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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/09/28(土)   CATEGORY: 未分類
沖縄でゼミ旅行 ('19)
 琉球王国は1609年に薩摩に侵攻された後も、清朝に朝貢しつづけたため、1879年の琉球処分によって公式に日本に帰属するまでは国際的には清の衛星国とみなされていた。そんなことを授業で扱ったら、ゼミ生が是非琉球に行きたいといいだしたのでちょっと遠いし高いけど今年のゼミ旅行は沖縄にいこうということになった。以下そのレポートです。

8月27日 27年アメリカだった沖縄

 夕方にホテルにチェックインをし、国際通りに向かう。途中、現県庁の横にある琉球政府・立法院跡の記念碑を見に行く。

 私「日本が戦争に負けた後、本土は1951年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復したけど、沖縄は台湾・朝鮮半島に近くて対ソ・対中の基地をつくるのに適していたので、引き続きアメリカの支配下に置かれたの。沖縄の人にしてみたら島中を焼け野原にされた挙げ句、その張本人が上陸してきて鉄条網で島のあちこちを囲って基地をつくりはじめたのでそれは情けなかった。本土に復帰すればこのような状況が改善するかと復帰運動したけど、1972年の復帰後も今にいたるまで基地はそのまま。今県庁があるこの場所には27年にわたりアメリカの沖縄統治の拠点となった琉球政府があった。1972年以前に日本人が沖縄に旅行するにはパスポートが必要だったんだよ。ちなみに、アメリカ施政下でつくられた施設が琉球大学とか琉球政府とか「琉球」が強調されたのは、王朝時代の地名を連呼することで日本との間に距離を感じさせる意味もあったらしい。」と解説。

  国際通りにはクルーズ船からあふれだした中国人観光客であふれかえっており本土観光客はマイノリティ。坂を登り切ったところに「ラフ・エンドピース専門学校」というものがあり、「ヒッピー教育でもするのか」と検索してみたら、吉本のお笑い学校だった。ラブじゃなくラフか。

 食事のあと崇元寺門と大明嘉靖帝の日付ついている下馬碑を見に行く。国際通りから歩ける距離だが裏道に入ると途端に暗くなり、町並みは台湾か韓国の地方都市みたいな独特の雰囲気。

8月28日 琉球王朝の御嶽めぐり

 二日目は琉球王国の信仰世界をさぐるため著名な御嶽(ウタキ=本土でいう神社)をめぐる。
琉球王国最高の聖地はニライカナイ(海の彼方にあるという常世の国)から神様がおりたったという久高島。その久高島を対岸から拝む斎場御嶽も聖地。そしてこの久高島を首里から遙拝するのが弁ヶ嶽の御嶽である。

 まずは泊まっているところの近いところから攻略ということで弁ヶ嶽にいく。ここは首里の最高地点で小高い丘の上にあり、観光地としては無名なので探し当てていく感じ。

 拝所につくと、男の子たちは遠目に見える古い集合住宅を「何か憑いてそう」と気味悪げにみており、Rちゃんのケータイが突然電源がおち、Kちゃんは気分が悪いといいだし、Eちゃんはとったつもりのない写真が二枚とれてるといいだし、私が「みんな気のせいよ。私は何ともないから。」といって、とった写真をみてみると、連続してとった写真の一枚だけが上下逆にとれていた。

私「うん、普通にやばいね」
急いで山を下りる。

 それから一路南下してゆるキャラはなんじいが支配する南城市に向かう。フェリーの時間の都合からまず久高島にいくことにし、フェリーの発着所である安座真港にいく。この日は恐ろしいまでの晴れでクソ暑い。その分海はマリンブルーで文句なしに美しい。

フェリーは20分くらいで我々を神の島久高島へと運んでくれた。

かつてこの島の男たちは海人(うみんちゅ)と呼ばれ操船技術で琉球王朝に仕え、女性は神人(かみんちゅ)といって、琉球王朝最高位の巫女、聞得大君にお仕えすることを誇りとしていた。琉球文化は女性が王権をまもる非常に古い文化を残していて、男尊女卑文化の栄えた本土とはひと味違う。かつて島に生まれ島の男に嫁いだ女性は30になるとイザイホーという儀式をへて神人になった。しかし、現在島に生まれ島の男と結婚する女性がたえ、祀りも行われなくなった。

 島には人影がほとんどなく、これじゃイザイホーも絶えるはずだよと思っていると、小学校には人の気配がある。調べて見ると、この島には全国から不登校の子を受け入れているとのことで外部からの子供ももいたのかもしれない。ちなみにこの島での不登校の治癒率は90%という。島の自然の中で追い込み漁とか、隣の人がもってきてくれる野菜や魚とかを食べているうちに、子供達は自然とゲームをすてリアルを楽しみだすのだとか。ちなみに、本島にある依存症患者のためのリハビリ施設「沖縄ダルク」も全国のどの施設よりも治癒率が高い。沖縄の自然万能。

 フェリーをおりて歩き出すと、日差しを遮る者が何もないので暑い。女子はみな日傘をさしていたので問題なかったが、男子が例によって準備が悪く、「オレもうここで死ぬのかな」とか言い出すので、あわてて島にほぼ唯一の食堂に入る。壁には秋篠宮と紀子様がこの島を訪れた時の写真がはってあり、メニューは「イラブー御膳」「イラブー汁」が推しらしい。

学生「イラブーがこの島の特産なんですね」

「イラブーはシマシマのウミヘビよ。昔はここのウミヘビを燻製にして琉球王家に奉納したの。私は無理だけど食べてみたら?」と云うと、

学生「ソーキ蕎麦にします」
 
食事が終わった後、自転車を借りて、神様がおりてきたカペール岬に向かう。自転車にのると風を切って涼しくなるので男子がいっきに元気づいた。みなでとりつかれたようにひたすら島の北端にむかって爆走する。すぐに人家がなくなり舗装がきれ、丈の高いサトウキビやハイビスカスの間をはしる一本道はDr.コトーの一画面の中にいるよう。
 カペール岬は珊瑚礁の神々しい海だった。青い空に白い雲、青い海。ジブリ映画の一コマみたい。

 Hくん「エモーイ」を連発。

 そして「チャリできた」のネタ画像をとって、再び自転車にまたがり、今度は五穀のはいった壺がながれついたイシキ浜に向かう。朝日がのぼるニライカナイに続く海である(写真はイシキ浜に佇む私)。
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 「こういうところでは私利私欲のお祈りをしちゃだめ、世界平和を祈るのよ」と云いつつ、世界平和にの後にひっそりと論文が期限までに仕上がりますようにと付け加えた。

 帰りのフェリーに飛び乗り、安座真港につくと、慌ただしく斎場御嶽へ。琉球王朝最高位のシャーマン聞得大君(きこえのおおきみ)が即位した聖地である。前回訪れた時は突然お肌が潤って若返ったので今回もっとも楽しみにしていた訪問地である。なのになんか前と違う。数年前にきた時は駐車場から歩いた記憶がないのに、今回はかなり手前のお土産物屋でチケットを買ってそこからえんえん入り口まで歩く。そして御嶽につくとこれまた前回はなかった、教育ビデオを見させられる。

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 その内容は「ここは祈りの場所です。神聖な香炉に土足であがったり、拝んでいる人をジャマしたりしないでください」という観光客にマナーを啓発するもので、ここ数年で何かいろいろあったもよう。

 で部屋にいたガイドの方に聞くと、近所の方から路上駐車の苦情がくるようになったこと、観光客が聖地を土足でけがし、香炉をただの石だとおもって荷物を置いたり、写真をとるための足台にしたりして(自然崇拝なので拝殿とかないので)、香炉はすでに三つ壊され、先週も一つ壊されたばかりだとのこと、もうガイドをつけないと域内を歩けないようにしようという話まででていると。

 ガイドさんの怒りは続く「こういう話をすると、マナーの悪いのは外国から来た人でしょうと言う人がいますが、海外からきた人はここは拝む場所ですといえば分かってくれる。『信仰を強制された』と苦情電話してくるのは日本人です。私なんか苦情件数ナンバーワンですよ」。

 苦情電話をかけるには日本語のハードルがあるからじゃないかと思ったが、怖いので黙っている。さっき久高島であったガイドさんも殺気立ってブアイソだった。我々本土観光客は聖地をまもる女性ガイドたちからは良く思われていない模様。

 斎場御嶽をでるともう夕方。炎天下の一日に疲れはてた我々は近くの喫茶店に入り、コーラにマンゴーアイスをのっけた普段ならぜったぃ食べない甘物を注文。お店の方がサービスでカットパインをだしてくださる。そう、こういう普通のお店の人とかは本当にさりげなくいろいろな気遣いをしてくれる。その晩も夕飯ではいったお店でも「写真とりましょうか?」とか聞いてくれ、しばらくしてからまたもどってきて「全員はいっているか心配になったので確認させてください」とか、しぬほど性格がE。そういえばお店の人は大体男性でガイドさんはみな女性。ジェンダーで観光客へのあたりが違うのだろうか?

8月29日 「本土観光客はポタラ宮の漢人観光客か」

 今日も朝から暑いが、昨日と違うのは雲がでていること。予報では午後から雨なので昨日ほど暑くならないはず。
 本日は、琉球王朝の政治施設めぐり。しかしその前に、港川人の発掘地点である「港川フィシャー遺跡」にいく。出土地点らしきところを探しても分からないので、もよりの民俗博物館に電話をして聞くと、スタッフさんがきて下さるという。実際案内がないと分からない石切場の奥であった。聞けばこのから切り出された庭石から動物の化石を見つけたアマチュア考古学者の大山盛保が、動物があるなら人の化石もでてくるだろうと一人で探し続けてと見つけたのが港川人。人種的には南から来た人々で縄文人とは縁が薄いとのこと。沖縄には鎌倉時代も戦国時代もなかったが、古代史も本土とは関係なさそう。

 港川から那覇の郊外にある琉球王朝の別荘識名園にいく。ここは琉球王家の迎賓館で、中国からきた冊封使(琉球で新しい王が誕生した時、清朝から辞令をもってくる使者)の接待に使われていた場所。江南の風景が取り入れられ、庭木は熱帯の木々がおいしげり、エキゾチックな六義園といった感じ。敗戦の年、この美しい庭園はアメリカ軍の艦砲射撃により壊滅し、爆撃穴しか残らなかったが、写真にとられた往事の識名園の姿をもとに復元されている。
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 識名園の次は一路首里城に向かう。それまでど快晴だったのが、徐々に雲がでてきた。まず王家の墓玉陵(たまうどん)にいく。琉球では遺体を洞窟などに放置して腐りきると洗骨して巨大な骨壺におさめた。王族も基本的には同じシステムで葬られ、ここ玉陵でも遺体を腐らせて洗骨する部屋が真ん中にあり、洗骨ののち王様の骨壺が収められるのは左の部屋、王族の骨壺は右の部屋に収納された。玉陵の前の拝所ではいまだに拝む人がひっきりなしに訪れており、今は無き王家の人々に対する思いが感じ取れた。
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 最後の目的地は首里城である。しかし、門をくぐった瞬間にスコールが降り出し、女子は傘をもっていたが例によって男子がぬれるので、レストルームで雨が上がるのを待つ。傘を持っていない観光客であふれたレストルームは難民キャンプのよう。しばらくして小降りになったので正殿に入場すると丁度ガイドツアーが出発するところであった。

 ガイドさんは琉球王の王座の前で、「ここは外国の宮殿だと思ってください」「琉球王国は日本と中国の間で外交努力をかさねて410年続きました」と「おっ」、という説明をはじめた。康煕・雍正・乾隆の揮毫を背景に、中華風の龍がまきついた柱などはたしかにエキゾチックで日本的でないが、1609年以後は琉球は薩摩に実効統治されていたこと、さらに国際的には清に従属し琉球王は交代のたびに中国から辞令をもった使者(冊封使)がきていたことなどは詳しく説明しないのか。
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 深読みかも知れないが、このガイドさんからも本土観光客が琉球の独自性を理解していないことに対するいらだちを感じた。これは斎場御嶽や久高島のガイドさんの、拝所の神聖さを理解していない人への怒りにも通じているようだ。

 そこでひらめいた。これはあれだ。チベットのポタラ宮において、漢人観光客我が物顔で大声で携帯で通話したり、大声でしゃべったりして、インスタ撮影とかをしているのを、チベット人巡礼が暗い目をしてみつめているというあの構図だ。チベット人にしてみたら、ポタラ宮は観音の聖地であり、この宮殿の本来の主は観音の化身ダライラマ14世である。それが今、ダライラマ14世を追い出した国の人々が、ただの観光地として聖なるポタラ宮につめかけ、聖地に対する敬意も払わずに騒々しく「観光」している。

 そうだ、これだよと気づくと、沖縄の人の気持ちも何となく理解できるような気がした。
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