自我の檻からの脱出
着々と近づいてくる誕生日。
わが家の誕生日は食事に行くくらいでトクベツのイベントはしない。
たまには、プレゼントくらい欲しいものだが、わたしの欲しいものはお金で買えるものではない。
ちなみに、わたしが今欲しいもの
ごろうちゃんの永遠の命
われわれ夫婦の無病息災
庭で毎朝アオゲラをみたい
寛永寺か増上寺の将軍灯籠を庭にほしい(これはギリギリどうにかなるかも)
というわけで、かぐや姫なみにずうずうしいリクエストにダンナが応えられるわけもないのであった。
母親の首きって自分の首を警察にさしだしたり、警察官を撃ち殺すDV組長とか、最近すさんだ事件が続発している。
DV組長は「自分がこのような事件を起こした動機をFMラジオ局に話したい」なんていって実際DJと電話で話していたらしいが、
誰も共感するはずもない極私的な動機を、ラジオというマスコミをつかって世界に宣伝したがるあたり、他者に対する共感も自己を顧みる能力にもまったく欠けた、自分の感覚を肥大化させて世界を包み込もうとする、ゆがんだ人格がよくでていた。
彼は、日常的に妻を殴りつけていたという。
そして今回、日本では規制されている銃を所持していた上に、発砲して子供をうち、警官を殺した。
彼がいかに「オレがこんなことをしたのは、妻が悪いんだ、子供が悪いんだ、とめにはいった警官が悪いんだ」と叫び続けたところで、彼の行なった数々の悪行は天地人の中で明らかであり、消えることはない。
この犯人たちに限らず、他者と共感するセンサーがきれ、自分の感情におおいつくされた、自分の問題を他人に転嫁するような個人が、最近、五月のショウジョウ蠅のように異常発生している。
仏教ではエゴを克服して煩悩がなくなると仏になるという。
この逆でエゴを野放しにしている人は「無明」(まっくら)な状態というが、仏教修辞学でこの無明の同義語は「我にとらわれている状態」「ものにとらわれている状態」「わたしのものであると執着している状態」である。
つまり、エゴにとらわれた人生はマックラなのだ。
いつも他人が悪くて、自分はかわいそうで、他人は「冷たい」ヤツばかりだ。でもこんな考え方ばかりしていると、人は去っていく。
なので自分からつきまとうしかなく「ストーキング行為をしていやがらせする」、ひいては「相手を殺して思い切る」、という貧困な選択肢にとびつく。
こういうのが心の地獄に堕ちるということだな。
キリスト教や浄土真宗は、こういう底辺の人でも、神や阿弥陀仏によって愛され、哀れまれると説き、最底辺の人々に救いを与えてきたが、裏返せば、人間社会ではだーれも相手にする人がいないから、超人ないし超越的な存在を構想せざるを得なかったとも言える。
いくところまでいってしまった人はもうこの社会のいかなるシステムによっても救われない。
木曜日に久しぶりに卒業生と食事をした。彼は仕事で優秀な成績をあげているそうだが、業務の内容があまりやりがいがないので、今年の空前の売り手市場をうけてより有利な転職を考えているという。
彼いわく、仕事の内容は辞めるくらいだから、いまいちノレなかったわけだが、今まで営業していたお得意様から「君がやめるのならここの●×はもう入れない」といわれたらすごく嬉しくて、この仕事でえた人間関係はよかったです、とのこと。
そう、人は他人との関係の中からこそ、まことの喜びを得ることができる存在なのだ。「この仕事は自分に合わないから、自分は不幸だ」とくずぐず自分を哀れんで業績もあがらない状態でいたら、会社も自分もつらい。
しかし、彼はいまいちノレない業務でも、誠実にこなしてお客さんを大切にしたから、笑ってさわやかな転職ができるのだ。
誰だって、おいしいごはんを、一緒に「おいしいね」といって食べてくれる人がいる方が、一人で食べる時よりだんぜんおいしく感じられるだろう。
これは、人間の本性にはエゴに満ちた部分があると同時に、じつは利他的な性質も持っていることを示している。
自意識過剰で、自分も他人も不幸にしていく人には、まさにこの点を考えて、自己の内にひそむ利他性をひきだす努力をしてほしいと思う。
(それがムリでも、せめて人にメイワクかけない程度にまでエゴを押さえてほしい)
わが家の誕生日は食事に行くくらいでトクベツのイベントはしない。
たまには、プレゼントくらい欲しいものだが、わたしの欲しいものはお金で買えるものではない。
ちなみに、わたしが今欲しいもの
ごろうちゃんの永遠の命
われわれ夫婦の無病息災
庭で毎朝アオゲラをみたい
寛永寺か増上寺の将軍灯籠を庭にほしい(これはギリギリどうにかなるかも)
というわけで、かぐや姫なみにずうずうしいリクエストにダンナが応えられるわけもないのであった。
母親の首きって自分の首を警察にさしだしたり、警察官を撃ち殺すDV組長とか、最近すさんだ事件が続発している。
DV組長は「自分がこのような事件を起こした動機をFMラジオ局に話したい」なんていって実際DJと電話で話していたらしいが、
誰も共感するはずもない極私的な動機を、ラジオというマスコミをつかって世界に宣伝したがるあたり、他者に対する共感も自己を顧みる能力にもまったく欠けた、自分の感覚を肥大化させて世界を包み込もうとする、ゆがんだ人格がよくでていた。
彼は、日常的に妻を殴りつけていたという。
そして今回、日本では規制されている銃を所持していた上に、発砲して子供をうち、警官を殺した。
彼がいかに「オレがこんなことをしたのは、妻が悪いんだ、子供が悪いんだ、とめにはいった警官が悪いんだ」と叫び続けたところで、彼の行なった数々の悪行は天地人の中で明らかであり、消えることはない。
この犯人たちに限らず、他者と共感するセンサーがきれ、自分の感情におおいつくされた、自分の問題を他人に転嫁するような個人が、最近、五月のショウジョウ蠅のように異常発生している。
仏教ではエゴを克服して煩悩がなくなると仏になるという。
この逆でエゴを野放しにしている人は「無明」(まっくら)な状態というが、仏教修辞学でこの無明の同義語は「我にとらわれている状態」「ものにとらわれている状態」「わたしのものであると執着している状態」である。
つまり、エゴにとらわれた人生はマックラなのだ。
いつも他人が悪くて、自分はかわいそうで、他人は「冷たい」ヤツばかりだ。でもこんな考え方ばかりしていると、人は去っていく。
なので自分からつきまとうしかなく「ストーキング行為をしていやがらせする」、ひいては「相手を殺して思い切る」、という貧困な選択肢にとびつく。
こういうのが心の地獄に堕ちるということだな。
キリスト教や浄土真宗は、こういう底辺の人でも、神や阿弥陀仏によって愛され、哀れまれると説き、最底辺の人々に救いを与えてきたが、裏返せば、人間社会ではだーれも相手にする人がいないから、超人ないし超越的な存在を構想せざるを得なかったとも言える。
いくところまでいってしまった人はもうこの社会のいかなるシステムによっても救われない。
木曜日に久しぶりに卒業生と食事をした。彼は仕事で優秀な成績をあげているそうだが、業務の内容があまりやりがいがないので、今年の空前の売り手市場をうけてより有利な転職を考えているという。
彼いわく、仕事の内容は辞めるくらいだから、いまいちノレなかったわけだが、今まで営業していたお得意様から「君がやめるのならここの●×はもう入れない」といわれたらすごく嬉しくて、この仕事でえた人間関係はよかったです、とのこと。
そう、人は他人との関係の中からこそ、まことの喜びを得ることができる存在なのだ。「この仕事は自分に合わないから、自分は不幸だ」とくずぐず自分を哀れんで業績もあがらない状態でいたら、会社も自分もつらい。
しかし、彼はいまいちノレない業務でも、誠実にこなしてお客さんを大切にしたから、笑ってさわやかな転職ができるのだ。
誰だって、おいしいごはんを、一緒に「おいしいね」といって食べてくれる人がいる方が、一人で食べる時よりだんぜんおいしく感じられるだろう。
これは、人間の本性にはエゴに満ちた部分があると同時に、じつは利他的な性質も持っていることを示している。
自意識過剰で、自分も他人も不幸にしていく人には、まさにこの点を考えて、自己の内にひそむ利他性をひきだす努力をしてほしいと思う。
(それがムリでも、せめて人にメイワクかけない程度にまでエゴを押さえてほしい)
COMMENT
●
チベット語はじめた人 | URL | 2007/05/21(月) 17:18 [EDIT]
チベット語はじめた人 | URL | 2007/05/21(月) 17:18 [EDIT]
はじめまして、こんにちわ!!チベットのリンクからやってきました。
エゴで暗闇に落ち込んで、逃れなれなくて、もがいているうちに、他人も巻き添えってすご~くよくわかりました。解決策は共感・・人と喜びとかを分かち合うってことですよね!!そんな感覚って誰にでももっているのに、どうして大人になると難しくなるのでしょう。
あっエゴがあるから、ですか。なんかどうどうめぐりしてしまいました。
とっても難しいです。でも仏教ってなんか面白そうです。
エゴで暗闇に落ち込んで、逃れなれなくて、もがいているうちに、他人も巻き添えってすご~くよくわかりました。解決策は共感・・人と喜びとかを分かち合うってことですよね!!そんな感覚って誰にでももっているのに、どうして大人になると難しくなるのでしょう。
あっエゴがあるから、ですか。なんかどうどうめぐりしてしまいました。
とっても難しいです。でも仏教ってなんか面白そうです。
● そう、仏教って面白い
イシハマ | URL | 2007/05/21(月) 19:10 [EDIT]
イシハマ | URL | 2007/05/21(月) 19:10 [EDIT]
コメントありがとうございます。
チベット語を始められたとのこと、やっぱ祈願文とか原語でとなるえるとムードでますよね。
仏教の大半は(一部宗派にはすごいのもあるけど)、論理的で、いわゆる「宗教」臭さがありません。
現代人むけの教えだと思いますよ。
チベット語を始められたとのこと、やっぱ祈願文とか原語でとなるえるとムードでますよね。
仏教の大半は(一部宗派にはすごいのもあるけど)、論理的で、いわゆる「宗教」臭さがありません。
現代人むけの教えだと思いますよ。
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