明治日本とチベット・モンゴル・清
まず最初にお知らせです。今週土曜日に早稲田大学エクステンションでオンライン講演します。担当の職員の方が突然退職し、さらに私も展示会の準備に忙殺され宣伝できてませんw。興味ある方どうぞおこしください。
演題「米中対立とチベット問題」
開催日:2020年11月21日(土) 時間:13:00-16:30(30分休憩)
参加費:5,940円
お申し込みはこちらからどうぞ。

私と院生Wくんが奔走して実現した企画展「大隈重信とチベット・モンゴル」はコロナ禍をものともせずに13日の金曜日に始まった。翌土曜日の日本チベット学会大会は本来早稲田で開催されるはずだったが、学会がオンラインとなり、学会員の大半に展示会をお披露目できなかったのは大変に無念。
去年のちょうど今頃、チベット学会大会の開催校が早稲田にきまった時、大隈重信関連文書の中には、1905年から1909年の間、ダライラマ13世と日本政府とのパイプ役になっていた寺本婉雅が大隈重信に宛てたかなりなまなましい政治的な書翰があることから、学会にあわせてこの書翰の展示をなすべく展示会計画が始動した。

そして今年四月、私と院生wくんとMくんはこの展示会のための勉強をはじめた。すると、大隈が日本人としてはじめてチベットの都ラサにはいった河口慧海を後援していたことを示す書翰があるわ、河口についで二番目にラサにはいった成田安輝は大隈が外務大臣であった当時にラサ潜入計画が立てられていたことがわかるわなど、大隈侯チベットにも結構かかわっていたことが分かってきた。

ではモンゴルについてはどうかと調べて見ると、黎明期の日本人類学学会を代表する人類学者鳥居龍蔵が1906年に内モンゴルのカラチンから大隈重信におくった書翰があって、そこには、「ロシアや清に内緒でモンゴル人の留学生を貴校(早稲田)に送るから、清国留学生とくれぐれも一緒にしないように」などのなまなましい記述があり、こりゃ面白い。
さらにグーグルやら明治の資料やらをほってみると、鳥居と成田の二人は、成田のラサ到達に先立つ五年前の1896年にはすでに国が行う台湾調査行(日清戦争の結果日本領になったばかりなので調査が入った)で同行しており知人同士であることが判明。

また、成田安輝の嫁の木村芳子は当時の清皇帝の叔父粛親王の家庭教師であり、芳子を清に派遣した実践女子大学の創立者下田歌子は内モンゴルのカラチン部にも同郷の女性教師河原操子をおくっており、河原の任期後にカラチンに着任したのが鳥居龍蔵の嫁鳥居君子であった。
要約すると、成田、寺本、鳥居、など大陸で活動する日本人すべてがかかわっていたのが、粛親王・参謀本部の福島安正・大隈重信であった。当時のチベット・モンゴル・清で、調査研究、諜報、教育支援にあたっていた日本人、満洲・モンゴルの有力王公は明らかに相互につながりがあっていた。ついでにいえば、鳥居と寺本の旅行記の序文は両方、同じ年に大隈が記しており、今回展示した大隈が記した寺本の旅行記の序文はWくんが国会図書館で発見したものである。
私はいいかげんなので、展示会は文化祭レベルのインターフェイスでいくつもりだったのだが、デザイナーAさんがチベット関連の展示であるということから力をいれて燃えてくださり、素晴らしいセンスでパネルとカタログをつくってくださり、我々にはもったいないできあがりになってしまった。会場内のカタログには展示しきれない資料も入っているので来場された方は是非おもちください。無料です。
今、大隈庭園の紅葉は見頃です。展示会をご覧になった後は、山県有朋邸の庭園であった椿山荘でお茶をして明治をしのぶのはいかがでしょうか。
開館時間や開館日はこちらのカレンダーを確認してからご来場ください。
※ 感染状況は深刻であるが、早く対面授業を復活させろと生徒や生徒の父母からも大学に苦情が殺到しているため、大学は対面授業を再開するらしいので(昨日の教授会で通達があったw)、たぶん途中閉館なんてことはないと思う。
演題「米中対立とチベット問題」
開催日:2020年11月21日(土) 時間:13:00-16:30(30分休憩)
参加費:5,940円
お申し込みはこちらからどうぞ。

私と院生Wくんが奔走して実現した企画展「大隈重信とチベット・モンゴル」はコロナ禍をものともせずに13日の金曜日に始まった。翌土曜日の日本チベット学会大会は本来早稲田で開催されるはずだったが、学会がオンラインとなり、学会員の大半に展示会をお披露目できなかったのは大変に無念。
去年のちょうど今頃、チベット学会大会の開催校が早稲田にきまった時、大隈重信関連文書の中には、1905年から1909年の間、ダライラマ13世と日本政府とのパイプ役になっていた寺本婉雅が大隈重信に宛てたかなりなまなましい政治的な書翰があることから、学会にあわせてこの書翰の展示をなすべく展示会計画が始動した。

そして今年四月、私と院生wくんとMくんはこの展示会のための勉強をはじめた。すると、大隈が日本人としてはじめてチベットの都ラサにはいった河口慧海を後援していたことを示す書翰があるわ、河口についで二番目にラサにはいった成田安輝は大隈が外務大臣であった当時にラサ潜入計画が立てられていたことがわかるわなど、大隈侯チベットにも結構かかわっていたことが分かってきた。

ではモンゴルについてはどうかと調べて見ると、黎明期の日本人類学学会を代表する人類学者鳥居龍蔵が1906年に内モンゴルのカラチンから大隈重信におくった書翰があって、そこには、「ロシアや清に内緒でモンゴル人の留学生を貴校(早稲田)に送るから、清国留学生とくれぐれも一緒にしないように」などのなまなましい記述があり、こりゃ面白い。
さらにグーグルやら明治の資料やらをほってみると、鳥居と成田の二人は、成田のラサ到達に先立つ五年前の1896年にはすでに国が行う台湾調査行(日清戦争の結果日本領になったばかりなので調査が入った)で同行しており知人同士であることが判明。

また、成田安輝の嫁の木村芳子は当時の清皇帝の叔父粛親王の家庭教師であり、芳子を清に派遣した実践女子大学の創立者下田歌子は内モンゴルのカラチン部にも同郷の女性教師河原操子をおくっており、河原の任期後にカラチンに着任したのが鳥居龍蔵の嫁鳥居君子であった。
要約すると、成田、寺本、鳥居、など大陸で活動する日本人すべてがかかわっていたのが、粛親王・参謀本部の福島安正・大隈重信であった。当時のチベット・モンゴル・清で、調査研究、諜報、教育支援にあたっていた日本人、満洲・モンゴルの有力王公は明らかに相互につながりがあっていた。ついでにいえば、鳥居と寺本の旅行記の序文は両方、同じ年に大隈が記しており、今回展示した大隈が記した寺本の旅行記の序文はWくんが国会図書館で発見したものである。
私はいいかげんなので、展示会は文化祭レベルのインターフェイスでいくつもりだったのだが、デザイナーAさんがチベット関連の展示であるということから力をいれて燃えてくださり、素晴らしいセンスでパネルとカタログをつくってくださり、我々にはもったいないできあがりになってしまった。会場内のカタログには展示しきれない資料も入っているので来場された方は是非おもちください。無料です。
今、大隈庭園の紅葉は見頃です。展示会をご覧になった後は、山県有朋邸の庭園であった椿山荘でお茶をして明治をしのぶのはいかがでしょうか。
開館時間や開館日はこちらのカレンダーを確認してからご来場ください。
※ 感染状況は深刻であるが、早く対面授業を復活させろと生徒や生徒の父母からも大学に苦情が殺到しているため、大学は対面授業を再開するらしいので(昨日の教授会で通達があったw)、たぶん途中閉館なんてことはないと思う。
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