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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/12/31(土)   CATEGORY: 未分類
ダライ・ラマ秘話⑦ご本尊ワティ・サンポ
 御正月恒例、ダライラマ秘話も今年で七回目となりました。
今年は、ダライラマ法王が、観音菩薩の灌頂を行ったり、観音関係の法を説かれる時、たびたび言及し、また、会場に本尊として置かれている「ワティ・サンポ」と呼ばれる観音像をテーマにしてみたいと思います。

 開国の王ソンツェンガムポの時代にチベットにもたらされたこの観音像は、ソンツェンガムポ王の再来として同じく観音菩薩の化身と崇められるダライラマにとって、とくに重要な意味を持つ像である。この像の起源についてチベットの史書にはおおむね以下のように記されている(『チベット仏教王伝』岩波文庫参照)。
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 7世紀、ソンツェンガムポ王は、チベットの地に仏教を導入するにはまず本尊が必要であると考え、頭から化身の比丘を発し、比丘はシンハラ(スリランカ)の地にとんだ。比丘はシンハラの海岸の砂地の下に埋まっていた栴檀の木を掘り出すと、木には四つの裂け目があり、四つに割れたその部分部分から十一面観音像が自然に出現した(チベットではこのように人の手にならずに出現する像をランチュンという)。

 比丘がこの観音像をチベットに持ち帰り、王がこの観音像に祈願すると、像の胸から光線がでてネパールの地に向かった。王は光のさした方角に再び化身の比丘をおくりこむと、比丘はインドとネパールの国境地帯の森の中に、牛が乳を注いで供養している白檀を見つけた。

 この白檀を上から四つにきるとそのたびに、マンユル、カトマンドゥ、インド・ネパール国境、チベットにそれぞれ祀るようにという声がして4体の観音像が自然と出現した。その声に従って、聖ワティはマンユルに、聖ウカンはカトマンドゥに、聖ジャマリはインド・ネパール国境に安置され、最後の部分から出現した観音像はソンツェンガムポ王に献上された。

 この観音像こそ、現在もポタラ宮の最上階の観音堂(パクパラカン)に祀られるあの著名な観音像である。観音堂はポタラ宮の中でもっとも古く、ダライ・ラマ5世は17世紀にこの観音堂の横に自らの宮殿(白宮)をたて、ダライラマ5世の摂政サンゲギャムツォは5世の死後このお堂をつつみこむ形で赤宮をたてた。
 
 京都の西本願寺の前に薫玉堂という歴史ある香老舗がある。昔この店舗の上階には小さな展示室があり、そこに加工前の沈香の木が置かれていた。その解説によると[うろおぼえ]、「最高級の香である沈香は香木が熱帯の砂地の中で様々なバクテリアに分解された結果少量できるものであり、過去にはその価値は同じ重さの金ほどもあった」という。

 熱帯のスリランカ(シンハラ)の砂地の下からほりだされた香木から現れた観音像は、この稀少な香木のでき方と同じである。この事実を知って感動したので、ハーバート大学のvan der Kuijp氏が京都に滞在されていた時に、この薫玉堂につれていき、チベットの年代記をつんつん提示しながら、熱く語った。

 ちなみに、現在、ネパール盆地にも一本の栴檀の木から生じた四体の観音像が「四姉妹観音」として祀られており、ヒンドゥー化したネパールにもこの伝説はかろうじて共有されている。

 この後、ソンツェンガムポ王はインドの八大聖地の土などの像の素材を積み上げて玉座の上で瞑想に入ると翌朝、それは自然と十一面観音像になった。この像は「五つのものから自然に現れた像」(ランチョンガデン)と通称され、さきほどのシンハラからもたらされた観音像もこの像に合体し、それ以後の歴史を通じて、チベットでもっとも信仰を集める観音像となった。

 1959年、ダライラマ14世がラサを脱出してインドに亡命した際、ポタラ宮の観音像も、ラサのジョカンに祀られるランチョンガデンも持ち出すことはできなかった。つまり亡命直後のダライラマの周りには由緒ある観音像は存在していなかったのである。そこで、法王は亡命と同時に、カムパ・ゲリラ(チュシガンドゥク)とゾンカ・チョデ僧院の僧にワティ・サンポ像をもってくるようにとのミッションを下した。

 この像が法王の下にもたらされるまでの経緯は、人類学者のジョフ・チャイルズ(Geoff H. Childs)氏によって明らかにされている(Pagpawati Jowo's Rescue Chapter 6 of G. Childs' The Rising Mist )。チャイルズ氏は1959年に実際にこのミッションを遂行したにヌブリのリクジン・ドルジェにインタビューしている。

 これによると、ワティ・サンポは1959年時点ではネパール国境に近いキロンからほど近いパグパ・ワティ(聖ワティ寺)という寺院に安置されていた。ある夜、リクジン・ドルジェの夢枕にワティ・サンポがたち「私を安全なところに連れて行けば、この先ずっといられるが、パグパ・ワティ寺に置いておけば、あと1、2年ももたないだろう」と告げた。

 気になっていたところ、ダライラマからの手紙がもたらされ、そこには「ワティ・サンポを3月中にヌブリに連れてくるように」と書かれていた。リクジン・ドルジェは村人を率いて、カムパゲリラの護衛をうけながらキロンにいき、ワティ・サンポをヌブリの町にもたらした。村中をねりあるいてその祝福を分かち合った後、像をダライラマに奉献した。

 リクジン・ドルジェ曰く、「村から像がでていった日のことは、今でもはっきりと覚えています。しかし、もう像は安全なのだと思うと嬉しかった。数ヵ月後、パグパワティ寺が破壊されたという知らせを受けたとき、私は自分たちが正しいことをしたと満足しました。私たちが動かなければ、ワティ・サンポが夢で語っていたように、この像はもう私たちの手元にはなくなっていたからです」

 2022年6月1日、法王がダラムサラで青年たちに講話を行い観音菩薩の灌頂を授けた際に、このワティサンポに言及し、
「このキーロン・ジョオ(ワティ・サンポ) をチベットからネパールに持ち込んだのは、ゾンカ・チョデ僧院の僧侶とカンパ・ゲリラのメンバーでした。その後、ここダラムサラに運ばれ、私が保管しています。初めてワティ・サンポを見たとき、幸福感に包まれたのを覚えています。ゾンカ・チョデ僧院が南インドに再興されたとき、この像をどこに置くかという問題がおきました。占ったところ、私のところに置くと良いということでした。」(ニューデリーダライ・ラマオフィスのサイト:HIS HOLINESS THE DALAI LAMA GIVES “IN PRAISE OF DEPENDENT ARISING & AVALOKITESHVARA EMPOWERMENT” BDL MEDIA | June 1, 2022 |
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 本観音像は現在、ダラムサラにある法王個人の瞑想室の本尊として祀られている。Raghu Rai のHis Holinessの写真が分かりやすいので掲示したが、法王の後ろにみえる丁度ページの継ぎ目の左にみえるのがワティ・サンポである。法王は「表情が変わり、時には微笑んでいるようにも見える」とたびたび言及し、昼夜目にしているこのワティ・サンポと非常に強い繋がりを感じていることがわかる。
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DATE: 2022/12/10(土)   CATEGORY: 未分類
2022年を振り返って
 年末恒例、チベット・マニアがみたこの一年世界のニュースです。

印象的だったのは本年、一時代を築いた人があいついでこの世を去ったことだ。ゴルバチョフ (8月30日)、エリザベス二世の崩御(9月8日)、安倍晋三元首相(9月17日)、江沢民(11月30日)など名前をあげると、錚々たるメンバーである。

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 また、つい一昨日12月8日、第102代ガンデン座主リゾン・リンポチェが94才で逝去された。ガンデン座主はゲルク派学僧の最高位であり、アジアにおいても存在感のある方であった。謹んでご冥福をお祈りします。
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 天安門事件がおき、ベルリンの壁がくずれた歴史の転換点とも言われたあの1989年にも、昭和天皇、手塚治虫、松下幸之助、美空ひばり、のらくろの田河水泡など一時代を築いた有名人があいついで世を去った。あの時と同じく将来今年も歴史の転換点になるといわれるのであろうか。

 少なくとも、2月24日、プーチンが自分の個人的な歴史観を満足させるため、ウクライナに侵攻し世界を戦争にまきこんでからは、独裁体制の方が民主主義よりすぐれているという中国やロシアの主張に対して、「ないわー」という空気が支配的になった。

 また、ウクライナが必死で抵抗する姿をみせたことにより、欧米がこぞってウクライナを支持したことも(戦争開始直後はアメリカゼレンスキーに亡命の打診までしていたそうな)、大国の軍事的恫喝にさらされている弱小国に、強力な軍事同盟に属さないと自国が護れないこと、自国民が自国をまもる姿をみせないと支持をえられないことをつきつけた。

 結果、いままでロシアを刺激しないようNATOへの参加を自重してきた、北欧やスイスまで加盟を検討するようになった。ようは世界の安全保障環境が大幅に変化したのである。やはり今年は歴史の転換点となるかもしれない。

 さて、チベット関連の四大ニュース時系列でいきます(関連するURLもはっています)。
 
2月24日 ロシアがウクライナに侵攻。チベット仏教徒のブリヤート人は貧しさからロシア軍に多数在籍していたため多数が戦死(詳しくはココ)。このエントリーのコメント欄に他には見えない形でおそらくはブリヤート人と思われる方から、感謝の言葉がはいったのが印象的だった。

5月27日 チベット最大の辞典『モンラム大事典』が完成(ネットでひけます)。チベット文化の中枢である仏教文化について多数の語彙解説を含み、それは中国共産党ではできない事業であるため、チベット文化の正統な継承者は難民社会であることを示した (詳しくはココ)。

9月8日 エリザベス二世の崩御にともない、かねてよりダライラマ14世と交友関係にあるチャールズ国王即位。

9月17日 ニュー・カーダムパ・トラディション (NKT) の創設者であるケルサン・ギャツォ死去。この方はもともとダライ・ラマと同じゲルク派の僧でイギリスに駐留していたが、シュクデンと呼ばれる護法尊を祀ったことからゲルク派と決別した。それ以後、この派の支持者(主にヨーロッパ人)はダライラマが欧米を訪問するたびにアンチ・ダライラマデモをかけることで有名なグループとなった。しかし、このグループに中国の資金が流れていることをロイター通信が報道した2016年、会は解散した(詳しくはココ)。
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