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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2023/01/31(火)   CATEGORY: 未分類
円覚寺中興の背景にある近代ナショナリズム
 博多湾の元寇(げんこう)遺跡群が、幕末から明治にかけてもりあがった「神風よ、もう一度」的な近代ナショナリズムの下に再評価されていたことを、かつてブログに書いた。今回は元寇時に政権担当者であった北条時宗ゆかりの円覚寺を訪い、近代ナショナリズムの聖地ではないか? という視点から歩いてみた。結論から先に言うと、案の定境内には日露戦争前後からの「神風よもう一度」の痕跡が多数みいだされた。
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 そもそも、円覚寺に興味をもったきっかけは、『花田仲之介先生の生涯』である。花田仲之助は日露戦争時に馬賊を率いてロシア軍の後方攪乱をしたことで有名で、日露戦争直前には西本願寺の僧侶に化けてウラジオストックに潜入していた。潜入中、花田は清水松月と名乗り、土地の日本人コミニュティー(といっても女郎屋やばくち打ち)に仏教を説法し、軍関係者が訪れても「私はもう坊主で結構です」とスパイ業を廃業したかのようにふるまっていた。しかし、1904年日本とロシアが開戦するや、乞食坊主の衣をぬぎすて軍服に着替え馬賊を率いた。「敵を欺くにはまず味方から」を地で行ったのである。ちなみに1901年に河口慧海についでチベット入りした成田安輝は、この花田仲之助と同郷で、成田は花田に促されてアメリカから帰国し、その後チベット潜入の特別任務についた。

 この花田は、日清・日露戦争に先立つ1892(明治25)年、円覚寺の禅仲間とともに励精会を結成している。この禅仲間のメンツは錚々たるもので、日露戦争で遼西義軍を率いた同郷の橋口勇馬(1862-1918)、後に総理となる平沼騏一郎 (1867-1952)、澤柳政太郎(1865-1927)、早川千吉郎(1863-1922)、北条時敬(1858-1929)、根津一(1860-1927)、神尾光臣(1855-1927) 、与倉喜平(1868-1919) である(残りはwikipediaで確認してw)。

 花田が励精会を結成した1892年は明治9年から円覚寺の管長をつとめていた今北洪川がなくなり、弱冠34歳の釈宗演が住職の座をついだ年であった。この釈宗演は当時の僧侶としては珍しく慶應義塾大学に入学し、仏教を学びにセイロンに留学し、明治26年にはシカゴ宗教万博に参加し日本仏教の評価をあげ、彼がアメリカにおくった鈴木大拙が禅を世界のZenにまで普及させた。これらの事蹟から、彼が円覚寺中興の祖とあがめられるのもむべなるかなである。

 日本史に疎い私はそれまでの円覚寺のイメージは「北鎌倉の駅から一番近い寺」「鈴木大拙?」くらいであったが(ひどい)、調べたらこのお寺、北条時宗が元寇の際に戦没した人々を敵味方なく弔うために建てた寺であり、34歳でなくなった時宗自身の墓所でもあった(写真は彼の遺体の上に立てられた仏日庵の中にある時宗像)。つまり、円覚寺とは、外国からの暴力を奇跡的な「神風」によって切り抜けたあの鎌倉時代を想起させる格好の場なのである。
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 なのでその線で調べてみると、明治天皇の后である昭憲皇太后も、「讐(あだ)なみは ふたたびよせず なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに」という歌をよせているし、日露戦争勃発の年には明治政府は北条時宗に従一位を追贈している(もともとは従四位)。境内には神風特攻でなくなった方の慰霊碑「呑龍地蔵大菩薩」も祀られており、博多の元寇遺跡と同じく、円覚寺の再興には近代ナショナリズムの勃興が作用していた痕跡はいたるところにあった。
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 円覚寺を訪れた日は関東に雪が舞った翌日であった。当初のプランでは、歴史散歩ということでまず金沢文庫駅で待ち合わせをし、称名寺で鎌倉文化をみたあと、中世古道の朝比奈切り通しを歩きでこえて円覚寺にいく予定であった。しかし,いきなり人身事故で金沢文庫と能見台駅間京急が運転見合わせとの報が入り、仕方なく集合地点を北鎌倉に切り替えた。結果円覚寺周辺をゆっくり回ることができたので、このあたりに天の配剤を感じる。

 明治維新を境に幕府の庇護を失った日本の出家集団は縮小し、必然的に在家仏教に力を入れざるを得ず、円覚寺も明治に入ると在家の仏教者(居士)の参禅を積極的にうけいれ始めた。たとえば、1894年には夏目漱石も円覚寺内の帰禅院で参禅している。

 円覚寺が明治・大正期・昭和初期の知識人・文化人のサロンでもあったことは夙に指摘されてきた。円覚寺の近郊にある東慶寺の墓地にはゆかりの知識人がねむっている(東慶寺のトップは1905年に円覚寺の住職である釈宗演が兼任している)。墓地は本堂を通り過ぎた谷戸の奥の斜面にあり晴天の日でも薄暗い冥界の雰囲気をもつ場である。お墓はだいたい五輪塔で、小林秀雄など著名人のお墓であっても、墓標を見なければ墓主が分からない。有名どころとしては鈴木大拙・西田幾多郎(この二人同郷)、岩波茂雄(夏目漱石の弟子で岩波書店の創業者)、和辻哲郎(帝大で美学教えていた『古寺巡礼』の著者)などの墓が同区画に並び、円覚寺の住職であった釈宗演・井上禅定らも別区画にともに眠っている。

 学生たちと薄暗い墓所をあがっていくと、一番奥に自然石でできた苔むした碑文が見えた。何となく興味を引かれてすいよせられていくと、「向陵塚」という三文字が記されている。由来を記した石版を読み進めてびっくり。これ一高の墓である。奇しくも同行していたゼミ生のAちゃんは、一高文化が好きで日比谷高校文化について卒論を書いていたため、二人で苔むした碑文を読み上げる。ネットでは誰も記録していないようなので以下に全文を記す(句読点は私がつけた)。
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向陵塚由来
我等が、ここに向陵塚を建立したのは、その昔
向陵の地に寝食を共にして、学を修め、友情を温
めた第一高等学校同窓生の魂の落着き所として
永く後世に残そうとするものであります。
 第一高等学校(通商「一高」)は、明治八年東京英語
学校として創立され、同十年東京大学預備門と
改称、更に同十九年第一高等中学校となり、同二
十七年第一高等学校としてその輝しい歴史を
繰り広げ、戦後昭和二十五年学制改革により終
焉となりました
 この間明治二十三年本郷向が丘(故に我等は
「向陵」と呼ぶ)の地に校舎の外に寄宿寮を設け、全
寮制の下に切磋琢磨し幾多の人材を世に送り
ました
 柏葉と橄欖をあしらった校章、二本の白線の
帽子は、時の世に有名で毎春行われた紀念祭や
紀念祭毎に生徒達によって作られた寮歌は、満
天下を風靡?しました。寮歌のうちでも「嗚呼玉
杯に花うけて」「春爛漫の花の色」「アムール川の流
血や」等現代でもよく唱われている歌が多々あ
ります
 今はなき第一高等学校の同窓生が、ありし日の
良き寮生活に育まれた智恵と正義(まことょと
友情の絆をいとおしみ、永く我等の魂をともど
も止めんとした所以はかくの如くであります
 昭和五十二年五月
 向陵塚建立世話人会


この「アムール川の流血や」という寮歌は1900年の義和団事件の折、ブラゴヴェシチェンスク市のコサック隊が中国人市民3000人を虐殺してアムール川に投げ込んだ事件を受けて作られたものである。その酸鼻極まりない光景は、現場にいあわせたスパイ石光真清が『石光真清の手記』で記している(この手記は花田仲之助の僧侶時代の話も詳しいw)。石光はこの事件でロシアの脅威を肌で感じ、参謀本部の出資でハルピンで写真館を開き、シベリア鉄道沿いのロシアの動向について情報収集に努めることになる。

 ちなみに、石光はその後すぐ日露戦争に召集され、戦場でばったり軍人にもどった花田仲之助と再会する。日露戦争直後の1906年にはチベット・モンゴルから戻った成田安輝ともばったり大陸の草河口であっている(成田と石光は同じ薩摩出身で陸軍幼年学校で一緒だったので互いの素性をしっていた。成田は成績不良で落ちこぼれてエリート軍人になりそこなっていたけど)。

 向陵塚は先ほどの呑龍大菩薩と同じ年、時の円覚寺の住職井上禅定師の時代に建立されている。敗戦とともに日本の空気はがらっと代わり、戦中の青春を美化することはできなくなり、そのうちどんどん同じ時代を知る人がいなくなっていく。この二つの記念碑からは生存者たちの寂寞がつたわってくる。苔むした名刺入れをみながら、「最後の一高生がここで寮歌うたったのはいつのことだろう」と感傷に浸たる(2007年に永代供養にきりかわっているのでその時かも)。

 日比谷高校文化で卒論を書いたゼミ生のAちゃんは「先生、一高のお墓につれてきてくれてありがとうございました」と喜んでいるので、ここで「今日みるべきものは見たな」とつきものが落ちたような気分になり、家路についた。思えば出だしに人身事故がなければ、この墓地をゆっくりまわる時間もなかったので、くるべくしてこの塚の前に私とAちゃんはたったのであろう。

 近代にはいった日本は外国からの脅威を強く感じ、駆り立てられるように戦争を拡大し続けた。その戦いはつねにきついものであったため、ことあるごとに元寇の時と同じく「神風」が待望された。博多や円覚寺などの元寇遺跡はその過程で注目をあび、新旧のナショナリズムが時代をこえて一体化した場へと昇華したのである。

 最後にアムール川の流血の歌詞をwiki からコピペしておく。当時の東アジア情勢の不穏と一高の自治の精神が伝わってくる歌詞である。
一、
アムール川の流血や
凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ
二、
コサック兵の剣戟(けんげき)や
怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は
荒波海に立ちさわぐ
三、
満清(まんしん)すでに力つき
末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
仰ぐはひとり日東(にっとう)の
名もかんばしき秋津島
四、
桜の匂い衰えて
皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ
沈滞ここに幾春秋
五、
向が丘の健男児
虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ
自治寮たてて十一年
六、
世紀新たに来れども
北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて
自治の本領あらわさん
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