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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/05/22(水)   CATEGORY: 未分類
出雲で修験!
 5月18日は出雲の山中で山伏の先達に率いられ全長18kmの巡礼道を、若干ワープしたものの、歩いてきた。このハードな行程になぜ東京くんだりから参加したのか、その理由を説明する。

●神仏霊場という奇跡

明治元年に神仏分離令がでるまで、日本の神仏は一体であった。仏が日本に合わせた姿で適宜あらわれたものが日本の神々と考えられたため、お寺が神社を管理していた。しかし、明治元年、神仏分離令により神と仏は切り分けられ、神は明治政府の庇護の下、独立した新しい伝統を創始する一方、寺は幕府の庇護を失い多大なダメージを受けた。中でも被害が大きかったのは神仏を一体のものとして祀っていた修験道であった。修験道はほぼ壊滅した。

 そして現在に至るまで、お寺と神社はお世辞にも仲がよいとは言えない状況にある。しかし、ここ出雲では20の神社と寺が協力して神仏霊場を構成し(サイトは→ここ)、寺と神社を結ぶ巡礼路をつくり、その巡礼路を大峯修験の山伏がひきいて歩く「行脚」を行っている。神話の国出雲であるから、神社は風土記にのっているような由緒があり、寺も松江の藩主からみの名刹が多い。第一番はもちろん出雲大社である。

神仏を一つの霊場として考え、山伏の歩いたであろう古道を、本物の山伏に導かれて歩けば、古式の巡礼を追体験できる。もともと古道オタクで、百観音巡礼も十年かけてやっているし、修験の山も若い頃は結構登山していたので、東京から参加となったわけである。参加を決めたもうひとつの理由は、前々からの知り合いの出雲峯寺の住職快遍師が先達となっているから。万一私が山道から転げ落ちた時も知らない山伏よりは親身になって拾いにきてくれるだろう (迷惑)。

行脚はずっと廃れていたわけだから、復活すれば、考えようによっちゃもっとも新しいトレッキングスタイルである。私は時代の先端をいっている。折りしも5月。 脳内イメージでは、風かおる中、花々の咲く出雲の山を山伏のふく法螺貝の音をききつつ、古い道を歩くのは気持ちいいであろう。

しかし、そんなもんじゃなかったのは以下の通り。
 
 集合場所となるのはゴールの日御碕灯台。車社会の出雲ではゴールに車を置くのが合理的らしい。一般参加者はと見ると思ったより少ない。この日十年に一度のホーランエンヤという神事があること、いままでになくきっつい山道であることが少ない理由だという。

鰐淵寺から山へ

まずはスタート地点の鰐淵寺において正式参拝する。お寺の方に迎えられ、山伏さんたちが本堂前で法螺貝をふき、全員で般若心経を唱える。それから8:07くらいに裏山を登り始める。
鰐淵寺

先頭に立つ山伏さんが、
ざーんき、ざんげ (慙愧・懺悔)、というと

続く人々は「ろっこん、しょーじょう」(六根(眼・耳・鼻・舌・身体・意識)が清浄たれ)と答える。

これを歩きながらずっと続ける。下りの時はみな声は大きくなるが、上りの時は小さくなる。一方、さすが先達の声は上り下りのいかんにかかわらず、ぶれない、みだれない、
スゴイ!

一時間ちょっと歩いて遥堪(ようかん)峠につくと、ここで、山中を通しで歩く山道ルートと最初と最後だけ山道を歩き途中は出雲大社でゆっくりする地道ルートとの2つのグループに分かれる。私は山道ルートを希望したが何と私を除けば男性二人しか一般参加者はいない。ちらっと不安がよぎるが、まあ修験世界にもダイバーシティは必要であろうと、すべての女性を代表する気概で山道ルートに入る。かつては山の神様は女性なので女が山に登ると山が荒れると忌み嫌われたが、私は心はおっさんなのでたぶん山の神様気にしない(実際荒れなかった)。

まず、鈴谷峠にいくまでは何の問題もなし。尾根筋を歩くとシャクナゲは残念ながら終わっているものの、新緑は美しい。何時間歩いてもOKな感じである。

恐怖の弥山登山

とか余裕をこいていると、弥山の頂上手前にきて半端ない急勾配がはじまる。人間の力だけでは登れないためロープがはってあり、それにすがってよじのぼるのだが、最近雨がふらず山内は乾燥しきっており、落ち葉や枯れ木や乾いた土が足を滑らせるため、摩擦係数ゼロ。すべるすべる。木の枝をつかみ、ある時は木の根をつかむという、文字通りはいのぼり、ずりおちる世界。

やっと足場の悪いところは終わったかなとおもいきや、次は岩がそそりたつ。

まんま岩。

そこにロープが下がっている。山伏さんはそこをレンジャー部隊のように登っていく。
ちょっと待て。足は鍛えてあるが、腕は何も鍛えてない。キーボードより重いものをうったこともない。当然のことながら、体をひっぱりあげられず、最後は先達快遍さんのさしだす金剛杖にすがってひっぱりあげられた。
まるで、蜘蛛の糸でひっぱりあげられるカンダタである。芥川龍之介である。

 教訓。修験行脚は腕も鍛えないとつとまらない。あと、軍手と地下足袋も必須。

このありえないレンジャー訓練の後、尾根筋にでて、木が伐採されているため視界がひらけた。マツクイムシにやられた森を伐採して新たな森を再生させる出雲市のプロジェクトが行われているとのこと。もともとの豊かな森に戻せば、山の動物たちが里におりてもこなくなるし、スギ花粉で皆が苦しむこともないだろう。

やがて弥山の頂上につくと、眼下にひろがる出雲平野は文句なく美しい。上がったり降りたりしてきたので、こんな高さまでのぼっていた実感はなかった。山上の祠に山伏さんが、法螺貝と祝詞を奉納。われわれは般若心経を唱えて、もたせていただいたおにぎりを食べてここで休憩。平岡先生からひやかしの着信が何個かはいっている (怒)。
須弥山長城

私「いくらなんでも、ここから先はもう少しマシな道ですよね」

快遍師「ここから猪目峠に向けてダラダラ下りですが、下りも足にくるんですよ。それから登ったり下ったりしますが、あともう少しかと歩き始めてもまだまだで結構きつくて大変でした。」

私の中の何かが「これ以上いってはいけない」とささやく・・・。

私「適当なところで車道におりて、タクシーよんで地道に合流します」そう、私はもうダイバーシティはどうでもよくなっていた。この道はやばすぎる。

快遍師「ケータイが入るようなので、坪背山の登山道に入る直前に車道をよぎるので、そこにバスに迎えにきてもらいましょう」。

私「ありがたきしあわせ」

そこで、弥山の頂上から下り始めたのだが、すべるすべる。ロープをつかんでおりはじめたが、仰向けにすべり、左手を地面につこうとしたらそこに石。肘をしたたかにうつ。一瞬折れたかと思ったが、関節が動くので「大丈夫です。折れてません」と叫ぶ。

みかねた快邉師、金剛杖のはしっこをつかむようにいう。これが不思議。先達と歩幅があうせいか、転ばなくなった。上りになっても息が切れないので、六根清浄が唱えられる。不思議だ。これは山伏の力が金剛杖を通じて私に入ってきているに違いない。

かくして、無事に車道におりたつ。修験の神秘。

登山口にでると、ちょうどバスがついたところで、地道のスタッフが山道の山伏さんとともに登山路の確認をはじめる。全体に予定が遅れているといっているようだが、私のせいではない(ビリじゃないもん)。とにかく道がすべるのが原因。

一般参加者のお二人のうち年配の方が「大山修験よりも、大峯修験よりも、きつい」とか言っている。

快遍師「大峯はたかだか四キロですから」

三代さん(ウォーキング協会の元事務局長。地道の参加者を案内されていて、私に金剛杖を貸してくださった)「このルートはアルプス登る人の訓練に使われているんですよ」

ここで私は迷うことなくリタイヤをきめ、快遍さんたちが坪背山の登山道に入っていくのを「心は師と一緒です。いってらっしゃーい」と手を振っておみおくり。

出雲歴史博物館で一生分の勾玉を見る

さて、出雲大社につくと、地道の方たちに一時間遅れることをつげて、その間出雲歴史博物館で行われている「古墳文化の珠玉」という特別展を見に行く。昨日空港についた時盛大に宣伝されていたので、見に行きたいと思っていたので嬉しい。
こふんぶんか

私がころんで傷ついた肘を気にしていると参加者の山ガールのお二人が、バンドエイドをはってくださる。出雲の人はアホな東京もんにもやさしい。この特別展は今度東京にいくらしく、その間こちらは二〜三ヶ月休館するとのこと。東京でみるより絶対こっちの方が空いてるし並ばなくていいので嬉しい。

古墳時代、玉は権威の象徴であり、副葬品として出土した勾玉のネックレスや腕輪は現代にも通用する美しさ。原石が磨かれて瑪瑙や翡翠の勾玉などにかわっていく過程は「金剛石もみがかずば、玉の光はそわざらん」という昭憲皇太后の歌を思い出させる (誰も知らんわ)。

展示によると、江戸時代の国学や明治維新以後の神道ブームにより、玉は古代の装飾品の象徴とみなさるようになり、お札に記された想像上の神功皇后や天照大神の胸を、菩薩の装飾品に勾玉くっつけたような折衷飾りが覆うことになる。極めて面白い。

現代中国の仏教政策

この博物館で、地道スタッフの一人伯耆大山寺のX師とお話しする。

X師によると、今度、中国仏教界に招待されて普陀山に行くとのこと。向こうの方は真言密教の勉強がしたいそうで、彼はあちらの仏教学院で真言宗の講義をするとのこと。前に招待されて中国にいった時は、日本のお寺を正確に真似て伽藍を作っていたので驚いたとのこと。

私はここでピンときた。13世紀にモンゴル帝国が元朝をたてチベット仏教に帰依して以後、中国ではチベット仏教が皇室の仏教として力をもち、漢地の仏教はどんどん衰退していった。しかし、辛亥革命以後、漢人ナショナリズムはボーボー燃え盛っている。中国のアキレス腱であるダライラマがチベット仏教の最高権威者であることもあり、中国政府はいま、仏教の脱チベット化に邁進している。

 彼らのマイノリティ嫌いは漢服復興にも現れている。チャイナドレスとして知られるあの服装は実は満州人が漢地を征服してたてた清朝の貴族の着衣であり、辮髪も満州人のヘアスタイルである。今、漢人はヤバンな満州人の服装は中国じゃない! 漢人の伝統衣装、漢服をリバイバルしようと息巻く。しかし、いかんせん資料がない。早稲田大学の卒業式の時もそれとおぼしき服装をしてくる中国人留学生もいるのだが、靴がスポーツシューズであったり、デザインも迷走していたりで、なんかうまくいってない感じ。

しかし、仏教なら日本に中国から直輸入された伽藍や教義をまもる真言宗・天台宗・禅宗諸派がある。これを手本とすれば具体的な漢仏教の姿を再現できる。これをどう評価するかであるが、日本仏教が維持できなくなった僧伽や教義が、今後は中国大陸に戻り、復活していくのなら仏教全体としては望ましいことであろう。しかし、漢人ナショナリズムと中国共産党の政策が原動力である以上、あまり明るい未来は想像できない。

 外来の影響力が全くない純粋な文化なんてどこの国にも存在しない。文化は伝播し、習合していくものだから。他者の影響をうけない純粋なものを追求するのは、ナルシストとかナショナリストとかの病んだ心である。

とか、沈思黙考しているうちに一時間たったので、坪背山の登山口にバスで移動して山から降りてくる山道グループの一行を待つ。しかし、でてこない。地道スタッフの山伏さんが法螺貝で呼びかけるが応えはない。ケータイは国道にいる我々が、そもそも圏外である(爆笑)。

私はバスの中でハトムギ茶のみながら昼寝。しばらくすると快遍師一行が登山道を降りてきたので私もバスを降りてお迎えする。全員、よれよれの土ホコリまみれ。聞けば四人全員がそれぞれ転んで、一人は五メートルほど滑落したという。行かなくてよかったあ。

ここから地道ルートと山道ルートのメンバーが合流して高尾山の中腹をまわってゴールの日御碕神社に向かう。鹿よけの柵をあけて山中の柵にそってあるく。しばらくして山中の下り坂がはじまると、親指の爪が靴の中で前に圧迫されて痛い。疲れよりも足の親指が痛いのがつらい。ここはチベット人がヒマラヤをこえてインドに亡命した苦しみを思い耐える


●市街地でロッコンショージョー

しばらくおりると宇龍地区の市街地にでた。

市街地を、ザーンキ、ザンゲ、ロッコン、ショージョーと叫びながら歩くと、家の中から「なんだなんだ」とお年寄りがでてくる。行脚の山伏が錫杖の音をひびかせながら、この通りをロッコンショージョーするのは江戸時代以来であろう。失われた生活音がいっときここに蘇っているのである。私は江戸時代を今体感している(自分でも何いってんのか分からない)。
市街地

 海にでると目の前に権現島という美しい島が現れた。三代さんによるとここでは和布刈神事が行われるのだという。写真をとっているとまた取り残され、走って一行を追う。しばらく山中の舗装道路を歩くとかつて日御碕神社の親寺であった神宮寺があり、いよいよ日御碕神社の門がみえてくる。
権現島jpg


●そして、ゴールへ

何と神仏霊場の20社寺の宮司さん、住職さん達総出で迎えてくれている。拍手で「行脚おつかれさま」と声もかけていただく。この時、一番うしろで動画をとっていたのだが、あとでみたら画面が下に向きがちでワロタ。
拝殿前で山伏四人が法螺貝を奉納し、みなで般若心経を唱え、昇殿して正式参拝をする。
しぬほど歩き回ったあとなので正座がつらい。胡座をかきたい(こらこら)。
日御碕神社

宮司さんはスサノオノミコトの息子、天葺根命(あめのふきぬのみこと)のご子孫。天葺根命はスサノオノミコトがヤマタノオロチを倒して手に入れたアメノムラクモノツルギを天照大神に献上した人物である。その方にお祓いをしていただき、代表して快遍師が神前に榊をけんじる。見ればかかとに大きな穴が開いているが、山道の厳しさが感じられたと綺麗にまとめておく。

 快遍師が榊を献ずると、今度は日御碕の側の代表が榊を献じて、お神酒を頂戴し、お札などを拝領して、神仏霊場の合同祭事が完了。

 この神社は天照大神とスサノオの尊の二柱の神をお祭りしており、別名日沈宮。三代さんに導かれて海にでると、目の前に経島(ふみじま)という島があり、御神体はもともとこの山の上に祀られていたのだという。今はうみねこの島になっている。最後に大量の鳥を見ることができたのは嬉しかった。この日はほぼ満月。行脚・巡礼で若干でも六根が清浄になったような気がする。

 昔の人はみな歩いていた。しかし、車や電車が発達すると、かつての道はより大きな道に潰され、使われなくなった道は草や木に埋もれた。山中にある修験の道はとくに明治以後衰退したため、おそらくは一部は登山道とも重なっているであろうが、その実態はようとして知れない。土地の学芸員さんが修験の古道を現在、探索中というので、新しい道が発見されたらトライしてみたい。
おみやげjpg

●後日談

 翌日、筋肉痛で死んでいると、快遍師から「昨日は能海寛(1900年にチベットに侵入試みて消息不明になった方)の誕生日だったんですよ。彼の故郷の浜田では能海寛ウォークがあったようです」と新聞記事を送ってくださった。私は霊感ゼロだが、こういう時は不思議を感じる。また三代さんから河口慧海にパーリ語を教えた出雲出身の釋興然の出身寺、奥出雲の岩屋寺の現状を教えていただく。現在明治期の日本とチベットの関わりを調べているので非常に参考になった。

今丁度百二十年前の日本とチベットの関係を調べているが、行脚の功徳で上記のように資料集めがはかどりそうな予感がある。もうちょっと楽なルートならまたいってみたい。
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