教育は世界を変える(カンボジア紀行前編)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
三が日は大晦日にBSプレミアムで流していたホビット三部作の録画していたのをみて、そのあと下町ロケットをみたら無為に終わった。大晦日から新年にかけてヒット作をまとめて流すのはやめてほしい。そこで、こちらも対抗してネタ一挙公開、去年九月のカンボジア旅行(ただの観光ではない)を前後編で初公開。
●プノンペン直行便初就航
まずなぜ旅だったのか。昨年八月、新書『ダライ・ラマと転生』の入校をし疲れ果てていた私は、とにかくパァーッとした気分転換を求めており、同僚のK先生から「九月一日にANAのプノンペン直行便が初就航するので大人旅はいかがですか」とのお誘いがあった瞬間にそれにのっていた。

9月2日 我々の機体がプノンペン上空にさしかかると、CAさんも乗客と一緒に眼下に広がる光景を見下ろした。初就航二日目なのでCAさんにとっても初めて見る光景なのである。プノンペンにつくと、現地テレビ局のキャスターが、われわれの乗ってきた機体が視界に入る場所で中継をしている。プノンペンでは直行便の就航は大きなニュースとして扱われているらしい。K先生は「〔観光地でもない〕プノンペンにはそんなに需要がないから、すぐにもっと小さい機体になり、いずれ不定期になりますよ」と冷めたコメント。
空港のゲートをでるとまずは牛丼の吉野屋が迎えてくれる。三年前にはなかったよなあ、これ。とりあえずついた日はホテル周辺のお寺や街並みをひやかす。本屋さんには偉人伝コーナーがあり、表紙の色彩感覚が素晴らしいのでダライ・ラマ伝を買う。しかし、カンボジア人の考える偉人のラインナップはようわからん。釈迦、孔子、オバマ大統領、ガンジーとかの聖人路線は分かるが、スターリン、毛沢東、そして、ソニーの盛田昭夫が入っているのがよく分からん。この筋からいえば今はトランプとか入ってそう。

到着した日はホテル近くのKhmer Surinという宮廷風のレストランでテラスにすわり、木琴演奏を聞きながら食事をする。このレストランはカンボジアの六本木と言われる地域にあり、かつては隠れ家風の場所であったのに、周辺に巨大マンションがたつなど再開発の波に洗われたため、このレストランも売りに出されしょっちゅう持ち主が変わっているとのこと。N先生によると何年か前までプノンペンには多くの韓国人がおり、カンボジア人が韓国へ労働力として送られていたが、最近は韓国の景気が悪いのか、韓国人の数がめっきり減ったという。韓国人はカンボジア人を見下し、きつい使い方をするため、カンボジア人には嫌われているとのこと(現地の人に聞いた情報)。
K先生とN先生は食べたいクメール料理のリストをもっており、まだ食べていないものを「未履修」、それが美味しいと「合格」、想像したものと異なると「再履」などと大学の先生らしい評をしながら、ひたすら料理に舌鼓をうつ。
プノンペンの見所はカンボジアを支援するために世界中から集まったあらゆるNGOのショーウインドーがあること。たとえばイタリア人の経営する蚊帳やゴミ袋をリサイクルして作った小物やバッグの店、また、売り上げが路上生活者の支援にあてられる店、路上生活の子供達などをスタッフにしたホテルやカフェが数かぎりなくある。
そのようなショップの一つ「フレンド」には、「路上で物乞いをしている子供たちを救おうと思うのなら、お金をあげないでください。お金をだすなら、彼らの親を支援して子供たちを路上生活からぬけさせるプログラムをもつNGOにしてください。ホテルやタクシーやカフェを選ぶ時にもNGOのマークがついているものを遣って」という注意書きが置かれている。
●クメール・ルージュ虐殺史跡
9月3日〜4日 朝一で王宮前広場を経由して国立博物館に向かう。三年前には意識が低かったので気付かなかったが、クメール帝国の最盛期であるジャヤバルマン七世の時代は大乗仏教が流行しており、刻まれる石像もほとんどが大乗仏教の仏である、世自在王仏、般若波羅蜜仏母であった(現在カンボジアは上座部仏教の国)。あさっていくことになっているバンテアイ・チュマール遺跡の一部も展示されている。確かに観音様の姿が彫られている。
博物館をでた後は、クメール・ルージュ虐殺のあとをたどり、トゥールスレン収容所やキリング・フィールドをまわる(詳しくは以下の三エントリーをどうぞ)。
2013年3月2日「キリングフィールド」
2013年3月20日(水) 「カンボジアのポルポト史跡」
2013年3月26日(火)カンボジアとチベットに通底するインド文化
1975年の4月17日にクメール・ルージュ(共産党)がプノンペンに入城してから、四年後にベトナムと反クメール・ルージュの連合軍がカンボジアの政治を取り戻すまで、カンボジアでは虐殺・餓死を含めて少なく見積もって100万人が死んでおり、この二つの史跡は虐殺博物館となっている。トゥールスレン収容所の内部には、この収容所をしきっていた幹部の写真が展示されている。驚いたことにこれらがほとんど十代の子供たちで、年長者でも22歳であった。あどけない殺人者たちは紅衛兵と同じファッションに身を包んでいる。そして泣けたのが、そこに収監され殺されたアメリカ人の若者の話である。彼はたまたまヨットでカンボジアを訪れた時クメール・ルージュがプノンペンを制圧したため、スパイとして捕まりここに送られた。彼は何をいってもスパイと決めつけるクメール・ルージュを前にして死を覚悟し、両親や兄弟へ愛を伝えようと思った。そこで彼はクメール・ルージュの質問に対し全てジョークとユーモアで返すことにした。
「お前にスパイ活動を命じた上官の名前は」といわれたら
「カーネル・サンダースだ」と答え、秘書の名前を聞かれれば、自分の母親の名前を答えた。こうしておけば自分の死後家族が自分の痕跡をたどった時、間接的にであれ「愛している」という思いが伝わる。彼の弟は後にこの供述書を手に入れ、トゥールスレンの所長を裁く法廷で証人に立った。彼のような理不尽な死に方をした人が100万人もいるのである。
クメール・ルージュの虐殺史跡をめぐったあと、5日に訪れるバンテアイ・チュマル史跡の50万分の1の地図を買うために中央市場に向かう。市場の建物は社会主義時代にたてられたため、巨大ながらんどう建築であるが、資本主義となった今は貴金属から生きた虫や魚までが売られるカオスな空間である。地図屋さんはちょっと見にはただの土産物であり観光地図しか置いてないように見えるが、K先生が来意を告げると奥の方から精密な地図を次々と取り出してきた。他の店もそれぞれ奥の方にオタクなものを隠しているのであろう。
●サンボー・プレイクック遺跡
9月5日 国道六号線を北西に向かいK先生が発掘に関わったサンボー・プレイクック遺蹟を経由して、バンテアイ・チュマル遺跡に向かう。両遺跡とも世界遺産であり、クメール朝五大遠隔地遺跡に含まれる。
K先生とN先生は「川の作る地形」を研究対象にしていらっしゃるので、メコン川が見えるポイントでは車をおりて川を見に行く。その間、私は背中にただPolicesと書いたTシャツを来た警察官と記念撮影をする。これと同じTシャツ作れば誰でも警察官になれるよな。
K先生は遺跡では崩れた角石の上を歩くので「運動靴をもってきなさい」と告知して下さっていたのだが、メールをきちんと読まない私は靴をもっていかなかった。そこで昼食に停車したコンポンソムの町で運動靴を探すが、こんな田舎町では正規品は買えず、粗悪なコピー商品を六ドルで買う。その結果はかなり最悪であり、普段Asicsの運動靴を愛用し外反母趾一つない私の足は、このコピー商品をほんの一・五日履いただけで、大変なことに。左足の親指が痛い痛いと思っていたら、一月くらいたって爪の色が何ともいえない死んだ色になり、三ヶ月たった数日前ばかっとはがれたのである。その下に新しい爪は生えていたものの、長さは足りないし、新しい爪も古い爪に圧迫されてへんな段がついていた。遺跡をめぐる人はちゃんとした靴を日本から持って行きましょう。
昼ご飯のあと七世紀のヒンドゥー教のサンボー・プレイクック遺蹟につく。この遺跡は『隨書』では伊奢那城の名で記されている。遺跡にたつカンバンには、発掘調査に資金援助をした中島平和財団、住友財団、早稲田大学などのマークが描かれている。K先生が初めて1999年にこの遺跡を見た時には、多くの遺構が地中に埋まっていた。土に覆われた遺跡は一見すると蟻塚か木の根っこのようであり、それらを一つ一つ確認してから発掘するのである。K先生は発掘された遺構の間をGPSをもって歩き回り遺跡の分布圖を作り、さらに空撮を判読して、3D化して遺跡がどのような地形の上に立てられているのかを調べられた。今私たちの踏んでいる敷石も、階段の下にある蓮の花びらの形をした飾りもかつては地表になかったものである。

しかし、発掘は破壊の始まりでもある。遺構の上に根を張った熱帯の樹木の根は成長とともに遺跡を崩す。が、石積みを支えている側面もあるため、遺跡にからまった木を切るのではなく、枝をおとして遺構が倒れないようにバランスをとる、崩れそうな石積みについては針金でしばる、屋根の草をまめにぬくなどのメンテが必要となる。このような細やかな修復技術は日本が最高であるという。
●教育は世界を変える
サンボープレイクック遺跡の近くにはAtu村があり、この村の子供たちが通う中学校にAtu中学校がある。このAtu=アツとはこの地で1993年になくなった中田厚仁(あつひと)さん(1968-93)の名前の一部である。厚仁さんはクメール・ルージュ(共産党)が追い出され、1993年にカンボジアで初の民主選挙が行われた時、選挙の監視を行うために国際連合のボランティアとして現地入りし、選挙をつぶそうとする勢力に見せしめに殺された。このカンボジアの選挙支援においては日本の自衛隊がはじめて海外にでたことでも知られる。
中田さんのご遺体は現在Atu中学校がたつこの場所にうち捨てられていた。中田さんの父親はポルポト派の無知・無教養がカンボジアの混乱や息子の死を招いたと考え、この小中学校を寄贈したのである。学校は午前のみとのことで子供の姿はなかったが、図書館の札が下がった建物に「この世界を変えるのは教育を受けた子供たちだ」(world change starts with educated children)という言葉が掲げられていた。正門脇には花に囲まれた厚仁さんのお墓がある。

中田さんの父親の言葉が意味を持つのは、あれだけの混乱と死をもたらしたポルポトが現在もカンボジアでは「愛国者」であることを理由に否定されていないことである。そもそもポルポトの幹部を裁く法廷はぐだぐだである。ある人はこういった。
私の父親は私が二歳の時に殺されました。独身の叔父がベトナムに逃げて生き延びただけで、親の代はみな殺されました。同級生もお父さんがいない人ばかりです。〔ポルポトの統治下で〕母親が私の生まれた日を特定できたのは、共同食堂にカレンダーがはってあったからです。でもこのカレンダーは逆さに貼られていました。それは「逆さですよ」と言った人を見分けて殺すためです。母は殺されないように文字が読めないふりをしていました。
でも私はポル・ポトは悪くないと思います。彼は愛国者で、ベトナムのスパイをあぶりだそうとして結果としてやり過ぎてしまっただけなんです。フンセンは1979年ベトナム軍とともにカンボジアに攻め込みポルポトを失脚させましたが、その時ベトナムは20万の兵士を送り込みカンボジアの領地をたくさん奪い取りました。今、そこにはベトナム風の地名がつけられ、カンボジア語は禁止されています。タイもカンボジアから領土を奪いました。フンセンのせいでカンボジアは多くの領土を奪われました。ベトナムは50年100年計画でカンボジアの土地を奪い領土を広げ、過去のチャンパ朝の地を取り戻そうとしています。
このままフンセン政権が続けばラオスとおなじくベトナムにやられっぱなしです。フン・センは選挙の前にカネをばらまくくせに、国民の教育には力をいれず、自分たちの子弟はみなヨーロッパで教育を受けさせています。カンボジアが貧しいのは人々に教育がないことと、灌漑を行わないからです。ポルポトは用水路をたくさん作りましたが、フンセンはポルポト時代の用水路を嫌って使いませんでした。アメリカは人権とかうるさいことを言いますが、中国は無条件で600億ドルくれるので好きです。
つまり、「ポルポトは父やたくさんのカンボジア人を殺したけど、ベトナムと戦ったから素晴らしい、人権に注文をつけずにお金をくれる中国は素晴らしい」というご意見なのである。そもそもベトナムに攻め込まれた原因はポルポトの極端な原始共産制の導入とベトナムに対する挑発であるし、ポルポトの作った用水路は使い物にならなかったし、人権がどうでもいいというのなら、明日身に覚えのない罪で逮捕され拷問されて処刑されてもそれを受け入れるのかとか、ツッコミどころは満載な発言であるが、彼らは大まじめにそういうのである。
彼らがポルポトを否定できないのは、日本人の知識人が毛沢東を否定できないことにも似ており、格差などの現状への不満がポルポトや毛沢東の美化に向かわせていると思われる。しかし、ポルポトや毛沢東が現実に行ったことは格差の解消どころの騒ぎではなかったわけで、それを直視せずにただ美化する人々の姿を目の当たりにすると、不満が極端に達した時、またあの悲劇が繰り返されるのではないかと心配になる。
(後篇に続く)
三が日は大晦日にBSプレミアムで流していたホビット三部作の録画していたのをみて、そのあと下町ロケットをみたら無為に終わった。大晦日から新年にかけてヒット作をまとめて流すのはやめてほしい。そこで、こちらも対抗してネタ一挙公開、去年九月のカンボジア旅行(ただの観光ではない)を前後編で初公開。
●プノンペン直行便初就航
まずなぜ旅だったのか。昨年八月、新書『ダライ・ラマと転生』の入校をし疲れ果てていた私は、とにかくパァーッとした気分転換を求めており、同僚のK先生から「九月一日にANAのプノンペン直行便が初就航するので大人旅はいかがですか」とのお誘いがあった瞬間にそれにのっていた。

9月2日 我々の機体がプノンペン上空にさしかかると、CAさんも乗客と一緒に眼下に広がる光景を見下ろした。初就航二日目なのでCAさんにとっても初めて見る光景なのである。プノンペンにつくと、現地テレビ局のキャスターが、われわれの乗ってきた機体が視界に入る場所で中継をしている。プノンペンでは直行便の就航は大きなニュースとして扱われているらしい。K先生は「〔観光地でもない〕プノンペンにはそんなに需要がないから、すぐにもっと小さい機体になり、いずれ不定期になりますよ」と冷めたコメント。
空港のゲートをでるとまずは牛丼の吉野屋が迎えてくれる。三年前にはなかったよなあ、これ。とりあえずついた日はホテル周辺のお寺や街並みをひやかす。本屋さんには偉人伝コーナーがあり、表紙の色彩感覚が素晴らしいのでダライ・ラマ伝を買う。しかし、カンボジア人の考える偉人のラインナップはようわからん。釈迦、孔子、オバマ大統領、ガンジーとかの聖人路線は分かるが、スターリン、毛沢東、そして、ソニーの盛田昭夫が入っているのがよく分からん。この筋からいえば今はトランプとか入ってそう。

到着した日はホテル近くのKhmer Surinという宮廷風のレストランでテラスにすわり、木琴演奏を聞きながら食事をする。このレストランはカンボジアの六本木と言われる地域にあり、かつては隠れ家風の場所であったのに、周辺に巨大マンションがたつなど再開発の波に洗われたため、このレストランも売りに出されしょっちゅう持ち主が変わっているとのこと。N先生によると何年か前までプノンペンには多くの韓国人がおり、カンボジア人が韓国へ労働力として送られていたが、最近は韓国の景気が悪いのか、韓国人の数がめっきり減ったという。韓国人はカンボジア人を見下し、きつい使い方をするため、カンボジア人には嫌われているとのこと(現地の人に聞いた情報)。
K先生とN先生は食べたいクメール料理のリストをもっており、まだ食べていないものを「未履修」、それが美味しいと「合格」、想像したものと異なると「再履」などと大学の先生らしい評をしながら、ひたすら料理に舌鼓をうつ。
プノンペンの見所はカンボジアを支援するために世界中から集まったあらゆるNGOのショーウインドーがあること。たとえばイタリア人の経営する蚊帳やゴミ袋をリサイクルして作った小物やバッグの店、また、売り上げが路上生活者の支援にあてられる店、路上生活の子供達などをスタッフにしたホテルやカフェが数かぎりなくある。
そのようなショップの一つ「フレンド」には、「路上で物乞いをしている子供たちを救おうと思うのなら、お金をあげないでください。お金をだすなら、彼らの親を支援して子供たちを路上生活からぬけさせるプログラムをもつNGOにしてください。ホテルやタクシーやカフェを選ぶ時にもNGOのマークがついているものを遣って」という注意書きが置かれている。
●クメール・ルージュ虐殺史跡
9月3日〜4日 朝一で王宮前広場を経由して国立博物館に向かう。三年前には意識が低かったので気付かなかったが、クメール帝国の最盛期であるジャヤバルマン七世の時代は大乗仏教が流行しており、刻まれる石像もほとんどが大乗仏教の仏である、世自在王仏、般若波羅蜜仏母であった(現在カンボジアは上座部仏教の国)。あさっていくことになっているバンテアイ・チュマール遺跡の一部も展示されている。確かに観音様の姿が彫られている。
博物館をでた後は、クメール・ルージュ虐殺のあとをたどり、トゥールスレン収容所やキリング・フィールドをまわる(詳しくは以下の三エントリーをどうぞ)。
2013年3月2日「キリングフィールド」
2013年3月20日(水) 「カンボジアのポルポト史跡」
2013年3月26日(火)カンボジアとチベットに通底するインド文化
1975年の4月17日にクメール・ルージュ(共産党)がプノンペンに入城してから、四年後にベトナムと反クメール・ルージュの連合軍がカンボジアの政治を取り戻すまで、カンボジアでは虐殺・餓死を含めて少なく見積もって100万人が死んでおり、この二つの史跡は虐殺博物館となっている。トゥールスレン収容所の内部には、この収容所をしきっていた幹部の写真が展示されている。驚いたことにこれらがほとんど十代の子供たちで、年長者でも22歳であった。あどけない殺人者たちは紅衛兵と同じファッションに身を包んでいる。そして泣けたのが、そこに収監され殺されたアメリカ人の若者の話である。彼はたまたまヨットでカンボジアを訪れた時クメール・ルージュがプノンペンを制圧したため、スパイとして捕まりここに送られた。彼は何をいってもスパイと決めつけるクメール・ルージュを前にして死を覚悟し、両親や兄弟へ愛を伝えようと思った。そこで彼はクメール・ルージュの質問に対し全てジョークとユーモアで返すことにした。
「お前にスパイ活動を命じた上官の名前は」といわれたら
「カーネル・サンダースだ」と答え、秘書の名前を聞かれれば、自分の母親の名前を答えた。こうしておけば自分の死後家族が自分の痕跡をたどった時、間接的にであれ「愛している」という思いが伝わる。彼の弟は後にこの供述書を手に入れ、トゥールスレンの所長を裁く法廷で証人に立った。彼のような理不尽な死に方をした人が100万人もいるのである。
クメール・ルージュの虐殺史跡をめぐったあと、5日に訪れるバンテアイ・チュマル史跡の50万分の1の地図を買うために中央市場に向かう。市場の建物は社会主義時代にたてられたため、巨大ながらんどう建築であるが、資本主義となった今は貴金属から生きた虫や魚までが売られるカオスな空間である。地図屋さんはちょっと見にはただの土産物であり観光地図しか置いてないように見えるが、K先生が来意を告げると奥の方から精密な地図を次々と取り出してきた。他の店もそれぞれ奥の方にオタクなものを隠しているのであろう。
●サンボー・プレイクック遺跡
9月5日 国道六号線を北西に向かいK先生が発掘に関わったサンボー・プレイクック遺蹟を経由して、バンテアイ・チュマル遺跡に向かう。両遺跡とも世界遺産であり、クメール朝五大遠隔地遺跡に含まれる。
K先生とN先生は「川の作る地形」を研究対象にしていらっしゃるので、メコン川が見えるポイントでは車をおりて川を見に行く。その間、私は背中にただPolicesと書いたTシャツを来た警察官と記念撮影をする。これと同じTシャツ作れば誰でも警察官になれるよな。
K先生は遺跡では崩れた角石の上を歩くので「運動靴をもってきなさい」と告知して下さっていたのだが、メールをきちんと読まない私は靴をもっていかなかった。そこで昼食に停車したコンポンソムの町で運動靴を探すが、こんな田舎町では正規品は買えず、粗悪なコピー商品を六ドルで買う。その結果はかなり最悪であり、普段Asicsの運動靴を愛用し外反母趾一つない私の足は、このコピー商品をほんの一・五日履いただけで、大変なことに。左足の親指が痛い痛いと思っていたら、一月くらいたって爪の色が何ともいえない死んだ色になり、三ヶ月たった数日前ばかっとはがれたのである。その下に新しい爪は生えていたものの、長さは足りないし、新しい爪も古い爪に圧迫されてへんな段がついていた。遺跡をめぐる人はちゃんとした靴を日本から持って行きましょう。
昼ご飯のあと七世紀のヒンドゥー教のサンボー・プレイクック遺蹟につく。この遺跡は『隨書』では伊奢那城の名で記されている。遺跡にたつカンバンには、発掘調査に資金援助をした中島平和財団、住友財団、早稲田大学などのマークが描かれている。K先生が初めて1999年にこの遺跡を見た時には、多くの遺構が地中に埋まっていた。土に覆われた遺跡は一見すると蟻塚か木の根っこのようであり、それらを一つ一つ確認してから発掘するのである。K先生は発掘された遺構の間をGPSをもって歩き回り遺跡の分布圖を作り、さらに空撮を判読して、3D化して遺跡がどのような地形の上に立てられているのかを調べられた。今私たちの踏んでいる敷石も、階段の下にある蓮の花びらの形をした飾りもかつては地表になかったものである。

しかし、発掘は破壊の始まりでもある。遺構の上に根を張った熱帯の樹木の根は成長とともに遺跡を崩す。が、石積みを支えている側面もあるため、遺跡にからまった木を切るのではなく、枝をおとして遺構が倒れないようにバランスをとる、崩れそうな石積みについては針金でしばる、屋根の草をまめにぬくなどのメンテが必要となる。このような細やかな修復技術は日本が最高であるという。
●教育は世界を変える
サンボープレイクック遺跡の近くにはAtu村があり、この村の子供たちが通う中学校にAtu中学校がある。このAtu=アツとはこの地で1993年になくなった中田厚仁(あつひと)さん(1968-93)の名前の一部である。厚仁さんはクメール・ルージュ(共産党)が追い出され、1993年にカンボジアで初の民主選挙が行われた時、選挙の監視を行うために国際連合のボランティアとして現地入りし、選挙をつぶそうとする勢力に見せしめに殺された。このカンボジアの選挙支援においては日本の自衛隊がはじめて海外にでたことでも知られる。
中田さんのご遺体は現在Atu中学校がたつこの場所にうち捨てられていた。中田さんの父親はポルポト派の無知・無教養がカンボジアの混乱や息子の死を招いたと考え、この小中学校を寄贈したのである。学校は午前のみとのことで子供の姿はなかったが、図書館の札が下がった建物に「この世界を変えるのは教育を受けた子供たちだ」(world change starts with educated children)という言葉が掲げられていた。正門脇には花に囲まれた厚仁さんのお墓がある。

中田さんの父親の言葉が意味を持つのは、あれだけの混乱と死をもたらしたポルポトが現在もカンボジアでは「愛国者」であることを理由に否定されていないことである。そもそもポルポトの幹部を裁く法廷はぐだぐだである。ある人はこういった。
私の父親は私が二歳の時に殺されました。独身の叔父がベトナムに逃げて生き延びただけで、親の代はみな殺されました。同級生もお父さんがいない人ばかりです。〔ポルポトの統治下で〕母親が私の生まれた日を特定できたのは、共同食堂にカレンダーがはってあったからです。でもこのカレンダーは逆さに貼られていました。それは「逆さですよ」と言った人を見分けて殺すためです。母は殺されないように文字が読めないふりをしていました。
でも私はポル・ポトは悪くないと思います。彼は愛国者で、ベトナムのスパイをあぶりだそうとして結果としてやり過ぎてしまっただけなんです。フンセンは1979年ベトナム軍とともにカンボジアに攻め込みポルポトを失脚させましたが、その時ベトナムは20万の兵士を送り込みカンボジアの領地をたくさん奪い取りました。今、そこにはベトナム風の地名がつけられ、カンボジア語は禁止されています。タイもカンボジアから領土を奪いました。フンセンのせいでカンボジアは多くの領土を奪われました。ベトナムは50年100年計画でカンボジアの土地を奪い領土を広げ、過去のチャンパ朝の地を取り戻そうとしています。
このままフンセン政権が続けばラオスとおなじくベトナムにやられっぱなしです。フン・センは選挙の前にカネをばらまくくせに、国民の教育には力をいれず、自分たちの子弟はみなヨーロッパで教育を受けさせています。カンボジアが貧しいのは人々に教育がないことと、灌漑を行わないからです。ポルポトは用水路をたくさん作りましたが、フンセンはポルポト時代の用水路を嫌って使いませんでした。アメリカは人権とかうるさいことを言いますが、中国は無条件で600億ドルくれるので好きです。
つまり、「ポルポトは父やたくさんのカンボジア人を殺したけど、ベトナムと戦ったから素晴らしい、人権に注文をつけずにお金をくれる中国は素晴らしい」というご意見なのである。そもそもベトナムに攻め込まれた原因はポルポトの極端な原始共産制の導入とベトナムに対する挑発であるし、ポルポトの作った用水路は使い物にならなかったし、人権がどうでもいいというのなら、明日身に覚えのない罪で逮捕され拷問されて処刑されてもそれを受け入れるのかとか、ツッコミどころは満載な発言であるが、彼らは大まじめにそういうのである。
彼らがポルポトを否定できないのは、日本人の知識人が毛沢東を否定できないことにも似ており、格差などの現状への不満がポルポトや毛沢東の美化に向かわせていると思われる。しかし、ポルポトや毛沢東が現実に行ったことは格差の解消どころの騒ぎではなかったわけで、それを直視せずにただ美化する人々の姿を目の当たりにすると、不満が極端に達した時、またあの悲劇が繰り返されるのではないかと心配になる。
(後篇に続く)
COMMENT
● 寒中お見舞い
マサムネ | URL | 2017/01/08(日) 13:04 [EDIT]
マサムネ | URL | 2017/01/08(日) 13:04 [EDIT]
ポルポト礼賛と教育、考えさせられますね。
チベットも独立達成と同時に、経済開発を行った共産党礼賛とかならないことを願います。
運動靴は大事です。爪の内出血は発症と同時に安全ピン等で小穴を明けて鮮血を排出しないと、固まって膨張することで新爪を阻害します。
恵比寿駅の側にあるモンベルとかで、カジュアルかつ雨天向きな街歩き靴を購入されることをオススメします。最近の靴は夏向きに呼吸する靴なんてのもありますし。
チベットも独立達成と同時に、経済開発を行った共産党礼賛とかならないことを願います。
運動靴は大事です。爪の内出血は発症と同時に安全ピン等で小穴を明けて鮮血を排出しないと、固まって膨張することで新爪を阻害します。
恵比寿駅の側にあるモンベルとかで、カジュアルかつ雨天向きな街歩き靴を購入されることをオススメします。最近の靴は夏向きに呼吸する靴なんてのもありますし。
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