国際チベット学会会長が来日
国際チベット学会の会長ツェリンシャキャ教授が一橋大学のプログラムで来日された。
ツェリン・シャキャ教授はラサに生まれ、文化大革命の際に母に連れられ8才でインドに亡命。14歳で奨学金を得てロンドン大学のアジア・フリカ学院 (SOAS)で学び、現在はカナダのブリティッシュ・コロンビア大学教授で、チベット現代史を研究されている。
一橋大学でのシャキャ教授講演の概要は以下のようである(以下青色の部分はO川さんにまとめて頂いたものです)。
シャキャ教授は学部向けにはチベットについての概説的な紹介を行い、院生向けにはもうちょっと深く掘り下げた議論でチベット問題についてお話された。すなはち「近年の欧米の民族理論では民族問題というのを権力の分配の不平等の問題だとして理解しようとする動きがあるが、これには同意できない、民族問題というのはそのような道具的なものではなくて(権力を得るための口実とかではなくて)、もっと本源的な『こここそが我々の土地なのだ』という「祖国」(homeland)意識に根ざしているものなのだ。」と話されたとのこと。
この対立(民族というのは道具的な存在か原初的な存在か)というのは古典的な民族論の議論で、しかもこの対立の立て方自体が最近では疑問視されているのでまあ目新しい話ではないですが、自身チベット人亡命者としての立場と実感から民族とは道具的・機会主義的なものではなく本源的なものなのだ、という主張を一橋でもされたのだと思います。
そして、一橋のプログラムの拘束のとけた23日に、関東近郊で集まれるチベット学者がシャキャ教授を囲む会を行うことになった。突然決まったことで、金曜日の夜という日取りであったにもかかわらず13人のチベットロジストが集まった。私ははじめ日本の学会事情を歴史学・言語学・人類学・仏教学などとお話し、しかるべき後先生のご研究やチベット学の未来について伺おうと思っていたが、全体で情報を共有するような空間がつくれない席状況であったため、最後はグダグダの飲み会になった(笑)。
私が一番年長だったことと、シャキャ教授が歴史学者であったことから、自分が日本のチベット歴史学の状況を述べることで口火を切った。
日本人は漢語、チベット語、モンゴル語、満洲語が比較的簡単にマスターできて、これらの言葉で書かれた資料を用いることから、歴史研究のレベルは高いと思う、とのべ、〔シャキャ教授が今ダライラマ13世の伝記を書いていることから〕、現在NYのコロンビア大学にいるKくんが先週ハーバート大学で出張講演した際のレジュメをさしあげる。これは1913年の独立イヤーにダライラマ13世が、イギリス、ロシア、日本などに送ったチベット書簡について扱ったもの。
それから、私の最近の論文(日本語 笑)をさしあげる。これは、1909年を境にダライラマ13世の自称称号が変化したこと、1913年を境にダライラマ13世が新年の祝詞で中国政府と皇帝に対する祝福をやめたことなどを指摘している(ここでダウンロードできますよ~)。
そして、現在京都の龍谷大学ミュージアムで行われている「チベットの仏教世界 もう一つの大谷探検隊」のカタログをさしあげる。青木文教所蔵のダライラマ13世の大正天皇へのチベ語書簡の草稿が含まれているので、先生の研究に役立つであろう。

ちなみに、この展覧会はお勧め(会期は6月8日まで)。1913年~23年までの間に多田等観・青木文教がチベットから将来したさまざまな文物を展示しており、非常に内容の濃い、テーマ性のはっきりした展覧会。カタログも増刷しないというので、1913年から1923年までのダライラマ13世治下のラサのつまったこのカタログ、関係各位は是非手に入れておくことをおすすめする(展覧会の詳細はここクリック。
ここでFさんが「先生、このまま続くと乾杯ができません。このあたりで乾杯の音頭をシャキャ教授にとってもらいましょう」というので、先生がたちあがり
シャキャ教授「日本はチベットの歴史学は非常にすすんだ研究があると聞いています。日本語のできる学生に英語に翻訳させるようにしていきたいと思います。」
ここでO川さん「何か言わされているような」と笑うけど、私はそんなことないと思うわ。
それから、星先生が御著書の『ティメークンデンを探して』やチベット文学の情報誌『セルニャ』を手渡されて歓談。星先生によるとシャキャ教授は「チベットにおいて現代文学の発生が遅れたのは、長く木版印刷は宗教的な文献に限られていて、世俗的な物語などは広く読まれることがなかったから。あの英雄叙事詩ケサルですら、19世紀のジュ・ミパムの頃に活字化された」、また「先生は異なる言語を話す人々をつなぐ役割を強く意識していらっしゃる」とのことであった。
「複数の言語をつなぐ役割」ついては
ネットの時代になった今、チベット人の民衆の言論ネット空間は大きく分けて3種類に分かれている。最初は漢語の読み書き能力は高いがチベット文語は怪しい「国内チベット人の漢語ネット空間」、二つ目は、漢語ができずチベット語レベルも低く英語で議論する「亡命チベット人の知識人などの英語ネット空間」。三つ目はチベット語で議論ができる「国内チベット人たちのチベット語ネット空間」。いずれにおいても重要な議論や論点を含んでいるが、言語の壁があるため、相互を参照していない。なのでシャキャ教授は友人や学生などの協力の下に、ある時期かなり精力的に相互翻訳をしていたとのこと。
言われてみれば2008年のチベット蜂起の年、ツェリンシャキャ教授が漢語ニュースを英語でチベットロジストにも分かるようにメーリスで流していたことを思い出す。
また、シャキャ教授は今年九月にでるエリオット・スパーリングに捧げる記念論集に一文をよせることになっているという。
その論文のテーマは20世紀前半のナクチュ (nag chu) を事例としたチベットにおける bandit(盗賊、匪賊、野盗)。これもまたエリック・ホブズボウムの古典的な「義賊の社会史」あたりを下敷きにした話のようで、つまり一般に権力者やその他の地方の人たちからbanditと呼ばれていた人たちが本当にいわゆる我々が普通に考えるような意味での「強盗集団」「野盗」なのかどうかはわからない、という議論です。彼らを悪党とするのはあくまでも管理する側(国家)やよそ者のチベット人からみた話であって、実際にはチベットの遊牧民にとって盗みは悪だが強盗は善というように、それはあくまでも生存の一形態にすぎないし、一見強盗としか見えない行為も実はモノやカネを奪いためではなくて、過去に別の集団から攻撃を受けた、盗みを受けたことへの報復行動として理解した方がいい、つまりbanditryとされてきた行為は盗むためではなくて名誉のための行為であったり生業であったりと理解できるということを、banditry に様々な類型を設定しつつ(ここらへんは経済人類学者サーリンズの互酬性の類型論の議論を参考にしているようですが)、ナクチュの事例で論じたことがポイントだと思います。
そしてそこから、チベット社会において復讐の連鎖というのは本当に長く続くもので、一端人と人が喧嘩をするとそれは個人レベルでは終わらず家族、部族を巻き込み、結局百年以上も集団同士が争ったりしつづけることになることも珍しくないんだよなあという話になったのでした。そういう復讐の連鎖というチベットの習慣がまあ、強盗と呼ばれるような人たちがあちこちにいるかのように見える世界を作っているということです。でもそれは我々が日常的に想像するような強盗団みたいなものではないんだ、ということですね。
この他、先生の話された心に残るエピソード三題。
(1) シャキャ教授は2004?年くらいからチベットに入れなくなったが、今年になって突然四川省の政府から「チベット専門家カンゼ州ツアー」とかいう官製カム旅行に誘われて戸惑っている。
(2) 2008年以降、先生のPCは何者かにハッキング攻撃にさらされつづけており、中国のしわざだと思われる。
(3) チベット人社会というのはとても不安定なもので、先生の家族の場合も、カナダとアメリカとインドと中国とヨーロッパあちこちにと散らばっており、30年たった今も全員で集まることはできていない。これでは心も社会も安定しない。これは大きな問題である。
最後のお話は、テンジンチューゲルとか、他のチベットの方々もよく口にされることで、彼らに通底するディアスポラの悲劇である。
ツェリンシャキャ先生は25日には在日チベット人を対象とした座談会も行われました。この席では、「日本の研究の水準が高いので日本で学ぶ意義があること」「チベット人の知識人はこれまでは、過去の業績を批判せず引き継ぐことが仕事だったが、西洋の知識人は体制や既存の考え方を批判するのが仕事である。あなたたちは批判的精神をもちなさい」という、お話をされました。
この批判的精神とは、論理や理性をもって客観的・批判的に物事を分析し、答えをだすことを指します。事実が自分にとって(主観的に)都合の悪い時でもそれを否定しないことが重要となります。先生はそれについての一例として、トロントでチベット人同士の乱闘が起きた時にカナダのニュースはそれを伝えたものの、VOA(ボイスオブアメリカ)はそれを伝えなかったことをあげ、チベット人のイメージを損なわないために報道を控えたVOAも批判すべきと話されました。
※ この会に参加したチベット人が会の終了後、「日本の研究者は自己愛のみでチベットを愛していない」「日本でチベット仏教は無理」などの趣旨のツイートをチベット語や日本語双方でしておりますが、言うまでもなくこれはこのチベット人個人の見解で、ツェリンシャキャ先生の講演内容とは一切関係ありません。誤解を未然に防ぐためにここに注記しておきます。
最後に在日チベット人と歓談する先生の写真を先生のFBより転載。

ツェリン・シャキャ教授はラサに生まれ、文化大革命の際に母に連れられ8才でインドに亡命。14歳で奨学金を得てロンドン大学のアジア・フリカ学院 (SOAS)で学び、現在はカナダのブリティッシュ・コロンビア大学教授で、チベット現代史を研究されている。
一橋大学でのシャキャ教授講演の概要は以下のようである(以下青色の部分はO川さんにまとめて頂いたものです)。
シャキャ教授は学部向けにはチベットについての概説的な紹介を行い、院生向けにはもうちょっと深く掘り下げた議論でチベット問題についてお話された。すなはち「近年の欧米の民族理論では民族問題というのを権力の分配の不平等の問題だとして理解しようとする動きがあるが、これには同意できない、民族問題というのはそのような道具的なものではなくて(権力を得るための口実とかではなくて)、もっと本源的な『こここそが我々の土地なのだ』という「祖国」(homeland)意識に根ざしているものなのだ。」と話されたとのこと。
この対立(民族というのは道具的な存在か原初的な存在か)というのは古典的な民族論の議論で、しかもこの対立の立て方自体が最近では疑問視されているのでまあ目新しい話ではないですが、自身チベット人亡命者としての立場と実感から民族とは道具的・機会主義的なものではなく本源的なものなのだ、という主張を一橋でもされたのだと思います。
そして、一橋のプログラムの拘束のとけた23日に、関東近郊で集まれるチベット学者がシャキャ教授を囲む会を行うことになった。突然決まったことで、金曜日の夜という日取りであったにもかかわらず13人のチベットロジストが集まった。私ははじめ日本の学会事情を歴史学・言語学・人類学・仏教学などとお話し、しかるべき後先生のご研究やチベット学の未来について伺おうと思っていたが、全体で情報を共有するような空間がつくれない席状況であったため、最後はグダグダの飲み会になった(笑)。
私が一番年長だったことと、シャキャ教授が歴史学者であったことから、自分が日本のチベット歴史学の状況を述べることで口火を切った。
日本人は漢語、チベット語、モンゴル語、満洲語が比較的簡単にマスターできて、これらの言葉で書かれた資料を用いることから、歴史研究のレベルは高いと思う、とのべ、〔シャキャ教授が今ダライラマ13世の伝記を書いていることから〕、現在NYのコロンビア大学にいるKくんが先週ハーバート大学で出張講演した際のレジュメをさしあげる。これは1913年の独立イヤーにダライラマ13世が、イギリス、ロシア、日本などに送ったチベット書簡について扱ったもの。
それから、私の最近の論文(日本語 笑)をさしあげる。これは、1909年を境にダライラマ13世の自称称号が変化したこと、1913年を境にダライラマ13世が新年の祝詞で中国政府と皇帝に対する祝福をやめたことなどを指摘している(ここでダウンロードできますよ~)。
そして、現在京都の龍谷大学ミュージアムで行われている「チベットの仏教世界 もう一つの大谷探検隊」のカタログをさしあげる。青木文教所蔵のダライラマ13世の大正天皇へのチベ語書簡の草稿が含まれているので、先生の研究に役立つであろう。

ちなみに、この展覧会はお勧め(会期は6月8日まで)。1913年~23年までの間に多田等観・青木文教がチベットから将来したさまざまな文物を展示しており、非常に内容の濃い、テーマ性のはっきりした展覧会。カタログも増刷しないというので、1913年から1923年までのダライラマ13世治下のラサのつまったこのカタログ、関係各位は是非手に入れておくことをおすすめする(展覧会の詳細はここクリック。
ここでFさんが「先生、このまま続くと乾杯ができません。このあたりで乾杯の音頭をシャキャ教授にとってもらいましょう」というので、先生がたちあがり
シャキャ教授「日本はチベットの歴史学は非常にすすんだ研究があると聞いています。日本語のできる学生に英語に翻訳させるようにしていきたいと思います。」
ここでO川さん「何か言わされているような」と笑うけど、私はそんなことないと思うわ。
それから、星先生が御著書の『ティメークンデンを探して』やチベット文学の情報誌『セルニャ』を手渡されて歓談。星先生によるとシャキャ教授は「チベットにおいて現代文学の発生が遅れたのは、長く木版印刷は宗教的な文献に限られていて、世俗的な物語などは広く読まれることがなかったから。あの英雄叙事詩ケサルですら、19世紀のジュ・ミパムの頃に活字化された」、また「先生は異なる言語を話す人々をつなぐ役割を強く意識していらっしゃる」とのことであった。
「複数の言語をつなぐ役割」ついては
ネットの時代になった今、チベット人の民衆の言論ネット空間は大きく分けて3種類に分かれている。最初は漢語の読み書き能力は高いがチベット文語は怪しい「国内チベット人の漢語ネット空間」、二つ目は、漢語ができずチベット語レベルも低く英語で議論する「亡命チベット人の知識人などの英語ネット空間」。三つ目はチベット語で議論ができる「国内チベット人たちのチベット語ネット空間」。いずれにおいても重要な議論や論点を含んでいるが、言語の壁があるため、相互を参照していない。なのでシャキャ教授は友人や学生などの協力の下に、ある時期かなり精力的に相互翻訳をしていたとのこと。
言われてみれば2008年のチベット蜂起の年、ツェリンシャキャ教授が漢語ニュースを英語でチベットロジストにも分かるようにメーリスで流していたことを思い出す。
また、シャキャ教授は今年九月にでるエリオット・スパーリングに捧げる記念論集に一文をよせることになっているという。
その論文のテーマは20世紀前半のナクチュ (nag chu) を事例としたチベットにおける bandit(盗賊、匪賊、野盗)。これもまたエリック・ホブズボウムの古典的な「義賊の社会史」あたりを下敷きにした話のようで、つまり一般に権力者やその他の地方の人たちからbanditと呼ばれていた人たちが本当にいわゆる我々が普通に考えるような意味での「強盗集団」「野盗」なのかどうかはわからない、という議論です。彼らを悪党とするのはあくまでも管理する側(国家)やよそ者のチベット人からみた話であって、実際にはチベットの遊牧民にとって盗みは悪だが強盗は善というように、それはあくまでも生存の一形態にすぎないし、一見強盗としか見えない行為も実はモノやカネを奪いためではなくて、過去に別の集団から攻撃を受けた、盗みを受けたことへの報復行動として理解した方がいい、つまりbanditryとされてきた行為は盗むためではなくて名誉のための行為であったり生業であったりと理解できるということを、banditry に様々な類型を設定しつつ(ここらへんは経済人類学者サーリンズの互酬性の類型論の議論を参考にしているようですが)、ナクチュの事例で論じたことがポイントだと思います。
そしてそこから、チベット社会において復讐の連鎖というのは本当に長く続くもので、一端人と人が喧嘩をするとそれは個人レベルでは終わらず家族、部族を巻き込み、結局百年以上も集団同士が争ったりしつづけることになることも珍しくないんだよなあという話になったのでした。そういう復讐の連鎖というチベットの習慣がまあ、強盗と呼ばれるような人たちがあちこちにいるかのように見える世界を作っているということです。でもそれは我々が日常的に想像するような強盗団みたいなものではないんだ、ということですね。
この他、先生の話された心に残るエピソード三題。
(1) シャキャ教授は2004?年くらいからチベットに入れなくなったが、今年になって突然四川省の政府から「チベット専門家カンゼ州ツアー」とかいう官製カム旅行に誘われて戸惑っている。
(2) 2008年以降、先生のPCは何者かにハッキング攻撃にさらされつづけており、中国のしわざだと思われる。
(3) チベット人社会というのはとても不安定なもので、先生の家族の場合も、カナダとアメリカとインドと中国とヨーロッパあちこちにと散らばっており、30年たった今も全員で集まることはできていない。これでは心も社会も安定しない。これは大きな問題である。
最後のお話は、テンジンチューゲルとか、他のチベットの方々もよく口にされることで、彼らに通底するディアスポラの悲劇である。
ツェリンシャキャ先生は25日には在日チベット人を対象とした座談会も行われました。この席では、「日本の研究の水準が高いので日本で学ぶ意義があること」「チベット人の知識人はこれまでは、過去の業績を批判せず引き継ぐことが仕事だったが、西洋の知識人は体制や既存の考え方を批判するのが仕事である。あなたたちは批判的精神をもちなさい」という、お話をされました。
この批判的精神とは、論理や理性をもって客観的・批判的に物事を分析し、答えをだすことを指します。事実が自分にとって(主観的に)都合の悪い時でもそれを否定しないことが重要となります。先生はそれについての一例として、トロントでチベット人同士の乱闘が起きた時にカナダのニュースはそれを伝えたものの、VOA(ボイスオブアメリカ)はそれを伝えなかったことをあげ、チベット人のイメージを損なわないために報道を控えたVOAも批判すべきと話されました。
※ この会に参加したチベット人が会の終了後、「日本の研究者は自己愛のみでチベットを愛していない」「日本でチベット仏教は無理」などの趣旨のツイートをチベット語や日本語双方でしておりますが、言うまでもなくこれはこのチベット人個人の見解で、ツェリンシャキャ先生の講演内容とは一切関係ありません。誤解を未然に防ぐためにここに注記しておきます。
最後に在日チベット人と歓談する先生の写真を先生のFBより転載。

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