法王のいない秋
●前座が本番に熊本講演
キャンセルされなければ11月15日は法王が熊本で復興祈念の講演をされるはずの日であった。この講演はsamaya projectの企画であり、非常に士気の高い方たちが準備をされていたので、前日にはチベットを知る講演会をやり、翌日、法王の本講演を聞くという段取りになっていた。そしてその前座の講演に呼ばれたのが私である。
そういうわけで今回法王様の来日がキャンセルされると、実行委員会の方々の落胆は一通りではなく、せめて前座の講演だけでもやろうという流れが生まれた。私はそれを聞いた時、ちいさーなホールでひっそりと実行委員会の方たちだけ集めて行うのかと思っていたら、何か熊本県医師会館でやるという。
やな予感がした。
熊本空港につくと、お迎えはいいとあれほどいったのに、平岡宏一先生が熊本側の僧侶小山さんとともにきてくださっていた。平岡先生、なぜか麻生副総理みたいな帽子をかぶっており、マフィア風である。空港から市内に向かう車内で小山さんから地震の時のお話を伺う。平岡先生は地震からわずか三日後に学校であつめた義援金をもってジープで現地入りし、その時からのお付き合いだそうである。
ホテルは熊本城の目の前にあるホテル・キャッスル(まんまや)。昭和35年に天皇陛下が熊本にいらした際に建てられたホテルで、以後、皇族の方が熊本にお見えになるたびにお泊まりになっていたが、近年は老朽化が進み、日航ホテルに客を取られ、おいうちをかけるように昨年の地震で傾いて、廃業の危機にさらされた。しかし、由緒あるホテルなので存続をという声をうけて、気合いで改修し今年で58年目を迎えていた。
キャッスルから歩いて会場となる熊本医師会館に向かう。着いてみると建物新しい。入り口にランの鉢植えがどかどか並んでいる。

平岡先生「法王さまをおよびするのは、この会館のこけら落としの意味もあったんですよね」
おいおいおい、このホール立派すぎ。完全に私では役不足。「なんでもっと小さいホールにしてくれなかったんだよおおおぉ」と心の中で叫ぶ。ちなみに熊本の地方紙はダライラマ法王を右翼か何かと勘違いしていて、アンチの記事はのせてくれたものの、一切協力はしてくれなかったので今回の講演も宣伝なし。
というわけで、立派な会場に実行委員会とその関係者の方々、プラスフルファを加えてひっそりとお話させていただきました。平岡先生は入菩薩行論をラマから教わったような形で解説してなかなか面白かった。私はダライラマ14世、一難民から世界の聖者へ、というタイトルでダライラマの人生とその影響力についてお話させていただく。
実行委員会のメンバーは細川氏について熊本にやってきて代々藩医をつとめていた家系の末裔とか、細川氏にくっっいて熊本入りしたお寺の末裔とかで、彼らの地震の時の八面六臂の活躍を聞かせていただくと、昔の支配層がそのまま現在の熊本をしょって立っている。うちのご先祖なんて淡路を明治維新後わりとすぐに飛び出したのに。聴衆よし、会場よしで、ダライラマがお見えになっていたら本当によい集まりになっていたであろう。
翌日、藩医のご子孫K子先生のご案内で熊本城を参観する。熊本城もは細川氏より前に熊本入りをした加藤清正によって建設され、熊本の基盤も加藤清正が整備したため、熊本県人に加藤清正は圧倒的な人気を誇る。お城の中には加藤清正を祭る神社があり、町中に清正公熊本入り●×周年とか記念の年ににたてられた銅像や碑文が見られる。

彼がつくった熊本城は日本三名城の一つに数えられ、神風連の乱でも、西南戦争でも落ちなかった天下の名城である。それが今回の地震では報道されている通りの、くずれっぷりで、小山さんから伺ったお話では「嘘か本当かは知りませんが、加藤清正が作ったところは盤石で、近代に入って補修した部分が今回くずれたと聞きました」
崩れ落ちた石垣の石は等間隔にはならべられて一つ一つに番号がふられており、これを3Dでコンピューターにとりこんで、どの岩とどの岩が組み合わさるのかを計算させるのだそうな。アンコールワットで見た復元法と同じだ。あの床下の土が全部崩れ落ちてもまだ頑張っている櫓は、受験生とかのお守りになりそう。

それから小山さんが空港まで送って下さる。途中震源地の益城町で地震でずれた地形などをみせてくださる。そして神木神社の前で車を降りると、そこにはなんか報道関係者らしい人が三人、何をするでもなく手持ち無沙汰につっ立っている。

この神社は写真の通り全壊しており、一年たった今も被災後の姿のままである。写真をとって門の前に戻ると小山さんが報道の方たちの話していたので、私が「あの人たち何しているんですか」と伺うと、
小山さん「七五三でお参りにくる人を撮りにきているみたいです」
私「いやでも本殿つぶれてますよ」
小山さん「だから復興してがんばっていますっていう絵をとりにきたのでは」
私「復興してないですよ」
そうして再び空港に向かう。途中小山さんから悲しいお話を伺う。
小山さん「法王様がお見えになるというので、特別な法座を特注で作ったんですよ。法王様に座っていだきたかったです。法王様がお座りになることで完成する椅子なんです」
私「それ見てみたいです」
小山さん「木工房山河童でフェイスブックを検索してみてください」
言われたとおりに検索してみると、このページがでた。

この椅子には地・水・火・風の四つのエレメントが象徴されていて、その上にすわる法王様を空=宝珠にみたてた作品であつた。
注文主は五倫塔をイメージし、最後の宝珠を法王様にみたてていたようだが、私が面白いと思ったのはチベットでも法王は直接お名前をいうことは失礼だということで、如意宝珠(yid bzhin nor bu)などの間接的な呼称で呼ばれていることである。
同じ発想にいたるのは、やはり日本も仏教国だからか。
山河童さんに敬意を表してFBのアドレスをあげておきます。
●アジャ・リンポチェ in仙台
ダライラマの来日キャンセルはかくして招聘主に多大なる経済的・精神的な打撃を与えたが、意外な余波が、別の高僧たちをお世話している人々の周囲にも及んだ。
それは、目的を喪失したダライラマ法王日本代表事務所が、自伝の和訳のプロモーションのために来日されていたアジャ・リンポチェの後援をはじめたことに始まった。アジャ・リンポチェの管轄する組織の日本支部のX氏が「格が上がった」と舞い上がった結果、キャパオーバーとなり、いろいろやらかした。アジャ・リンポチェのフォロワーはモンゴル人が多いので遊牧民力でスルーしたものの、そうはいかないのが何事も几帳面に事を進める日本人支援者である。
アジャ・リンポチェは東日本大震災がおきた時、仙台のWさんが主催して松音寺さまで法要・支援を行った。その結果、松音寺には現在、アジャ・リンポチェが故郷の寺からひそかに持ち出した緑ターラー尊が祭られている(ちなみに、松音寺は緑ターラー尊のご朱印を作ったそうなのでマニアはご朱印帳をもってくるべし)。X氏はこのW氏に対してもやらかし、のみならず、Wさんを無視して事をすすめ始めたので、Wさんはお手伝いを降りた。
講演当日、Wさんは複雑な感情を懐きつつ一般参加でリンポチェの話を聞きにいった。すると、冒頭リンポチェは主催者に感謝を表明する場面において、会場を提供してくださった松音寺のご住職についで、Wさんにカターを献じたのである。そして当初の予定では本来の法話の前に関係者だけの精進料理の席が予定されていたのが、会のあと、誰でもが参加できる食事会に内容が変更されていた。アジャ・リンポチェは関係者の誰を叱ることも、外すこともなく、本来の功労者であるWさんをたてたのである。
高徳のラマのまわりでよくおこる、オセロ効果、すまわちまっくろな状況が、リンポチェの言動で一瞬に白に変わっていくというあの現象である。さすがわリンポチェ。
関係者各位、本当にお疲れ様でした。
●カルマパ17世展
25日にはチベット学会で京都に行ったついでに、泉涌寺で行われていたカルマパ17世展をみにいった。カルマパといえば2000年の最初の新聞の一面に亡命したカルマパ17世の写真がのったことを今でも思い出す。あの時14才だったカルマパ17世も今は32才である。彼はダライラマのお膝元のダラムサラのギュト大僧院に滞在しつつ、宗派を主催している。
知る人は知っているが、カルマパはダライラマ14世に認定された今のカルマパともう一人カギュ派の高僧シャマル・リンポチェに認定されたカルマパがいた。二人のカルマパは今のカルマパの認定の根拠となった先代の遺書の真贋をめぐって長く争っていたが、今のカルマパが14才の時、亡命してダライラマの下に至ると一気にこちらがホンモノという空気が強くなり、今年に入ってもう一人のカルマパは還俗をして事実上、カルマパの継承争いは今のカルマパの勝利に終わった感がある。
そんな折のカルマパ展である。

今回の主催は香港チベットハウスで、初日にはダライラマの妹君のジェツンペマ氏とカルマパ17世のお姉さんが来られた。展示会場には今回の展示会の手配をした方がいらして、その方によると、今回の展示会には香港の映画監督ウォン・カーアイ監督とか、女優のフェイ・ウォンとかも関係しているとのこと。
会場では2016年製作のカルマパならびにカギュ派の高僧がオールスターで出演するイメージ法話DVD「乗願再来九百年The 17th Journey of Compassion」がエンドレスでながれていて、これが映像がきれいだし法話もよくまとまっているので買ってもうた。
雰囲気を知っていただくため。さわりを以下にあげておきます。なかなかいいですよ。

「仏教を信仰することはただ一つの宗教、宗派に属することではない。ただ信仰すればいいものではない。自分を知り、世界を知り、真理を追究し、一切のものの苦しみを共有し愛することだ」
「絵に描いた炎になってはいけない。絵の炎は暗闇に入っても周りを照らすことはないが、ホンモノの炎は暗闇の中で周囲を照らす。」
「内なる世界と外なる世界はつながっている。心が暗いとその人がみる世界は暗い。心が明るい人は世界を明るくみる。」
「私が〔カルマパの主催者に代々伝わる〕黒帽子を戴いた時、何ももたないものが苦しまないように、とねがった」

キャンセルされなければ11月15日は法王が熊本で復興祈念の講演をされるはずの日であった。この講演はsamaya projectの企画であり、非常に士気の高い方たちが準備をされていたので、前日にはチベットを知る講演会をやり、翌日、法王の本講演を聞くという段取りになっていた。そしてその前座の講演に呼ばれたのが私である。
そういうわけで今回法王様の来日がキャンセルされると、実行委員会の方々の落胆は一通りではなく、せめて前座の講演だけでもやろうという流れが生まれた。私はそれを聞いた時、ちいさーなホールでひっそりと実行委員会の方たちだけ集めて行うのかと思っていたら、何か熊本県医師会館でやるという。
やな予感がした。
熊本空港につくと、お迎えはいいとあれほどいったのに、平岡宏一先生が熊本側の僧侶小山さんとともにきてくださっていた。平岡先生、なぜか麻生副総理みたいな帽子をかぶっており、マフィア風である。空港から市内に向かう車内で小山さんから地震の時のお話を伺う。平岡先生は地震からわずか三日後に学校であつめた義援金をもってジープで現地入りし、その時からのお付き合いだそうである。
ホテルは熊本城の目の前にあるホテル・キャッスル(まんまや)。昭和35年に天皇陛下が熊本にいらした際に建てられたホテルで、以後、皇族の方が熊本にお見えになるたびにお泊まりになっていたが、近年は老朽化が進み、日航ホテルに客を取られ、おいうちをかけるように昨年の地震で傾いて、廃業の危機にさらされた。しかし、由緒あるホテルなので存続をという声をうけて、気合いで改修し今年で58年目を迎えていた。
キャッスルから歩いて会場となる熊本医師会館に向かう。着いてみると建物新しい。入り口にランの鉢植えがどかどか並んでいる。

平岡先生「法王さまをおよびするのは、この会館のこけら落としの意味もあったんですよね」
おいおいおい、このホール立派すぎ。完全に私では役不足。「なんでもっと小さいホールにしてくれなかったんだよおおおぉ」と心の中で叫ぶ。ちなみに熊本の地方紙はダライラマ法王を右翼か何かと勘違いしていて、アンチの記事はのせてくれたものの、一切協力はしてくれなかったので今回の講演も宣伝なし。
というわけで、立派な会場に実行委員会とその関係者の方々、プラスフルファを加えてひっそりとお話させていただきました。平岡先生は入菩薩行論をラマから教わったような形で解説してなかなか面白かった。私はダライラマ14世、一難民から世界の聖者へ、というタイトルでダライラマの人生とその影響力についてお話させていただく。
実行委員会のメンバーは細川氏について熊本にやってきて代々藩医をつとめていた家系の末裔とか、細川氏にくっっいて熊本入りしたお寺の末裔とかで、彼らの地震の時の八面六臂の活躍を聞かせていただくと、昔の支配層がそのまま現在の熊本をしょって立っている。うちのご先祖なんて淡路を明治維新後わりとすぐに飛び出したのに。聴衆よし、会場よしで、ダライラマがお見えになっていたら本当によい集まりになっていたであろう。
翌日、藩医のご子孫K子先生のご案内で熊本城を参観する。熊本城もは細川氏より前に熊本入りをした加藤清正によって建設され、熊本の基盤も加藤清正が整備したため、熊本県人に加藤清正は圧倒的な人気を誇る。お城の中には加藤清正を祭る神社があり、町中に清正公熊本入り●×周年とか記念の年ににたてられた銅像や碑文が見られる。

彼がつくった熊本城は日本三名城の一つに数えられ、神風連の乱でも、西南戦争でも落ちなかった天下の名城である。それが今回の地震では報道されている通りの、くずれっぷりで、小山さんから伺ったお話では「嘘か本当かは知りませんが、加藤清正が作ったところは盤石で、近代に入って補修した部分が今回くずれたと聞きました」
崩れ落ちた石垣の石は等間隔にはならべられて一つ一つに番号がふられており、これを3Dでコンピューターにとりこんで、どの岩とどの岩が組み合わさるのかを計算させるのだそうな。アンコールワットで見た復元法と同じだ。あの床下の土が全部崩れ落ちてもまだ頑張っている櫓は、受験生とかのお守りになりそう。

それから小山さんが空港まで送って下さる。途中震源地の益城町で地震でずれた地形などをみせてくださる。そして神木神社の前で車を降りると、そこにはなんか報道関係者らしい人が三人、何をするでもなく手持ち無沙汰につっ立っている。

この神社は写真の通り全壊しており、一年たった今も被災後の姿のままである。写真をとって門の前に戻ると小山さんが報道の方たちの話していたので、私が「あの人たち何しているんですか」と伺うと、
小山さん「七五三でお参りにくる人を撮りにきているみたいです」
私「いやでも本殿つぶれてますよ」
小山さん「だから復興してがんばっていますっていう絵をとりにきたのでは」
私「復興してないですよ」
そうして再び空港に向かう。途中小山さんから悲しいお話を伺う。
小山さん「法王様がお見えになるというので、特別な法座を特注で作ったんですよ。法王様に座っていだきたかったです。法王様がお座りになることで完成する椅子なんです」
私「それ見てみたいです」
小山さん「木工房山河童でフェイスブックを検索してみてください」
言われたとおりに検索してみると、このページがでた。

この椅子には地・水・火・風の四つのエレメントが象徴されていて、その上にすわる法王様を空=宝珠にみたてた作品であつた。
注文主は五倫塔をイメージし、最後の宝珠を法王様にみたてていたようだが、私が面白いと思ったのはチベットでも法王は直接お名前をいうことは失礼だということで、如意宝珠(yid bzhin nor bu)などの間接的な呼称で呼ばれていることである。
同じ発想にいたるのは、やはり日本も仏教国だからか。
山河童さんに敬意を表してFBのアドレスをあげておきます。
●アジャ・リンポチェ in仙台
ダライラマの来日キャンセルはかくして招聘主に多大なる経済的・精神的な打撃を与えたが、意外な余波が、別の高僧たちをお世話している人々の周囲にも及んだ。
それは、目的を喪失したダライラマ法王日本代表事務所が、自伝の和訳のプロモーションのために来日されていたアジャ・リンポチェの後援をはじめたことに始まった。アジャ・リンポチェの管轄する組織の日本支部のX氏が「格が上がった」と舞い上がった結果、キャパオーバーとなり、いろいろやらかした。アジャ・リンポチェのフォロワーはモンゴル人が多いので遊牧民力でスルーしたものの、そうはいかないのが何事も几帳面に事を進める日本人支援者である。
アジャ・リンポチェは東日本大震災がおきた時、仙台のWさんが主催して松音寺さまで法要・支援を行った。その結果、松音寺には現在、アジャ・リンポチェが故郷の寺からひそかに持ち出した緑ターラー尊が祭られている(ちなみに、松音寺は緑ターラー尊のご朱印を作ったそうなのでマニアはご朱印帳をもってくるべし)。X氏はこのW氏に対してもやらかし、のみならず、Wさんを無視して事をすすめ始めたので、Wさんはお手伝いを降りた。
講演当日、Wさんは複雑な感情を懐きつつ一般参加でリンポチェの話を聞きにいった。すると、冒頭リンポチェは主催者に感謝を表明する場面において、会場を提供してくださった松音寺のご住職についで、Wさんにカターを献じたのである。そして当初の予定では本来の法話の前に関係者だけの精進料理の席が予定されていたのが、会のあと、誰でもが参加できる食事会に内容が変更されていた。アジャ・リンポチェは関係者の誰を叱ることも、外すこともなく、本来の功労者であるWさんをたてたのである。
高徳のラマのまわりでよくおこる、オセロ効果、すまわちまっくろな状況が、リンポチェの言動で一瞬に白に変わっていくというあの現象である。さすがわリンポチェ。
関係者各位、本当にお疲れ様でした。
●カルマパ17世展
25日にはチベット学会で京都に行ったついでに、泉涌寺で行われていたカルマパ17世展をみにいった。カルマパといえば2000年の最初の新聞の一面に亡命したカルマパ17世の写真がのったことを今でも思い出す。あの時14才だったカルマパ17世も今は32才である。彼はダライラマのお膝元のダラムサラのギュト大僧院に滞在しつつ、宗派を主催している。
知る人は知っているが、カルマパはダライラマ14世に認定された今のカルマパともう一人カギュ派の高僧シャマル・リンポチェに認定されたカルマパがいた。二人のカルマパは今のカルマパの認定の根拠となった先代の遺書の真贋をめぐって長く争っていたが、今のカルマパが14才の時、亡命してダライラマの下に至ると一気にこちらがホンモノという空気が強くなり、今年に入ってもう一人のカルマパは還俗をして事実上、カルマパの継承争いは今のカルマパの勝利に終わった感がある。
そんな折のカルマパ展である。

今回の主催は香港チベットハウスで、初日にはダライラマの妹君のジェツンペマ氏とカルマパ17世のお姉さんが来られた。展示会場には今回の展示会の手配をした方がいらして、その方によると、今回の展示会には香港の映画監督ウォン・カーアイ監督とか、女優のフェイ・ウォンとかも関係しているとのこと。
会場では2016年製作のカルマパならびにカギュ派の高僧がオールスターで出演するイメージ法話DVD「乗願再来九百年The 17th Journey of Compassion」がエンドレスでながれていて、これが映像がきれいだし法話もよくまとまっているので買ってもうた。
雰囲気を知っていただくため。さわりを以下にあげておきます。なかなかいいですよ。

「仏教を信仰することはただ一つの宗教、宗派に属することではない。ただ信仰すればいいものではない。自分を知り、世界を知り、真理を追究し、一切のものの苦しみを共有し愛することだ」
「絵に描いた炎になってはいけない。絵の炎は暗闇に入っても周りを照らすことはないが、ホンモノの炎は暗闇の中で周囲を照らす。」
「内なる世界と外なる世界はつながっている。心が暗いとその人がみる世界は暗い。心が明るい人は世界を明るくみる。」
「私が〔カルマパの主催者に代々伝わる〕黒帽子を戴いた時、何ももたないものが苦しまないように、とねがった」

アジャ・リンポチェの『回想録』を読んで
10月は自転車から落ちたり、止まらない鼻血がでて焼灼したりといろいろ大変でした。気を取り直して、十一月です。下旬にカルマパにささげる展覧会が京都の名刹泉涌寺様であります。紹介文によるとカルマパ自身とアーティストによる写真、書、絵画ならびに17代の転生に光をあてた43分の記録映画も上映されるとのこと。面白そうなので期間中に行ってみたいと思う。
あと、11月14日の熊本公演も日が近づいてきたのでも一度告知。無料ですのでお近くのかたどうぞ。

最後に、11月3日に護国寺で行われた講演の報告をかねてアジャ・リンポチェの回想録の紹介を。
清風学園の時も思ったのだが、なぜか来賓に大使館関係者とか、学者が多い。とくに「おっ」と思ったのは、寺本婉雅師のお孫さん寺本正さんがお見えだったこと。知らない人のために解説すると寺本婉雅とはアジャ・リンポチェの先々代を日本に招待し、ダライラマ13世と1906年にクンブムで、1908年に五台山で会見した東本願寺の民間工作員僧である。講演のあと、ご挨拶して、祖父君のことについて伺うと、正さんが生まれる十年前になくなっているので、まったくわかりませんと言われた(笑)。

講演は中国語で行われアジャ・リンポチェがギャグをいうと、日本語通訳が入る前に笑っている人がかなりいたので聴衆は中国籍のモンゴル人が多数いたと思われる。
当代のアジャリンポチェは8世で、先代のパンチェンラマ10世と関係が深い。パンチェンラマについて簡単に説明すると、ダライラマは中央チベットにあり政治権力を掌握し、一方パンチェンラマはシガツェを中心とするツァン地域に荘園を持ち代々学者として尊敬を集めてきた。百年前の1904年にイギリスがチベットに侵攻した時、ダライ・ラマがモンゴルに亡命すると、清朝官僚はダライラマの称号を剥奪しパンチェンラマ9世をダライラマ13世の代わりにしようとした。しかし、パンチェンラマは固辞しチベット政府も国民も受け入れなかったため、結局ダライラマ13世が後事を託したガンデン座主を追認させられた。
ダライラマ13世が1913年にチベットに帰還すると、当然のことながらダライラマ13世とパンチェンラマ9世の関係は微妙なものとなった。やがてパンチェンラマは中華民国に亡命しそのままなくなった。ダライラマとパンチェンラマが再びまみえるの1951年に、人民解放軍とともにパンチェンラマ10世がラサ入りした時であり、ともに代替わりした後のことであった。
1959年にダライラマ14世がインドに亡命した後もパンチェンラマ10世は中国に残り続けた。文革の時は軟禁状態となり、結婚もさせられ、それでも文革終了後は破壊されたチベット僧院のたてなおしに励んだ。結果、パンチェンラマは本土チベット人の心のよりどころとなり、今でもその遺影は多くの僧院で目にすることができる。
この10世パンチェンの師匠がアジャ・リンポチェの叔父さんのギャヤ・リンポチェである。
当代のアジャ・リンポチェは8世であり、人民解放軍がチベットに侵攻した1950年にアムド(東北チベット)に生まれた。1952年に先代の生まれ変わりに認定されたが、認定を行ったのはパンチェンラマ10世であった。パンチェンラマはリストを一目みて「この子だ」といったが、師であるギャヤ・リンポチェは自分の甥をひいきして選んだと言われることを恐れ、公平にタクディル占いで選ぶように進言して、その占いを行ってもやはり彼の名前がでたとのことである。
アジャ・リンポチェの子供時代は、大躍進政策、宗教改革、文化大革命が続き、中国共産党による殺戮と文化破潰の嵐にもみくちゃにされた。アジャ・リンポチェの父親は彼がわずか7才の時に連行されたまま他の多くの男達同様帰ってこなかった(写真はリンポチェが最後にあった時のお父さん)。
僧院は閉鎖され、一般の僧は強制還俗、高僧は投獄され、アジャ・リンポチェも僧衣を脱がされ小学校にいれられてビオネールの格好をさせられた(回想録の裏表紙の写真がそれ)。文化大革命の頃は土木作業と農作業にあけくれ、仏教の勉強は隠れて独学するしかなかった。
文革が終わると解放されたパンチェンラマ10世とともに破壊された寺院の復興にあたり、共産党の仏教組織でトントン拍子に出世したものの、1989年にパンチェンラマ10世が不審死をとげ、その直後に天安門事件がおき、おまけにダライラマ14世がノーベル賞をとり、つまりは、共産党が国際的に孤立しダライラマの国際的地位があがったことによって暗転する。
共産党はそれまで転生僧の認定を行う際には「ダライラマの意見を打診する」というまっとうな政策をとっていたのが、天安門事件で硬化し、ダライラマが指名したパンチェンラマ11世を否定するため、パンチェンラマは籤できめると言い出したのだ。そして、ダライラマの選んだ子供ぬきで候補者をあつめ、共産党員の子供が選ばれるように籤に細工をした。アジャ・リンポチェはこの詐欺っぷりについても回想録の中で具体的に暴露している。
こうして登場するのが有名な「偽パンチェン、ゲルツェンノルブ」である。
そのうえ、共産党はアジャ・リンポチェをパンチェンラマ11世の師匠に任命しようとした。アジャ・リンポチェの伯父さんのジャヤ・リンポチェがパンチェンラマ10世の先生であったため、それにちなむことで偽パンチェンに箔を付けようとしたのである。ここで、アジャ・リンポチェの忍耐は限界を迎えアメリカへ政治亡命したのである。
アジャ・リンポチェは中国では高級官僚として非常に恵まれた生活をしていた。しかし、その地位も僧院もスタッフも信者もすべてを捨てて、言葉の通じないアメリカで一から生活を築き直すことを選んだのである。このことだけでも中国政府が彼に強いたことがいかに彼の忍耐を越えていたかがよくわかる。
彼が亡命後、江沢民に手紙をだしてダライラマと対話するように進言したところ、やっときた返事は、彼の手紙の内容ガン無視で、あなたの僧院であるクンブムには名月がかかって、黄河の水は世界で一番美しいよという七言絶句の漢詩であった。直接話法でいえば、「かえってこい」だろう。
私はこの件をよんだ時、ダライラマ14世に対して周恩来がいった言葉を思い出した。1957年、ダライラマが亡命を迷っていることを察した周恩来は「仏像は仏壇があるから拝まれる。チベットという仏壇からでたらあなたはただの人だ」みたいなことをいって暗に釘を刺した。しかし、江沢民にしろ周恩来にしろ、こういうことをいっている時点でいかに仏教について無知・無理解かがよくわかる。
ダライラマにせよ、アジャ・リンポチェにせよ彼らがなぜ尊敬されるのかといえば、彼らがりっぱな僧院の中で多くの信者に囲まれているからではない。彼らの学び身につけている仏教自体が普遍的であり、それを体現しているから尊敬されているのである。それが証拠にダライラマ14世もアジャ・リンポチェ8世も、生まれた土地を離れ、宮殿も僧院もみな失って一難民となっても、現在はも故郷の人ばかりではなく多種多様な人たちの尊敬を集めて、より多くの人々に仏教の教えを届け慈善活動に励んで影響力を失うことはない。
共産党の高級官僚なら金や地位がなくなればそれこそただの人だが、〔まともな〕僧侶は違う。楽な生活を望むのであればそもそも亡命しない。亡命されたくなかったら、彼らが自分たちが尊敬している人の名を口にだして言えるように、また、彼らが価値あるものと認めている仏教を自由に学び、修行できる環境を作ればいいのだ。黙っていてもみな亡命先から喜んで戻ってくる。チベット人の文化をきちんと理解して尊重すれば誰も焼身自殺で抗議したりしない。
回想録の見所は中国共産党のチベット地域や仏教界に対する政策がつねに的外れで強権的でそのような中でも笑顔をたやさず何とか中国と共存していこうとする本土チベット人の姿であろう。現時点で回想録は英語、台湾中国語、モンゴル語、日本語に翻訳されて各国の人に読まれている。現在はロシア語訳を準備中だという。アジャ・リンポチェは回想録の印税を慈善事業に使っているとのことである。
あと、11月14日の熊本公演も日が近づいてきたのでも一度告知。無料ですのでお近くのかたどうぞ。

●カルマパ17世 慈しみの眼差し チベット仏教・文化芸術展
・主催 チベット・ハウス 香港
・日時: 11/16(火) - 26 (日) 9時~17時
・御寺 泉涌寺
・主催 チベット・ハウス 香港
・日時: 11/16(火) - 26 (日) 9時~17時
・御寺 泉涌寺
●熊本地震復興祈念仏教講演会「21世紀を生きる為の慈悲と利他の教え」
【日時】11月14日(火)
【場所】 熊本県医師会館 2階~3階 大ホール 熊本市花畑町1番13号
18:40 第一部 平岡 宏一先生(清風学園専務理事・校長 / 種智院大学客員教授) 講 演
演題「菩提心の功徳 ~「死に向かって心を整える」ということ ~」
19:40 第二部 石濱裕美子(早稲田大学教育学部教授) 講 演
演題「ダライ・ラマ法王、半生の軌跡 ~ 一難民から世界の聖者へ ~
【問い合わせ先・主催】 ダライ・ラマ法王佛教講演会実行委員会事務局
住所 熊本市中央区帯山4丁目5番18号 医療法人祐基会帯山中央病院内
☎(096)382-5164 平日 午前9時30分~午後5時
E-mail hhd-kumamoto@higo.co.jp
【日時】11月14日(火)
【場所】 熊本県医師会館 2階~3階 大ホール 熊本市花畑町1番13号
18:40 第一部 平岡 宏一先生(清風学園専務理事・校長 / 種智院大学客員教授) 講 演
演題「菩提心の功徳 ~「死に向かって心を整える」ということ ~」
19:40 第二部 石濱裕美子(早稲田大学教育学部教授) 講 演
演題「ダライ・ラマ法王、半生の軌跡 ~ 一難民から世界の聖者へ ~
【問い合わせ先・主催】 ダライ・ラマ法王佛教講演会実行委員会事務局
住所 熊本市中央区帯山4丁目5番18号 医療法人祐基会帯山中央病院内
☎(096)382-5164 平日 午前9時30分~午後5時
E-mail hhd-kumamoto@higo.co.jp
最後に、11月3日に護国寺で行われた講演の報告をかねてアジャ・リンポチェの回想録の紹介を。
清風学園の時も思ったのだが、なぜか来賓に大使館関係者とか、学者が多い。とくに「おっ」と思ったのは、寺本婉雅師のお孫さん寺本正さんがお見えだったこと。知らない人のために解説すると寺本婉雅とはアジャ・リンポチェの先々代を日本に招待し、ダライラマ13世と1906年にクンブムで、1908年に五台山で会見した東本願寺の

講演は中国語で行われアジャ・リンポチェがギャグをいうと、日本語通訳が入る前に笑っている人がかなりいたので聴衆は中国籍のモンゴル人が多数いたと思われる。
当代のアジャリンポチェは8世で、先代のパンチェンラマ10世と関係が深い。パンチェンラマについて簡単に説明すると、ダライラマは中央チベットにあり政治権力を掌握し、一方パンチェンラマはシガツェを中心とするツァン地域に荘園を持ち代々学者として尊敬を集めてきた。百年前の1904年にイギリスがチベットに侵攻した時、ダライ・ラマがモンゴルに亡命すると、清朝官僚はダライラマの称号を剥奪しパンチェンラマ9世をダライラマ13世の代わりにしようとした。しかし、パンチェンラマは固辞しチベット政府も国民も受け入れなかったため、結局ダライラマ13世が後事を託したガンデン座主を追認させられた。
ダライラマ13世が1913年にチベットに帰還すると、当然のことながらダライラマ13世とパンチェンラマ9世の関係は微妙なものとなった。やがてパンチェンラマは中華民国に亡命しそのままなくなった。ダライラマとパンチェンラマが再びまみえるの1951年に、人民解放軍とともにパンチェンラマ10世がラサ入りした時であり、ともに代替わりした後のことであった。
1959年にダライラマ14世がインドに亡命した後もパンチェンラマ10世は中国に残り続けた。文革の時は軟禁状態となり、結婚もさせられ、それでも文革終了後は破壊されたチベット僧院のたてなおしに励んだ。結果、パンチェンラマは本土チベット人の心のよりどころとなり、今でもその遺影は多くの僧院で目にすることができる。
この10世パンチェンの師匠がアジャ・リンポチェの叔父さんのギャヤ・リンポチェである。
当代のアジャ・リンポチェは8世であり、人民解放軍がチベットに侵攻した1950年にアムド(東北チベット)に生まれた。1952年に先代の生まれ変わりに認定されたが、認定を行ったのはパンチェンラマ10世であった。パンチェンラマはリストを一目みて「この子だ」といったが、師であるギャヤ・リンポチェは自分の甥をひいきして選んだと言われることを恐れ、公平にタクディル占いで選ぶように進言して、その占いを行ってもやはり彼の名前がでたとのことである。
アジャ・リンポチェの子供時代は、大躍進政策、宗教改革、文化大革命が続き、中国共産党による殺戮と文化破潰の嵐にもみくちゃにされた。アジャ・リンポチェの父親は彼がわずか7才の時に連行されたまま他の多くの男達同様帰ってこなかった(写真はリンポチェが最後にあった時のお父さん)。

僧院は閉鎖され、一般の僧は強制還俗、高僧は投獄され、アジャ・リンポチェも僧衣を脱がされ小学校にいれられてビオネールの格好をさせられた(回想録の裏表紙の写真がそれ)。文化大革命の頃は土木作業と農作業にあけくれ、仏教の勉強は隠れて独学するしかなかった。
文革が終わると解放されたパンチェンラマ10世とともに破壊された寺院の復興にあたり、共産党の仏教組織でトントン拍子に出世したものの、1989年にパンチェンラマ10世が不審死をとげ、その直後に天安門事件がおき、おまけにダライラマ14世がノーベル賞をとり、つまりは、共産党が国際的に孤立しダライラマの国際的地位があがったことによって暗転する。
共産党はそれまで転生僧の認定を行う際には「ダライラマの意見を打診する」というまっとうな政策をとっていたのが、天安門事件で硬化し、ダライラマが指名したパンチェンラマ11世を否定するため、パンチェンラマは籤できめると言い出したのだ。そして、ダライラマの選んだ子供ぬきで候補者をあつめ、共産党員の子供が選ばれるように籤に細工をした。アジャ・リンポチェはこの詐欺っぷりについても回想録の中で具体的に暴露している。
こうして登場するのが有名な「偽パンチェン、ゲルツェンノルブ」である。
そのうえ、共産党はアジャ・リンポチェをパンチェンラマ11世の師匠に任命しようとした。アジャ・リンポチェの伯父さんのジャヤ・リンポチェがパンチェンラマ10世の先生であったため、それにちなむことで偽パンチェンに箔を付けようとしたのである。ここで、アジャ・リンポチェの忍耐は限界を迎えアメリカへ政治亡命したのである。
アジャ・リンポチェは中国では高級官僚として非常に恵まれた生活をしていた。しかし、その地位も僧院もスタッフも信者もすべてを捨てて、言葉の通じないアメリカで一から生活を築き直すことを選んだのである。このことだけでも中国政府が彼に強いたことがいかに彼の忍耐を越えていたかがよくわかる。
彼が亡命後、江沢民に手紙をだしてダライラマと対話するように進言したところ、やっときた返事は、彼の手紙の内容ガン無視で、あなたの僧院であるクンブムには名月がかかって、黄河の水は世界で一番美しいよという七言絶句の漢詩であった。直接話法でいえば、「かえってこい」だろう。
私はこの件をよんだ時、ダライラマ14世に対して周恩来がいった言葉を思い出した。1957年、ダライラマが亡命を迷っていることを察した周恩来は「仏像は仏壇があるから拝まれる。チベットという仏壇からでたらあなたはただの人だ」みたいなことをいって暗に釘を刺した。しかし、江沢民にしろ周恩来にしろ、こういうことをいっている時点でいかに仏教について無知・無理解かがよくわかる。
ダライラマにせよ、アジャ・リンポチェにせよ彼らがなぜ尊敬されるのかといえば、彼らがりっぱな僧院の中で多くの信者に囲まれているからではない。彼らの学び身につけている仏教自体が普遍的であり、それを体現しているから尊敬されているのである。それが証拠にダライラマ14世もアジャ・リンポチェ8世も、生まれた土地を離れ、宮殿も僧院もみな失って一難民となっても、現在はも故郷の人ばかりではなく多種多様な人たちの尊敬を集めて、より多くの人々に仏教の教えを届け慈善活動に励んで影響力を失うことはない。
共産党の高級官僚なら金や地位がなくなればそれこそただの人だが、〔まともな〕僧侶は違う。楽な生活を望むのであればそもそも亡命しない。亡命されたくなかったら、彼らが自分たちが尊敬している人の名を口にだして言えるように、また、彼らが価値あるものと認めている仏教を自由に学び、修行できる環境を作ればいいのだ。黙っていてもみな亡命先から喜んで戻ってくる。チベット人の文化をきちんと理解して尊重すれば誰も焼身自殺で抗議したりしない。
回想録の見所は中国共産党のチベット地域や仏教界に対する政策がつねに的外れで強権的でそのような中でも笑顔をたやさず何とか中国と共存していこうとする本土チベット人の姿であろう。現時点で回想録は英語、台湾中国語、モンゴル語、日本語に翻訳されて各国の人に読まれている。現在はロシア語訳を準備中だという。アジャ・リンポチェは回想録の印税を慈善事業に使っているとのことである。
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