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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/04/01(月)   CATEGORY: 未分類
ギュメ僧たちの証言(ロサン・テレ先生来日)
ダライラマ法王がチベットからインドに亡命して今年で60年。チベット動乱の3月10日の前後より新聞各紙やNHKなどで、中国政府がチベット人、ウイグル人に対して強硬な同化政策を行っていること、また、「辺境」への積極投資によりチベット人の生活が急速に変化していくことなどが報道された。とくに、BS1では去年に引き続き、ラルンガル僧院のドキュメンタリーが放映され、中国に強いNHKの面目躍如たるものがあった。このように一時に比べると日本のマスコミはチベットに優しくなったものの、チベット本土の状況は悪化の一途なので手放しでは喜べない。

さて、この春、二大密教学堂の一つ、ギュメの僧院長、セラの学堂長など大僧院の長を歴任した高僧、ロサン・テレ先生が来日されて一切悪趣救済観世音菩薩の灌頂(仏様の力を授ける儀式)を行います。
ロサンテレ

 本尊となる「一切悪趣救済観世音菩薩」とは、タクプ五世(gar gyi dbang po: 1765~1792)がビジョンの中で得た観音様の一種で、この観音様の修行を完成すると地獄(悪趣)に落ちても一回はキャンセルできるという噂です。私は2017年にインドのセラ大僧院のロサン・テレ先生の坊で受けて以来、毎日マントラを唱えて、地獄行きませんようにと念じています(笑)。ちなみに、ダライラマ14世もラダックのデスキットで2017年の7月12日にこの灌頂を授けています。

一切悪趣救済観世音菩薩の許可灌頂

導師: ロサン・デレ先生(ギュメ寺第101世管長)
通訳: 平岡宏一先生(清風中学校・高等学校校長/種智院大学客員教授)
日時: 2019年5月11日(土)14:00~17:00(受付開始:13:00)※時間厳守でお願い致します。
会場: ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(東京都新宿区西落合 3-26-1)
お志 お一人様 1万円
お申し込みはこちらから


 通訳をつとめられる清風学園校長の平岡宏一先生はロサン・テレ先生とは平岡先生が27才でインドのギュメ大僧院に留学した時以来のつながりがあるので、非常に息の合った会になると思われます。

 ここで、ロサン・テレ先生の来日とチベット動乱60年を記念して、2017年にお坊さんたちから聞き取った「チベットの僧侶たちの今」を以下に記しておきたいと思います。

(1) ロサン・テレ先生 (2017年8月15日 於セラ大僧院のロサン・テレ先生の坊)

 中国政府はインド在住の難民僧侶たちが本土チベットを訪問したいというと許可証をだす。しかし、影響力が強い僧侶であったりすると、その許可は出ない。私は「もう余命も残り少ないので、死ぬ前に本土にいる兄弟に一目逢いたい」と申請し(先生の弟子になった甥の母は存命)、2016年の一月二十日から七月までチベットに滞在した。1998年以来二度目の本土チベット訪問だった。

[1998年の時とくらべて]道はよくなっていたが、自由はなくなっていた。[チベットでは]アムド、クンブム、タシキル[などの大きな僧院と]、法王様がうまれたタクツェルとかパンチェンラマの生まれた場所とかの聖地を沢山まわった。最初は身バレしていなかったので、いろいろなところに行けたが、そのうち[高僧であることがばれて]ガンツェの自宅で瞑想(ツァム)にはいって秘密集会の行をやっていた。そのうち、いろいろな寺から招待がきて、来年の五月までスケジュールが埋まった。セルシュ寺で3000人ほど集めて説法会を25日ほどして、そのあとヒヤサマージャ尊とチャクラサンヴァラ尊の灌頂をしようとして、秘密集会をまずしたら、何万人もの人が集まってきた。そしてグヒヤサマージャ尊の漢書ヴが終わった晩、当局が宴会を開いて呼ばれて、「お前が余命いくばくもないというから許可をだしてやったが、元気じゃないか」(爆笑)、セラの僧としか書いてなかったが、管長じゃないか、などと絡んできた。私は今は管長の座を退いていると反論した。彼らは宗教の自由がないと批判されるのが怖いのであくまでも法律に触れたという理由で批判してきた。妹も公安に呼ばれたが、耳が遠いのでずっとオンマニペメフンといっていた。説教する公安は上に報告するためか録音していた。結局、宗教行事をしないのならいていいと言われたが、その晩、本土にいる直弟子がきて、何がおこるかわからないから明日すぐに帰国した方がいい、飛行場まではセルシュの僧院長と一緒にいった方がいい。僧院長は名士だからへんなことはできないはずだ、というので、翌日ネパールにもどった。集まってきた人の半分は漢人で、一対一では信仰心がある様をみせるが、大量に人が集まった後は何が起きるかわからないというので、味方になってはくれなかった。

 
(2) テレ先生の甥御さんソナムグードゥプ(48) (同上)

宗教によってしか中国は変わらないと思う。仏教を勉強をすれば命が大切なことがわかる。そうすると命を傷つけてはいけないことがわかる。お互いに思いやりあってよくなろうという気持ちが自然とおきてくる。最近は科学によって人の本質とは慈愛をもつものであることが証明されてきた。これは希望のもてることだと思います。中国の人たちも仏教を勉強すればその状態は向上していく。漢人も良いお手本があればゆっくりよくなっていくと思います。それはどの国でも同じです。

 インド[の難民社会]で勉強をおえたお坊さんが、本土チベットにわたりカム地方(東チベット)とアムド地方(東北チベット)の大きな僧院にいらっしゃいます。インドからチベットに入る時のパスを、[本土に定住する決意を示して]捨てると説法の自由が与えられるのです。ただし、人気がでて人が集まり始めると、どうなるか分かりません。法王様のお加減が悪くなった際、法王の長寿儀礼を行った仏教博士二人が刑務所に入れられました。

 寺ごとの僧侶の定員については、地域の政治家の裁量に委ねられています。理解のある政治家の場合は[定員より多くの僧が集まっても]見て見ぬふりをしてくれますが、それも中央から何か言われたらどうなるかわかりません。


トゥプテン・ウーセル (83) (日時: 2017年8月14日 場所: 自坊)

平岡宏一先生談「この方は1990年にギュメが再建された時のギュメの財政部長 (phyag mdzod)でした。1989年に二週間日本に滞在している間、[当時のギュメの僧院長]ゴソ=リンポチェと彼をつれて鳥取の霊感のある人を訪ねたら、その方はこのトゥプテン・ウーセルの全身からお経みたいなイメージを受けるといって、[ギュメの再建のために]多額のお布施をだしてくれました。若い時は精悍で、この人大好きです。昔は正月になると電話をくれていたけど、最近はもうくれませんね。」
掌

・トゥプテン・ウーセルのお話 

掌の△の傷をみせながら]、この傷は前世、掌をあげて「弓で当ててみろ」といって射貫かれたあとだ。私の前世は両親の友達だったので、私がこの傷をもって生まれると、「あの人の生まれ変わりだ」と分かったという。私は17歳の時までアムドのこの写真の村にいた。父さんは刀をもった怒りやすい人だったが早くに死んで、お母さんといた。

 四歳半からお寺に預けられて、師匠(実は叔父さん。親族を師にするのはよくあること)について勉強した。近くにパンチェンの前世ゆかりのビントゥ僧院(500人はいたそう)があったので、パンチェンラマに憧れて、まず[パンチェンラマの座である]タシルンポに向かった。そこに九ヶ月滞在した後、ラサにでて、経典の暗記とかして、20才になったのでギュメに入門した。1959年以前、ギュメは20才にならないと入れなかったんだ。
掌の主jpg

 25歳になった時、中国がきた(1959年のチベット動乱)。シュー(未詳)という場所にいた時、そこにいた200人で衆議一決してインドへの亡命を決めた。その中には当時のギュメの僧院長もいた。僧院長は馬に乗っていたので先に行った。私は入門五年目までの若いお坊さんたちのグループに入って道に迷いながらインドに向かった。亡命を決めたのは三月だった。インドが南にあるのは知っていたのでひたすら南に向かって歩いた。

後にブータン経由で亡命したグループとも一緒に歩いていて、自分ら20人のグループは途中から加わったカムの軍人たちともに移動した。チベット人狩りがあったから昼は潜んで夜中に移動した。六人の軍人は人からもらった銃をもっていた。インドにつくまで一ヶ月かかったような気がする。タワン(アルナチャール・プラデーシュ)を経由して逃げた (ダライラマ14世とほぼ同じルートをたどって亡命したものと思われる)。

 ブータンを経由して逃げたグループが亡命ギュメ僧たちの本体で、彼らはツォンカパが[ギュメの創立者]シェーラプセンゲに与えた門外不出のタンカ(佛画)を奉じていた。分かれ道にきた時、一つはインドに向かう道であったが中国軍がいて、もう一つの道はどこにいくのか分からない道であった。どちらに行くべきかわからないので、セラ大僧院からギュメに留学していた仏教博士が(おととし逝去)、タンカの前で占いをたてようといいだし、占いの結果は何と中国軍のいる道にいけという卦がでた。

 その道をいくと、中国の将軍が「お前等はどこにいくんだ」と通訳を介して質問してきたので、「戦火を逃れて安全なところにいきます」と言うと、その将軍が通行証をだしてくれたのでその後インドへ行くことができた。もしタンカの前での占いがなかったから、ギュメ僧は散り散りになっていた。

これらの僧はブータンを経由して、[インドの]ダルハウジーにしばらく滞在し(密教僧はダルハウジーに顕教僧はバクサドアルに当時集められた)、1972年に[現在ギュメが再建されている]フンスールへきた。[ギュメの至宝であるこの]タンカには金剛怖畏尊が描かれているというが、開けてないからみたことがない。ギュメのもう一つの至宝であるツォンカパがシェーラプセンゲに授けた秘密集会仏像は(50~60cmくらいのものらしい)、ラサのギュメ寺からチベット語を介するネパール人がもちだして、法王に献上したので[ダライラマ14世の居殿のある]ダラムサラの寺にある。その時、ともに亡命したギュメの僧侶は200名ほどでいたが、現在生き残っているのは14人くらいである。チベットは涼しくて気持ちの良いところだった。

ツォンカパがシェーラプセンゲに授けた秘密集会尊の複注(ティカ)四巻は持ち出すことはできなかった。自分の下の妹は生きていて、三人子供がいるそうだが、「一人弟子にしろ」といってもしなかったので、「チベット本土に」帰ってこいと言われたが無視している。何をきめるもすべて中国人が決めるチベットにもどっても意味がない。戻った人もたくさんおり、中には人望があって議員をやった者もいるが、インドから戻った人間は中国側に監視されていて何をしたかすべて中国側は知っていた。寺の中にスパイがいるんだ。
 本土に戻った人は目立たなければそんなひどいことはされない。昔よりは本土に戻りやすくなった「私は中国人です」という書類にサインすれば戻れるが、私は死んでもそれをする気はない。

●ダワゲルツェン (82)

平岡先生談 「ギュメがお金がなくて困っていた時期、デリーでレストランを経営していて、その時この方は会計やっていました。あんまりありがたい表情をしていたので、聞いてみたらクショラ(高僧)でした。」

・ダワゲルツェン師のお話

私はカムの出で19歳でツァワゴンパに、22歳にギュメに入門した。法王様をどう思っているか? 尊敬しているに決まっている。私はラサで法王様の下で一人前の僧の戒(比丘)を受けたんだぞ。中国が来た時はブータン経由で亡命した(先ほどのブータン経由で亡命したギュメ僧グループの人)。[インドで]35歳で密教博士を取得した。その後、砂マンダラ作成を学んだ。1984年と1996年に短期間本土チベットに戻ってラサのギュメ寺にいて、それから[故郷の]カムの寺にいったが、中国はあてにならんので、インドに戻った。ここなら誰にもジャマされずに祈ることができる。
 
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