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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/05/01(水)   CATEGORY: 未分類
平成最後の大灌頂
平成最後の3日間はロサン・テレ先生が主催する大灌頂(最初の二日間はグヒヤサマージャ尊・三日目はチッタマニ・ターラー尊本尊とする)を清風学園で受けてきた。

 灌頂とは一言でいえば、本尊と一体となった導師(阿闍梨)によってその本尊の修行をはじめる許可を頂戴する儀礼。日本でも中世期には新天皇の即位に際して輪王灌頂(仏教によって人々を導く宇宙帝王となる儀式)が行われていたように、真言宗・天台宗などでも普通に行われている儀礼である。

今回の灌頂会は実は長い長い前振りがある。清風学園の校長先生の宏一先生は、高野山大学の院生時代からグヒヤサマージャ尊の研究と行を続けていて、その総決算として2016年にダライラマ14世をお迎えしてグヒヤサマージャ尊の灌頂会をやろうとした。灌頂の際につくるマンダラも仏画ではなく、正式に砂マンダラを用いるため、インドのギュメ密教大学から19人のお坊さんを招聘して前もって砂曼荼羅の作成をして頂いていた。
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 「砂マンダラの最初の砂をおく儀式が明日あるよ」と前日に聞かされ、取材のために夜行バスにのったのもいまは懐かしい思い出(遠い眼)。しかし、それから間もなく、宏一先生から着信があり「今、駅にいる」というと、「帰宅してから電話ください」というので電話すると、何とダライラマの体調不良により、灌頂の本尊がグヒヤサマージャ尊からチッタマニ・ターラー尊になったという。

 しらん人にとっては「どっちだってええだろ」だろうが、30年にもおよぶ宏一先生のグヒヤサマージャに対する情熱を知る私は「げっ」となった。

私「だってせっかく作った砂マンダラどうすんですか。本尊グヒヤサマージャでしょ。」

宏一先生「しょうがないです。チッタマニは灌頂を受けている仏様なので助かりました。あと十日でチッタマニ尊のテクストもつくらなければ」と現実を健気に受け入れようとしているのが却って痛々しかった。

 今回の灌頂ではその時、作ったままになっていた砂曼荼羅を用い、ダライラマの代理としてセラ大僧院の元管長ロサン・テレ先生が阿闍梨をつとめられ無事成満したものである。宏一先生は平成元年にこの仏さまの研究と行をはじめたので、平成の終わりとともに心残りがはたされるのもなにかの因縁であろう。今回の灌頂は外に向けては非公開で、学園関係者と宏一先生の勉強会関係者が集まったもので、それでも以下の写真にみるように結構な数になっていた。

さて私がどこいるかわかるかな?

縮小記念撮影jpg

 ロサン・テレ先生は当日の朝は何時間も前から道場に入り、グヒヤサマージャ尊の経典を通し読みし、真言を唱えた。それは綺麗な状態で我々に授戒するためであるという。

ロサン・テレ先生「私の状態は万全であるから、あとはあなたたちの問題である。供養をしたり、祈願をしたりは他の宗教にもある。あなたがたは仏教を志すのであるから、仕事がうまくいくように、幸せになりますようにとただ祈願するだけではなく、仏教をよく理解しなさい。」

思えば、この世には素晴らしい哲学があり、素晴らしい人もたくさんいる。しかし、それを理解する能力がなければないに等しい。どんなに素晴らしい法があって、それを素晴らしい人が説いていても、受ける側に理解する力や実践する能力がなければ何も変わらない。

先生は「何か尊いものにすがって棚ぼたを願うのではなく、素晴らしい思想や人から学んで自分が変わりなさい」というのである。


ロサン・テレ先生が私達に授けようとした菩薩戒は「自分が仏教を志すのは、自分のためではなく、他者を救う力をえるためである」と誓う他者救済の誓いである。「誰が他人のために自分を犠牲にするか」という人にはちょっと考えてもらいたい。

人はみな幸せになりたいと思っているが、自分の幸せだけを求めて、楽しいと思う事だけをして身勝手に生きれば、周りから人がさっていき、やがては仕事も人生もまわらなくなる。一方、他者のことを思って行動する人は、結果としては人から信頼されサポートされ、仕事も人生も実り多いものになる。このことをかつてダライラマは「かしこい利己心」と表現された。

 他者を思って行動すれば自分のことはほっておいても何とかなる。

仏教では、人が幸せを求めても結局は不幸になっていくのは我執が原因であり、この我執がなくなれば幸福になれるととく。我執と煩悩が残したものが全部なくなったものが仏の境地(菩提)であり、その仏の境地に少しずつでも近付こうとする日々のシミレーションが密教の行である。とにかく毎日続けることで少しずつ人格を矯正するのである。
 
 たとえは悪いが我々が我執から解放されるための密教の日々の行は、アルコール依存症や薬物依存症の治療にも通じるものがある。

 依存症の治療では依存によって壊れた脳の機能を回復させるため、とにかく一日でも長く「しらふ」(sobriety)を続けることが重視される。毎日毎日飲まない日を積み重ねると、何年後かに依存をしていた時にはわからなかった正常な意識に自分が戻っていることに気づく。

 そして、最終的には同じように依存に苦しむ人を今度はスポンサーになって救う側になることで治療は完遂する。脳の機能が正常になってくると自分がいた場所が見えてきて、その場所で現在苦しんでいる人を今度は救おうという視点が生まれくるため可能となるのである。他者を想うことによって依存=我執を乗り越えるのである。

 菩薩戒は仏教の勉強を正しい動機をもって行うという誓いであり、灌頂は密教の行を開始する許可の儀礼である。依存症の治療にくらべるのも失礼な話だが、もう「飲まない」と同病の人の前で誓うのも、「もう我執を捨てる」と仏さま(阿闍梨)の前で誓うのも同じ構造であろう。

 チベットでは灌頂も菩薩戒も何度受けてもいいものだとされる。その理屈は、初めて受けた人はこれから戒律を守ると誓うことができ、かつて戒律を受けたけど破ってしまった人はまたここで新たに戒を再スタートでき、菩薩戒をすでに受けてずっと守っている人はさらにその気持を強くすることができるからだとのこと。

 良いことを始めることは素晴らしいし、やめてもまた続ければいい、というあかんやつを見捨てないふところの広さは大乗仏教の一番美しい部分だと個人的には思う。

 三日目のチッタマニ尊の灌頂の際、チッタマニの祠の左右にYさんがお花をお供えされた。灌頂が終わったあと、Yさんが私の下にきて「右側のお花は先生のお母さんの命日が昨日だと聞いたので、お母様に。左側は今までなくなっていった患者さんたちのために」と言われて感無量。母がなくなってから長い月日がたち、母の日という概念も消えて久しいが、その花もりはカーネーションがポイント・ポイントに使われていた。
おそなえ

 思えば、私の平成は、母親が死に、悲しみに沈んでいたら愛鳥と出会い、楽しい生活が始まり、博士号をとり専門書三冊だし研究は一応順調で、しかして2017年に愛鳥に死なれ、悲しんでいたらまた別の体で戻ってきてくれたというまあ、総じていえば幸せと総括できるかな。

 

 
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COMMENT

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じゅんこ@京都 | URL | 2019/05/06(月) 12:10 [EDIT]
チタマニだけ受けたものです。ほんとうに良い灌頂でした、
平岡先生は良い先生につかれているのだと心が温かくなりました。
レポートのおかげで、グヒヤサマージャの様子も少しわかりました、みなさんでお写真も撮られたのですね。
はからずも平成最後の日でしたね。。いつもありがとうございます。

てづか | URL | 2019/08/07(水) 15:18 [EDIT]
平岡先生のお話に繰り返し出てくる話題のひとつに、
「魔は魔の顔をしては、やって来ない」
というものがあります(実例は、繰り返しだったり、べつの例になったりします)。

この2月から中国ハルビンの大学に雇ってもらえたのは、自分の生活設計にとっては慶事でしたが、種智院での講義や校長室と泉涌寺での勉強会、先生からご紹介のある各種の催しには全く参加できなくなりました。

勉強会や催しの案内を頂いたり、このエントリーのような、たいへんうらやましい体験記をお見かけするたびに、冒頭の、先生の「フレーズ」が脳裏をよぎるのです。

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