寺本婉雅の黒歴史パート2
さて、正月休みに傑作なことが分かったのですが、肩折ってしばらくブログが書けなかったので、今書きます。
主人公は1905年に日本人として三番目にラサに到達した寺本婉雅(てらもとえんが) という僧。以前このブログで寺本が北京公使矢野龍渓の肩書きを自分で偽造していたことを明らかにしたが(ここで過去記事みられます)、今回も彼の黒歴史について。

1905年にラサ潜入に成功した寺本は、参謀本部に目をかけられるようになり、1906年に、福島安正の命令で東北チベットのクンブムに滞在するダライラマ13世に直接工作をかけにいく。
参謀本部はダライラマ13世を日本に来させて近代化を目の当たりにさせることによって、ロシアの支援を求めていたダライラマ13世を親日に変えてしまおう、というチキチキ接待大作戦を考えていた。その実行役が寺本だったのである。
1906 年11月22日、寺本はクンブム大僧院に滞在するダライラマ13世との謁見に成功する。その後、寺本は日本への報告書や書簡に、ダライラマ13世との面会は十数回に及び,日々親交が深まっていると自信満々にかいて送ってきたが、ダライラマ13世が日本に観光にこなかったのは歴史的事実。やっとのことでダライラマ13世ではなく、高僧ツァワ・ティトゥルが日本にきたのは1911年5月のことであった。
チベットの要人を日本に招くことがなぜこんなに遅延したのか。その上1911年には青木文教・多田等観などがツァワ・ティトゥルの接待にあたり、当初この計画を遂行していた寺本が消えたのはなぜなのか。これらの理由についてはいままではっきりとした説明はつけられていなかった。
正月休みに寺本の旅日記をまじめに読んでいて、あることに気づいた。11月22日の寺本の初めてのダライラマ13世との謁見をした後 (寺本はおそらくはダライラマ13世が日本人と認識してあった最初の人である)、寺本の日記は翌年二月まで無音になるのである。
謁見直前の寺本は、希望に満ちあふれていた。10月26日の日記には「達頼喇嘛に謁見して、日本仏教の盛大なるを説き、日本帝国、強大なる威光を達頼の頭上に蒙らしめんと欲するなり。」とこんな感じで日本の威光にチベットやダライラマ13世がひれ伏すことを疑っていない。日記には日本仏教が主導する東西仏教の提携という夢にうざいばかりの情熱が溢れていて、うっぷという感じである。寺本がとくにいっちゃった国士様であったわけでなく、日露戦争に勝利した当時の日本人は大体こんな感じであった。日本がアジアを指導するんだ、という信念に燃えていたのである。
なのに、肝腎の謁見のあと日記は中断。翌年再開するものの、その内容は時局の話やダライラマ13世の側近に対する不満などが目立ち、かつての勢いはなくなっている。
そこで改めて寺本とダライラマの個別の会見について記した記事を洗うと、クンブムにおいてダライラマと初対面したこの1906年の11月22日の謁見と、クンブムから一時帰国する際に告別のために行われた1907年11月24日の謁見の二回しかないことに気づく。これは到着の謁見と告別の謁見であって普通のプロトコールである。
1907年11月20日の寺本の大隈重信宛書簡では「達頼と小生との交通は日を逐ふて誼厚を加へ候昨冬達頼此地に来錫致候時より自から謁見十数囬に及ひ」とあるが、十数回も面談していたなら饒舌で自信家の寺本のこと、いちいちそれを誇らしげに記録し、ダライラマ13世がいかに日本の勢威に恐れ入ったかを書くはずである。それがない。あるのは、たった二回の簡単な記事のみ。
これは何を意味するのか。
ここでこの前に寺本の偽造に気づいた時と同じアンテナが反応する。寺本はクンブム滞在中、この二回の形式的な謁見以外ダライラマ13世と直接会えていなかったのではないか。寺本の尊大な態度はダライラマ13世側近の不興を買い、寺本の提言は直接上申すらされていなかったのではないのか。しかしそれを参謀本部に伝えるわけにいかないから、ダライラマ13世は行きたがっているが、〜の理由で今は行かれない、という話にしてすりかえていたのではないか。と。
では十数回のダライラマ13世との面談とは何を指すのか。寺本が何度も訪問し、留学生問題を話し合った相手、東本願寺法主の書簡を寺本にかわってダライラマに奉呈し、また、ダライラマから本願寺法主への返信を寺本に受け渡した人物は、ダライラマの側近の一人であるドゥルワ=ケンポである。つまり、寺本の主張する十数回のダライラマとの謁見とは、この側近ドゥルワを仲立ちにしたやりとりを指している可能性が高い。
寺本がダライラマとともに北京に滞在していた時期に外務省に提出した「北京駐錫達頼喇嘛随從官ト其策謀者」(1908年10月25日付) と題する報告書によると、「列国使臣に交渉せる堪布(ダライラマ13世の側近の尊称・ケンポ)」という項目の筆頭に、ドゥルワの名前を挙げ以下のようにそのプロフィールを記している。
一、謝堪布(一名ドゥルワ堪布、蒙古喀喇泌旗下の人) (中略)
ドゥルワ堪布一名謝堪布は清朝黨にして総て喀喇泌王の下命に依て動くものなるも・・・(以下略)、
注目すべきは、ドゥルワが内モンゴルのハラチン(喀喇泌)出身であり、ハラチン王即ちクンサンノルブの命令に従っていたという部分である。これでなぜドゥルワが日本人寺本のために動いたのかという謎がとける。ハラチンの郡王クンサンノルブは1903年に日本に視察に訪れ、日本から教習を受け入れ、又、留学生を日本に送り込んだぶっちゃけて言えば親日のモンゴル人である。
ラサの僧院は内外モンゴルや遠くはブリヤートからの修行僧を受け入れており、彼等は僧院の地域寮を通じて故郷の人脈とも連絡がつながっている。ハラチン出身のダライラマ13世の側近がハラチン王からの情報を下に日本人寺本をダライラマ13世に取り次いだ可能性は極めて高い。
話が細かくなるので省略するが、ダライラマ13世は参謀本部の福島安正宛の書簡も、東本願寺法主宛書簡もすべて臣下に宛てる形式でだしており、寺本が期待したような、日本の勢威に恐れ入って、日本に学ばせて戴こうなんて雰囲気はみじんもない。
ダライラマ13世はチベット仏教が世界的に高い評価を受けていることを知っているので日本仏教に恐れいるはずもないし、そもそも物質文明の発展に重きを置かないチベット僧に、日本視察をさせても大した効果は見込めなかったであろう。
それでも、ドゥルワが1907年の5月から寺本をダライラマ13世につなぎ始めたのは、英露協商の締結などによりダライラマ13世の選択肢が狭まってきたことから、日本への支援要請も考慮されるようになったというだけであろう。
ご想像のとおり、日本はダライラマ13世が希望したような支援はおこなわなかったため、ドゥルワはダライラマ13世の側近の協議の場から外されることになる。先ほどのドゥルワに関する報告は以下の言葉で結ばれている。
然れども今や彼は秘密の相談には毫も預かるの権なし。只達頼の命令を奉る而巳。
参謀本部がダライラマ13世に直接工作をかけた理由は、ダライラマ13世との関係を構築することによって、清やイギリスのために謀ること、また、モンゴルにロシアが南下する時の生け籬をつくることであった。しかし、ダライラマ13世が日本と接触した理由はチベットの主権を清朝から取り戻すための支援をえることにある。日本に操られ清やイギリスのためになるような行動をとろうなんてみじんも思っていないわけである。
つまり、両者の思惑は常にすれちがっていたため、ダライラマ13世の日本観光は実現しないし、寺本も評価されなかったわけである。久々に面白い資料批判ができたので昨日これを一部にふくめた論文を提出した。詳しいことを知りたい方はそれをご覧あれ。
主人公は1905年に日本人として三番目にラサに到達した寺本婉雅(てらもとえんが) という僧。以前このブログで寺本が北京公使矢野龍渓の肩書きを自分で偽造していたことを明らかにしたが(ここで過去記事みられます)、今回も彼の黒歴史について。

1905年にラサ潜入に成功した寺本は、参謀本部に目をかけられるようになり、1906年に、福島安正の命令で東北チベットのクンブムに滞在するダライラマ13世に直接工作をかけにいく。
参謀本部はダライラマ13世を日本に来させて近代化を目の当たりにさせることによって、ロシアの支援を求めていたダライラマ13世を親日に変えてしまおう、というチキチキ接待大作戦を考えていた。その実行役が寺本だったのである。
1906 年11月22日、寺本はクンブム大僧院に滞在するダライラマ13世との謁見に成功する。その後、寺本は日本への報告書や書簡に、ダライラマ13世との面会は十数回に及び,日々親交が深まっていると自信満々にかいて送ってきたが、ダライラマ13世が日本に観光にこなかったのは歴史的事実。やっとのことでダライラマ13世ではなく、高僧ツァワ・ティトゥルが日本にきたのは1911年5月のことであった。
チベットの要人を日本に招くことがなぜこんなに遅延したのか。その上1911年には青木文教・多田等観などがツァワ・ティトゥルの接待にあたり、当初この計画を遂行していた寺本が消えたのはなぜなのか。これらの理由についてはいままではっきりとした説明はつけられていなかった。
正月休みに寺本の旅日記をまじめに読んでいて、あることに気づいた。11月22日の寺本の初めてのダライラマ13世との謁見をした後 (寺本はおそらくはダライラマ13世が日本人と認識してあった最初の人である)、寺本の日記は翌年二月まで無音になるのである。
謁見直前の寺本は、希望に満ちあふれていた。10月26日の日記には「達頼喇嘛に謁見して、日本仏教の盛大なるを説き、日本帝国、強大なる威光を達頼の頭上に蒙らしめんと欲するなり。」とこんな感じで日本の威光にチベットやダライラマ13世がひれ伏すことを疑っていない。日記には日本仏教が主導する東西仏教の提携という夢にうざいばかりの情熱が溢れていて、うっぷという感じである。寺本がとくにいっちゃった国士様であったわけでなく、日露戦争に勝利した当時の日本人は大体こんな感じであった。日本がアジアを指導するんだ、という信念に燃えていたのである。
なのに、肝腎の謁見のあと日記は中断。翌年再開するものの、その内容は時局の話やダライラマ13世の側近に対する不満などが目立ち、かつての勢いはなくなっている。
そこで改めて寺本とダライラマの個別の会見について記した記事を洗うと、クンブムにおいてダライラマと初対面したこの1906年の11月22日の謁見と、クンブムから一時帰国する際に告別のために行われた1907年11月24日の謁見の二回しかないことに気づく。これは到着の謁見と告別の謁見であって普通のプロトコールである。
1907年11月20日の寺本の大隈重信宛書簡では「達頼と小生との交通は日を逐ふて誼厚を加へ候昨冬達頼此地に来錫致候時より自から謁見十数囬に及ひ」とあるが、十数回も面談していたなら饒舌で自信家の寺本のこと、いちいちそれを誇らしげに記録し、ダライラマ13世がいかに日本の勢威に恐れ入ったかを書くはずである。それがない。あるのは、たった二回の簡単な記事のみ。
これは何を意味するのか。
ここでこの前に寺本の偽造に気づいた時と同じアンテナが反応する。寺本はクンブム滞在中、この二回の形式的な謁見以外ダライラマ13世と直接会えていなかったのではないか。寺本の尊大な態度はダライラマ13世側近の不興を買い、寺本の提言は直接上申すらされていなかったのではないのか。しかしそれを参謀本部に伝えるわけにいかないから、ダライラマ13世は行きたがっているが、〜の理由で今は行かれない、という話にしてすりかえていたのではないか。と。
では十数回のダライラマ13世との面談とは何を指すのか。寺本が何度も訪問し、留学生問題を話し合った相手、東本願寺法主の書簡を寺本にかわってダライラマに奉呈し、また、ダライラマから本願寺法主への返信を寺本に受け渡した人物は、ダライラマの側近の一人であるドゥルワ=ケンポである。つまり、寺本の主張する十数回のダライラマとの謁見とは、この側近ドゥルワを仲立ちにしたやりとりを指している可能性が高い。
寺本がダライラマとともに北京に滞在していた時期に外務省に提出した「北京駐錫達頼喇嘛随從官ト其策謀者」(1908年10月25日付) と題する報告書によると、「列国使臣に交渉せる堪布(ダライラマ13世の側近の尊称・ケンポ)」という項目の筆頭に、ドゥルワの名前を挙げ以下のようにそのプロフィールを記している。
一、謝堪布(一名ドゥルワ堪布、蒙古喀喇泌旗下の人) (中略)
ドゥルワ堪布一名謝堪布は清朝黨にして総て喀喇泌王の下命に依て動くものなるも・・・(以下略)、
注目すべきは、ドゥルワが内モンゴルのハラチン(喀喇泌)出身であり、ハラチン王即ちクンサンノルブの命令に従っていたという部分である。これでなぜドゥルワが日本人寺本のために動いたのかという謎がとける。ハラチンの郡王クンサンノルブは1903年に日本に視察に訪れ、日本から教習を受け入れ、又、留学生を日本に送り込んだぶっちゃけて言えば親日のモンゴル人である。
ラサの僧院は内外モンゴルや遠くはブリヤートからの修行僧を受け入れており、彼等は僧院の地域寮を通じて故郷の人脈とも連絡がつながっている。ハラチン出身のダライラマ13世の側近がハラチン王からの情報を下に日本人寺本をダライラマ13世に取り次いだ可能性は極めて高い。
話が細かくなるので省略するが、ダライラマ13世は参謀本部の福島安正宛の書簡も、東本願寺法主宛書簡もすべて臣下に宛てる形式でだしており、寺本が期待したような、日本の勢威に恐れ入って、日本に学ばせて戴こうなんて雰囲気はみじんもない。
ダライラマ13世はチベット仏教が世界的に高い評価を受けていることを知っているので日本仏教に恐れいるはずもないし、そもそも物質文明の発展に重きを置かないチベット僧に、日本視察をさせても大した効果は見込めなかったであろう。
それでも、ドゥルワが1907年の5月から寺本をダライラマ13世につなぎ始めたのは、英露協商の締結などによりダライラマ13世の選択肢が狭まってきたことから、日本への支援要請も考慮されるようになったというだけであろう。
ご想像のとおり、日本はダライラマ13世が希望したような支援はおこなわなかったため、ドゥルワはダライラマ13世の側近の協議の場から外されることになる。先ほどのドゥルワに関する報告は以下の言葉で結ばれている。
然れども今や彼は秘密の相談には毫も預かるの権なし。只達頼の命令を奉る而巳。
参謀本部がダライラマ13世に直接工作をかけた理由は、ダライラマ13世との関係を構築することによって、清やイギリスのために謀ること、また、モンゴルにロシアが南下する時の生け籬をつくることであった。しかし、ダライラマ13世が日本と接触した理由はチベットの主権を清朝から取り戻すための支援をえることにある。日本に操られ清やイギリスのためになるような行動をとろうなんてみじんも思っていないわけである。
つまり、両者の思惑は常にすれちがっていたため、ダライラマ13世の日本観光は実現しないし、寺本も評価されなかったわけである。久々に面白い資料批判ができたので昨日これを一部にふくめた論文を提出した。詳しいことを知りたい方はそれをご覧あれ。
ダライラマ秘話⑥「何人もダライラマの上にたつことはできない」
みなさん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
何回目かか忘れましたが、御正月恒例、ダライラマ宮廷のトリビアについて語るコーナーです。
本日のテーマは、「かつてのチベット社会では、何人も物理的にダライラマの上に立つことはできなかった」というお話です。
仏の悟りの境地は仏の宮殿、すなわちマンダラによって表されるが(一尊、一尊が仏の境地の様々な側面を象徴している)、これを3Dにすれば東西南北に門のある正方形の宮殿となる。そしてこの宮殿の中心にして最高処、すなわち、マンダラの中心には仏=本尊が君臨する。ダライラマはチベット社会で最高位の存在であるため、この本尊になぞらえられ、かつて「何人もダライラマの上にたつことはできな」かった。
具体的にはかつて、ダライラマは移動の際には人がかつぐ御輿の上にのって移動し、ダライラマが滞在する部屋はそれが亡命中の地方の僧院であれ、何であれ最上階の部屋が準備された。もし最上階でないと上階の人の足がダライラマの頭上にくるからである。
幼少期のダライラマ14世の宮廷を目撃したハインリッヒ・ハラーはその回顧録『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の中で幼いダライラマ14世が御正月15日の満月の日に人々の前に現れる際について以下のように記している([ ]内は私の補訳)。
この日(正月15日)にはダライラマ一行の行列があるのだ。ツァロン(チベット政府で外国人担当のようになっていた大臣) はパルコル(ラサの中心にある釈迦堂を一周する一番繁華な巡礼路)に面した窓の一つを約束してくれた。その席は一階に相違ない。というのはこの生き神様を二階や、まして屋根から見下すことは禁じられているからだ。パルコルに沿う家は三階建て以上のものは建てられない。これはポタラ[宮]と大寺院(釈迦堂)二つの見通しを悪くして、神を冒涜することになるからである。この規則は厳重に守られていて、貴族は屋根の上に、夏にはバラックを組むが、これは一時的なものでダライ・ラマか摂政が何かの儀式に参列することを予告されると[彼等を見下ろさないように]すぐ取除けられる(H.ハーラー『チベットの七年』128)。
ちなみに、ダライラマが漢人文化圏に入ると漢人の町は城壁に囲まれており、城門には門神が祀られているので、ダライラマの上に神はいちゃいけないということで、門がぶっ壊されることになる。ダライラマ13世が西寧でこれをやっていたのを当時青海を調査中のドイツの地理学者ターフェルが目撃している。ダライラマ13世が西寧にくるまでの過程はこうである。
ダライラマ13世は1904年イギリス軍のラサ侵攻を避けてチベットを脱出してロシアの支援を求めてイフ・フレー(現在のウラーンバートル)に向かった。しかし、日露戦争に負け、英露協商を結んだロシアにチベットを支援することはできず、1906年にダライラマは南下して10月31日には青海最大の漢人の町西寧府に到着したのである。
この際、清朝官僚のトップである蘭州総督升允がダライラマを奉迎した。この時の様子をターフェルは自著Meine Tibetreiseの中でこう述べている(寺本婉雅の和訳による)。
西寧府に到着したダライラマは暫くの間、城外の東方に居を定め、然る後にアンバン(満洲語で大臣の意味) の招きを容れて彼の衙門(役所)に居を移すことになっていた。ところでこの(ダライラマが城内に入る)ためにはアンバンはまずもって城門を取り壊さねばならなかった。なぜならダライラマが門をくぐるような屈辱を忍ぶはずは無かったからである。
アジアの皇帝ないし天子にとっては「越える」ことはあっても「くぐる」ことはあり得ないのである。・・・城門の上には門神などが祀ってあるが、たとえ瞬時であろうともそれらが皇帝ないし天子を見下ろすことは許されない。天子ないし皇帝はそれ自身が神であるばかりでなく、最高の神である。いわば神の中の神であって、・・・天以外に彼の上に立つものはないのである。ダライラマも自分に対しこれと全く同様のことを主張し、彼の部下に対しても同種のことを配慮を要求したのである。
この結果、西寧においてダライラマが通過する道は皇帝が通過する時と同じく、穴は埋められ、石が取り除かれて整備され、楼門の中の神祠も取り壊された。ダライラマは清朝の接待を謝絶していたが、清朝は自分が主人であることを示すためにダライラマに接待を受けるよう強要したための西寧府入城であった。現地官僚は、ダライラマ一行の奉迎のための支度、滞在にかかる費用をまかなうため増税したため、チベット仏教徒でない漢人は当然激怒していた。
ターフェルによると
ある支那寺院などは取り壊しに手間取っていたところをチベット人たちが祭仏ともどへも焼き払ってしまった。という。
ターフェルは天子の天にかけて、天以外が上にあってはいけないという解釈をしているが、チベット仏教においては普通にご本尊の上に人や神が足おいちゃいけないという感覚である。
ちなみに、ラサの中心にあるジョカン(釈迦堂)にまつられる釈迦牟尼仏像はチベットでもっとも大事にされている仏であり一階に祀られているが、その直上の二階にはチベット(とダライラマの)の守護女尊ペルテンラモが祀られている。これはチベット人が、「ペルテンラモだってお釈迦様の上にいるのだから、チベットで女性が強いのは当たりまえ」的なジョークネタになっている。
ダライラマ14世が1959年にチベットをでると、昔ほど厳格にダライラマの上を禁地にすることはなくなったが、今でも外遊先で準備されるホテルの部屋は最上階であることが多い。
ちなみに私は數年前ダライラマ14世がおとまりになった部屋の真下に泊まったことがあるが、ありがたくてテンション上がった。だって、私は蓮華座の下にいたんだから。
ちなみに、今年のチベット暦の正月は西暦三月三日。はいみなさん、今年初めての「チベットに自由を!」
何回目かか忘れましたが、御正月恒例、ダライラマ宮廷のトリビアについて語るコーナーです。
本日のテーマは、「かつてのチベット社会では、何人も物理的にダライラマの上に立つことはできなかった」というお話です。
仏の悟りの境地は仏の宮殿、すなわちマンダラによって表されるが(一尊、一尊が仏の境地の様々な側面を象徴している)、これを3Dにすれば東西南北に門のある正方形の宮殿となる。そしてこの宮殿の中心にして最高処、すなわち、マンダラの中心には仏=本尊が君臨する。ダライラマはチベット社会で最高位の存在であるため、この本尊になぞらえられ、かつて「何人もダライラマの上にたつことはできな」かった。
具体的にはかつて、ダライラマは移動の際には人がかつぐ御輿の上にのって移動し、ダライラマが滞在する部屋はそれが亡命中の地方の僧院であれ、何であれ最上階の部屋が準備された。もし最上階でないと上階の人の足がダライラマの頭上にくるからである。
幼少期のダライラマ14世の宮廷を目撃したハインリッヒ・ハラーはその回顧録『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の中で幼いダライラマ14世が御正月15日の満月の日に人々の前に現れる際について以下のように記している([ ]内は私の補訳)。
この日(正月15日)にはダライラマ一行の行列があるのだ。ツァロン(チベット政府で外国人担当のようになっていた大臣) はパルコル(ラサの中心にある釈迦堂を一周する一番繁華な巡礼路)に面した窓の一つを約束してくれた。その席は一階に相違ない。というのはこの生き神様を二階や、まして屋根から見下すことは禁じられているからだ。パルコルに沿う家は三階建て以上のものは建てられない。これはポタラ[宮]と大寺院(釈迦堂)二つの見通しを悪くして、神を冒涜することになるからである。この規則は厳重に守られていて、貴族は屋根の上に、夏にはバラックを組むが、これは一時的なものでダライ・ラマか摂政が何かの儀式に参列することを予告されると[彼等を見下ろさないように]すぐ取除けられる(H.ハーラー『チベットの七年』128)。
ちなみに、ダライラマが漢人文化圏に入ると漢人の町は城壁に囲まれており、城門には門神が祀られているので、ダライラマの上に神はいちゃいけないということで、門がぶっ壊されることになる。ダライラマ13世が西寧でこれをやっていたのを当時青海を調査中のドイツの地理学者ターフェルが目撃している。ダライラマ13世が西寧にくるまでの過程はこうである。
ダライラマ13世は1904年イギリス軍のラサ侵攻を避けてチベットを脱出してロシアの支援を求めてイフ・フレー(現在のウラーンバートル)に向かった。しかし、日露戦争に負け、英露協商を結んだロシアにチベットを支援することはできず、1906年にダライラマは南下して10月31日には青海最大の漢人の町西寧府に到着したのである。
この際、清朝官僚のトップである蘭州総督升允がダライラマを奉迎した。この時の様子をターフェルは自著Meine Tibetreiseの中でこう述べている(寺本婉雅の和訳による)。
西寧府に到着したダライラマは暫くの間、城外の東方に居を定め、然る後にアンバン(満洲語で大臣の意味) の招きを容れて彼の衙門(役所)に居を移すことになっていた。ところでこの(ダライラマが城内に入る)ためにはアンバンはまずもって城門を取り壊さねばならなかった。なぜならダライラマが門をくぐるような屈辱を忍ぶはずは無かったからである。
アジアの皇帝ないし天子にとっては「越える」ことはあっても「くぐる」ことはあり得ないのである。・・・城門の上には門神などが祀ってあるが、たとえ瞬時であろうともそれらが皇帝ないし天子を見下ろすことは許されない。天子ないし皇帝はそれ自身が神であるばかりでなく、最高の神である。いわば神の中の神であって、・・・天以外に彼の上に立つものはないのである。ダライラマも自分に対しこれと全く同様のことを主張し、彼の部下に対しても同種のことを配慮を要求したのである。
この結果、西寧においてダライラマが通過する道は皇帝が通過する時と同じく、穴は埋められ、石が取り除かれて整備され、楼門の中の神祠も取り壊された。ダライラマは清朝の接待を謝絶していたが、清朝は自分が主人であることを示すためにダライラマに接待を受けるよう強要したための西寧府入城であった。現地官僚は、ダライラマ一行の奉迎のための支度、滞在にかかる費用をまかなうため増税したため、チベット仏教徒でない漢人は当然激怒していた。
ターフェルによると
ある支那寺院などは取り壊しに手間取っていたところをチベット人たちが祭仏ともどへも焼き払ってしまった。という。
ターフェルは天子の天にかけて、天以外が上にあってはいけないという解釈をしているが、チベット仏教においては普通にご本尊の上に人や神が足おいちゃいけないという感覚である。
ちなみに、ラサの中心にあるジョカン(釈迦堂)にまつられる釈迦牟尼仏像はチベットでもっとも大事にされている仏であり一階に祀られているが、その直上の二階にはチベット(とダライラマの)の守護女尊ペルテンラモが祀られている。これはチベット人が、「ペルテンラモだってお釈迦様の上にいるのだから、チベットで女性が強いのは当たりまえ」的なジョークネタになっている。
ダライラマ14世が1959年にチベットをでると、昔ほど厳格にダライラマの上を禁地にすることはなくなったが、今でも外遊先で準備されるホテルの部屋は最上階であることが多い。
ちなみに私は數年前ダライラマ14世がおとまりになった部屋の真下に泊まったことがあるが、ありがたくてテンション上がった。だって、私は蓮華座の下にいたんだから。
ちなみに、今年のチベット暦の正月は西暦三月三日。はいみなさん、今年初めての「チベットに自由を!」
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