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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/02/13(水)   CATEGORY: 未分類
高松・徳島弾丸ツアー
初日 高松で菊池寛

二月例によって一泊二日の弾丸ツアーで四国行ってきました。初日は菊池寛記念館で石濱金作の史料を探し、二日目は徳島県立文書館で館長さんより江戸期の庄屋文書の解説を伺い、かつ岡田鴨里文書の扱いについてアドバイスを戴く予定である。
 
 一泊二日なのでできるだけ早く移動するために徳島空港往復で予約したのだが、出発日が雪の予報となり前日に「キャンセル料タダにしてあげるから、考え直すなら今よ」という案内がANAからきた。時間きっちきちで動くので空港で何時間も足止めされたら何もできないので、意を決してキャンセルし新幹線をとる。しかし、岡山までいく「のぞみ」は便がすくなく予約は一杯で、グリーン車しかあいてない。ホテルも取り直すがただのビジネスホテルの素泊まりで15000円。贅沢いってらんないのでこれで手を打つ。

 岡山発高松行きの快速は瀬戸大橋を渡る。知らなかったが、マリンライナーは特急券はいらないが、パノラマ仕様になっている一号車だけは座席指定券がいる。乗ってからわかったので、普通車両だった。発車サイン音は「瀬戸の花嫁」(笑)。源平合戦の瀬戸内の海は超曇天であったが、飛行機では見られない風情は楽しめた。
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 高松につくと直ぐに菊池寛記念館にいき、学芸員のKさんのご案内を伺いながら展示をみせていただく。やろうと思っていた史料集めは事前にKさんがやってくださっていたので、恐縮した。ありがとうございます。
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 菊池寛の家は儒者の家で江戸時代には菊池五山という有名な漢学者もだした家であり、最近その江戸期の文書の整理が終わって太田剛先生が講演され、カタログもできあがっている。
 高松藩と阿波藩はお隣同志で、大正期に菊池寛が文藝春秋を創刊した際に石濱金作も同人となり、初期の頃から寄稿しているため、大正末期の文壇の雰囲気がわかる展示は面白かった。

菊池寛といえば芥川賞・直木賞を創設したことで有名だが、直木賞のもとになったのは直木三十五。

「三十五ってこれまんまさんじゅうごって読むんですね。もちろんペンネームですよね」
Kさん「そうです。30才の時に直木三十と名乗り、年をとるこどに直木三十一、三十二・・・とふやしていったのですが、ある時菊池寛がいい加減フラフラせずに名前を固定しなさいというので、三十五でとまりました」
「直木さんは永遠の三十五歳なんですね。」

また、菊池寛の作品が全部おいてあるコーナーをみると『満鉄外史』とか、四国らしく『十住心論 弘法大師とその宗教』とか、今まで知らなかったけど読んでみたくなる作品が結構ある。

 史料探索の時間がういたので、昔私の授業をとっててくれたMくんが小豆島から会いに来てくれていたので、彼の案内で高松市内にある菊池寛の史蹟をめぐる。

 生家に面した通りは「菊池寛通り」と名付けられ、中央公園には彼の文学碑と立像がある。彼の通っていた小学校や中学は名前が変わったり、別の公共施設になったりしているが、生家をはじめとして高松市の中心部に固まっていたことがわかる。
 
 中でも印象に残ったのは中央公園近くの道バタにある、「父帰る」の一シーンを銅像にしたもの。
 短編なので青空文庫でネットですぐ読めます。読んでからみると像がいっそう味わい深いです。

 あらすじは一言で言えば、借金こさえて子供の学費まで盗んで女と逐電したクズ父親が、事業にも失敗して年を取ってにっちもさっちもいかなくなって、妻と子供たちがくらしている家にズーズーしく戻ってくるという身も蓋もない話だ。

 長男はわずか八歳で父親代わりに弟や妹の世話をすることとなり、苦学して公務員になっている。弟も勉強ができて、妹も働き者で美人なのでいろいろなところから嫁入りの口がかかっているが、母親は「人柄が大事」と自分が結婚相手を大失敗したから慎重になっている。

 そんなところにクズな父親が戻ってくるのである。
こんな顔して。父

当然長男は「おまえぇぇぇぇ~どのツラ下げてもどってこられるんじゃ」(意訳)と怒る。
クズ父「生みの親になんてこというんだ」
長兄「私は母親が築港の海に親子心中しようと飛び込んだ時に死んでいます。」(意訳)
 とまあ、こんな感じに修羅場である。妹と母は兄ちゃんの気持ちはわかるし、さりとて父親もしょぼくれまくっていてかわいそうになってくるしで、どうしていいかわかんないので二人で泣いている。

 とうとう父親は空気を読んでスゴスゴでていくことになるが、それを弟はとめようとしている。
家族6

こんな修羅場を市内の真ん中につくっちゃうなんて、高松の人は人生勉強が物心つく前からできるわね。
 
 それからMくんに見送られつつ徳島行きの特急に見事にのりそこね、高速バスで徳島に向かう。東京でも郊外と郊外を結ぶ線は不便なように、高松・徳島間も不便。高松から岡山、徳島から神戸とかは結構便があるのに。

●二日目 徳島文書館

 翌日は徳島県立文書館の館長先生から江戸期の庄屋坂上家文書の解説を益習の集いの方々とともに伺う。この文書は益習の集いの会員のご家庭から発見されたものである。
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 文書館は元県庁だった建物で、去年長春でみた1930年代のスタイルで建てられている。館長さんにこの建物30年代ですよね、と伺ったらやはり1930年のものだった。最初の徳島県庁は徳島藩の家老屋敷(賀島さんち)を再利用していたそうで、洋風に立て直すために積み立てていたお金が第一次世界大戦でふっとんで、やっと1930年にたったのだという。元々は今の県庁のある場所にたっていたが、老朽化したため、玄関部分を中心に1990年にみかん畑の中につくられたこの文化の森に移築されたのだそうな。
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 館長さん「県庁全部移築してくれてたら、収蔵品の置き場に困ることもなかったのですが」
 
 最初は館長室に通されたのだが、淡路島タマネギとかかいたダンボール箱がいくつも台車の上にのっていて、狭い。行き来につまづいたので

私「これちょっどかしていいですか」とか言ってたら、

始まってみたらその箱の中身が坂上文書だった(笑)。
まだ正式に寄贈していないから、会員の方の家からもってきた時の箱をそのままつかっていたのだ。

 館長さん「昔は文書を整理する時は帳面類と書簡類をまずわけるとかしていましたが、現在は現地秩序は保存ということになっています。たとえ乱雑につっこまれているようでもご先祖が何らかの意図があってそのような順番でいれた可能性もあるからです。」、

 寄贈者
「そんなこと知らないですから、どんどんつめていきました」

 一同「・・・・・・」

 そして、館長先生が箱ごとに文書をだして解説してくださる。江戸期の文書なにぶん崩し字が読めないので、明治期の淡路新報関連の文書を写真にとりまくる。

 別の会員の方は江戸期の南海地震の研究をしているとのことで、それ関係の史料を中心に写真をとっていらっしゃる。

 徳島は実は太平洋岸に向いているので南海トラフ地震があると津波をかぶるのだそうな。徳島には吉野川という大河も流れており、これが暴れ川で収穫前の田んぼがよくやられたのだそう。その点同じ阿波藩でも淡路島は水害がないので、徳島本藩よりもゆたかだったんだそうな。
 
 あと、面白かったのはやはり勤王関係の資料。淡路島の庄屋クラスが勤王の志士の応援を独自にしていたので、京都にいったら長州は桂小五郎に話せばいいとかいう書き付けもあった。三条実美が徳島城下にいた形跡も裏がとれる史料があったという。幕末といえば六代前のご先祖がかいた草莽私記はいつかまじめに読んで見たいが、私の本筋キャリアにはかすりもしないので悩ましいところである。

 そのあと四国大学の太田剛先生を書道展の会場に訪問。昔は書道学科は東の大東文化大学、西の四国大学と二つしかなく、今も四国大学の書道学科には書道を究めようと全国から腕に覚えのある学生があつまってくるとのことで、沖縄の万国津梁の鐘の銘文を書いている沖縄の学生さんやらの作品が並んで見応えがある。

 そのあとは、徳島藩主蜂須賀家のお墓をみに興源寺へいく。太田先生が「入り口が、わかりにくい」とおっしゃっていたけど、ほっそい入り口を入ると、広大な藩主墓所がひろがっている。益習の集いのみなさんは「[淡路島にある]稲田のお殿様のお墓に比べると大きい。やはり藩主さまだねえ」と感心している。
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 興源寺の宗派は臨済宗妙心寺派であり、江戸の蜂須賀家の菩提寺上野にある海禅寺と同じである(私の曾祖父が改葬されるまでここに葬られていた)。江戸後期は墓は儒教形式になり、万年山の斜面に建てられるようになったという。時間がないのでここまでは無理。

 そのあと、県庁内にあるという徳島慶應義塾大学の碑文を探す。実は文書館の館長さんは慶應ボーイで、この碑文の由来に詳しく、もとたっていた場所にローソンができて、ローソンの看板の一部みたいなってこれはひどいということで、県庁に移設したとのこと。

 県庁のはす向かいには確かにローソンがあるけど、もしあのローソンの前にたっていたなら、確かにきっついなと思われる環境であった。なぜなら、碑文がこんな感じの現代芸術なのである。ローソンのロゴの前にあったら、環境彫刻にしかみえん。
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 最近の調査で金作のパパ鐵郎は慶應義塾大学に明治22年に入学していて卒業後のある時点で時事新報社に入社している。まだ福沢諭吉が在世の折である。早稲田をでた私にとってついこの間まで慶應は未知の世界であったが、最近はこうして慶應大学の歴史をたどっているのだから、人生は面白い。ちなみに鐵郎はその後、大隈重信が創刊した報知新聞(後の読売新聞)に移籍している。

そうこうするうちに、日も暮れてきたので、益習の集いの皆さまとは県庁で解散した。

 徳島から神戸まで通しで陸路で旅をするのは思えばこれが初めて。新大阪から新幹線にのったが、徳島藩の藩主は参勤交代の際には徳島から大阪まで船でいってそこから東海道を徒歩で動いたので、県庁前から大阪経由で江戸に戻るこの経路はほぼ一緒。

 昭和も大正も明治も江戸も遠くなり、さらに平成まで終わろうとしている今、かつてはなまなましい記憶であった事件も、客観的な観察対象となっていく。私もかつてなく一族の歴史を、落ち着かない気持ちではなく、穏やかな心で見つめていることに気付く。
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