映画「巡礼の約束」
岩波ホールで上映されている『巡礼の約束』(原題: アラチャンソ)を見に行った。[大東亜]共栄堂でスマトラカレーを食べた後に、岩波ホールにいくと、入り口に「コロナの疑いのある人は入場しないで」的な張り紙があり、ご時世を感じる(その後3/13まで閉館を決めたそうです)。

本作品は中国国内で活躍するチベット人監督ソンタルジャによる「巡礼」をテーマにした映画である。言論の自由がない中国において、チベット人・漢人を問わず、政治に対する批判は少しでも匂わせると即逮捕・拘留となる。そのため自ずと表現やテーマは限られ、とくにチベット人監督である場合、チベットの置かれている政治的・歴史的状況について仮にいろいろな思いがあったとしても、ストレートには表出できない。つまり、我々は画面から彼等の思いをくみとらねばならない。
本作品は、五体投地によるラサ巡礼、すなわち、かつてのチベットにおいては一般的であった習俗を通じて、家族の喪失(最愛の妻や母の死)と再生(妻の連れ子と残された夫の父子としての再生)を描いたものである。
チベット人にとって精神世界の中心はいうまでもなくラサ(文字通りは神々の地)。かつてはダライラマの住居であったポタラ宮があり、チベット仏教の大本山がいくつもあり、全体が聖地とされるチベットの中でも文字通りの中央の聖地である。
なので、チベット人は物質的に豊かになりたいと思えば、北京やアメリカを目指すが、病にかかって余命がないとか、親しい人がなくなって喪失感半端ないとかいう、自分の力ではどうにもならない悲劇にみまわれるとラサ巡礼にでる。もっとも熱心な巡礼は五体投地で身体・言語・心の活動を投げ出して身長の長さごとにすすむ。この場合、せいぜい一日五キロ進むのがやっとである。
主人公の女性は死病にかかったこと、また前夫の遺言を果たすために、今の夫に真の意図を隠して、東チベットのギャロンからラサに向けて旅立つ。途中から今の夫と前夫の子供が加わった時点で、「ああ〜、この人途中でなくなって、残された二人がその遺志をついでラサに向かうんだろうな〜。そのうちに双方大人になって家族愛にめざめるんだろうな〜」と思っていたらまんまの展開だった(笑)。
五体投地巡礼はきついので露営用の荷物をもって併走するつきそいがつく。彼女の場合も若い娘が二人つきそったが、この娘たちはナンパされたり、逃げたりして途中で消える。この二人は信仰心の薄れた若い世代のチベット人を象徴しているのだろう。一方で、たまたま道沿いで縁をむすんだ家族が、医者をつれてきたり、葬儀の手配をしたりと様々な手助けもしてくれることは、昔ながらのチベット人のメンタリティであろう。
昔はラサをめざして多くの人が勉強や巡礼のために故郷を離れた。彼等はほとんど旅の路銀をもっておらず、道すがら人々から食をえながら前に進んだ。巡礼は善行であり、その善行を手助けすることも善行であるためウィンウィンの関係である。つまり、この映画が巡礼を通して家族の再生やチベット人同士の横の連帯を確認していることは、チベット人がチベット人らしさを保持することによって心の平安を得ていること、二人のつきそい娘たちの脱走事件は伝統を忘れていく若い世代を表現している。
かつての日本においても、死期を悟った人や、身内を失った人は、四国遍路に旅立ち、遍路道のまわりにいる人々から食をえて、お風呂を借りたりしながら、最後は倒れることも本望と考えていた(遍路道は円環なのでいずれにしても道半ばで死ぬ)。今や死病におかされた人は病院で管につながれて死に、遍路はバスツアーの観光旅行となってしまった。チベット人がもし日本のように巡礼をやめ仏教徒であることを忘れてしまったら、それは、チベット人が漢人と区別がつかなくなる日であろう。この監督はもちろんそのような日のくることを望んではいないだろう。
以下、本作が日本で上映されるまでの経緯についてのエビ(毎日新聞の記事)をはっておきます。3月10日のチベット蜂起記念日が入る期間に本作を上映して下さったのだとしたら岩波ホール、ご立派だと思います。
上映館はここでご覧ください。
●素人だったけど…チベット映画の上映支える字幕翻訳担当 「巡礼の約束」 (毎日新聞2020年1月30日 )
チベット圏出身のソンタルジャ監督(46)が現地語で全編撮影した映画「巡礼の約束」(2018年中国)が2月8日から岩波ホール(東京・神保町)で公開される。少数言語の映画は劇場公開のハードルが高いものの、チベット人映画監督の作品として日本に初上陸した前作に続き、劇場公開が実現した。背景には、作品に魅せられ、字幕翻訳を担当した松尾みゆきさん(44)=京都市伏見区=の奮闘があった。【藤田祐子】
松尾さんは福岡市出身。東京のテレビ番組制作会社で働いた後、福岡の日本語学校で外国人向けに日本語を教えた。06〜11年に中国青海省西寧市で日本語を教え、家族の介護などのため一度帰国した後、語学を学ぶため14年に留学生として再訪する。帰国する直前の15年7月、誘われた上映会が監督の前作「草原の河」だった。
わだかまりを抱えた父子の家族の物語が胸を打つ。気付けば自分の記憶まで揺さぶられ、言語も民族も超えて感情移入していた。上映後、初対面のソンタルジャ監督に「この映画に日本語をつけていいですか」と直訴する。「西寧で暮らし、チベット文化に関心を深めた歳月はこの監督と出会うためだったのかもと思えた」と振り返る。
帰国後、チベット宗教文化を研究している夫の三宅伸一郎・大谷大教授(52)の助けも借りて、1年がかりで日本語字幕に取りかかった。翌16年に日本語字幕付きDVDが完成した。大きな壁にぶつかったのはここからだ。松尾さんは、字幕のついた映画があれば、後は上映するだけだと思っていたという。
京都市の自宅からDVDの入ったリュックを背負い、夜行バスで上京した。映画館を訪ねて映画の素晴らしさを訴え、DVDを渡すものの、「まず、企画書を出して」「資料がなくては検討もできないよ」とつれない反応が続く。深夜にネットカフェのパソコンで映画のあらすじをまとめ、監督のプロフィルを訳して、翌日再び映画館を回った。
映画「巡礼の約束」のワンシーン?GARUDA FILM
それでも良い返答はなく、ここが最後と思って訪ねた岩波ホールで、映画の上映には映画を購入する配給会社や宣伝スタッフが必要なことを教わる。チベットを題材にした中国映画などを手掛けた経験がある配給会社も紹介された。「素人がめちゃくちゃなことをしたのに……。奇跡です」。17年4月から全国35劇場で公開された。
ソンタルジャ監督は松尾さんとの出会いを「とても感動してくれたことが伝わり、熱意ある人だなと思った」と振り返る。中国では商業映画と芸術映画は厳格に区別され、芸術映画の劇場公開はほとんどないといい「(日本での上映は)難しいだろうなと思っていた。のちに芸術作品を中心に上映する小規模な映画館が日本にたくさんあり、映画ファンが多いことも知った」と語る。いまでは松尾さんの存在は粗編集の段階から意見を聞く大切なパートナーになっている。
松尾さんが苦心してつけた「草原の河」の字幕は、公開までに配給会社から徹底的に修正された。「劇場映画はテレビドキュメンタリーと違い、文字数や仮名遣い、表示時間に厳しい制限があることも知らなかった。女の子は女の子っぽく、年寄りは年寄りの口調にと工夫した渾身(こんしん)の翻訳がばさばさ削られてショックでした」と語る。発奮して字幕翻訳の専門学校に入学して基礎を学び、2作品目の「巡礼の約束」は納得のいく翻訳に仕上がった。
「巡礼の約束」は四川省アバ・チベット族チャン族自治州のチベット圏を舞台に聖地ラサへの巡礼に旅立つ1組の家族の心模様を描いている。ソンタルジャ監督は「チベットのごく普通の人々の世界を見てほしい」と来場を呼びかけている。上映は3月20日まで。問い合わせは岩波ホール(03・3262・5252)。

本作品は中国国内で活躍するチベット人監督ソンタルジャによる「巡礼」をテーマにした映画である。言論の自由がない中国において、チベット人・漢人を問わず、政治に対する批判は少しでも匂わせると即逮捕・拘留となる。そのため自ずと表現やテーマは限られ、とくにチベット人監督である場合、チベットの置かれている政治的・歴史的状況について仮にいろいろな思いがあったとしても、ストレートには表出できない。つまり、我々は画面から彼等の思いをくみとらねばならない。
本作品は、五体投地によるラサ巡礼、すなわち、かつてのチベットにおいては一般的であった習俗を通じて、家族の喪失(最愛の妻や母の死)と再生(妻の連れ子と残された夫の父子としての再生)を描いたものである。
チベット人にとって精神世界の中心はいうまでもなくラサ(文字通りは神々の地)。かつてはダライラマの住居であったポタラ宮があり、チベット仏教の大本山がいくつもあり、全体が聖地とされるチベットの中でも文字通りの中央の聖地である。
なので、チベット人は物質的に豊かになりたいと思えば、北京やアメリカを目指すが、病にかかって余命がないとか、親しい人がなくなって喪失感半端ないとかいう、自分の力ではどうにもならない悲劇にみまわれるとラサ巡礼にでる。もっとも熱心な巡礼は五体投地で身体・言語・心の活動を投げ出して身長の長さごとにすすむ。この場合、せいぜい一日五キロ進むのがやっとである。
主人公の女性は死病にかかったこと、また前夫の遺言を果たすために、今の夫に真の意図を隠して、東チベットのギャロンからラサに向けて旅立つ。途中から今の夫と前夫の子供が加わった時点で、「ああ〜、この人途中でなくなって、残された二人がその遺志をついでラサに向かうんだろうな〜。そのうちに双方大人になって家族愛にめざめるんだろうな〜」と思っていたらまんまの展開だった(笑)。
五体投地巡礼はきついので露営用の荷物をもって併走するつきそいがつく。彼女の場合も若い娘が二人つきそったが、この娘たちはナンパされたり、逃げたりして途中で消える。この二人は信仰心の薄れた若い世代のチベット人を象徴しているのだろう。一方で、たまたま道沿いで縁をむすんだ家族が、医者をつれてきたり、葬儀の手配をしたりと様々な手助けもしてくれることは、昔ながらのチベット人のメンタリティであろう。
昔はラサをめざして多くの人が勉強や巡礼のために故郷を離れた。彼等はほとんど旅の路銀をもっておらず、道すがら人々から食をえながら前に進んだ。巡礼は善行であり、その善行を手助けすることも善行であるためウィンウィンの関係である。つまり、この映画が巡礼を通して家族の再生やチベット人同士の横の連帯を確認していることは、チベット人がチベット人らしさを保持することによって心の平安を得ていること、二人のつきそい娘たちの脱走事件は伝統を忘れていく若い世代を表現している。
かつての日本においても、死期を悟った人や、身内を失った人は、四国遍路に旅立ち、遍路道のまわりにいる人々から食をえて、お風呂を借りたりしながら、最後は倒れることも本望と考えていた(遍路道は円環なのでいずれにしても道半ばで死ぬ)。今や死病におかされた人は病院で管につながれて死に、遍路はバスツアーの観光旅行となってしまった。チベット人がもし日本のように巡礼をやめ仏教徒であることを忘れてしまったら、それは、チベット人が漢人と区別がつかなくなる日であろう。この監督はもちろんそのような日のくることを望んではいないだろう。
以下、本作が日本で上映されるまでの経緯についてのエビ(毎日新聞の記事)をはっておきます。3月10日のチベット蜂起記念日が入る期間に本作を上映して下さったのだとしたら岩波ホール、ご立派だと思います。
上映館はここでご覧ください。
●素人だったけど…チベット映画の上映支える字幕翻訳担当 「巡礼の約束」 (毎日新聞2020年1月30日 )
チベット圏出身のソンタルジャ監督(46)が現地語で全編撮影した映画「巡礼の約束」(2018年中国)が2月8日から岩波ホール(東京・神保町)で公開される。少数言語の映画は劇場公開のハードルが高いものの、チベット人映画監督の作品として日本に初上陸した前作に続き、劇場公開が実現した。背景には、作品に魅せられ、字幕翻訳を担当した松尾みゆきさん(44)=京都市伏見区=の奮闘があった。【藤田祐子】
松尾さんは福岡市出身。東京のテレビ番組制作会社で働いた後、福岡の日本語学校で外国人向けに日本語を教えた。06〜11年に中国青海省西寧市で日本語を教え、家族の介護などのため一度帰国した後、語学を学ぶため14年に留学生として再訪する。帰国する直前の15年7月、誘われた上映会が監督の前作「草原の河」だった。
わだかまりを抱えた父子の家族の物語が胸を打つ。気付けば自分の記憶まで揺さぶられ、言語も民族も超えて感情移入していた。上映後、初対面のソンタルジャ監督に「この映画に日本語をつけていいですか」と直訴する。「西寧で暮らし、チベット文化に関心を深めた歳月はこの監督と出会うためだったのかもと思えた」と振り返る。
帰国後、チベット宗教文化を研究している夫の三宅伸一郎・大谷大教授(52)の助けも借りて、1年がかりで日本語字幕に取りかかった。翌16年に日本語字幕付きDVDが完成した。大きな壁にぶつかったのはここからだ。松尾さんは、字幕のついた映画があれば、後は上映するだけだと思っていたという。
京都市の自宅からDVDの入ったリュックを背負い、夜行バスで上京した。映画館を訪ねて映画の素晴らしさを訴え、DVDを渡すものの、「まず、企画書を出して」「資料がなくては検討もできないよ」とつれない反応が続く。深夜にネットカフェのパソコンで映画のあらすじをまとめ、監督のプロフィルを訳して、翌日再び映画館を回った。
映画「巡礼の約束」のワンシーン?GARUDA FILM
それでも良い返答はなく、ここが最後と思って訪ねた岩波ホールで、映画の上映には映画を購入する配給会社や宣伝スタッフが必要なことを教わる。チベットを題材にした中国映画などを手掛けた経験がある配給会社も紹介された。「素人がめちゃくちゃなことをしたのに……。奇跡です」。17年4月から全国35劇場で公開された。
ソンタルジャ監督は松尾さんとの出会いを「とても感動してくれたことが伝わり、熱意ある人だなと思った」と振り返る。中国では商業映画と芸術映画は厳格に区別され、芸術映画の劇場公開はほとんどないといい「(日本での上映は)難しいだろうなと思っていた。のちに芸術作品を中心に上映する小規模な映画館が日本にたくさんあり、映画ファンが多いことも知った」と語る。いまでは松尾さんの存在は粗編集の段階から意見を聞く大切なパートナーになっている。
松尾さんが苦心してつけた「草原の河」の字幕は、公開までに配給会社から徹底的に修正された。「劇場映画はテレビドキュメンタリーと違い、文字数や仮名遣い、表示時間に厳しい制限があることも知らなかった。女の子は女の子っぽく、年寄りは年寄りの口調にと工夫した渾身(こんしん)の翻訳がばさばさ削られてショックでした」と語る。発奮して字幕翻訳の専門学校に入学して基礎を学び、2作品目の「巡礼の約束」は納得のいく翻訳に仕上がった。
「巡礼の約束」は四川省アバ・チベット族チャン族自治州のチベット圏を舞台に聖地ラサへの巡礼に旅立つ1組の家族の心模様を描いている。ソンタルジャ監督は「チベットのごく普通の人々の世界を見てほしい」と来場を呼びかけている。上映は3月20日まで。問い合わせは岩波ホール(03・3262・5252)。
120年前の小さな秘密
院生Wくんが1904年に日本人で三番目にチベットのラサ入りを果たした寺本婉雅について調べていておかしな点に気づいた。ちなみに潜入中の寺本の肖像はこれ↓

Wくん「寺本は1899年にチベットに出発する前に、北京に駐在する矢野文雄公使から駐蔵大臣(ラサに駐留する清朝官僚)宛の紹介状を書いてもらうのですが、その際矢野公使が肩書きを入れなかったとくやしそうに日記に書いてあるんですよ。なのに、現在残る矢野公使の紹介状には肩書きがばっちりはいっていて、しかし日付は翌日なんです。」
そこで、寺本婉雅の日記をみると確かに1899年3月1日の項に
越へて二日、[矢野]公使余を招きて曰く、『二十九年の公文通知にり[清朝の]総理衙門に要求し難しと。其代り駐蔵大臣の紹介状を与へん』とて、単に官名を記せざる矢野文雄の名を記したる書面を渡されたり。余怪しみて曰く、何故に官名を記し玉(たま)はずや。曰く、『事公然に渉るを恐るるのみ。縦(たと)ひ官名なきも彼或は之を察すべけむ』と。余は此の事に就(つ)き甚だ失望を感じたりしも、復た詮方(せんかた)なかりき(『蔵蒙旅日記』46)。
と、かみ砕いていえば、「現地の人に便宜を図ってもらえるように公使の名前で私を守って、と頼んだのに、矢野公使は保身に走って官名かいてくれなかった、まじ失望した」とある一方、今に残る紹介状の矢野公使の肩書きは「北京駐箚日本欽差全権大臣」とかなーり仰々しい。
私「この肩書き、寺本の偽造じゃね?」
Wくん「公文書の偽造なんてそうそうやりませんよ。うがちすぎですよ」
しかし、私はこう思った。もし矢野公使が翌日思い直して、肩書き入りの紹介状を送ったとしたら、記録魔の寺本はそれを絶対日記にかく。なのに書いてないのは不自然。それに、現場で苦労する側は身を守るためには偽造くらいするだろう。大体、これは公文書じゃないし、見るのは駐蔵大臣で、日本の関係者じゃない。
長年にわたりアメリカのドラマCISシリーズを見続け脳内捜査官の私は、頼まれてもいないのに筆跡鑑定にとりかかった。文字には指紋と同じくそれを書いた個人のしるしが残る。文字のはねとかとめとかはコントロールできないからだ。欧米でサインが身元証明に用いられるのはそのためである。
まず矢野公使が書いたことが確かな部分から大の字をきりだす。紹介状本文の一行目の大乗と、後ろから二行目の駐蔵大臣、最終行の文海大人の三つをきりだし、矢野公使が書いたかどうか不明の肩書きの中の全権大臣の大の字と比べる。とくに三画目のはね方をくらべると前者三つと後者は明らかに違う。肩書きの大ははね方がつつましい。

また、矢野公使が紹介状と同日に揮毫した書には在、北京日本欽差府とあり、紹介状にかかれた全権大臣といった日本国を代表することを明示した権威的肩書きを用いていないことも傍証となる。
そこで、今度は寺本婉雅の筆跡から大の字を探す。これは寺本婉雅による大隈重信宛書簡からうるほどでてきた。大隈の大だからw。

はい、これがそれです。肩書きの大と比べてみてください。三画目のハネが同じである。
ちなみにも、日付は二に一本くわえて三にしただけとみた。以下は上が肩書き、下が寺本発大隈宛書簡の寺本の文字である。


以上、現場からお伝えしました。

Wくん「寺本は1899年にチベットに出発する前に、北京に駐在する矢野文雄公使から駐蔵大臣(ラサに駐留する清朝官僚)宛の紹介状を書いてもらうのですが、その際矢野公使が肩書きを入れなかったとくやしそうに日記に書いてあるんですよ。なのに、現在残る矢野公使の紹介状には肩書きがばっちりはいっていて、しかし日付は翌日なんです。」
そこで、寺本婉雅の日記をみると確かに1899年3月1日の項に
越へて二日、[矢野]公使余を招きて曰く、『二十九年の公文通知にり[清朝の]総理衙門に要求し難しと。其代り駐蔵大臣の紹介状を与へん』とて、単に官名を記せざる矢野文雄の名を記したる書面を渡されたり。余怪しみて曰く、何故に官名を記し玉(たま)はずや。曰く、『事公然に渉るを恐るるのみ。縦(たと)ひ官名なきも彼或は之を察すべけむ』と。余は此の事に就(つ)き甚だ失望を感じたりしも、復た詮方(せんかた)なかりき(『蔵蒙旅日記』46)。
と、かみ砕いていえば、「現地の人に便宜を図ってもらえるように公使の名前で私を守って、と頼んだのに、矢野公使は保身に走って官名かいてくれなかった、まじ失望した」とある一方、今に残る紹介状の矢野公使の肩書きは「北京駐箚日本欽差全権大臣」とかなーり仰々しい。
私「この肩書き、寺本の偽造じゃね?」
Wくん「公文書の偽造なんてそうそうやりませんよ。うがちすぎですよ」
しかし、私はこう思った。もし矢野公使が翌日思い直して、肩書き入りの紹介状を送ったとしたら、記録魔の寺本はそれを絶対日記にかく。なのに書いてないのは不自然。それに、現場で苦労する側は身を守るためには偽造くらいするだろう。大体、これは公文書じゃないし、見るのは駐蔵大臣で、日本の関係者じゃない。
長年にわたりアメリカのドラマCISシリーズを見続け脳内捜査官の私は、頼まれてもいないのに筆跡鑑定にとりかかった。文字には指紋と同じくそれを書いた個人のしるしが残る。文字のはねとかとめとかはコントロールできないからだ。欧米でサインが身元証明に用いられるのはそのためである。
まず矢野公使が書いたことが確かな部分から大の字をきりだす。紹介状本文の一行目の大乗と、後ろから二行目の駐蔵大臣、最終行の文海大人の三つをきりだし、矢野公使が書いたかどうか不明の肩書きの中の全権大臣の大の字と比べる。とくに三画目のはね方をくらべると前者三つと後者は明らかに違う。肩書きの大ははね方がつつましい。

また、矢野公使が紹介状と同日に揮毫した書には在、北京日本欽差府とあり、紹介状にかかれた全権大臣といった日本国を代表することを明示した権威的肩書きを用いていないことも傍証となる。
そこで、今度は寺本婉雅の筆跡から大の字を探す。これは寺本婉雅による大隈重信宛書簡からうるほどでてきた。大隈の大だからw。

はい、これがそれです。肩書きの大と比べてみてください。三画目のハネが同じである。
ちなみにも、日付は二に一本くわえて三にしただけとみた。以下は上が肩書き、下が寺本発大隈宛書簡の寺本の文字である。


以上、現場からお伝えしました。
| ホーム |