ガワン先生の転生はむっちゃ可愛い(ギュメ前編)
8月18日、清風学園の校長平岡宏一先生からお電話があり、今年のギュメ詣で(付ガンデン大僧院)のお話を伺った。
残念なことに二つの訃報がとびこんできた。ギュメの事務長のニマさん、ガワン先生のお兄さんであるプー・ツェリンがなくなっていたのだ。
ニマさんは平岡センセ一行がバンガロールに到着すると空港まで迎えにきてくださる方で、僧院長・副僧院長は三年ごとに替わっても事務長は同じなので、ギュメの顔のような方であった(写真 昨年のニマさん)。

私がギュメの老僧をインタビューしたいと言えば、アレンジしてくださるし、「ドルジエフの1905年の書簡を筆記体から楷書になおして~」とお願いしたら即座になおしてくださるし、非常にお世話になっていた方なだけに喪失感がハンパない。僧院のためにがんばったからきっと来世がいいと思う。
また、プーツェリンの死も万感胸に迫るものがある。この方の怒濤の人生は『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)に書いたので覚えていらっしゃる方もいると思うが、2009年になくなったガワン先生は死の間際までこのお兄さんの行く末をとても気にしていて、遺言でも自分が死んだ後、兄を僧院から追い出さないで、ちゃんと世話して欲しいと弟子に託している。
プーツェリンももとはガワン先生と同じくガンデン大僧院の僧侶であったが、1959年、銃を取って戦ってしまったため僧侶の資格を失い、70年代に兄弟が再会した後も、バラバラに暮らさざるをえなかった。ガワン先生がギュメの副館長に出世された後にやっと付き人として一緒に住みはじめたが、ガワン先生はガンでまもなく逝ってしまった(写真 プーツェリン)。

ガワン先生が臨終間際に「生まれ変わる」決意を最初に告げたのも、兄プーツェリンであった。転生の可能性があると、その亡くなった僧の財産は保全され、先代の関係人員も解散を免れる。ガワン先生が生まれ変わりを決意したのは、老いた兄が自分の死後に僧院から追い出されるのを防ぐ意味もあったと思われる。
四年前、ガワン先生の生まれ変わり(ヤンシー)がガンデンに迎えられると、ヤンシーは、ガワン先生の兄であるプー・ツェリン、弟子であるチューロ・リンポチェたちに育てられることとなり、みな目の中に入れても痛くないくらいかわいがっていた。
宏一先生から聞いたプーツェリンの最後は印象深いものだった。
ガワン先生の僧坊の仏壇の部屋の鍵はプー・ツェリンが管理しており、年寄りなので朝一番におきて、仏壇にお灯明をあげ、閼伽水をお供えする仕事をしていた。
その朝、プーツェリンは「ものすごく悪い夢を見た。私は今日行くことになるだろう」といったのだが、みな本気にしなかったところ、ヤンシー(生まれ変わり)のお世話係のヨンジン(先生)が、ヤンシーの髪の毛を刈りにいっている間に静かになくなっていた。机の上を見ると彼が肌身離さずもっていたガワン先生の部屋の鍵が置かれていたという。
あまりにきれいに逝ったので、みなは「ガワン先生はお兄さんのことを心配していたから、上手にあの世にいくように祈願していたんだろう」と言い合った。
宏一センセ「チューロ・リンポチェはイタリアに派遣されていてプー・ツェリンの死に際には会えなかったんです。」
私「プー・ツェリンはおいくつになっていました? 」
宏一センセ「うちのオヤジと同じですから数えで90です」
大往生である。
悲しい話はここまでにして、明るい話。次期ギュメの僧院長であるラマウムゼの地位に、ガワン先生の一番弟子である通称、ナンパサンゲーパがついた。ナンパ(仏教)サンゲーパ(仏)って、仇名からして勉強できそう。ちなみに本名は聞き忘れた。
僧院長は去年私がお伺いした時にラマウムゼだったロサン・オンドゥー(blo bzang dbang 'dus)。簡単に履歴を述べると、チベットではパリが故郷で、ダライラマが亡命した1959年にうまれ、生後一ヶ月でチベットを離れ、母は亡命途上のブータンで死んだ。父と父方の祖母とイントに亡命し、バイラクッペの難民居留地に住んでいた。7歳の時に在家のまま沙弥(見習い僧)になり、やがてバイラクッペにセラ大僧院が再建されたので10才でセラ大僧院(再建)のチェ学堂、ダティ地域寮(bra ti khangs mtshan)に入門した。1991年に仏教博士(ゲシェ)号をえて、ギュメには92年に入門し、2000年にゲクになり、2016年にゲン・ロサン先生の急逝を受けて、ラマウムゼ(ギュメ副院長)に就任、同年ギュメ僧院長へと昇格した。
ちなみに、昨年私の愛鳥ごろう様の認定をお願いした方がこの方である。
さて今回の宏一先生のツアーはガンデン大僧院において成長したヤンシーに会い、日本にもなんどもきたチューロ・リンポチェから観音菩薩の灌頂を授かる予定も入っていた。
宏一先生「ヤンシーがむっちゃかわいいんですよ。私らね、一泊して四回ごはんを一緒に食べたんですけど、ヤンシーがこっちをみてチューロ・リンポチェに耳打ちするから、何を言っているのか聞いてみたら『宏一はおかわりをしないのか』と言ったというので、おかわりしちゃいましたよ。でね、ヤンシーが野菜を一生懸命切っているから、『野菜は好きなの?』と聞いたら『だいっきらいじゃあ~』と叫ぶんですよ。可愛いでしょ。可愛いうちに見にい来ましょうよ」
育ったらかわいくなくなるのが前提の発言である。

妃女さん「ヤンシー、野菜が嫌いなところと、ゆで卵がお好きなところが、ガワン先生そっくりなんですよ。可愛いんですけど、リンポチェなので敬意を持って私は触れないようにしました(戒律で女性は僧侶に触れてはならない)」
そして、ヤンシーは来年からいよいよ論理学を学び始めるとのこと。先代のように勉強ができ僧院をひっぱっていける大人に育って欲しい。また行ってみたい気がしないでもないが、宏一先生の率いるツァーはお盆の短い期間に結構距離のあるガンデンとギュメの両方にいき、灌頂五回に法話二回とか殺人的な強行軍なので、軽々に行く〜といえないマニアでない私。
チューロ・リンポチェは法話で「生きて行くためには世俗の仕事もしなければならなだろう。しかし、それだけで終わってはならない。仏教を実践しなさい」といっていたそう(写真で一番左の手を上げているのがチューロリンポチェ。ヤンシーの後ろのお坊さんがヨンジン)。

そして今回、多くの高僧の口の端にあがったのがホウキの喩え。宏一先生によるとダライラマの法話にでてきたからみながこの喩えを口にするのではないかという。
箒のほさきは一本では汚れを除くことができないが、いくつも集まるとはき出すことができる。
これは、自分の事ばかり考えていると何もできないが、人のことを考えると大きなことができる。 あるいは、一人の祈りの力は小さいが多くの祈りの力が集まれば大きなことができるという徳の力の話だという。
思えば、去年せっかくギュメにいっていろいろ記録をとってきたのに、英作文とか、インコの子育てとかに忙殺されてアップしていなかったので、後篇にその時の記録を挙げたいと思います。
(すべての写真はクリックすると大きくなります)
残念なことに二つの訃報がとびこんできた。ギュメの事務長のニマさん、ガワン先生のお兄さんであるプー・ツェリンがなくなっていたのだ。
ニマさんは平岡センセ一行がバンガロールに到着すると空港まで迎えにきてくださる方で、僧院長・副僧院長は三年ごとに替わっても事務長は同じなので、ギュメの顔のような方であった(写真 昨年のニマさん)。

私がギュメの老僧をインタビューしたいと言えば、アレンジしてくださるし、「ドルジエフの1905年の書簡を筆記体から楷書になおして~」とお願いしたら即座になおしてくださるし、非常にお世話になっていた方なだけに喪失感がハンパない。僧院のためにがんばったからきっと来世がいいと思う。
また、プーツェリンの死も万感胸に迫るものがある。この方の怒濤の人生は『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)に書いたので覚えていらっしゃる方もいると思うが、2009年になくなったガワン先生は死の間際までこのお兄さんの行く末をとても気にしていて、遺言でも自分が死んだ後、兄を僧院から追い出さないで、ちゃんと世話して欲しいと弟子に託している。
プーツェリンももとはガワン先生と同じくガンデン大僧院の僧侶であったが、1959年、銃を取って戦ってしまったため僧侶の資格を失い、70年代に兄弟が再会した後も、バラバラに暮らさざるをえなかった。ガワン先生がギュメの副館長に出世された後にやっと付き人として一緒に住みはじめたが、ガワン先生はガンでまもなく逝ってしまった(写真 プーツェリン)。

ガワン先生が臨終間際に「生まれ変わる」決意を最初に告げたのも、兄プーツェリンであった。転生の可能性があると、その亡くなった僧の財産は保全され、先代の関係人員も解散を免れる。ガワン先生が生まれ変わりを決意したのは、老いた兄が自分の死後に僧院から追い出されるのを防ぐ意味もあったと思われる。
四年前、ガワン先生の生まれ変わり(ヤンシー)がガンデンに迎えられると、ヤンシーは、ガワン先生の兄であるプー・ツェリン、弟子であるチューロ・リンポチェたちに育てられることとなり、みな目の中に入れても痛くないくらいかわいがっていた。
宏一先生から聞いたプーツェリンの最後は印象深いものだった。
ガワン先生の僧坊の仏壇の部屋の鍵はプー・ツェリンが管理しており、年寄りなので朝一番におきて、仏壇にお灯明をあげ、閼伽水をお供えする仕事をしていた。
その朝、プーツェリンは「ものすごく悪い夢を見た。私は今日行くことになるだろう」といったのだが、みな本気にしなかったところ、ヤンシー(生まれ変わり)のお世話係のヨンジン(先生)が、ヤンシーの髪の毛を刈りにいっている間に静かになくなっていた。机の上を見ると彼が肌身離さずもっていたガワン先生の部屋の鍵が置かれていたという。
あまりにきれいに逝ったので、みなは「ガワン先生はお兄さんのことを心配していたから、上手にあの世にいくように祈願していたんだろう」と言い合った。
宏一センセ「チューロ・リンポチェはイタリアに派遣されていてプー・ツェリンの死に際には会えなかったんです。」
私「プー・ツェリンはおいくつになっていました? 」
宏一センセ「うちのオヤジと同じですから数えで90です」
大往生である。
悲しい話はここまでにして、明るい話。次期ギュメの僧院長であるラマウムゼの地位に、ガワン先生の一番弟子である通称、ナンパサンゲーパがついた。ナンパ(仏教)サンゲーパ(仏)って、仇名からして勉強できそう。ちなみに本名は聞き忘れた。
僧院長は去年私がお伺いした時にラマウムゼだったロサン・オンドゥー(blo bzang dbang 'dus)。簡単に履歴を述べると、チベットではパリが故郷で、ダライラマが亡命した1959年にうまれ、生後一ヶ月でチベットを離れ、母は亡命途上のブータンで死んだ。父と父方の祖母とイントに亡命し、バイラクッペの難民居留地に住んでいた。7歳の時に在家のまま沙弥(見習い僧)になり、やがてバイラクッペにセラ大僧院が再建されたので10才でセラ大僧院(再建)のチェ学堂、ダティ地域寮(bra ti khangs mtshan)に入門した。1991年に仏教博士(ゲシェ)号をえて、ギュメには92年に入門し、2000年にゲクになり、2016年にゲン・ロサン先生の急逝を受けて、ラマウムゼ(ギュメ副院長)に就任、同年ギュメ僧院長へと昇格した。
ちなみに、昨年私の愛鳥ごろう様の認定をお願いした方がこの方である。
さて今回の宏一先生のツアーはガンデン大僧院において成長したヤンシーに会い、日本にもなんどもきたチューロ・リンポチェから観音菩薩の灌頂を授かる予定も入っていた。
宏一先生「ヤンシーがむっちゃかわいいんですよ。私らね、一泊して四回ごはんを一緒に食べたんですけど、ヤンシーがこっちをみてチューロ・リンポチェに耳打ちするから、何を言っているのか聞いてみたら『宏一はおかわりをしないのか』と言ったというので、おかわりしちゃいましたよ。でね、ヤンシーが野菜を一生懸命切っているから、『野菜は好きなの?』と聞いたら『だいっきらいじゃあ~』と叫ぶんですよ。可愛いでしょ。可愛いうちに見にい来ましょうよ」
育ったらかわいくなくなるのが前提の発言である。
引用

妃女さん「ヤンシー、野菜が嫌いなところと、ゆで卵がお好きなところが、ガワン先生そっくりなんですよ。可愛いんですけど、リンポチェなので敬意を持って私は触れないようにしました(戒律で女性は僧侶に触れてはならない)」
そして、ヤンシーは来年からいよいよ論理学を学び始めるとのこと。先代のように勉強ができ僧院をひっぱっていける大人に育って欲しい。また行ってみたい気がしないでもないが、宏一先生の率いるツァーはお盆の短い期間に結構距離のあるガンデンとギュメの両方にいき、灌頂五回に法話二回とか殺人的な強行軍なので、軽々に行く〜といえないマニアでない私。
チューロ・リンポチェは法話で「生きて行くためには世俗の仕事もしなければならなだろう。しかし、それだけで終わってはならない。仏教を実践しなさい」といっていたそう(写真で一番左の手を上げているのがチューロリンポチェ。ヤンシーの後ろのお坊さんがヨンジン)。

そして今回、多くの高僧の口の端にあがったのがホウキの喩え。宏一先生によるとダライラマの法話にでてきたからみながこの喩えを口にするのではないかという。
箒のほさきは一本では汚れを除くことができないが、いくつも集まるとはき出すことができる。
これは、自分の事ばかり考えていると何もできないが、人のことを考えると大きなことができる。 あるいは、一人の祈りの力は小さいが多くの祈りの力が集まれば大きなことができるという徳の力の話だという。
思えば、去年せっかくギュメにいっていろいろ記録をとってきたのに、英作文とか、インコの子育てとかに忙殺されてアップしていなかったので、後篇にその時の記録を挙げたいと思います。
(すべての写真はクリックすると大きくなります)
石濵純太郎先生没後50年シンポ
関西大学の文学部を創設した石濵純太郎先生の没後50年を記念してシンポジウムが開催されます。二日目の最終枠で本ブログでもなんどか紹介させていただいた歴史サークル益習の集い、四国大学の太田剛教授、そして私は石濵家の歴史についてお話します。
お近くの方、どうぞ。
●東西学術研究と文化交渉――石濵純太郎没後50年記念国際シンポジウム
〔第58回泊園記念講座〕
主催:東西学術研究所
共催:大阪府、泊園記念会、KU-ORCAS
日時: 2018年10月26日(金)13:00~17:00
27日(土)10:00~17:00
場所: 関西大学千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース

●10月26日(金)
〈石濵純太郎と泊園書院・関西大学〉
吾妻重二(関西大学文学部教授、泊園記念会会長)
〈石濵純太郎とアジア学1〉
高田時雄(京都大学名誉教授)
索羅寧(Kirill Solonin,中国人民大学国学院教授)
劉進宝(浙江大学歴史系教授兼主任)
池尻陽子(関西大学文学部准教授)
●10月27日(土)
〈石濵純太郎とアジア学2〉
中見立夫(東京外国語大学名誉教授)
生田美智子(大阪大学名誉教授)
玄 幸子(関西大学外国語学部教授)
内田慶市(関西大学外国語学部教授)
〈石濵純太郎と大阪の学知・文芸〉
湯浅邦弘(大阪大学文学研究科教授)
堤 一昭(大阪大学文学研究科教授)
中谷伸生(関西大学文学部教授)
増田周子(関西大学文学部教授)
〈石濵純太郎のルーツをめぐって〉
石濱裕美子(早稲田大教育・総合科学学術院教授)←ココ
太田 剛(四国大学文学部教授)
三宅玉峰(「益習の集い」代表)
田山泰三(英明高等学校)
お近くの方、どうぞ。
●東西学術研究と文化交渉――石濵純太郎没後50年記念国際シンポジウム
〔第58回泊園記念講座〕
主催:東西学術研究所
共催:大阪府、泊園記念会、KU-ORCAS
日時: 2018年10月26日(金)13:00~17:00
27日(土)10:00~17:00
場所: 関西大学千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース

●10月26日(金)
〈石濵純太郎と泊園書院・関西大学〉
吾妻重二(関西大学文学部教授、泊園記念会会長)
〈石濵純太郎とアジア学1〉
高田時雄(京都大学名誉教授)
索羅寧(Kirill Solonin,中国人民大学国学院教授)
劉進宝(浙江大学歴史系教授兼主任)
池尻陽子(関西大学文学部准教授)
●10月27日(土)
〈石濵純太郎とアジア学2〉
中見立夫(東京外国語大学名誉教授)
生田美智子(大阪大学名誉教授)
玄 幸子(関西大学外国語学部教授)
内田慶市(関西大学外国語学部教授)
〈石濵純太郎と大阪の学知・文芸〉
湯浅邦弘(大阪大学文学研究科教授)
堤 一昭(大阪大学文学研究科教授)
中谷伸生(関西大学文学部教授)
増田周子(関西大学文学部教授)
〈石濵純太郎のルーツをめぐって〉
石濱裕美子(早稲田大教育・総合科学学術院教授)←ココ
太田 剛(四国大学文学部教授)
三宅玉峰(「益習の集い」代表)
田山泰三(英明高等学校)
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