FC2ブログ
白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/12/12(木)   CATEGORY: 未分類
父祖の地徳島で講演
11月の最後の二日間徳島にいった。空路徳島に到着し、四国大学の言語文化研究所で講演を行い、終了後、四国大学の先生たちとの懇親会に参加。翌日は鳥居龍蔵記念館の学芸員さんとの相談のあと、四国大学書道文化ギャラリーで行われている谷内清巌展を参観し、空路東京へ戻った。例によって弾丸ツアー。
79732860_10213218015399107_6727372838124126208_o.jpg

 講演に呼んでくださった太田剛教授は六年前からのおつきあい。
 六年前、突然「岡田鴨里(私の六代前のご先祖)のお墓の拓本をとっていたら、あなたに会いたがっていました。半年以内に墓参に来なさい」というメールがきて、墓地の場所すら知らなかった私に先祖の墓参を促してきた。

 このメールをみて「やべぇ」と思いつつも添付されている心霊写真をみて怖くなり、結局半年後、淡路に飛び先祖の墓に手を合わせた。お墓は荒れ果てていた。太田先生はそのあと、淡路市が管理している先祖の生家につれていって下さった。ぶっちゃけ廃墟であった。市町村は文化財を保護するものだと思っていたのでこれは衝撃だった。

 その後、先祖の墓をまもってくださっている栄福寺さまより得た情報をたぐり、神奈川県立歴史博物館での岡田鴨里資料群をみつけだし、その資料群をOくんをはじめとする院生の力をかりてデジタル化した。その間、鴨里のお墓を守ってくだっている栄福寺のご住職が好意で墓石群を整備してくださり、かつての景観をとりもどして今は地域をみおろす丘の上に整然と並んでいる。いずれ蜂須賀桜を移植して桜の丘にするのだという。
 
残る問題は淡路市が廃墟にしてしまったご先祖の生家。この廃墟の存在を知ってから、私は淡路市の教育長にお願いしたり、地元を選挙区にする自民党議員に直訴したりしたが、彼等は一ミリも動かなかった。今回の旅はこれを何とかするための会合も含んでいた。

 実は、今年の9月5日淡路市の教育長と教育部長が私の研究室に現れ、鴨里の生家の遺構を取り壊すと通達してきた。この数年間私がいろいろ表明してきた意思は全部無視と彼等は決めたのである。さすがに向こうもまずいと思ったのか、「鴨里の命日を教えてください、顕彰活動しますから」というので調べたら、何とその日(9月の5日)だった。いかに鈍い私でもこれは取り壊しをやめろというあの世からのメッセージであることは分かった。ご先祖、絶対、成仏していない。

 行政が一度きめたことを覆すことは難しい。まして東京で一人で反対を申し立てても、お先はまっ暗である。普段の私は勝算のない行動は絶対しないが、この時は祟りが怖くて延髄反応で反対の意を表明した。でもそれは重い荷物をしょって目的地も見えないまま歩かされているような旅の始まりであった。

 しかし、この前にはすでに旅は始まっていて、グラウンドゼロに太田先生がいる。今回太田先生のお招きで四国に行くことが決まった時、とにかく先生に一言、恨み言を言いたかった。しかし、言ってみたら「私のせいだっていうんですよ〜」と奥さんにむかって笑っていってて、ちょっとアレだった。

初日

講演では、太田先生のリクエストにより、半分はご先祖岡田鴨里のお話しをし、残り半分はチベット文化についてお話しした。↓
 
 https://blog.goo.ne.jp/pjota12345/e/4437e7a7bbcb8807f424975958b78b0f

その後、淡路島からきてくださった方たちと個別に意見交換をし、その後、四国大学の文学部の先生方との懇親会にいった。S先生(徳島城博物館に30年間つとめた後に四国大学にこられた言語文化研究所の所長さん)の隣に座った。

S先生「私は博物館につとめていた間、ずっとあなたのご先祖が記した蜂須賀家記を読んでいました(蜂須賀家は徳島藩の藩主の家系)。」

私「神奈川県立歴史博物館に所蔵されている鴨里の資料群の中には、蜂須賀家記の稿本と、これを書くために集めた資料群が含まれているんですけど、ご存じですよね」

S先生「知りませんでした。私は神奈川県立博物館には二人も友達がいるんですよ。私が蜂須賀家の歴史を研究しているのを知っているのに、誰も教えてくれませんでした」

私「先生を友達と思ってないんじゃないんですか。うそうそ、この資料を受け入れた学芸員の方によると博物館には閲覧機能ないから閲覧したい人がきても困るという理由から、資料のあることを公表していなかったんです。それにしても中にいる研究員が知らないというのもひどい話。この資料、博物館が一ミリも動かないから、院生Oくんの力を借りてデジタル化したんですよ。博物館が貸してくれたのは電源だけ。」

S先生「そのデジタルデータ欲しいです」

私「どんどん使ってくださーい。そのためにデジタル化したんです」

二日目

翌日、太田先生は鳥居龍蔵記念館にまで車で送ってくださる。徳島県の博物館・美術館は市内からかなりはなれた文化の森という地域にあり、公共交通機関がほとんどないので助かった(田舎は車社会)。
images.jpeg

鳥居龍蔵は徳島出身の人類学者で日本人の起源を求めて、千島、モンゴル、中国南西部の民族調査を行い、東大助教授までいった。日露戦争後、内モンゴルのハラチン部の王府で日本語の教師も行っており、大隈重信に依頼され現地からモンゴル人留学生を選定して派遣している。そんなこんなで、鳥居龍蔵のモンゴル滞在期の資料がないかをさがしにいったのだが、まだ資料の整理がついていないので、あるかないかも分からない状態だという。
78811143_10213218014999097_1296495848925954048_o.jpg

 しかし、一冊だけモンゴル語の本をだしてこられたので、「あっ、これ数学の本ですよ」というと、えらく感激された。なので、「モンゴル関係で面白いものがでてきたらいつでもご連絡ください」としつこく念を押して記念館を去る。
80048662_10213218015279104_3966376025541050368_o.jpg

 それから、谷口清巌展に向かうが、その途中、私が眉山にいったことがないといったら、太田先生は眉山をまわるルートで徳島市内に向かってくださった。

 その日は快晴で昨日から急に寒くなった結果、紅葉はメリハリのきいた色になって青空を背景に美しい。眉山の頂上からは徳島市内と吉野川と紀伊半島が一望できた。頂上には第二次世界大戦末期、ビルマで命をおとした人々の鎮魂のためにビルマ式仏塔(パゴダ)がたっている。当初はお坊さんが常駐していたが、支える会員の減少により今は徳島仏教会が管理している。

 眉山をおりると、なぜか車が渋滞して動かない。太田先生は「こんな時間にこのあたりが混むなんてへんだなあ」とおっしゃていたが、しばらくして動き出すと、理由が分かった。徳島市内から黒煙があがっている。火事である。東京でもしょっちゅう消防車は出動しているが、大体ボヤのうちにけしとめられ、こんなベタに煙のあがる火事は久しぶりにみた。なので写真にとってツイッターにあげた。
 そして、どこが燃えているんだろうとツイッターを検索するが何もヒットしない。
 しばらくして徳島 火事でまとめサイトがあがったが、私の投稿が一番上・・・。

 徳島、ツイッター人口少なっ!

東京で火事があったら、同時多発的にみなが投稿するから大体どこが火元でどんな被害かすぐわかるのに、私が被害の全容をしったのは翌日の徳島新聞であった。

教訓: ツイッターの速報性はある程度人口が密集していないと機能しない。

 火事の煙を横目に見つつ、書道文化館一階の谷内清巌展につく。谷内清巌は淡路島に生を受け、出家する前の姓は倉内という。高野山真言宗で出家し、19才で谷内家を相続した後、大阪で泊園書院の学頭をつとめるなど秀才ぶりを発揮した後、京都で出世し、空海以来の名刹神護寺の貫首や大覚寺の宗務総長をつとめた。書家としても名高いため、今回彼の書を集めた展覧会が開かれ、同じく淡路の偉人つながりで私が講演に呼ばれたわけ(淡路島は江戸時代は徳島藩)。

 会場には倉内家一門が集結していた。一門の方からの聞き取りによると、若き日の清巌は石濱家の女性と結婚して男児を授かった後離婚しており、たまにその男児が清巌さんにあいに上京していたという。なぜこのことが知られていないのかといえば、後に高僧として知られるようになった清巌さんは出世するまえの俗事は表にださなくなったからではないかとのこと。

 鴨里の曾孫を娶った石濱鐵郎と清巌はほぼ同世代、明治期の石濱家の戸籍を確認してみると、鐵郎には二人の姉がいていずれも離婚歴が記されていたが、不思議なことに両方とも明治33年に出戻っている。そして、破綻した結婚相手の名前は戸籍に記されている限りでは倉内姓ではなかった。何分明治期なのでどこまで戸籍を信用していいか分からないが、一族がそういうのだから、やはり鐵郎の姉のどちらかが清巌の結婚相手だったのだろう。
79111622_10213218015999122_3937366369019887616_o.jpg

 会場で手にした資料をみると、清巌は22才までは淡路島で漢学を学んでおり、23才で大阪にでて泊園書院で学び、27才で再び淡路にもどり教員をはじめ、31才から32才まで京都でまた教員をやり、33才〜37才まで岡田鴨里の生家のすぐ近くの多聞寺の住職をつとめている。30代後半からは京都で出世街道をばく進するので、石濱家の女性と結婚して子供をなしたのはおそらくは石濱家のあった洲本にいた22才以前、あるいは鴨里の生家近くで住職をしていた33才から37才までの間であろう。
 
 というわけで、今回の四国の旅でも再び、百年以上前の過去のご縁が発覚したのであった。太田先生とお会いするたびに百年以上前の人達の交友関係が明らかになるこの不思議さ。東京生まれの東京育ちの私がいつのまにか、淡路島や徳島に足繁く通うようになっているのも不思議な話である。

この六年間、思ってもいない人間関係が拡がり、歴史を継承する意味とか、偉人の顕彰とか、文化財の保護について、いろいろ勉強し考える契機となった。

 いずれ状況が落ち着いたら九月から今にいたるまで、私が巻き込まれてきた、ご先祖生家問題について明かせる範囲内でお話ししたいと思う。
[ TB*0 | CO*0 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ