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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2021/08/31(火)   CATEGORY: 未分類
新著『運命を好転させる隠された教えチベット仏教入門』
●『運命を好転させる隠された教え』(幻冬舎)
運命を公園させる

チベットの高僧にマンツーマンの指導をうけた平岡宏一先生(清風学園校長)が、待望のチベット仏教の一般書を上梓。
 ダライラマ法王が一般向けの講話でよくテクストに用いることで知られているシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』の解説である。

 「対処の仕方があるのなら、全力で対処しろ、ないのならグズグズなやんでいても仕方ない」というあのダライラマの有名な言葉も、『入菩薩行論』からの引用である。欧米ではアンガーマネジメントに用いられている。

 本書は全訳ではなく、菩提心(他者のために悟りを目指す心)、忍耐(忍辱)、 善行を続ける事(精進)などの章から数節をとりあげて解説をする形になっている。一応一般向けなのであるが、読み始めてみると、注釈書やダライラマ14世の解説を博引旁証していて、仏教をまったく知らない方が読まれるとちときつい体裁となっている。この伝授感をそのままにだすのは、平岡先生のキャラである。
 
 ダライラマの多くの法話はコロナ禍になる前からYoutubeにころがっており、チベットの高僧はみなiPadでダライラマの法話を聞いて仏教から心が離れないように生活している。平岡先生はチベット僧と同様に、テクストの解説書を読み、さらにこのようなダライラマのYoutube動画も視聴して『入菩薩行論』の解説を行っている。

 テクスト『入菩薩行論』を池上彰的に平易に解説することも可能であろう(いつかそれをやりたいと思っている。でも時間ない)。しかし、もしそうすればチベット仏教のもつ伝授感が薄れてしまう。翻って思うに、私は平岡先生が日本にお招きしたチベットの高僧や、平岡先生が率いるツァーでインドのギュメ大僧院を訪れ、修行僧たちに直に接する中で、研究にとっても人生にも資する得がたい体験をしてきた。これは池上彰的な平易な解説であったら得られなかったものである。

  なので、ライブの伝授感あふれる平岡節はこれはこれでいいのだと思う。『入菩薩行論』の全訳をご覧になりたい方は、ソナム・ギャルツェン・ゴンタ・西村香訳『入菩薩行論』(チベット仏教普及会)が一番入手しやすいです。

『心にいつくしみの種をまく』(評論社) 
こころにいつくしみの種をまく

 もう一冊。ご紹介がおくれましたが、ダライラマの教えをもとに描かれた絵本『心にいつくしみの種をまく』もよろしく。テーマは「善なる心は一朝一夕ではできない。新しい楽器を学ぶ時のように毎日トレーニングすることによって身につていく」という話しです。

 チベット仏教の修行はまさに継続は力なり、これにつきる。お祈りしたら叶うとか、そんな簡単なものはなく、自分で自分の心を毎日利他に向けて整え、シミュレーションを繰り返す中でホンモノの心に実現させていく。気が遠くなるほど地味な修行なのだ。だから、シャーンティデーヴァもチベットの高僧もこういう。「自分の心の中にある、怒り、むさぼり、愚かさをその反対の心、菩提心によって消していく努力は、先延ばしにしてはいけない。今日から、今から、していかねば、死がすぐにやってきてしまう」と。

●タシデレ・オンライン講座 「世界の中のチベット」(全5回)
レストラン・タシテレが主宰するオンラインチベット史講座、もうすぐ始まりますよ〜。
 お申し込みよろしくお願いしまーす。
 

講師 石濱裕美子
全日程 第1期(全5回)9/11・25・10/9・23・30いずれも土曜日
時間 15:00〜16:30(90分)
参加費 15,000円(全5回分一括払い)
《お申し込み方法》 以下のネット通販サイトBASEのタシデレショップからモモの下にある【オンライン講座】石濱先生コース をお選びください。

https://tibetanfood.thebase.in/

郵便ポストに届くネコポスで5回分のお茶など《勉強お助けセット》とレジメをお送りします♫
お申込み後、メールなどでzoomリンクをお送りします。
欠席された場合も後日VIMEOのアーカイブをご視聴いただけるように準備いたします。
お申し込みは→https://tibetanfood.thebase.in/
お問い合わせ→ tibetrestaurant@tashidelek.jp   03-6457-7255 タシデレ

▷講座内容
第1回 古代チベット王国の栄華
第2回 モンゴル帝国を教育したチベット仏教
第3回 転生相続制度の始まり
第4回 ダライラマ政権の誕生と満洲人の改宗
第5回 チベット仏教世界の近代の復興

▷講師プロフ: 石濱裕美子 
早稲田大学・教育総合科学学術院 教授 文学博士。
専門 チベット・モンゴル・満洲の歴史。『チベット仏教世界の歴史的研究』(東方書店)、『清朝とチベット仏教』(早稲田大学出版部)、『世界を魅了するチベット』(三和書籍)、『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社)、『ダライ・ラマと転生』(扶桑社)。


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● 先達
マサムネ | URL | 2021/09/01(水) 10:51 [EDIT]
慧海の「チベット旅行記」には敢えて記されていないツァルカ村から先、越境への核心部へ――
大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる
2021年09月01日
約100年前にチベットを旅した僧侶・河口慧海の足跡をたどり、さらにドルポ内部へと旅を続ける稲葉香さん。今回のルポで紹介しているツァルカ村から先は、河口慧海の『チベット旅行記』には、詳細が記されていないが、のちに発見された日記によって明らかになった箇所である。
いよいよドルポの入り口となるツァルカ村に到着するのだが、その前に記載しておきたいことがある。何故かといえば、この時代(2004年)になってから、慧海日記の一部が発見=公開されたからだ。しかもそれは、今までになかった核心部の重大なポイントだったのである。
★前回記事:疲労困憊でたどり着いた野営地は100年前の慧海と同じ場所だった!?
従来のチベット旅行記(全5巻・講談社文庫)は、慧海が帰国直後に語った2つの新聞の連載に基づいている。その中では、ツァルカ村から先については「これは略します」と書かれ、日付や地名もなく詳しく書かれていない。それが、2004年の秋、今までになかった1900年(明治33年3月10日から12月31日までの分で、ネパールのムスタン地方からドルポ地を経てチベットに密入国し、西チベットのマナサロワール湖とカイラス山を巡礼して、シガチェとラサの中間地点に到達するまで)の慧海の行動が記録されている日記が、慧海の姪である故宮田恵美氏の自宅で発見されて解明さることになったのだ。
私はこの新聞記事を目にした瞬間を、鮮明に覚えている。というのも、私が慧海ルートを歩みだして2年目で、ちょうどネパールから帰国した時だったからだ。ちなみにその新聞の切り抜きは今でも持っている。
この日記が発見されたことにより、今まで隠されていた、「どこの峠を超えてチベットに入ったのか」が一気にリアルになった。そして、登山家・作家・学者などが集まり河口慧海研究プロジェクトが立ち上がり、そのメンバーによって日記の解析・整理などが行われた。それらをまとめたものが、河口慧海日記(講談社学術文庫・奥山直司編)として2007年5月に発行されている。私は単に慧海ファンの一人として、「100年前の話なのに、今、2007年に解明されるとはチベットの埋蔵経のようだ感じ、すごく面白い」と思った記憶が残っている。
ところで、何故、慧海がその地域について詳しく書かなかったのだろうか? それは、当時はチベットは鎖国時代だったので、慧海が現地人になりすまして密入国を計画し国境地帯を突破するなか、途中で彼を助けてくれた現地の人がいたがその人々に迷惑がかからないように配慮からであった。
北上して、いよいよツァルカ村(CHHARKA BHOT)へ!
9/14. キャンプ地 ~ ツァルカ
朝、5時半ごろまでは雲がどんよりしていたが、朝食を終えていざ出発の頃にはスッキリした快晴の中で出発した。今日は、途中からカンテガ峰(6060m)が見えるはずだ。“カンテガ”という山はクーンブ地方にもあるが、ドルポにも同じ名前の山がある。慧海師はこれを東に三尊峰と命名したが、その位置は正確には東南32kmで、パンザンコーラ側からはカンテガ峰と呼ばれており、裏側の南側のモー・ラからはチャマール・カンと呼ぶようだ。
遠方にカンテガ峰(6060m)を望みながら旅程を進める
タザンコーラ沿いには褶曲した山肌が続き、この時期ピンクの小さなお花畑となる。イブキトラノオ属の一種(タデ科)周囲を見渡せる緩やかな山道のアップダウンが続く中、このあたりはチベット旅行記には、ナーという鹿・雪豹・ヤク・犬などの猛獣がいると書かれている。私が通った時もナー鹿と馬とマーモットを見ることができた。
ピンク色の花が山肌を染める。イブキトラノオ属の一種のようだ
山道を歩いていると、マーモットの姿を見ることが出来る
5714m地点の左岸岩壁に来ると、西にカンテガ峰 6060m 東壁の頭が見える。この山は、私にとって思い出深いものだ。故大西保氏に連れてきてもらい、初めてのドルポ入りを果たした2007年、このカンテガ未踏峰登攀の予定があり、「私も登りたい」の一言で大西隊長は登攀メンバーに入れてくれた。そして、第1次隊が初登攀に成功した次の日、私は贅沢にも第2次隊で登頂することが出来た。ここからは東壁が見えていたが、登攀したのは北壁だった。貴重な経験をさせて頂いた思い出が蘇り記念撮影だけして先を急ぐ。
思い出が残るカンテガ未踏峰をバックに記念撮影して先を急ぐ筆者
どんどん進むと、ツァルカツゥルシーコーラとタザンコーラの手前にケルンがあった。そこから、ツァルカ方面を遠くにみると、意識しないとわからないほど小さい白い建物が見えた。私はツァルカが見えたのだと思った。やがて川の出合にたどり着くと河岸段丘の真下に大きくて立派な橋がかかっていた。
慧海の時代は「靴を脱いで渡る」と書かれていた場所には、立派な橋がかかっていた
慧海の時代、ここには小さな橋がかかっており、荷物を下ろし靴を脱いで渡ると書かれていた。その河原で米を煮て食べようとしているとき、一人のサドゥー(ヒンドゥー教の行者)に会ったと記されている。慧海は彼に米を与えて、「これより上に登ると、非常に寒いので注意せよ」と忠告すると、彼は天を指差し「わが命は神にあり」と言い残し、ムクチナートへ向かって去って行ったという。
南方に巨大な岩壁があり、そこから五条の滝が落ちていたため、慧海はこれを五龍の滝と命名している。私が行った時はその岩壁はわかったが滝を見つけることは出来なかった。その年は滝が枯れていたのだろうか。
慧海が訪れた際には五条の滝が落ちていたという岸壁。残念ながら滝は枯れていたようだ
ツァルカ村に到着する手前からは守り神のようにマニ石が、川沿いずらっ〜と敷き詰めらるように長く続いている。そして、遠くにツァルカ村が見えてくる。ドルポの東の玄関口の村にいよいよ到着である。このマニ石が長ければ長いほど、その地域の信仰が厚いそうだ。
「マニ石」が敷き詰められた川沿いの道を進む
*     *     *
昼食後に早速、村内の見学に向かった。このツァルカ村は、実は日本人にとって馴染み深い村なのだ。慧海の研究者である故高山龍三氏が若い頃参加していた1958年の西北ネパール学術探検隊(故川喜田ニ郎氏が隊長)が3ヶ月に渡り調査している。その記録が残っているのため、当時のことを見たり聞いたり出来ていたため、この村に来るといろいろ想像が出来てグッと近く感じられた。
いよいよ、ツァルカ村へ。石造りの家が立ち並んでいる
ちなみに、ツァルカ村は、エリック・ヴァリ監督の映画「キャラバン」(1999年日本公開)のロケ地となった場所として、近年では知られるようになっている。
以前訪れた時に、故 大西保氏に教えてもらったポイントからツァルカの全貌を撮影しようと小高い山を登りはじめた。途中ですれ違った人に話かけると、その人は偶然にも22年前まで、対岸にある今は廃寺となっている寺院に住んでいた人だった。話を聞かせてもらうと、川を渡る時、当時は綱渡りで渡っていたのだという。私はツァルカに来て4回目にして、記録で見聞していた綱渡りをしていた人に出会えたことにすごく感動した。
丘から望むツァルカ村の全貌。絵葉書のように美しい風景が広がる
彼は15歳の頃から綱渡りをして、ロープをつたって対岸のお寺に行き毎日プジャをしていたという。今は、この綱渡りが危険な上に事故もあったので、お寺は30年前に新しい場所に移動したという。それより前の300年前までは山の上にあったとも話てくれた。また、ここでは仏教よりもポン教徒が多く「もうすぐ祭りだよ」とも教えてくれた。祭りとは毎年収穫の前にやっているものらしい。
このツァルカはさらにドルポ内部へと向かうための場所であり、慧海にとってはしばし休息するための場所でもあった。慧海によると、ここツァルカでポン教徒がいて、ラマの家に逗留しているとも記している。そこで経典を借りて4時間ほど読んで、案内人を解雇したとも記している。
なお、ツァルカまでの案内人を変えたことが明らかになったのは、2004年に慧海日記が発見されたからであった。日記によると、案内人からは、この先に行くのを非常に強く止められていたが、慧海の気持ちは揺るがなかったとしている。
1958年の西北ネパール学術探検隊(故川喜田ニ郎氏が隊長)が3ヶ月に渡り調査された記録が映画「秘境ヒマラヤ」の作品となっており、その映画に使われていたお面を見せてくれたポン教の僧侶と記念撮影
ツァルカまでの案内人を変えたことが明らかになったのは、慧海日記が発見されたからであった。チベット旅行記と河口慧海日記では、記述されている内容が、微妙に違っている。さらにややこしいのが、チベット旅行記は改正版が1941年に出ており、このようなツァルカに到着した日にちが違っていたり、具体的な記述が増えてたりいる。
例えば、この部分である。
『二日間逗留してからドルポ、セーの霊場を周りに行きました。この霊場の間には景色の佳い処も沢山あり、また仏のやうな姿をして居る天然の岩もありその他珍しい植物や動物も沢山見ました。ちょうど吾国の妙義山を広大にした様な山で石門も天空に駆ける様に見える岩も見えます』
この記述によって、ドルポの聖山・シェー(水晶山・5576m)を巡礼したことが確実になったわけだ。また、慧海はドルポを郡名、ツァルカを集落と正しく認識しているところや、案内人を変えてたこと、さらに到着した日にちは6月20日であったことが記述からわかっている。
ツァルカ村から、さらに北上してティンキュー(tinjegoon)へ
9/15 ツァルカ ~ モーラ(5035m) ~ キャンプ (4664m)
ツァルカから北西約10kmにモー・ラ(5027m/峠)という場所がある。慧海は「是れドーラ・ギリなり」と記載してるが、故大西保氏は峠の手前で見えるのは、ダウラギリⅡとその西の峰であると断定している。私がモー・ラを超えた時は、雲が少しかかっている中から撮影した際に、西の峰らしい雪山が見えていた。
モー・ラ(5027m)から、ダウラギリⅡ方面を望むが、雲でよく確認できなかった
このモー・ラを越えてメガネ池を通過したが、池の一つが枯れていたために分からず、一度は通りすぎてしまったが。しかし、初めてこの場所を訪れた時(2007年)のことを思い出して振り帰ると、自分がメガネ池の中央にいることがわかった。メガネ池全体が見渡せるところまで引き返して良く見てみると、その様子がよくわかった。
メガネ池。水が枯れていて一度は通り過ぎてしまった・・・
ダサイン(ネパール最大のお祭り)のために中国からヤギを連れて地元の人々が大移動していた。この時期は、いつもそんな様子が確認できるという。
ヤギの大移動の様子。ダサインの時期は、いつもこんな様子だという
9/16 キャンプ ~ カジャン ~ キャンプ(4342m)
この日は2回の渡渉がある行程だ。そのうち2回目となるカジャン付近での渡渉は、水は痛いほど冷たかった。さらに「水多く橋なし」と、100年前の慧海と同じことを感じた。そして慧海の言うとおり、京都の茶畑のような植生が100年後の今も変わらない姿が広がっていたのだった。
前日と同じく、次から次へとヤギの大移動とすれちがった。ヤギは、カトマンズやポカラまで連れていかれると聞いた。今までダサインで見てきたヤギがドルポを横断してカトマンズのような都会まで辿りついているとは、驚きでもあった。
茶畑のような風景が広がる。100年前も、こんな様子だったようだ
9/17 キャンプ ~ ティンキュー(4110m)
ティンキュー手前で日本のコマツのブルドーザーを発見! 車はネパール内部からはここまで入っていることは不可能だが、チベット国境からは車での往来が可能になっていることがわかった。チベット側は、国境峠を越えると高原になっていて、車道は比較的作りやすい。そのため、どんどん作られていることが想像できる。
クーラカン(聖なる山)が見えてきた。ティンキューが近づいてきた
さらに、ティンキューはなだらかな地域にある大きな村で、以前はヘリポートがあったとガイドが言った。今、その場所には多くのガソリンタンクが山積みにされていた。これもチベット側から運ばれているものだろう。
さらに進むと、クーラカン(聖なる山)が目の前に見えてきた。地元の人によると、「チベット歴の7/15に巡礼祭が終わったばかりだ」と言っていた。ティンキュー手前には、遊牧民のテントがいくつか見られた。ヤクの毛で織られたものあれば、現代の化学繊維の生地のテントまでと様々だった。そこでは、ヤギの乳搾りのスタイルを見かけたが、1958年の西北ネパール学術探検隊(故 川喜田ニ郎氏)の報告と変わらない姿がそこにあった。
遊牧民のテントとヤギの群れ。昔からの景色が広がっていた
西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く
~ムスタン、ドルポ、フムラへの旅~
リウマチという難病を抱えながら、チベット(中国)国境に近いヒマラヤの最奥の地ドルポで、約
100日におよぶ越冬を単独実現させ、2020年植村直己冒険賞を受賞した登山家初の本。今秋、発売予定。
教えてくれた人
稲葉 香(いなば かおり)
登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道を調査。大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞。
オフィシャルサイト「未知踏進」
● 仏教遺跡
マサムネ | URL | 2021/09/02(木) 20:31 [EDIT]
駐日ウズベキスタン大使館は、よみうりカルチャーと共同でウズベキスタンに現存する貴重な仏教遺跡に関する講座を開催いたします。
        よみうりカルチャーと共同でウズベキスタンの魅力を伝えるイベントを開催
                シルクロードに伝わる仏教遺跡 に迫る
 駐日ウズベキスタン大使館は、 よみうりカルチャーと共同でウズベキスタンに現存する貴重な仏教遺跡に関する講座を開催いたします。
ウズベキスタンは2019年英エコノミスト誌の「カントリー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、 世界的な注目が高まっているウズベキスタンは、 いにしえのシルクロードの面影を残す「文明の十字路」。 南部スルハンダリヤ州の州都テルメズは、 アフガニスタン国境の町。 紀元2世紀クシャン朝時代に隆盛を極め、 貴重な仏教遺跡が現存します。 西遊記の三蔵法師のモデルとなった唐僧の玄奘三蔵は、 テルメズを経由し、 仏教文化が栄えていたアフガニスタンに入りました。
 今回、 テルメズの古代仏教遺跡とその出土品を取り上げ、 歴史的にも複雑なこの地域における仏教美術の受容と展開について、 考古学者の故加藤九祚氏と共に立正大学ウズベキスタン学術調査隊の隊長として学術調査を行われた安田治樹氏が講演します。
 講座では、 前半にムクシンクジャ・アブドゥラフモノフ大使のあいさつ、 大使館職員によるウズベキスタンの紹介、 後半は安田氏による講演が行われます。
           よみうりカルチャー ウズベキスタン共和国大使館共催講座
     「ウズベキスタンの仏教遺跡について~立正大学ウズベキスタン学術調査隊の取り組み~」
ファヤズテパ遺跡
講 師:立正大学名誉教授 安田 治樹氏
日 時:10月9日(土)13:30~15:20(換気を兼ね、 途中10分の休憩をはさみます)
場 所:読売新聞東京本社3階「新聞教室」
(東京メトロ・都営地下鉄「大手町駅」C3出口直結)
    東京都千代田区大手町1丁目7−1( https://goo.gl/maps/gnsMhgeXfMUA4TRB9
受講料: よみうりカルチャー会員 2,750円(うち消費税額250円)
     一般 1回 3,300円(うち消費税額300円)
定 員:50名(定員に達し次第、 申し込み受付を終了します)
※通常100名での開催ですが、 昨今のコロナウイルス感染対策を講じるため十分な間隔をとり、 通常の定員の半数にて開催いたします。
申込先:以下URLよりお申込みください。
https://www.ync.ne.jp/otemachi/kouza/202110-18012526.htm
後 援:日本ウズベキスタン協会
 本講座に先立ち、 中央アジアに強みを持つ旅行会社オールシーズントラベル代表の川上 和久氏より寄稿いただきました。
 中央アジアに位置し「青の都」「シルクロードの交差路」と呼ばれるウズベキスタンは日本人の人気も高く、 行きたい国の上位となっています。 今年、 旧ソ連からの独立30周年を迎え、 2019年には日本からの観光客が年間2万5000人に増加しました。
 ウズベキスタンは観光大国を目指し、 ミルジヨエフ大統領により観光産業が国家の経済発展における優先分野と位置付けられています。 その取り組みとして2018年2月に発令された大統領令「ウズベキスタン共和国の観光産業の加速的発展を確実にするための措置」により観光事業者に対する税及び関税が免除となりました。
 さらに、 日本を含む90カ国がビザ免除となり、 更に57カ国を対象に電子ビザシステムが導入されました。 この施策は、 日本からウズベキスタンを訪れる日本人の増加に寄与しています。 観光インフラの点においては、 新規ホテルの開業による客室不足の解消や、 鉄道・航空便の予約システムの改善され旅行業界にとって非常に明るい話題が続いています。
 大統領は昨年9月に開催された第75回国連総会で今年9月14-15日にヒヴァで国際フォーラム「世界文明の交差路にある中央アジア」を開催することを提案されました。 本提案はウズベキスタンが進める地域政策の一環であり、 中央アジア5カ国が一つの地域に属しているということがより強く訴求できるよい機会になると思います。 本フォーラムの開催により、 善隣関係が強化され、 世界文明の発展に大きく貢献されることを確信しています。
 また、 現在猛威を振るうコロナ禍、 そしてコロナ後に安心・安全な旅行を楽しんでいただけるよう、 ウズベキスタン政府は観光客向けに「Uzbekistan. Safe Travel Guaranteed」制度を作りました。 この制度はウズベキスタン滞在中、 体調不良となった場合の病院でのサポート体制を強化や、 治療費の負担など、 十分な対策を講じ安全に滞在いただけるシステムです。
サマルカンド・レギスタン広場
 ウズベキスタンでは4つの都市(サマルカンド・シャフリサーブス・ブハラ・ヒヴァ)が世界遺産に登録されており、 モスクやミナレットなどの文化施設、 歴史的建造物の観光が中心となっています。 近年はそれに加え、 巡礼、 エコロジー、 民家訪問、 グルメ、 スポーツ、 医療、 農業、 産業、 ビジネス等、 観光名所めぐり以外の新たな観光目的の人気も高まっています。 特に日本との学校交流や文化交流といった親日国ウズベキスタンならではの交流事業も盛んです。
 既に多くの日本の大学と交換留学は行われていますが、 近い将来、 ウズベキスタンが日本の中学、 高校の修学旅行先の候補地として名前があがってくることもあるかもしれません。
 ウズベキスタンは遠い国から近い国へと変わろうとしています。 日本人にとって「異邦人」シルクロードのイメージがピッタリの国です。 「百聞は一見に如かず」の通り、 ぜひウズベキスタンでウズベク人と日本人の文化やメンタリティーの共通性を実際に感じ、 シルクロードの世界に浸り、 歴史ある独特な東洋の文化を味わい、 忘れがたい旅をお楽しみください。 コロナ終息後は是非ウズベキスタンへの旅をオススメします。
 現在は、 コロナ禍でなかなかウズベキスタンにも行く事が出来ませんが、 日本にいながらウズベキスタンの名所や歴史に触れる事ができる有意義なイベントの開催となっています。 ぜひ多くの方にご参加頂けると幸いです。
● ハリオアマツバメ
マサムネ | URL | 2021/09/02(木) 22:29 [EDIT]
渡り鳥「ハリオアマツバメ」、長崎大など飛行経路解明 4万キロ飛び、繁殖・越冬
2021/06/28
 鳥類トップクラスの時速170キロで水平飛行するとされる渡り鳥「ハリオアマツバメ」が北半球、南半球を往来して繁殖・越冬する際の飛行経路を、長崎大などの研究グループが解明した。ハリオアマツバメは1日の大半を空中で過ごすため、生態がほとんど解明されていない。個体数の減少も指摘されており、グループは研究成果を保護などに役立てる考えだ。(林尭志)
豪から飛来
ハリオアマツバメ(山口准教授提供)
 研究は、長崎大の山口典之准教授(48)(鳥類生態学)が、慶応大や酪農学園大(北海道江別市)などと実施。5月に発表し、論文が米学術誌に掲載された。
 山口准教授によると、ハリオアマツバメは体長約20センチ、体重約120グラム。空気抵抗の少ない流線形の体が特徴で、春に越冬地のオーストラリアから北海道などへ飛来し、営巣する。
 研究グループは2015年に調査を開始。北海道・十勝地方の牧草地に巣箱を設け、営巣したハリオアマツバメに小型の記録装置を取り付けて観察した。装置を1グラム未満に軽量化するなど改良を重ねた結果、18~19年に越冬した3羽について行動記録を収集・解析できた。
謎の「8の字」ルート
 その結果、ハリオアマツバメは北海道とオーストラリアの間を、東アジアからオセアニアにかけて大きく「8」の字を描くように飛行していたことが判明。中国大陸や東南アジア諸国などの上空を飛行していた。移動距離は往復で地球1周分にあたる約4万キロに達していた。8の字飛行について、グループは「風の影響や、餌となる昆虫が多くすむ大陸沿いをルートに選んだことなどが考えられるが、特定には至っていない」とし、今後も研究を続ける。
 山口准教授によると、オーストラリアでの越冬個体数は過去60年で4分の1に減ったとするデータもあるという。「今回の研究結果が、餌となる虫を育む森林の保全など国境を超えた取り組みに役立てられればと思う」と山口准教授は話す。
● 廃寺
マサムネ | URL | 2021/09/02(木) 22:43 [EDIT]
信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
8/28(土)
毎日新聞
取り壊し方針が決まった久昌寺=江南市田代町郷中で2021年8月27日午前11時19分、川瀬慎一朗撮影
 戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】
 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷酷非情とされる信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。
 寺の現在の本堂は1925年建築。庫裏は不明だが、江戸期とみられる。寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており、今回の取り壊しや売買の対象にはならない。しかし、寺がなくなった後にも墓標は立ち続けることになり、どのように保存、継承していくかが課題となる。
 寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)によると、寺には約60年前から専属住職はおらず、檀家(だんか)も約10軒という。長年維持管理が課題になっており、約5年前から取り壊しを検討。耐震化や雨漏りの問題があるが、費用面から改修は困難だったという。本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、英夫さんは「信長ゆかりで先祖の菩提寺でもある歴史的な寺なので残したい思いはあったが、檀家も少なく財政的にやむを得ない」と話した。
 市によると、寺の境内南側は92年、北側は2012年から市に無料貸与され久昌寺公園として整備。20年8月、所有者側がこの無料貸与している土地を無償で市に譲渡し、本堂と庫裏の取り壊し後の跡地約1600平方メートルの買い取りを要望。市は所有者側と交渉を重ね購入の方針を決めた。
 9月2日開会の9月定例議会に土地鑑定、測量予算約59万円を計上する。22年度中に取り壊し・購入、23年度に公園として整備するという。
 同寺の案内もするボランティア団体「市歴史ガイドの会」の川田圭一会長は「歴史を伝える寺が無くなることは寂しい。皆で維持費を集められれば良かったが」と肩を落とした。その上で、「忘れ去られてしまわないよう、どこかに寺のことを伝える場を作ってほしい」と望んだ。
● 香港民主
マサムネ | URL | 2021/09/03(金) 06:22 [EDIT]
民主化運動の最前線「香港」撮影 宮嶋茂樹さん、新宿で写真展
2021/9/1
「不肖・宮嶋」の異名で知られ、戦争や自然災害、国際的な要人などさまざまな事象を撮影してきた写真家の宮嶋茂樹さん(60)が、東京・西新宿で写真展「忘れられた香港 ~The forgotten State~」を開催している。
会場には、香港の民主化運動を2019年6月~12月に現地を6回訪れて撮影したうち約60枚が展示されている。
宮嶋さんは、逃亡犯条例改正案に反対する100万人規模のデモの熱気が伝わる写真(19年6月撮影)を指し、「まだ集会ができた、ぎりぎり最後のタイミングだった」と振りかえる。
2019年6月~12月に6回にわたり香港の民主化運動を取材した宮嶋茂樹さん(坂本慎平撮影)
香港理工大学で警官隊と激しい攻防を繰り広げるデモ参加者たちを捉えた写真は、傷つき肩を支えあって歩む背中や、疲れ切って眠りこける姿など、最後までバリケードの内側に踏みとどまって撮影した。ベトナム戦争の最前線で雨の中でポンチョにくるまって眠る米兵の姿を捉えた写真家のピュリツァー賞作品になぞらえ、「より良きころの夢」を忘れない気高さにせまったと話す。
これまで海外の紛争地で長期の撮影も多かった宮嶋さんだが、新型コロナウイルスの感染拡大で、19年12月の香港取材以降は海外に出ていないと嘆く。
「国内外のメディアもコロナ報道が圧倒的に多くなり、香港の情報が少なくなっている。忘れてはならない」という思いを写真展のタイトルに込めたと力強く語った。
写真展の会場はニコンサロン(東京都新宿区西新宿1-6-1、新宿エルタワー28階)。9月13日(月)まで。10:30~18:30(最終日は15:00まで)。日曜休館。入場無料。
● 亡命
マサムネ | URL | 2021/09/05(日) 10:18 [EDIT]
アメリカに亡命した19歳のウイグル人少女の告白 命を繋いだのはお金で買った医師の診断書
9/4(土)
クーリエ・ジャポン
海外への脱出に成功した者は「非常に少ない」
Photo: Youtube of 黃郁菁
新疆ウイグル自治区を脱出し、父、母、妹の家族4人でアメリカへやってきたのは4年前──。
【画像】アメリカに亡命した19歳のウイグル人少女の告白 命を繋いだのはお金で買った医師の診断書
米誌「アトランティック」にそのように語るのは一家の長女、アセナ・タヒール(19)だ。現在、アメリカの大学に通っている。
渡米以来、同級生からは「アセナって、おばあちゃんみたい」と言われてきた。彼女の喋りや考え方が、周りにそう思わせているようだ。本人はそう言われることは「嫌じゃない」と言う。なぜなら「本当にそう感じることが多いから」。
ウイグル人であるが故に迫害されてきた。あまりに過酷で、不条理な現実を、子供の頃から突きつけられてきた。
彼女のようなイスラム教徒は、中国に約1200万人以上いる。現在、新疆ウイグル自治区の収容施設では、100万人以上のイスラム系民族が拘束されていると推測されている。信仰の自由を奪い、思想教育、さらには強制不妊が行われていると、人権団体は主張している。アメリカやカナダ、オランダ政府は、この中国政府のウイグル人らに対する行いを「集団虐殺」だとして公に避難してきた。
ここ5年ほどで、同自治区から海外への脱出に成功した者は「非常に少ない」。「だからこそ……」と、アセナは自身の経験、そして、ウイグル人についてを発信することに決めた、と話す。
「中国人でもウイグル人のことを理解している人は少ない。多くの人は、教科書に書いてある通り、果物や野菜を育てていて、火の周りで歌ったり踊ったりする楽観的な民族だと思っている」
アセナ(Aséna)という名は「トルコ人に多い名前」だという。「父は私にトルコ系民族であることを覚えていて欲しかった。だから、私にこの名前をつけた」
一家は同自治区のウルムチ市で「2009年、私が8歳になる頃までは」、穏やかに暮らしていたと言う。
その年、中国西部の工場で働いていた漢民族の女性ふたりが「ウイグル男性たちに強制性交された」という噂が広まった。証拠は不充分だったが、これを機に、職場でウイグル人に対するリンチが行われるようになった。ウルムチ市では暴力に反対するデモが発生。デモ自体は平和に行われていたが、参加したウイグル人は中国当局によって暴力的に取り押さえられた。少なくとも197人の死者が出たと、同誌は報じている。
以来、同地区の監視は「徐々に厳しくなっていった」。
「街の中には100メートルごとに中国警察の派出所が配置され、監視カメラの数も増えた」。それに伴い、「ウイグル人は自宅につながるケーブルには、各家庭の会話を記録するチップが埋め込まれているとの噂を本気にするようになった」。アセナの両親はそれを信じていなかったが、それでも「家で政治の話は一切しなくなった」。
そういった緊張は、アセナが通っていた小学校にもあったと言う。
ある日、クラスメイトのひとりが、授業中に突然泣き出した。彼の父親は中国当局によって「スタティ・センター(再教育センター)」と呼ばれる収容所へ連れて行かれたのだと言う。すると、他の生徒たちもすすり泣き始めた。
「なぜなら、誰もが少なくともひとりは収容所に入れられた親戚や家族付き合いをしていた隣人がいたから」
すると、先生は黒板消し用の黒い布を掴んで、教室に設置されたカメラに被せた。そして、生徒たちにこう語りかけたと言う。
「皆が辛い思いをしているのはわかっている。けれど、奴らに涙を見せてはダメだ。君たち10代の若者は、ウイグル人の希望だ。強く、勇敢に生きて欲しい」
それから数週間後、その先生は学校から消えた。のちに、強制収容所に連行されたことがわかった。
命を繋いだのは「偽造診断書」だった
同じ頃、アセナの父親は、中国政府が治療目的での海外への渡航を許可している病気を調べていた。そして、「てんかん」がそのひとつだとわかった。
この頃にはすでに、ウイグル人は中国当局によってパスポートを没収されていた。「父は命の危機を感じていた」
「父は知人のつてで、医師の診断書を集めました」「中国ではお金さえ出せば、このくらいのことは何でもできてしまう」
それから出国が決まるまでの数ヵ月間は「生きた心地がしなかった」。特に「父はバレたら命がなかった。かなり追い詰められていた。精神状態が心配だった」。
出発の日は突然やってきた。大量虐殺から逃れられたとはいえ、「長時間の飛行機の中でぐっすり眠っていたのは、まだ幼かった妹だけ。私たち3人は不安で押しつぶされそうだった」。
だが、アメリカの空港に着くと「不安は消えた」とアセナは言う。「眼に映るすべてがカラフルに見えた」
同級生とは「まったく話が合わなかった」
アセナは現地の高校へ通った。英語はそこで身につけた。
言葉も文化も違う国での学校生活はただでさえ大変だったが、当初、家族の中で唯一英語が話せるようになったアセナは、家族の生活基盤を支えなければならなかった。
両親のために通訳をし、家探しを手伝い、日用品を最も安く手に入れる方法を探した。
同級生とは「まったく話が合わなかった」という。ウイグル人の状況について知る者は誰もいなかった。
「同級生がアメリカの悪口を言うのが信じられなかった。クラスの中でアメリカという国を最も好いていたのは私だったと思う。彼ら(アメリカ人)は、自分たちがどれだけ幸運かをわかっていない」。
彼女にとって、アメリカは「自由をくれた国」である。信仰の自由、発言の自由、ウイグル人らしく生きる自由──。
「クラスの誰もがアメリカの問題を指摘したり、政治について議論することはできた。けれど、彼らは国への感謝の仕方を知らない」
けれど、彼女はじきに「それでもいいのかも」と考えを改めたと話す。
「褒めるも貶すも、考えがあってのこと。私は彼らにアメリカの良さを伝えることができる。意見の違う者同士が考えを共有して、協力することで、私たちはより良い社会を作ることができるから」
逃げてきた」という罪の意識
アメリカでの生活に少し慣れ始めると、一家は次第に罪悪感に苛まれるようになった。
「自分たちだけ逃げてきた」「他の誰も助けられなかった」「中国に戻るべきではないか」
「まだ何も成し遂げていない私は、自由を享受するに値する人間なのか」。そう考えて、死を考えたこともあったと明かす。
そんな時、母親の妊娠が発覚。「その時、私はすでに18歳。弟ができるなんて、考えもしなかった」。
弟の誕生によって、一家は「罪の意識から少し解放された」と話す。「赤ちゃんの世話をしている時は、赤ちゃんのことしか考えなくなるから」。新たな命に触れることで、死よりも「生」を意識するようになった。
弟はタリムと名付けられた。由来はタリム盆地を流れる内陸河川。アメリカで生まれた彼にも、「ウイグルのルーツを忘れないで欲しい」との思いが込められていると話す。
「弟は大きくなったらきっと、自分のルーツに迷うと思う。そしたら、私が弟を助けなきゃ。ウイグルのことをいろいろ教えてあげなきゃ」
アセナは、他のウイグル人を助けられなかったという罪の意識がなくなった訳ではないと言う。
「痛々しい記憶だけれど、あえて大切に持っておきたい。なぜなら、助けられなかったウイグル人ことを、私は忘れたくないから」
● 義捐
マサムネ | URL | 2021/09/06(月) 20:27 [EDIT]
血洗滝神社のCF 目標大幅超え 赤磐、329万円集まる
2021年9月6日
赤磐市
血洗の滝のほとりにたたずむ祠。地元住民らがCFで集めた寄付で修復する
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した後、剣と体を清めた伝説が残る血洗滝神社(赤磐市是里)の祠(ほこら)を修復しようと、地元住民らが費用を募っていたクラウドファンディング(CF)が1日に締め切られ、目標の200万円を大幅に上回る329万8千円が寄せられた。超過分はさい銭箱の設置など周辺環境の整備に充てる予定だ。
 祠は幅0・8メートル、奥行き1・3メートル、高さ2・5メートルの木造建築。60年近く前に建て直して以来手付かずの状態で、土台や屋根の下地が腐るなど倒壊寸前だった。地元住民や建築家ら有志8人が昨年12月に実行委を立ち上げ、再生に乗り出した。
 7月21日からCFサービス「晴れ!フレ!岡山」で寄付を呼び掛けたところ、8月7日に目標の200万円を突破し、最終的には全国の325個人・団体から329万円余りの協力を得られた。超過分はさい銭箱を新設するほか、倒木や雑木を取り除き、排水設備の整備にも活用する。
 祠は一度解体し、損傷が激しい部分を新しい部材と交換して元通りに組み立てる。柱や建具など保存状態が良い部材は滝の水で洗い清めて再利用する。さび付いた銅製の屋根も新しく取り換える。10月中旬~11月中旬に着工し、来年4月の完了を見込む。
 血洗滝神社は赤磐市北端の渓谷にあり、落差11メートルの「血洗の滝」をご神体として祭る。素戔嗚尊が血に染まった剣と自身の体を滝の水で清めたとされ、古くから信仰の場として受け継がれてきた。
 実行委代表の荒島正弘さん(64)=同市=は「予想以上に反響が大きくて驚いた。寄付をしてくれた全ての人に感謝するとともに、期待に応えられるよう改修に臨みたい」と話している。
● ウズベキスタン@国営放送
マサムネ | URL | 2021/09/23(木) 18:56 [EDIT]
NHK「『ニッポンで頑張る!』を応援します」 取材を超えたドキュメンタリーのぬくもり
2021年09月22日
 【牧 元一の孤人焦点】たぐいまれなドキュメンタリーが生まれた。NHK「『ニッポンで頑張る!』を応援します 泣き笑い交友記」(23日後6・05)だ。

 ドキュメンタリーは通常、取材者が対象の動きを追う。ところが、この番組は対象に寄り添い、時に深く介入する。対象との親密な関係と、その発展によって生まれたドキュメンタリー。分野は異なるが、ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏がプロボクサーの活動に深く関わった著作「一瞬の夏」を思い出した。

 この番組の取材対象は、3年前にウズベキスタン共和国から来日した留学生のウタエフ・ラジズ氏。フードデリバリーのアルバイトをしながらホテルの専門学校に通い、日本のホテルに就職することを目指している。

 取材者の1人が、ディレクターの小関竜平氏。2年前、サプライズ番組の主人公として、当時コンビニでバイトをしていたラジズ氏を選び、昨年2月にラジズ氏の両親をウズベキスタンから日本に招く計画を進めていた。

 ところが、コロナ禍で両親の来日が不可能となり、番組は頓挫。普通ならばここでラジズ氏と小関氏の関係も終わるところだが、小関氏はその後も、コロナ禍で収入減に苦しむラジズ氏にバイトを紹介するなど、交流を続けていた。

 制作統括の鳥本秀昭氏(NHKエンタープライズ)は「サプライズ番組が頓挫して半年くらいたって小関君から『あの時のラジズ君と交流を続けている』という話を聞いた。それは番組のためではなく、ラジズ君に対する純粋な思い、小関君の優しいパーソナリティーから生じたことだった。取材する側と取材される側を超えた関係。そのこと自体が良い話で、裏事情も含めて番組にしたいと考えた」と話す。

 番組を見ると、ラジズ氏の人柄の良さ、懸命さがうかがえる。小関氏がラジズ氏を応援したくなる気持ちも良く分かる。ぬくもりを感じる。日本は良い国なのかもしれないとも思える。

 ラジズ氏が日本に来たのは、来日経験のある親戚から「日本は優しさと思いやりのある国」という話を聞いたのが発端。ラジズ氏は「日本は世界で1、2のサービスの国。日本で経験を積んで、故郷にホテルを作り、日本のようなサービスをやりたい」と考えている。日本には世界に誇るべき部分があるようだ。

 鳥本氏は「いつの間にかコンビニの店員が外国人になり、流ちょうな日本語を話し、おもてなしをするようになっている。そんな状況を面白いと思ったのが、番組の始まりだった。これから日本は共生社会になっていかないといけない。外国人を隣人として、仲間として暮らしていくことになる。この番組をご覧いただいて『私も外国人の友だちを作ろう』と思っていただければ」と話す。

 これは幸運に恵まれたドキュメンタリーとも言える。ラジズ氏、小関氏のような人物、関係性がこの日本に多く存在するわけではないからだ。今後、同じような番組を作ろうとしてもなかなか難しいだろう。ただ、目標に向かって日本で歩むラジズ氏のその後は気になる。続編を期待する。

 ◆牧 元一(まき・もとかず) 編集局デジタル編集部専門委員。芸能取材歴30年以上。現在は主にテレビやラジオを担当。

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