紫禁城の古写真
土曜日は「清朝末期の写真展」をみるため、国立博物館にいった。最終日前日である。
院生や研究者とそろいでぞろぞろいったのだが、一人が遅刻してきたので、彼女を待つために徳川家康公をまつる上野東照宮にいく。自分が家康ファンだからである。
そしたら、東照宮、絵だった。詳しくはこの写真をくりっくして拡大。

ゼミ生とともに韓国旅行にいった去年、ソウルでみた南大門の工事現場とタメをはるすごさ(やはり南大門は絵だった)。銭湯の壁画も裸足で逃げ出す情けなさである。↓
博物館に行くと、特別展をやっていない時期だし、東洋舘は改装中なので敷地内は閑散としている。写真展をやっている平成館に入ると、係官が英語で話しかけてくる。原因は私の濃い顔か、それとも院生Mのダサダサな旅行者ファッションか。
ちなみに、この前法王がヨコハマにいらした時、韓国の仏教テレビのクルーが取材に来ていた。事務所のラクパさんが私をそのクルーに「日本のチベット学者です」と紹介してくれたので、ちょっとお話したら、その若い韓国のレポーターも私を「ハーフか」と聞いてきた。
言下に「I am genuine Japanese(私は純正の日本人)」と答えるが、日本にいても日本人に扱われない自分に情けなくなる。学生の間でインド人の血を引くとかいうデマが流れたこともあったし。しかして、この顔は南方系日本人のスタンダードである。
で、写真展だが、これは1901年義和団の乱によって西太后がはだしで西安に逃げていて紫禁城がからっぽになっていて、北京が八カ国連合軍の占領下にあった時代にとられたものである。この北京ガラ空き状況を利用して、日本から東京大学の伊藤忠太先生をはじめとするご一行様が写真家の小川一真を同伴して北京入りし、紫禁城や西苑の調査ならびに写真撮影を行ったのだ。
今も紫禁城内にはたくさんのチベット寺があるが、当時はもっと多くがその外観をとどめており(内部は義和団や八カ国連合軍によって略奪されてなくなってる)、このご一行様が残した写真は貴重な歴史資料となっている。今回の展覧会では自分がかつて書いた論文で利用した写真もあった。200枚くらいはここで現物が見られます。ここに清国北京皇城写真帖と入力して検索をぽちっと推してみてください。いい時代になりました。
たとえば、このサイトの第二冊目の61コマ目の写真を例にとると、この画面中央にうつる石の橋はいまは風情のない自動車道路になっており、湖のかなたに浮かぶ二つのたてもの、すなわち、万仏樓と闡福寺もない。しかしこの写真にはそれが全部ばっちりうつっているのだ。この二つの寺は両者ともチベット寺で、闡福寺は乾隆帝が即位の九年目に白傘盖仏を祭るためにたてたものであり、万仏樓は乾隆帝がお誕生日に献上されたチベットの仏像の収納のためにつくったものである。
ちなみに、この前の砂マンダラトークの時には、KさんとSさんから、「遅い、お誕生日プレゼント」と、神のようにプリティなオカメグッズを頂戴した。この場をかりて、お二人に御礼もうしあげたいと思います。ホームページで近いうちに発表しますので、その時にはこちらにもリンクをはりますね。
話を戻すと、この時とられた約四百枚の写真のうち三百枚ちょっとは国立博物館所蔵になっているようである。一緒にいった若手研究者Kさんは、
「先生、宮中草ボーボーですね。これから数年後に溥儀の即位式があるのに、そういときだけ草むしりしたんですかね。それともボーボーのままやったんですかね」と聞く。私もまだ滅びていない王朝なのにその廃墟っぷりに驚く。うちの庭よりは雑草少ないけど、屋根からとかもぺんぺん生えているのは一朝一夕にはできないだろう。
とはいえ、伝統的な工法でたてられた建築物は美しく、廃墟であるがゆえのロマン性も十分。
むかし今村仁司が「廃墟を見る眼は歴史を見る眼である」といってたが(うろ覚え)、そんな感じか(どんな感じだよ 笑)。
また、景山からのぞむ紫禁城の写真などみても、意外と昔の北京には木が多い。つまり、北京が今のような木のないはげちょろけのコキタナイ町になったのは、その後の内戦と社会主義政権の貧困によるものだろう。
事情は日本も同じで、江戸末期の写真をみると、その町並みはとても美しいものだが、近代にはいるととたんに写真にうつる光景はスラム化してくる。
これはダンナから昔聞いたことである。アンモナイトの化石をみると、進化の最盛期にはアンモナイトの巻きは美しい黄金率のフォルムをみせているが、滅びる直前には、その巻き方は傍目にもみにくく乱れ、むざんな姿となっていく。
どんな怪談よりもこういう話の方がずっと怖い。
院生や研究者とそろいでぞろぞろいったのだが、一人が遅刻してきたので、彼女を待つために徳川家康公をまつる上野東照宮にいく。自分が家康ファンだからである。
そしたら、東照宮、絵だった。詳しくはこの写真をくりっくして拡大。

ゼミ生とともに韓国旅行にいった去年、ソウルでみた南大門の工事現場とタメをはるすごさ(やはり南大門は絵だった)。銭湯の壁画も裸足で逃げ出す情けなさである。↓
博物館に行くと、特別展をやっていない時期だし、東洋舘は改装中なので敷地内は閑散としている。写真展をやっている平成館に入ると、係官が英語で話しかけてくる。原因は私の濃い顔か、それとも院生Mのダサダサな旅行者ファッションか。
ちなみに、この前法王がヨコハマにいらした時、韓国の仏教テレビのクルーが取材に来ていた。事務所のラクパさんが私をそのクルーに「日本のチベット学者です」と紹介してくれたので、ちょっとお話したら、その若い韓国のレポーターも私を「ハーフか」と聞いてきた。
言下に「I am genuine Japanese(私は純正の日本人)」と答えるが、日本にいても日本人に扱われない自分に情けなくなる。学生の間でインド人の血を引くとかいうデマが流れたこともあったし。しかして、この顔は南方系日本人のスタンダードである。
で、写真展だが、これは1901年義和団の乱によって西太后がはだしで西安に逃げていて紫禁城がからっぽになっていて、北京が八カ国連合軍の占領下にあった時代にとられたものである。この北京ガラ空き状況を利用して、日本から東京大学の伊藤忠太先生をはじめとするご一行様が写真家の小川一真を同伴して北京入りし、紫禁城や西苑の調査ならびに写真撮影を行ったのだ。
今も紫禁城内にはたくさんのチベット寺があるが、当時はもっと多くがその外観をとどめており(内部は義和団や八カ国連合軍によって略奪されてなくなってる)、このご一行様が残した写真は貴重な歴史資料となっている。今回の展覧会では自分がかつて書いた論文で利用した写真もあった。200枚くらいはここで現物が見られます。ここに清国北京皇城写真帖と入力して検索をぽちっと推してみてください。いい時代になりました。
たとえば、このサイトの第二冊目の61コマ目の写真を例にとると、この画面中央にうつる石の橋はいまは風情のない自動車道路になっており、湖のかなたに浮かぶ二つのたてもの、すなわち、万仏樓と闡福寺もない。しかしこの写真にはそれが全部ばっちりうつっているのだ。この二つの寺は両者ともチベット寺で、闡福寺は乾隆帝が即位の九年目に白傘盖仏を祭るためにたてたものであり、万仏樓は乾隆帝がお誕生日に献上されたチベットの仏像の収納のためにつくったものである。
ちなみに、この前の砂マンダラトークの時には、KさんとSさんから、「遅い、お誕生日プレゼント」と、神のようにプリティなオカメグッズを頂戴した。この場をかりて、お二人に御礼もうしあげたいと思います。ホームページで近いうちに発表しますので、その時にはこちらにもリンクをはりますね。
話を戻すと、この時とられた約四百枚の写真のうち三百枚ちょっとは国立博物館所蔵になっているようである。一緒にいった若手研究者Kさんは、
「先生、宮中草ボーボーですね。これから数年後に溥儀の即位式があるのに、そういときだけ草むしりしたんですかね。それともボーボーのままやったんですかね」と聞く。私もまだ滅びていない王朝なのにその廃墟っぷりに驚く。うちの庭よりは雑草少ないけど、屋根からとかもぺんぺん生えているのは一朝一夕にはできないだろう。
とはいえ、伝統的な工法でたてられた建築物は美しく、廃墟であるがゆえのロマン性も十分。
むかし今村仁司が「廃墟を見る眼は歴史を見る眼である」といってたが(うろ覚え)、そんな感じか(どんな感じだよ 笑)。
また、景山からのぞむ紫禁城の写真などみても、意外と昔の北京には木が多い。つまり、北京が今のような木のないはげちょろけのコキタナイ町になったのは、その後の内戦と社会主義政権の貧困によるものだろう。
事情は日本も同じで、江戸末期の写真をみると、その町並みはとても美しいものだが、近代にはいるととたんに写真にうつる光景はスラム化してくる。
これはダンナから昔聞いたことである。アンモナイトの化石をみると、進化の最盛期にはアンモナイトの巻きは美しい黄金率のフォルムをみせているが、滅びる直前には、その巻き方は傍目にもみにくく乱れ、むざんな姿となっていく。
どんな怪談よりもこういう話の方がずっと怖い。
COMMENT
● 草ぼうぼう
Susumu | URL | 2010/07/07(水) 21:16 [EDIT]
Susumu | URL | 2010/07/07(水) 21:16 [EDIT]
先生は確かに、コーケジアンの血を感じさせます。いつかお連れした河鍋暁斎記念美術館でも、西洋人のチベット学者で早稲田の先生をしている方という認識でした。
僕の研究室にいた女性のうちの二人が早慶戦見に行って、離れた席に二人だけで座って見てたら、応援団の男の子がやって来て、一瞥するなり、「あー、外国人か」っていって去って行ったそうです。一人はモンゴルから、もう一人はインドネシアからだと、思われたに違いないという評判でした。
さて、草ぼうぼうの方がいいです。万里の長城も、観光化したところは奇麗に修復されて、昔の軍人の服を着た人がいたり、のろしを上げたりしてますが、別のところにこわれかかったままの場所もあって、そっちの方が草ぼうぼうで、壊れた銃眼にトカゲがいたりして、とっても素敵です。
僕の研究室にいた女性のうちの二人が早慶戦見に行って、離れた席に二人だけで座って見てたら、応援団の男の子がやって来て、一瞥するなり、「あー、外国人か」っていって去って行ったそうです。一人はモンゴルから、もう一人はインドネシアからだと、思われたに違いないという評判でした。
さて、草ぼうぼうの方がいいです。万里の長城も、観光化したところは奇麗に修復されて、昔の軍人の服を着た人がいたり、のろしを上げたりしてますが、別のところにこわれかかったままの場所もあって、そっちの方が草ぼうぼうで、壊れた銃眼にトカゲがいたりして、とっても素敵です。
●
シラユキ | URL | 2010/07/11(日) 23:48 [EDIT]
シラユキ | URL | 2010/07/11(日) 23:48 [EDIT]
>susumu先生
先生のゼミも〔見た目〕国際色ゆたかな生徒さんが
おおかったんですね。草ぼうぼうはたしかにムードがあっていいです。今年の春訪れた清朝皇帝のお墓も、観光ルートから外れた妃のお墓とかは草ぼーぼーで、くずれかけていい感じでした。なき母に聞いた話ですが、戦時中の法隆寺も屋根にぺんぺん草が生えていて、草ぼーぼーで、ムードがあったそうです。
先生のゼミも〔見た目〕国際色ゆたかな生徒さんが
おおかったんですね。草ぼうぼうはたしかにムードがあっていいです。今年の春訪れた清朝皇帝のお墓も、観光ルートから外れた妃のお墓とかは草ぼーぼーで、くずれかけていい感じでした。なき母に聞いた話ですが、戦時中の法隆寺も屋根にぺんぺん草が生えていて、草ぼーぼーで、ムードがあったそうです。
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