怒濤の18年を総括
●チベット・カレンダーで今年もチベットをおそばに
今年もチベットをあなたのおそばに。SFTJapanのチベット・カレンダーがでました。 今年のカレンダーの表紙は中国共産党が入ってくる前に存在したラサの仏塔ゲート(パルゴカリン)の古写真を現在のポタラ宮と合成したもの。
この今・昔の写真シリーズ、これからもやってほしい。三月は蜂起記念日がある月なので難民社会で行われるいろいろな抗議活動の写真、七月はダライラマの誕生日なのでダライラマの写真といった具合にこっている。また、最終ページにはチベットの主要なお祭りの西暦日程、SFTJapanの昨年の活動実績をまとめて報告されている。
以下のページで注文できます。
わがやの愛鳥ごろう様もカレンダーを袋からだすと駆け寄ってきました。オススメのようです。
●チベット関連の世界情勢について
今年は北京オリンピックの年におきたチベット人蜂起から十周年である。同年におきたリーマン・ショックの後、経済力をました中国は一帯一路、中国製造2025などと、中国標準を世界標準にせんと経済、軍事、政治の世界でごりごりごり押して世界がドンビキ。中国国内の人権派の弁護士はどこかに拉致られ、ウイグル人は100万人単位で収容所にいれられ、チベットをめぐる情勢も日に日に厳しくなり、人権に敏感な先進各国もチベット、台湾、天安門の3Tに言及しづらくなっていった。
すわ、中国様が世界を支配する日も近いかと思った矢先、七月にアメリカ・ファーストのトランプ大統領が、知的財産権を侵害し続てきた中国に対して、関税引き上げを要求し、米中貿易戦争が勃発。10月8日にはペンス副大統領がハドソン研究所で、雑にまとめると「一向に民主化が進展しないどころか、人権状況はどんどん悪化している。反則技もばしばし決めるし(ハッカーによる攻撃)、中国とは価値観が根本的に違う。もうやっていけない」というスピーチを行い、もう米中はっきりと袂を分かってきたので、チベット問題も少しは動いてくれると祈りたい。
そんな平成最後の年末、チベット関係者と新宿駅近くの路上で立ち飲みしたので、そこで聴いたチベット関連のお話をまとめます。
・国際連合人権理事会の(UPR)中国審査(11/6)
国連には2006年に人権理事会が設置されており、国際連合の加盟国は4年に一度、人権状況を評価(UPR)される。理事国はアフリカ、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカ、西ヨーロッパ地域の47ヵ国からなり、理事国には日本も入っているが、人権状況ではアレな中国も入っている。そしてアメリカはトランプ大統領が衝動的に脱退したとかで、国際政治は経済同様自己中と協調の狭間で翻弄されまくっている。
話をもどすと、今年は通算三回目の中国の評価年にあたり、47理事国は持ち時間二~三分ながら、中国の人権状況についてレビューを行った。自分自身が人権をまもれていないアフリカ諸国は当然のことながら中国様にやさしく、先進国はむろんのこと厳しいレビューをつきつけたのであった。
チベットにおける人権状況に懸念を表明したのは、十三ヵ国、すなわち、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スウェーデン、スイス、イギリス、そしてアメリカである。
2013年と2018年の場合を比べると、
一貫してチベットを支持したのが、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スイス、イギリス、アメリカで、言及がなくなったのが、チェコ、アイルランド、ポーランド、新たに言及してくれたのが、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スエーデンである。
日本がこの中に入っているのにはチベット・ロビーのお力が大きい。関係者各位の努力に深く敬意を表したい。
・チベット議員連盟初決議(11/20)
ダライラマ法王が来日された11月にあわせて、チベット議員連盟(90名から構成。名前は非公開。だって中国が脅迫するから 爆笑) が、ダライラマの非暴力の訴えに共感し、各国議会で決議された共同アクションを支持し、チベット問題にコミットメントしていくという決議を行った(詳細はここ)。
・ 世界人権デーデモ(12/8)
12月8日の世界人権デー(12/10)にあわせたデモには、顔を隠したウイグルの方がたくさん参加されたという。 中国政府はこれまでもウイグル人を強制収容所へと送り込んでいたが、10月15日に この「再教育」を法制化したことを受け、10/12から二日間、BBCがこの「ウイグル人100万人収容所送り込み問題」をとりあげた。
私も録画して授業の教材としたが、ここ数年で、数万人単位を収容できる収容所があちこちに建設され、100万人のウイグル人が送り込まれている。過激思想に汚染されないように中国語や中国政府を愛国するように「再教育」することが目的であるという。 ある日突然お父さんやお兄さんが収容所につれていかれて、その家の前には当局が貼った「教育を受けているから安心して」みたいなビラが翻る。一言でまとめると「いつの時代だよ」という状況。
こんな事態であるため、ウイグル人が人権デーのデモにくるわけだが、沿道からは「中国でやれ」とヤジる高齢男性がいたという。統合失調症の妄想でもなんでもなく現代の中国はリアルなオーエルの『1984年』社会である。ネットもケータイも当局の管理下におかれ、政府を批判すれば即ムショ入り。中国政府を動かすことができるのは外圧だけだから、ウイグル人もチベット人も日本で声をあげているのであり、そのあたりをご理解いただくのもデモの目的である。
まとめ。
チベット仏教によって育まれた高僧の人格は、世界中の多くの人々に気づきを与えており、チベット仏教の思想とそれによって作り出される人材は人類の共通の無形文化遺産である。元、清の皇帝の傍らにおいてモラルを説いてきたのはチベット仏教である。チベット仏教は不完全な人類にとって他の世界宗教同様必要な教えであり、いつの時代でも決して古びることはない。問題山積の世界情勢をみてもそれは明らかである。
来年は少しでも状況が改善しますように。
関係各位、お疲れ様でした。
今年もチベットをあなたのおそばに。SFTJapanのチベット・カレンダーがでました。 今年のカレンダーの表紙は中国共産党が入ってくる前に存在したラサの仏塔ゲート(パルゴカリン)の古写真を現在のポタラ宮と合成したもの。
この今・昔の写真シリーズ、これからもやってほしい。三月は蜂起記念日がある月なので難民社会で行われるいろいろな抗議活動の写真、七月はダライラマの誕生日なのでダライラマの写真といった具合にこっている。また、最終ページにはチベットの主要なお祭りの西暦日程、SFTJapanの昨年の活動実績をまとめて報告されている。
以下のページで注文できます。
わがやの愛鳥ごろう様もカレンダーを袋からだすと駆け寄ってきました。オススメのようです。
●チベット関連の世界情勢について
今年は北京オリンピックの年におきたチベット人蜂起から十周年である。同年におきたリーマン・ショックの後、経済力をました中国は一帯一路、中国製造2025などと、中国標準を世界標準にせんと経済、軍事、政治の世界でごりごりごり押して世界がドンビキ。中国国内の人権派の弁護士はどこかに拉致られ、ウイグル人は100万人単位で収容所にいれられ、チベットをめぐる情勢も日に日に厳しくなり、人権に敏感な先進各国もチベット、台湾、天安門の3Tに言及しづらくなっていった。
すわ、中国様が世界を支配する日も近いかと思った矢先、七月にアメリカ・ファーストのトランプ大統領が、知的財産権を侵害し続てきた中国に対して、関税引き上げを要求し、米中貿易戦争が勃発。10月8日にはペンス副大統領がハドソン研究所で、雑にまとめると「一向に民主化が進展しないどころか、人権状況はどんどん悪化している。反則技もばしばし決めるし(ハッカーによる攻撃)、中国とは価値観が根本的に違う。もうやっていけない」というスピーチを行い、もう米中はっきりと袂を分かってきたので、チベット問題も少しは動いてくれると祈りたい。
そんな平成最後の年末、チベット関係者と新宿駅近くの路上で立ち飲みしたので、そこで聴いたチベット関連のお話をまとめます。
・国際連合人権理事会の(UPR)中国審査(11/6)
国連には2006年に人権理事会が設置されており、国際連合の加盟国は4年に一度、人権状況を評価(UPR)される。理事国はアフリカ、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカ、西ヨーロッパ地域の47ヵ国からなり、理事国には日本も入っているが、人権状況ではアレな中国も入っている。そしてアメリカはトランプ大統領が衝動的に脱退したとかで、国際政治は経済同様自己中と協調の狭間で翻弄されまくっている。
話をもどすと、今年は通算三回目の中国の評価年にあたり、47理事国は持ち時間二~三分ながら、中国の人権状況についてレビューを行った。自分自身が人権をまもれていないアフリカ諸国は当然のことながら中国様にやさしく、先進国はむろんのこと厳しいレビューをつきつけたのであった。
チベットにおける人権状況に懸念を表明したのは、十三ヵ国、すなわち、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スウェーデン、スイス、イギリス、そしてアメリカである。
2013年と2018年の場合を比べると、
一貫してチベットを支持したのが、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スイス、イギリス、アメリカで、言及がなくなったのが、チェコ、アイルランド、ポーランド、新たに言及してくれたのが、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スエーデンである。
日本がこの中に入っているのにはチベット・ロビーのお力が大きい。関係者各位の努力に深く敬意を表したい。
・チベット議員連盟初決議(11/20)
ダライラマ法王が来日された11月にあわせて、チベット議員連盟(90名から構成。名前は非公開。だって中国が脅迫するから 爆笑) が、ダライラマの非暴力の訴えに共感し、各国議会で決議された共同アクションを支持し、チベット問題にコミットメントしていくという決議を行った(詳細はここ)。
・ 世界人権デーデモ(12/8)
12月8日の世界人権デー(12/10)にあわせたデモには、顔を隠したウイグルの方がたくさん参加されたという。 中国政府はこれまでもウイグル人を強制収容所へと送り込んでいたが、10月15日に この「再教育」を法制化したことを受け、10/12から二日間、BBCがこの「ウイグル人100万人収容所送り込み問題」をとりあげた。
私も録画して授業の教材としたが、ここ数年で、数万人単位を収容できる収容所があちこちに建設され、100万人のウイグル人が送り込まれている。過激思想に汚染されないように中国語や中国政府を愛国するように「再教育」することが目的であるという。 ある日突然お父さんやお兄さんが収容所につれていかれて、その家の前には当局が貼った「教育を受けているから安心して」みたいなビラが翻る。一言でまとめると「いつの時代だよ」という状況。
こんな事態であるため、ウイグル人が人権デーのデモにくるわけだが、沿道からは「中国でやれ」とヤジる高齢男性がいたという。統合失調症の妄想でもなんでもなく現代の中国はリアルなオーエルの『1984年』社会である。ネットもケータイも当局の管理下におかれ、政府を批判すれば即ムショ入り。中国政府を動かすことができるのは外圧だけだから、ウイグル人もチベット人も日本で声をあげているのであり、そのあたりをご理解いただくのもデモの目的である。
まとめ。
チベット仏教によって育まれた高僧の人格は、世界中の多くの人々に気づきを与えており、チベット仏教の思想とそれによって作り出される人材は人類の共通の無形文化遺産である。元、清の皇帝の傍らにおいてモラルを説いてきたのはチベット仏教である。チベット仏教は不完全な人類にとって他の世界宗教同様必要な教えであり、いつの時代でも決して古びることはない。問題山積の世界情勢をみてもそれは明らかである。
来年は少しでも状況が改善しますように。
関係各位、お疲れ様でした。
拷問の証言者パルデン・ギャツォ師逝去
年末に近づくにつれ多くの訃報が立て続けに入ってきた。
10月29日 ダライラマの特使として中国との交渉にあたったロディ・ギャリ氏死去。
11月26日 ベルナルド・ベルトリッチ死去。大乗仏教保護財団(FPMT)の創始者トゥプテン・イェーシェーがスペイン人に転生した事件を翻案した『リトル・ブッダ』の監督。清朝最期の皇帝溥儀を扱った『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞受賞。
11月30日パルデン・ギャムツォ氏、ダラムサラで死去。中国の監獄での33年間の体験をワールド・ツァーで語った僧である。
11月30日 ジョージ・ブッシュ大統領逝去。1991年、ダライラマがはじめて会見がかなったアメリカ大統領である。冷戦後の混乱期の舵取りをしたアメリカ大統領として知られる。
この中で、本エントリでは、中国の監獄に33年間とじこめられたパルデンギャムツォ師の訃報を、難民社会のニュース・メディア『パユル』から二つ和訳してみました。
●元政治囚パルデンギャツォ、死す (ソース: 『パユル』phayul 2018/11/30)
Palden Gyatso at his reisdence, Phayul Photo: Kunsang Gashon, Nov. 15, 2018
元政治囚であり、占領されたチベットにおける中国の拷問についての有名な証言者パルデンギャムツォは、現地時間の今朝7:10 にデレク病院でなくなった。
キルティ・チェパ僧院(パルデン師が最後の七年をすごした僧院)からきた老僧は、「ダライラマ猊下のお名前を口にしつつ安らかに逝った」という。彼はさらに数ヶ月前のダライラマ法王との謁見の際には、長年にわたり人々に勤勉に仕えたことを賞賛され、感謝されたという。
パルデン氏は33年にわたり中国の監獄と強制収容所に入れられており、ここ数ヶ月は虚弱体質と肝臓関連の病に苦しんでいるといっていたが、パユルが調べたところでは肝臓癌におかされていた。
11月15日にねたきりとなった僧はパユルに病院と治療について述べた後、こう付け加えた。「私は医者にたとえ死ぬことになっても、手術は受けないといった。」
「私はこのように長く生きられるように祝福されて、幸せだ。私は監獄でも祝福されていた。私は餓死する寸前で生き延びた。多くの私の友人は私の目の前で死んでいったのに。」
氏は1959年に逮捕され、釈放のち、チベットから1992年に脱出した。亡命の後、氏はチベットにおける中国の文化虐殺とチベット人に対する抑圧を告発する顔となり、中国によって用いられた拷問道具を展示しつつ世界中をまわった。その拷問道具は、数十年にわたる拷問、尋問、思想改造の際に彼自身に用いられたものであった。
彼は1995年にジュネーブで行われた国連人権委員会の公聴会でも自分の体験、また直接見聞きした中国による非人道的な扱いについてスピーチし、また、2009年にオスロで行われた自由フォーラムの開会式でもスピーチを行っている。1998年にはジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) をカナダ人の人権結社・人権と民主主義から授与されている。
彼の逝去の噂がひろがるにつれ、多くの人々がチベット・ムーブメントの傑出した人物への弔意と感謝を表明した。彼と同様に政治囚だった僧パクドはフェイスブックに「元政治囚パルデンギャムツォ師の逝去を知り衝撃をうけ悲しみに沈んでいます。私はタプチ刑務所で三年彼と同房でした。最近彼が息を引き取る前に、別れの挨拶をすることができました。一時間以上会話して、彼は中国の監獄の中での闘争と生涯をかけて行った自己犠牲について詳細を描写しました。」
活動家グループ、チベット青年会議は、「彼は真のチベットの英雄だった」、「真のチベット人戦士だった」といい、彼とともにおおくのキャンペーンをはったステューデンツ・フォー・フリーチベットは「人間精神の回復力と文化虐殺にあっているチベットの誇り高い文明を証言した」と述べた。
チベット人のネット民テンジン・クンレーは「彼はあのような過酷な体験をした後にも非常に謙虚で平和を愛する人であった。チベットにとって大きな損失である。我々は決して忘れない。」
●不屈のペルデンギャムツォ師を偲ぶ(ソース: pha yul, 著者: Bhuchung D Sonam2018/11/30)
2005年の夏、インドの作家パンカジ・ミシュラ (Pankaj Mishra) と我々数人でダラムサラのキルティ僧院の近くにある、ペルテンギャツォ師の部屋を訪れた。パンカジはニューヨーク・タイムズに掲載するチベットに関する原稿を準備しており、中国の監獄に33年にわたってとらわれていた元政治囚へのインタビューを希望していた。私は師の人生を師のツェリンシャキャ教授との共著『雪の下の炎: チベット人政治囚の証言』(ブッキング)を読んでしっていた。
二時間近い会話の中でパルデン氏は我々に優雅にお茶とカプセ (お菓子) を供してくれながら、監獄での恐ろしい体験について語ってくれた。氏は私がすべてをちゃんと翻訳しているかと確認し、重要な出来事については繰り返し語った。氏の話しぶりには中国人に対する憎しみや敵意はなく、実際、毛沢東による大躍進政策によって飢餓の極限状態にあった時代 (1658-62)----フランク・ディコッターが、中国全土で四千万人を殺した毛の大飢饉と呼んだ時代----、氏に一口の食べものをこっそり与えてくれた色白の若い中国人についてあえて詳細に語るのであった。
パンデンギャムツォ氏は無限の慈悲と恐ろしい意志の力をもちつつも、非常に謙虚である。監獄の〔飢えの中で〕鼠や芋虫や草を食べたり、革の靴をしゃぶったりする話を立て続けにした後に、氏は私をみては、「ブチュンさん、私は正しいですか?」 と聴くのである。監獄で一日だって過ごしたことがない私の方がよく知っているかのように。
パルデン氏自身の言葉
「私は1975年に刑期を終えましたが、家に帰ることは許されませんでした。私は労働改造所に送られ、そこからまた刑期が再開しました。1979年、私は逃げ出して、チベットの独立をうったえるポスターをはりました。私は捕まり、さらに九年の刑が加算されました。」
「私たちは野菜を育てるために下肥をこねるなどの汚れ仕事もしなければなりませんでした。看守は私たちを電気棒でつつき、熱湯をかけました。24年間一回も親戚すら訪問することをゆるされませんでした」
1992年8月25日、パルデンギャムツォ氏は33年の刑期をへて釈放され、その二週間後、亡命した。ダラムサラについて一週間経ったとき、氏はダライラマ猊下と謁見し、一生の願いを叶えた。パルデン氏はその時の情景を思い出し、「チベットを離れられた時よりずっと年を取られていました。私はこらえきれずにすすり泣きました」
ヒマラヤを越えて亡命して以来、師はチベット人の自由を求める戦いに国際的な支持を得るべく、獄中体験をかたる世界ツアーを行った。この中には1995年の国連の人権委員会での公聴会、2009年のオスロ・自由フォーラムでの開会スピーチを含んでいる。彼はこの疲れを知らない活動の中で、1998年にカナダ人権グループ、「人権と民主主義」からジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) を授与されている。
ここ数年、私たちは大部分はダラムサラで、時にはデリーのチベット人キャンプ、マジュヌカティラで氏とばったり出会った。彼は私の手をしっかり握ってふり、立ったままで、いつも自分の旅について話し、いかに疲れたかについて話した。彼はこういった。
「お前達若い世代が自由のための戦いを遂行しなければならない」
昨年10月、私と友人は賑わうマクロードガンジ'(ダラムサラのメインストリート)でパルデンギャムツォ師とばったりであった。氏は一人で歩いており、かなり痩せて見えた。いつものように氏は私の手を暖かく握り、「私にはもう残された時間が少ない。たぶんあと数ヶ月だろう。会いに来い」と言った。我々の背後でタクシーのクラクションがなり、おしゃれなパンジャブっ子が自撮りをしていた。巨大なゴミ回収車がメインストリートをふさいでいた。広場は満杯だった。しかし、氏に一緒に写真を撮ろうと提案すると、氏はこの上なく優雅に、カメラのフラッシュにあわせて、やせこけた腕をつきあげて、「チベット自治!」と叫んだ。そして再び「会いに来い。キルティ僧院に部屋がある」と言った。
私は僧院の中にある氏の部屋を数回訪れた。しかし、そのたびにチベットについての証言会にでかけており、氏は留守であった。最期の証言会は何と今年九月のアメリカで行われている。先週、前日にパルデンギャムツォ氏とであったチベット青年会議(TYC)のジクメとあった時、氏に会いにいっても大丈夫かと尋ねると、ジクメは「肉体的には弱っていたが、精神的には非常に鋭敏だった」といった。しかし、無駄に忙しかったことと、なんやかやで私はパルデンギャムツォ氏に会いに行くことは叶わなかった。死んでしまったことは取り返しがつかない。私は後悔の念を懐き続けるだろう。
我々ができること、いやしなければならない重要なことは、われらがヒーローが、自由のための戦いを続けることである。ツェリンシャキャ(国際チベット学会会長)はパルデンギャムツォの獄中体験を記した『雪の下の炎』の序文でこう辛辣に述べている。
「宗主国の支配者にとって、発電所や新しいスタジアムやきらめくディスコの電飾や五つ星のホテルが、人々の尊厳を恢復し、その遺産を再生することにはならない、と理解することは難しい。若い運動家たちは両親たちの苦難と生活苦を忘れていない。」
バトンは世代をこえて受け継がれ、自由へ向かう道へと運ばれていかねばならない。最近、[ダライラマ特使として中国との交渉にあたっていた]ロディギャリ氏がなくなり、今回はパルデンギャムツォ師が逝去されたことは、一つの時代の終わりを告げている。彼らの体験と智慧は誰かに代行できるものではないが、創造的な非暴力の抵抗運動のための革新的な思想へと引き継いでいくことは出来る。」
チベット高原に住む人々の苦しみは、我々がこの抵抗運動を、最大限に執拗かつ緊急に、遂行することによってのみ癒されるのである。
さようなら、パルデン・ギャムツォ師。我々はあなたがすぐにまた、世界の屋根の上に住む赤い顔のチベット人に生まれ変わるように祈っています。戦いは続いている。あなたは戻って来なければならない! (この見解は著者のものであり、必ずしも当ウェブサイト=パユルのものではありません。)
10月29日 ダライラマの特使として中国との交渉にあたったロディ・ギャリ氏死去。
11月26日 ベルナルド・ベルトリッチ死去。大乗仏教保護財団(FPMT)の創始者トゥプテン・イェーシェーがスペイン人に転生した事件を翻案した『リトル・ブッダ』の監督。清朝最期の皇帝溥儀を扱った『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞受賞。
11月30日パルデン・ギャムツォ氏、ダラムサラで死去。中国の監獄での33年間の体験をワールド・ツァーで語った僧である。
11月30日 ジョージ・ブッシュ大統領逝去。1991年、ダライラマがはじめて会見がかなったアメリカ大統領である。冷戦後の混乱期の舵取りをしたアメリカ大統領として知られる。
この中で、本エントリでは、中国の監獄に33年間とじこめられたパルデンギャムツォ師の訃報を、難民社会のニュース・メディア『パユル』から二つ和訳してみました。
●元政治囚パルデンギャツォ、死す (ソース: 『パユル』phayul 2018/11/30)
Palden Gyatso at his reisdence, Phayul Photo: Kunsang Gashon, Nov. 15, 2018
元政治囚であり、占領されたチベットにおける中国の拷問についての有名な証言者パルデンギャムツォは、現地時間の今朝7:10 にデレク病院でなくなった。
キルティ・チェパ僧院(パルデン師が最後の七年をすごした僧院)からきた老僧は、「ダライラマ猊下のお名前を口にしつつ安らかに逝った」という。彼はさらに数ヶ月前のダライラマ法王との謁見の際には、長年にわたり人々に勤勉に仕えたことを賞賛され、感謝されたという。
パルデン氏は33年にわたり中国の監獄と強制収容所に入れられており、ここ数ヶ月は虚弱体質と肝臓関連の病に苦しんでいるといっていたが、パユルが調べたところでは肝臓癌におかされていた。
11月15日にねたきりとなった僧はパユルに病院と治療について述べた後、こう付け加えた。「私は医者にたとえ死ぬことになっても、手術は受けないといった。」
「私はこのように長く生きられるように祝福されて、幸せだ。私は監獄でも祝福されていた。私は餓死する寸前で生き延びた。多くの私の友人は私の目の前で死んでいったのに。」
氏は1959年に逮捕され、釈放のち、チベットから1992年に脱出した。亡命の後、氏はチベットにおける中国の文化虐殺とチベット人に対する抑圧を告発する顔となり、中国によって用いられた拷問道具を展示しつつ世界中をまわった。その拷問道具は、数十年にわたる拷問、尋問、思想改造の際に彼自身に用いられたものであった。
彼は1995年にジュネーブで行われた国連人権委員会の公聴会でも自分の体験、また直接見聞きした中国による非人道的な扱いについてスピーチし、また、2009年にオスロで行われた自由フォーラムの開会式でもスピーチを行っている。1998年にはジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) をカナダ人の人権結社・人権と民主主義から授与されている。
彼の逝去の噂がひろがるにつれ、多くの人々がチベット・ムーブメントの傑出した人物への弔意と感謝を表明した。彼と同様に政治囚だった僧パクドはフェイスブックに「元政治囚パルデンギャムツォ師の逝去を知り衝撃をうけ悲しみに沈んでいます。私はタプチ刑務所で三年彼と同房でした。最近彼が息を引き取る前に、別れの挨拶をすることができました。一時間以上会話して、彼は中国の監獄の中での闘争と生涯をかけて行った自己犠牲について詳細を描写しました。」
活動家グループ、チベット青年会議は、「彼は真のチベットの英雄だった」、「真のチベット人戦士だった」といい、彼とともにおおくのキャンペーンをはったステューデンツ・フォー・フリーチベットは「人間精神の回復力と文化虐殺にあっているチベットの誇り高い文明を証言した」と述べた。
チベット人のネット民テンジン・クンレーは「彼はあのような過酷な体験をした後にも非常に謙虚で平和を愛する人であった。チベットにとって大きな損失である。我々は決して忘れない。」
●不屈のペルデンギャムツォ師を偲ぶ(ソース: pha yul, 著者: Bhuchung D Sonam2018/11/30)
2005年の夏、インドの作家パンカジ・ミシュラ (Pankaj Mishra) と我々数人でダラムサラのキルティ僧院の近くにある、ペルテンギャツォ師の部屋を訪れた。パンカジはニューヨーク・タイムズに掲載するチベットに関する原稿を準備しており、中国の監獄に33年にわたってとらわれていた元政治囚へのインタビューを希望していた。私は師の人生を師のツェリンシャキャ教授との共著『雪の下の炎: チベット人政治囚の証言』(ブッキング)を読んでしっていた。
二時間近い会話の中でパルデン氏は我々に優雅にお茶とカプセ (お菓子) を供してくれながら、監獄での恐ろしい体験について語ってくれた。氏は私がすべてをちゃんと翻訳しているかと確認し、重要な出来事については繰り返し語った。氏の話しぶりには中国人に対する憎しみや敵意はなく、実際、毛沢東による大躍進政策によって飢餓の極限状態にあった時代 (1658-62)----フランク・ディコッターが、中国全土で四千万人を殺した毛の大飢饉と呼んだ時代----、氏に一口の食べものをこっそり与えてくれた色白の若い中国人についてあえて詳細に語るのであった。
パンデンギャムツォ氏は無限の慈悲と恐ろしい意志の力をもちつつも、非常に謙虚である。監獄の〔飢えの中で〕鼠や芋虫や草を食べたり、革の靴をしゃぶったりする話を立て続けにした後に、氏は私をみては、「ブチュンさん、私は正しいですか?」 と聴くのである。監獄で一日だって過ごしたことがない私の方がよく知っているかのように。
パルデン氏自身の言葉
「私は1975年に刑期を終えましたが、家に帰ることは許されませんでした。私は労働改造所に送られ、そこからまた刑期が再開しました。1979年、私は逃げ出して、チベットの独立をうったえるポスターをはりました。私は捕まり、さらに九年の刑が加算されました。」
「私たちは野菜を育てるために下肥をこねるなどの汚れ仕事もしなければなりませんでした。看守は私たちを電気棒でつつき、熱湯をかけました。24年間一回も親戚すら訪問することをゆるされませんでした」
1992年8月25日、パルデンギャムツォ氏は33年の刑期をへて釈放され、その二週間後、亡命した。ダラムサラについて一週間経ったとき、氏はダライラマ猊下と謁見し、一生の願いを叶えた。パルデン氏はその時の情景を思い出し、「チベットを離れられた時よりずっと年を取られていました。私はこらえきれずにすすり泣きました」
ヒマラヤを越えて亡命して以来、師はチベット人の自由を求める戦いに国際的な支持を得るべく、獄中体験をかたる世界ツアーを行った。この中には1995年の国連の人権委員会での公聴会、2009年のオスロ・自由フォーラムでの開会スピーチを含んでいる。彼はこの疲れを知らない活動の中で、1998年にカナダ人権グループ、「人権と民主主義」からジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) を授与されている。
ここ数年、私たちは大部分はダラムサラで、時にはデリーのチベット人キャンプ、マジュヌカティラで氏とばったり出会った。彼は私の手をしっかり握ってふり、立ったままで、いつも自分の旅について話し、いかに疲れたかについて話した。彼はこういった。
「お前達若い世代が自由のための戦いを遂行しなければならない」
昨年10月、私と友人は賑わうマクロードガンジ'(ダラムサラのメインストリート)でパルデンギャムツォ師とばったりであった。氏は一人で歩いており、かなり痩せて見えた。いつものように氏は私の手を暖かく握り、「私にはもう残された時間が少ない。たぶんあと数ヶ月だろう。会いに来い」と言った。我々の背後でタクシーのクラクションがなり、おしゃれなパンジャブっ子が自撮りをしていた。巨大なゴミ回収車がメインストリートをふさいでいた。広場は満杯だった。しかし、氏に一緒に写真を撮ろうと提案すると、氏はこの上なく優雅に、カメラのフラッシュにあわせて、やせこけた腕をつきあげて、「チベット自治!」と叫んだ。そして再び「会いに来い。キルティ僧院に部屋がある」と言った。
私は僧院の中にある氏の部屋を数回訪れた。しかし、そのたびにチベットについての証言会にでかけており、氏は留守であった。最期の証言会は何と今年九月のアメリカで行われている。先週、前日にパルデンギャムツォ氏とであったチベット青年会議(TYC)のジクメとあった時、氏に会いにいっても大丈夫かと尋ねると、ジクメは「肉体的には弱っていたが、精神的には非常に鋭敏だった」といった。しかし、無駄に忙しかったことと、なんやかやで私はパルデンギャムツォ氏に会いに行くことは叶わなかった。死んでしまったことは取り返しがつかない。私は後悔の念を懐き続けるだろう。
我々ができること、いやしなければならない重要なことは、われらがヒーローが、自由のための戦いを続けることである。ツェリンシャキャ(国際チベット学会会長)はパルデンギャムツォの獄中体験を記した『雪の下の炎』の序文でこう辛辣に述べている。
「宗主国の支配者にとって、発電所や新しいスタジアムやきらめくディスコの電飾や五つ星のホテルが、人々の尊厳を恢復し、その遺産を再生することにはならない、と理解することは難しい。若い運動家たちは両親たちの苦難と生活苦を忘れていない。」
バトンは世代をこえて受け継がれ、自由へ向かう道へと運ばれていかねばならない。最近、[ダライラマ特使として中国との交渉にあたっていた]ロディギャリ氏がなくなり、今回はパルデンギャムツォ師が逝去されたことは、一つの時代の終わりを告げている。彼らの体験と智慧は誰かに代行できるものではないが、創造的な非暴力の抵抗運動のための革新的な思想へと引き継いでいくことは出来る。」
チベット高原に住む人々の苦しみは、我々がこの抵抗運動を、最大限に執拗かつ緊急に、遂行することによってのみ癒されるのである。
さようなら、パルデン・ギャムツォ師。我々はあなたがすぐにまた、世界の屋根の上に住む赤い顔のチベット人に生まれ変わるように祈っています。戦いは続いている。あなたは戻って来なければならない! (この見解は著者のものであり、必ずしも当ウェブサイト=パユルのものではありません。)
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