テンジン・デレク師の死の詳細
テンジン・ゲレク・リンポチェは東チベット地域の人々にわかりやすく仏教の教えをとき、学校をたてるなどチベットの福祉のために働き、地域の人々の尊敬を集めていた高僧であった。しかし、2002年に爆弾犯の汚名を帰せられ逮捕され2015年に獄死された。世界の人権団体が釈放運動を行っていたため、この報せに世界は悲しみに沈んだ。
今回来日されたニマラモさんはデレク師の妹さんの娘さん、つまり姪御さんである。デレク師の死について言論の自由のあるところで発言したいと2016年にダラムサラへと亡命された。家族に累が及ばないように、母親にも小さな娘にも何も告げずに、ただ父親の実家に行くといって家をでたとのことである。
通訳のXさんはアムド(東北チベット)の方なのでカム(東チベット)出身のニマラモと意思の疎通に苦労していた。チベットの政治犯関連の証言会の問題点はこの言葉の問題。本土チベットから亡命される方は英語ができない。またチベット語は地域によって発音がいろいろなので、なかなか彼らの証言が多くの人々に伝達できないのである。
以下がニマラモさんのお話である。
私は初めて日本にきました。こういう機会をつくってくれて感謝しております。またお暑い中集まっていただき誠にありがとうございました。
わたしの名前はニマラモといいます。〔東チベットの〕リタン出身です。2016年の7月末にダラムサラに亡命しました。
亡命した理由は伯父のリンポチェ(ニマさんはテンジン・デレク師のことを「転生僧猊下」を意味するこの尊称で呼ぶ)の死について証言するためです。
リンポチェは27才の1979年に、〔文革後、中国政府がチベット亡命政府に呼びかけて実現した〕ダライラマの代表団がチベットにきた際に、代表団長を行っていたダライラマ14世の弟さんロプサン・サムテンに大きな声でうったえ、その目にとまりました。
解説* 当時共産党は20年にわたる共産党の統治(文化大革命により徹底的に伝統文化を破壊したため)でチベット人はすっかり中国人になったと自信をもっていたため、代表団を迎え入れた。しかし、代表団がチベット入りするとその予定はまったく未公開であったにも関わらず行く先々にチベット人がつめかけ、代表団に20年の苦境を泣きながら訴えた。当局はこの事態に驚愕し代表団と民衆の接触を阻んだため、集まった人々は代表団に大きな声で呼びかけるしかなかった。
〔文革が終わり軟禁状態から解放された〕パンチェン・リンポチェが会議のためにラサにきた時も、リンポチェは会いに行きました。パンチェン・リンポチェは「代表団に呼びかけた方でしょう?」と識別してくれたため、リタン地域にはお寺がいっこもなくなってしまったこと、再建の手助けをして欲しいと訴えました。
1982年にインドにいってダライラマ法王に会いに行きました。南インドのデプン寺で地域のオト寺の転生僧(リンポチェ)に認定され、五年インドで勉強しましたが、地元の人々が本土に戻ってお寺を再建して欲しいと言うのでチベットにもどりました。北京にいるパンチェン・リンポチェに会いに行って、訴えると、パンチェンラマは喜んで〔お寺のための〕仏像・仏典などを提供してくれました。このオト寺を皮切りに、東チベットで九カ所のお寺を再建しました。さらに学校のない遊牧民のすむ地域に学校を作りました。リンポチェは「子供たちを教育しなければ、中国人ともわたりあえない。中国人はチベットにきて生活できるがチベッ人は中国語ができないと中国では生きていけない」といいました。
解説: 中国が支配するチベットでは中国語ができないと就職もなく、中国の法律をしらず文字もよめないと土地も簡単にとられてしまい貧窮化し共同体を守れない。
リタン県の教育局に本を提供してもらい、土地、建物はこちらで用意して二年間かけたのに、「個人」で学校をつくるなんてけしからんと、許可がでませんでした。
本土のチベット人は中国から繰り返し繰り返しダライラマに関するネガティブな情報を聞かされます。リンポチェはそんなチベット人に、ダライラマ法王は世界的にみても、ノーベル平和賞をもらって尊敬を集めていること、チベット人にとってもチベットを育んできた観音菩薩の化身であり、虫にいたるまで愛をもって接している慈悲に満ちた方であることを説き、誰が何とダライラマを批判しようとも、ダライラマのいうことが事実である。と話しました。
僧侶に向かっても仏教者の自覚をもつように説き、普通の人達に対してもたとえばコックさんには美味しいものをお客さんに提供しようと料理を作る事で日常生活でも仏教を実践することができる、と非常に分かりやすい言葉で仏教を説きました。
リンポチェについて中国は「生まれ変わり」など認めない、彼は爆弾犯である、と貶めました。中国はそういうことをするのです。私は小さい時から日本人はひどいことばかりをやると教えられてきましたので、実際日本人を何となく恐れるようになっていましたが、どんな人にも家族がいて感情がありますから、中国が教えるようにすべての民族が残酷になるようなことはありえません。
保育園でも学校でもリンポチェがなにかを作ろうとすると地元の政府が妨害しました。97年から2002年までは当局から追われるようになり山ににげたり、セルタに匿われたりしていましたが、ついに2002年7月8日にリンポチェと弟子五人が逮捕されました。このうちロサントンドゥプは八ヶ月後に処刑されました。他の四人も刑務所からでてきた時には、拷問を受けて半死半生でした。昔リンポチェと一緒働いたという理由だけで逮捕された人もいました。
リンポチェには当初死刑判決がでましたが、〔国際的な釈放活動の結果〕二年後に終身刑になりました。しかし、その後五年間どこの刑務所にいれられたのか皆目わかりませんでした。ガンツェの地元の人がリンポチェの収監されている場所を教えろとハンガーストライキやってはじめて面会できるようなりました。しかし、この13年間、リンポチェが家族と面会が許されたのはたった六回でした。
ドルカルラモ(sgrol dkar lha moニマラモの母にしてリンポチェの妹)がリンポチェに最期にあった時、リンポチェは身体の具合が悪そうであり、「あなたは偉いお坊さんらしいから空中浮遊ができるんでしょうとばかにされ、殴る蹴るの暴行を受けている」と言いました。お坊さんが殴られるなんて信じられません。知りたくなかったです。リンポチェは「自分はダライラマの弟子であり、チベットを愛している。私が刑務所にいる理由はダライラマを愛しチベットを愛しているからだ」と言いました。
*解説 チベットではお坊さんは人格の完成度で評価され、お坊さんに手をあげるなど考えられない。
弟子、家族は仮釈放を実現させようと北京やいろいろなところに請願にぃきましたが、何の効果もありませんでした。法律がないんです。
2015年7月2日、 当局から母ともう一人のリンポチェの妹に面会を許可するという通達がきました。そこで成都の鄧小平のふるさとにある刑務所に出向きましたが、10日たっても逢えないまま、7月12日 に突然リンポチェがなくなったと言われました。
*このあたりから、涙声になりお話の内容の時系列がはっきりわからなくなったので、当時の記事などを参考にして以下のように整理してみた。まちがっていたら誰か指摘してください。
遺体をひきとろうと申し出た人は、みな殴られたり罵られたりしました。私の母と伯母が壁にあたまぶつけ、自殺をはかろうとすると、やっと人がでてきて対応してくれましたが、別室につれていかれて自殺をとめられただけでした。
当局から何か要望があるかと聞かれたので、
一つ目中国には獄死した人間の遺体を15日以内に遺族に戻す法律がある。
二つ、病気でなくなったというなら診断書をみせてください。
三つ、遺体の検死を行わせてください。
四つ、家族に遺体をみせてください。五つ、家族に遺体をひきわたさないなら、リンポチェはあんたたちに殺されたと公表すると言いました。
そののち、遺体に会うことができました。まずはリンポチェの弟子が身体を洗ってその後わたしたちはリンポチェの遺体と対面しました。遺体には身体をあらった弟子がかけたハタがかけられていました。私は顔だけ見ましたが唇が黒くなっており、その時は死んだからそうなるのかと思いましたが、後に身体を洗った弟子が、唇だけでなく爪も真っ黒で、あたまもへこんでいた。毒殺ですと言いました。そのため、成都の記者にこれを伝えて下さいと電話をしようとしましたが、携帯を没収されて外に連絡できなくなりました。
お母さんは悲しみで気絶しました。自分もどうなっているのか、どうしていいかわからず、このことを訴える場所もなく、母親はこのまま死んでしまうんじゃないかと思いました。
リタンの副県知事がきて、母に、「リンポチェは法律に違反してしんだのだから、以下のことを記した紙にサインしろ」と言いました。そこにはこう書かれていました。
1. 私たちはチベットではリンポチェに関するいかなる情報も話さない。
2. 私たちはリンポチェが毒殺されたと中国当局を批判しない。
3. 公共の場でリンポチェの死について話さない。
母はリンポチェは法律を破っていません、といってサインは拒否しました。
この他にも、当局は以下のことを行いました。
1. 家族がリンポチェの葬儀をすることは禁止。
2.伝統として高僧の死後には仏塔をつくるが、それも禁止。
3. 伝統として高僧の写真を仏壇に飾るが、リンポチェの写真を飾ることは禁止。
4.リンポチェについてテレビで「偽坊主、犯罪者、社会の脅威」とネガティブキャンペーンをはった。
5. リンポチェの刑務所内での私物は当局に焼却された。
我々家族はリンポチェが死ぬ日まで10日も待たせられ、死んだ時間も発表する場所によって一定しおらず、刑務所では師を治療したというが、その詳細もわからず、中国の法律によると遺体は15日以内に家族に引き渡すのにそれもなかった。
これらのすべてを踏まえて家族はリンポチェは毒殺されたと信じています。
私は話が上手くないし、教育もないけど、リンポチェの死の真実を伝えたいと思い亡命しました。
言葉をつまらし、長い沈黙が訪れた。
リンポチェだけでなくパンチェンラマも同じような死に方をしたと聞いています。高僧たちはみないじめられて苦労をしています。私みたいな人が簡単に伝えられるようなものではありません。
苦しい、つらいだけの話ですみません。ありがとうございました。
*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
ニマラモさんのスピーチツァーは以後も名古屋、大阪、福岡と続きます。以下に貼っておきます。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料
●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。
●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。
●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。
今回来日されたニマラモさんはデレク師の妹さんの娘さん、つまり姪御さんである。デレク師の死について言論の自由のあるところで発言したいと2016年にダラムサラへと亡命された。家族に累が及ばないように、母親にも小さな娘にも何も告げずに、ただ父親の実家に行くといって家をでたとのことである。
通訳のXさんはアムド(東北チベット)の方なのでカム(東チベット)出身のニマラモと意思の疎通に苦労していた。チベットの政治犯関連の証言会の問題点はこの言葉の問題。本土チベットから亡命される方は英語ができない。またチベット語は地域によって発音がいろいろなので、なかなか彼らの証言が多くの人々に伝達できないのである。
以下がニマラモさんのお話である。
私は初めて日本にきました。こういう機会をつくってくれて感謝しております。またお暑い中集まっていただき誠にありがとうございました。
わたしの名前はニマラモといいます。〔東チベットの〕リタン出身です。2016年の7月末にダラムサラに亡命しました。
亡命した理由は伯父のリンポチェ(ニマさんはテンジン・デレク師のことを「転生僧猊下」を意味するこの尊称で呼ぶ)の死について証言するためです。
リンポチェは27才の1979年に、〔文革後、中国政府がチベット亡命政府に呼びかけて実現した〕ダライラマの代表団がチベットにきた際に、代表団長を行っていたダライラマ14世の弟さんロプサン・サムテンに大きな声でうったえ、その目にとまりました。
解説* 当時共産党は20年にわたる共産党の統治(文化大革命により徹底的に伝統文化を破壊したため)でチベット人はすっかり中国人になったと自信をもっていたため、代表団を迎え入れた。しかし、代表団がチベット入りするとその予定はまったく未公開であったにも関わらず行く先々にチベット人がつめかけ、代表団に20年の苦境を泣きながら訴えた。当局はこの事態に驚愕し代表団と民衆の接触を阻んだため、集まった人々は代表団に大きな声で呼びかけるしかなかった。
〔文革が終わり軟禁状態から解放された〕パンチェン・リンポチェが会議のためにラサにきた時も、リンポチェは会いに行きました。パンチェン・リンポチェは「代表団に呼びかけた方でしょう?」と識別してくれたため、リタン地域にはお寺がいっこもなくなってしまったこと、再建の手助けをして欲しいと訴えました。
1982年にインドにいってダライラマ法王に会いに行きました。南インドのデプン寺で地域のオト寺の転生僧(リンポチェ)に認定され、五年インドで勉強しましたが、地元の人々が本土に戻ってお寺を再建して欲しいと言うのでチベットにもどりました。北京にいるパンチェン・リンポチェに会いに行って、訴えると、パンチェンラマは喜んで〔お寺のための〕仏像・仏典などを提供してくれました。このオト寺を皮切りに、東チベットで九カ所のお寺を再建しました。さらに学校のない遊牧民のすむ地域に学校を作りました。リンポチェは「子供たちを教育しなければ、中国人ともわたりあえない。中国人はチベットにきて生活できるがチベッ人は中国語ができないと中国では生きていけない」といいました。
解説: 中国が支配するチベットでは中国語ができないと就職もなく、中国の法律をしらず文字もよめないと土地も簡単にとられてしまい貧窮化し共同体を守れない。
リタン県の教育局に本を提供してもらい、土地、建物はこちらで用意して二年間かけたのに、「個人」で学校をつくるなんてけしからんと、許可がでませんでした。
本土のチベット人は中国から繰り返し繰り返しダライラマに関するネガティブな情報を聞かされます。リンポチェはそんなチベット人に、ダライラマ法王は世界的にみても、ノーベル平和賞をもらって尊敬を集めていること、チベット人にとってもチベットを育んできた観音菩薩の化身であり、虫にいたるまで愛をもって接している慈悲に満ちた方であることを説き、誰が何とダライラマを批判しようとも、ダライラマのいうことが事実である。と話しました。
僧侶に向かっても仏教者の自覚をもつように説き、普通の人達に対してもたとえばコックさんには美味しいものをお客さんに提供しようと料理を作る事で日常生活でも仏教を実践することができる、と非常に分かりやすい言葉で仏教を説きました。
リンポチェについて中国は「生まれ変わり」など認めない、彼は爆弾犯である、と貶めました。中国はそういうことをするのです。私は小さい時から日本人はひどいことばかりをやると教えられてきましたので、実際日本人を何となく恐れるようになっていましたが、どんな人にも家族がいて感情がありますから、中国が教えるようにすべての民族が残酷になるようなことはありえません。
保育園でも学校でもリンポチェがなにかを作ろうとすると地元の政府が妨害しました。97年から2002年までは当局から追われるようになり山ににげたり、セルタに匿われたりしていましたが、ついに2002年7月8日にリンポチェと弟子五人が逮捕されました。このうちロサントンドゥプは八ヶ月後に処刑されました。他の四人も刑務所からでてきた時には、拷問を受けて半死半生でした。昔リンポチェと一緒働いたという理由だけで逮捕された人もいました。
リンポチェには当初死刑判決がでましたが、〔国際的な釈放活動の結果〕二年後に終身刑になりました。しかし、その後五年間どこの刑務所にいれられたのか皆目わかりませんでした。ガンツェの地元の人がリンポチェの収監されている場所を教えろとハンガーストライキやってはじめて面会できるようなりました。しかし、この13年間、リンポチェが家族と面会が許されたのはたった六回でした。
ドルカルラモ(sgrol dkar lha moニマラモの母にしてリンポチェの妹)がリンポチェに最期にあった時、リンポチェは身体の具合が悪そうであり、「あなたは偉いお坊さんらしいから空中浮遊ができるんでしょうとばかにされ、殴る蹴るの暴行を受けている」と言いました。お坊さんが殴られるなんて信じられません。知りたくなかったです。リンポチェは「自分はダライラマの弟子であり、チベットを愛している。私が刑務所にいる理由はダライラマを愛しチベットを愛しているからだ」と言いました。
*解説 チベットではお坊さんは人格の完成度で評価され、お坊さんに手をあげるなど考えられない。
弟子、家族は仮釈放を実現させようと北京やいろいろなところに請願にぃきましたが、何の効果もありませんでした。法律がないんです。
2015年7月2日、 当局から母ともう一人のリンポチェの妹に面会を許可するという通達がきました。そこで成都の鄧小平のふるさとにある刑務所に出向きましたが、10日たっても逢えないまま、7月12日 に突然リンポチェがなくなったと言われました。
*このあたりから、涙声になりお話の内容の時系列がはっきりわからなくなったので、当時の記事などを参考にして以下のように整理してみた。まちがっていたら誰か指摘してください。
遺体をひきとろうと申し出た人は、みな殴られたり罵られたりしました。私の母と伯母が壁にあたまぶつけ、自殺をはかろうとすると、やっと人がでてきて対応してくれましたが、別室につれていかれて自殺をとめられただけでした。
当局から何か要望があるかと聞かれたので、
一つ目中国には獄死した人間の遺体を15日以内に遺族に戻す法律がある。
二つ、病気でなくなったというなら診断書をみせてください。
三つ、遺体の検死を行わせてください。
四つ、家族に遺体をみせてください。五つ、家族に遺体をひきわたさないなら、リンポチェはあんたたちに殺されたと公表すると言いました。
そののち、遺体に会うことができました。まずはリンポチェの弟子が身体を洗ってその後わたしたちはリンポチェの遺体と対面しました。遺体には身体をあらった弟子がかけたハタがかけられていました。私は顔だけ見ましたが唇が黒くなっており、その時は死んだからそうなるのかと思いましたが、後に身体を洗った弟子が、唇だけでなく爪も真っ黒で、あたまもへこんでいた。毒殺ですと言いました。そのため、成都の記者にこれを伝えて下さいと電話をしようとしましたが、携帯を没収されて外に連絡できなくなりました。
お母さんは悲しみで気絶しました。自分もどうなっているのか、どうしていいかわからず、このことを訴える場所もなく、母親はこのまま死んでしまうんじゃないかと思いました。
リタンの副県知事がきて、母に、「リンポチェは法律に違反してしんだのだから、以下のことを記した紙にサインしろ」と言いました。そこにはこう書かれていました。
1. 私たちはチベットではリンポチェに関するいかなる情報も話さない。
2. 私たちはリンポチェが毒殺されたと中国当局を批判しない。
3. 公共の場でリンポチェの死について話さない。
母はリンポチェは法律を破っていません、といってサインは拒否しました。
この他にも、当局は以下のことを行いました。
1. 家族がリンポチェの葬儀をすることは禁止。
2.伝統として高僧の死後には仏塔をつくるが、それも禁止。
3. 伝統として高僧の写真を仏壇に飾るが、リンポチェの写真を飾ることは禁止。
4.リンポチェについてテレビで「偽坊主、犯罪者、社会の脅威」とネガティブキャンペーンをはった。
5. リンポチェの刑務所内での私物は当局に焼却された。
我々家族はリンポチェが死ぬ日まで10日も待たせられ、死んだ時間も発表する場所によって一定しおらず、刑務所では師を治療したというが、その詳細もわからず、中国の法律によると遺体は15日以内に家族に引き渡すのにそれもなかった。
これらのすべてを踏まえて家族はリンポチェは毒殺されたと信じています。
私は話が上手くないし、教育もないけど、リンポチェの死の真実を伝えたいと思い亡命しました。
言葉をつまらし、長い沈黙が訪れた。
リンポチェだけでなくパンチェンラマも同じような死に方をしたと聞いています。高僧たちはみないじめられて苦労をしています。私みたいな人が簡単に伝えられるようなものではありません。
苦しい、つらいだけの話ですみません。ありがとうございました。
*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
ニマラモさんのスピーチツァーは以後も名古屋、大阪、福岡と続きます。以下に貼っておきます。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料
●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。
●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。
●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。
第三回テンジン・デレク賞は『ジクデル』の撮影者に
月曜日に、第三回テンジン・デレク「勇気のメダル」賞が日本で発表された。

この賞の冠となっているテンジン・デレク師。彼について知らない方、知っていたけど忘れた方のために簡単に紹介。
テンジン・デレク師はインドで仏教の勉強をし、チベット本土にもどってから、当局の妨害と戦いつつ、お寺を再建し、チベット人の子供がチベット語で教育を受けられる学校、養老院を建てるなどして、本土の人々から敬愛されていた。しかし、その活躍が目障りだったのか、2002年突如としてあろうことか「爆弾犯」の汚名を帰せられ逮捕され当局は死刑判決を下した。世界中の支援者たちがいくらなんでもひどいと運動した結果、死刑こそ撤回されたものの、2015年に獄中でなくなられてしまった。
その後、彼の死を悼みかつ、中国の支配に非暴力で抵抗した人たちの勇気を顕彰するために、テンジン・デレク「勇気のメダル」賞が創設され、テンジンデレク師の訃報が当局から発表された7月13日に受賞者を発表することとなった。
三回目にあたる今年は日本で表彰式が行われた。
ちなみに、第一回目の受賞式はダラムサラで行われ、受賞したのはラサ出身の元医師イシ・チュドン(Yeshe Chedron)さん。2008年の3月から4月における抗議運動の際に"ダライ一党"に情報を提供し国家の安全を脅かしたという謎な理由から、15年の懲役刑を科された方。
昨年の第二回のデレク賞はワシントンで表彰式が行われ、受賞したのはタシワンチュク(33)さん。「チベット語教育の重要性をブログで訴えただけ」で、国際社会の訴えもむなしく、五年間の刑を言い渡された方。

受賞式にはInternational Tibetan Networkの代表アリソン・レイノルズ(Allison Reynolds)、テンジン・デレクリンポチェの姪、ニマ・ラモさんも参加された。後者がテンジン・デレク・リンポチェの事績を涙ながらに語る姿はとても痛々しかった。

でいよいよ発表、第三回のテンジン・デレク賞は、北京オリンピックの行われた2008年の年、封殺されるチベット人の声をあつめたドキュメンタリー『恐怖を乗り越えて』(Leaving Fear behind: チベット名"ジクデル")を撮ったことにより投獄されたトンドゥプ・ワンチェン(1974-)と元僧侶ゴロク・ジクメであった。
このドキュメンタリーが作成された直後、チベット蜂起が起きたため、『恐怖を乗り越えて』はチベット人の本音を伝えたものとして世界中で視聴された。トンドゥプ国際的な釈放運動によって幸いにも2014年に釈放されたものの公安の監視下におかれ、彼が妻子のいるアメリカへと出られたのはつい最近のことである。彼の渡米成功はチベット支援で名高いアメリカの元下院議長ナンシー・ペロシの力であったと言われている。
トンドゥプワンチェンにはラモツォという線の細い可愛らしい奥さまがいらっしゃるのだが、突然夫を奪われ子供や姪を生活苦の中で養いながら苦労しつつ、最終的にアメリカに移住する姿は『ラモツォの亡命ノート』というドキュメンタリーとなっている。
ゴロクジクメは2012年に中国の監獄を脱獄し、13ヶ月いろいろな方に匿われながら2014年に国境を越えスイスに亡命することに成功した。彼はその後、2022年の北京冬季オリンピック開催誘致に反対する活動の中心メンバーとなった。
ニマ・ラモさんのテンジン・デレク師の人生と死について語るトーク・イベントツァーは以下の日程で行われます。お近くの方は是非是非お運びください。かわいらしい方ですよ。
●東京
日時: 2018年7月16日(月・祝)15:30開場 16:00開演
会場: 国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟103室(東京都渋谷区代々木神園町3-1)
小田急線 参宮橋駅下車 約7分/東京メトロ代々木公園駅下車(4番出口)約10分
入場無料。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料
●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。
●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。
●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。

この賞の冠となっているテンジン・デレク師。彼について知らない方、知っていたけど忘れた方のために簡単に紹介。
テンジン・デレク師はインドで仏教の勉強をし、チベット本土にもどってから、当局の妨害と戦いつつ、お寺を再建し、チベット人の子供がチベット語で教育を受けられる学校、養老院を建てるなどして、本土の人々から敬愛されていた。しかし、その活躍が目障りだったのか、2002年突如としてあろうことか「爆弾犯」の汚名を帰せられ逮捕され当局は死刑判決を下した。世界中の支援者たちがいくらなんでもひどいと運動した結果、死刑こそ撤回されたものの、2015年に獄中でなくなられてしまった。
その後、彼の死を悼みかつ、中国の支配に非暴力で抵抗した人たちの勇気を顕彰するために、テンジン・デレク「勇気のメダル」賞が創設され、テンジンデレク師の訃報が当局から発表された7月13日に受賞者を発表することとなった。
三回目にあたる今年は日本で表彰式が行われた。
ちなみに、第一回目の受賞式はダラムサラで行われ、受賞したのはラサ出身の元医師イシ・チュドン(Yeshe Chedron)さん。2008年の3月から4月における抗議運動の際に"ダライ一党"に情報を提供し国家の安全を脅かしたという謎な理由から、15年の懲役刑を科された方。
昨年の第二回のデレク賞はワシントンで表彰式が行われ、受賞したのはタシワンチュク(33)さん。「チベット語教育の重要性をブログで訴えただけ」で、国際社会の訴えもむなしく、五年間の刑を言い渡された方。

受賞式にはInternational Tibetan Networkの代表アリソン・レイノルズ(Allison Reynolds)、テンジン・デレクリンポチェの姪、ニマ・ラモさんも参加された。後者がテンジン・デレク・リンポチェの事績を涙ながらに語る姿はとても痛々しかった。

でいよいよ発表、第三回のテンジン・デレク賞は、北京オリンピックの行われた2008年の年、封殺されるチベット人の声をあつめたドキュメンタリー『恐怖を乗り越えて』(Leaving Fear behind: チベット名"ジクデル")を撮ったことにより投獄されたトンドゥプ・ワンチェン(1974-)と元僧侶ゴロク・ジクメであった。
このドキュメンタリーが作成された直後、チベット蜂起が起きたため、『恐怖を乗り越えて』はチベット人の本音を伝えたものとして世界中で視聴された。トンドゥプ国際的な釈放運動によって幸いにも2014年に釈放されたものの公安の監視下におかれ、彼が妻子のいるアメリカへと出られたのはつい最近のことである。彼の渡米成功はチベット支援で名高いアメリカの元下院議長ナンシー・ペロシの力であったと言われている。
トンドゥプワンチェンにはラモツォという線の細い可愛らしい奥さまがいらっしゃるのだが、突然夫を奪われ子供や姪を生活苦の中で養いながら苦労しつつ、最終的にアメリカに移住する姿は『ラモツォの亡命ノート』というドキュメンタリーとなっている。
ゴロクジクメは2012年に中国の監獄を脱獄し、13ヶ月いろいろな方に匿われながら2014年に国境を越えスイスに亡命することに成功した。彼はその後、2022年の北京冬季オリンピック開催誘致に反対する活動の中心メンバーとなった。
ニマ・ラモさんのテンジン・デレク師の人生と死について語るトーク・イベントツァーは以下の日程で行われます。お近くの方は是非是非お運びください。かわいらしい方ですよ。
●東京
日時: 2018年7月16日(月・祝)15:30開場 16:00開演
会場: 国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟103室(東京都渋谷区代々木神園町3-1)
小田急線 参宮橋駅下車 約7分/東京メトロ代々木公園駅下車(4番出口)約10分
入場無料。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料
●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。
●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。
●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。
旧満州国の故都にいってみた (前編)
かつて日本は清朝最後の皇帝溥儀をかつぎだし大陸に満洲国という傀儡国家をたてた。当時新京と呼ばれた満州国の首都は、今は吉林省の省都長春となっている(写真は旧関東軍本部。現在は吉林省の共産党の建物)。

その長春に学会に行ってきた。そのこころは、満州国の特務機関の命をうけてチベット入りした野元甚蔵さんが、ジェブツンダンパ9世の探索にかかわっていそうだからである。
野元甚蔵さんがチベットのミッションの詳細について詳しく語られなかったこと、また、多田明子さんが復刻された多田等観師の年譜に、野元氏のチベット入りには特段の目的がなかったかのように書かれていることから、これまでの日本の研究では野元さんのチベット入りはとくに動機がないかのように言われてきた(写真は野元甚蔵)。

しかし、ことしの一月に他界した研究者Paul Hyerが2013年に書いた論文では、野元甚蔵はジェブツンダンパの転生探索のミッションの一環として派遣されたと書いてあった。言われてみれば、満州国の特務は命令者と現場の人間のみが情報を共有し文書を残さない組織だったし、野元さんが当時外務省に提出した報告書『入藏記』は特務の仕事については外務省には語ってない可能性が高いし、野元さんが日本をたつ直前に参謀本部長と会食していることから任務の重要性が推し量られるし、チベットで身を寄せたアンチン・フトクトも、デロワ・フトクトもそもそも日本軍がジェブツンダンパの探索に利用すると明言していた人物でることから、野元さんがジェブツンダンパ9世の探索のミッションに携わっていた可能性は私的にはかなり高いような気がする。
まあそんなこんなで、今回長春で学会があるというので参加してみることにした。野元さんが、森繁久弥が、かつて目にしていた満州国の首都の残滓が、少しは体験できるかもしれない。
しかし、授業期間中であるためそうそう休めず、三泊四日(その上一泊は機中泊)というむちゃくちゃな弾丸ツアーである。町歩きの時間なんかたぶんない。
旅立ちの朝。 わたしは某駅で成田エクスプレスを待っていた。私の席は9号車にあるため、9号車と書かれた位置にたつ。しかし、時間がきても電車はこない。やっときたーと思ってみると、列車は減速どころか加速して私の前を通り過ぎていく。どうも短い六両編成で、私は12輛編成の9号車の停車位置にたっていて、ホームのはしっこの視界の外にとまっていた車両がみえなかったのである。
なんで九号車で六両編成なんだよ。
パニクった私は駅員のいそうな部屋をばんばんたたくと、駅員がでてきて「すぐあとの電車にのってとにかく東京駅までいって、そこできた成田エクスプレスの空いている席に座ってください」とのことであった(全席指定じゃないのかオイ笑)。
こうしてしょっぱなから出鼻をくじかれつつ、時間がないので保険もwifiもなしで飛行機にのりこむ。着席すると同行のK先生はすぐに爆睡。しかし、飛行機はサテライトから寸毫も動かず。しばらくしてやっと滑走路についたと思ったら今度はまたえんえんととまったまま。しばらくしてK先生がおきて外をみて、
K先生「ああ、先生つきましたね」
私「飛んでねえよ」
ここで一時間近く遅れるが、われわれの中国国内での乗り継ぎ時間はたった二時間しかない。限りなくやばい。CAの方は「地上の職員とは話がついています」と頼もしい笑みを浮かべたものの、飛行機からおりても誰も誘導してくれない。さすが中国。地上係員との連絡はついていない。仕方ないのでANAの制服をきた人にフライト情報をみせて訴えると、誘導してくださり、何とか乗り継ぎにまにあう。ここで気力も体力も使い果たす。
長春にとぶ国内線はテレビも音楽もないので、スニーカーから上着までルイヴィトンのロゴマークのはいったまちがいなくパチモンをきているおじさん、ならびに15才くらいの娘をつれた腕と足にいれずみを入れたコワモテのおっさんを観察して過ごす。中国は豊かになったためか、80年代の香港ファッションが全土に普及しているね。今宵は満月で眼下に広がる雲の中には稲妻がひらめき壮絶な眺めである。
長春につくとお迎えの方がきてくださっており、タクシーで50分かけて会場となるホテルへ。この時点でへとへと。
翌日九時から学会は開始。最初はいきなり記念撮影である。自分の発表がおわると帰る人がいること、次の日に帰る参加者に現像した写真をわたすために時間が必要なためであろう。
私の発表は初日午後。

中国のモンゴル、チベット系の学会での発表は中国語か民族原語のものが多く、英語の発表は少ない。中国人の数に圧倒され言葉を失いつつあるチベット人、モンゴル人は、自らの言語での発表に拘る人が多い。最近ひらかれたとある北京のモンゴル系学会では、参加者全員にモンゴル語での発表が暗に強制されたそうな。モンゴル人たちは喜んでいたが、それってモンゴル語の口語ができない外国の研究者をすべてしめだすことで、研究レベルの低下を招く恐れはないのかと問いたい。
今回私が参加した学会は民族区分からいうと、中国人、満州人、モンゴル人、チベット人、シベ人、ロシア人、台湾人、朝鮮人、ロシアの漢族、日本人と、満州国も真っ青のダイバーシティ。こうなると民族言語は一つに絞れず、漢語の発表が中心となる。しかし、私は英語で発表する。だって読めてもしゃべれないもん中国語。O先輩から「あんた何語で司会するの?」と言われたので、
「〔英語と漢語〕ちゃんぽん」と元気に答える。
できないものはできないのである。
驚いたのが、東北師範大学は日本語教育の中心なので日本語ができる学生がたくさんいたこと、また台湾から参加した若い研究者たちも来日経験がなくてもみな日本語ができること。台湾の若者の日本語能力の高さはにらんだとおり、アニメの影響であった。そのの晩わたしは台湾の若者とエヴァンゲリオンや銀英伝の話をしてもりあがったのである。
アニメの力すごい。

その長春に学会に行ってきた。そのこころは、満州国の特務機関の命をうけてチベット入りした野元甚蔵さんが、ジェブツンダンパ9世の探索にかかわっていそうだからである。
野元甚蔵さんがチベットのミッションの詳細について詳しく語られなかったこと、また、多田明子さんが復刻された多田等観師の年譜に、野元氏のチベット入りには特段の目的がなかったかのように書かれていることから、これまでの日本の研究では野元さんのチベット入りはとくに動機がないかのように言われてきた(写真は野元甚蔵)。

しかし、ことしの一月に他界した研究者Paul Hyerが2013年に書いた論文では、野元甚蔵はジェブツンダンパの転生探索のミッションの一環として派遣されたと書いてあった。言われてみれば、満州国の特務は命令者と現場の人間のみが情報を共有し文書を残さない組織だったし、野元さんが当時外務省に提出した報告書『入藏記』は特務の仕事については外務省には語ってない可能性が高いし、野元さんが日本をたつ直前に参謀本部長と会食していることから任務の重要性が推し量られるし、チベットで身を寄せたアンチン・フトクトも、デロワ・フトクトもそもそも日本軍がジェブツンダンパの探索に利用すると明言していた人物でることから、野元さんがジェブツンダンパ9世の探索のミッションに携わっていた可能性は私的にはかなり高いような気がする。
まあそんなこんなで、今回長春で学会があるというので参加してみることにした。野元さんが、森繁久弥が、かつて目にしていた満州国の首都の残滓が、少しは体験できるかもしれない。
しかし、授業期間中であるためそうそう休めず、三泊四日(その上一泊は機中泊)というむちゃくちゃな弾丸ツアーである。町歩きの時間なんかたぶんない。
旅立ちの朝。 わたしは某駅で成田エクスプレスを待っていた。私の席は9号車にあるため、9号車と書かれた位置にたつ。しかし、時間がきても電車はこない。やっときたーと思ってみると、列車は減速どころか加速して私の前を通り過ぎていく。どうも短い六両編成で、私は12輛編成の9号車の停車位置にたっていて、ホームのはしっこの視界の外にとまっていた車両がみえなかったのである。
なんで九号車で六両編成なんだよ。
パニクった私は駅員のいそうな部屋をばんばんたたくと、駅員がでてきて「すぐあとの電車にのってとにかく東京駅までいって、そこできた成田エクスプレスの空いている席に座ってください」とのことであった(全席指定じゃないのかオイ笑)。
こうしてしょっぱなから出鼻をくじかれつつ、時間がないので保険もwifiもなしで飛行機にのりこむ。着席すると同行のK先生はすぐに爆睡。しかし、飛行機はサテライトから寸毫も動かず。しばらくしてやっと滑走路についたと思ったら今度はまたえんえんととまったまま。しばらくしてK先生がおきて外をみて、
K先生「ああ、先生つきましたね」
私「飛んでねえよ」
ここで一時間近く遅れるが、われわれの中国国内での乗り継ぎ時間はたった二時間しかない。限りなくやばい。CAの方は「地上の職員とは話がついています」と頼もしい笑みを浮かべたものの、飛行機からおりても誰も誘導してくれない。さすが中国。地上係員との連絡はついていない。仕方ないのでANAの制服をきた人にフライト情報をみせて訴えると、誘導してくださり、何とか乗り継ぎにまにあう。ここで気力も体力も使い果たす。
長春にとぶ国内線はテレビも音楽もないので、スニーカーから上着までルイヴィトンのロゴマークのはいったまちがいなくパチモンをきているおじさん、ならびに15才くらいの娘をつれた腕と足にいれずみを入れたコワモテのおっさんを観察して過ごす。中国は豊かになったためか、80年代の香港ファッションが全土に普及しているね。今宵は満月で眼下に広がる雲の中には稲妻がひらめき壮絶な眺めである。
長春につくとお迎えの方がきてくださっており、タクシーで50分かけて会場となるホテルへ。この時点でへとへと。
翌日九時から学会は開始。最初はいきなり記念撮影である。自分の発表がおわると帰る人がいること、次の日に帰る参加者に現像した写真をわたすために時間が必要なためであろう。
私の発表は初日午後。

中国のモンゴル、チベット系の学会での発表は中国語か民族原語のものが多く、英語の発表は少ない。中国人の数に圧倒され言葉を失いつつあるチベット人、モンゴル人は、自らの言語での発表に拘る人が多い。最近ひらかれたとある北京のモンゴル系学会では、参加者全員にモンゴル語での発表が暗に強制されたそうな。モンゴル人たちは喜んでいたが、それってモンゴル語の口語ができない外国の研究者をすべてしめだすことで、研究レベルの低下を招く恐れはないのかと問いたい。
今回私が参加した学会は民族区分からいうと、中国人、満州人、モンゴル人、チベット人、シベ人、ロシア人、台湾人、朝鮮人、ロシアの漢族、日本人と、満州国も真っ青のダイバーシティ。こうなると民族言語は一つに絞れず、漢語の発表が中心となる。しかし、私は英語で発表する。だって読めてもしゃべれないもん中国語。O先輩から「あんた何語で司会するの?」と言われたので、
「〔英語と漢語〕ちゃんぽん」と元気に答える。
できないものはできないのである。
驚いたのが、東北師範大学は日本語教育の中心なので日本語ができる学生がたくさんいたこと、また台湾から参加した若い研究者たちも来日経験がなくてもみな日本語ができること。台湾の若者の日本語能力の高さはにらんだとおり、アニメの影響であった。そのの晩わたしは台湾の若者とエヴァンゲリオンや銀英伝の話をしてもりあがったのである。
アニメの力すごい。
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