帰ってくると、多くの方に温かく迎えていただき、『晋三さん、もう1回頑張りなさい』と励ましていただきました。主人にとりましては、本当にどんなにうれしかったろうかと思います」
「そして、その後の2009年、自民党にとっては大変厳しい選挙でございましたけれども、今までにないような最高の得票率で主人は当選をさせていただきました。そのとき、主人は『再び地元の皆さんに政治家として、生命を吹き込んでいただいたんだ』というふうに言っておりました。そして、もう一度、政治家として頑張っていこうと決意を新たにしたのではないかなと思っています」
「その後、2012年に負けるかもしれないという自民党総裁選挙に立候補したときも、本当に自民党が苦しいときに全力で応援してくださった皆様方への恩返しの気持ち、再び自民党に信頼を取り戻したい、そんな思いで、『負けてもいい。何度でもチャレンジする』と言って総裁選に出馬をいたしました。その後、7年8カ月、総理大臣を務めることができたのは、本当にこの地元でお支えをいただいた皆様方のおかげと、主人に代わりまして厚くお礼を申し上げるところでございます。本当にありがとうございました」
「主人は山口県が本当に大好きで、この下関・長門が大好きでした。役職について、だんだん、帰ることが少なくなりましたけれども、それでも毎年、お盆に帰って、お祭りや花火大会で市民の方と触れ合うことをとても楽しみにしていました。『コロナでなかなか帰れないけれども、コロナが落ち着いたらゆっくり2人で帰って皆さんと語り合いたいね』と、そんな話もしておりましたが、6月末、江島(潔参院議員)先生の選挙の応援で帰ってきたのが最後となってしまいました」
「今回、遺骨という形で帰ってきたのは、本当に残念でなりませんけれども、国葬儀には各国から大勢の方にお越しをいただき、私に対しても本当に温かい弔意の言葉をいただきました。一般献花においても、長い、長い列ができて長時間並んで、献花をしてくださいました。きっと主人はそれを見て喜び、感謝をしていたのではないかなと思います」
「増上寺でのごあいさつのときに、吉田松陰先生の『留魂録』を主人が父の追悼文で書いたものを私は引用させていただきましたけれども、主人の67年、本当に素晴らしい人たちと多くの出会いがあり、多くの方に支えられて、そして、大好きな日本の国のために大きな仕事をさせていただいて、豊かな67年の人生であったと私は思っています」
「主人が愛した、この山口県、私も本当に大好き。これからも先ほどの映像にも出ていましたけど、令和の地方のあり方、私もこの地域のために、これから何かしら活動していきたいなと思っていますので、皆様方には引き続きよろしくお願い申し上げます」
「母は94歳になりました。家では、弔問に来られる方の対応をしておりますけれども、残念ながら、この県民葬に参列することはできませんでした。長年、お世話になりました皆様方に、くれぐれもよろしくお伝えしてほしいと母からも言われました」
「本当にこれが最後なのかなと思って、私はこの県民葬が終わると、気が抜けてしまうのではないかなと思いますけど、本当に、このように皆様方に立派にお見送りをしていただきましたこと、改めて主人に代わりましてお礼をさせていただき、私、喪主のごあいさつとさせていただきます。本当に本日はありがとうございました」
「本日は主人の県民葬、立派に挙行していただき、村岡(嗣政)知事、柳居(俊学)県議会議長をはじめ、県議会関係者の皆様方には厚くお礼を申し上げます。細田(博之)衆院議長はじめ、国会議員の先生方には大変、お忙しい中、わざわざ下関まで足を運んでいただきましたこと、ありがとうございました。地元の議員の皆さま、市長、町長はじめ、主人がお世話になった多くの方にご参列をいただき、また、台湾からも遠くたくさん、ご参列いただきました。主人も喜んでいることと思います。本当にありがとうございます」
「7月8日にこのような形で命を絶ちまして、今日でちょうど百か日を迎えました。信じられないような中で日々が過ぎていき、それでも四十九日を迎え、先日は武道館で立派な国葬儀を挙行していただき、だんだんと私も実感が湧いてきて、『あっ、本当にいなくなってしまったんだな』と寂しさが増してきているような日々でございます」
「平成3年、1991年、主人の父、安倍晋太郎は膵臓(すいぞう)がんで志半ば、総理目前といわれながら亡くなりました。主人と同じ67歳でございました。秘書をしていた主人は、おそらく誰よりも、その無念さを感じたことと思います。
その後、父の遺志を継いで、政治家になる決意をして、この下関に帰ってきて、毎日、毎日、多くの方に自分の思いを伝え、お願いをして回っておりました。1991年という年は湾岸戦争があり、ソ連崩壊という激動の時代でもありました。主人はその中で、政治家になる決意をして、そして、『未来は不変のものではなく、われわれの努力によって作り上げていく』という信念のもと、『世界平和のために新しい秩序、この日本が中心になって作っていかなくてはならない』。そんなことを語っておりました。それは政治家になる前から、本当に最後まで一貫していたのではないかなと思います」
「主人を支えてくださったのは、本当にこの地元にいる皆様方でした。初めて選挙に出たときは志は高かったと思いますけれども、また、父の秘書をしていたとはいえ、政治家としては全くの未知数で、30代という人間としても、まだまだ未熟だったと思いますが、主人を信じてずっと支えてきてくださいました。時に厳しい言葉をかけていただくこともありましたけれども、おかげさまで、主人を大きな政治家に育てていただけたのだろうなと思っております。ことあるごとに主人は『自分が東京で安心して仕事ができるのは、地元で支えてくださる皆様方がいらっしゃるからだ』と口にしておりました」
「特に2007年、第1次政権、病気のために辞任することになったときには『突然、総理を投げ出して無責任な男だ』と大変な批難を浴びることになり、私も本当に悔しい思いをしておりましたけれども、しばらくして、この地元に帰ってくると、多くの方に温かく迎えていただき、『晋三さん、もう1回頑張りなさい』と励ましていただきました。主人にとりましては、本当にどんなにうれしかったろうかと思います」
「そして、その後の2009年、自民党にとっては大変厳しい選挙でございましたけれども、今までにないような最高の得票率で主人は当選をさせていただきました。そのとき、主人は『再び地元の皆さんに政治家として、生命を吹き込んでいただいたんだ』というふうに言っておりました。そして、もう一度、政治家として頑張っていこうと決意を新たにしたのではないかなと思っています」
「その後、2012年に負けるかもしれないという自民党総裁選挙に立候補したときも、本当に自民党が苦しいときに全力で応援してくださった皆様方への恩返しの気持ち、再び自民党に信頼を取り戻したい、そんな思いで、『負けてもいい。何度でもチャレンジする』と言って総裁選に出馬をいたしました。その後、7年8カ月、総理大臣を務めることができたのは、本当にこの地元でお支えをいただいた皆様方のおかげと、主人に代わりまして厚くお礼を申し上げるところでございます。本当にありがとうございました」
「主人は山口県が本当に大好きで、この下関・長門が大好きでした。役職について、だんだん、帰ることが少なくなりましたけれども、それでも毎年、お盆に帰って、お祭りや花火大会で市民の方と触れ合うことをとても楽しみにしていました。『コロナでなかなか帰れないけれども、コロナが落ち着いたらゆっくり2人で帰って皆さんと語り合いたいね』と、そんな話もしておりましたが、6月末、江島(潔参院議員)先生の選挙の応援で帰ってきたのが最後となってしまいました」
「今回、遺骨という形で帰ってきたのは、本当に残念でなりませんけれども、国葬儀には各国から大勢の方にお越しをいただき、私に対しても本当に温かい弔意の言葉をいただきました。一般献花においても、長い、長い列ができて長時間並んで、献花をしてくださいました。きっと主人はそれを見て喜び、感謝をしていたのではないかなと思います」
「増上寺でのごあいさつのときに、吉田松陰先生の『留魂録』を主人が父の追悼文で書いたものを私は引用させていただきましたけれども、主人の67年、本当に素晴らしい人たちと多くの出会いがあり、多くの方に支えられて、そして、大好きな日本の国のために大きな仕事をさせていただいて、豊かな67年の人生であったと私は思っています」
「主人が愛した、この山口県、私も本当に大好き。これからも先ほどの映像にも出ていましたけど、令和の地方のあり方、私もこの地域のために、これから何かしら活動していきたいなと思っていますので、皆様方には引き続きよろしくお願い申し上げます」
「母は94歳になりました。家では、弔問に来られる方の対応をしておりますけれども、残念ながら、この県民葬に参列することはできませんでした。長年、お世話になりました皆様方に、くれぐれもよろしくお伝えしてほしいと母からも言われました」
「本当にこれが最後なのかなと思って、私はこの県民葬が終わると、気が抜けてしまうのではないかなと思いますけど、本当に、このように皆様方に立派にお見送りをしていただきましたこと、改めて主人に代わりましてお礼をさせていただき、私、喪主のごあいさつとさせていただきます。本当に本日はありがとうございました」
清水ともみさんがリツイートしました
Gulistan Eziz グリスタン エズズ
@Ezuzu6
中国が行う強制結婚、強制労働、その選択肢しか無い、その道しか残されて無い、強制も何も、向こうが用意した罠にハマるしか無い。
سۇمرۇغ
@HlNOTORl
16時間
返信先:
@Ezuzu6さん
漢族の男と強制的に結婚させられるウイグル人女性の、絶望を通り越した、恐怖の表情がいくつも瞼に焼きついています。彼女たちがいま、どのような生活にあるかを考えれば考える程、この上ない深い悲しみに打ち拉がれるような心境になります。
Gulistan Eziz グリスタン エズズ
@Ezuzu6
中国が行う強制結婚、強制労働、その選択肢しか無い、その道しか残されて無い、強制も何も、向こうが用意した罠にハマるしか無い。
سۇمرۇغ
@HlNOTORl
16時間
返信先:
@Ezuzu6さん
漢族の男と強制的に結婚させられるウイグル人女性の、絶望を通り越した、恐怖の表情がいくつも瞼に焼きついています。彼女たちがいま、どのような生活にあるかを考えれば考える程、この上ない深い悲しみに打ち拉がれるような心境になります。
● 安倍首相とチベット
シラユキ | URL | 2022/10/16(日) 21:46 [EDIT]
シラユキ | URL | 2022/10/16(日) 21:46 [EDIT]
>マサムネさん
安倍元首相の葬儀ならびにチベットのペンパ・ツェリン首相の日本での講演の再録ありがとうございました。阿倍さんは確かにいろいろ残念な問題はありましたが、お人柄はよく、チベット問題には共感をよせてくださっていました。RIP
>マースレニツァさん
今週中にもウクライナがヘルソン州を解放するとのこと。年内に戦争がおわってウクライナが平和に戻ってほしいです。
安倍元首相の葬儀ならびにチベットのペンパ・ツェリン首相の日本での講演の再録ありがとうございました。阿倍さんは確かにいろいろ残念な問題はありましたが、お人柄はよく、チベット問題には共感をよせてくださっていました。RIP
>マースレニツァさん
今週中にもウクライナがヘルソン州を解放するとのこと。年内に戦争がおわってウクライナが平和に戻ってほしいです。
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