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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/07/28(日)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ②強烈な欧米人研究者列伝
■1979年開催の第一回国際チベット学会

今年は国際チベット学会(IATS)が創立40周年を迎えた。開会式ではオスロ大学のクヴァルネ教授(Per Kværne)が、1979年の第一回国際チベット学会の集合写真を映し出して思い出話をした。それによると、はじまりは、1977年のこと、マイケル・アリスとクヴァルネが二人でワインを飲みながら、「若いチベット研究者がジャンル・国籍関係なしで交流・発表できる場を作ろう」とこの学会を構想し、SNSのない時代対面で一人一人に構想を伝えて13人を集めて計画を始動した。
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そしていよいよマイケル・アリスがホストとなって第一回IATSが、オックスフォード大学で開催された。賓客としてはチベット最後の日々を目撃したチベット学者ヒュー・リチャードソン(1905-2000)を迎え、55人が集まり、今と同じく会費なし、発表言語も自由のゆるい会であった。本会は開催される度に規模が大きくなり、今年は20ヵ国以上600人が発表を行った。

 国際チベット学会の発起人となったマイケル・アリスはすでに故人である。今回の会はチベット史家のエリオット・スパーリンクが死んで最初の国際チベット学会でもあった(写真の前列中央)。この二人は人権活動家として知られ、強烈な生涯を送っている。本エントリーでは彼ら二人の人生をしのびつつ、チベットを研究するとこうなる人って結構いるんだよね的な話をしたいと思う。

■IATSの発起人マイケル・アリス(1946-1999)の激動の生涯

 故マイケル・アリスはチベットの研究者であるばかりではなく、ビルマ建国の父アウンサン将軍のお嬢さんでビルマ民主化の指導者であるアウンサン・スーチーさんの夫である。

 スーチーさんのお父さんは彼女が二歳の時に政敵に暗殺され、お母さんは独立ビルマの大使としてインドに赴任したため、スーチーさんは15才から海外暮らしとなる。1962年、ネウィン将軍のクーデターによりビルマは軍事政権に舵を切り、経済の停滞がはじまった。スーチーさんは1964-67年にはオックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジ (St. Hugh's College) に留学し、卒業後はニューヨークの国連事務局行政財政委員会で書記官補を勤めた。折りしも、国連事務総長はビルマ人のウ・タントであった。

 一方のマイケル・アリスはブータン王家の英語教師の募集に応じて、1967〜73 年、ブータン図書館に勤務していた。1971年、ブータンにきたスーチーにマイケルがプロポーズをし、二人は結婚した。結婚に際してスーチーさんは旧宗主国の男性と結婚することにより、自分のビルマに対する愛をビルマ人が疑わないかとずいぶん悩んだという。しかし二人は仲が良く二人の男の子にも恵まれ、マイケル・アリスがオックスフォードで第一回国際チベット学会を開催したのは次男キムがうまれた二年後のことである。
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 二人の幸せな生活は1988年、スーチーさんの母が発作で倒れたことによって終わりを告げる。スーチーさんが母の看病のためにビルマに帰国したところ、ラングーンは民主化運動のうねりの中にあり、民主化勢力はスーチーさんに運動への支援を求めた。スーチーさんは父が政治闘争の中で暗殺されたこともあり、政治に関与することに当初逡巡したが、結局民主化運動の先頭に立つ。建国の父の娘であり、美人で弁のたつスーチーさんが演説すると、国民は熱狂した。脅威を感じた軍事政権は「民主主義はイギリス人の思想であり、彼女はずっと外国にすみ外国人と結婚した売国奴である」と宣伝し、スーチーさんを意図的に『アリス夫人」と呼び、建国の父アウンサン将軍とのつながりを否定しようとした。

 1988年8月8日、後に8888 蜂起と呼ばれるビルマ全土に広がった民主化の動きは、軍事政権によってつぶされ数千人が命をおとした。ビルマ版天安門事件である。翌、1989年、東欧の社会主義政権がドミノ式に倒れ、ダライラマ14世がノーベル平和賞受賞した年、軍事政権はいっそう硬化し、スーチーさんは軟禁され、民主化を要求した学生たちも逮捕された。逮捕された学生たちが監獄で拷問にあうことを懸念したスーチーは、自分を監獄に送るように要求し、軟禁中の自宅でハンガーストライキを始めた。

マイケル・アリスと二人の息子はビルマに飛び、ハンストするスーチーさんにつきそった。スーチーさんに何かあれば国際社会もビルマの国民も軍政を非難することは明白であったため、軍政は監獄内の学生の待遇改善を約した。スーチーさんはハンストを停止し、マイケル・アリスと二人の息子はイギリスに戻った。

 翌、1990年5月27に スーチーさんが軟禁中であるにもかかわらず、彼女の率いるNLDは総選挙で地滑り的勝利を得た。ここで軍事政権は予想外の結果に狼狽し選挙の結果をなかったことにし(笑)、スーチーさんの二人の息子にはビルマのビザがおりなくなり、イギリスの家族とスーチーさんの間の連絡は途絶えるようになった。軍事政権は「夫と息子に会いたいならイギリスへ帰れ」との無言の圧力をかけてきたのである。

 翌、1991年のノーベル平和賞はマイケル・アリスの奔走により、スーチーさんに贈られた。受賞式にはマイケル・アリスと二人の息子がかわりに出席し、スーチーさんがそれでもラジオくらいは聴けているかも知れない、もしそうなら息子の声を聴きたいだろうと、二人の息子がノーベルスピーチを行った。
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 1993年 ダライラマ14世を含む7人のノーベル平和賞受賞者がスーチーの解放を要求してビルマへの入国を試みるも拒否される。7人はビルマ難民キャンプを訪れ支援を表明。そのままジュネーブにとび国連人権委員会アピールを行った。
 1997年 マイケル・アリスが前立腺ガンと診断され、国連のコフィ・アナン事務総長、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、アメリカ政府がマイケル・アリスのビザ発給をビルマ政府に申請したが軍政は認めず、再会が叶わないまま1999年3月27日、マイケル・アリスは享年53才で激動の人生の幕を閉じた。

 結局、スーチーさんの自由が実現するのは、2012年のことであった。国際的に孤立したビルマにおいて中国の影響力がまし続けたことに危機感を感じていた軍事政権は、この年民主化勢力に[形だけの]譲歩をはじめたのである。やっと出入国の自由をえたスーチーさんは20年ぶりのノーベルスピーチをオスロで行い、ダライラマ14世との会合も果たした。

 現在スーチーさんはロヒンギャ難民問題で国際的な非難をあびているが、軍人議員が優勢な議会において、ビルマの人々のほとんどはロヒンギャをビルマ人と認めていないという状況下で、スーチーさん一人を責めるのはあまりにも酷であると思う。
 
 人権活動家のチベット史家 エリオット・スパーリング(1951-2017)

 開会式では前回の学会の開催以後になくなったメンバーに対して黙祷も行われた。その面々の中でも圧倒的な不在感をかもしだしていたのは前述したエリオット・スパーリングであった。彼はどこにいても目立つ人であった。学者としての業績はむろんのこと、黒いシャツ、黒いサングラスというアレなファッションに、忌憚ない発言、そのうえみごとな×ゲ、彼はチベット支援のいたるところに顔を出していた。
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 彼の人権を守るための活動はチベット人に留まらずウイグル人にも及ぶ。2014年、中国当局に逮捕されたウイグル人の経済学者イリハム・トフティ氏を擁護したことから、中国に入国禁止となった。その三年後、インディアナ大学を引退したエリオットはニューヨークに居を定め、チベット人支援に本腰をいれようとしていた矢先、66才の若さで急死したのである。一人暮らしのエリオットの死を最初にみつけたのはイリハム・トフティ氏の娘であった。

 2014年7月7日に、エリオットが中国への入国を拒否されアメリカに送還された時、彼はバッテンがつけられた自分のビザをニューズ・ウィークに公開し、「私はこのビザを中国共産党人権賞と呼んでいます」といい、「[北京政府の入国禁止の]ブラックリストからはずれる手段があるのかはわからないが、私は自分の行動を変える理由をみいだせない。」「私は声高に異議を唱えたことは認めるが、それ以外、何も悪いことはしていない。そして、ビザを得るために北京の権威主義に従う意志もない」と言い放った記事をみて、「ああ、彼、絶好調だな」と思ってたらその二年後急死してしまった。エリオットに捧げられたパネルは、みなが最後に彼との思い出を語っていてほろりとした。
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 マイケル・アリスにしろ、エリオット・スパーリングにせよ、象牙の塔の中にこもることなく、あえて厳しい現実に関与し、ビルマや中国の民主化に挺身したことは、特筆すべきことであろう。

 思えば第一回国際チベット学会に参加した「若い」研究者たちは、みな1959年にチベットの亡国を目の当たりにし、難民となった若き日のダライ・ラマの言動と行動に感化され、ともに年を重ねていった人々である。思えばダライラマ14世も、静かな場所で仏教の研究と修行にうちこみたい人であったが、実際はチベット人のため、仏教のため、世界中の救いを求めている人々のために、現実世界へ関与する人生を歩むことになった。それを考える時、ダライラマの人生がチベット研究者の人生にも同期したと解釈することもできよう。

 国際チベット学会が巨大化し、当初のような情報交換、親睦の機能が低下してきたため、最近は若手チベット学者会議が、本会議の間に開かれ、国境をこえた交流を深めている。かれらは団塊の世代の子供世代なので、数も多く一つの勢力となっている。願わくば彼らも親世代同様、チベット学や研究対象であるチベット文化本体が消滅していかないようにそれぞれのジャンルで業績をだしてほしいと思う。
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DATE: 2019/07/15(月)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ①トラブル編

■ついに私も大学者

欧米の学会は時差がきつくて不眠症が悪化するので避けてきたが、今回は英語の本を出版して宣伝しなければいけないし、学会が結成されて40周年ということもあり、パリで行われる国際チベット学会に参加することとした。
直前まで発表の準備をし、もろもろに忙殺されていたため、旅行の細かい準備までできずとりあえず地球の歩き方の地図部分だけ破り取って持って出発。

 空港について保安検査場でパスポートをとりだしてふっとめくってみると、なんかビザがたくさんはってある。「去年更新したばかりなのに多くね? 」よぎる不安。よく見ると私が手にしていたのは今年の1月に失効した古いパスポートであった。

 その昔、江上波夫先生が海外にでられた時、周りの人が「先生パスポートは?」と聞くと、「パスポートとは何だ」と答えたというレジェンドが頭をよぎる。私もついに江上波夫大先生と同クラスの大学者になったのか

 去年ロシアに行くのに、ロシアは入国時点で半年パスポートの期限が残ってなければいけないので、まだ半年以上期限が残っているのに新しいパスポートを作った。まだ期限が残っている古いパスポートには穴が開けられなかったのでそれで取り間違えたのである。てか同じ場所に保管すな、自分。
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「このまま家に帰って一週間寝て暮らそう」と一瞬思うが、パネルを主宰しているのでそうもいかず、次の日の便に振り替えてもらう。ちなみに、チェアマンを頼んでいたMichael van Praag教授がその朝、怪我で学会キャンセルとか伝えてきてるので、始まる前からこのパネルは呪われていた
 
 翌日、11時間の飛行の後、シャルル・ド・ゴール空港につく。ターミナル1は建設された70年代はアバンギャルドだったかもしれないが、今見ると社会主義ソ連風というか、ペテルスブルグの地下鉄風というか、タルコフスキー風というか、暗いしょぼい怖い建物。出口にでても案内表示がなく非常に不親切。あとで聞くとこのターミナル使った人はみな迷いまくっていた。

■北斗の拳の世界

空港から市内にでる電車は治安の悪い地域を通るので、強盗が多発している。在フランス日本大使館情報によるとギャングは複数人のってきて一人がとびこんでバッグをうばい、もうひとりがドアをしめて逃走を手伝い、バッグを放さないとホームまで引きずり出される、welcome to this crazy world ! な北斗の拳の世界である。そこでタクシーにのるが、あとで聞くとタクシーも渋滞で停車したところで路肩に潜んでいるギャングが窓ガラスを割ってバッグをとり、運転手も助けてくれないというので、アジア系女性の一人旅に安息の地はない

学会が指定したホテルはパリのはずれの13区にあり、とにかく大人数を安くとめることを優先したようで、会場から遠く、交通の便も悪く、サービスも悪いと三拍子揃ったすごいホテル(帰国の際空港まで一緒したカナダ人教授も「私の知る限り最低のホテルだ」と言い放っていた)。このホテル、初日から盗難が二件、発生して、2000ユーロとコンピューターとパスポートが取られたとかで、警察もきていた。どんだけセキュリティが甘いんだこのホテル。

しかし、パリも国際学会もはじめてのWくんは脳内で美化されたパリに酔っており、

「空港から市内にくる電車の中でいろいろな人種の人が乗り降りするのをみて、これが人権先進国の姿なんだ、とワクワクしました」という。

「この子は早く現実をみた方がいい」と思っていたら、その機会は意外に早くやってきた。

発表の終わった翌日、ちょっと一息とWくん市内で観光とルーブル美術館の前を歩いていたら、私とWくんはヒジャーブをかぶったイスラム系のローティーンの若い女の子に声をかけられた。彼らは、子供のための署名を集めているので署名してとしつこくつきまとう。署名をすると、今度は寄付をしろという。この時点で何かおかしいと思い、私はふりきったが、オメデタイWくんは同情して六ユーロだした(写真は無残な姿を晒すノートルダム大聖堂。屋根がおちてカジモドはもう住めない)。
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すると、その中東系の女の子はさらに電話番号を書けといってきて、気づくと二人の女の子も加わり総計三人に囲まれてまさに財布がとられようとしていた。つまり、募金は財布をださせるための手口で、署名で気を取られているすきに他の二人が財布をぬくシステムだったのである。さすがにWくんは途中で気づいて逃げたが、「人の善意を利用するなんてひでえ」とウツロな目でつぶやていた。

しかし、大柄なアフリカ系の男に張り倒されて財布とられたなら同情するが、イスラム系のローティーンの女の子三人にほだされて財布をとられそうになったのは笑い話にくくっていいと思う。

「目を覚ませ。これがパリだ! 」と私は勝ち誇ったのであった(何に勝つんだよ)。


■松岡修造がいるみたいな暑さ

今年の日本は梅雨空が続いて寒いがパリは連日めっちゃ暑く、みな半ズボン、ノースリーブ。二週前は熱波でヨーロッパで人が死にまくっており、私がいた間も連日快晴。一日のうちほんの数時間風がふくだけでほぼ無風。会場のinalcoは冷房がはいっているのが一階の講堂だけで、あとは蒸し風呂。ただ窓をあける以外の涼み方がないので人が部屋にはいってくるととにかくムッレムレ。

パリは緯度がたかいので夜は23時まで明るく朝は4時から明るいから、涼しくなる暇がない。結果、西日があたる部屋、中庭に面して風がまったく通らない部屋ははっきりいって地獄。汗まみれ。私達のパネルの部屋は西に向いている上に中庭に向いていたので、うだった。ホテは遠いからシャワーをあびに気軽にも戻れない。あまりに暑いので松岡修造がパリにいるのかと思い、検索したが、修造は長野にいた。パリの暑さは普通に地球温暖化が原因。

暑いとくればとすべてが臭い始める。もともとパリはネズミの都。世界遺産とかで古いものは古いままだし、中世から下水があるからネズミは繁殖しほうだい。Wくんは学会初日にトラムの駅まで歩く途中巨大なネズミの死骸をふみかけてショックで座り込んでいた(写真はひと目をはばからないパリの恋人たち)。
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そう花の都パリはとっても不衛生。トイレをがまんできない観光客や浮浪者が物陰で(地下鉄通路とか、公園の茂みとか、観光地の影になった場所)あたりかまわずシーをするので、折からの暑さで臭う臭う。シテ島におりる階段なんか17世紀からの立ちションの匂いが染み付いており、オエッとくる素敵な空間。
 恋人たちの都というより、し尿の都だね♥️

■パリ観光

というわけで、観光する気はもともとナッシングであったが、2019年4月15日に焼けたばっかりのノートルダムと、ダライラマの外交官ドルジエフ関連の史跡だけはちょっとだけは見に行いった。世界最大の観光都市パリは、川が流れていて、橋がかかっていて、お土産物屋が軒を連ねていて、観光客しかいなくて、お店は一見さんの観光客から全力でぼったくろうとしている店ばかりだから国際版の嵐山。
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こうエンドレスに毒づいていたらK先生がパリの人も同じことをいっていると賛同?してくれた。

ここでネガティブな方へのワンポイント・アドバイスです。行きの飛行機で見た「ミッションインポッシブルフォールアウト」ではトム・クルーズがさんざんパリの町をバイクで走り回っていました。なので、北斗の拳がきついという方はこれを見ればパリにこなくてすみますよ。

後編は40周年を迎えたチベット学会のレポート。
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