明治期政界の奥座敷は大磯
梅雨空が一変し夏らしい晴れとなった7月2日、明治・大正期の政界の奥座敷、大磯にいった。以下備忘の訪問記である。大磯駅は昭和な趣がそのままな感じで、巣立ったばかりの燕のヒナがいてとてもかわいい。となりの二宮駅は米軍の機銃掃射あとがそのまま残っているそう。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
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