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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2021/02/11(木)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ即位の年のお正月
今年のチベットの正月(ロサル)一日は西暦で2月12日。今年は旧暦の正月と同じ日であるが、チベット暦は閏月の入れ方が旧暦と異なるのでずれる時は一月くらいずれることもある(写真はチベット人のおうちで作られるお正月のお供え)。
正月のお供えチベットは今年新しいシキョン(首相)が選ばれる変革の年である。願わくばそれがよい方に向かう変化であってほしい。


 チベットの伝統的な社会では一年を通じてカラフルな祭りが行われていたが、中でもお正月のそれは非常に盛大であり、この世にあるすべての命あるものの平和と安楽を21日かけて国をあげて祈りたおす
 その名もムンラムチェンモ(大祈願祭)である。

 この期間、社会は敬虔な雰囲気に包まれ、チベット的な感性がもりあがるため、中国の支配に抗議してのチベット人の過去三回の大蜂起は三回ともこのチベット暦正月の期間に起きている。ダライラマ亡命の契機となった1959年のチベット蜂起、ダライラマの平和に関する五項目の提案が契機となった1988-89年の蜂起、そして北京オリンピック開催が契機となった2008年のチベット人蜂起の三回である。

 このため中国政府はチベット人の蜂起を警戒してチベットのお正月にはチベット人を一段と厳しく取り締まるため、かつてのようなムンラムのもりあがりは中国支配下のチベットからは見いだすことはできない。
 では「インドのチベット人居留地で行われているお正月の雰囲気をお伝えしましょう」と云いたいところですが、どうせならチベットがまだ中国の支配下に入る前のお正月を紹介しちゃいましょう。現ダライラマ14世の即位式に参加したイギリス人ベイジル・グールド卿(の目撃したチベットのお正月である。

ベイジル・グールド卿(Sir Basil J. Gould, 1883-1956 )は英領シッキム政務官として、ダライラマ14世の即位式に参加するため1940年1月から6月にかけてチベットの都ラサに滞在した。1940年に行われたダライラマの即位式はチベット暦のお正月(西暦二月九日)に合わせて行われたので、この時の記録には伝統的なチベットのお正月の雰囲気がよく描写されている。以下はグールドが1941年に記した『ダライラマ14世(1935-)の探索・認定・即位に関する報告書』 からお正月関連の描写を引用したものである。

・王座への帰還

チベット暦正月というのは、年中行事として旧年の厄を払いが行われて新年を寿ぎ、二十一日間に亘る大祈願会が開催され、伝統的な華麗な式典とともに宗教儀礼が行われる時期であり、いつも何万という僧や巡礼者や地方の人々が〈12a〉ラサに集まってきて、そのためラサの人口が三、四倍にふくれあがる時期でもある。チベットの二月は、確かに寒くはあるが、チベットでは三回来ると言われている最も厳しい寒波の季節は一月の終わりごろにはもう終わっており、収穫と脱穀は終わったが耕作を開始するにはまだ早いし、羊の群れもあまり面倒を見る必要はないという時期なので、チベット人たちにとっては休日とするのにふさわしい時期なのである。またダライ・ラマ十三世はこの時期にいつもノルブリンカからポタラ宮へと数週間ほど居を移していた。そしてこの時、どこで正月を過ごすチベット人もみな、黄金の王座のことを考えていたのである。それゆえこうした多くの利点からしても、またすべてのチベット人の幸福のためにも、チベット政府としてはチベット暦一月こそが最も吉祥な日程であるとして、ダライ・ラマがポタラ宮に入り、歴代ダライ・ラマたちの王座に登る日として宣布したのである。

旧年の厄払い

[西暦]2月7日、ラサの住人とチベット全土から集まった訪問客の群衆は、ラサにいるイギリス人、中国人、ネパール人その他の外国人といった大勢の人々と一緒になって、旧年の厄払いをする年末恒例の儀礼(dgu gtor)を見に、ポタラ宮の中庭を囲む屋根や回廊に詰めかける。同様に{そこに集う者として}、煌く香炉、シンバル、金色の太鼓を携えた約100人の僧侶、仮面をつけた福の神である「和尚」と小坊主(ha phrug)の一行、黒帽を被った踊り子と、その他終日の儀礼に参加する大勢の人々が、ポタラ宮の内奥から伸びる急な〔石の〕階段を順に駆け下りて〔石畳の〕内庭に入る。中央の階段を用いてよいのはダライラマと和尚だけである。その上方には、主殿に沿って高さ100フィートの壁があり、その壁には三列四段となる数の張り出し窓とバルコニーがはめ込まれ、窓はそよ風にゆらぐフリル状の絹布と極彩色の服で飾られている。最上階の中央には、ミイラ化された故ダライラマの遺体が、その黄金の祠が完成するまでの間安置されていた小さい集会殿があり、その外側に{次のダライラマのものとなる}まだ誰もいないバルコニー席がある。<14a>その右は摂政であるが、彼はほぼいつも薄い黄金の帳(dar sang ser po)の後ろにいるので姿を見ることはできなかった。これ以外〔の部屋〕に、内閣、僧侶、俗人官吏といった様々な位の人々が身分に従って座っていた。内閣の隣にいるダライラマの家族の座所に、大勢の人々(見物人)が目を向けた。ダライラマの家族は初めて体験するチベットの大規模なページェントに興味津々のようであった。

・正月

2月9日(チベット暦元旦)、外国人の中では英国使節だけが、ポタラ宮の大集会殿で催される新年の仏教的な祝賀に立ち会うことを特別に許された。彼らは空席になっているダライラマの王座に絹のカターを捧げ、それから摂政と宰相にも〔全員が〕贈呈し、供された儀礼的な茶と食べ物を食した。他の国の者たち (使者)は、次の日の仏教色のより薄い儀式(恒例の謁見)に参加した。こうして数日間にわたり、新年の祝賀は慣例に則って執り行われていった。(後略)

・即位式

(前略)
しばらく通常の新年の儀式が続いた。三が日には、初日にポタラで行われる宗教色の濃い新年の儀式、二日目に行われる世俗色の濃い新年の儀式、三日目に政府〔僧俗官僚すべて〕による国家神託官ネチュン〔護法尊〕の訪問などがある。これに加えて、ラサの各家庭で新年は我々のクリスマスを思い起こさせるような形式と精神で私的に祝われる。それ以外の日は裸馬の競馬、力比べ、封建時代の武者行列、弓術などの形で、古いしきたりが維持され、多くの宗教的・半宗教的な新年の儀(政教一致の娯楽)がある。

これらの内もっとも印象的なのは、チベット暦の正月15日と<25b> 25日頃に開催されるものだ。15日の日、厳格な儀式である祈願会の日々から一息ついて、街はリラックスした喜びに包まれる。一周約半マイルの大聖堂(釈迦像を祭るジョカンのこと)の環状巡礼路(bar bskor )のぐるりには、バターをこねて作られたカラフルな様々な意匠をくっつけた巨大なミラミッド型の構造物がたてられる。〔夕方〕満月が上ると、群衆が聖なる建物のまわりに押し寄せてくる。

日没後一時間で摂政がダライラマの両親と親族をともない、(p.97) 兵隊を前後に従えて、これらバター細工を子細に観覧するのが見受けられた。群衆は軍隊が整列した道におしよせ、警護僧は群衆をかきわけて道を作る。道は召使いのもつ長い棒の先にくくりつけられた油壺のかがり火(gsal byed dpal 'bar)に照らされている。

もっとも人気のある飾り細工には褒美がだされ、受賞したものはトランスに入った国家神託官などの姿が「ジュディ & バンチ・ショー」*1 のようになったものであった。

〔その夜〕警護僧の努力にもかかわらず、摂政が巡礼路を一周するのに一時間半もかかった。それから帰路についた。何年も昔の「マフェキングの夜」*2 に感じた喜びと賑やかな楽しみを思い出しながら、寒さや騒がしさに耐えられない子馬にのって、満月に近い光に照らされ、大地には灯明の光がきらきら輝く中、信じられないほど青い星空を背景にしてたたずむポタラ宮の前を通り過ぎた。

 正月の25日、会場は大聖堂の外庭となる。行事は、チベットに向けられる悪しき影響力や意図を覆すこと、そして、祈願会の行われる20(21)日間 、デプン大僧院の僧官が〔ラサの市長(mi dpon)から司法権を取り、僧侶達が政教に対して障がないようにする法事を行う習慣がある。25日、僧官が〕握っていたラサの町の管理権が再び俗官 <26a> の手に戻されるのである。
モンラムジョカン

 この鉄の龍の年において、この儀式の差配にもっとも深く関わった二人の俗官は、お馴染みの「〔イギリスの〕ラグビー校への留学組であった。まずラグビー校で「リンカン」と呼ばれていたチャンゴーパ閣下(sku zhabs byang ngos pa) *3 、そしてキププ閣下 (sku zhabs skyid sbur ba)*4 であった。前者はヤソ(ya so) として、同僚のプンカン・シャペの息子 (yab gzhis phung khang sras) *5 とともに一生に一度やってくる非常に名誉ではあるが同時に費用のかかる、約六百人の封建時代の騎馬隊を組織し指揮するという仕事を行っていた。彼はまたラサの水力発電施設を管理し、内閣のために英語の通訳もしていた。後者はラサの二人いる司政官の一人であもった。

 主な観客は摂政、内閣、ダライラマの家族であり、彼らは大聖堂の大門を見下ろすバルコニーに座った。封建時代の歩兵隊の行列と模擬戦が終わったあと、ヤソの装束の者に率いられた封建時代の騎兵隊が登場する。(p.98) ラサの俗権をにぎる僧侶たちが権威を象徴する鞭を地面にたたきつけ、ラサの市長の召使い達が拾い上げる。トランペットとシンバルと太鼓をもった僧侶たちが大聖堂から行進し、外庭を囲んだ形で並ぶ。儀式の司祭は香炉とバターランプと聖水のはいった水差しをもって真ん中にたち、祈願を行う。高い旗竿が通りに建てられ、町から追い出されることになる悪霊の像が〔外に〕取り出される。
ヤソの装束

ついに神託官ネチュンが突進してくる。ネチュンは踊り、よろめき、体を前後に揺らしながら、両手につかんだ短剣を振り回し、九舞 (dgu 'cham) を踊り突然倒れた。随員の助けをかりて立ち上がると、またよろよろと歩き出した。近づいてくる彼をみると、本当に神霊に取り憑かれていることがみてとれた。神託官の顔は死人のように青く、トランスによって放心状態であった。神託官は何度も何度も卒倒しては、ふたたびはね起きて、またあらぬ方角に歩き出した。群衆は神託官の周りにつめかけ、神託官はやがて骸骨の面をつけた人々と、黒い帽子をかぶった踊り手と旗をもった男たち〔と九舞をしながら、トルマの後に〕の列の後について消えていった。<26b> 市門 (rgyal sgo'i 'gag) のところで、悪霊の像は一斉射撃とともに降ろされ〔トルマは火にくべられた〕、神託官は消耗し意識を失い、大聖堂へと運ばれていった。


*1 Judy & Punchとは17世紀にイギリスで初演されたドタバタ人形喜劇。
*2 第二次ブール戦争時、南アのマフェキングでイギリス軍が217日間の籠城戦ののち1900年5月17日解放された。この晩ニュースに接したイギリス民衆がお祭り騒ぎになった。
*3 本名リンジンドルジェ (1904-1945)。リンカン家 (rin sgang) の出身。1913年にチベット政府が独立をアピールするべくイギリスに送った使節に同行した四人の男児の一人。グールドはこの四人をチベットからイギリスまでエスコートし、四人はイギリスのウェールズ地方のラグビーのパブリックスクールで教育をうけた。リンカンは1918年にチベットに帰還し、1938年には六位の官吏であった。
*4 リンカンと同じく1913年イギリスにわたった四人の少年のうちの一人。帰国後チベット政府より電信の建設を託されるも失敗する。1938年には六位の位階にあり、治安判事であった(Holy city p.247)。
*5 本名、bkra shis rdo rje。1938年に摂政ラデンによってカロンに任命され、1947年のラデンの対タクタ蜂起につらなり投獄。
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