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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2023/09/28(木)   CATEGORY: 未分類
二つの河口慧海展を見た(附: 万博と仏教展)
8月30日(水) トーハクの河口慧海企画展

トーハクの14室にある慧海展を訪問。トーハクの学芸員Sさんによると今年この企画展を行うのは河口慧海の遺族からこれら遺愛の品が寄贈されてから30周年だからだそう。堺市立博物館の企画展とかぶったのは偶然とのこと。

 河口慧海についてはほぼ素人なので、Sさんより貴重なお話しをきいて勉強になる。たとえば、著名な彫刻家の高村光雲が河口慧海の支援者であることを初めて知った。慧海が還俗して主宰した在家仏教会の本尊は、高村光雲が慧海がチベットからもってきた白檀に彫ったものである(以下の写真)。また、慧海がめいの結婚式におくった誕生仏も高村光雲の彫ったものである。
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Sさんからはさらに大倉財閥の創始者大倉喜八郎も慧海の支援者であること、喜八郎は慧海がネパールにサンスクリット仏典を受け取りにいく際のお金をだしていたこと、慧海が喜八郎がなくなった際に弔辞をよせていることなどもご教示いただいた。
 展示品の中で面白かったのは、チョーマドケレス像。ケレスはハンガリー人でヨーロッパのチベット学の祖といっていい人。チベット語やチベット仏教研究でも知られる。

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ケレスはハンガリー人なのに瞑想する僧侶の姿で表されており、当時の仏教オリエンタリズムがよく出てる。ケレスの墓は何とヒマラヤをのぞむダージリンにある。
 というわけで、河口慧海について良い勉強になりました。

9月24日(日) 高島屋資料館「万博と仏教展」

やっと涼しくなった九月末、日帰り強行軍で関西へ。まずは高島屋資料館で開催されている「万博と仏教」展へ。なんばから歩いて8分の資料館は、旧松坂屋の建物をそのまま利用しているため、階段やエレベーターがクラシックなままで良い感じ。エレベーターをおりるとしゃれた空間が広がり(リニューアルしたばかりだとのこと)、正面が企画展の部屋、左手に高島屋の歴史を示した部屋がある。
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 受付で「大人二枚! 」と勢いよく注文すると、すごい上品な女性が「無料でございます。お荷物はそちらのロッカーへ。」

Wくん「先生、このロッカー100円戻ってきますよ」
私「なんかすごい財力を感じる」


万博(万国博覧会)とは19世紀に、植民地の拡大を競い合う列強が自国の文化や産業を披露し存在感を示すために広がったもので、列強入りをめざした日本も幕末から参加していた。
 その際、日本は当初から仏教的なイメージを前面に押し出していたが、これは当時西洋で仏教が高く評価されていたことと無縁ではあるまい。
1873年のウィーン万博は日本政府が初の公式参加をした万博であるが、ここでは鎌倉の大仏の頭部が展示された(以下写真のパンフにある仏頭)。
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1878年のパリ万博ではパリのギメ美術館のコレクションをつくったエミール・ギメの指示の下、東寺の立体マンダラの模刻が展示された。
1893年のシカゴ万博では、日本は宮大工をつれてシカゴに乗り込み、平等院鳳凰堂の外観を模した建物を日本館とした。同時に開催されたシカゴ万国宗教会議でセイロン(スリランカ)、日本の僧の演説が人気を博し仏教が広く知られるようになった。
1900年のパリ万博では、日本館は法隆寺金堂を模した形でつくり、出品物にも鳥居をたてて日本らしさを表現した。

悲しかったのが、日本国内でも産業を振興するために内国博覧会を行ったが、会場にお寺が使われていた理由。幕末から明治初期には公共のスペースが日本にはなく、人がたくさん集まれる場所はお寺しかなかった。そこで廃仏毀釈でよわった仏教界は博覧会の会場に場所を貸し出すことでお金かせいでいたという。そういえば幕末、外国の大使館などはお寺が場所を提供していたよな。

 かくして日本の仏教イメージは万博で常に評判を呼んでいたが、ついに戦後1970年にアジアで初の万博大阪万博が開かれた際には、日本仏教界は何をしたか。
 当初、本物の鎌倉の大仏を持ってこようという案もあったそうだが、お金もないし、技術もないし、「日本にくれば神社仏閣はそこいらにあるからわざわざもってくる必要もなくね」とその案は立ち消え、何とお寺の外観でただの休憩所が作られただけ。いいのかそれで。

 しかし、古河グループが東大寺の七重の塔を鉄筋で再現したのはまあ仏教的に目を引いたが、内部には古河プレゼンツでテレビゲームや、お金をもたないで買い物できる未来とかが展示されていたので、仏教全然関係ない。日本仏教はとにかく明治維新以後衰退を続けていたことだけはよくわかった。

 ちなみに、私が質問をすると学芸員の方がでてこられて丁寧に説明してくださり、皇室御用達のタカシマヤだけあって、皇族のような気分になった。
Wくん「この展示お金がかかってますね。なんかうちの大学の歴史館とくらべて悲しくなってきました」

 同感です。

9月24日(日) 午後 堺市市立博物館「河口慧海展」
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このあとなんばの駅ビルで田舎蕎麦をたべ、堺市市立博物館で開催されている河口慧海展にいく。まずは学術シンポジウム「河口慧海関係資料のデジタル化と公開に向けて」を聞く。
・奥山直司先生(高野山大学名誉教授)は、慧海の資料が、東北大学、東京大学、東洋文庫、国立博物館などさまざまな機関にちらばっており、それらがどのような経緯でその機関に入ったのかを、慧海の支援者たちの名前をあげながら説明され、情報量が多くためになる。
・菊谷竜太先生(高野山大学准教授)は、慧海が多田等観にあてた書簡をとりあげて、それが17世紀チベットにおけるサンスクリット復興の気運を受けたものであることを語る。面白い。
・加藤諭先生(東北大学史料館准教授)は、複数館にわたる資料をどのように連携させて互いを参照しあえるようにするかというお話し。昨今よくきくアーキビストが朧気ながら分かったような気がした。あくまでおぼろであるが。

 さて、シンポジウムの後いよいよ展示室へ。最近神智学について調べていたので、慧海と神智学協会との繋がりを示す、アニーベサント(神智学協会二代目会長)の写真や、彼女が慧海にベナレスでの住居を提供していたこと、などの、慧海のインド人脈を示す展示がとても気になった。

 また、彼の学習帳やカード類から、慧海が純粋にとにかく日本仏教を何とかしようとしていたことはよく伝わってきた。同時期チベットに入った僧侶としては多田等観、青木文教、寺本婉雅らがいるが、彼等はどこか仏教よりも宗派や国家が前にでる生涯であった。しかし、慧海のみ、宗派仏教にとどまらない、仏教全体を視野にいれた日本仏教の復興を模索しており、それが彼を動かし、また人々をひきつけてきた理由であろうと思ったのであった。

Wくん「慧海は口の悪いだけの人かと思っていましたが、今日の展示みて随分印象変わりました」
 同感です。

 ヘロヘロに疲れて博物館の外にでると、目の前に仁徳天皇陵が。誰が入っているか分からないから世界遺産に登録する時はナントカって地名のはいった名前にしたそうだけど、土地の人は「御陵」とよんでいるから仁徳天皇陵でも、御陵でもいい気がする。
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 御陵にお参りして百舌鳥の駅に戻るが、とにかく新大阪が遠い。堺って結構大阪のはずれ。家についたら午後九時。日帰りにはかなりムリのある予定で疲れ切ったのであったった。
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