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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2020/10/18(日)   CATEGORY: 未分類
「大隈重信とチベット・モンゴル」
日本チベット学会の大会にあわせて、企画展「大隈重信とチベット・モンゴル」並びに、関連したシンポジウムを行います。
しかし、今年のチベット学会はオンライン開催。対面ではありませんが、考えようによっては日本中どこにいても聞けるのでお時間ある方どうぞ。
 このサイトで申し込みができます。申し込まれた方には後日大会当日の zoomの入り口のURLが送られてきます。
参加ご希望の方は11月7日(土)までに上述のサイトで登録してください。
シンポジウムの時間は15:30からです。

第68回(2020年度)
日本チベット学会学術大会開催のお知らせ


日時:2020年11月14日(土)10:30〜

プログラム

研究発表
午前の部(10:30〜12:00)
班青東周(広島大学大学院)「シトゥによるチベット語第五格の解釈」
海老原志穂(日本学術振興会/東京外国語大学 特別研究員)「ヤクとゾの毛色を表す認識語彙:ネパール北中部、ラスワ郡のチベット系民族の事例を中心に」
別所裕介(駒澤大学)「ネパール・ヒマラヤ国境地帯のチベット仏教圏と社会変動:北中部ラスワ郡での現地調査報告」
午後の部(13:00〜15:20)
小松原ゆり(明治大学)「第二次グルカ戦争における清朝軍の進軍ルートと清朝・チベット・ネパール関係」
才華加(広島大学大学院)「ジャムヤンシェーパによる了義未了義の設定」
李先才譲(佛教大学大学院)「ナルタン版ツォンカパ絵伝の成立過程について」
菊谷竜太(京都大学・白眉センター/文学研究科)「ササンパクパ・ションヌロドゥーの『ヴァジュラーヴァリー』新出資料について」


シンポジウム(15:30〜17:00)「明治末期の日本とチベット・モンゴル関係」
司会・基調講演:石濱裕美子(早稲田大学)
登壇者:和田大知(早稲田大学)・ハムゴト(広島大学大学院人間社会科学研究科地域文化プログラム助教)・澤田次郎(拓殖大学教授)

今回のシンポジウムに合わせて、早稲田大学で企画展が開催されます。

企画展「大隈重信とチベット・モンゴル」
期間:2020年11月13日(金)〜12月11日(金)
会場:早稲田大学歴史館 企画展示ルーム(早稲田キャンパス1号館1階)
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● 赤羽末吉
マサムネ | URL | 2020/10/25(日) 09:27 [EDIT]
https://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/2016/05/31/8999/
後に『かさじぞう』『スーホの白い馬』などの絵本作家として名をはせる赤羽末吉(1910-1990)は、22歳で満洲国(中国東北部)へ渡り、絵画の腕を見込まれて満洲電信電話株式会社で広報の仕事に就きました。1943年には興安に新設される成吉思汗廟内の壁画制作グループの一員として内蒙古(内モンゴル自治区)を取材し、スケッチ画と写真を残しています。本展ではこの時に撮影された写真約90点を初公開いたします。

 草原に点在するパオ、馬や羊の遊牧、晴天からスコールへの変化が一望できる大空、貝子廟での祭り、装飾的な民族衣装など、モンゴルの大地と民俗が画家の視線で切り取られています。後の赤羽は「ひ弱と思われる人間が、大地に足をふんばって、営々とたくましく生活している」とモンゴルの印象を記しており、写真にはその新鮮な感動が表れています。

 長春(新京)での留用を経て日本へ引き揚げる際は、「いつか絵の大作に役にたてよう」と携行厳禁であった写真やネガを密かに持ち帰りました。これらを参考に、1961年にモンゴル民話の絵本『スーホのしろいうま』を描いています。

 学問寺として名を馳せた貝子廟は、1966年の文化大革命で破壊されてしまいました。近代化が進む現在、赤羽の写真は73年前のモンゴルを伝える貴重な記録でもあります。
赤羽 末吉 (あかば すえきち)
1910年 5月3日東京・神田美土代町に生まれ、1923年に赤羽家の養子となる。
1928年 順天中学校を卒業。この後、日本画家に1年間入門し、プロレタリア美術研究所に3カ月通う。
1932年 姉夫婦を頼って満洲国大連に渡り、運送会社に就職。傍ら絵を描き続け、郷土研究グループにも加わる。
1936年 満洲電信電話株式会社(新京)に移り、1945年まで広報などの仕事に携わる。
1942年 「開拓地の子ら」で第5回満洲国美術展特選賞を受賞し、満洲美術家協会委員となる。
1943年 新設の成吉思汗廟内壁画「成吉思汗一代記」制作グループの一員として、内蒙古、大同、北京に取材旅行。
1947年 敗戦後に長春で留用となり、瀋陽収容所を経て日本へ引き揚げ。
1948年 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局(CIE)展示課に就職。
1952年 アメリカ大使館文化交換局展示部に勤務し、展覧会などに携わる。
1961年 福音館書店の絵本『こどものとも』のために「かさじぞう」「スーホのしろいうま」を制作。この後、日本と中国の民話などを題材に絵本を多数制作。
1967年 改訂版『スーホの白い馬』を上梓し、サンケイ児童出版文化賞などを受賞。
1969年 アメリカ大使館を退職して専業の絵本画家となる。
1980年 画業全般に対して国際アンデルセン賞画家賞を受賞。
1990年 6月8日逝去(享年80歳)
● オボクヤス
マサムネ | URL | 2020/10/25(日) 09:30 [EDIT]
モンゴルの親族組織と政治祭祀 オボク・ヤス(骨)構造
「ヤスをもつオボクは生き残る、ヤスのないオボクはつぶれる」
12代も先祖を遡ることができた血縁の国モンゴル。だが、清朝支配や文化大革命によりオボク(親族組織)は半壊、ヤスも忘却されつつある。本書はヤスのもつ社会的機能と象徴的意義に注目、モンゴル人の政治原理と社会構造を明らかにした大著。

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まえがき




(前略)
 本書は以下3項目に示す主旨で記述と考察を進めるものである。モンゴルの親族集団オボク(obuɣ, obugh, omoɣ)とヤス(yasu, 骨)の実態について記述し、両者の相互関係を分析することによって、モンゴル人社会における集団編成の政治原理と社会構造の性質を明らかにする。

 モンゴルの社会構造に関する従来の研究は、ほとんどが歴史資料に依拠したものであった。そのなかでオボクは常に研究の対象とされてはきたが、その実態は決して明瞭なものではない。現実の社会生活のなかで、モンゴル人はオボク集団の一構成要素となるヤスを重視する。ヤスが象徴的な機能と政治的意義を帯びているからである。したがって、社会構造の本質を明らかにするには、ヤスの社会的機能と象徴的意義に注目してオボクを研究し、ヤスとオボクの相互関係から考察する必要がある。それは、現代におけるモンゴル人の社会構造研究の空白を埋める基盤になるであろう。

 本書では、まず第1章において、モンゴル人自身が父系親族集団であるオボクとヤスについて抱いている認識を呈示する。そのうえで、ユーラシア世界におけるテュルク・モンゴル系諸集団に関する文化人類学的研究の成果を回顧し整理する。

 つづく第2章では、モンゴルのなかでも独自の歴史を有し、政治祭祀を運営維持し、中世から清朝時代に激しい再編成がおこなわれたオルドス・モンゴル(Ordus Mongɣol)の性質と特徴について述べる。

 第3章ではオルドス・モンゴルの各オボク集団の分布と移動の経緯を明確にする。同時にオボクとヤスの関係を詳細に分析し、集団の内部構成を究明する。オボクとヤスの関係はきわめて流動的なものであり、その流動性には集団編成の政治的原理が内包されている。両者の流動関係はまさにオボクとヤスから構築する遊牧社会の流動的社会構造を特徴づけるものである。

 モンゴル人は、オボクとヤスをセットで記憶し、その規約を遵守し、共通の祭祀に参加することによって、自らの父系親族集団への帰属を明確にしている。これらの父系親族集団が統合されてモンゴル人社会を形成する。

 つぎに、モンゴル全体の政治統合と民族意識の維持方法について考察する必要が出てくる。そこで登場するのが、政治祭祀である。チンギス・ハーンをはじめとする政治祭祀(törü gürün-ü tayilɣ-a)、およびその他の諸政治祭祀について考察し、儀礼の果たす政治統合の役割を明確にする。

 オルドス・モンゴル人は、チンギス・ハーンを対象とする祭殿を維持し、その祭祀を主宰してきた特殊な集団である。祭祀を直接担当する者はモンゴルの各集団から選ばれた、出自の枠を超越した集団である。この超出自集団が主宰する祭祀は、決して個々の父系親族集団の維持と統合をはかる祖先祭祀ではなく、モンゴル人全体の統合を維持促進する政治祭祀であった。

 清朝の成立により、モンゴル人は社会構造の変容を余儀なくされた。清朝の行政機構のなかでは、オルドス・モンゴル人は、モンゴル全体の政治統合に関わる集団とは認められなくなった。広範な地域に散住するモンゴル人の政治的統合は断たれ、オルドス・モンゴル人がつかさどる祭祀の目的も、地域の利益を守ることのみに限定されるようになっていった。政治祭祀の役割とその変容について第4、第5 章で述べる。

 以上の内容を受けて最終章の第6 章において、オボクとヤスの機能とその歴史的変容を総括する。先学が以前にユーラシアのテュルク・モンゴル系遊牧民の社会を「オボク構造」(obok structure)と呼んだのを筆者は更に発展させて、「オボク・ヤス構造」(obugh and yasu structure)論を提示する。

 筆者は、1991 年から1992 年にかけて、オルドス地域のなかでも特にオボクとヤスの維持を重視しているとされているウーシン旗(Ügüsin qosiɣu=Üüsin qosiɣu。旗は行政組織。詳しくは後述)、オトク旗(Otoɣ qosiɣu)とオトク前旗(Otoɣ-un emünetüqosiɣu)、それにエジン・ホロー旗(Ejen qoroɣo qosiɣu)などにおいて現地調査を実施した。その後、1995 年から現在に至るまで、調査の範囲を更にダルト旗(Daludqosiɣu)とハンギン旗(Qanggin qosiɣu)、それにジュンガル旗(Jegünɣar qosiɣu)に広げるよう努めた(地図1、地図2)。本書が依拠している資料と情報はすべて上記の調査期間中に収集したものである。

 本書は以下の原則に沿って記述する。

 第一、調査の対象者を「モンゴル人」と位置づけ、「モンゴル民族」や「モンゴル族」といった表現は避ける。その理由は、現代中国で使用されている「民族」は政治的な概念であって、客観的な学術概念ではないからである。特に、近年の中国政府から推奨されている「中華民族」等は国家統合と同化を目的とした強烈な政治的な用語であるので、「民族」は学術研究に政治色をもたらす可能性があるので、極力回避する。更に、モンゴル人は中華人民共和国の国境を越えてユーラシア全体に広く分布している。「蒙古民族」や「少数民族」のような、一国内の政治団体という枠組みに束縛されると、歴史と文化の全体像がみえなくなるからである。

 第二、同様な観点から、いわゆる漢族をすべて中国人と定義する。それは、モンゴル語でかれらを指すKhitad(Irgen kün)という言葉の正確な訳語が「中国人」だからである。筆者は以前からモンゴル人とウイグル人、それにチベット人の歴史と文化は中国が唱えるところの「民族」という政治的範疇に収まらないと主張し、一貫してそのような視点で研究を続けてきた[楊 2014a: 47, 2016:11]。近年では、他の研究者もモンゴル人と満洲人は国籍上、「中国の人」(peopleof China=Zhongguo zhi ren)であるにすぎず、「中国人」(Chinese=Zhonguoren)ではなく、両者を厳密に区別しなければならないと指摘している[Dmitriev & Kuzmin 2015: 71-72]。日本の研究者もこうした国際学界の動向に注意する必要があろう。

 第三、モンゴル語のローマ字表記はウイグル文字やキリル文字を転写したものである。モンゴル語のカタカナ表記はおおむねオルドス方言に準じるが、モンゴル国と内モンゴル自治区における標準語の発音にも配慮する。一般的にオルドス方言では母音のo とu、ӧ とü を標準語と逆転させる場合が多い。例えば、モスタールトも初期の論文ではOrdos Mongol をUrdus Mongol と表記している。また、č とj, Z の混用も普通である[Mostaert 1926: 851-869; Eerdunmengke 1999: 63-71]。日本語の資料を引用する際に、古い仮名遣いと旧漢字をすべて現行のものに直した。(後略)


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著者紹介
楊 海英(Yang Haiying)
1964 年、中国内モンゴル自治区オルドス生まれ。総合研究大学院大学修了、博士(文学)。専攻、文化人類学。
現在、静岡大学人文社会科学部教授。
主な著書として、『草原と馬とモンゴル人』(日本放送出版協会、2001 年)、『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』(風響社、2004 年)、『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』(平凡社、2005 年)、『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』(風響社、2007 年)、『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』(風響社、2008 年)、『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上・下2009 年、続 2011 年、岩波書店)、『植民地としてのモンゴル―中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版、2013 年)、『中国とモンゴルのはざまで―ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(岩波書店、2014 年)、『ジェノサイドと文化大革命―内モンゴルの民族問題』(勉誠出版、2014 年)、『チベットに舞う日本刀―モンゴル騎兵の現代史』(文藝春秋、2014 年)、『逆転の大中国史』(文藝春秋、2016 年)、『モンゴル人の民族自決と「対日協力」―いまなお続く中国文化大革命』(集広舎、2016 年)、『「知識青年」の1968 年―中国の辺境と文化大革命』(岩波書店、2018 年)、『最後の馬賊―「帝国」の将軍・李守信』(講談社、2018 年)、主な編著に『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料』1 〜 12(風響社、2009 年〜 2020 年)など多数。

シラユキ | URL | 2020/10/29(木) 12:39 [EDIT]
>マサムネさん
スーホの白い馬って有名ですが日本人の作家さんだつたんですね。恥ずかしながらしりませんでした。

チベットにもモンゴルにも骨は父から血は母から白いものは父から、赤い者は母からという考え方が共通しています。

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