矢島は結構重大な使命負ってた
3月23日、ウクライナのゼレンスキー大統領が戦火のキエフからオンラインで日本の国会に向けて演説をした。ウクライナの街々は瓦礫と化し、民間人の犠牲も増える中、とにかく国際社会の支援を得ようと大統領は各国の国家にむけてオンライン演説を続けている。大統領の演説はどこの国でもスタンディング・オベーションで迎えられている。
一方、プーチン大統領は、大義のない暴力を振るっているのでどこの国からも共感されず、情報統制を行っている国民に向けてしか演説はしていない、ていうかできない。
無辜の市民が死んでいく現在、一刻も早くプーチンの権力基盤が崩れて欲しいと願う毎日であるが、北朝鮮にしても天安門事件後の中国にしても、いかに暴挙を行い世界から制裁をうけても、独裁国家の足腰は強い。しかし、今度こそは国連を骨抜きにするあの二大常任理事国が心を入れ替える契機になってほしい(入れ替えるのは心だけで無くてもいいのよw)。
ゼレンスキーが奇しくも言ったように、ロシアは面積で大国でも、倫理的には小国である。どことはいわないが、海を隔てた隣の国も同じ。『論語』が「徳は必ず孤ならず。必ず隣り有り」というけど、正しい行動をとっていれば、必ず助ける人がでてくるという意味である。聞こえてますか、あなたの国の伝統倫理だよ。
さて、ここでチベットネタにハンドルきります。
今から110年前の1912年、ダライラマはラサを占領する清朝軍をさけて英領インドに亡命していた。同年清朝が崩壊したことを受けて、ダライラマは清朝軍を追い出してラサに帰還を考えていた。しかし、仏教国家であるため、軍事力がない。近年の研究で、1912年当時チベット政府は、今のゼレンスキー大統領のようにラサを取り戻すために各国に軍事支援を求めていたことが分かってきた。
そのうちの一国が日本であった。
矢島保治郎(1882-1963)という日本人がいる。1911年3月4日に日本人として四番目、東チベットルートでは初めてチベットの都ラサに入ったことで知られる。この男がちょうどこの1912年にチベット入りをしている。

矢島保治郎の研究者である浅田晃彦氏は『世界無銭旅行者』の中で、矢島が1911年の第一回目ラサ旅行からの帰国後、短い日本滞在期間後にとんぼ返りで二度目のラサ入りをした背景には、矢島がその短い日本滞在期間に川島浪速と接触し、何らかの使命を受けたからだという。
清朝崩壊の直前、1911年12月に、外モンゴルはすでに転生僧ジェブツンダンパ8世を国王に戴いて独立宣言を行っており、清朝と外モンゴルに夾まれた内モンゴルの諸王公は中華民国につくかモンゴルにつくかの選択を迫られていた。川島浪速はこの時、内モンゴルを中国から離そうと、内モンゴルの有力王公クンサンノルブや清朝皇室の粛親王と動いた大陸浪人である。この川島が同じくチベットから中国(清朝)軍を追い出そうしていたダライラマにもかかわろうとしていたことは十分にありうる。
矢島以前にラサ入りした河口慧海、成田安輝、寺本婉雅が仏教界や日本の未来などを背負ってラサ入りしていたのとは対照的に、矢島は世界無銭旅行を推奨する力行会というバンカラ集団のメンバーとして行動していた。なので、そのお気楽かつ破天荒な言動に今にいたるまでファンが多い。
この前寺本婉雅のエントリーをFBにあげた時、九州のWさんが「矢島の『入藏日誌』を見直してみたが矢島も寺本同様、ダライラマに工作するには役不足だったかも」とコメントされたのをみて、『入藏日誌』に興味をもってとりよせてみることとした。
そう、私は日本とチベットの関係については「日本語でできるから、私がやらなくても誰かがやるだろう」と思い、基本的な文献すら揃えていなかったのだ(威張っていうことではない)。ネットで探してみると、群馬の古本屋さんに一冊きりしかなく、これを私が買ってしまったのでみなさんは図書館にいってください。

『入藏日誌』が届いて、それを紐解いたのは、寿司屋のカウンターでランチをまつ間であった。二頁目まで読んだ時、矢島のチベットへの水先案内人として、「チベット政府の御用商人「ニャンチャンツォンペン」(ツォンペンはtshong dponすなわち「交易商の長」という意味)の名前があることに瞠目した。「ニャンチャン?。見覚えある!」
さらに、矢島がこのチベット行を報告している「山上」なる名にも心に響くものが。この二つの名は同じ機密外交文書に載っていた。
その文書とは以下のものである。若干読みやすくするため手を入れている。
明治45(1912)年5月14日付け、柴田總領事代理から内田康哉外務大臣宛 2966暗号 第一三號
ダライラマの総理大臣の深き信用を受け名は御用商人なるも、その実財政上の遣繰り(やりくり)はもちろん、一般重要国務の相談にも与(あず)かると云う西蔵人「ニイジャン」なる者、山上ソウゲンを通じて面会を請へるにつき、五月十二日密に会見したるところ、
同人は[チベット]総理大臣の内意を受けて、第一大臣会議に於て清国兵のチベットより駆逐し、出来べくは、モンゴルと同じく独立を布告せんことに決したるも、第一の憂慮は清国よりの応報により清国、もし優勢の援軍を派遣するに於けば、チベットの独力、到底(とうてい)これに抵抗すること能はざるべきに付ては、日本は同種の好(よしみ)を以て、援助をチベットに致し、場合に依りては、これをその保護の下に置くの意向を有せざるべきか
この後も文書は続くが、要は、チベット政府の「御用商人ニィジャン」なるものが「山上ソウゲン」を通じて、日本にチベットへの軍事支援を求めた文書である、それをカルカッタの柴田總領事代理が外務大臣内田康哉に自分の考えも加えて送った文書である。
引用しなかった部文では、日本以外にイギリスとロシアにも支援を求めたが、1907年の英露協商にしばられて両国に却下されたことが縷々説明されている。
浅田氏は矢島の書簡の中にでてくる「山上」については不明とし、かつ、「御用商人ニィジャン」に至ってはスルーしているが、この山上ソウゲンとは、明治期の曹洞宗の名僧山上 曹源(1878-1957)である。彼は1906年にセイロン(現スリランカ)に留学し、1907年にはカルカッタ大学でパーリ語などの教鞭をとっていた。山上は帰国後、駒澤大学でインドの宗教・哲学を担当し(後に学長に就任)、駒沢学園を創立するなど明治期の曹洞宗の教育者の中でも出色の人物である。
ちなみに、カルカッタ大学での山上の後援を行っていたのはカルカッタ大学の学長Ashutosh Mukherjeeであり、この人物は大菩提協会(Mahabodhi Society) の会長でもあった。神智学協会は仏教を非常に高く評価しており、鎖国中のチベットのダライラマを名誉総裁にするほどであった(コンタクトとれてなくても)。
また、このカルカッタの總領事柴田の代理は平田知夫といい、無一文の矢島が第一回のチベット旅行からインドに戻ってきた後、五ヶ月も居候をさせてあげた奇特な官僚である。平田總領事代理、山上曹源、ニィジャンと当時のインドのチベット支援人脈の中に、矢島が加わっていたことがこれで明らかになった。とにもかくにもチベット政府の要人であるニィジャン/ニンチャンとともにチベット入りを開始し、山上の支援をうけていたことから、浅田氏がいうように、矢島が何らかの使命をえてチベットに向かっていたことは疑いない。
しかし、W氏が「役不足」といみじくも指摘したように、『入藏日誌』によると、矢島は旅のかなり初めの頃に、ニィジャン/ニンチャンに捨てられて、単独でダライラマのキャラバンを必死でおいかける展開になる(笑)。おそらくこの時点では矢島も寺本同様、あまりチベット側から信頼されていなかったものと思われる。
ラサの清朝軍はチベット軍のがんばりとイギリスの調停もあって無事退去させることに成功し、1913年1月、ダライラマ13世がラサに凱旋した。この流れの中で日本の外務省はダライラマにラサ帰還を自重するように求めつづけており、軍事支援についても非協力的であった。チベット側からみて日本の支援は頼りにならなかったが、この後、多田等観、青木文教、河口慧海、矢島保治郎の日本人四名はお客分の扱いでラサ滞在を許され、矢島にいたってはチベットの貴婦人を娶り、人生の絶頂期を体験する。
以下、1912年の略年表メモ。
●1912 年(明治45) 年
2/2 川島浪速が粛親王を北京からつれだす。
2/12 清朝最後の皇帝溥儀、退位。清朝崩壊。
2/17 カリンポン滞在中のダライラマ13世河口慧海を通じて明治天皇へ上書。
2/28 カルカッタ總領事柴田から外務大臣内田に報告。外務省が受け取ったのは4/30 。
2/21 落合謙太郎奉天總領事から内田に川島を封じるように電報。
3/1 川嶋浪速と参謀本部は、ハラチンのクンサンノルブとバーリン王ジャガルへ送金。外務省の反対で計画は中止に追い込まれる。クンサンノルブ、北京からモンゴルへ戻る。
3/28 大谷光瑞から徳富蘇峰へ、「ダライラマ13世から頻繁にチベットの支那兵を撤兵させるよう袁世凱に勧告しろといってきたけど、そんなこと言えないよ」。
3/28 ラサでチベットと清軍が衝突。
5/14 カルカッタ柴田總領事代理から内田康哉外務大臣へ、チベットの御用商人が独立のための軍事支援を要請。
6/19 矢島カルカッタをラサにむけて出発(入藏日誌)
7/8 第三回日露協約。辛亥革命を受け日露で内モンゴルを東西に分割。ロシアはモンゴルと単独交渉権を得る。
7/23 矢島、ラサに到着。
7/24 内田外務大臣が北京の伊集院公使に宛てて「西蔵ヨリ帝国政府ノ援助申出ニ関スル件」機密80号
一方、プーチン大統領は、大義のない暴力を振るっているのでどこの国からも共感されず、情報統制を行っている国民に向けてしか演説はしていない、ていうかできない。
無辜の市民が死んでいく現在、一刻も早くプーチンの権力基盤が崩れて欲しいと願う毎日であるが、北朝鮮にしても天安門事件後の中国にしても、いかに暴挙を行い世界から制裁をうけても、独裁国家の足腰は強い。しかし、今度こそは国連を骨抜きにするあの二大常任理事国が心を入れ替える契機になってほしい(入れ替えるのは心だけで無くてもいいのよw)。
ゼレンスキーが奇しくも言ったように、ロシアは面積で大国でも、倫理的には小国である。どことはいわないが、海を隔てた隣の国も同じ。『論語』が「徳は必ず孤ならず。必ず隣り有り」というけど、正しい行動をとっていれば、必ず助ける人がでてくるという意味である。聞こえてますか、あなたの国の伝統倫理だよ。
さて、ここでチベットネタにハンドルきります。
今から110年前の1912年、ダライラマはラサを占領する清朝軍をさけて英領インドに亡命していた。同年清朝が崩壊したことを受けて、ダライラマは清朝軍を追い出してラサに帰還を考えていた。しかし、仏教国家であるため、軍事力がない。近年の研究で、1912年当時チベット政府は、今のゼレンスキー大統領のようにラサを取り戻すために各国に軍事支援を求めていたことが分かってきた。
そのうちの一国が日本であった。
矢島保治郎(1882-1963)という日本人がいる。1911年3月4日に日本人として四番目、東チベットルートでは初めてチベットの都ラサに入ったことで知られる。この男がちょうどこの1912年にチベット入りをしている。

矢島保治郎の研究者である浅田晃彦氏は『世界無銭旅行者』の中で、矢島が1911年の第一回目ラサ旅行からの帰国後、短い日本滞在期間後にとんぼ返りで二度目のラサ入りをした背景には、矢島がその短い日本滞在期間に川島浪速と接触し、何らかの使命を受けたからだという。
清朝崩壊の直前、1911年12月に、外モンゴルはすでに転生僧ジェブツンダンパ8世を国王に戴いて独立宣言を行っており、清朝と外モンゴルに夾まれた内モンゴルの諸王公は中華民国につくかモンゴルにつくかの選択を迫られていた。川島浪速はこの時、内モンゴルを中国から離そうと、内モンゴルの有力王公クンサンノルブや清朝皇室の粛親王と動いた大陸浪人である。この川島が同じくチベットから中国(清朝)軍を追い出そうしていたダライラマにもかかわろうとしていたことは十分にありうる。
矢島以前にラサ入りした河口慧海、成田安輝、寺本婉雅が仏教界や日本の未来などを背負ってラサ入りしていたのとは対照的に、矢島は世界無銭旅行を推奨する力行会というバンカラ集団のメンバーとして行動していた。なので、そのお気楽かつ破天荒な言動に今にいたるまでファンが多い。
この前寺本婉雅のエントリーをFBにあげた時、九州のWさんが「矢島の『入藏日誌』を見直してみたが矢島も寺本同様、ダライラマに工作するには役不足だったかも」とコメントされたのをみて、『入藏日誌』に興味をもってとりよせてみることとした。
そう、私は日本とチベットの関係については「日本語でできるから、私がやらなくても誰かがやるだろう」と思い、基本的な文献すら揃えていなかったのだ(威張っていうことではない)。ネットで探してみると、群馬の古本屋さんに一冊きりしかなく、これを私が買ってしまったのでみなさんは図書館にいってください。

『入藏日誌』が届いて、それを紐解いたのは、寿司屋のカウンターでランチをまつ間であった。二頁目まで読んだ時、矢島のチベットへの水先案内人として、「チベット政府の御用商人「ニャンチャンツォンペン」(ツォンペンはtshong dponすなわち「交易商の長」という意味)の名前があることに瞠目した。「ニャンチャン?。見覚えある!」
さらに、矢島がこのチベット行を報告している「山上」なる名にも心に響くものが。この二つの名は同じ機密外交文書に載っていた。
その文書とは以下のものである。若干読みやすくするため手を入れている。
明治45(1912)年5月14日付け、柴田總領事代理から内田康哉外務大臣宛 2966暗号 第一三號
ダライラマの総理大臣の深き信用を受け名は御用商人なるも、その実財政上の遣繰り(やりくり)はもちろん、一般重要国務の相談にも与(あず)かると云う西蔵人「ニイジャン」なる者、山上ソウゲンを通じて面会を請へるにつき、五月十二日密に会見したるところ、
同人は[チベット]総理大臣の内意を受けて、第一大臣会議に於て清国兵のチベットより駆逐し、出来べくは、モンゴルと同じく独立を布告せんことに決したるも、第一の憂慮は清国よりの応報により清国、もし優勢の援軍を派遣するに於けば、チベットの独力、到底(とうてい)これに抵抗すること能はざるべきに付ては、日本は同種の好(よしみ)を以て、援助をチベットに致し、場合に依りては、これをその保護の下に置くの意向を有せざるべきか
この後も文書は続くが、要は、チベット政府の「御用商人ニィジャン」なるものが「山上ソウゲン」を通じて、日本にチベットへの軍事支援を求めた文書である、それをカルカッタの柴田總領事代理が外務大臣内田康哉に自分の考えも加えて送った文書である。
引用しなかった部文では、日本以外にイギリスとロシアにも支援を求めたが、1907年の英露協商にしばられて両国に却下されたことが縷々説明されている。
浅田氏は矢島の書簡の中にでてくる「山上」については不明とし、かつ、「御用商人ニィジャン」に至ってはスルーしているが、この山上ソウゲンとは、明治期の曹洞宗の名僧山上 曹源(1878-1957)である。彼は1906年にセイロン(現スリランカ)に留学し、1907年にはカルカッタ大学でパーリ語などの教鞭をとっていた。山上は帰国後、駒澤大学でインドの宗教・哲学を担当し(後に学長に就任)、駒沢学園を創立するなど明治期の曹洞宗の教育者の中でも出色の人物である。
ちなみに、カルカッタ大学での山上の後援を行っていたのはカルカッタ大学の学長Ashutosh Mukherjeeであり、この人物は大菩提協会(Mahabodhi Society) の会長でもあった。神智学協会は仏教を非常に高く評価しており、鎖国中のチベットのダライラマを名誉総裁にするほどであった(コンタクトとれてなくても)。
また、このカルカッタの總領事柴田の代理は平田知夫といい、無一文の矢島が第一回のチベット旅行からインドに戻ってきた後、五ヶ月も居候をさせてあげた奇特な官僚である。平田總領事代理、山上曹源、ニィジャンと当時のインドのチベット支援人脈の中に、矢島が加わっていたことがこれで明らかになった。とにもかくにもチベット政府の要人であるニィジャン/ニンチャンとともにチベット入りを開始し、山上の支援をうけていたことから、浅田氏がいうように、矢島が何らかの使命をえてチベットに向かっていたことは疑いない。
しかし、W氏が「役不足」といみじくも指摘したように、『入藏日誌』によると、矢島は旅のかなり初めの頃に、ニィジャン/ニンチャンに捨てられて、単独でダライラマのキャラバンを必死でおいかける展開になる(笑)。おそらくこの時点では矢島も寺本同様、あまりチベット側から信頼されていなかったものと思われる。
ラサの清朝軍はチベット軍のがんばりとイギリスの調停もあって無事退去させることに成功し、1913年1月、ダライラマ13世がラサに凱旋した。この流れの中で日本の外務省はダライラマにラサ帰還を自重するように求めつづけており、軍事支援についても非協力的であった。チベット側からみて日本の支援は頼りにならなかったが、この後、多田等観、青木文教、河口慧海、矢島保治郎の日本人四名はお客分の扱いでラサ滞在を許され、矢島にいたってはチベットの貴婦人を娶り、人生の絶頂期を体験する。
以下、1912年の略年表メモ。
●1912 年(明治45) 年
2/2 川島浪速が粛親王を北京からつれだす。
2/12 清朝最後の皇帝溥儀、退位。清朝崩壊。
2/17 カリンポン滞在中のダライラマ13世河口慧海を通じて明治天皇へ上書。
2/28 カルカッタ總領事柴田から外務大臣内田に報告。外務省が受け取ったのは4/30 。
2/21 落合謙太郎奉天總領事から内田に川島を封じるように電報。
3/1 川嶋浪速と参謀本部は、ハラチンのクンサンノルブとバーリン王ジャガルへ送金。外務省の反対で計画は中止に追い込まれる。クンサンノルブ、北京からモンゴルへ戻る。
3/28 大谷光瑞から徳富蘇峰へ、「ダライラマ13世から頻繁にチベットの支那兵を撤兵させるよう袁世凱に勧告しろといってきたけど、そんなこと言えないよ」。
3/28 ラサでチベットと清軍が衝突。
5/14 カルカッタ柴田總領事代理から内田康哉外務大臣へ、チベットの御用商人が独立のための軍事支援を要請。
6/19 矢島カルカッタをラサにむけて出発(入藏日誌)
7/8 第三回日露協約。辛亥革命を受け日露で内モンゴルを東西に分割。ロシアはモンゴルと単独交渉権を得る。
7/23 矢島、ラサに到着。
7/24 内田外務大臣が北京の伊集院公使に宛てて「西蔵ヨリ帝国政府ノ援助申出ニ関スル件」機密80号
COMMENT
● 日ウ
マースレニツァ | URL | 2022/03/24(木) 15:57 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/03/24(木) 15:57 [EDIT]
Еріка-StandWithUkraine
@ua_withTelya
シェルターで🇺🇦人に「🇯🇵は平和な国なのに巻き込んでごめんね」と言われたので「子供達は🇺🇦人だから私は🇺🇦人の親。あなたと一緒」と返事をした
その後「🇯🇵は大地震があっても美しい国として復興して素晴らしい。いつも支援ありがとう」と言っていました。
🇯🇵の姿は🇺🇦の希望の光になるはずです。
@ua_withTelya
シェルターで🇺🇦人に「🇯🇵は平和な国なのに巻き込んでごめんね」と言われたので「子供達は🇺🇦人だから私は🇺🇦人の親。あなたと一緒」と返事をした
その後「🇯🇵は大地震があっても美しい国として復興して素晴らしい。いつも支援ありがとう」と言っていました。
🇯🇵の姿は🇺🇦の希望の光になるはずです。
● 法話と哀悼
マサムネ | URL | 2022/03/24(木) 16:06 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/03/24(木) 16:06 [EDIT]
Tibetan News Japanさんがリツイート
ダライ・ラマ14世bot
@DalaiLama14jp
3月23日
日本には長い歴史があり、日本古来の宗教「神道」というのがありますし、日本のみなさんは自然に対する敬意をお持ちです。これは非常に重要な点だと思います。
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
3月5日
2022年2月25日に #チベット #ポタラ宮 前で焼身抗議を試み、中国当局に阻止されたチベット人は、人気歌手のツェワン・ノルブさんだったことが判明。ツェワンさんはその後死亡。享年25歳。
焼身抗議は、言論の自由がなく国際社会に弾圧を訴える方法が無いチベット人にとって悲しい手段となっています。
ダライ・ラマ14世bot
@DalaiLama14jp
3月23日
日本には長い歴史があり、日本古来の宗教「神道」というのがありますし、日本のみなさんは自然に対する敬意をお持ちです。これは非常に重要な点だと思います。
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
3月5日
2022年2月25日に #チベット #ポタラ宮 前で焼身抗議を試み、中国当局に阻止されたチベット人は、人気歌手のツェワン・ノルブさんだったことが判明。ツェワンさんはその後死亡。享年25歳。
焼身抗議は、言論の自由がなく国際社会に弾圧を訴える方法が無いチベット人にとって悲しい手段となっています。
● 共生
マサムネ | URL | 2022/03/25(金) 06:32 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/03/25(金) 06:32 [EDIT]
じみはなこ🌻 (参議院議員・全国比例)
@jimihanako
戦後70年経っても手付かずだった領域は、大きく進展したものの、私が成得たいのは、訪日外国人観光客の医療保険加入義務化です。海外は当たり前にやってる。それをしないで、水際緩和は、やめて欲しい。医療機関に多大な負担が増えます。
@soedashiori
引用ツイート
添田詩織🇯🇵
@soedashiori
3月23日
医療費不払い経歴のある訪日外国人への入国審査厳格化を実現した自見はなこ参議院議員を訪問。
医療費不払いに対しペナルティが設けられることで、今後の訪日外国人の民間医療保険加入徹底や医療費不払いの発生抑止が期待されます。
外国人の不正医療利用の洗い出しに向けて取り組んで下さっております
@jimihanako
戦後70年経っても手付かずだった領域は、大きく進展したものの、私が成得たいのは、訪日外国人観光客の医療保険加入義務化です。海外は当たり前にやってる。それをしないで、水際緩和は、やめて欲しい。医療機関に多大な負担が増えます。
@soedashiori
引用ツイート
添田詩織🇯🇵
@soedashiori
3月23日
医療費不払い経歴のある訪日外国人への入国審査厳格化を実現した自見はなこ参議院議員を訪問。
医療費不払いに対しペナルティが設けられることで、今後の訪日外国人の民間医療保険加入徹底や医療費不払いの発生抑止が期待されます。
外国人の不正医療利用の洗い出しに向けて取り組んで下さっております
台北中央社3/10(木)
チベットを支持する声明を発表する民進党の王定宇立法委員ら
中国の武力によるチベット統治に対して民衆が蜂起したチベット動乱から63年となった10日、立法院(国会)人権促進会や台湾国会チベット連線は中国共産党によるチベットでの人権侵害を非難する声明を発表し、人権や自由、独立への固い支持を表明した。
声明には与党・民進党の王定宇(おうていう)立法委員(国会議員)ら複数の超党派議員が署名した。
声明では米公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師が残した「不正はいかなる場所にあろうとも、あらゆる場所において正義への脅威となる」との名言を引用。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に触れ、「強権は今まさにわれわれの自由に対し、喉に刺さった骨のように気をもんでおり、われわれの自由意志を虎視眈眈とうかがっている」と台湾の人々に注意喚起した。その上で「われわれは今、自由を侵害されている全ての人々を自由によって励まし、助けなければならない」と訴えた。(李雅雯/編集:名切千絵)
チベットを支持する声明を発表する民進党の王定宇立法委員ら
中国の武力によるチベット統治に対して民衆が蜂起したチベット動乱から63年となった10日、立法院(国会)人権促進会や台湾国会チベット連線は中国共産党によるチベットでの人権侵害を非難する声明を発表し、人権や自由、独立への固い支持を表明した。
声明には与党・民進党の王定宇(おうていう)立法委員(国会議員)ら複数の超党派議員が署名した。
声明では米公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師が残した「不正はいかなる場所にあろうとも、あらゆる場所において正義への脅威となる」との名言を引用。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に触れ、「強権は今まさにわれわれの自由に対し、喉に刺さった骨のように気をもんでおり、われわれの自由意志を虎視眈眈とうかがっている」と台湾の人々に注意喚起した。その上で「われわれは今、自由を侵害されている全ての人々を自由によって励まし、助けなければならない」と訴えた。(李雅雯/編集:名切千絵)
ウクライナ義勇兵に志願した王芮緹さん=本人提供
台北中央社3/22(火)
台湾人男性が21日、ウクライナの在フィンランド大使館に、義勇兵の志願票を提出した。現在は合否の結果を待っている状態で、男性は「自分の血をささげて、ウクライナ人の自由に換えたい」と語っている。
義勇兵に志願したのは台湾原住民(先住民)族アミ族出身の王芮緹さん。中央社の電話取材に、ニュースの中の残酷な光景を見て悲しくなったと心境を吐露。人類の自由の価値を守るために、心血を注ぐことができればと語った。
また、戦争にはしがらみがない人が参加するのが適していると指摘。王さんにはかつて、交際していた女性を亡くしており「もし自分が不幸にして死んだとしても、彼女に会いに行ける」と述べた。
2016年から世界を旅した王さん。17年にはフィンランドで自転車を盗まれ、関連記事が地元の新聞に掲載されたことがある。19日に現地の空港へ到着した際、入国審査で当時の記事を見せたところ、30秒で入国できたと笑った。
在フィンランド大使館では10分程度の面接があり、面接官から軍事作戦に関する経験について聞かれた。王さんによると、兵役入隊時に憲兵の歩哨だったことや、基礎的な軍事訓練を受け、銃が扱えることなどを伝えたという。
王さんは現在、ラトビアに入国し、今後はリトアニアを経由してポーランドに向かう予定。在フィンランド大使館で義勇兵に合格しなかった場合には、リトアニアなどの国で再出願するとしている。
(黄雅詩/編集:齊藤啓介)
台北中央社3/22(火)
台湾人男性が21日、ウクライナの在フィンランド大使館に、義勇兵の志願票を提出した。現在は合否の結果を待っている状態で、男性は「自分の血をささげて、ウクライナ人の自由に換えたい」と語っている。
義勇兵に志願したのは台湾原住民(先住民)族アミ族出身の王芮緹さん。中央社の電話取材に、ニュースの中の残酷な光景を見て悲しくなったと心境を吐露。人類の自由の価値を守るために、心血を注ぐことができればと語った。
また、戦争にはしがらみがない人が参加するのが適していると指摘。王さんにはかつて、交際していた女性を亡くしており「もし自分が不幸にして死んだとしても、彼女に会いに行ける」と述べた。
2016年から世界を旅した王さん。17年にはフィンランドで自転車を盗まれ、関連記事が地元の新聞に掲載されたことがある。19日に現地の空港へ到着した際、入国審査で当時の記事を見せたところ、30秒で入国できたと笑った。
在フィンランド大使館では10分程度の面接があり、面接官から軍事作戦に関する経験について聞かれた。王さんによると、兵役入隊時に憲兵の歩哨だったことや、基礎的な軍事訓練を受け、銃が扱えることなどを伝えたという。
王さんは現在、ラトビアに入国し、今後はリトアニアを経由してポーランドに向かう予定。在フィンランド大使館で義勇兵に合格しなかった場合には、リトアニアなどの国で再出願するとしている。
(黄雅詩/編集:齊藤啓介)
● 教育
マサムネ | URL | 2022/03/29(火) 05:23 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/03/29(火) 05:23 [EDIT]
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
学校でチベット語の授業がないことへの不満を明らかにしたチベット自治区チャムドの3人の中学生が、2021年10月に中国当局に連れ去られ、その行方は未だ不明となっている。3人は「教育による再教育施設」に監禁されているとみられる。
@TibetanNewsJP
学校でチベット語の授業がないことへの不満を明らかにしたチベット自治区チャムドの3人の中学生が、2021年10月に中国当局に連れ去られ、その行方は未だ不明となっている。3人は「教育による再教育施設」に監禁されているとみられる。
● チベット幻想奇譚
マサムネ | URL | 2022/03/29(火) 15:54 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/03/29(火) 15:54 [EDIT]
『チベット幻想奇譚』
https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68331158&tr=s
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【著者】星泉 三浦順子 海老原志穂 編訳
【発行】春陽堂書店
【予価】2,640円(税込み)※予価の為、価格が変更する場合がございます。
【発送時期】2022/04/下旬
チベットの現代作家たちが描く、現実と非現実が交錯する物語。
伝統的な口承文学と、仏教的な世界観を背景としつつ描かれた現代文学は、
読む者を摩訶不思議な世界に誘う。時代も、現実と異界も、生と死も、
人間/動物/妖怪・鬼・魔物・神の境界も超える、摩訶不思議な13篇を掲載。
▼目次
まえがき
1 幻影を見る/魔物と出会う
--人殺し/ツェリン・ノルブ
--カタカタカタ/ツェラン・トンドゥプ
--三代の夢/タクブンジャ
--赤髪の怨霊/リクデン・ジャンツォ
2 異界/境界を超える
--屍鬼物語・銃/ペマ・ツェテン
--閻魔への訴え/エ・ニマ・ツェリン
--犬になった男/エ・ニマ・ツェリン
--羊のひとりごと/ランダ
--一九八六年の雨合羽/ゴメ・ツェラン・タシ
3 現実と非現実のあいだ
--神降ろしは悪魔憑き/ツェラン・トンドゥプ
--子猫の足跡/レーコル
--ごみ/ツェワン・ナムジャ
--一脚鬼カント/ランダ
あとがき
https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68331158&tr=s
——————————————————————————————————
【著者】星泉 三浦順子 海老原志穂 編訳
【発行】春陽堂書店
【予価】2,640円(税込み)※予価の為、価格が変更する場合がございます。
【発送時期】2022/04/下旬
チベットの現代作家たちが描く、現実と非現実が交錯する物語。
伝統的な口承文学と、仏教的な世界観を背景としつつ描かれた現代文学は、
読む者を摩訶不思議な世界に誘う。時代も、現実と異界も、生と死も、
人間/動物/妖怪・鬼・魔物・神の境界も超える、摩訶不思議な13篇を掲載。
▼目次
まえがき
1 幻影を見る/魔物と出会う
--人殺し/ツェリン・ノルブ
--カタカタカタ/ツェラン・トンドゥプ
--三代の夢/タクブンジャ
--赤髪の怨霊/リクデン・ジャンツォ
2 異界/境界を超える
--屍鬼物語・銃/ペマ・ツェテン
--閻魔への訴え/エ・ニマ・ツェリン
--犬になった男/エ・ニマ・ツェリン
--羊のひとりごと/ランダ
--一九八六年の雨合羽/ゴメ・ツェラン・タシ
3 現実と非現実のあいだ
--神降ろしは悪魔憑き/ツェラン・トンドゥプ
--子猫の足跡/レーコル
--ごみ/ツェワン・ナムジャ
--一脚鬼カント/ランダ
あとがき
● 弥生
マサムネ | URL | 2022/04/03(日) 13:48 [EDIT]
マサムネ | URL | 2022/04/03(日) 13:48 [EDIT]
清水ともみさんがリツイート
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
チベット でまたも焼身抗議が行われた。インド ダラムサラ のキルティ僧院の僧侶からの情報によると、2022年3月27日、81歳のタフンさんが、チベット北東部アムド地方ンガバ(中国の行政区分によるところの四川省)のキルティ僧院の外にある警察署の前で焼身抗議をした後、死亡した。
引用ツイート
International Campaign for Tibet
@SaveTibetOrg
Sad report of yet another self-immolation in #Tibet. 81 years old Taphun died after setting himself on fire on March 27 in front of the police post outside Kirti Monastery in #Ngaba as per info from Kirti monks in #Dharamsala We are working on getting more details.
Tibetan News Japan
@TibetanNewsJP
チベット でまたも焼身抗議が行われた。インド ダラムサラ のキルティ僧院の僧侶からの情報によると、2022年3月27日、81歳のタフンさんが、チベット北東部アムド地方ンガバ(中国の行政区分によるところの四川省)のキルティ僧院の外にある警察署の前で焼身抗議をした後、死亡した。
引用ツイート
International Campaign for Tibet
@SaveTibetOrg
Sad report of yet another self-immolation in #Tibet. 81 years old Taphun died after setting himself on fire on March 27 in front of the police post outside Kirti Monastery in #Ngaba as per info from Kirti monks in #Dharamsala We are working on getting more details.
● 本音。例え洗脳に因るのだとしても。
マースレニツァ | URL | 2022/04/10(日) 12:17 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/04/10(日) 12:17 [EDIT]
Yuki@ウクライナ🇺🇦一時🇨🇿チェコ滞在中
@Yuki20611795
ロシア兵がブチャに残した落書き
「誰がお前たちに美しく生きることを認めたんだ?」
初見はウクライナ人を馬鹿にしているだけかと思ったがイルピンやブチャは再開発が進み綺麗な建物や住宅が多かったので、それに嫉妬した貧しいロシア兵の言葉なのかもしれない
@Yuki20611795
ロシア兵がブチャに残した落書き
「誰がお前たちに美しく生きることを認めたんだ?」
初見はウクライナ人を馬鹿にしているだけかと思ったがイルピンやブチャは再開発が進み綺麗な建物や住宅が多かったので、それに嫉妬した貧しいロシア兵の言葉なのかもしれない
● しょう油
マースレニツァ | URL | 2022/04/11(月) 19:29 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/04/11(月) 19:29 [EDIT]
Nobuyuki Uchimura
@NobuMilano
「ウクライナでは醤油が安く手に入る。」とヴァレンティン牧師が醤油を売っている商店に連れて行ってくれた。「ウクライナ国内で作られた醤油だ。ラベルには日本語も書いてあるんだよ。」といわれ手にとってたのがこちらです。その名も
_人人人人人人人人_
> にきびの醤油! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
@NobuMilano
「ウクライナでは醤油が安く手に入る。」とヴァレンティン牧師が醤油を売っている商店に連れて行ってくれた。「ウクライナ国内で作られた醤油だ。ラベルには日本語も書いてあるんだよ。」といわれ手にとってたのがこちらです。その名も
_人人人人人人人人_
> にきびの醤油! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
● かちん
マースレニツァ | URL | 2022/04/13(水) 19:31 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/04/13(水) 19:31 [EDIT]
本日は4月13日
【カティンの森事件】
1940年4月にソビエト連邦のスモレンスク近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件。1941年にナチス・ドイツがソ連に侵攻した際にポーランド人虐殺現場を発見し、その後ドイツの要請によりポーランド赤十字社が調査に立ち会い、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。これを受けて、ソ連はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によって虐殺されたと主張。終戦後のニュルンベルク裁判でもソ連はドイツに罪を押し付けようとしたが、証拠不十分として裁判から除外された。そして1990年4月13日、ゴルバチョフ大統領(当時)はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し陳謝した。
地中からは夥しい数の遺体が発見され、当時からソ連の関与は明白でしたが米国や英国は関与を認めず、情報を隠していたと言われていますね。
@swim_shuさん
父親が犠牲となったアンジェイ・ワイダ監督が(大の親日家でもある)事件を映画化していましたね
映画「カティンの森」アンジェイ・ワイダ 予告編
【カティンの森事件】
1940年4月にソビエト連邦のスモレンスク近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件。1941年にナチス・ドイツがソ連に侵攻した際にポーランド人虐殺現場を発見し、その後ドイツの要請によりポーランド赤十字社が調査に立ち会い、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。これを受けて、ソ連はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によって虐殺されたと主張。終戦後のニュルンベルク裁判でもソ連はドイツに罪を押し付けようとしたが、証拠不十分として裁判から除外された。そして1990年4月13日、ゴルバチョフ大統領(当時)はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し陳謝した。
地中からは夥しい数の遺体が発見され、当時からソ連の関与は明白でしたが米国や英国は関与を認めず、情報を隠していたと言われていますね。
@swim_shuさん
父親が犠牲となったアンジェイ・ワイダ監督が(大の親日家でもある)事件を映画化していましたね
映画「カティンの森」アンジェイ・ワイダ 予告編
● ロシア言及で議論呼んだ東大入学式の河瀬直美氏 実際は何を語った?祝辞全容 2022年04月13日
マースレニツァ | URL | 2022/04/13(水) 19:43 [EDIT]
マースレニツァ | URL | 2022/04/13(水) 19:43 [EDIT]
東京大学の入学式が2022年4月12日に行われ、映画監督の河瀬直美氏が祝辞を贈った。ウクライナ危機に触れた部分が報じられると、ロシア寄りの見方だとしてSNSでは反発が広がる事態となっている。
る。前述の「ロシアを悪者にすることは簡単」発言は祝辞の後半、金峯山寺の管長が発した言葉について、河瀬氏が解釈を述べる際に出た。以下は祝辞全文。
祝辞全文
多くの困難を乗り越えて、この度の東京大学へのご入学、誠におめでとうございます。 この約2年の間、コロナという未知のウイルスによって皆さんの日常が昨日までとは全く違う現実を余儀なくされることになりました。そんな中で今日という日を迎えられましたこと、大変悦ばしい時間を今、この瞬間、噛み締めておられるのではないでしょうか?
今日は、手放しでその喜びを全身に受けて、お過ごしください。
さて、そうはいっても、明日からの日々は、その喜ばしさに胡座(あぐら)をかいているわけにはいきません。かつてカンヌで、その年世界で一番これからを期待される新人に贈られる賞を受賞した時、フランス人の担当者が私に同じようなことを言ってくれました。今日はこのトロフィーを掲げて、大いに喜んでいればいい。けれども明日からはまた0から出発する。賞の上に胡座をかいていては、それ以上の成長はないのだと理解しました。
私は今年53歳になります。30年ほど先に生まれて、昭和、平成、令和の時代を生きてきました。この30年の人間社会の変化は凄まじいものでした。その関係の結ばれ方...とでもいいましょうか。ここで多くを語ることはしませんが、常識が覆されることの連続。かつてあった常識のどこを守り、どこを変えて生きてゆくのが最善であるのか、常に葛藤の中にありました。しかし、振り返ってみれば、守るべきものの継承は自身のルーツに大きく指針を得ていたことに気づきます。私の場合、生まれる前に両親が別居状態に入ったことにより、生まれてすぐに子供のいない初老の夫婦のもとに養女にもらわれ、育ちました。戦争を知っている彼らの生活は質素でしたが、謙虚であり、昇りくる太陽に感謝し、街角の石仏に手を合わせて祈りを捧げる。つまり「目に見えないもの」への感謝を欠かせない時代の人たちの暮らし。それを体現して育ちました。
あなた方と同じ年代の頃、私は「映像」に出逢います。そこで、8ミリフィルムカメラを手にし、街に自らを放り出すのです。初めてそれを手にした日のことは今でも鮮明に覚えています。この手の中でカタカタと音を立てて掻き落とされてゆくフィルムに、ファインダーから覗いた現実世界が焼き付いていくのを感じていました。昭和の終わり頃の光景。この角を曲がれば何が私を待っているのだろう。それは、まるで玩具箱をひっくり返したようにワクワクが止まらない。見るもののすべてを意識し、記憶に残したいと思った出来事でした。きっと私はあの時、なぜ自分がこの世界に誕生したのかを、悟ったのだと想います。それは、精神の誕生日ともいうべき、肉体の誕生から18年経ってようやく辿り着いた「実感」だったのです。皆さんにその「実感」は宿っているでしょうか?当たり前に思っていることの奥に「ものの真理」が隠されていることを信じて、突き進んでください。きっとこの先その真理に出会った時、世界に「名前」があることに感動を覚えるはずです。嘆くことなかれ。まだ見えていない世界との出会いは始まったばかり。この雲は次の瞬間どのように形を変えていくのだろう...と思うなら、その探究心こそがあなたの力です。ああ、なんて世界はすばらしいんだろう、この一瞬一瞬を永遠に刻みたい。と、私は、あの時、想いました。こぼれおちた過去に再び光を当てる魔法、映画の神様が私に舞い降りた瞬間の出来事です。
さて、私が皆さんと同じ歳だった頃、世界への扉はまだ少なく、開くことのできる窓も今よりは限られていました。ですから私が映像に出会った時、まるで乾いたスポンジが水を吸収するかのように、それに夢中になり、他のことには殆ど見向きもしない時間を過ごすことができました。しかし私も含め、平成、令和の時代の今、一つのことに集中して取り組むことがいかに困難か。私たちの周りにはとてもたくさんの「情報」が手に入り出しました。そしてその「情報」は瞬時に目の前にやってきて、そして次の瞬間には過去になっている。つまり扉は無限に私たちの目の前に広がりました。そのどれをとっても魅力的であり、どの道に進んでもまた別の道がある。というように、あなたの未来にいくつもの可能性を示唆してくれるようになりました。けれど、それは大きな罠でもあったようです。ある映画人が私にこんなことを教えてくれました。たった一つの窓をずっと見つめ続けてください。若い世代には特にそのことがとても大切であることを忘れないでください。そのたった一つの窓から見える光景を深く考察してみてください。そうすればその窓の向こうにある「世界」とつながることができる。私はその言葉を頂いたときにとてもハッとしたことをよく覚えています。なぜなら、自分の部屋から見える窓の向こうの景色には「真理」が隠されているのです。そしてその「真理」を知ることで、結果的に世界中の人との出会いを豊かにします。それは他でもない自らの言葉でその真理を伝えることのできる自分でいられるからです。これこそがオリジナリティであり、他の人には真似のできない唯一無二のものとなります。い唯一無二のものとなります。
私の地元奈良の東大寺は華厳宗のお寺ですが、華厳の思想はこうした小さいものの中に無限の宇宙を見ることを説いています。一つの窓を見つめ続け生み出された一滴が、私の「世界の切り撮り方」として他の人たちの目に触れます。逆にいうと、それ以外のことから誰も判断してはくれません。だからこそ、小さくても自らのまなざしを獲得することはとても大切なのです。
今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。
先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
私があなたと同じ歳の頃、養母である「おばあちゃん」を撮っているとどうしようもなく彼女に触れてみたくなりました。8ミリをまわしながら私は彼女の頬に触れてみました。その時、私の中に2人の自分が存在していました。冷静に世界を見つめる客観的な私と、おばあちゃんの肌触りを直接感じている主観的な私です。このふたつの存在、主観と客観を持つことこそが、表現者たる資質を獲得することに他ならないと感じていました。その感覚を手に入れた私は、そのあとファインダーを覗いてフィルムカメラのシャッターを押しながら見えるものの固有名詞を叫び始めます。「空」「雲」「犬」「えんどう豆」「おばあちゃん!」こうして私は世界を存在させてゆきました。名前をつけるということは、世界にそれらを存在させるということだったのです。あれから30年近くが過ぎ、今日、あなたとの時間を共有している自分がここにいます。そして「河瀨直美」という名前を持って、あなたに認識してもらっているなら幸いです。
さて、あなたが今いる場所にはどんな光景が見られますか?
あなたのまなざしは、何を見て、何を描いてゆくのでしょう。
その未来は明るいですか?
この自由な学びの場で存分に生きてください。これからたくさんの人に出会い、たくさんの本を読み、様々なことに挑戦していくのでしょう。見た景色、聞こえた音、匂い、味、肌触り、そこから生まれた感情を大切に、どれだけ小さかろうとあなた自身の想像力をもって真理を見つけるたった一つの窓の存在を確かめてください。どこまでも美しいこの世界を自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください。この度はご入学おめでとうございます。
る。前述の「ロシアを悪者にすることは簡単」発言は祝辞の後半、金峯山寺の管長が発した言葉について、河瀬氏が解釈を述べる際に出た。以下は祝辞全文。
祝辞全文
多くの困難を乗り越えて、この度の東京大学へのご入学、誠におめでとうございます。 この約2年の間、コロナという未知のウイルスによって皆さんの日常が昨日までとは全く違う現実を余儀なくされることになりました。そんな中で今日という日を迎えられましたこと、大変悦ばしい時間を今、この瞬間、噛み締めておられるのではないでしょうか?
今日は、手放しでその喜びを全身に受けて、お過ごしください。
さて、そうはいっても、明日からの日々は、その喜ばしさに胡座(あぐら)をかいているわけにはいきません。かつてカンヌで、その年世界で一番これからを期待される新人に贈られる賞を受賞した時、フランス人の担当者が私に同じようなことを言ってくれました。今日はこのトロフィーを掲げて、大いに喜んでいればいい。けれども明日からはまた0から出発する。賞の上に胡座をかいていては、それ以上の成長はないのだと理解しました。
私は今年53歳になります。30年ほど先に生まれて、昭和、平成、令和の時代を生きてきました。この30年の人間社会の変化は凄まじいものでした。その関係の結ばれ方...とでもいいましょうか。ここで多くを語ることはしませんが、常識が覆されることの連続。かつてあった常識のどこを守り、どこを変えて生きてゆくのが最善であるのか、常に葛藤の中にありました。しかし、振り返ってみれば、守るべきものの継承は自身のルーツに大きく指針を得ていたことに気づきます。私の場合、生まれる前に両親が別居状態に入ったことにより、生まれてすぐに子供のいない初老の夫婦のもとに養女にもらわれ、育ちました。戦争を知っている彼らの生活は質素でしたが、謙虚であり、昇りくる太陽に感謝し、街角の石仏に手を合わせて祈りを捧げる。つまり「目に見えないもの」への感謝を欠かせない時代の人たちの暮らし。それを体現して育ちました。
あなた方と同じ年代の頃、私は「映像」に出逢います。そこで、8ミリフィルムカメラを手にし、街に自らを放り出すのです。初めてそれを手にした日のことは今でも鮮明に覚えています。この手の中でカタカタと音を立てて掻き落とされてゆくフィルムに、ファインダーから覗いた現実世界が焼き付いていくのを感じていました。昭和の終わり頃の光景。この角を曲がれば何が私を待っているのだろう。それは、まるで玩具箱をひっくり返したようにワクワクが止まらない。見るもののすべてを意識し、記憶に残したいと思った出来事でした。きっと私はあの時、なぜ自分がこの世界に誕生したのかを、悟ったのだと想います。それは、精神の誕生日ともいうべき、肉体の誕生から18年経ってようやく辿り着いた「実感」だったのです。皆さんにその「実感」は宿っているでしょうか?当たり前に思っていることの奥に「ものの真理」が隠されていることを信じて、突き進んでください。きっとこの先その真理に出会った時、世界に「名前」があることに感動を覚えるはずです。嘆くことなかれ。まだ見えていない世界との出会いは始まったばかり。この雲は次の瞬間どのように形を変えていくのだろう...と思うなら、その探究心こそがあなたの力です。ああ、なんて世界はすばらしいんだろう、この一瞬一瞬を永遠に刻みたい。と、私は、あの時、想いました。こぼれおちた過去に再び光を当てる魔法、映画の神様が私に舞い降りた瞬間の出来事です。
さて、私が皆さんと同じ歳だった頃、世界への扉はまだ少なく、開くことのできる窓も今よりは限られていました。ですから私が映像に出会った時、まるで乾いたスポンジが水を吸収するかのように、それに夢中になり、他のことには殆ど見向きもしない時間を過ごすことができました。しかし私も含め、平成、令和の時代の今、一つのことに集中して取り組むことがいかに困難か。私たちの周りにはとてもたくさんの「情報」が手に入り出しました。そしてその「情報」は瞬時に目の前にやってきて、そして次の瞬間には過去になっている。つまり扉は無限に私たちの目の前に広がりました。そのどれをとっても魅力的であり、どの道に進んでもまた別の道がある。というように、あなたの未来にいくつもの可能性を示唆してくれるようになりました。けれど、それは大きな罠でもあったようです。ある映画人が私にこんなことを教えてくれました。たった一つの窓をずっと見つめ続けてください。若い世代には特にそのことがとても大切であることを忘れないでください。そのたった一つの窓から見える光景を深く考察してみてください。そうすればその窓の向こうにある「世界」とつながることができる。私はその言葉を頂いたときにとてもハッとしたことをよく覚えています。なぜなら、自分の部屋から見える窓の向こうの景色には「真理」が隠されているのです。そしてその「真理」を知ることで、結果的に世界中の人との出会いを豊かにします。それは他でもない自らの言葉でその真理を伝えることのできる自分でいられるからです。これこそがオリジナリティであり、他の人には真似のできない唯一無二のものとなります。い唯一無二のものとなります。
私の地元奈良の東大寺は華厳宗のお寺ですが、華厳の思想はこうした小さいものの中に無限の宇宙を見ることを説いています。一つの窓を見つめ続け生み出された一滴が、私の「世界の切り撮り方」として他の人たちの目に触れます。逆にいうと、それ以外のことから誰も判断してはくれません。だからこそ、小さくても自らのまなざしを獲得することはとても大切なのです。
今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。
先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
私があなたと同じ歳の頃、養母である「おばあちゃん」を撮っているとどうしようもなく彼女に触れてみたくなりました。8ミリをまわしながら私は彼女の頬に触れてみました。その時、私の中に2人の自分が存在していました。冷静に世界を見つめる客観的な私と、おばあちゃんの肌触りを直接感じている主観的な私です。このふたつの存在、主観と客観を持つことこそが、表現者たる資質を獲得することに他ならないと感じていました。その感覚を手に入れた私は、そのあとファインダーを覗いてフィルムカメラのシャッターを押しながら見えるものの固有名詞を叫び始めます。「空」「雲」「犬」「えんどう豆」「おばあちゃん!」こうして私は世界を存在させてゆきました。名前をつけるということは、世界にそれらを存在させるということだったのです。あれから30年近くが過ぎ、今日、あなたとの時間を共有している自分がここにいます。そして「河瀨直美」という名前を持って、あなたに認識してもらっているなら幸いです。
さて、あなたが今いる場所にはどんな光景が見られますか?
あなたのまなざしは、何を見て、何を描いてゆくのでしょう。
その未来は明るいですか?
この自由な学びの場で存分に生きてください。これからたくさんの人に出会い、たくさんの本を読み、様々なことに挑戦していくのでしょう。見た景色、聞こえた音、匂い、味、肌触り、そこから生まれた感情を大切に、どれだけ小さかろうとあなた自身の想像力をもって真理を見つけるたった一つの窓の存在を確かめてください。どこまでも美しいこの世界を自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください。この度はご入学おめでとうございます。
● >マースレニツァさん
シラユキ | URL | 2022/04/23(土) 10:48 [EDIT]
シラユキ | URL | 2022/04/23(土) 10:48 [EDIT]
河瀬監督の全文ありがとうございました。ウクライナの正義とロシアの正義って等価でない。前者は攻め込まれた主権国家、後者は侵略者。平時なら河瀬監督の解釈で問題ないですが、戦時にはこれは成り立たないと思います。
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