はじめての献血
生まれて初めて献血にいった。初めてのお使いならぬ、初めての献血である。

もともと貧血気味なので、避けていたが、SHARPの公式の中の人が「生きているだけで人の役に立つのが献血」とその朝、つぶやいたので、突如行く気に。しかし、昨日の晩は風がうるさくてあつくてあまりよく眠れず、食事も菜食だしペストコンディションとはいえない。
受付の方は一週間前、室外で客引きをしていたおっさんである。日に焼けているのは献血車で外で呼びかけることが多いからだろう。
受付で登録をすまし、私が「体重は最近はかっていないのでわかりません」というと、室内の体重計に靴をはいたまま乗れというのでのると、受付の人の顔がくもり、「体重が50kgきっているので、200cc献血か成分献血しかできません。200ccは今たりているのでいりません。成分献血は時間がかりますかいいですか」といわれる。このあたりで私の「献血をして社会の役に立つ」という上から目線がくだけちる。
私「私鈍いんでよくわからないんですが、ぶっちゃけ私の血はいらないってことですか?」と聞くと、受付の人はそうでないと力説するが、自己評価が落ちたのでよく理解できず、成分献血でもいいです、とかいいだす自分がいる(w)。
さらに、服用している薬はありますか?、「睡眠薬をのんでますが四分の一だし、昨日の晩です」というとお医者さんブースにつれていかれ、前の晩なら大丈夫ですというお医者さんの言質をとる。
このあたりで「血をあげる」から、「血をとっていただく」感じになって、不思議に力関係が逆転してくる。
初めての人がさげるふだを首からさげて、点滴中の人がつけるみたいな紙のわっかを腕につけられる。
私「これをつけている人を最後に見たのは末期癌でなくなった方の腕でした」というと受付の人無視。
次に、こちらが同意すべき事項を動画でみさせられる。
私「早回しとかできないんですか」
係の人「できませんねえ。続いて質問がでてきます」
私「面倒くせえな」
質問内容は何か薬を飲んでないか、過去に大病していないか、近く歯を抜いてないか、血がとまらない病気をしていないか、ヨーロッパの滞在歴がありますか、などなどだが、去年鼻血がとまらなくて耳鼻科で鼻の中やきました、また一年前親知らずぬいて顎関節症になりました、昨年九月イギリスいってますと爽やかに答えてもとりあえずOKとなる。
次に、血圧をはかり、採決、もとい採血。貧血や病気もちはここで却下されるのだという。私はサカダワ期間中一ヶ月菜食で通していたので、献血をすると決めたこの一週間は意識して肉でタンパク質をとっていた。
クリア。わーい、わーい。
次に心電図。針をさされてそのままショックで心臓がとまる人をここでふるいおとすらしい。心電図もクリア。職場での健康診断はさぼりつづけお叱りをうけているが、なぜかここで健康診断をして結果に喜んでいる私はアホである。
それから機械につながれて血をぬく。ぬいた血はうわずみだけとられて赤血球はもとに戻されるので、とくに血がへった感じはしない。静脈にぶっとい針を刺すときはさすがに痛いがいったん刺すとそう痛くはない。スマホさわっているうちに終了。初めてなので様子見で少ししかぬかなかったらしい。時間はあまりかかった気がしない。飛行機の乗り継ぎでわけのわからん空港で時間をつぶしているよりはよほど快適。
血をぬき終わった後、しばらく目の届くところにいろと言われたが、別に立ちくらみもしないのでサクサクトイレにいって、「大丈夫そうなのでお世話になりました」と元気に献血ルームをあとにする。
ちなみに、その時は大丈夫でもあとでばったり倒れて線路におちるような人もいるようなので、心配な人は休んでいくといい。
献血ルームには飲み物とお菓子がただでおいてあり、帰る時に献血カードと小さなお菓子のパックとウーロンチャのブリックを持たされた。
そこには「ありがとうの手紙」が添えられている。
献血をして下さった皆さんへ。
皆さんのおかげで、わたしは今こうして元気に過ごすことが出来ています。
わたしの身体に流れているのは皆さんの優しさと温かな気持ちです。
顔の見えない誰かのために献血をするという行為は素敵だなと思います。
患者を代表してありがとう。 友寄蓮
この友寄さんのofficial blog はこちらである。
健康で体重のある人は献血にいこう。

もともと貧血気味なので、避けていたが、SHARPの公式の中の人が「生きているだけで人の役に立つのが献血」とその朝、つぶやいたので、突如行く気に。しかし、昨日の晩は風がうるさくてあつくてあまりよく眠れず、食事も菜食だしペストコンディションとはいえない。
受付の方は一週間前、室外で客引きをしていたおっさんである。日に焼けているのは献血車で外で呼びかけることが多いからだろう。
受付で登録をすまし、私が「体重は最近はかっていないのでわかりません」というと、室内の体重計に靴をはいたまま乗れというのでのると、受付の人の顔がくもり、「体重が50kgきっているので、200cc献血か成分献血しかできません。200ccは今たりているのでいりません。成分献血は時間がかりますかいいですか」といわれる。このあたりで私の「献血をして社会の役に立つ」という上から目線がくだけちる。
私「私鈍いんでよくわからないんですが、ぶっちゃけ私の血はいらないってことですか?」と聞くと、受付の人はそうでないと力説するが、自己評価が落ちたのでよく理解できず、成分献血でもいいです、とかいいだす自分がいる(w)。
さらに、服用している薬はありますか?、「睡眠薬をのんでますが四分の一だし、昨日の晩です」というとお医者さんブースにつれていかれ、前の晩なら大丈夫ですというお医者さんの言質をとる。
このあたりで「血をあげる」から、「血をとっていただく」感じになって、不思議に力関係が逆転してくる。
初めての人がさげるふだを首からさげて、点滴中の人がつけるみたいな紙のわっかを腕につけられる。
私「これをつけている人を最後に見たのは末期癌でなくなった方の腕でした」というと受付の人無視。
次に、こちらが同意すべき事項を動画でみさせられる。
私「早回しとかできないんですか」
係の人「できませんねえ。続いて質問がでてきます」
私「面倒くせえな」
質問内容は何か薬を飲んでないか、過去に大病していないか、近く歯を抜いてないか、血がとまらない病気をしていないか、ヨーロッパの滞在歴がありますか、などなどだが、去年鼻血がとまらなくて耳鼻科で鼻の中やきました、また一年前親知らずぬいて顎関節症になりました、昨年九月イギリスいってますと爽やかに答えてもとりあえずOKとなる。
次に、血圧をはかり、採決、もとい採血。貧血や病気もちはここで却下されるのだという。私はサカダワ期間中一ヶ月菜食で通していたので、献血をすると決めたこの一週間は意識して肉でタンパク質をとっていた。
クリア。わーい、わーい。
次に心電図。針をさされてそのままショックで心臓がとまる人をここでふるいおとすらしい。心電図もクリア。職場での健康診断はさぼりつづけお叱りをうけているが、なぜかここで健康診断をして結果に喜んでいる私はアホである。
それから機械につながれて血をぬく。ぬいた血はうわずみだけとられて赤血球はもとに戻されるので、とくに血がへった感じはしない。静脈にぶっとい針を刺すときはさすがに痛いがいったん刺すとそう痛くはない。スマホさわっているうちに終了。初めてなので様子見で少ししかぬかなかったらしい。時間はあまりかかった気がしない。飛行機の乗り継ぎでわけのわからん空港で時間をつぶしているよりはよほど快適。
血をぬき終わった後、しばらく目の届くところにいろと言われたが、別に立ちくらみもしないのでサクサクトイレにいって、「大丈夫そうなのでお世話になりました」と元気に献血ルームをあとにする。
ちなみに、その時は大丈夫でもあとでばったり倒れて線路におちるような人もいるようなので、心配な人は休んでいくといい。
献血ルームには飲み物とお菓子がただでおいてあり、帰る時に献血カードと小さなお菓子のパックとウーロンチャのブリックを持たされた。
そこには「ありがとうの手紙」が添えられている。
献血をして下さった皆さんへ。
皆さんのおかげで、わたしは今こうして元気に過ごすことが出来ています。
わたしの身体に流れているのは皆さんの優しさと温かな気持ちです。
顔の見えない誰かのために献血をするという行為は素敵だなと思います。
患者を代表してありがとう。 友寄蓮
この友寄さんのofficial blog はこちらである。
健康で体重のある人は献血にいこう。
「独立」と植民地の間
ダライラマ法王がとっている中道政策の「中道」とは、植民地と独立の中間、〔現在のようななんちゃって自治ではなく〕完全自治をめざすことにある。
よく中国はチベットは独立国家ではなかったといいはりますが、近代的な意味での「国家」概念(国境線が確定し、国際社会から独立承認された国家)がチベットに輸入されるのは20世紀の初頭であるため、近代的な意味では独立したことがないのはトーゼンである(それは現在は近代的な意味で「独立」している他のアジアの国々ももとは同じ状況だったから)。
一方、チベットの歴史、文化、言語、政治体制、法律はすべて中国の王朝とは別個のものとして生成・発展しており、直近の中国の王朝である清朝からも布施はうけても税金はとられていなかったことを考えると、チベットは普通に独立しており、現在近代的な意味で「独立」していないことは非常に不条理であることは言を俟たない。
現在ダライラマ法王は「中道」政策をとっているため、チベット人はダライラマの立場を考えて「独立」を口にすることを控えている。しかし、本日紹介するブログの主ジャムヤン・ノルブ氏(1949-)は現在もなお「独立」の言葉をはばからず口にだす数少ないチベット知識人であるため、「ダライラマ法王は彼のことをどう思っているのかしら」と見られることもある方であるが、そのジャムヤンノルブ氏がダライラマ法王と5月31日に個人謁見を行い、その席でダライラマ法王が述べたことは「独立」についての考え方を知る上で興味深いものでした。 なのでブログで全訳してみました。
要約すると法王は、過去チベットが独立国として機能していた証拠を発掘し、提示することは歴史的事実なんだから、どんどんしたらいい、その過去の独立の事実があるからこそ、中道政策が意味をなすということ。
確かに、2012年12月金沢で静養中のダライラマ法王の下で私が清朝とチベット仏教について研究していると申し上げたところ同じことをおっしゃられたことを思い出した。再掲すると
「わたしはチベットの〔独立ではなく〕自治といっているが、それはチベットの歴史がどうでもいいということではない。チベットの歴史はそれはそれとしてある。研究対象にすべきである。
ソ連の時代、昔の資料や歴史書をみんな捨ててしまって、ソ連が崩壊してロシアになって、さあ歴史を教えようと思っても昔の資料がないから歴史が教えられないという話を聞いた。政治が歴史的事実をゆがめてはいけない。」(ソース)
それではジャムヤンノルブ氏とダライラマ法王の印象的な会見について全訳をのせます。ソースはここです。
猊下との個人謁見(「シャドウ・チベット」五月三十日より)
第五回国際独立会議の最終日、会議参加者はダライラマとの集団謁見を行い記念写真撮影を行った。大人数であったし、私は彼の足下のすぐ近くで跪いていた(彼は立っていた)ので、おそらく彼には私がみえなかったのだろう。後になって彼はなぜ私(ジャムヤンノルブ)がいなかったのか? と訪ねたから。その午後、私は(法王)秘書室から「猊下が私に合いたがっている」との電話をうけた。
私は五月二十八日の午前十時半にダライラマ猊下との個人謁見を行った。読者のみなさんは喜ぶだろうが、彼は健康で輝いていた。一方私はと言えば、死にそうだった。会議の間中熱があり、しつこい咳が続いたため夜も眠れなかった。彼は私の病気に気付いていたにちがいない、最初に私をみながら「年を取ったなあ」と言ったから。私は「はい、猊下。膝も悪いですが、〔あなた様への〕五体投地は完璧にできます」
私が座ると彼は「あなたが最初にここにきたのは六十年代でしたね?」私はそうだと応えました。彼は「それから我々は一緒になんとか大仕事をやってきた。〔チベット動乱のおきた〕1959年にラサで譚三冠が反乱者は一掃されるべきであると命令し、彼の大砲がノルブリンカ(ダライラマの離宮)やチャクポリ(ポタラ宮の向かいの山。かつては医学堂がたっていた)や至る所で我々の民をたくさん殺した。私が亡命した後、中国人は『チベット人は終わった。ダライ・ラマも亡命チベット人も何もできない』と確信していた。しかし、我々は彼らが間違っていることを証明したじゃないか?」
「はい確かに。猊下。」と私は応えた。「私たちは社会と政府を立て直したばかりか、チベット問題をかつてない形で世界に提起しました。我々はそれを共に行いました」
彼はしばらくこのことについて思い出話をしてそれからこう言った。「私はあなたに中道政策について話したい。〔独立を唱えるあなたと〕争う気はない。私はただあなたに中道を説明したいだけだ。」彼はそして、いかに多くの世界の指導者が彼に賛意を表し、中道政策を支持し、オバマ大統領が彼に中道政策を完全に支持すると述べた手紙を送ってきたのかなどの包括的な説明を始めた。また、中華人民共和国の多くの中国人、事に知識人がいまや中道政策を支持して、支持するようになっていることも説明した。
彼は中道政策についての説明をこうしめくくった。
「中道政策が進展しようとも、チベット人はチベットが1959年以前は独立国であったことを証明する努力を続けなければならない。」彼はそれから、チベットの独立を示す歴史的な証拠を発掘し、それを世界だけではなく中国人に知らしむることの重要性について説明を続けた。彼は「チベットが独立国であったことの証拠がなければ、中道政策は単に乞食が食べ物を乞うているようなものになってしまう。チベットが独立していたという決定的な証拠を研究し発見しそれを世界に発表することはチベット人の肩に掛かっている。」と言った。
私は彼を遮って「それこそまさに独立会議が採択したことであり、活動家たちが疲れを知らずにあらゆる機会をとらえて行おうとしていることです」と説明した。私は彼に携帯展覧会「ランツェンテルズー」(チベットの古典リンチェンテルズー、『宝の蔵』にかけた名前。「チベット独立の知識の蔵」という意)について話した。これはチベットの独立を証明する地図、論文、写真、工芸品、パスポート、公文書からなりたっており、チベット国民会議がニューヨークの国連ビル前で、いきかう官僚、訪問者その他を啓発するために設置、展示したものである。
私はまたチベット国民会議の有志の助けをかりて立ち上げた「三月十日記念ウェブサイト」(March 10 Memorial website。三月十日はチベット蜂起記念日)についても語った。このサイトでは稀少な写真、ビデオ、小伝、関係年譜、ラサの地図、チベット人のデモ、闘争、ダライラマの亡命の詳細な情報を見ることができます。
猊下はクンゴターラ(1920-2013。93才でなくなったダライラマの側近で亡命政府の僧官。)について話す時考え深げになり、私とドアのところにたつツェギャム氏ともう一人の官僚に向かっても彼について説明した。ターラは非常に勇敢で忠実な男であり、ちょっと予測できないことをする男だった。ターラは一人でノルブリンカに深い塹壕を掘り、中国軍の砲撃が始まったら、こうして隠れなさいと猊下に指示したという。猊下は思い出し笑いをされた。私はまた猊下にサイトの中にある「思い出の人々の部屋」には、ラサから彼が逃げる際に安全を確保するために動いた面々、ツァロン・ダサン・ダドゥル(1888–1959)、大執事パラ、ロサンイェシェ他の解説や写真をアップしていることを告げた。
私は最近チベット国民会議がニューヨークで1918年4月29日にチャムド(東チベットの要害)で中国軍を打ち負かし東チベットを解放した戦いの戦勝百周年の祝賀会を行ったことも告げた。カムパたちが「土の馬の年の新時代」と記憶するあの事件である。猊下は彼はその歴史的事件について聞いたことを思い出し、私に「あなたの祖父はこの戦争の間は将軍だったんじゃないかね?」彼はドアのところにたつ側近に向かって「テトン・ダポンは敵を調伏する力(猊下が実際にどんな言葉を用いたのかは思い出せない)があった。他の将軍がしくじった時でも中国人を倒すことができた」と説明した。
猊下はそしてアメリカがチベットの抵抗ゲリラに対する支援をうちきった時、我々が武器や支援をどこからえるのか話合ったことを思い出した。彼は笑いながら、私が「アフガニスタンから武器を買おう」という向こう見ずな提案をしたことを指摘した(私は思い出せなかった)。彼は笑い続けた。しかし、私は猊下に、当時、ガリ・リンポチェと私がいかにフランスの情報機関に我々のネットワークに資金を提供させようとしていたか、わたしがいかに法王事務所によってパリにおくられたかを思い出させた。彼は思い出した。彼は私を指さして側近にこういった。「こいつは我々の中のスパイだ。でもこれらの計画は結局みな意味がなかった」といった。「猊下、たしかに結果がでませんでした」と私は認めた。「最後はラモツェリン氏が逮捕され、キャトワンドゥがネパール軍に殺されて、抵抗軍はちりぢりになった。」
私たちは50分以上は語り合っていたと思う。猊下は楽しんでおられるようだった。彼はご自分の理論についてかたりはじめた。アフリカからでた原始人がヨーロッパから東方のアジアに向かったことに基づき、人類がチベットでまず進化しその後中国に向かったであろうことは論理的であるとおもっていらっしゃった。私は「Scientific Americanで目にした最近の研究では、中国の研究者が行ったゲノム解析により、チベット人は従来いわれていた16000年前より四倍も古い64000年前の氷河期からチベット高原上に存在していたことがわかった」と告げた。
猊下はまた猿の菩薩と岩の鬼女の結婚のようなチベット人の起源についての民族の神話が、多少の事実に基づいているのではないかと思われていた。私は科学雑誌ネイチャーの中のネアンデルタール人の従兄弟、旧石器時代人の一種デニソワ人についての記事を思い出した。そこには、デニソワ人は初期のチベット人と結婚してチベット人に特別な遺伝子を授け、それがチベット人に高山で生き抜くことに適した 属性を与えたと書かれていた。共著者のチベット人のツェワンタシ博士とユタ大学の行った研究でであるとつげると猊下はとても喜んだ。
猊下は私にこのような発見をフォローすること、その内容を彼に知らせることを課した。
ついに謁見は終わりに近づいた。猊下はこういった。「一緒に写真をとらないとな。カメラマンはどこだ? 」それから彼は机の引き出しをひっかきまわすと二、三パックの薬箱をとりだした。「これは"宝のように貴い丸薬"(リンチェンリルブ)だ。これらは早すぎる死からお前を救うだろう。健やかであれ。」彼の祝福を受ける前に、私は特別なお願いがあると彼にいった。「"独立"のための闘争に祈願していただけるように」。彼はこう答えた「もちろん、いいよ。お前達にとって必要なことだ。心配するな」(yin-ta-yin ......semdrel che go maray)
私は猊下に心からの感謝を捧げて辞去した。
よく中国はチベットは独立国家ではなかったといいはりますが、近代的な意味での「国家」概念(国境線が確定し、国際社会から独立承認された国家)がチベットに輸入されるのは20世紀の初頭であるため、近代的な意味では独立したことがないのはトーゼンである(それは現在は近代的な意味で「独立」している他のアジアの国々ももとは同じ状況だったから)。
一方、チベットの歴史、文化、言語、政治体制、法律はすべて中国の王朝とは別個のものとして生成・発展しており、直近の中国の王朝である清朝からも布施はうけても税金はとられていなかったことを考えると、チベットは普通に独立しており、現在近代的な意味で「独立」していないことは非常に不条理であることは言を俟たない。
現在ダライラマ法王は「中道」政策をとっているため、チベット人はダライラマの立場を考えて「独立」を口にすることを控えている。しかし、本日紹介するブログの主ジャムヤン・ノルブ氏(1949-)は現在もなお「独立」の言葉をはばからず口にだす数少ないチベット知識人であるため、「ダライラマ法王は彼のことをどう思っているのかしら」と見られることもある方であるが、そのジャムヤンノルブ氏がダライラマ法王と5月31日に個人謁見を行い、その席でダライラマ法王が述べたことは「独立」についての考え方を知る上で興味深いものでした。 なのでブログで全訳してみました。
要約すると法王は、過去チベットが独立国として機能していた証拠を発掘し、提示することは歴史的事実なんだから、どんどんしたらいい、その過去の独立の事実があるからこそ、中道政策が意味をなすということ。
確かに、2012年12月金沢で静養中のダライラマ法王の下で私が清朝とチベット仏教について研究していると申し上げたところ同じことをおっしゃられたことを思い出した。再掲すると
「わたしはチベットの〔独立ではなく〕自治といっているが、それはチベットの歴史がどうでもいいということではない。チベットの歴史はそれはそれとしてある。研究対象にすべきである。
ソ連の時代、昔の資料や歴史書をみんな捨ててしまって、ソ連が崩壊してロシアになって、さあ歴史を教えようと思っても昔の資料がないから歴史が教えられないという話を聞いた。政治が歴史的事実をゆがめてはいけない。」(ソース)
それではジャムヤンノルブ氏とダライラマ法王の印象的な会見について全訳をのせます。ソースはここです。
猊下との個人謁見(「シャドウ・チベット」五月三十日より)
第五回国際独立会議の最終日、会議参加者はダライラマとの集団謁見を行い記念写真撮影を行った。大人数であったし、私は彼の足下のすぐ近くで跪いていた(彼は立っていた)ので、おそらく彼には私がみえなかったのだろう。後になって彼はなぜ私(ジャムヤンノルブ)がいなかったのか? と訪ねたから。その午後、私は(法王)秘書室から「猊下が私に合いたがっている」との電話をうけた。
私は五月二十八日の午前十時半にダライラマ猊下との個人謁見を行った。読者のみなさんは喜ぶだろうが、彼は健康で輝いていた。一方私はと言えば、死にそうだった。会議の間中熱があり、しつこい咳が続いたため夜も眠れなかった。彼は私の病気に気付いていたにちがいない、最初に私をみながら「年を取ったなあ」と言ったから。私は「はい、猊下。膝も悪いですが、〔あなた様への〕五体投地は完璧にできます」
私が座ると彼は「あなたが最初にここにきたのは六十年代でしたね?」私はそうだと応えました。彼は「それから我々は一緒になんとか大仕事をやってきた。〔チベット動乱のおきた〕1959年にラサで譚三冠が反乱者は一掃されるべきであると命令し、彼の大砲がノルブリンカ(ダライラマの離宮)やチャクポリ(ポタラ宮の向かいの山。かつては医学堂がたっていた)や至る所で我々の民をたくさん殺した。私が亡命した後、中国人は『チベット人は終わった。ダライ・ラマも亡命チベット人も何もできない』と確信していた。しかし、我々は彼らが間違っていることを証明したじゃないか?」
「はい確かに。猊下。」と私は応えた。「私たちは社会と政府を立て直したばかりか、チベット問題をかつてない形で世界に提起しました。我々はそれを共に行いました」
彼はしばらくこのことについて思い出話をしてそれからこう言った。「私はあなたに中道政策について話したい。〔独立を唱えるあなたと〕争う気はない。私はただあなたに中道を説明したいだけだ。」彼はそして、いかに多くの世界の指導者が彼に賛意を表し、中道政策を支持し、オバマ大統領が彼に中道政策を完全に支持すると述べた手紙を送ってきたのかなどの包括的な説明を始めた。また、中華人民共和国の多くの中国人、事に知識人がいまや中道政策を支持して、支持するようになっていることも説明した。
彼は中道政策についての説明をこうしめくくった。
「中道政策が進展しようとも、チベット人はチベットが1959年以前は独立国であったことを証明する努力を続けなければならない。」彼はそれから、チベットの独立を示す歴史的な証拠を発掘し、それを世界だけではなく中国人に知らしむることの重要性について説明を続けた。彼は「チベットが独立国であったことの証拠がなければ、中道政策は単に乞食が食べ物を乞うているようなものになってしまう。チベットが独立していたという決定的な証拠を研究し発見しそれを世界に発表することはチベット人の肩に掛かっている。」と言った。
私は彼を遮って「それこそまさに独立会議が採択したことであり、活動家たちが疲れを知らずにあらゆる機会をとらえて行おうとしていることです」と説明した。私は彼に携帯展覧会「ランツェンテルズー」(チベットの古典リンチェンテルズー、『宝の蔵』にかけた名前。「チベット独立の知識の蔵」という意)について話した。これはチベットの独立を証明する地図、論文、写真、工芸品、パスポート、公文書からなりたっており、チベット国民会議がニューヨークの国連ビル前で、いきかう官僚、訪問者その他を啓発するために設置、展示したものである。
私はまたチベット国民会議の有志の助けをかりて立ち上げた「三月十日記念ウェブサイト」(March 10 Memorial website。三月十日はチベット蜂起記念日)についても語った。このサイトでは稀少な写真、ビデオ、小伝、関係年譜、ラサの地図、チベット人のデモ、闘争、ダライラマの亡命の詳細な情報を見ることができます。
猊下はクンゴターラ(1920-2013。93才でなくなったダライラマの側近で亡命政府の僧官。)について話す時考え深げになり、私とドアのところにたつツェギャム氏ともう一人の官僚に向かっても彼について説明した。ターラは非常に勇敢で忠実な男であり、ちょっと予測できないことをする男だった。ターラは一人でノルブリンカに深い塹壕を掘り、中国軍の砲撃が始まったら、こうして隠れなさいと猊下に指示したという。猊下は思い出し笑いをされた。私はまた猊下にサイトの中にある「思い出の人々の部屋」には、ラサから彼が逃げる際に安全を確保するために動いた面々、ツァロン・ダサン・ダドゥル(1888–1959)、大執事パラ、ロサンイェシェ他の解説や写真をアップしていることを告げた。
私は最近チベット国民会議がニューヨークで1918年4月29日にチャムド(東チベットの要害)で中国軍を打ち負かし東チベットを解放した戦いの戦勝百周年の祝賀会を行ったことも告げた。カムパたちが「土の馬の年の新時代」と記憶するあの事件である。猊下は彼はその歴史的事件について聞いたことを思い出し、私に「あなたの祖父はこの戦争の間は将軍だったんじゃないかね?」彼はドアのところにたつ側近に向かって「テトン・ダポンは敵を調伏する力(猊下が実際にどんな言葉を用いたのかは思い出せない)があった。他の将軍がしくじった時でも中国人を倒すことができた」と説明した。
猊下はそしてアメリカがチベットの抵抗ゲリラに対する支援をうちきった時、我々が武器や支援をどこからえるのか話合ったことを思い出した。彼は笑いながら、私が「アフガニスタンから武器を買おう」という向こう見ずな提案をしたことを指摘した(私は思い出せなかった)。彼は笑い続けた。しかし、私は猊下に、当時、ガリ・リンポチェと私がいかにフランスの情報機関に我々のネットワークに資金を提供させようとしていたか、わたしがいかに法王事務所によってパリにおくられたかを思い出させた。彼は思い出した。彼は私を指さして側近にこういった。「こいつは我々の中のスパイだ。でもこれらの計画は結局みな意味がなかった」といった。「猊下、たしかに結果がでませんでした」と私は認めた。「最後はラモツェリン氏が逮捕され、キャトワンドゥがネパール軍に殺されて、抵抗軍はちりぢりになった。」
私たちは50分以上は語り合っていたと思う。猊下は楽しんでおられるようだった。彼はご自分の理論についてかたりはじめた。アフリカからでた原始人がヨーロッパから東方のアジアに向かったことに基づき、人類がチベットでまず進化しその後中国に向かったであろうことは論理的であるとおもっていらっしゃった。私は「Scientific Americanで目にした最近の研究では、中国の研究者が行ったゲノム解析により、チベット人は従来いわれていた16000年前より四倍も古い64000年前の氷河期からチベット高原上に存在していたことがわかった」と告げた。
猊下はまた猿の菩薩と岩の鬼女の結婚のようなチベット人の起源についての民族の神話が、多少の事実に基づいているのではないかと思われていた。私は科学雑誌ネイチャーの中のネアンデルタール人の従兄弟、旧石器時代人の一種デニソワ人についての記事を思い出した。そこには、デニソワ人は初期のチベット人と結婚してチベット人に特別な遺伝子を授け、それがチベット人に高山で生き抜くことに適した 属性を与えたと書かれていた。共著者のチベット人のツェワンタシ博士とユタ大学の行った研究でであるとつげると猊下はとても喜んだ。
猊下は私にこのような発見をフォローすること、その内容を彼に知らせることを課した。
ついに謁見は終わりに近づいた。猊下はこういった。「一緒に写真をとらないとな。カメラマンはどこだ? 」それから彼は机の引き出しをひっかきまわすと二、三パックの薬箱をとりだした。「これは"宝のように貴い丸薬"(リンチェンリルブ)だ。これらは早すぎる死からお前を救うだろう。健やかであれ。」彼の祝福を受ける前に、私は特別なお願いがあると彼にいった。「"独立"のための闘争に祈願していただけるように」。彼はこう答えた「もちろん、いいよ。お前達にとって必要なことだ。心配するな」(yin-ta-yin ......semdrel che go maray)
私は猊下に心からの感謝を捧げて辞去した。
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