ダライラマへの手紙(ダライ・ラマ秘話3)
お正月恒例ダライ・ラマ秘話いきます。
昨年出版された『アジャ・リンポチェ回想録』には、リンポチェが1998年のアメリカ亡命に至るまでの苦難の半生が綴られている。リンポチェは亡命前は中国仏教協会の副会長であり、外交パスポートも携帯する高位の役人であったため、その証言内容は共産党のチベット仏教界に対するしめつけの数々を具体的に明らかにし一級の歴史資料となっている。

彼が高級官僚の地位を捨てて亡命した理由は、本人の弁によると、幼少の頃に父を殺されたことに始まり、様々なものがつみあがった結果であるが、直接の原因は中国政府が擁立したパンチェンラマ11世を強制的に承認させられ、その教師になれと命令されたことにある。
リンポチェは我慢できずに中国と国交のなかったグアテマラにまず逃れた。しかし、ノープランだったので途方にくれていると、華僑の弟子クリスティーンさんが、「ダライラマ14世に手紙を書いてくださったら、私がダラムサラまでもっていきます」というので、リンポチェ、ナイスアィディア! と手紙を書くこととした。
以下、回想録の記述を見てみよう。
法王に送る手紙というのは非常にフォーマルな文書だ。統一規格の大判チベット紙を使って、さら24折りに折って、16折り目から本文を書き始めなければならない。上の空白の部分は、法王の崇高な地位を尊敬することを表している。
しかも必ずとがった竹ペン。つまりチベット筆に墨汁をつけてかかなければならない。そうやって初めて一文字一文字がきちんとそろってきれいに見える。それが伝統的なダライ・ラマ尊者への手紙の様式である。
しかし、リンポチェはグアテマラにいてチベット紙も筆も入手できなかったため、黄色い原稿用紙に練りに練った文章を書いて送った。この書簡はダライラマ14世の手許に届き、リンポチェは無事文字通りニューヨークにいく切符を手に入れることができた。
ダライラマ14世はリンポチェが書簡の中にかいた
「私たちは文化大革命と『宗教改革』を口実にしっかり修行せず、その結果私たちの来世を害している」という言葉に特に感銘を受けて周りにもその件をみせた。リンポチェが中国の高級官僚になっても中国風の考え方に染まらず、仏教に対する誠実な思いが溢れていたことに感動したのだと思う。
気さくなダライラマ14世はインドに亡命してからは儀式ばった拝礼を「あー、しなくていいから、いいから」と廃していたものの、アジャ・リンポチェの回想録には、昔ながらのダライラマへの正式な礼を記してくれているので個人的には面白かった。たとえばこの手紙の書き方以外にもダライラマ法王と面会する際には俗人も僧侶も正装すること、五体投地をすること、俗人が弁髪をもっている場合はそれをほどいて帰依を示すこと、などである。
ここで私はふと、パソコンの中にダライラマ13世が大谷光瑞にだした書簡のpdfがあったことを思い出し、リンポチェがのべたような書式で書いているかどうか確かめてみようと思った。
草稿のpdfをA3用紙に打ち出して余白をきりとって、まず半分に折ってみた。おお、真ん中の行の上に折り目がくる。次に、それを半分、さらに半分とおっていくと最後が三分割になったのでぐりぐり三分割に折り目をつけて開いて数えると、やったー! 24折りになっている。アジャ・リンポチェのおっしゃった通りである。
そして、「小生(gus pa)」から始まる本文が何行目からはじまるか数えると(wkwk)、やったー下から16折り目からである。チベット側は大谷光瑞に敬意を表して書簡を書いていることが確認できた。
以上、現場からお伝えしました。
昨年出版された『アジャ・リンポチェ回想録』には、リンポチェが1998年のアメリカ亡命に至るまでの苦難の半生が綴られている。リンポチェは亡命前は中国仏教協会の副会長であり、外交パスポートも携帯する高位の役人であったため、その証言内容は共産党のチベット仏教界に対するしめつけの数々を具体的に明らかにし一級の歴史資料となっている。

彼が高級官僚の地位を捨てて亡命した理由は、本人の弁によると、幼少の頃に父を殺されたことに始まり、様々なものがつみあがった結果であるが、直接の原因は中国政府が擁立したパンチェンラマ11世を強制的に承認させられ、その教師になれと命令されたことにある。
リンポチェは我慢できずに中国と国交のなかったグアテマラにまず逃れた。しかし、ノープランだったので途方にくれていると、華僑の弟子クリスティーンさんが、「ダライラマ14世に手紙を書いてくださったら、私がダラムサラまでもっていきます」というので、リンポチェ、ナイスアィディア! と手紙を書くこととした。
以下、回想録の記述を見てみよう。
法王に送る手紙というのは非常にフォーマルな文書だ。統一規格の大判チベット紙を使って、さら24折りに折って、16折り目から本文を書き始めなければならない。上の空白の部分は、法王の崇高な地位を尊敬することを表している。
しかも必ずとがった竹ペン。つまりチベット筆に墨汁をつけてかかなければならない。そうやって初めて一文字一文字がきちんとそろってきれいに見える。それが伝統的なダライ・ラマ尊者への手紙の様式である。
しかし、リンポチェはグアテマラにいてチベット紙も筆も入手できなかったため、黄色い原稿用紙に練りに練った文章を書いて送った。この書簡はダライラマ14世の手許に届き、リンポチェは無事文字通りニューヨークにいく切符を手に入れることができた。
ダライラマ14世はリンポチェが書簡の中にかいた
「私たちは文化大革命と『宗教改革』を口実にしっかり修行せず、その結果私たちの来世を害している」という言葉に特に感銘を受けて周りにもその件をみせた。リンポチェが中国の高級官僚になっても中国風の考え方に染まらず、仏教に対する誠実な思いが溢れていたことに感動したのだと思う。
気さくなダライラマ14世はインドに亡命してからは儀式ばった拝礼を「あー、しなくていいから、いいから」と廃していたものの、アジャ・リンポチェの回想録には、昔ながらのダライラマへの正式な礼を記してくれているので個人的には面白かった。たとえばこの手紙の書き方以外にもダライラマ法王と面会する際には俗人も僧侶も正装すること、五体投地をすること、俗人が弁髪をもっている場合はそれをほどいて帰依を示すこと、などである。
ここで私はふと、パソコンの中にダライラマ13世が大谷光瑞にだした書簡のpdfがあったことを思い出し、リンポチェがのべたような書式で書いているかどうか確かめてみようと思った。
草稿のpdfをA3用紙に打ち出して余白をきりとって、まず半分に折ってみた。おお、真ん中の行の上に折り目がくる。次に、それを半分、さらに半分とおっていくと最後が三分割になったのでぐりぐり三分割に折り目をつけて開いて数えると、やったー! 24折りになっている。アジャ・リンポチェのおっしゃった通りである。
そして、「小生(gus pa)」から始まる本文が何行目からはじまるか数えると(wkwk)、やったー下から16折り目からである。チベット側は大谷光瑞に敬意を表して書簡を書いていることが確認できた。
以上、現場からお伝えしました。
2017年チベット関係ニュース
早いもので今年ももうすぐ終わる。いつもはちょっと寂しい気がするのに今年はろくな事がなかったので(ついでに言えば去年もろくなことはなかった)、年が改まるのが待ち遠しい。来年はきっとよくなる。絶対よくなる。
さあ、気を取り直して、お待ちかね、2018年のチベット・カレンダーが出ました。A4サイズで1000円です。チベットの祭り、ダライラマ法王、チベット高原の美しい風景などがあなたに一年よりそってくれます。こちらの頁からお申し込みができます。



さて、今年も独断と偏見で選んだ恒例のチベット三大ニュース! 時系列でいきます。
1. 1月27日 エリオット・スパーリング急死
2. ダライラマ法王が外遊を二回キャンセル。8月17から20日に予定されていたボツワナ訪問、11月に予定されていた日本訪問も中止。
3. 9/11 ダライラマ、ロヒンギャ危機でアウンサン・スーチー氏に平和的解決を促す。
1. エリオット・スパーリングはユダヤ系アメリカ人のチベット史家で、歴史研究でもフリー・チベット活動でもチベット界を牽引していたので、突然の死はチベット人を悲しませた。アメリカはフリー・チベットの本山なので、はやく彼をつぐような逸材の歴史家にして活動家が台頭してほしい(切実)。
2. 今年法王様が二回海外訪問をキャンセルされたことで、不謹慎なメディアはハゲタカのようにダライラマ15世に関する話題を口にしはじめた。まあいうても1959年にダライラマ14世が亡命した直後から、「最後のダライラマ」という失礼なワードがかけめぐり、以後もダライラマが、体を壊したり、予定をキャンセルしたりすると、かならず次代のダライラマについての議論はでていたので、今にはじまったことではない。さすがに観音菩薩さまだけあって、チベット史上最悪の時代を生きているチベット人のためにもっとも長寿なダライラマとなり、いまも基本的にはお元気である。このようなキャンセルが起きてしまうのは、一つにはダライラマの側近のスケジューリング能力が極端に低いことがあげられる。
普通に考えて8月にアフリカ、9月にロンドン、イタリア、北欧と訪問して、一ヶ月間かいてすぐに日本とかあの御年の人にくむ日程ではない。今でもダライラマにビザをおろす国力の無い華僑とか、タイ人の仏教徒はみずからダラムサラに赴いて法を授かっているので、個人的にはこれからは日本人も有志が出向くスタイルにする方が法王のお体に触らなくていいと思う。
2008年にダライラマ法王が政治のトップから退いたのは、チベット人が彼の力をかりずとも自分の力で社会を運営していけるように準備期間をつくるためであった。まもってくれる国もなく、楽ではない環境にいるチベット人の方がわれわれよりはるかにダライラマの存在によって救われている。だから、彼らの気持ちを考えれば、外野、とくにマスコミはダライラマの来世をうんぬんを中国VSチベットの安易な政治ネタレベルで扱わないでほしい。
すでに〔もっとも情報が遅れていた〕日本でもチベットが中国共産党に「平和解放」されたというプロパガンダを信じる人はほぼいなくなったし、多くの人がチベット仏教を通じて仏教思想のエッセンスを理解できるようにもなった。これからはこの人類共通の精神文明をその価値のわかるものみなで支えていくことを考えなければならない。
3. ロヒンギャは直接チベットに関係していないが、ミャンマーはチベットと同じく仏教国であり、ミャンマー民主化の象徴であるアウンサン・スーチー氏が自宅軟禁されていた頃、ダライラマやツツ大主教がその解放のために奔走していたこともありあげた。輪廻やカルマを信じる仏教徒でもいろいろな条件が重なるとこうなってしまうという、人間の業の強さをこの問題では感じる。
最後に、フリチベ・カレンダーについていた、「中国入国禁止をくらった有名人リスト」その出禁の理由を簡単に解説しましょう。中国当局の鎖国っぷりがようくわかります。18世紀にマカートニーが「北京にすんで貿易したいです」って言ったら、
乾隆帝「中国に住んで中国人と同じ格好して、二度とイギリスに戻らず中国の法に従ってイギリスとも交流しないならいいよ」ていってたことを激しく思い出しました。
レディ・ガガ 2016年にダライラマと会見した。
ケイティ・ペリー 2015年に台湾コンサートで、中華民国の国旗をふり、学生運動を象徴するひまわり(太陽花)をもったから。
マルーン5 ダライラマ法王80才の誕生日に祝賀ツイートをした。
ビョーク、オアシスらはフリーダム・チベット・コンサートに出演したから
シャロン・ストーン 2007年に四川大地震が起きた際「地震は中国のチベット自治区に対する扱いのカルマ」と発言したから。
17年のミス・カナダ、アナスタシア・リン 中国のメディアは最初は中華系の快挙!と大騒ぎしたくせに、彼女が中国の一党独裁や言論規制を批判するスピーチを国連でしたら、あとはご想像にまかせます。
ハリソン・フォード 中国における人権侵害を批判。スターウォーズの主役でも関係なし。
リチャード・ギア 言わずとしれたハリウッドでもっともまじめな仏教行者。
Selena Gomez インスタにダライラマとの写真をアップし2016年にビザ下りず。
ボンジョビ ダライマの映像をコンサートでたびたびつかって2015年にビザおりず。
マーチン・スコセッシ ダライラマ14世の自伝を映画化した「クンドゥン」の監督。アカデミー賞監督だって関係なし。
では、来年がみなさまにとってよい御年でありますように。
さあ、気を取り直して、お待ちかね、2018年のチベット・カレンダーが出ました。A4サイズで1000円です。チベットの祭り、ダライラマ法王、チベット高原の美しい風景などがあなたに一年よりそってくれます。こちらの頁からお申し込みができます。



さて、今年も独断と偏見で選んだ恒例のチベット三大ニュース! 時系列でいきます。
1. 1月27日 エリオット・スパーリング急死
2. ダライラマ法王が外遊を二回キャンセル。8月17から20日に予定されていたボツワナ訪問、11月に予定されていた日本訪問も中止。
3. 9/11 ダライラマ、ロヒンギャ危機でアウンサン・スーチー氏に平和的解決を促す。
1. エリオット・スパーリングはユダヤ系アメリカ人のチベット史家で、歴史研究でもフリー・チベット活動でもチベット界を牽引していたので、突然の死はチベット人を悲しませた。アメリカはフリー・チベットの本山なので、はやく彼をつぐような逸材の歴史家にして活動家が台頭してほしい(切実)。
2. 今年法王様が二回海外訪問をキャンセルされたことで、不謹慎なメディアはハゲタカのようにダライラマ15世に関する話題を口にしはじめた。まあいうても1959年にダライラマ14世が亡命した直後から、「最後のダライラマ」という失礼なワードがかけめぐり、以後もダライラマが、体を壊したり、予定をキャンセルしたりすると、かならず次代のダライラマについての議論はでていたので、今にはじまったことではない。さすがに観音菩薩さまだけあって、チベット史上最悪の時代を生きているチベット人のためにもっとも長寿なダライラマとなり、いまも基本的にはお元気である。このようなキャンセルが起きてしまうのは、一つにはダライラマの側近のスケジューリング能力が極端に低いことがあげられる。
普通に考えて8月にアフリカ、9月にロンドン、イタリア、北欧と訪問して、一ヶ月間かいてすぐに日本とかあの御年の人にくむ日程ではない。今でもダライラマにビザをおろす国力の無い華僑とか、タイ人の仏教徒はみずからダラムサラに赴いて法を授かっているので、個人的にはこれからは日本人も有志が出向くスタイルにする方が法王のお体に触らなくていいと思う。
2008年にダライラマ法王が政治のトップから退いたのは、チベット人が彼の力をかりずとも自分の力で社会を運営していけるように準備期間をつくるためであった。まもってくれる国もなく、楽ではない環境にいるチベット人の方がわれわれよりはるかにダライラマの存在によって救われている。だから、彼らの気持ちを考えれば、外野、とくにマスコミはダライラマの来世をうんぬんを中国VSチベットの安易な政治ネタレベルで扱わないでほしい。
すでに〔もっとも情報が遅れていた〕日本でもチベットが中国共産党に「平和解放」されたというプロパガンダを信じる人はほぼいなくなったし、多くの人がチベット仏教を通じて仏教思想のエッセンスを理解できるようにもなった。これからはこの人類共通の精神文明をその価値のわかるものみなで支えていくことを考えなければならない。
3. ロヒンギャは直接チベットに関係していないが、ミャンマーはチベットと同じく仏教国であり、ミャンマー民主化の象徴であるアウンサン・スーチー氏が自宅軟禁されていた頃、ダライラマやツツ大主教がその解放のために奔走していたこともありあげた。輪廻やカルマを信じる仏教徒でもいろいろな条件が重なるとこうなってしまうという、人間の業の強さをこの問題では感じる。
最後に、フリチベ・カレンダーについていた、「中国入国禁止をくらった有名人リスト」その出禁の理由を簡単に解説しましょう。中国当局の鎖国っぷりがようくわかります。18世紀にマカートニーが「北京にすんで貿易したいです」って言ったら、
乾隆帝「中国に住んで中国人と同じ格好して、二度とイギリスに戻らず中国の法に従ってイギリスとも交流しないならいいよ」ていってたことを激しく思い出しました。
レディ・ガガ 2016年にダライラマと会見した。
ケイティ・ペリー 2015年に台湾コンサートで、中華民国の国旗をふり、学生運動を象徴するひまわり(太陽花)をもったから。
マルーン5 ダライラマ法王80才の誕生日に祝賀ツイートをした。
ビョーク、オアシスらはフリーダム・チベット・コンサートに出演したから
シャロン・ストーン 2007年に四川大地震が起きた際「地震は中国のチベット自治区に対する扱いのカルマ」と発言したから。
17年のミス・カナダ、アナスタシア・リン 中国のメディアは最初は中華系の快挙!と大騒ぎしたくせに、彼女が中国の一党独裁や言論規制を批判するスピーチを国連でしたら、あとはご想像にまかせます。
ハリソン・フォード 中国における人権侵害を批判。スターウォーズの主役でも関係なし。
リチャード・ギア 言わずとしれたハリウッドでもっともまじめな仏教行者。
Selena Gomez インスタにダライラマとの写真をアップし2016年にビザ下りず。
ボンジョビ ダライマの映像をコンサートでたびたびつかって2015年にビザおりず。
マーチン・スコセッシ ダライラマ14世の自伝を映画化した「クンドゥン」の監督。アカデミー賞監督だって関係なし。
では、来年がみなさまにとってよい御年でありますように。
チベットの土地神さま(ユラ)祭り
9日(土)は、ロディ・ギャツォ(34)監督が故郷の村のお祭りをとった「ぼくの村は天空にある」を見に行った。ロディ・ギャツォ氏はカム(東チベット)のポンダ村(tshva ba spom mda') に生まれ、17才でラサにでて、そこで日本女性と知り合い2007年に来日。日本で中学・高校・大学とでて現在は日本語はペラペラである。今回の映像は2010年に撮影されたもので日本の支援者たちがいろいろ協力し現在の形におさまった。聴衆はリタイア世代が多い。
彼が治めた映像はポンダ村のユラ(yul lha)、すなわち土地神様のおまつりである。
ユラは里山の頂上近くの塚にささったポールの上に宿っていて、普段は近寄ってはならないとされているのが、一年に一回の祭りの際にはこの塚の周りにみなで集う。
以下、映像自体やアフタートークで聞いたお話のうち面白いと思った部分を抽出する。それは主に二点に分かれ、映像のメイン・テーマである土地神ユラについて、もう一点は中国による近代化がこの地域にもたらした変容についてである。

ユラは神であり世俗内の存在である。従って、人間の願い事を聞いてくれることもあるが、祟ることもある。たとえば街にでて祭りに参加できない人に祟ったりするため、参加できない人はお香やタルチョーを知り合いに託して祭りに参加してもらう。ラマも土地神は仏のように五体投地で拝んではいけないという。

ユラの姿はそのユラがやどる地形を人の姿にイメージしたものらしい。たとえば赤い山に住むユラだと赤い顔の人の姿をとる。ロディさんの村には脇の下から逆さに後ろをみるとユラの世界が見えるという老人がいる。ある時、そのおじいさんが「どこそこのユラが荷物をしょってかえってきて自分の家をたてかえた」というと、その直後に、ユラの住む山の近くの寺の再建が中国政府によって許可されたのだという。以来、おじいさんは一目置かれるようになった。
祭りの手順はこうである。まず、男たち(昔は女性も参加していたが最近は女性は馬に乗らなくなったので男ばかりになった)は山頂近くにあるユラの塚にささったポールのまわりを「ラゲルソー」、とみなで叫びながら七回時計回りにまわる。その側では俗人が経典を読誦する。
そのあと中腹でみなで輪になって踊り、食事をともにし、シモネタに興じる。この中腹には家畜が好む背の低い木が生えていて、ロディさんは子供の頃、この木の上で寝ているという小人を探したという。その小人の黄色い帽子を家にもってかえると、夜に小人が帽子を取り返しにくるので、返すことと交換に願いを聞いてもらうのだという。
盗んでおいて言うことを聞かせるとはまさに世俗。
最後に山の麓でみなが参加しての競馬、村の広場とかで歌舞音曲を楽しむ。

さてもう一つ面白かったのは祭りの変容についてである。
1994年、ポンダ村の近くに飛行場ができた。ポンダ村の北には東チベットの中心地チャムドがあるので、事実上、このチャムド空港である。このことにより、道が整備され、若者たちはどんどん村から町へでいいって、もう祭りが維持できない状態であるという。2013年はみな馬ではなくバイクにのって集まってきたので、村長が怒ってバイクを禁止にした。このことに関して聴衆の一人が、
「少子高齢化で日本でも地域の祭りの維持が困難となっていますが、あなたもこうやって街にでてきてますよね。どうしたら伝統の維持とか可能になると思いますか」
と質問為たところ、ロディさんが
「仏教の信仰をきちんと守っていれば何とかなる。」
とおっしゃっていたのが印象的だった。
仏教は世界標準で評価を受けているチベットの文化であり、チベット仏教をきちんと理解したい人は、チベット語を学ばないといけない。このことが、チベット語が死語にならずに続いてきた一つの理由でもある。チベット仏教徒が多くの人口をもつ隣国に併呑されなかったのも、すでにチベット仏教という高度な精神文明があり、漢文明をとりこむ必要がなかったことが大きい。チベット仏教を信仰してればチベット人のアイデンティティは失われないから、結果としてチベット文化は維持される、そういう意味だろうなと感じた。
最近日本で人類学を学ぶチベットの方たちの多くが、自らの故郷をこうして映像に記録したり、研究対象にしたりしている。人類学のフィールドワークは、まずその社会にはいって人間関係を構築し、そこで録音や撮影をすることを意識させない状態を作ることからはじまる。なので、もともとその共同体からでてきたロディさんはもっとも理想的な撮影者である。実際、村の人たちがカメラをまったく意識せず普段の会話やジョークをとばしていたのは新鮮だった。
というわけで非常に面白かったものの、最後に残念な点を一言。あまりよいカメラを用いていないため、風の音が電気的な雑音のようにバリバリと入っておりこれはどうしても直せなかったとのこと。次作もあるというので、今度はもっとよいカメラでお願いします。
彼が治めた映像はポンダ村のユラ(yul lha)、すなわち土地神様のおまつりである。
ユラは里山の頂上近くの塚にささったポールの上に宿っていて、普段は近寄ってはならないとされているのが、一年に一回の祭りの際にはこの塚の周りにみなで集う。
以下、映像自体やアフタートークで聞いたお話のうち面白いと思った部分を抽出する。それは主に二点に分かれ、映像のメイン・テーマである土地神ユラについて、もう一点は中国による近代化がこの地域にもたらした変容についてである。

ユラは神であり世俗内の存在である。従って、人間の願い事を聞いてくれることもあるが、祟ることもある。たとえば街にでて祭りに参加できない人に祟ったりするため、参加できない人はお香やタルチョーを知り合いに託して祭りに参加してもらう。ラマも土地神は仏のように五体投地で拝んではいけないという。

ユラの姿はそのユラがやどる地形を人の姿にイメージしたものらしい。たとえば赤い山に住むユラだと赤い顔の人の姿をとる。ロディさんの村には脇の下から逆さに後ろをみるとユラの世界が見えるという老人がいる。ある時、そのおじいさんが「どこそこのユラが荷物をしょってかえってきて自分の家をたてかえた」というと、その直後に、ユラの住む山の近くの寺の再建が中国政府によって許可されたのだという。以来、おじいさんは一目置かれるようになった。
祭りの手順はこうである。まず、男たち(昔は女性も参加していたが最近は女性は馬に乗らなくなったので男ばかりになった)は山頂近くにあるユラの塚にささったポールのまわりを「ラゲルソー」、とみなで叫びながら七回時計回りにまわる。その側では俗人が経典を読誦する。
そのあと中腹でみなで輪になって踊り、食事をともにし、シモネタに興じる。この中腹には家畜が好む背の低い木が生えていて、ロディさんは子供の頃、この木の上で寝ているという小人を探したという。その小人の黄色い帽子を家にもってかえると、夜に小人が帽子を取り返しにくるので、返すことと交換に願いを聞いてもらうのだという。
盗んでおいて言うことを聞かせるとはまさに世俗。
最後に山の麓でみなが参加しての競馬、村の広場とかで歌舞音曲を楽しむ。

さてもう一つ面白かったのは祭りの変容についてである。
1994年、ポンダ村の近くに飛行場ができた。ポンダ村の北には東チベットの中心地チャムドがあるので、事実上、このチャムド空港である。このことにより、道が整備され、若者たちはどんどん村から町へでいいって、もう祭りが維持できない状態であるという。2013年はみな馬ではなくバイクにのって集まってきたので、村長が怒ってバイクを禁止にした。このことに関して聴衆の一人が、
「少子高齢化で日本でも地域の祭りの維持が困難となっていますが、あなたもこうやって街にでてきてますよね。どうしたら伝統の維持とか可能になると思いますか」
と質問為たところ、ロディさんが
「仏教の信仰をきちんと守っていれば何とかなる。」
とおっしゃっていたのが印象的だった。
仏教は世界標準で評価を受けているチベットの文化であり、チベット仏教をきちんと理解したい人は、チベット語を学ばないといけない。このことが、チベット語が死語にならずに続いてきた一つの理由でもある。チベット仏教徒が多くの人口をもつ隣国に併呑されなかったのも、すでにチベット仏教という高度な精神文明があり、漢文明をとりこむ必要がなかったことが大きい。チベット仏教を信仰してればチベット人のアイデンティティは失われないから、結果としてチベット文化は維持される、そういう意味だろうなと感じた。
最近日本で人類学を学ぶチベットの方たちの多くが、自らの故郷をこうして映像に記録したり、研究対象にしたりしている。人類学のフィールドワークは、まずその社会にはいって人間関係を構築し、そこで録音や撮影をすることを意識させない状態を作ることからはじまる。なので、もともとその共同体からでてきたロディさんはもっとも理想的な撮影者である。実際、村の人たちがカメラをまったく意識せず普段の会話やジョークをとばしていたのは新鮮だった。
というわけで非常に面白かったものの、最後に残念な点を一言。あまりよいカメラを用いていないため、風の音が電気的な雑音のようにバリバリと入っておりこれはどうしても直せなかったとのこと。次作もあるというので、今度はもっとよいカメラでお願いします。
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