fc2ブログ
白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/04/23(土)   CATEGORY: 未分類
タイとロシアの古い縁
2022年4月7日、国連人権委員会でロシアの理事国資格を停止する決議が行われた。結果は93ヶ国が賛成(セルビア、アルメニアも含めて欧州諸国はまとまった)。24ヶ国が反対。58ヶ国が棄権。
タイ

 反対国はアレな国々なので分かりやすいが、棄権国の中に仏教国家で平和な国のイメージのあるタイが含まれていることを意外と思う人がいるかもしれない。しかし、実はタイ(当時はシャム)とロシアの繋がりはロシア帝国期に遡る長い関係があるのである。

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世は皇太子時代(1890〜1891)ロシアの軍艦にのってアジアを旅をした。旅の記録はオリエンタリストとして有名なウフトンスキー公が行って豪華本で出版された(Travels in the East of Nicholas II. Emperor of Russia: when Cesarewitch, 1890-91)。ちなみに、現在ペテルスブルグにあるチベット・コレクションの大半はこのウフトンスキー公の力でそこにあるものである。

 ニコライ二世(当時皇太子)とウフトンスキー公は1890年12月23日にインドに上陸し、マドラスにおいてブッダガヤ復興運動が始まる直前の神智学協会の本部を訪れている。翌1891年にはセイロン(現スリランカ)、3月19日にはシャム(現タイ)に上陸し、ラーマ五世(チュラロンコン大王)とその皇子たちと交遊した。

 ニコライの旅は日本の大津で精神がちょっとアレな巡査に切りつけられ終わったが(大津事件)、この旅を通じてニコライはオリエンタリスティックな嗜好を強く持つようになった。てか、当時のヨーロッパのオリエンタリズムの流行にそのまま染まった。

 このあとロシアとシャム皇室同士の関係はどんどん深まり、この年の暮れにはシャムのダムロン王子がニコライのパパ、アレクサンドル三世とクリミア半島のリヴァディャ宮で謁見。


1896年にニコライ二世が即位すると、1897年にはラーマ五世自身がロシア帝国の都サンクトペテルスブルグを訪れ、シャム・ロシア関係は公式のものとなった。大使の交換も行われ、ラーマ五世お気に入りのまだ十代のチャクラボンス皇子 (Chakrabongse1883-1920)がロシアに送られた。

chakrabongse.png1899年には友好条約も締結された。

シャムが当時ロシアを非常に重視していたことは、インドで発掘されたばかりの舎利(仏様の遺骨)をラーマ五世は、他の仏教国をさしおいて、まずロシアに分骨したことにも現れている。

ことの起こりは、1898(明治31)、イギリス人の考古学者ウィリアム・ペッペがピプフラワーで舎利の入った容器を発見したことに始まる。その容器の銘文はアショーカ王時代のものであったため、舎利は限りなく真正に思われた(実は世界中の舎利を集めると象三頭分になるというくらい舎利は後世になるほど増え続けていたw)。
 
 当時、欧米で仏教は大ブームとなっており、それを追い風として伝統的な仏教国(スリランカ、ビルマ、日本)が結束して仏陀が悟りを開いたブッダガヤーの地を仏教徒に返還せよ、という運動をおこしていた(聖地復興運動)。それに対してブッダガヤーを支配するヒンドゥー教徒の地主は対立していた。インドを支配するイギリスはインド、スリランカ、ビルマ、いずれも自国の植民地であることから、どちらの側につくこともできずにいた。

 そこに、イギリス人の手によって真正の舎利が発掘されたのである。インド・イギリス政府は仏教徒の怒りを買わないため,舎利を仏教徒に寄贈することとし、当時唯一仏教王として独立国をはっていたシャムに白羽の矢が立った。
 1899年1月、ラーマ五世はインドに舎利奉迎の使節を派遣し、3月、持ち帰られた舎利はシャム各地で歓迎をうけた。

 仏教徒にとって真正の舎利は相当な権威をもつので、スリランカ独立の父のダルマパーラはこの舎利を手土産に鎖国中のチベットにいるダライラマ13世と連絡をとろうと考えていたという。

 ラーマ五世はこの舎利をスリランカとビルマに分骨することを決めていたが、その前に、たまたまロシアから一時帰国中であったチャクラボンス皇太子に舎利をロシアに持ち帰らせた(しかしこの事実は翌年まで伏せられた)。

1900年、3月4日、 ウフトンスキー公がロシア帝国下のチベット仏教徒60人を率いてチャクラボンス皇太子を訪れ、舎利を奉迎した。このチベット仏教徒はほとんどがブリヤート人で、二名程カルムック人が入っていたという*註1。

*註1以上のロシアの仏教徒への仏骨寄贈問題は、村嶋英治(2022)「稲垣満次郎と石川舜台の仏骨奉迎に因る仏教徒の団結構想:ピプラワ仏骨のタイ奉迎から日本奉迎まで(1898-1900)」 『アジア太平洋討究』 43: 215-257に詳しい。

 なぜ、ロシアに舎利を送ったことが伏せられたのかは、当時イギリスとロシアが対立しており、イギリスの植民地となっている他の仏教国(スリランカ、ビルマ) に先んじて、ロシアの仏教徒を優遇したことが露見すると外交的にまずかったからであろう。

チャクラボンス王子はロシア女性と結婚し、1906年にシャムに帰国した後、空軍の創設に尽力した。そう、つまりシャムの軍隊はロシア帝国式なのである。
 
 ではなぜシャムはロシアと仲が良かったのか? これは普通に地政学で説明がつく。シヤムは西の国境にイギリスの植民地ビルマ(現ミャンマー)、東の国境にカンボジアとラオスというフランスの植民地がせまり、英仏にごりごり領土を削られている状況下だったので、軍事的にはこの両国と対立するロシアと友好関係を保ちたかったのであろう。

 1904年にイギリスに攻め込まれたダライラマ13世が、ロシアの庇護をもとめて北上したのもその流れである。イギリスの敵は自分の味方というわけ。

 ちなみに、舎利がロシアに送られたことを知ったシャム公使稲垣満次郎は「あのにっくきロシアが舎利を手に入れたとな。日本も仏教国として負けていられない」、と日本からもラーマ五世に働きかけ、東本願寺の僧侶を中心とする仏骨奉迎団がにぎにぎしくタイに旅立ったのであった。

 しかし、持ち帰った舎利をどこにお祀りするかで各宗派でもめまくった挙げ句、結局名古屋の日泰寺(日暹寺)を新しく建立してそこでお祀りすることとなった。現在もこのお寺は日本・タイ友好のシンボルである(→詳しくはここ)。
日泰寺

 仏教の存在感が今よりもずっと大きかった20世紀初頭、イギリス人の手によって発掘された舎利は各国仏教徒のナショナリズムを刺激しまくっていたのであった。

 日泰寺の初代管長は舎利奉迎団の一員でもあった曹洞宗の日置黙仙(ひおきもくせん1847-1920)。この人は辛亥革命直後の1912年にインドで仏跡巡礼を行った際、ダライラマ13世とカリンポンで謁見している。その時の通訳が当時カルカッタ大学で教鞭をとっていた山上 曹源(やまがみそうげん1878-1957)なのである(前エントリー参照)。

このダライラマ13世謁見記録の詳細は山上 曹源が山上天川名でかいた『今日の印度』の最後の方に付録でついているので、ごらんあれ*註2。
今日の印度

*註2 デジタル化されていますのでどなたでもここで読めます

 この謁見記によると、山上曹源はチベットの御用商人ニイジャンを「友人」と呼んでおり、ダライラマはカルカッタ大学で山上がパーリ語の授業をやっていることに興味をもっている。これは山上はこの時点である程度チベットと通じており、ダライラマも明らかに山上が身を置いている神智学協会(協会長がカルカッタ大学の学長)やそこから分岐した聖地復興運動などに親しみ始めていたことを示している(それ以前にダライラマは1908年に北京でシッキムのクマル王子から聖地復興運動などについて聞き及んでいる)。

 というわけでタイ(シャム)とロシアの友好はいまなお続いているのである。ちなみに、ダライラマ14世が亡命後はじめての外遊先がタイ経由日本だった。日本とタイは同じ仏教国で植民地になったことがないという共通点があるものの(日本は敗戦後アメリカに占領されたがたった五年だし)、日露戦争でも、第二次世界大戦でもロシアと干戈を交えており、決して友好国とは言えないことを考えると、随分異なる歴史を歩んだものである。

 
[ TB*0 | CO*21 ] page top
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ