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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/10/30(日)   CATEGORY: 未分類
2011年大阪、法王の般若心経講義
土曜日の夜半に新幹線で大阪に向かう。九時半頃、のぞみ内の電光掲示板ニュースで読売新聞、ダライラマ14世来日。「苦難を乗り越えて有意義な人生を」と東日本大震災の被災者にエールと流れる。嬉しい。

 一夜あけて、会場の舞洲アリーナにむかうも、この世の果て。最寄り駅の桜島(噴火しそう)から交通機関が車しかない。しかし、大量の人を運ぼうにも臨時の循環シャトルバスはではらっており、路線バスの停留所にはとても一台には入りきれない人が溢れていて、タクシーも三台くらいしかとまっていない。案内の人にきくと、今の時点ではタクシーが一番早いというので、そこいらの人と突然仲良しになってタクシーに乗ろうとするが、私がそこについた瞬間に最後の一台がいってしまい、そのあとえんえんとタクシーがこない。

 よくみると、複数の集団がわたしたちよりも川上にいってタクシーを拾っている。

 私は今しりあったばかりの人たちに「これ中国でよくあるパターンですよ。みなが川上に移動してタクシー拾っているから、ここで待っている限りいつまでたってもタクシーは拾えません。乗るためには彼らよりも道路の川上川上に行くことです」

 といってもみなウジウジと動かない。みると反対側の車線にシャトルバスがやっときた。、今まで出払っていたので、このシャトルバスの前にはほとんど人は並んでいない。しかし、シャトルバスに立ち席はない。そう考えた瞬間、ついさっき知り合いになった人を秒速で見捨て、シャトルバスにむけて最短距離を横断歩道も信号もない大通りのど真ん中を中央分離帯を乗り越えてつっこんでいく自分がいた。そして、見事に席をゲット!  われながら日本人離れした延髄反射の行動力と協調性のなさだ(笑)。

 しかし、そうやって苦労して三十分前に会場についたのに、法王も渋滞に巻き込まれたとかで、そもそも会場が二十分遅れることが判明(笑)。

 主催者である高野山大学の学長藤田先生のお話。震災と台風の被災者にお見舞い(高野山も紀伊半島だもんね)。密教が残っているのはチベットと日本だけ。弘法大師空海ははじめて一般庶民に開かれた教育機関、綜芸種智院を開いた。高野山大学はその萌芽は876年にはじまり、近代的な学制のもとで1865年に大学となった。ダライラマ法王1980年にはじめて高野山にきて、今度は高野山大学125周年記念で二度目の来校をたまわり、金剛界灌頂を授けて下さることとなった。最後に、一般参集の方から質問を受け付けますが、政治的な質問はやめてください。という趣旨のお話。

 以下法王講演の要約であるが、般若心経の注釈書をみて書いているわけではないので、いろいろカンチガイの点もあるかも。また、()内は私の感想です。


 法王入場。まず、法王のリクエストで日本人が般若心経を唱え、今度は法王が『現観荘厳論』とナーガールジュナの般若心経の帰敬偈をよみ、その後に講演が始まる。

 世界にはたくさんの宗教がありますが、哲学思想の有無で二つに分けることができます。

 哲学思想をもつ宗教(仏教)→ 足るを知る心。許す心。慈悲。忍耐などの思想が共通する。
 哲学思想のない宗教(竜神を信仰するなどの地域の信仰)

 どのような宗教も誰かの役に立っているのだから、他宗教に対して敬意をもち、決して否定してはなりません。相互理解が大切です。

 これからお話する『般若心経』は大乗仏教の主要経典である般若経典群のエッセンスです。日本は仏教国ですから先人から受け継いだ仏教思想を大事にしなさい。

 まず、仏教一般の話から始めましょう。「親が仏教徒であるから仏教を信仰する」というのは本当の意味での信仰ではありません。仏教を志す動機が大切です。仏教に限らずあらゆる宗教とは心の平安を築くことを目的としています。

 20世紀は、工業や技術が発展し、物質的な面では著しい改善がなされました。しかし、同時に暴力の時代でもありました。広島や長崎には爆弾が落とされ多くの人が亡くなりました。20世紀のこのような過ちを認め、21世紀は平和な時代としなければなりません。それには一人一人が心の平和を実現し、そのことによって世界平和につなげていくことです。そのためには宗教が大きな意味を持ちます(たしかにルネサンスからマルクス主義に至るまで近代は宗教を徹底的に排し、精神性を無視した諸世紀であった)。

 20世紀後半は、経済が発展し、肉体的感覚的にはずいぶん快適になりました。しかし精神的に苦しむ人は増えています。どんなにお金があっても精神的に苦しんでいる人には幸せは感じられません。しかし心が平安な人は貧しくても幸せです。このような人たちは他人に愛をもっています。他者に愛を持つ者は嘘よりも真実を愛し、人をだまさず、開かれた心をもっています。自信と勇気があります。

 このような心を持つと実際に脳細胞が変化していくことは科学者たちにも認識されています。脳細胞が心に影響を与えるのではなく、心が脳細胞を変えていくのです(そういえば鬱病の人の前頭葉って血流が弱い)。チベット医学では怒りや執着にとらわれた心は五大(地・水・火・風・空)のバランスがくずれ不健康になり、一方、怒りや執着などの煩悩から自由な心は五大がバランスを保っているので健康だと教えています。


 自分ではなく他者を愛するように、心を向上させるやり方には宗教的なやり方と非宗教的(倫理・良識・道徳)なやり方があります。

 神様に「心を向上させて下さい」とお願いする宗教は人に努力を必要とさせませんが、それぞれの教えに基づいて自分の心を自分で訓練して向上させていくやり方もあります。

 先ほどの哲学思想をもつ宗教は神の有無によってさらに二つに分かれます。神を信じる宗教(キリスト教・イスラーム教)と神ではなく因果の教えを信じる宗教(仏教・ジャイナ教)です。

 仏教徒は五蘊(色・受・想・行・識)とは別に、それと指し示せるような自我があることを認めませんが、非仏教徒は五蘊とは別に永遠の単一な実在があると考えます(猊下はもちろん仏教徒の立場で話している)。

 私は今から、仏の覚りの境地を、声聞・独覚・菩薩の三乗の中でも菩薩乗の立場から、仏教の四大学派からいえば説一切有部・経量部・唯識・中観の中でも中観派の理解から説明します。

 釈尊は生涯、三種類の法を説いたと言われます(三転法輪)。

 第一転法輪では有相法輪(四聖諦)を、
 第二転法輪では無相法輪(般若=中観思想)を
 第三転法輪では有無を正しく区別した法輪(唯識思想)を説きました。このうち第一は小乗で、第二と第三法輪は大乗仏教です。
 
 かつて「大乗仏教は仏が説いた教えではない、仏教ではない」と非難する人に対して、ナーガールジュナ、ヴァーヴィヴェーカ、シャーンティデーヴァなどの大乗の思想家たちは反論して、第二・第三法輪は四聖諦(苦・集・滅・道)を詳しく説明したものだと説きました。※ダライラマ法王は近代的な仏教学が、大乗の教えが釈尊の入滅後久しくして説かれたことを知りつつも、あえてこの伝統的な三転法輪の教えを堅持している。

 般若経は このうち第二法輪で観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩など大乗の清らかなカルマをもつ弟子たちに向けて説かれたもので、四聖諦でいうと滅諦(苦しみが滅するという真実)に当たります。

 また、第三法輪の代表的な経典は『解深密教』『入楞伽経』『如来蔵経』であり、これらは般若経典群に記されている言葉を文字通りに受け取って虚無論に陥る危険のある人に対して説かれました。

 第三法輪の説く唯識思想によると、あらゆる存在はなにものかによって生じたもの(依他起生)ですが、そこにわたしたちは実体があるかのようにみてしまいます(遍計所執性)。しかし、究極的な真実としては、そのような実体は全てのものにおいて存在しないのです(円成実性)。

 また、第三法輪の『如来蔵経』は、四聖諦の道諦を説いています。この道を修すると、仏の三身、すなわち法身(自性法身・智慧法身)と報身と化身のうち、智慧法身を得ることができます。

 また、第三法輪は心の本質が無垢なる光明であることを説いているので、〔高野山の教える〕密教はこの第三法輪の教えに属していると言えます。

 この〔普段は汚れているけど修行すると本来の光明となる〕心の本質を顕現させるには止・観の瞑想を行う必要があります(この瞑想修行を短縮できるのが密教の教えである)。この瞑想を通じて心の質は徐々に向上していき、やがて仏の境地である一切智を得ることができるようになります。

 密教を非仏教徒(ヒンドゥー教)と共通する修行を行うことから仏教でないと批判する人がいます。仏教の生理学ではたしかにヒンドゥーと同じく脈管(ツァ)・エネルギー(ルン)・心滴(ティクレ)を用いる修行を行います。しかし、非仏教徒にはなく仏教独自の菩提心と空の教えがあるので、密教も確かに仏教の教えであります。

 般若経典群には大小様々なものがあります。一番大きいのは十万頌般若経。次が二万五千頌般若経であり、『現観荘厳論』はこの二万八千頌般若の思想をまとめたものです。これ以外にも一万八千頌般若経、三百頌の能断金剛般若経があります(経典は四行一聯の韻文から構成され、頌とはこの一聯を指す)。一番短い般若経としては一字般若といいうものがあります。これは 否定辞を意味する「ア」の字一字だけです(「無」か 笑)。

 一字になると否定辞になることから分かるように、般若思想ではすべての「法」(存在するもの、あるいはわれわれが現代語で「もの」と言っているもの)が存在しない、と否定されます。しかし、気をつけねばならないのは、その場合でも「法」の土台となるものは世俗的には存在しているものです。般若思想の言う「ない」とは、それ自身で成り立つような変わらぬ実体が「ない」ということを意味しているのです。

この般若思想の説く真実を修行によって心になじませていくと、三十七菩提分法や十波羅蜜などが説くように、gzhi(土台=存在論)、lam(修行の道)、'bras(道の結果=悟りの境地)のうちの「結果」が得られます。

 般若思想の注釈書である現観荘厳論はこの空の基本について、8つの主題(一切種智、道智、一切智、一切正等現観、頂現観、次第現観、刹那正等覚、法身)と、さらにその下に70のトピックを立てて論じています。言わば般若経の指南書のようなものです。

 般若心経の最後のマントラは修行の実現するまでの道を示しています。

 これを五道で示すと

 ガテー 資糧道に行け  
 ガテー 加行道に行け
 パーラガテー 見道に行け
 パーラサンガテー 修道に行け
 ボーディ・スヴァーハー 無学道に行け(悟りを成就せよ)

となります。

 般若心経では仏は瞑想に入っており、その仏様の加持を受けて、観音菩薩とシャーリプトラが会話します。観音菩薩は「色即是空(存在するものに実体はなく)、空即是色(究極的には実体のないものが存在している)というみなさんもご存知のあの有名な言葉を説きます。

 みんさんには、わたくしダライラマが実体として存在しているかのように見えていますが、ダライラマが何なのか、その肉体という色形なのか、それとも心なのか、なにがダライラマなのか「それ」と指し示せる本質のようなものはないでしょう。今度は自分自身について考えてみてください。「これ」と言って指し示せるような変わらぬ「私」というものをどこかに見出すことができますか。できないでしょう。そのような意味でものごとは確固としてあるかのようにみえていても、じつはそのように存在していないのです。

 漢文では「五蘊皆空」という部分は、サンスクリット語でもチベット語でも「五蘊もまた空である」と、他にも空なるものがあるかのように説いています。とくにこの「もまた」の部分が重要なので意識して意味を考えて読んでください。ここで「もまた」とくることによって、人我(実体的な人格)ばかりか、法我(実体的な存在)までもが否定されるのです。般若経の背後にある中観思想では、人格的な存在だけではなく、すべての存在がそれ自身の本質でなりたっているのではないと考えます。

 中観思想はさらに自立論証派と帰謬論証派の二派にわかれ、前者は世俗的な存在としては実体を認めますが、後者はそれすら否定します。

 あらゆるものは色や形や概念の集まりに名前がつけられているだけで、私たちが思うような確固とした形では存在していないのです。人は五蘊に名前がつけられたものに過ぎないのです。

 それでは、このようにあらゆるものに実体がないことを理解する目的は何でしょうか。

 人は自分が嫌いな人をに憎しみを抱き、自分が好きな人に愛着を感じます。しかし、あなたにとってとても嫌な人でも誰か別の人にとってはよい人かもしれません。もし「嫌な人」がその人の本質であったならば、世界中がその人を嫌な人と考えるはずです。しかし実際はそのような人はいません。愛着についても同じことです。あなたが「好ましい」と執着している対象がもし本質的に好ましいのであれば、世界中の人がその人を愛するはずです。実際はそんなことはありません。

 われわれはものごとに憎しみや執着を感じてしまう心のクセがあります。これはとらわれですから、これが心からなくなると心が楽になります。

 『如来蔵経』は心の本質は光明であるといいます。もし今心が憎しみや執着にとらわれて、汚れていたとしてもそれは一時的なものであります。ですから、五道、三学にしたがってとらわれる心を徐々になくしていって、その状態を心になじませていくと最後は悟りの境地にいたります。

 あらゆる存在はつきつめて考えるとそれ自身の力で成立しているものはありません。しかし、世俗的にはそれは存在するかのように見えています。

 私は瞑想中に空の境地に到りますが、その時でも自分の手をつかむとそこに自分がいることがわかります。そのように世間的な意味ではものは存在していますが、究極的な意味では、永遠不変の本質をもって存在しているわけではないのです。

 私は今年76才になり、瞑想をはじめて50年経ちます。私の体験からいっても、瞑想によって心を向上させることは心にも体にもよい変化をもたらしています。私が体験を通じておすすめできるので、みなさんもやってみてください。

 ここでお昼の休憩。疲れたので後半は次のエントリーで。
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COMMENT

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良案寺 | URL | 2011/11/02(水) 19:52 [EDIT]
>私は今年76才になり、瞑想をはじめて50年経ちます。私の体験からいっても、瞑想によって心を向上させることは心にも体にもよい変化をもたらしています。私が体験を通じておすすめできるので、みなさんもやってみてください。

凄く親切な感じが伝わってきました。
立派な年寄りが体験から、これはいいですよと薦めてくれるものは、試してみようかなという気持ちになります。
ましてや法王様ですから。
自分は宮城に住んでるのですが、わざわざご法事をして下さるとの事、嬉しいです。

シラユキ | URL | 2011/11/03(木) 00:34 [EDIT]
>良案寺さん
ありがとうございます。法王の宮城講演、うらやましいです。被災地の悲しみが少しでも法王の祈りによって癒されますように。

まるちゃん | URL | 2011/11/03(木) 09:49 [EDIT]
あらゆるものに実体がないことを理解する目的。それが、憎しみや執着という心グセから解かれるため、と道の実践にまで引き寄せて説かれているところが特に重要だと思います。

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● ダライ・ラマ14世法王猊下・2011.10.30大阪特別講演に参加・1
川口英俊の日記 2011/10/31(月) 06:47
本日は、いよいよ待ちに待ったダライ・ラマ14世法王猊下・2011.10.30大阪特別講演の日。 早朝に寺院の開門・梵鐘・落ち葉掃除と済ませて、9時着を目処に舞洲アリーナへと出発。 舞洲に入ると既に駐車場入りの車渋滞。少し焦るも順調に流れて、無事に駐車。かなりの広い...  [続きを読む]
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