米下院外交委員会でチベット支援法案可決
一年をしめた後で、あれですが、12/18 アメリカ下院の外務委員会において、チベットの人々の市民的・政治的権利をアメリカの政治の俎上にあげ、かつ、アメリカの外交がチベットへの支援をより深めるための法案、「チベット政策及び支援法案」the Tibetan Policy and Support Act (HR 4331)を超党派で可決した。
原記事はこちらをご覧ください。

この法案の通過を教えて下さったのは海外在住のSくん。彼曰く、アメリカ議会で立て続けにウイグル、香港、チベットと人権法案が可決したのは、アメリカの国技NBAを中国が踏みにじったからではないかとのこと。
確かに、NBAの「ヒューストン・ロケッツ」のゼネラルマネージャー(GM)が、香港デモを支持するとツイートしたら愛国中国人の批判が殺到したので、あわててNBAが謝罪したが、中国様は、提携解消やヒューストン・ロケットの試合放映を中止など『オレサマに逆らうとどうなるか」と反応。
これに対して、今度はアメリカの議員が激怒。チャイナマネーほしさに、言論の自由や民主主義といったアメリカの精神を売るのか? と猛烈にNBAを批判している(ニューズウィークの記事はこちら)。
数々の人権法案が立て続けに下院を通ったのは確かにその直後からだ。
企業は株主の顔をみて生きる存在なので、お金の匂いのするものに逆らえない。ディズニーもアップルもザッカーバーグも、マリオット・ホテル・チェーンもみな中国に下手にでている。悲しい限りである。アップルのCEOは中国の名門大学精華大学ビジネススクールの顧問である(記事はこちら)。
大企業が自主規制によって中国に対する批判を控えるにようになれば、中華帝国主義がいよいよ世界を席巻する。それに対抗するには、世界中が目先の利益よりも大切なものについて、横の繋がりをもって連帯すべきなのだが、トランプみたいな指導者が世界中にあらわれ、普遍的価値よりも国益とかいう私益のみを唱えているのでもう末期的。
明らかに自然も政治も狂っているのにみなその根本的な原因から目を背けて、喧嘩ばかり。
来年はもう少し人類が正気に戻ってくれるよう、
May force be with you
原記事はこちらをご覧ください。

この法案の通過を教えて下さったのは海外在住のSくん。彼曰く、アメリカ議会で立て続けにウイグル、香港、チベットと人権法案が可決したのは、アメリカの国技NBAを中国が踏みにじったからではないかとのこと。
確かに、NBAの「ヒューストン・ロケッツ」のゼネラルマネージャー(GM)が、香港デモを支持するとツイートしたら愛国中国人の批判が殺到したので、あわててNBAが謝罪したが、中国様は、提携解消やヒューストン・ロケットの試合放映を中止など『オレサマに逆らうとどうなるか」と反応。
これに対して、今度はアメリカの議員が激怒。チャイナマネーほしさに、言論の自由や民主主義といったアメリカの精神を売るのか? と猛烈にNBAを批判している(ニューズウィークの記事はこちら)。
数々の人権法案が立て続けに下院を通ったのは確かにその直後からだ。
企業は株主の顔をみて生きる存在なので、お金の匂いのするものに逆らえない。ディズニーもアップルもザッカーバーグも、マリオット・ホテル・チェーンもみな中国に下手にでている。悲しい限りである。アップルのCEOは中国の名門大学精華大学ビジネススクールの顧問である(記事はこちら)。
大企業が自主規制によって中国に対する批判を控えるにようになれば、中華帝国主義がいよいよ世界を席巻する。それに対抗するには、世界中が目先の利益よりも大切なものについて、横の繋がりをもって連帯すべきなのだが、トランプみたいな指導者が世界中にあらわれ、普遍的価値よりも国益とかいう私益のみを唱えているのでもう末期的。
明らかに自然も政治も狂っているのにみなその根本的な原因から目を背けて、喧嘩ばかり。
来年はもう少し人類が正気に戻ってくれるよう、
May force be with you
2019年を勝手に総括
今年もあと十日をきり、一年のたつのは本当に早い。四年前から私生活でろくな事がなないが今年は、とくにひどかった。空き巣に入られパソコンとカメラとられ、ご先祖生家遺構取り壊し問題にまきこまれたりと、客観的にいっても不愉快体験の連続であった。一方、三月には近代チベット・モンゴル史に関する英語の本を出版し、7月には国際チベット学会でパネルを組んでこの本の内容を宣伝するなど、研究方面は順調であった。
さて、毎年恒例、チベット情勢からみた今年の総括。今年は
(1) ゲルク派600年祭

チベット仏教最大宗派の開祖ツォンカパが死去して600年目。ツォンカパは最晩年に秘密集会タントラの注釈書を弟子のシェーラプセンゲに託したので、ギュメの始まりも600年目。ツォンカパが歿した命日(チベット暦10月25日に当たる12月21日)を中心にチベット仏教の大僧院界隈は盛り上がった。
(2) ダライラマ14世、インド亡命60周年。ノーベル平和賞受賞30周年。

この60年間中国は覇権主義をとり、軍事大国化し、チベット人に限らず少数民族を人口圧力と経済力によって同化し続けてきたが、チベット難民社会は粛々と仏教界を再建してきた。この変化の早い世界で、チベット人が踏ん張れているのは、チベット文化の価値を認め支援する方がいて、またがんばる当事者がいてはじめて可能になっていることで双方に頭が下がる。
『ナショナルジオグラフィツク』は「命をかけて新天地を目指す」という特集をくみ、ロヒンギャ難民など世界の難民・移民をとりあげる中、ダライラマ14世のロングインタビューを掲載している。
(3) アメリカが中国と明確に対抗
中国は今年建国70周年であるが、盛大な軍事パレードを行って自らの強権を世の中に示せば示すほど、世界はドンビキ。
(a) 米中貿易戦争
昨年から始まったアメリカの中国に態度の変化(中国は普遍的な価値を理解してくれると思ったが、その期待ははずれた)は今年よりはっきりとした形をとり米中関税戦争となった。
(b) 香港人権法案可決
11月20日、アメリカの下院で中国の香港に対する介入をけん制するための「香港人権・民主主義法案」を可決。
(c) ウイグル人権法案可決
12月4日に、アメリカの下院でウイグル人権法案(ウイグル人を収容所にいれて文化を捨てさせている現状に対し、経済制裁を発動する法案)を圧倒的多数で可決した。
(4) 日本共産党も中国に対して明確に否
11月4日に日本共産党の「第8回中央委員会総会」で、16年ぶりとなる「日本共産党綱領」の一部改定を行った。簡単にいえば、覇権主義となった中国共産党はすでに社会主義国ではない、と認めたもの。その翌日、小池晃書記局長11月5日でのAbema TVで
「社会主義とは本来、人間が本当の意味で束縛から自由に生きていけるようにするもの。それが民主主義の否定や人権の抑圧、あるいは核兵器禁止条約に反対する動きをしている。3年前の党大会でも“大国主義・覇権主義の道を進んでいる”と警告したが、向こうは“それは削ってくれ”と言ってきた。しかし、その後も尖閣諸島での領海侵犯、香港の事態に対する武力による威嚇、チベットでの人権問題など、どんどんひどくなっている。それを今回の綱領ではっきりさせようということにした」。
とこの改訂の理由に、南シナ海、チベット・ウイグル・香港での中国の行動にあることを明言。もともと共産党は政権にないこともあり、歯切れ良く中国の行動にはもの申していたが、今回は党の綱領まで変更したことに意味がある。もう中国はかつて日本のリベラルが夢見た社会主義の国ではなくなったのである。
(5) 今年なくなられたチベット支援者たち
(a) 岡本永司 本山護国寺貫首 (2019年10月28日) 91歳
このエントリーでも述べましたが、チベットフェスティバルを始めとして数々のチベットイベントに境内を貸し出して下さいました。本当に、ありがとうございました。


(b) 木内みどり 女優 (2019年11月18日) 69歳

私の知る限りでも、ダライラマ14世の来日時、また、毎年の誕生パーティなどで司会を務められており、2008年にはダライラマに捧げる現代美術展Missing Peaceを代官山で主宰された。日本のチベット支援は保守が強いイメージがあるが、木内さんはハリウッド型のリベラルなチベット支援者の代表的な方であった。
(c) 松浦快芳 峯寺名誉住職 (2019年11月26日) 91歳
清風学園校長の平岡宏一先生の奥様のご実家ということもあり、出雲チベット・フェスティバルやチベットの高僧をお迎えしての灌頂儀礼などチベット・イベントを開催してくださった方。
平岡先生の奥様妃女さんが亡くなられる直前の父上のお話を聞かせてくださったのだが、実に綺麗な最期であったので以下に記しておく。
私「最近、FBに峯寺の写真が度々のっていたので、お父様大丈夫かなと思っていたんです。」
妃女さん「いや、それが急だったんです。六月くらいから弱ってきたかなと思ったので、毎月帰るようにしていたんですが、九月、十月はよく食事が入るようになって、大丈夫かなと思っていたのですが、11月になって私がちょうど帰っていた時、お風呂の介助をしたあと、お腹が空いたというので小さなおむすびをつくったらそれを一口食べて、そのあと急変して。意識がなくなったのは、救急車が山門から弁天様の池にさしかかったあたりでした。[魂が]まるで峯寺からでたくないといったみたいでした。その後は意識がもどらず翌日病院で息を引き取ったのですが、他の姉妹も孫もひ孫もたまたまいあわせていたので、みな最後に立ち会うことができました。まだそこいらにいるようで、実感がわきません」

このお話しを伺って90まで生きなくていいけど、こういう大往生したいと思った。
みなさん、ありがとうございました。チベット仏教ですと良い転生をとなりますが、まずは安らかにお眠りください。
さて、毎年恒例、チベット情勢からみた今年の総括。今年は
(1) ゲルク派600年祭

チベット仏教最大宗派の開祖ツォンカパが死去して600年目。ツォンカパは最晩年に秘密集会タントラの注釈書を弟子のシェーラプセンゲに託したので、ギュメの始まりも600年目。ツォンカパが歿した命日(チベット暦10月25日に当たる12月21日)を中心にチベット仏教の大僧院界隈は盛り上がった。
(2) ダライラマ14世、インド亡命60周年。ノーベル平和賞受賞30周年。

この60年間中国は覇権主義をとり、軍事大国化し、チベット人に限らず少数民族を人口圧力と経済力によって同化し続けてきたが、チベット難民社会は粛々と仏教界を再建してきた。この変化の早い世界で、チベット人が踏ん張れているのは、チベット文化の価値を認め支援する方がいて、またがんばる当事者がいてはじめて可能になっていることで双方に頭が下がる。
『ナショナルジオグラフィツク』は「命をかけて新天地を目指す」という特集をくみ、ロヒンギャ難民など世界の難民・移民をとりあげる中、ダライラマ14世のロングインタビューを掲載している。
(3) アメリカが中国と明確に対抗
中国は今年建国70周年であるが、盛大な軍事パレードを行って自らの強権を世の中に示せば示すほど、世界はドンビキ。
(a) 米中貿易戦争
昨年から始まったアメリカの中国に態度の変化(中国は普遍的な価値を理解してくれると思ったが、その期待ははずれた)は今年よりはっきりとした形をとり米中関税戦争となった。
(b) 香港人権法案可決
11月20日、アメリカの下院で中国の香港に対する介入をけん制するための「香港人権・民主主義法案」を可決。
(c) ウイグル人権法案可決
12月4日に、アメリカの下院でウイグル人権法案(ウイグル人を収容所にいれて文化を捨てさせている現状に対し、経済制裁を発動する法案)を圧倒的多数で可決した。
(4) 日本共産党も中国に対して明確に否
11月4日に日本共産党の「第8回中央委員会総会」で、16年ぶりとなる「日本共産党綱領」の一部改定を行った。簡単にいえば、覇権主義となった中国共産党はすでに社会主義国ではない、と認めたもの。その翌日、小池晃書記局長11月5日でのAbema TVで
「社会主義とは本来、人間が本当の意味で束縛から自由に生きていけるようにするもの。それが民主主義の否定や人権の抑圧、あるいは核兵器禁止条約に反対する動きをしている。3年前の党大会でも“大国主義・覇権主義の道を進んでいる”と警告したが、向こうは“それは削ってくれ”と言ってきた。しかし、その後も尖閣諸島での領海侵犯、香港の事態に対する武力による威嚇、チベットでの人権問題など、どんどんひどくなっている。それを今回の綱領ではっきりさせようということにした」。
とこの改訂の理由に、南シナ海、チベット・ウイグル・香港での中国の行動にあることを明言。もともと共産党は政権にないこともあり、歯切れ良く中国の行動にはもの申していたが、今回は党の綱領まで変更したことに意味がある。もう中国はかつて日本のリベラルが夢見た社会主義の国ではなくなったのである。
(5) 今年なくなられたチベット支援者たち
(a) 岡本永司 本山護国寺貫首 (2019年10月28日) 91歳
このエントリーでも述べましたが、チベットフェスティバルを始めとして数々のチベットイベントに境内を貸し出して下さいました。本当に、ありがとうございました。


(b) 木内みどり 女優 (2019年11月18日) 69歳

私の知る限りでも、ダライラマ14世の来日時、また、毎年の誕生パーティなどで司会を務められており、2008年にはダライラマに捧げる現代美術展Missing Peaceを代官山で主宰された。日本のチベット支援は保守が強いイメージがあるが、木内さんはハリウッド型のリベラルなチベット支援者の代表的な方であった。
(c) 松浦快芳 峯寺名誉住職 (2019年11月26日) 91歳
清風学園校長の平岡宏一先生の奥様のご実家ということもあり、出雲チベット・フェスティバルやチベットの高僧をお迎えしての灌頂儀礼などチベット・イベントを開催してくださった方。
平岡先生の奥様妃女さんが亡くなられる直前の父上のお話を聞かせてくださったのだが、実に綺麗な最期であったので以下に記しておく。
私「最近、FBに峯寺の写真が度々のっていたので、お父様大丈夫かなと思っていたんです。」
妃女さん「いや、それが急だったんです。六月くらいから弱ってきたかなと思ったので、毎月帰るようにしていたんですが、九月、十月はよく食事が入るようになって、大丈夫かなと思っていたのですが、11月になって私がちょうど帰っていた時、お風呂の介助をしたあと、お腹が空いたというので小さなおむすびをつくったらそれを一口食べて、そのあと急変して。意識がなくなったのは、救急車が山門から弁天様の池にさしかかったあたりでした。[魂が]まるで峯寺からでたくないといったみたいでした。その後は意識がもどらず翌日病院で息を引き取ったのですが、他の姉妹も孫もひ孫もたまたまいあわせていたので、みな最後に立ち会うことができました。まだそこいらにいるようで、実感がわきません」

このお話しを伺って90まで生きなくていいけど、こういう大往生したいと思った。
みなさん、ありがとうございました。チベット仏教ですと良い転生をとなりますが、まずは安らかにお眠りください。
父祖の地徳島で講演
11月の最後の二日間徳島にいった。空路徳島に到着し、四国大学の言語文化研究所で講演を行い、終了後、四国大学の先生たちとの懇親会に参加。翌日は鳥居龍蔵記念館の学芸員さんとの相談のあと、四国大学書道文化ギャラリーで行われている谷内清巌展を参観し、空路東京へ戻った。例によって弾丸ツアー。

講演に呼んでくださった太田剛教授は六年前からのおつきあい。
六年前、突然「岡田鴨里(私の六代前のご先祖)のお墓の拓本をとっていたら、あなたに会いたがっていました。半年以内に墓参に来なさい」というメールがきて、墓地の場所すら知らなかった私に先祖の墓参を促してきた。
このメールをみて「やべぇ」と思いつつも添付されている心霊写真をみて怖くなり、結局半年後、淡路に飛び先祖の墓に手を合わせた。お墓は荒れ果てていた。太田先生はそのあと、淡路市が管理している先祖の生家につれていって下さった。ぶっちゃけ廃墟であった。市町村は文化財を保護するものだと思っていたのでこれは衝撃だった。
その後、先祖の墓をまもってくださっている栄福寺さまより得た情報をたぐり、神奈川県立歴史博物館での岡田鴨里資料群をみつけだし、その資料群をOくんをはじめとする院生の力をかりてデジタル化した。その間、鴨里のお墓を守ってくだっている栄福寺のご住職が好意で墓石群を整備してくださり、かつての景観をとりもどして今は地域をみおろす丘の上に整然と並んでいる。いずれ蜂須賀桜を移植して桜の丘にするのだという。
残る問題は淡路市が廃墟にしてしまったご先祖の生家。この廃墟の存在を知ってから、私は淡路市の教育長にお願いしたり、地元を選挙区にする自民党議員に直訴したりしたが、彼等は一ミリも動かなかった。今回の旅はこれを何とかするための会合も含んでいた。
実は、今年の9月5日淡路市の教育長と教育部長が私の研究室に現れ、鴨里の生家の遺構を取り壊すと通達してきた。この数年間私がいろいろ表明してきた意思は全部無視と彼等は決めたのである。さすがに向こうもまずいと思ったのか、「鴨里の命日を教えてください、顕彰活動しますから」というので調べたら、何とその日(9月の5日)だった。いかに鈍い私でもこれは取り壊しをやめろというあの世からのメッセージであることは分かった。ご先祖、絶対、成仏していない。
行政が一度きめたことを覆すことは難しい。まして東京で一人で反対を申し立てても、お先はまっ暗である。普段の私は勝算のない行動は絶対しないが、この時は祟りが怖くて延髄反応で反対の意を表明した。でもそれは重い荷物をしょって目的地も見えないまま歩かされているような旅の始まりであった。
しかし、この前にはすでに旅は始まっていて、グラウンドゼロに太田先生がいる。今回太田先生のお招きで四国に行くことが決まった時、とにかく先生に一言、恨み言を言いたかった。しかし、言ってみたら「私のせいだっていうんですよ〜」と奥さんにむかって笑っていってて、ちょっとアレだった。
●初日
講演では、太田先生のリクエストにより、半分はご先祖岡田鴨里のお話しをし、残り半分はチベット文化についてお話しした。↓
https://blog.goo.ne.jp/pjota12345/e/4437e7a7bbcb8807f424975958b78b0f
その後、淡路島からきてくださった方たちと個別に意見交換をし、その後、四国大学の文学部の先生方との懇親会にいった。S先生(徳島城博物館に30年間つとめた後に四国大学にこられた言語文化研究所の所長さん)の隣に座った。
S先生「私は博物館につとめていた間、ずっとあなたのご先祖が記した蜂須賀家記を読んでいました(蜂須賀家は徳島藩の藩主の家系)。」
私「神奈川県立歴史博物館に所蔵されている鴨里の資料群の中には、蜂須賀家記の稿本と、これを書くために集めた資料群が含まれているんですけど、ご存じですよね」
S先生「知りませんでした。私は神奈川県立博物館には二人も友達がいるんですよ。私が蜂須賀家の歴史を研究しているのを知っているのに、誰も教えてくれませんでした」
私「先生を友達と思ってないんじゃないんですか。うそうそ、この資料を受け入れた学芸員の方によると博物館には閲覧機能ないから閲覧したい人がきても困るという理由から、資料のあることを公表していなかったんです。それにしても中にいる研究員が知らないというのもひどい話。この資料、博物館が一ミリも動かないから、院生Oくんの力を借りてデジタル化したんですよ。博物館が貸してくれたのは電源だけ。」
S先生「そのデジタルデータ欲しいです」
私「どんどん使ってくださーい。そのためにデジタル化したんです」
●二日目
翌日、太田先生は鳥居龍蔵記念館にまで車で送ってくださる。徳島県の博物館・美術館は市内からかなりはなれた文化の森という地域にあり、公共交通機関がほとんどないので助かった(田舎は車社会)。

鳥居龍蔵は徳島出身の人類学者で日本人の起源を求めて、千島、モンゴル、中国南西部の民族調査を行い、東大助教授までいった。日露戦争後、内モンゴルのハラチン部の王府で日本語の教師も行っており、大隈重信に依頼され現地からモンゴル人留学生を選定して派遣している。そんなこんなで、鳥居龍蔵のモンゴル滞在期の資料がないかをさがしにいったのだが、まだ資料の整理がついていないので、あるかないかも分からない状態だという。

しかし、一冊だけモンゴル語の本をだしてこられたので、「あっ、これ数学の本ですよ」というと、えらく感激された。なので、「モンゴル関係で面白いものがでてきたらいつでもご連絡ください」としつこく念を押して記念館を去る。

それから、谷口清巌展に向かうが、その途中、私が眉山にいったことがないといったら、太田先生は眉山をまわるルートで徳島市内に向かってくださった。
その日は快晴で昨日から急に寒くなった結果、紅葉はメリハリのきいた色になって青空を背景に美しい。眉山の頂上からは徳島市内と吉野川と紀伊半島が一望できた。頂上には第二次世界大戦末期、ビルマで命をおとした人々の鎮魂のためにビルマ式仏塔(パゴダ)がたっている。当初はお坊さんが常駐していたが、支える会員の減少により今は徳島仏教会が管理している。
眉山をおりると、なぜか車が渋滞して動かない。太田先生は「こんな時間にこのあたりが混むなんてへんだなあ」とおっしゃていたが、しばらくして動き出すと、理由が分かった。徳島市内から黒煙があがっている。火事である。東京でもしょっちゅう消防車は出動しているが、大体ボヤのうちにけしとめられ、こんなベタに煙のあがる火事は久しぶりにみた。なので写真にとってツイッターにあげた。
そして、どこが燃えているんだろうとツイッターを検索するが何もヒットしない。
しばらくして徳島 火事でまとめサイトがあがったが、私の投稿が一番上・・・。
徳島、ツイッター人口少なっ!
東京で火事があったら、同時多発的にみなが投稿するから大体どこが火元でどんな被害かすぐわかるのに、私が被害の全容をしったのは翌日の徳島新聞であった。
教訓: ツイッターの速報性はある程度人口が密集していないと機能しない。
火事の煙を横目に見つつ、書道文化館一階の谷内清巌展につく。谷内清巌は淡路島に生を受け、出家する前の姓は倉内という。高野山真言宗で出家し、19才で谷内家を相続した後、大阪で泊園書院の学頭をつとめるなど秀才ぶりを発揮した後、京都で出世し、空海以来の名刹神護寺の貫首や大覚寺の宗務総長をつとめた。書家としても名高いため、今回彼の書を集めた展覧会が開かれ、同じく淡路の偉人つながりで私が講演に呼ばれたわけ(淡路島は江戸時代は徳島藩)。
会場には倉内家一門が集結していた。一門の方からの聞き取りによると、若き日の清巌は石濱家の女性と結婚して男児を授かった後離婚しており、たまにその男児が清巌さんにあいに上京していたという。なぜこのことが知られていないのかといえば、後に高僧として知られるようになった清巌さんは出世するまえの俗事は表にださなくなったからではないかとのこと。
鴨里の曾孫を娶った石濱鐵郎と清巌はほぼ同世代、明治期の石濱家の戸籍を確認してみると、鐵郎には二人の姉がいていずれも離婚歴が記されていたが、不思議なことに両方とも明治33年に出戻っている。そして、破綻した結婚相手の名前は戸籍に記されている限りでは倉内姓ではなかった。何分明治期なのでどこまで戸籍を信用していいか分からないが、一族がそういうのだから、やはり鐵郎の姉のどちらかが清巌の結婚相手だったのだろう。

会場で手にした資料をみると、清巌は22才までは淡路島で漢学を学んでおり、23才で大阪にでて泊園書院で学び、27才で再び淡路にもどり教員をはじめ、31才から32才まで京都でまた教員をやり、33才〜37才まで岡田鴨里の生家のすぐ近くの多聞寺の住職をつとめている。30代後半からは京都で出世街道をばく進するので、石濱家の女性と結婚して子供をなしたのはおそらくは石濱家のあった洲本にいた22才以前、あるいは鴨里の生家近くで住職をしていた33才から37才までの間であろう。
というわけで、今回の四国の旅でも再び、百年以上前の過去のご縁が発覚したのであった。太田先生とお会いするたびに百年以上前の人達の交友関係が明らかになるこの不思議さ。東京生まれの東京育ちの私がいつのまにか、淡路島や徳島に足繁く通うようになっているのも不思議な話である。
この六年間、思ってもいない人間関係が拡がり、歴史を継承する意味とか、偉人の顕彰とか、文化財の保護について、いろいろ勉強し考える契機となった。
いずれ状況が落ち着いたら九月から今にいたるまで、私が巻き込まれてきた、ご先祖生家問題について明かせる範囲内でお話ししたいと思う。

講演に呼んでくださった太田剛教授は六年前からのおつきあい。
六年前、突然「岡田鴨里(私の六代前のご先祖)のお墓の拓本をとっていたら、あなたに会いたがっていました。半年以内に墓参に来なさい」というメールがきて、墓地の場所すら知らなかった私に先祖の墓参を促してきた。
このメールをみて「やべぇ」と思いつつも添付されている心霊写真をみて怖くなり、結局半年後、淡路に飛び先祖の墓に手を合わせた。お墓は荒れ果てていた。太田先生はそのあと、淡路市が管理している先祖の生家につれていって下さった。ぶっちゃけ廃墟であった。市町村は文化財を保護するものだと思っていたのでこれは衝撃だった。
その後、先祖の墓をまもってくださっている栄福寺さまより得た情報をたぐり、神奈川県立歴史博物館での岡田鴨里資料群をみつけだし、その資料群をOくんをはじめとする院生の力をかりてデジタル化した。その間、鴨里のお墓を守ってくだっている栄福寺のご住職が好意で墓石群を整備してくださり、かつての景観をとりもどして今は地域をみおろす丘の上に整然と並んでいる。いずれ蜂須賀桜を移植して桜の丘にするのだという。
残る問題は淡路市が廃墟にしてしまったご先祖の生家。この廃墟の存在を知ってから、私は淡路市の教育長にお願いしたり、地元を選挙区にする自民党議員に直訴したりしたが、彼等は一ミリも動かなかった。今回の旅はこれを何とかするための会合も含んでいた。
実は、今年の9月5日淡路市の教育長と教育部長が私の研究室に現れ、鴨里の生家の遺構を取り壊すと通達してきた。この数年間私がいろいろ表明してきた意思は全部無視と彼等は決めたのである。さすがに向こうもまずいと思ったのか、「鴨里の命日を教えてください、顕彰活動しますから」というので調べたら、何とその日(9月の5日)だった。いかに鈍い私でもこれは取り壊しをやめろというあの世からのメッセージであることは分かった。ご先祖、絶対、成仏していない。
行政が一度きめたことを覆すことは難しい。まして東京で一人で反対を申し立てても、お先はまっ暗である。普段の私は勝算のない行動は絶対しないが、この時は祟りが怖くて延髄反応で反対の意を表明した。でもそれは重い荷物をしょって目的地も見えないまま歩かされているような旅の始まりであった。
しかし、この前にはすでに旅は始まっていて、グラウンドゼロに太田先生がいる。今回太田先生のお招きで四国に行くことが決まった時、とにかく先生に一言、恨み言を言いたかった。しかし、言ってみたら「私のせいだっていうんですよ〜」と奥さんにむかって笑っていってて、ちょっとアレだった。
●初日
講演では、太田先生のリクエストにより、半分はご先祖岡田鴨里のお話しをし、残り半分はチベット文化についてお話しした。↓
https://blog.goo.ne.jp/pjota12345/e/4437e7a7bbcb8807f424975958b78b0f
その後、淡路島からきてくださった方たちと個別に意見交換をし、その後、四国大学の文学部の先生方との懇親会にいった。S先生(徳島城博物館に30年間つとめた後に四国大学にこられた言語文化研究所の所長さん)の隣に座った。
S先生「私は博物館につとめていた間、ずっとあなたのご先祖が記した蜂須賀家記を読んでいました(蜂須賀家は徳島藩の藩主の家系)。」
私「神奈川県立歴史博物館に所蔵されている鴨里の資料群の中には、蜂須賀家記の稿本と、これを書くために集めた資料群が含まれているんですけど、ご存じですよね」
S先生「知りませんでした。私は神奈川県立博物館には二人も友達がいるんですよ。私が蜂須賀家の歴史を研究しているのを知っているのに、誰も教えてくれませんでした」
私「先生を友達と思ってないんじゃないんですか。うそうそ、この資料を受け入れた学芸員の方によると博物館には閲覧機能ないから閲覧したい人がきても困るという理由から、資料のあることを公表していなかったんです。それにしても中にいる研究員が知らないというのもひどい話。この資料、博物館が一ミリも動かないから、院生Oくんの力を借りてデジタル化したんですよ。博物館が貸してくれたのは電源だけ。」
S先生「そのデジタルデータ欲しいです」
私「どんどん使ってくださーい。そのためにデジタル化したんです」
●二日目
翌日、太田先生は鳥居龍蔵記念館にまで車で送ってくださる。徳島県の博物館・美術館は市内からかなりはなれた文化の森という地域にあり、公共交通機関がほとんどないので助かった(田舎は車社会)。

鳥居龍蔵は徳島出身の人類学者で日本人の起源を求めて、千島、モンゴル、中国南西部の民族調査を行い、東大助教授までいった。日露戦争後、内モンゴルのハラチン部の王府で日本語の教師も行っており、大隈重信に依頼され現地からモンゴル人留学生を選定して派遣している。そんなこんなで、鳥居龍蔵のモンゴル滞在期の資料がないかをさがしにいったのだが、まだ資料の整理がついていないので、あるかないかも分からない状態だという。

しかし、一冊だけモンゴル語の本をだしてこられたので、「あっ、これ数学の本ですよ」というと、えらく感激された。なので、「モンゴル関係で面白いものがでてきたらいつでもご連絡ください」としつこく念を押して記念館を去る。

それから、谷口清巌展に向かうが、その途中、私が眉山にいったことがないといったら、太田先生は眉山をまわるルートで徳島市内に向かってくださった。
その日は快晴で昨日から急に寒くなった結果、紅葉はメリハリのきいた色になって青空を背景に美しい。眉山の頂上からは徳島市内と吉野川と紀伊半島が一望できた。頂上には第二次世界大戦末期、ビルマで命をおとした人々の鎮魂のためにビルマ式仏塔(パゴダ)がたっている。当初はお坊さんが常駐していたが、支える会員の減少により今は徳島仏教会が管理している。
眉山をおりると、なぜか車が渋滞して動かない。太田先生は「こんな時間にこのあたりが混むなんてへんだなあ」とおっしゃていたが、しばらくして動き出すと、理由が分かった。徳島市内から黒煙があがっている。火事である。東京でもしょっちゅう消防車は出動しているが、大体ボヤのうちにけしとめられ、こんなベタに煙のあがる火事は久しぶりにみた。なので写真にとってツイッターにあげた。
そして、どこが燃えているんだろうとツイッターを検索するが何もヒットしない。
しばらくして徳島 火事でまとめサイトがあがったが、私の投稿が一番上・・・。
徳島、ツイッター人口少なっ!
東京で火事があったら、同時多発的にみなが投稿するから大体どこが火元でどんな被害かすぐわかるのに、私が被害の全容をしったのは翌日の徳島新聞であった。
教訓: ツイッターの速報性はある程度人口が密集していないと機能しない。
火事の煙を横目に見つつ、書道文化館一階の谷内清巌展につく。谷内清巌は淡路島に生を受け、出家する前の姓は倉内という。高野山真言宗で出家し、19才で谷内家を相続した後、大阪で泊園書院の学頭をつとめるなど秀才ぶりを発揮した後、京都で出世し、空海以来の名刹神護寺の貫首や大覚寺の宗務総長をつとめた。書家としても名高いため、今回彼の書を集めた展覧会が開かれ、同じく淡路の偉人つながりで私が講演に呼ばれたわけ(淡路島は江戸時代は徳島藩)。
会場には倉内家一門が集結していた。一門の方からの聞き取りによると、若き日の清巌は石濱家の女性と結婚して男児を授かった後離婚しており、たまにその男児が清巌さんにあいに上京していたという。なぜこのことが知られていないのかといえば、後に高僧として知られるようになった清巌さんは出世するまえの俗事は表にださなくなったからではないかとのこと。
鴨里の曾孫を娶った石濱鐵郎と清巌はほぼ同世代、明治期の石濱家の戸籍を確認してみると、鐵郎には二人の姉がいていずれも離婚歴が記されていたが、不思議なことに両方とも明治33年に出戻っている。そして、破綻した結婚相手の名前は戸籍に記されている限りでは倉内姓ではなかった。何分明治期なのでどこまで戸籍を信用していいか分からないが、一族がそういうのだから、やはり鐵郎の姉のどちらかが清巌の結婚相手だったのだろう。

会場で手にした資料をみると、清巌は22才までは淡路島で漢学を学んでおり、23才で大阪にでて泊園書院で学び、27才で再び淡路にもどり教員をはじめ、31才から32才まで京都でまた教員をやり、33才〜37才まで岡田鴨里の生家のすぐ近くの多聞寺の住職をつとめている。30代後半からは京都で出世街道をばく進するので、石濱家の女性と結婚して子供をなしたのはおそらくは石濱家のあった洲本にいた22才以前、あるいは鴨里の生家近くで住職をしていた33才から37才までの間であろう。
というわけで、今回の四国の旅でも再び、百年以上前の過去のご縁が発覚したのであった。太田先生とお会いするたびに百年以上前の人達の交友関係が明らかになるこの不思議さ。東京生まれの東京育ちの私がいつのまにか、淡路島や徳島に足繁く通うようになっているのも不思議な話である。
この六年間、思ってもいない人間関係が拡がり、歴史を継承する意味とか、偉人の顕彰とか、文化財の保護について、いろいろ勉強し考える契機となった。
いずれ状況が落ち着いたら九月から今にいたるまで、私が巻き込まれてきた、ご先祖生家問題について明かせる範囲内でお話ししたいと思う。
| ホーム |