拝まれる側が持つ力
2/26日の日曜日、高輪にある高野山東京別院で行われた平岡宏一先生の講演をききにいった。テーマは十善戒についてである。

まずは仏教はモチベーションの宗教であるというお話しからはじまった。同じ行動であっても、そこに人を苦しめようとか、ザマアミロとかいう動機をもってやっていなければ悪行にはならないとのこと。
一方、良い行いに見えても、人によく見られたいとか、お金もらいたいとか思ってやる行為は悪行になるという。
そして何が良いことで何が悪いことなのか、その基準を示すものとして戒律がある。
今回のテーマである十善戒とは十の悪行をやめることで、具体的には体で行う三つの悪業(殺生、盗み、邪なセックス)、言葉で行う四つの悪業(ウソ、二枚舌、汚い言葉、言葉を飾ること)、心で行う三つの悪業(むさぼり、怒り、無明*これは今風にいうと「認知のゆがみ」)の総計十の悪行をやめることである。
そしてこのような悪行を行ってしまった場合には、以下の四つが悪行を浄化してくれる。
(1) 懺悔
(2) 罪を清めるためにすがる対象の力
(3) 二度としないとの誓い
(4) 修行の力
そしてこの四つを説明する時に、チベットでもよく引用されるシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』を用いて解説された。
シャーンティデーヴァ(寂天)は元王子であり、出家して仏教大学の最高峰ナーランダ大僧院に入門した。若い僧の目には彼はただのナマケモノにみえたので、「ブスク」と呼んで「施主の息子だから何も修行しなくとも僧院にいられる」と蔑んだ。ブスクとは「食べて、排泄して、寝ているだけ」という意味である。そして、彼を追い出すために布薩の日(戒律をちゃんとまもっているかを反省する月二回の日)に彼に法話をするようにもちかけた。まともな話ができないからメンツがつぶれて僧院から出て行くと思ってのことである。
シャーンティデーヴァは「では、今までにある話がいいか、今までにない話がいいか」と問うたので、若い僧たちは後者をリクエストすると、彼が説いたのがこの『入菩薩行論』である。ちなみに、シャーンティ・デーヴァのシャーンティとは鎮めるという意味であるが、それはこうやって彼が若い僧たちの傲慢を鎮めたからという。初めて知った。
『入菩薩行論』はダライラマ法王も好んで講演のテクストに用いる本であり、日本語にも何度も翻訳されている。
まず(1)の懺悔については本書「懺悔の章」の26,28-34, 37を引用して解説した。
死はいつ訪れるか分からない。死に際しては財産も親族もつれていけない、もっていけるのは自分が生前におかした善業と悪行だけである。そこでいままでおかした悪行を懺悔するのである。

次の(2) の「拝まれる側の力によって罪を雪ぐ」というエピは印象的だった。この場合正しいものを信じることが大切である。まちがったものをいくら真面目に信じて拝んでも罪が消えることはない。×ウム真理教で逮捕された×池直子は大阪の良い学校をでた真面目な子だったけど、彼女が信仰の対象としたものが誤っていたので、彼女自身は素直な良い子でもああなってしまった。
チベットで聞いた話でこういうのがある。お釈迦様の十大弟子の一人目犍連は地獄めぐりをしていた時に、異教徒の教祖が地獄におちて苦しんでいるのをみた。その教祖は目犍連にこう頼んで来た。「弟子が現世で私を拝めば拝むほど苦しくなるので、現世に戻ったら弟子たちにもう自分を拝まないように頼んでくれ」と。彼は間違った教えを説いたので、その教えを強く信じる人が増えれば増えるほどそれを説いた教祖の罪が重くなるので、教祖は地獄で苦しんでいたのである。
一方正しいもの、たとえば「仏の境地」(菩提)を信じて拝めば拝む側の能力が凡庸であっても罪がキレーにきえる。たとえば、法華経の方便品の後半にある「子供が砂場で遊びで仏塔をつくっても仏道を成就している」「両手ではなく片手で仏様に礼拝し、また、軽く頭をさげて仏様を供養しても仏道を成就している」「心の乱れた人が仏塔や仏堂に入り一度でも仏に帰依しますと唱えれば、それだけで仏道を成就している」というエピソードは、拝んだ人の力ではなく、拝まれる側の仏の境地(菩提)のもつ力の大切さを示している。
(3) の「二度とやりません」の誓いについては、同じく「懺悔の章」の65節を引用したあと、「二度としないと誓ってまたしてしまったらどうなるのか。それは経典にも何も書いていない、とにかく二度としないと誓うことが大切なのだ」とのことであった。
(4) そして「修行による罪の浄化」で、もっとも効くのは「菩提心をおこすこと」である(発菩提心)。菩提心とはすべての命あるものを安楽な境地に導くというモチベーションをもって仏の境地を目指すことである。自分の苦しみを救うためでなくすべての他者のために仏教を志すことがポイントである。
我々はうまれながらに業と煩悩からできた五取蘊でなりたっているので、悪をなす力はほっといても暴走していく。逆に善をなすことは闇夜に一瞬の稲光をてらすくらいのことしかできない(闇夜とは我々の煩悩まみれの心のこと)。
しかし、自分以外の他者のために仏教を志すという決心をし具体的な行をはじめた人は、広大な理想を掲げているので、寝ても覚めてもダラダラしている時でも善業が増えいく。よく考えるとオトクな話しである(菩提心の章の5,6,15-19, 21,22,30節) 。
成功するかしないか分からないプロジェクトだって人は邁進するのに、確実に安楽をもたらすことがわかっている菩提心をなぜ人はおこさないのか(同章 64節)。 先ほどの拝む対象ということからいえば、仏の境地とは間違いなく我々の罪を浄化してくれる力をもつのだ(156節)。
修行の話の中で自分的にもっとも印象に残ったのが「忍耐行」。心が行う三つの悪行のうちもっとも悪いのは怒りである。その怒りは今までに積んできた様々な善業貯金を一瞬で焼き払ってしまう。だからこの怒りの対抗策として忍耐行を行うのである。
歯医者にいって痛みを忍耐しても、歯医者には我々を苦しめようという気がないので大した忍耐行にはならない。一方、悪意をもった人が私たちに害をなした時、それを忍耐するのは難しい。しかしこれを忍耐をすると非常に大きな徳を積むことになる。だから、悪意をもった人の攻撃は喜ばねばならないのだ。ダライラマはこの理屈に基づいて自らに忍耐行をつませてくれる中国共産党に感謝しているんだよ。
そして最後に、ダライラマ法王が勧める「苦しい時にする祈願」が紹介された。
苦しい時には、「この苦しみは他者の苦しみを背負っていると考え、無数の他者の海のような苦しみをいつかは枯らしてしまうように」と祈願しなさい。
私(このブログの著者) も体調が悪い時には「この苦しみは他者の苦しみを背負って代わりに苦しんでいる」と思うことにしている。善業を積んでいると思うとけっこう気が紛れるからだ(何かチガウ)。なぜこんなめにあうのかと思っていても苦しいだけであるが、これで修行になると思えば気分も変わる。
平岡先生お疲れさまでした。ちなみに、会場でわたされた資料に平岡センセの次なる講演予定と弘法大師誕生1250年記念事業の紹介があったので、以下にあげときます。
●空海 とわのいのり(弘法大師誕生1250年記念事業)
空海のうまれた館あとにたつ善通寺さまが国宝などの寺宝を出開帳されます。
日時: 令和5年3月8日(水)〜12日(日) 9時〜17時
場所: ベルサール飯田橋ファースト(東京都文京区後楽2-6-1 住友不動産飯田橋ファーストタワーB1)
入場料: 2,500円 /(前売り)2,200円
●平岡宏一先生 講演「チベット密教における生と死」
日時: 2023年3月25日(土)14:10〜15:00 第一部 心から身体を整える
場所: 大本山智積院 宗務庁三階 大講堂
※平岡宏一先生の新刊『ゲルク派版 チベット死者の書 改訂新版』を会場でいち早くセミナー特別価格2,200円(税込み)でゲットできます。
詳細はこちら
●《平岡宏一先生 桐蔭 連続講座》続「運命を好転させる隠された教え」 チベット仏教入門
【開催日時】
①5月20日(土)10:00~11:30 菩提心の利益 忽ち善業が積める大乗仏教の醍醐味
②6月17日(土)10:00~11:30 罪の懺悔 悪業を浄化する方法
③7月29日(土)10:00~11:30 菩提心の受持 菩提心を受持する用意 無理せず徳を積む理由
④9月2日(土)10:00~11:30 不放逸 なぜ不放逸ではダメなのか 戒律の功徳
⑤10月21日(土)10:00~11:30 正知の守護 沈み込みと高ぶりの対処法
⑥11月11日(土)10:00~11:30 忍辱の話 仏教のアンガーマネジメント
⑦12月2日(土)10:00~11:30 精進の話 怠慢を克服する方法
⑧1月20日(土)10:00~11:30 禅定の話 幸せになるための隠された教え
⑨2月3日(土)10:00~11:30 空の話 空の意味と功徳
⑩3月9日(土)10:00~11:30 ゲルク派版『チベット死者の書』から学ぶ 死との向き合い方 密教とは何か
詳しくはこちらです

まずは仏教はモチベーションの宗教であるというお話しからはじまった。同じ行動であっても、そこに人を苦しめようとか、ザマアミロとかいう動機をもってやっていなければ悪行にはならないとのこと。
一方、良い行いに見えても、人によく見られたいとか、お金もらいたいとか思ってやる行為は悪行になるという。
そして何が良いことで何が悪いことなのか、その基準を示すものとして戒律がある。
今回のテーマである十善戒とは十の悪行をやめることで、具体的には体で行う三つの悪業(殺生、盗み、邪なセックス)、言葉で行う四つの悪業(ウソ、二枚舌、汚い言葉、言葉を飾ること)、心で行う三つの悪業(むさぼり、怒り、無明*これは今風にいうと「認知のゆがみ」)の総計十の悪行をやめることである。
そしてこのような悪行を行ってしまった場合には、以下の四つが悪行を浄化してくれる。
(1) 懺悔
(2) 罪を清めるためにすがる対象の力
(3) 二度としないとの誓い
(4) 修行の力
そしてこの四つを説明する時に、チベットでもよく引用されるシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』を用いて解説された。
シャーンティデーヴァ(寂天)は元王子であり、出家して仏教大学の最高峰ナーランダ大僧院に入門した。若い僧の目には彼はただのナマケモノにみえたので、「ブスク」と呼んで「施主の息子だから何も修行しなくとも僧院にいられる」と蔑んだ。ブスクとは「食べて、排泄して、寝ているだけ」という意味である。そして、彼を追い出すために布薩の日(戒律をちゃんとまもっているかを反省する月二回の日)に彼に法話をするようにもちかけた。まともな話ができないからメンツがつぶれて僧院から出て行くと思ってのことである。
シャーンティデーヴァは「では、今までにある話がいいか、今までにない話がいいか」と問うたので、若い僧たちは後者をリクエストすると、彼が説いたのがこの『入菩薩行論』である。ちなみに、シャーンティ・デーヴァのシャーンティとは鎮めるという意味であるが、それはこうやって彼が若い僧たちの傲慢を鎮めたからという。初めて知った。
『入菩薩行論』はダライラマ法王も好んで講演のテクストに用いる本であり、日本語にも何度も翻訳されている。
まず(1)の懺悔については本書「懺悔の章」の26,28-34, 37を引用して解説した。
死はいつ訪れるか分からない。死に際しては財産も親族もつれていけない、もっていけるのは自分が生前におかした善業と悪行だけである。そこでいままでおかした悪行を懺悔するのである。

次の(2) の「拝まれる側の力によって罪を雪ぐ」というエピは印象的だった。この場合正しいものを信じることが大切である。まちがったものをいくら真面目に信じて拝んでも罪が消えることはない。×ウム真理教で逮捕された×池直子は大阪の良い学校をでた真面目な子だったけど、彼女が信仰の対象としたものが誤っていたので、彼女自身は素直な良い子でもああなってしまった。
チベットで聞いた話でこういうのがある。お釈迦様の十大弟子の一人目犍連は地獄めぐりをしていた時に、異教徒の教祖が地獄におちて苦しんでいるのをみた。その教祖は目犍連にこう頼んで来た。「弟子が現世で私を拝めば拝むほど苦しくなるので、現世に戻ったら弟子たちにもう自分を拝まないように頼んでくれ」と。彼は間違った教えを説いたので、その教えを強く信じる人が増えれば増えるほどそれを説いた教祖の罪が重くなるので、教祖は地獄で苦しんでいたのである。
一方正しいもの、たとえば「仏の境地」(菩提)を信じて拝めば拝む側の能力が凡庸であっても罪がキレーにきえる。たとえば、法華経の方便品の後半にある「子供が砂場で遊びで仏塔をつくっても仏道を成就している」「両手ではなく片手で仏様に礼拝し、また、軽く頭をさげて仏様を供養しても仏道を成就している」「心の乱れた人が仏塔や仏堂に入り一度でも仏に帰依しますと唱えれば、それだけで仏道を成就している」というエピソードは、拝んだ人の力ではなく、拝まれる側の仏の境地(菩提)のもつ力の大切さを示している。
(3) の「二度とやりません」の誓いについては、同じく「懺悔の章」の65節を引用したあと、「二度としないと誓ってまたしてしまったらどうなるのか。それは経典にも何も書いていない、とにかく二度としないと誓うことが大切なのだ」とのことであった。
(4) そして「修行による罪の浄化」で、もっとも効くのは「菩提心をおこすこと」である(発菩提心)。菩提心とはすべての命あるものを安楽な境地に導くというモチベーションをもって仏の境地を目指すことである。自分の苦しみを救うためでなくすべての他者のために仏教を志すことがポイントである。
我々はうまれながらに業と煩悩からできた五取蘊でなりたっているので、悪をなす力はほっといても暴走していく。逆に善をなすことは闇夜に一瞬の稲光をてらすくらいのことしかできない(闇夜とは我々の煩悩まみれの心のこと)。
しかし、自分以外の他者のために仏教を志すという決心をし具体的な行をはじめた人は、広大な理想を掲げているので、寝ても覚めてもダラダラしている時でも善業が増えいく。よく考えるとオトクな話しである(菩提心の章の5,6,15-19, 21,22,30節) 。
成功するかしないか分からないプロジェクトだって人は邁進するのに、確実に安楽をもたらすことがわかっている菩提心をなぜ人はおこさないのか(同章 64節)。 先ほどの拝む対象ということからいえば、仏の境地とは間違いなく我々の罪を浄化してくれる力をもつのだ(156節)。
修行の話の中で自分的にもっとも印象に残ったのが「忍耐行」。心が行う三つの悪行のうちもっとも悪いのは怒りである。その怒りは今までに積んできた様々な善業貯金を一瞬で焼き払ってしまう。だからこの怒りの対抗策として忍耐行を行うのである。
歯医者にいって痛みを忍耐しても、歯医者には我々を苦しめようという気がないので大した忍耐行にはならない。一方、悪意をもった人が私たちに害をなした時、それを忍耐するのは難しい。しかしこれを忍耐をすると非常に大きな徳を積むことになる。だから、悪意をもった人の攻撃は喜ばねばならないのだ。ダライラマはこの理屈に基づいて自らに忍耐行をつませてくれる中国共産党に感謝しているんだよ。
そして最後に、ダライラマ法王が勧める「苦しい時にする祈願」が紹介された。
苦しい時には、「この苦しみは他者の苦しみを背負っていると考え、無数の他者の海のような苦しみをいつかは枯らしてしまうように」と祈願しなさい。
私(このブログの著者) も体調が悪い時には「この苦しみは他者の苦しみを背負って代わりに苦しんでいる」と思うことにしている。善業を積んでいると思うとけっこう気が紛れるからだ(何かチガウ)。なぜこんなめにあうのかと思っていても苦しいだけであるが、これで修行になると思えば気分も変わる。
平岡先生お疲れさまでした。ちなみに、会場でわたされた資料に平岡センセの次なる講演予定と弘法大師誕生1250年記念事業の紹介があったので、以下にあげときます。
●空海 とわのいのり(弘法大師誕生1250年記念事業)
空海のうまれた館あとにたつ善通寺さまが国宝などの寺宝を出開帳されます。
日時: 令和5年3月8日(水)〜12日(日) 9時〜17時
場所: ベルサール飯田橋ファースト(東京都文京区後楽2-6-1 住友不動産飯田橋ファーストタワーB1)
入場料: 2,500円 /(前売り)2,200円
●平岡宏一先生 講演「チベット密教における生と死」
日時: 2023年3月25日(土)14:10〜15:00 第一部 心から身体を整える
場所: 大本山智積院 宗務庁三階 大講堂
※平岡宏一先生の新刊『ゲルク派版 チベット死者の書 改訂新版』を会場でいち早くセミナー特別価格2,200円(税込み)でゲットできます。
詳細はこちら
●《平岡宏一先生 桐蔭 連続講座》続「運命を好転させる隠された教え」 チベット仏教入門
【開催日時】
①5月20日(土)10:00~11:30 菩提心の利益 忽ち善業が積める大乗仏教の醍醐味
②6月17日(土)10:00~11:30 罪の懺悔 悪業を浄化する方法
③7月29日(土)10:00~11:30 菩提心の受持 菩提心を受持する用意 無理せず徳を積む理由
④9月2日(土)10:00~11:30 不放逸 なぜ不放逸ではダメなのか 戒律の功徳
⑤10月21日(土)10:00~11:30 正知の守護 沈み込みと高ぶりの対処法
⑥11月11日(土)10:00~11:30 忍辱の話 仏教のアンガーマネジメント
⑦12月2日(土)10:00~11:30 精進の話 怠慢を克服する方法
⑧1月20日(土)10:00~11:30 禅定の話 幸せになるための隠された教え
⑨2月3日(土)10:00~11:30 空の話 空の意味と功徳
⑩3月9日(土)10:00~11:30 ゲルク派版『チベット死者の書』から学ぶ 死との向き合い方 密教とは何か
詳しくはこちらです
| ホーム |