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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2023/06/21(水)   CATEGORY: 未分類
伊東忠太のチベット風仏塔
伊東 忠太(1867-1954)は有名なジョサイア・コンドルの弟子で、平安神宮とか築地本願寺とか、ついでにいえばサハリン神社とか台湾伊勢神宮とかもつくった帝大卒の有名建築家。現在の自分の研究に何となく絡んでいるので、今年に入ってから、隙あらば伊東忠太建築をまわってきた。以下忘れないうちに気がついたことを記しておく。

●日泰寺舎利殿

 3月22日に名古屋にいく用事があったため、伊東忠太が設計し1918年に名古屋の覚王山にたった仏舎利殿を見に行った。この寺は、タイの国王ラーマ五世から寄贈されたお釈迦様のお骨を奉納するために立てられた寺で、かつては日暹寺、現在は日泰寺という名で、今も昔も名前のまま日本とタイの友好の場となっている。特定の宗派に属さず管長は複数の宗派の長が輪番で行っているのも特徴的である。

ついでにいえば初代管長は伊東忠太のサポーターでもあり、ダライラマ13世とカリンポンで会見したこともある曹洞宗の日置黙仙である。ご縁があるのである。私の研究と(笑)。

 覚王山駅で地下鉄をおりると、広大な参道がある。いかにも、かつては繁華な門前町があったであろう道幅だが、現在は団子屋と仏具屋の数軒が名残を留めるのみで、寂しい限り。境内は広大でご本尊はもちろんタイ式お釈迦様。仏舎利塔はこの広大な境内からさらに東北にむかって歩いた先にある。舎利殿までの道を歩いていると、道の脇に小さなお堂のようなものがたくさんある。小さいものはお地蔵さんのお堂くらい、大きいのはイナバの物置くらいある。うっそうとしげった森の中にそれらの小屋が点在しており、よくみると、一軒一軒が四国八十八箇所のうつしである。しかし、荒れ果てており、ホームレスの人が勝手にすみつくのか「お堂を勝手に改造しないでください」とか立て札がたっている。

 かつてこの本堂から舎利殿までの道を昭和の巡礼者が88箇所めぐりも行いながら歩いていたのである。エンターティメントがお寺参りとか神社参りしかない時代には、ここがどれだけ栄えていたかと思うと、今の状況が悲しい。今はやさしくいっても心霊スポットである。

 舎利殿につくと壁に囲まれて近づけず、一段高く木に囲まれているため、塀の外から中をみることもできない。台座しか見えない。でも大丈夫。私はネットでおとした写真も平面図ももってる。このたびは設置環境を確認しにきたのである。環境という意味で特筆すべきは、初代松坂屋の社長伊藤次郎左衛門が「仏舎利の近くに住みたい」と立てた別荘揚輝荘が近くにあり、かつては皇族・華族・実業家が集まっていたという。揚輝荘の庭の池には日泰寺の五重塔が逆さにうつるように設計されている。

 この初代社長は家の行事として大般若転読をやるなど気合いのはいった仏教徒であった。私の目には大正、昭和初期の賑わう覚王山の姿がまぼろしのように見えたが、実際にあるのは揚輝荘をぶったぎる覚王山マンションである。帰り道、傷心を覚王山のスタバで癒す。

●総持寺のチベット仏塔

 5月の連休、チベット・フェスティバルからの帰り電車をまっている時、仏像オタクのKくんがツイッターで総持寺の伊東忠太建築をまわったという記事を投稿していた。うらやましくなった私も翌日、総持寺駅におりたった。晴れてはいるがものすごい強風。地図をみると総持寺の広大な境内は駅近くなので、とりあえず適当に歩き出し、迷う。やっと境内に入り、後方にある墓地にはいると、K君からきいていたように、いきなり忠太のたてた田中家墓のチベット式仏塔が目に入る。これはすぐわかるから後にしよう。

 総持寺は伊東忠太の作品が多く、この田中新七墓(1925年?) 以外にも、浅野セメントの初代社長の墓林謙吉郎(1865-1920)の墓、何より伊東忠太の墓がある。これら田中、浅野、林らは当時関西で鉄道や東京でガス会社などを経営していた実業家たちである。

 北陸の曹洞宗の名刹、総持寺が全焼して、再建を断念して鶴見にうつってきたのは1911年のこと。総持寺の宝物館の館長さんによると、当時は鶴見の町をあげてお寺を大歓迎したそうである。まもなくしてこのような実業家たちの墓がたっているのもその歓迎っぷりを示している。しかし、この寺も覚王山と同じく、今は町からの人の流れがない。広大な境内に信徒の姿がない。寂しい。

  伊東忠太の墓はなかなかみつからずKくんに電話すると、「石原裕次郎のお墓のある通りをまっすぐ境内側に歩け」といわれ、やっと見つける。荒廃している。「このお墓の持ち主が分かる方は連絡ください」、的な看板がたっており、かなりヤバイ。15年くらい前の『東京人』の伊東忠太特集では伊東忠太の孫がインタビューされていたけど、あの人はいまどこにいるのだろう?。*(以下写真はすべてクリックするとおおきくなります)
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 最後に、楽しみにとっておいた、チベット式仏塔墓の田中新七墓にいく。近づいてみると仏塔の四面の一面ごとにチベット文字が二つずつきざまれている。反時計回りに一周してみるとオンマニペメフンとなった。チベットの観音真言である。そして残る正面にはShri m'aMと書いてある。ShrIは吉祥を意味するサンスクリット語、m'aMはそのままだと「母」。母音を表裏間違えて刻んでいたとするとmuM でお釈迦様の種字となる。このほかにも一面ごとに二つずつ花や傘のマークがあるが、これが純粋にチベット式なら八吉祥紋になるはずが、微妙に違う。なんともイラっとくるデザインであるが、このお墓ももう御世話をする人がいないのか伊東家のお墓と同じく管理者不在の立て看がたっている。
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仏教の衰勢はおおうべくもない。明治・大正期の実業家たちの墓もこうして維持管理が放棄されはじめている。伊東忠太の建築史上における業績が忘れ去られれば、このチベット仏塔墓も処分されてしまうかもしれない。歴史家がこまめに記録していかないと一度目の前から失われるとそれは無になってしまう。

●護国寺で伊東忠太

5月28日、今度は護国寺でフィールドをする。護国寺は伊東忠太のサポーターの一人大倉財閥の創始者大倉喜八郎夫妻の墓があるのだ。もちろんお墓は伊東忠太のデザインである。当時名のある人の墓は一人一墓、しかも巨大なものゴリゴリ立てることが流行っていた。寛永寺墓地で渋沢栄一の墓をみたときはその巨大さに驚いたものだ。しかし、伊東忠太は仏塔形式の墓に家族で一緒にはいることを推奨していた。

 忠太のたてた仏塔形式の建築物をリストアップすると以下のようになるが(リストは完璧ではない)、写真をみればわかるが大倉喜八郎の墓もふくめてなんとなく共通点がある。
1911 可睡斎護国塔(静岡)
1918 日泰寺舎利殿(名古屋市覚王山)
1920 林謙吉郎墓(総持寺)
1927 田中新七家墓(総持寺)
1928 大倉喜八郎墓(護国寺)
1931 中山法華経寺聖教殿(市川市)
1934 築地本願寺(築地)
1938 鮎川家墓(多磨霊園)
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忠太はこの手のエキゾチック仏塔をガンダーラ式とよんでいる。覆鉢部分はガンダーラ式曲線にみえるが、しかし、相輪部分(塔のトップ部分)はチベット仏塔に近い。以下の写真で、伊東のフィールドノートに記されたチベット式仏塔の相輪部とガンダーラ式仏塔の相輪部を比べてほしい。

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 とくに可睡斎の護国塔、日泰寺舎利殿、総持寺の田中家墓はかなりチベット仏塔よりである。中でも一番チベットそのままは田中家であろう。オンマニペメフンがサンスクリット文字ではなく、チベット文字で彫り込まれていることもチベット式に伊東がかなり精通していたことを示している。

 忠太はたくさんの建築を手がけたが、官公庁とかビルはてがけず、宗教建築(寺社墓)や政治家や実業家の邸宅を主に手がけていた。西洋建築には否定的で、神社をたてる時はちゃんと神社としてたて、和洋折衷の帝冠様式を嫌っていたそうだ。

 「じゃあ築地本願寺はなんであんなにエキゾチックなんだよ」と考えたあなた、あなたのお寺のイメージは日本のお寺ではありませんか? 忠太のたてるお寺や仏塔は、1900年前後に発掘などによって明らかになってきた紀元前後の初期仏教の精舎形式、仏塔形式なのである。仏教を日本仏教ばかりか、インドからガンダーラをとおって、中国、日本、東南アジアに展開する世界宗教ととしてとらえた結果、源流にもどるあのようなデザインなっているのだ。

 忠太は1902年から1905年まで、中国、雲南、ビルマ、インド、トルコなどをまわって建築調査を行い、その後も満洲で清朝皇帝の夏の離宮熱河の保護にあたっている。距離的にも近い、北京や満洲でみたチベット式の仏塔に影響を受けた作品が初期から昭和期まで存在するのもむべなるかなである。
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