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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/08/11(木)   CATEGORY: 未分類
「チベット仏教の美術」展にいってきました。
8月4日、院生Wくんと仏像マニアのSくんとトーハクの正門前で待ち合わせをし、博物館スタッフNさんの説明を伺いながら、「皇帝も愛した神秘の美」展示を参観する。文献学者である私は博物館スタッフであるNさんとはこれまで接点がなく初対面である。

 入ってすぐのところにパンフの表紙にもなっているチャクラサンヴァラの像が展示されている。

 「乾隆帝はこのチャクラサンヴァラ尊の灌頂を受けているので、この仏さまは清朝にとって特別な意味のある仏なんです。阿毘達磨倶舎論に説かれる、武力によらずして仏教で世界を平和に支配する転輪聖王が、密教化した姿がこのチャクラサンヴァラ尊です。
 世界の中心にあるスメール山の頂上で、ヒンドゥー教のシヴァ神を足の下に踏んだ姿で作られ、そのマンダラも転輪聖王のシンボルある法輪形です。今回チャクラサンヴァラのマンダラは展示されていますか?」

 Nさん「残念ながらありません。今回は古美術商の伊藤弥三郎氏から購入したヴァジュラーヴァリー(金剛蔓)の三つのマンダラを展示しています。このマンダラは康煕帝の12子允祹(1709-1763) がチャンキャの指示のもとに作ったとされています。」

 見れば確かに優品である。展示入れ替えがあるため、三つ揃った姿はみられなかったが、詳しくは以下のトーハクの画像検索で全部を確認してください(画像検索結果はここ)。


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 Nさんによると、トーハクに所蔵されているチベットの美術品は、赤峰領事だった北條太洋(1866-?)氏が大正12 年(1923) 3 月 28 日に東宮(後の昭和天皇)に献上した173あまりの仏像類が多くを占めているという。赤峰は熱河(承徳)が近いので、熱河離宮から流出した優品が多いと思われる。

Nさん「この献上は『昭和天皇実録』大正12 年(1923) 3 月 28 日条にも記されているんですよ。」*

*二十八日 (中略)午後、東宮仮御所において、赤峰領事館領事 北条太洋献上の 喇嘛仏像百八十余個をご覧になり 、北条領事より説明をお聞きになる

 そして、二つの釈迦像の前で私の足がとまる。アキャ・フトクト(北京最大のチベット僧院雍和宮の貫首)が1901年に来日した時、献上したものだと記されている。そういえば2年前に行った企画展『大隈重信とチベット・モンゴル』で院生W くんが、アキャ・フトクトの来日から離日までの行動を記した『教学報知』を翻刻していたことを思い出し、Nさんにお送りすることを約した。

 昔からチベット僧による世俗の有力者へのお土産はお釈迦様と相場はきまっており、アキャの仏像もダライラマ14世が、長野の名刹善光寺に送った仏像とまったく同じ触地印のお釈迦様(ソースのニュースはここ)。写真で並べると同じ印相していることがわかるでしょう(向かって右の金色のが善光寺におさめられているお釈迦様)。
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 アキャ・フトクトは東本願寺の僧寺本婉雅が、エスコートして日本に滞在していたが、寺本婉雅がラサで購入したという「乾隆帝の御衣でつくったツォンカパ(ダライ・ラマの属する宗派の宗祖)の絵画も展示されていた。
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 院生W「彼、ラサには三ヶ月くらいしかいないので、長く滞在していた東北チベットか、北京あたりで購入してると考える方が自然ですよね」

 「タンカに書いてあるならまだしも、寺本の証言だけだと微妙だよね」とこれまで寺本が結構ふかしていることを知っている師弟は塩対応。

 選ばれし仏像オタクSは金銅仏によせた風合いでつくられた乾漆像の栴檀仏やヤマーンタカ像にみいっている。
 一方、院生Wくんは河口慧海(1901年に日本人としてはじめてラサに潜入した僧)が作った標本箱を目を輝かせて眺めている。この一行ツボがとにかくオタクである。
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 河口慧海は帰朝後、チベット旅行記を新聞に連載し時の人となり、1904年にそれが発刊され、同年、東京美術学校(芸大の前身)でチベット展を開催した。この標本箱はその時のそのままの形でトーハクに所蔵されて今目の前にあるのである(写真左は藤岡光田作作河口慧海像 右は河口慧海が将来したビャクダンに高村光雲が釈尊像をほったもの)。
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 選ばれしオタク一行はチベット展のついでに日中国交正常化50周年記念特別デジタル展「故宮の世界」にも足を運んだ。

 Sくん「ボク特別展にこんなに人がいないの見たことないです。」

私「連日の猛暑がおさまって、来るなら今日っていう日なのに人がいないねー。まあ40周年の時も故宮展やったけど尖閣問題でもめていて、最後まで中国が国宝をだすかわからずひやひやしたから、今回はあの時よりさらに日中関係悪いんで、察するに関係者もリスクを冒したくなかったんでしょう。知らんけど。」

 しかし、VRの故宮はすいてて故宮を独り占めしたみいで意外に楽しかった。

 そして家に帰り二年前のカタログでアキャ・フトクトの行動日誌を確認すると、アキャ・フトクトは1901年7月27日に宮中に参内し、宮内大臣に仏像など五点を献上している。

 私はカタログをNさんに送り、「アキャ帝室博物館にはいってませんが、宮中に参内しています」と伝えると、すぐにお返事があり、現在トーハクが所蔵しているアキャの献上品とされる五品がこの「教学報知」に記された銅仏像二点、絵仏像一点、蔵香(チベタン・インセンス) 一把、毛織物一巻と見事に一致するという。

 その時いただいた台帳の画像にアキャにつづいてウーセルという僧が絹織物と蔵香を献上しているが、これはアキャに随行してきたウーセル・ギャムツォである。Nさんによると帝室博物館は宮内省(当時)の所管だったので、宮中に献上されたものが大正期に帝室博物館に入っていることは矛盾ないという。

 二年前に院生Wくんが、この教学報知の長い記事を「面白い、翻刻したい」といった時は、ご苦労様だと思ったもんだが、やっておくものである。ちなみに日本国内には存在せずアメリカにしかないと思われていた寺本婉雅の参謀本部へのチベット旅行の報告書(九大のK先生が発見し、院生Wくんが翻刻)はあっさりとトーハクに所蔵されていた

 博物館は歴史研究の盲点だと思いしったのが今回の収穫であった。
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● 林久義さん(62)。チベット仏教のラマ僧として高山市に寺院を構える。
マサムネ | URL | 2022/08/21(日) 15:52 [EDIT]
「謎の石」大量発掘、人工的な切り込み跡 岐阜市の川岸、地元僧侶「武士の弔い用」推測
8/20(土) 岐阜新聞Web
境川の護岸工事で掘り出された不思議な石を紹介する林久義さん=岐阜市領下

 岐阜市と羽島郡岐南町の境を流れる境川。その川岸から不思議な石が大量に掘り出された。発見者は、この地で関ケ原合戦の前哨戦の一つ「乱闘橋の戦い」があったことから、戦死した兵を弔うために置かれた石ではないかと推測する。似た石は、市内の加納城跡の石垣にも見られるといい、そのつながりを探る“歴史の謎解き”に挑んでいる。発見者は、同市領下の林久義さん(62)。チベット仏教のラマ僧として高山市に寺院を構えるが、中学生の頃からのライフワークで郷土史家の顔も持つ。石は、岐阜市の厚見中学校の東、境川に架かる中野畑橋付近で発見。今年春までの護岸工事で掘り出されたという。その護岸に面して父が営んでいた工場があるため、そこに100個余り保管している。河原に転がっているような丸くて大きな石。川だから当然だろうと思うが、林さんは明治時代の地形図を眺めながら「ここは昔、川ではなく畑地だった」と話す。岐阜市と岐南町の境界線が凹状に南に張り出している区域で、昔は境界線のように川が蛇行して流れていたが、昭和の河川改修で河道を掘削し、直線に。そのため、河原石が出るはずがない、と思いを巡らす。さらに、気になる点があるという。「石に切り込みが入っている。人工的に加工した跡だと思う」。河原石のような丸石のほか、金華山の構成岩石のチャート石も出てきたという。そして、推測する。慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ケ原合戦。その前哨戦の一つで、岐阜城落城につながる「乱闘橋の戦い」(慶長5年8月22日)がこの地であった。西軍の岐阜城主・織田秀信(織田信長の孫)と、東軍の池田輝政の軍が衝突。四、五百人近い兵が命を落としたといわれ、「その供養塔として石を置いたのでは」と林さん。

 謎はまだある。似た石が加納城跡の石垣に見られるからだ。城跡を案内してもらうと、確かに石垣の内側に丸石、外側にチャート石が使われている。丸石には切り込みも確認できる。林さんは、さらに推測する。「加納城ができる前の時代、南東方向に川手城と正法寺があった。これらが廃虚になり、関ケ原合戦後の1602年、加納城を築城する時にここから石を運んだ。でも、供養塔などに使われていた石は忌み嫌われた。そのため、荷役に加わった村人たちが、乱闘橋の戦いの死者を弔うために持ち帰ったのではないか」と持論を語る。ただ、あくまでも推論といい、岐阜市の文化財保護課などに声をかけて手がかりを探っているという。それでも長い年月、当時の面影を保ったまま残り続ける石。林さんは「石は歴史を語る。誰かが運んできたからここにある、と考えると興味深い」と歴史の謎解きの妙味を語る。林さんは、これに関連した話を21日午後3時から円徳寺(岐阜市神田町)の講座(会費2千円)で行う予定で、同時に情報提供も求めている。
● 謎の石
シラユキ | URL | 2022/08/27(土) 20:54 [EDIT]
林さんが岐阜の方で郷土史家であることを始めて知りました。ありがとうございます。

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