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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/03/24(木)   CATEGORY: 未分類
矢島は結構重大な使命負ってた
3月23日、ウクライナのゼレンスキー大統領が戦火のキエフからオンラインで日本の国会に向けて演説をした。ウクライナの街々は瓦礫と化し、民間人の犠牲も増える中、とにかく国際社会の支援を得ようと大統領は各国の国家にむけてオンライン演説を続けている。大統領の演説はどこの国でもスタンディング・オベーションで迎えられている。

 一方、プーチン大統領は、大義のない暴力を振るっているのでどこの国からも共感されず、情報統制を行っている国民に向けてしか演説はしていない、ていうかできない。

 無辜の市民が死んでいく現在、一刻も早くプーチンの権力基盤が崩れて欲しいと願う毎日であるが、北朝鮮にしても天安門事件後の中国にしても、いかに暴挙を行い世界から制裁をうけても、独裁国家の足腰は強い。しかし、今度こそは国連を骨抜きにするあの二大常任理事国が心を入れ替える契機になってほしい(入れ替えるのは心だけで無くてもいいのよw)。

 ゼレンスキーが奇しくも言ったように、ロシアは面積で大国でも、倫理的には小国である。どことはいわないが、海を隔てた隣の国も同じ。『論語』が「徳は必ず孤ならず。必ず隣り有り」というけど、正しい行動をとっていれば、必ず助ける人がでてくるという意味である。聞こえてますか、あなたの国の伝統倫理だよ。

 さて、ここでチベットネタにハンドルきります。

 今から110年前の1912年、ダライラマはラサを占領する清朝軍をさけて英領インドに亡命していた。同年清朝が崩壊したことを受けて、ダライラマは清朝軍を追い出してラサに帰還を考えていた。しかし、仏教国家であるため、軍事力がない。近年の研究で、1912年当時チベット政府は、今のゼレンスキー大統領のようにラサを取り戻すために各国に軍事支援を求めていたことが分かってきた。
 そのうちの一国が日本であった。

 矢島保治郎(1882-1963)という日本人がいる。1911年3月4日に日本人として四番目、東チベットルートでは初めてチベットの都ラサに入ったことで知られる。この男がちょうどこの1912年にチベット入りをしている。
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矢島保治郎の研究者である浅田晃彦氏は『世界無銭旅行者』の中で、矢島が1911年の第一回目ラサ旅行からの帰国後、短い日本滞在期間後にとんぼ返りで二度目のラサ入りをした背景には、矢島がその短い日本滞在期間に川島浪速と接触し、何らかの使命を受けたからだという。

 清朝崩壊の直前、1911年12月に、外モンゴルはすでに転生僧ジェブツンダンパ8世を国王に戴いて独立宣言を行っており、清朝と外モンゴルに夾まれた内モンゴルの諸王公は中華民国につくかモンゴルにつくかの選択を迫られていた。川島浪速はこの時、内モンゴルを中国から離そうと、内モンゴルの有力王公クンサンノルブや清朝皇室の粛親王と動いた大陸浪人である。この川島が同じくチベットから中国(清朝)軍を追い出そうしていたダライラマにもかかわろうとしていたことは十分にありうる。

 矢島以前にラサ入りした河口慧海、成田安輝、寺本婉雅が仏教界や日本の未来などを背負ってラサ入りしていたのとは対照的に、矢島は世界無銭旅行を推奨する力行会というバンカラ集団のメンバーとして行動していた。なので、そのお気楽かつ破天荒な言動に今にいたるまでファンが多い。

 この前寺本婉雅のエントリーをFBにあげた時、九州のWさんが「矢島の『入藏日誌』を見直してみたが矢島も寺本同様、ダライラマに工作するには役不足だったかも」とコメントされたのをみて、『入藏日誌』に興味をもってとりよせてみることとした。

 そう、私は日本とチベットの関係については「日本語でできるから、私がやらなくても誰かがやるだろう」と思い、基本的な文献すら揃えていなかったのだ(威張っていうことではない)。ネットで探してみると、群馬の古本屋さんに一冊きりしかなく、これを私が買ってしまったのでみなさんは図書館にいってください。
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『入藏日誌』が届いて、それを紐解いたのは、寿司屋のカウンターでランチをまつ間であった。二頁目まで読んだ時、矢島のチベットへの水先案内人として、「チベット政府の御用商人「ニャンチャンツォンペン」(ツォンペンはtshong dponすなわち「交易商の長」という意味)の名前があることに瞠目した。「ニャンチャン?。見覚えある!」
 さらに、矢島がこのチベット行を報告している「山上」なる名にも心に響くものが。この二つの名は同じ機密外交文書に載っていた。
 その文書とは以下のものである。若干読みやすくするため手を入れている。

 明治45(1912)年5月14日付け、柴田總領事代理から内田康哉外務大臣宛  2966暗号 第一三號

ダライラマの総理大臣の深き信用を受け名は御用商人なるも、その実財政上の遣繰り(やりくり)はもちろん、一般重要国務の相談にも与(あず)かると云う西蔵人「ニイジャン」なる者、山上ソウゲンを通じて面会を請へるにつき、五月十二日密に会見したるところ、
 同人は[チベット]総理大臣の内意を受けて、第一大臣会議に於て清国兵のチベットより駆逐し、出来べくは、モンゴルと同じく独立を布告せんことに決したるも、第一の憂慮は清国よりの応報により清国、もし優勢の援軍を派遣するに於けば、チベットの独力、到底(とうてい)これに抵抗すること能はざるべきに付ては、日本は同種の好(よしみ)を以て、援助をチベットに致し、場合に依りては、これをその保護の下に置くの意向を有せざるべきか


 この後も文書は続くが、要は、チベット政府の「御用商人ニィジャン」なるものが「山上ソウゲン」を通じて、日本にチベットへの軍事支援を求めた文書である、それをカルカッタの柴田總領事代理が外務大臣内田康哉に自分の考えも加えて送った文書である。

 引用しなかった部文では、日本以外にイギリスとロシアにも支援を求めたが、1907年の英露協商にしばられて両国に却下されたことが縷々説明されている。
 
 浅田氏は矢島の書簡の中にでてくる「山上」については不明とし、かつ、「御用商人ニィジャン」に至ってはスルーしているが、この山上ソウゲンとは、明治期の曹洞宗の名僧山上 曹源(1878-1957)である。彼は1906年にセイロン(現スリランカ)に留学し、1907年にはカルカッタ大学でパーリ語などの教鞭をとっていた。山上は帰国後、駒澤大学でインドの宗教・哲学を担当し(後に学長に就任)、駒沢学園を創立するなど明治期の曹洞宗の教育者の中でも出色の人物である。

 ちなみに、カルカッタ大学での山上の後援を行っていたのはカルカッタ大学の学長Ashutosh Mukherjeeであり、この人物は大菩提協会(Mahabodhi Society) の会長でもあった。神智学協会は仏教を非常に高く評価しており、鎖国中のチベットのダライラマを名誉総裁にするほどであった(コンタクトとれてなくても)。

また、このカルカッタの總領事柴田の代理は平田知夫といい、無一文の矢島が第一回のチベット旅行からインドに戻ってきた後、五ヶ月も居候をさせてあげた奇特な官僚である。平田總領事代理、山上曹源、ニィジャンと当時のインドのチベット支援人脈の中に、矢島が加わっていたことがこれで明らかになった。とにもかくにもチベット政府の要人であるニィジャン/ニンチャンとともにチベット入りを開始し、山上の支援をうけていたことから、浅田氏がいうように、矢島が何らかの使命をえてチベットに向かっていたことは疑いない

 しかし、W氏が「役不足」といみじくも指摘したように、『入藏日誌』によると、矢島は旅のかなり初めの頃に、ニィジャン/ニンチャンに捨てられて、単独でダライラマのキャラバンを必死でおいかける展開になる(笑)。おそらくこの時点では矢島も寺本同様、あまりチベット側から信頼されていなかったものと思われる。

 ラサの清朝軍はチベット軍のがんばりとイギリスの調停もあって無事退去させることに成功し、1913年1月、ダライラマ13世がラサに凱旋した。この流れの中で日本の外務省はダライラマにラサ帰還を自重するように求めつづけており、軍事支援についても非協力的であった。チベット側からみて日本の支援は頼りにならなかったが、この後、多田等観、青木文教、河口慧海、矢島保治郎の日本人四名はお客分の扱いでラサ滞在を許され、矢島にいたってはチベットの貴婦人を娶り、人生の絶頂期を体験する。
 
 以下、1912年の略年表メモ。

●1912 年(明治45) 年

2/2 川島浪速が粛親王を北京からつれだす。
2/12 清朝最後の皇帝溥儀、退位。清朝崩壊。
2/17 カリンポン滞在中のダライラマ13世河口慧海を通じて明治天皇へ上書。
2/28 カルカッタ總領事柴田から外務大臣内田に報告。外務省が受け取ったのは4/30 。
2/21 落合謙太郎奉天總領事から内田に川島を封じるように電報。
3/1 川嶋浪速と参謀本部は、ハラチンのクンサンノルブとバーリン王ジャガルへ送金。外務省の反対で計画は中止に追い込まれる。クンサンノルブ、北京からモンゴルへ戻る。
3/28 大谷光瑞から徳富蘇峰へ、「ダライラマ13世から頻繁にチベットの支那兵を撤兵させるよう袁世凱に勧告しろといってきたけど、そんなこと言えないよ」。
3/28 ラサでチベットと清軍が衝突。
5/14 カルカッタ柴田總領事代理から内田康哉外務大臣へ、チベットの御用商人が独立のための軍事支援を要請。
6/19 矢島カルカッタをラサにむけて出発(入藏日誌)
7/8 第三回日露協約。辛亥革命を受け日露で内モンゴルを東西に分割。ロシアはモンゴルと単独交渉権を得る。
7/23 矢島、ラサに到着。
7/24 内田外務大臣が北京の伊集院公使に宛てて「西蔵ヨリ帝国政府ノ援助申出ニ関スル件」機密80号

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