四ヶ月たって・・・
建て替えた我が家に戻り四ヶ月がすぎた。昭和なアナログボロ屋から、令和の家に引っ越した当初は、家の使い方がわからず困りはてた。ホームメーカーのやつらは厚さ十センチの使用説明書を置いていったが、あんなん誰が読むんだよ(読めよ 笑)。

風呂の付け方はわからん、ガスレンジの使い方はわからん、風呂はたけんし茶ものめん、「全部アナログに戻してくれ」と叫ぶ毎日 (写真は微妙な距離感で新居のガスレンジの上にとまるごろう様と花姫)。

廊下にでたり階段をあがったりすると人感センサーとやらで勝手に電気がつくのも気持ち悪いが、誰もいない廊下に電気がついて、「すわ白塗りの子がついてきたか」と思ったら猫が廊下にいた。人感センサーって猫サイズにも反応するのね。
「できるだけ前と同じデザインで」と指示して設計してもらった新居であるが、トイレと風呂と階段は前と同じにできなかったため、微妙に体になじまない。お鳥様が夜中にパニックを起こした時、1階から2階にかけあがった際、階段をふみはずして向こうずねをうちすごい痛かった。元のボロ屋は暗闇でもどこに何があるか体がわかっていたのに、今は見えても転ぶ。
心底、生まれ育った元のボロ屋が恋しく、そこに戻れないのならあのボロ仮住まいでもいいとさえ思った(ボロければいいのか? 自分? そういえばその仮住まいでも二回階段落ちしたw)。
新居になれないのはお鳥様も同じであった。ガラスが新品で透明であるため、引っ越してすぐ、何かに驚いて飛び立ったごろう様がガラスに激突した。古い家の時は、ガラスがこ汚かったので外の鳥も中の鳥もガラスをそれと認識してぶつかることはなかったのに。
ガラスに残るごろう様の「鳥拓」をみるにつけても、ごろう様に申し訳なく、急いで窓硝子に養生テープをバッテンに貼り(戦時中かよ)、ニトリにカーテンを買いに走った(鳥部屋のカーテンは鳥柄にしてゆっくり選ぼうと思ってつけてなかった)。
二度と窓硝子は磨かない、そう誓った三月の晴れた日であった。写真は鳥拓とご不浄に鎮座するうすさまオカメインコ。

そして、問題は猫である。立て付けの良すぎる新居の網戸は羽のように軽く簡単にあくため、猫がいつのまにか部屋からいなくなっていた時は驚いた。遠くへいってなかったので連れ戻せたが、外猫に病気をうつされたり、虐められて帰ってこなくなるとまずい。なので、網戸を養生テープではりこみ開かないようにしたが、今度は網戸に爪をかけて破る気まんまん。仕方無いので網戸の下の方はダンボール箱をつぶしてガード。貧乏臭いことこの上ない。
そして6月6日になった。新宅で迎える初めての先代ごろう様忌ならびに二世生誕祭である。ケーキも白、いただいたお花もワインも白、命日の厳粛と生誕のお祝いが交錯する悲しめでたい日である。(写真はモンサンクレールのバースデーケーキちゃんと二人の名前をいれてもらった)。


新居にうつって、一番心配だったのは一階と二階で分けているとは言え、猫(るり)とお鳥様が同じ屋根の下で暮らすことであった (前は猫は別棟にいた) 。
るりに、お鳥様は家族であること、決して手を出してはいけないことを根気強く諭したところ、鳥のいる二階にはまったく興味を示さず、ためしにごろう様を肩にのせたまま一階におりても無関心。二羽が部屋の中で大旋回をはじめると机の下にもぐり、自ら距離をとってくれるいい子になった。
それを見て、先代のるりも先代のごろう様にまったく害をなさなかったことを思い出す。ちなみに我が家のコンパニオンアニマルは転生によってその座をうけついでいるので、先代も当代も猫は「るり」、鳥は「ごろう」と名前も見た目も同じである。先代るりは10歳の頃に先代のごろう様をお迎えしたので、猫も10歳こえると人の都合を理解してくれるよう。

るりは新居にすぐなじみ、午前中は一階窓際の床の日だまりで眠りはじめた。ガラス一枚隔てた向こう側では雀たちがごはんをついばんでいる。日光東照宮の有名な眠り猫は、その後ろに雀の彫刻があり、猫と鳥が一緒の場所にいる、すなわち、太平の世の中を示しているというが、うちは眠り猫と雀が共存するリアルなアルカディア。思えば家はこの子たちのために建て替えたようなもの。
みんな長生きしてほしい。


風呂の付け方はわからん、ガスレンジの使い方はわからん、風呂はたけんし茶ものめん、「全部アナログに戻してくれ」と叫ぶ毎日 (写真は微妙な距離感で新居のガスレンジの上にとまるごろう様と花姫)。

廊下にでたり階段をあがったりすると人感センサーとやらで勝手に電気がつくのも気持ち悪いが、誰もいない廊下に電気がついて、「すわ白塗りの子がついてきたか」と思ったら猫が廊下にいた。人感センサーって猫サイズにも反応するのね。
「できるだけ前と同じデザインで」と指示して設計してもらった新居であるが、トイレと風呂と階段は前と同じにできなかったため、微妙に体になじまない。お鳥様が夜中にパニックを起こした時、1階から2階にかけあがった際、階段をふみはずして向こうずねをうちすごい痛かった。元のボロ屋は暗闇でもどこに何があるか体がわかっていたのに、今は見えても転ぶ。
心底、生まれ育った元のボロ屋が恋しく、そこに戻れないのならあのボロ仮住まいでもいいとさえ思った(ボロければいいのか? 自分? そういえばその仮住まいでも二回階段落ちしたw)。
新居になれないのはお鳥様も同じであった。ガラスが新品で透明であるため、引っ越してすぐ、何かに驚いて飛び立ったごろう様がガラスに激突した。古い家の時は、ガラスがこ汚かったので外の鳥も中の鳥もガラスをそれと認識してぶつかることはなかったのに。
ガラスに残るごろう様の「鳥拓」をみるにつけても、ごろう様に申し訳なく、急いで窓硝子に養生テープをバッテンに貼り(戦時中かよ)、ニトリにカーテンを買いに走った(鳥部屋のカーテンは鳥柄にしてゆっくり選ぼうと思ってつけてなかった)。
二度と窓硝子は磨かない、そう誓った三月の晴れた日であった。写真は鳥拓とご不浄に鎮座するうすさまオカメインコ。

そして、問題は猫である。立て付けの良すぎる新居の網戸は羽のように軽く簡単にあくため、猫がいつのまにか部屋からいなくなっていた時は驚いた。遠くへいってなかったので連れ戻せたが、外猫に病気をうつされたり、虐められて帰ってこなくなるとまずい。なので、網戸を養生テープではりこみ開かないようにしたが、今度は網戸に爪をかけて破る気まんまん。仕方無いので網戸の下の方はダンボール箱をつぶしてガード。貧乏臭いことこの上ない。
そして6月6日になった。新宅で迎える初めての先代ごろう様忌ならびに二世生誕祭である。ケーキも白、いただいたお花もワインも白、命日の厳粛と生誕のお祝いが交錯する悲しめでたい日である。(写真はモンサンクレールのバースデーケーキちゃんと二人の名前をいれてもらった)。


新居にうつって、一番心配だったのは一階と二階で分けているとは言え、猫(るり)とお鳥様が同じ屋根の下で暮らすことであった (前は猫は別棟にいた) 。
るりに、お鳥様は家族であること、決して手を出してはいけないことを根気強く諭したところ、鳥のいる二階にはまったく興味を示さず、ためしにごろう様を肩にのせたまま一階におりても無関心。二羽が部屋の中で大旋回をはじめると机の下にもぐり、自ら距離をとってくれるいい子になった。
それを見て、先代のるりも先代のごろう様にまったく害をなさなかったことを思い出す。ちなみに我が家のコンパニオンアニマルは転生によってその座をうけついでいるので、先代も当代も猫は「るり」、鳥は「ごろう」と名前も見た目も同じである。先代るりは10歳の頃に先代のごろう様をお迎えしたので、猫も10歳こえると人の都合を理解してくれるよう。

るりは新居にすぐなじみ、午前中は一階窓際の床の日だまりで眠りはじめた。ガラス一枚隔てた向こう側では雀たちがごはんをついばんでいる。日光東照宮の有名な眠り猫は、その後ろに雀の彫刻があり、猫と鳥が一緒の場所にいる、すなわち、太平の世の中を示しているというが、うちは眠り猫と雀が共存するリアルなアルカディア。思えば家はこの子たちのために建て替えたようなもの。
みんな長生きしてほしい。

タワンをフィールドにした四冊
本日はタワン(インド名: アルナーチャルプラデーシュ州)を研究対象とした四つの本をご紹介したい。
地図でいうとチベットの南、ブータンの東、ミャンマーの西にあたる地域で、チベットではタワンと呼ばれダライラマ6世の故郷として、またダライラマ14世が1959年にインドに亡命する際に通過した地点としても知られている(写真はクリックすると拡大します)。

この地域は1951年に人民解放軍がチベットに侵攻するまではダライラマ政権の支配下にあり、言語や文化はチベットである(但し他にも少数民族多数あり)。 タワンはインドが実効支配しているが、中国(チベット)がそれを承認していないため、両軍が対峙しており、その結果1992年までは外国人の入境が禁止されていた。
なぜこうなったのかというと、1913年にインドのシムラで英・チベット・中の間で交渉が行われた時、半年間双方資料をだしあって国境画定などを盛り込んだシムラ条約を調印しようと試みたのだが(チベット側は具体的な徴税文書とかを提示してここままでがチベットといったが、中国側は例によってここは中国だああああ、と主張)、調印の段階になって中華民国代表はイニシャルだけサインして逃げたため、イギリスとチベットだけで条約は結ばれた。
1949年中華人民共和国が成立し、翌年中国共産党がチベットに侵攻・占領すると「シムラ条約は調印してないから無効。マクマホンラインなんて知るか。タワンは中国のものだ」と言い出したので、いつ中国軍が南下してくるかわからない微妙な地域となってしまったのである。
そういうわけで、この地域はインドの中でも特別な地域となり外国人もインド人も入境が難しかったため、比較的最近まで近代化の波に洗われることのない伝統的な社会が存続していた。現在インドに属しているチベット文化圏のうち西部のラダックやザンスカールは研究が進んでいるが、このタワンは割と最近になって研究者のフィールドになったのである。
これからご紹介する以下の4冊の本のうちはこのようなフィールド研究の成果に基づくもので、最初の二冊

奥宮清人編(2011)『生老病死のエコロジー―チベット・ヒマラヤに生きる』昭和堂
奥宮清人編(2011)『続・生老病死のエコロジー―チベット・ヒマラヤに生きる ヒマラヤ・アンデスに生きる身体・こころ・時間』昭和堂
は、高地プロジェクトに参加した20数名の先生方の論著を集めた一般向け論文集である。編者である医学博士の奥宮清人先生(総合地球環境学研究所、京都)は世界中の高所(フンザ、アルナーチャルプラデーシュ、青海省、ラダック、ペルー)においてメディカルキャンプを行い、高地特有の生理的特徴や長寿の秘密を探ってこられた方である。
もう一冊は
水野 一晴(2012)『神秘の大地、アルナチャル―アッサム・ヒマラヤの自然とチベット人の社会』昭和堂
である。水野先生は高山や乾燥地の極限地域における自然環境と社会、自然地理・気候変動を研究テーマとされており、京都大学地理学研究会を主宰。私個人の興味としてはダライラマ政権の支配下に当該地域があった頃のラサとタワン地域の関係(納税・交易ルートetc.)を土地の古老からの聞き取りによってかなり詳細に解明していたのが興味深かった。

最後にご紹介するのは最近でたばかりの
長岡慶(2021)『病いと薬のコスモロジー――ヒマーラヤ東部タワンにおけるチベット医学、憑依、妖術の民族誌』春風社
である。
著者長岡氏は早稲田大学で自然地理学を学んだ後、京都大学の大学院においては人類学を専攻し、タワン地域のチベットの伝統医療を研究対象に定めた。
チベットの伝統医学は『ギュシ』(rgyud bzhi 通称『四部医典』) という古典に則り体系化されており、ヒマラヤ地域の豊かな動植物を薬材を調合するチベット薬によって名高い(その薬材については拙著『チベット伝統医学の薬材研究』を見てね! )。
長岡氏がタワンを研究対象に定めた理由は、チベットの伝統医学についての研究がラダックなどのインドの西部地域に偏っていることに気づき、「より低地で薬草などがゆたかに産出するタワンにはきっと西部とは異なった実地医学があるだろう、土地のアムチ(お医者さん)といっしょに薬草採取ができるといいな」と期待に胸をふくらませてタワンにいった。
しかーし、ついてみると村出身のはアムチはおらず、 診療所のアムチはダラムサラにあるチベット亡命政府が運営するメンツィーカン(医学校)を卒業した人であり、薬草つみも中・印国境の微妙な場所であることから外国人が同行することは不可能であった。
当初の期待がはずれてもそこからどうするかでその人の価値はきまる。よく見てみると村には人々が病になった時にたよる密教医やシャーマンなどはいる。また、インドがチベット医を登録制にする際に認定基準をめぐり、密教医とダラムサラのメンツィーカンで学んだ医者との間で対立があることなど、伝統が近代化に直面することによって生じる様々な事象を目にすることになった。こうしてタワンの医療がインドの医療制度と出会った時におきる様々な事象が本書のテーマの一つとなった。
ちなみに上のレベルではチベット医学全体としてはラサのメンツィーカンを主宰する中国が現在ユネスコの無形文化遺産にチベット医学を中国の伝統医学の一部として申請しており、一方インドもインドの伝統医学の一部としてチベット医学の承認を求めるなど空中戦を繰り広げている。病をなおすという実学であるがゆえにチベット医学は仏教のようにはげしい弾圧対象にならず(チベット医学は仏教と強い関係があるのだが中国はそのあたりはスルー)、ともあれ存続していると思うしかない。
この本のもう一つのテーマはタワンの人々が病をどう理解し、どのような対処をしているかというフィールドで見聞きした民族誌である。タワンのアムチたちの診療の実際なども記されており大変に面白いので興味のある方はぜひ本書おすすめです。
地図でいうとチベットの南、ブータンの東、ミャンマーの西にあたる地域で、チベットではタワンと呼ばれダライラマ6世の故郷として、またダライラマ14世が1959年にインドに亡命する際に通過した地点としても知られている(写真はクリックすると拡大します)。

この地域は1951年に人民解放軍がチベットに侵攻するまではダライラマ政権の支配下にあり、言語や文化はチベットである(但し他にも少数民族多数あり)。 タワンはインドが実効支配しているが、中国(チベット)がそれを承認していないため、両軍が対峙しており、その結果1992年までは外国人の入境が禁止されていた。
なぜこうなったのかというと、1913年にインドのシムラで英・チベット・中の間で交渉が行われた時、半年間双方資料をだしあって国境画定などを盛り込んだシムラ条約を調印しようと試みたのだが(チベット側は具体的な徴税文書とかを提示してここままでがチベットといったが、中国側は例によってここは中国だああああ、と主張)、調印の段階になって中華民国代表はイニシャルだけサインして逃げたため、イギリスとチベットだけで条約は結ばれた。
1949年中華人民共和国が成立し、翌年中国共産党がチベットに侵攻・占領すると「シムラ条約は調印してないから無効。マクマホンラインなんて知るか。タワンは中国のものだ」と言い出したので、いつ中国軍が南下してくるかわからない微妙な地域となってしまったのである。
そういうわけで、この地域はインドの中でも特別な地域となり外国人もインド人も入境が難しかったため、比較的最近まで近代化の波に洗われることのない伝統的な社会が存続していた。現在インドに属しているチベット文化圏のうち西部のラダックやザンスカールは研究が進んでいるが、このタワンは割と最近になって研究者のフィールドになったのである。
これからご紹介する以下の4冊の本のうちはこのようなフィールド研究の成果に基づくもので、最初の二冊

奥宮清人編(2011)『生老病死のエコロジー―チベット・ヒマラヤに生きる』昭和堂
奥宮清人編(2011)『続・生老病死のエコロジー―チベット・ヒマラヤに生きる ヒマラヤ・アンデスに生きる身体・こころ・時間』昭和堂
は、高地プロジェクトに参加した20数名の先生方の論著を集めた一般向け論文集である。編者である医学博士の奥宮清人先生(総合地球環境学研究所、京都)は世界中の高所(フンザ、アルナーチャルプラデーシュ、青海省、ラダック、ペルー)においてメディカルキャンプを行い、高地特有の生理的特徴や長寿の秘密を探ってこられた方である。
もう一冊は
水野 一晴(2012)『神秘の大地、アルナチャル―アッサム・ヒマラヤの自然とチベット人の社会』昭和堂
である。水野先生は高山や乾燥地の極限地域における自然環境と社会、自然地理・気候変動を研究テーマとされており、京都大学地理学研究会を主宰。私個人の興味としてはダライラマ政権の支配下に当該地域があった頃のラサとタワン地域の関係(納税・交易ルートetc.)を土地の古老からの聞き取りによってかなり詳細に解明していたのが興味深かった。

最後にご紹介するのは最近でたばかりの
長岡慶(2021)『病いと薬のコスモロジー――ヒマーラヤ東部タワンにおけるチベット医学、憑依、妖術の民族誌』春風社
である。
著者長岡氏は早稲田大学で自然地理学を学んだ後、京都大学の大学院においては人類学を専攻し、タワン地域のチベットの伝統医療を研究対象に定めた。
チベットの伝統医学は『ギュシ』(rgyud bzhi 通称『四部医典』) という古典に則り体系化されており、ヒマラヤ地域の豊かな動植物を薬材を調合するチベット薬によって名高い(その薬材については拙著『チベット伝統医学の薬材研究』を見てね! )。
長岡氏がタワンを研究対象に定めた理由は、チベットの伝統医学についての研究がラダックなどのインドの西部地域に偏っていることに気づき、「より低地で薬草などがゆたかに産出するタワンにはきっと西部とは異なった実地医学があるだろう、土地のアムチ(お医者さん)といっしょに薬草採取ができるといいな」と期待に胸をふくらませてタワンにいった。
しかーし、ついてみると村出身のはアムチはおらず、 診療所のアムチはダラムサラにあるチベット亡命政府が運営するメンツィーカン(医学校)を卒業した人であり、薬草つみも中・印国境の微妙な場所であることから外国人が同行することは不可能であった。
当初の期待がはずれてもそこからどうするかでその人の価値はきまる。よく見てみると村には人々が病になった時にたよる密教医やシャーマンなどはいる。また、インドがチベット医を登録制にする際に認定基準をめぐり、密教医とダラムサラのメンツィーカンで学んだ医者との間で対立があることなど、伝統が近代化に直面することによって生じる様々な事象を目にすることになった。こうしてタワンの医療がインドの医療制度と出会った時におきる様々な事象が本書のテーマの一つとなった。
ちなみに上のレベルではチベット医学全体としてはラサのメンツィーカンを主宰する中国が現在ユネスコの無形文化遺産にチベット医学を中国の伝統医学の一部として申請しており、一方インドもインドの伝統医学の一部としてチベット医学の承認を求めるなど空中戦を繰り広げている。病をなおすという実学であるがゆえにチベット医学は仏教のようにはげしい弾圧対象にならず(チベット医学は仏教と強い関係があるのだが中国はそのあたりはスルー)、ともあれ存続していると思うしかない。
この本のもう一つのテーマはタワンの人々が病をどう理解し、どのような対処をしているかというフィールドで見聞きした民族誌である。タワンのアムチたちの診療の実際なども記されており大変に面白いので興味のある方はぜひ本書おすすめです。
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