ハリポタの町で会議参加してきた
イギリスのオックスフォードで開催された、19世紀末から20世紀初頭の国家形成期のチベットに関する国際会議にいってきた。(The effect on Inner- and East Asian relations of the advent of modern international law and the end of the Qing empire in the late 19th and early 20th centuries; perspectives of contemporary sources)
欧米は時差がきついので本来はパスなのだが、若い二人の研究者とともに来年だす本のブロモーションがあるので、仕方無くいく。
ぎりぎりまで別の論文書いていたので参加者とかろくにみていなかったけど、ついたら
Joseph Esherick /Mark Elliot /Fabienne Jagou / Hon Shiang Lau /Makoto Tachibana /Scott Relyea /Heather Stoddard / Yumiko Ishihama / Ryosuke Kobayashi/ Amanda Cheney / Ross Anthony / Uradyn Bulag /Dibyesh Anand (詳細はぐぐって見て)
というまあ、国籍、人種、活動内容も様々なあらゆる意味で濃いメンバーが集まってて笑った。ゲラゲラ。
12時間飛行機のって入国審査にいくと長蛇の列。一時間半かかった。三ヶ月前にロンドンにきた人ですらこれは長いとおっしゃっていた。最近ロンドンテロつづきなので入りを厳しくしているのだろうか。長時間のフライトのあとでこれをやられるとほんまに辛い。
空港から直バスでオックスフォードにいく。オクスフォードにつくと日曜なせいか観光客(主に中国人)で一杯。銀座か京都のよう。ハリーポッターのロケ地訪問とか、わかわからんツアーが至るところで行われている。
ホテルがまたすごかった。昨日ロンドンについた橘さんは、アシアナ航空が遅延したため、このホテルのチェックイン時間をすぎているとかいわれ、ヒースローで一泊し、朝一でオックスフォードについてチェックインしようとしたところ「一杯です」とことわられたので、「昨日泊まるはずだったんだから部屋開いているだろ」といっても、結局他のお客さんがでていくまでまたされたと憔悴している。アジア勢は会議始まる前からライフが低下している。
このホテルは17世紀の建物をそのままつかっていて年代物で、構造が謎。チェックインすると鍵束を渡され、一つがたてもののかぎ、一つは受付に入るかぎ、一つは部屋の鍵としてあと二つがなんの鍵だか最後までわからなかった。いみふ。
橘さんの部屋は階段あがってまたおりて、またあがったところにあり、小林さんの部屋は庭にたつ小屋でポーチがついていて、よくわからん。私の部屋にいたっては道に面した1階で路地おくのバーでのんだ客がおそくまでしゃべりながら外を歩くので眠るためにはヘッドホンが必須であった。向かいのRossも同じ感想を述べていた。ちなみに彼は南アフリカでヨウムのヒナを二羽の子育て中で、現在ごろう様の転生とその兄弟というオカメインコのヒナを育てている私とはママ友のような会話ができて楽しかった。二人は熱くオーストラリアのインコについて語り合った(アフリカにはインコの種類が少ないそうな 爆笑)。
部屋で一時間休んだ後、ウェルカムパーティにいき、24時間以上一睡もしていないことに気づきめまいとともに家路につく。大量の睡眠導入剤を投入して眠る。
でもって、次の日から二日間休みなしでペーパー、ディスカッションの繰り返しで、これまた憔悴。会場から夕ご飯の会場に向かう途中Rhodes House の前を通ると、

Heather「2015年にダライラマ法王がここで講演されたのよ。建物の上についているあの塔、五鈷杵みたいでしょ? 当日はみんなここにたってダライ・ラマ、ダライ・ラマと叫んでいたのよ」
私「ダライラマにご長寿をとかですよね」というと
Heather 「それは道の向こう側で、こっち側はシュクデンの人たちよ、ほほほ」

ネットで検索してみると、確かにこの建物の前でのダライ・ラマ法王の写真がある。ダライラマ13世は2015年9月14日から22日まで、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンツアーをされていた。イギリスの名門大学はダライラマをこうして招聘し、チャールズ皇太子をはじめとするイギリス皇室はダライラマの行動と思想に共鳴しているものの最近イギリスは中国の経済力に屈して、習近平を国賓待遇で迎えるなどし、それとともにダライ・ラマ法王への冷遇が始まるのではないかと懸念されている。本当にそれでいいのかと声を大にして問いたい。

ある意味世界をリードしてきたイギリスとアメリカの理想主義は最近brexitやトランプ政権の誕生やらでゆらぎつつある。しかし、本当にそれでいいのか、みなが自己の利益だけを考えて動けばそれは結局全体を破滅にむかわせるのではないかと小一時間人類を問い詰めたい。
セミナー二日目、自分の発表が終わったので、昼の短い時間をつかって近くにあったPitts River Museum (自然史博物館)をのぞく。自然史博物館といえば恐竜の骨格とか石なので、私はもちろん始祖鳥の化石とか、不思議の国のアリスで有名な今は絶滅したドードー鳥の骨格の前で記念撮影する。写真はインコのはく製前。

最後の夜はオックスフォード最古のパブKing's armでイギリスの伝統食を楽しむ。私は他人に注文をまかせると表に飛び出し、ハートフォド橋、ボードリアン図書館、;歴史科学博物館を 五分間で観光する。常々思うのだが、建物に人間の頭をつける西洋人の美意識はどうも理解できん。ハリポタよりはロードオブザリング派なのでいまいち感動が薄い。
翌日早朝に空港に向かい、ロンドンにかすりもせずに弾丸のように帰国である。だってヒナがまっているもん。
ブリティッシュ・エアウエイズの羽田便は007便(ダブルオーセブン)便であることにほのかにイギリス臭を感じつつふたたび大量の睡眠導入剤をのんで寝る。
帰国してケータイの電源いれたら民進党がなくなっていた(笑)。
欧米は時差がきついので本来はパスなのだが、若い二人の研究者とともに来年だす本のブロモーションがあるので、仕方無くいく。
ぎりぎりまで別の論文書いていたので参加者とかろくにみていなかったけど、ついたら
Joseph Esherick /Mark Elliot /Fabienne Jagou / Hon Shiang Lau /Makoto Tachibana /Scott Relyea /Heather Stoddard / Yumiko Ishihama / Ryosuke Kobayashi/ Amanda Cheney / Ross Anthony / Uradyn Bulag /Dibyesh Anand (詳細はぐぐって見て)
というまあ、国籍、人種、活動内容も様々なあらゆる意味で濃いメンバーが集まってて笑った。ゲラゲラ。
12時間飛行機のって入国審査にいくと長蛇の列。一時間半かかった。三ヶ月前にロンドンにきた人ですらこれは長いとおっしゃっていた。最近ロンドンテロつづきなので入りを厳しくしているのだろうか。長時間のフライトのあとでこれをやられるとほんまに辛い。
空港から直バスでオックスフォードにいく。オクスフォードにつくと日曜なせいか観光客(主に中国人)で一杯。銀座か京都のよう。ハリーポッターのロケ地訪問とか、わかわからんツアーが至るところで行われている。
ホテルがまたすごかった。昨日ロンドンについた橘さんは、アシアナ航空が遅延したため、このホテルのチェックイン時間をすぎているとかいわれ、ヒースローで一泊し、朝一でオックスフォードについてチェックインしようとしたところ「一杯です」とことわられたので、「昨日泊まるはずだったんだから部屋開いているだろ」といっても、結局他のお客さんがでていくまでまたされたと憔悴している。アジア勢は会議始まる前からライフが低下している。
このホテルは17世紀の建物をそのままつかっていて年代物で、構造が謎。チェックインすると鍵束を渡され、一つがたてもののかぎ、一つは受付に入るかぎ、一つは部屋の鍵としてあと二つがなんの鍵だか最後までわからなかった。いみふ。
橘さんの部屋は階段あがってまたおりて、またあがったところにあり、小林さんの部屋は庭にたつ小屋でポーチがついていて、よくわからん。私の部屋にいたっては道に面した1階で路地おくのバーでのんだ客がおそくまでしゃべりながら外を歩くので眠るためにはヘッドホンが必須であった。向かいのRossも同じ感想を述べていた。ちなみに彼は南アフリカでヨウムのヒナを二羽の子育て中で、現在ごろう様の転生とその兄弟というオカメインコのヒナを育てている私とはママ友のような会話ができて楽しかった。二人は熱くオーストラリアのインコについて語り合った(アフリカにはインコの種類が少ないそうな 爆笑)。
部屋で一時間休んだ後、ウェルカムパーティにいき、24時間以上一睡もしていないことに気づきめまいとともに家路につく。大量の睡眠導入剤を投入して眠る。
でもって、次の日から二日間休みなしでペーパー、ディスカッションの繰り返しで、これまた憔悴。会場から夕ご飯の会場に向かう途中Rhodes House の前を通ると、

Heather「2015年にダライラマ法王がここで講演されたのよ。建物の上についているあの塔、五鈷杵みたいでしょ? 当日はみんなここにたってダライ・ラマ、ダライ・ラマと叫んでいたのよ」
私「ダライラマにご長寿をとかですよね」というと
Heather 「それは道の向こう側で、こっち側はシュクデンの人たちよ、ほほほ」

ネットで検索してみると、確かにこの建物の前でのダライ・ラマ法王の写真がある。ダライラマ13世は2015年9月14日から22日まで、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンツアーをされていた。イギリスの名門大学はダライラマをこうして招聘し、チャールズ皇太子をはじめとするイギリス皇室はダライラマの行動と思想に共鳴しているものの最近イギリスは中国の経済力に屈して、習近平を国賓待遇で迎えるなどし、それとともにダライ・ラマ法王への冷遇が始まるのではないかと懸念されている。本当にそれでいいのかと声を大にして問いたい。

ある意味世界をリードしてきたイギリスとアメリカの理想主義は最近brexitやトランプ政権の誕生やらでゆらぎつつある。しかし、本当にそれでいいのか、みなが自己の利益だけを考えて動けばそれは結局全体を破滅にむかわせるのではないかと小一時間人類を問い詰めたい。
セミナー二日目、自分の発表が終わったので、昼の短い時間をつかって近くにあったPitts River Museum (自然史博物館)をのぞく。自然史博物館といえば恐竜の骨格とか石なので、私はもちろん始祖鳥の化石とか、不思議の国のアリスで有名な今は絶滅したドードー鳥の骨格の前で記念撮影する。写真はインコのはく製前。

最後の夜はオックスフォード最古のパブKing's armでイギリスの伝統食を楽しむ。私は他人に注文をまかせると表に飛び出し、ハートフォド橋、ボードリアン図書館、;歴史科学博物館を 五分間で観光する。常々思うのだが、建物に人間の頭をつける西洋人の美意識はどうも理解できん。ハリポタよりはロードオブザリング派なのでいまいち感動が薄い。
翌日早朝に空港に向かい、ロンドンにかすりもせずに弾丸のように帰国である。だってヒナがまっているもん。
ブリティッシュ・エアウエイズの羽田便は007便(ダブルオーセブン)便であることにほのかにイギリス臭を感じつつふたたび大量の睡眠導入剤をのんで寝る。
帰国してケータイの電源いれたら民進党がなくなっていた(笑)。
2017年秋のチベット・イベント
アジャ・リンポチェの出版来日講演についてまとめました。リンポチェはダライラマの一番上のお兄さんタクツェル・リンポチェが座主を勤めていたクンブム大僧院の僧院長をつとめられていた方で亡命された後はやはりタクツェル・リンポチェが開いた「チベット・モンゴル仏教文化センター」を継承されてモンゴル人チベット仏教徒の信仰を集めている方です。
※ダライラマ法王来日ツアーは法王の主治医からドクターストップがかかったため、中止となりました。
詳しくは以下の法王事務所のサイトをご覧ください。→)
九月にはヨーロッパツァーにでかけて、イギリス、ドイツ、イタリアと回っていたので、半分安心し、半分お疲れではないかと心配していたが、結果としてこうなった。去年もヨーロッパ、日本、モンゴルと立て続けに動かれていたが、去年はモンゴルに行かねばならない事情があったから結果として日本がキャンセルにならなかったので、ある意味危なかった。準備をされていた関係各位の落胆を思うと本当に言葉も見つからないが、法王様は確かにお休みになった方がいいとも思います。
●アジャ・リンポチェ 自伝出版記念講演会
アジャ・リンポチェ( Arjia Rinpoche / 阿嘉胡圖克圖)は 1950年、チベット東北部(現青海省)の遊牧民の家に生まれ、2歳でツォンカパ(ダライラマの宗派の創始者)の父の転生者アジャ・リンポチェに認定される。文化大革命で還俗を強要されるも、中国宗教委員会副委員長として地域の文化の保全に尽力し、モンゴル人・チベット人の信仰を集めた。しかし、パンチェンラマの認定を中国政府から強要されたため、1998年、米国に亡命した。このたびは彼の亡命に至るまでの中国での生活を描いた『アシャ・リンポチェ回想録』(版元ドットコム)(Surviving the Dragonにアジャリンポチェがかなり手を入れた中国語訳が原書)からの和訳が出版されることを記念しての来日講演です。著書の売り上げは、アジャ・リンポチェがウランバートルに開設した小児ガンの病院に寄付されるとのことです。
【日時】10月15日(日)
10:00 法話会 (通訳は平岡宏一 清風学園校長です)
12:00 休憩(併設する食堂でお弁当)
13:00 出版記念講演
【会場】清風学園 (大阪市天王寺区石ヶ辻町12-16) 中央館1階「ラカンホール」
・ 近鉄 阪神「大阪上本町駅」下車⑫⑬⑭出口(徒歩約3分)
【参加費】お一人様2,000円 (午前午後共通・昼食弁当付き)
【参加お申込み】osaka@arpc8.net
※ お問い合わせ 講演会実行委員会・事務局 TEL:050-5215-6040
アジャ・リンポチェ( Arjia Rinpoche / 阿嘉胡圖克圖)は 1950年、チベット東北部(現青海省)の遊牧民の家に生まれ、2歳でツォンカパ(ダライラマの宗派の創始者)の父の転生者アジャ・リンポチェに認定される。文化大革命で還俗を強要されるも、中国宗教委員会副委員長として地域の文化の保全に尽力し、モンゴル人・チベット人の信仰を集めた。しかし、パンチェンラマの認定を中国政府から強要されたため、1998年、米国に亡命した。このたびは彼の亡命に至るまでの中国での生活を描いた『アシャ・リンポチェ回想録』(版元ドットコム)(Surviving the Dragonにアジャリンポチェがかなり手を入れた中国語訳が原書)からの和訳が出版されることを記念しての来日講演です。著書の売り上げは、アジャ・リンポチェがウランバートルに開設した小児ガンの病院に寄付されるとのことです。
【日時】10月15日(日)
10:00 法話会 (通訳は平岡宏一 清風学園校長です)
12:00 休憩(併設する食堂でお弁当)
13:00 出版記念講演
【会場】清風学園 (大阪市天王寺区石ヶ辻町12-16) 中央館1階「ラカンホール」
・ 近鉄 阪神「大阪上本町駅」下車⑫⑬⑭出口(徒歩約3分)
【参加費】お一人様2,000円 (午前午後共通・昼食弁当付き)
【参加お申込み】osaka@arpc8.net
※ お問い合わせ 講演会実行委員会・事務局 TEL:050-5215-6040
※ダライラマ法王来日ツアーは法王の主治医からドクターストップがかかったため、中止となりました。
詳しくは以下の法王事務所のサイトをご覧ください。→)
九月にはヨーロッパツァーにでかけて、イギリス、ドイツ、イタリアと回っていたので、半分安心し、半分お疲れではないかと心配していたが、結果としてこうなった。去年もヨーロッパ、日本、モンゴルと立て続けに動かれていたが、去年はモンゴルに行かねばならない事情があったから結果として日本がキャンセルにならなかったので、ある意味危なかった。準備をされていた関係各位の落胆を思うと本当に言葉も見つからないが、法王様は確かにお休みになった方がいいとも思います。
ただの亀ではなかった(鴨里シリーズ6)
会長の家で目を覚ますと、外は小雨である。台風18号は九州に上陸しているようで、本日の目的地のうち最初の天明志士の碑のみが露天なので、会長先生は参加者がぬれないように、急遽碑文下の大宮寺の位牌堂をあけてもらう交渉をされている。
会長先生曰く、「自分が、自分が、という人がおらず、皆が自然に動いて協力してくれて本当に助かります。」。
今回バス旅行は訪問先の三カ所でも近在の方にスポット参加していただける構成になっており、事務局の高田さんは、「町内会でチラシを配布しましたが、農繁期でもあるし、何人集まるのか本当に読めない」と心配しておられる。
わたしは会長先生のお車にのせていただいたので、最初のスポットである天明志士の碑に直接いく。今回「益習の集い」の役員の方たちは、そろいのハッピをあつらえており、何か本格的になってきている。
最初の訪問ポイントは「縄騒動」と呼ばれる1782(天明二年)におきた淡路最大の百姓一揆の蜂起のあった場所。四国大学の太田剛先生によると、当時悪徳役人が税として収めさせていた縄の品質管理をいやがらせに細かくしたため、百姓たちが蜂起したのだが、役人の方が悪かったので、一揆を呼びかけた百姓(才蔵、清左衛門)たちは罪を問われないと決まった。にもかかわらず、徳島藩からの連絡が遅れたため、二人は処刑されてしまった。人々は自分たちのために命をおとした才蔵たちを忘れないため、人形浄瑠璃で語り継いでいたが、さすがに幕末にはみな忘れかけていたところ、明治の世になり自由民権運動が勃興すると、地域の百姓一揆は民主主義精神の萌芽として再評価されるようになり、ここ淡路の縄騒動の才蔵たちを顕彰する碑文が、板垣退助ならびに蜂須賀最期の殿様茂韶公によって建設されるとなったという。

何と才蔵の直系の子孫鯉森さんがお見えになられていた。人々のために命をなげうった方のご子孫だけあって穏やかで性格のよさそうな方であった。写真は碑文の前の太田先生と鯉森さん。
次の目的地である延命寺においては、再び太田先生から沼田存庵(1825-99)の書「死人口上」についての解説を伺う。存庵は鴨里の実兄砂川藍谷の弟子で、華岡青洲に西洋医術も学び、彼の四男ならびに門下生11人は新政府の私費留学生となって明治維新に貢献した。

存庵の弟、苔堂はイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の日本語教師で、アーネスト・サトウの記した『一外交官の見た明治維新』にも登場する人。その関係でサトウは徳島藩主にも謁見している。沼田存庵のパパ丈庵は漢方医であったが、ご先祖、鴨里が伝を書いている。
で三番目のポイントがいよいよご先祖の眠る栄福寺である。まず、鴨里、真、文平の岡田家三代のお墓のある山にあがる。三年前はじめて太田先生とこのお墓をおとずれた時は、墓は竹林の中にうもれていて、文平の墓石は真っ二つにおれて地面に落ちていた。しかし、ご住職はその後、このお墓を整備してくださったため、今回は見違えるように美しく生まれ変わっていた。ふもとのため池と掃部の地が見渡せるように、周辺の竹も刈られていた。

ここで鴨里の孫、真の墓誌を見ていた太田先生が「よくみたら真の墓誌は存庵の書です」とおっしゃる。存庵の書をみたあとでここにきたので結びついたのであろう。云われてみれば筆跡が同じだ。
続いて本堂で賴山陽と岡田鴨里の歴史的意義と、ご先祖お導きネタについて私が話す。高田さんの懸念にも関わらず、本堂は人で一杯。台風で農作業できないもんな。
ご先祖パワーネタについてのみ要約すると、曾祖父終焉の地は東京浅草の海禅寺である。このお寺は振袖火事で焼けたあと、徳島藩主の蜂須賀公が再建資金をだしたことから、阿波様寺と呼ばれていた。しかし、関東大震災で焼け、東京大空襲でさらに焼けもう何も残ってないだろうと放置していたのだが、今年に入ってふと訪問しようという気になった。五月、アポイントも何もとらずふらっとお寺にはいると、丁度ご住職が禅堂に風をいれていたので、突撃取材をした。すると、江戸時代の過去帳は燃えたものの写しがあるので調べてみますと暖かいお言葉を頂戴し、この経緯は前のエントリーで話した。これからあとは書いてなかったが、数日後に、本当に曾祖父真の過去帳の記録をその部分だけコピーして送って下さったのである。
そこには、明治九年
覺心院尚古顒斎(ぎょうさい)居士 十一月一日死
岡田真殿事元阿州旧臣
朱引内ニ付智光院エ埋葬佛×
之義者当山ニ而可致事
と書いてあったため、智光院(昔は海禅寺の境内にあったが、現在は高円寺の方へ移転)にうかがつた所、こちらは戦災に遭わなかったため、当時の過去帳がそのまま残っていた。
智光院のご住職によると「院号がついているということは高い格式で葬られた」とのことなので、真は若干30才でなくなったにもかかわらず、大学者鴨里の孫ということで、大事に送られであろうことが分かった。
そして、6月11日、益習の集いの会長先生が所用で上京された。上野の林光院に蜂須賀家の江戸屋敷からうつしした唐門があるので、それをご覧になりたいというので、「笹乃雪」で昼ご飯した後、海禅寺も上野から歩いて15分なので、蜂須賀ゆかりのお寺だから参拝してみませんか?とお誘いしてみた。
ご住職によると海禅寺の境内は江戸の頃よりもはるかに狭小になっており、墓地もみな整理して蜂須賀家のお墓は昔は大きな納骨堂があったが今は老朽化したのでそれも取り壊したとのこと。
前のエントリーでも書いたように、このお寺には梅田雲濵のお墓と、亀にのった享和二年(1802)の碑文があったので「会長、会長、この亀古いんですよ」とご案内する。
亀の碑文はかなり損傷が激しく、戦災や震災に何度も焼かれた感じであり、後ろの方は剥落がはじまっている。会長は「村井道明さんが亀趺のついた碑文を研究されているので、喜ぶわ」と写真をとりまくっていた。すると翌日、会長から
「村井さんによるとその亀碑文は10代目徳島藩主重喜の奥立花氏の墓ですよ。屋代弘賢(1758-1847)の著した『白金荘記』(蜂須賀家家の白銀台の屋敷の様子について記した書)という稀覯本に、この碑文がで出てくるそうです」とのメールがきた。村井先生は「かつては蜂須賀家の屋敷内にあったその碑文は、今どこにあるのか探していた」とのことで、そんな亀であったとは。相変わらずご先祖様が絶好調である。
私の次は奈良の仏師の松永忠興さんの講演。栄福寺様が所有のお釈迦様をこの方の工房に修理にだされたところ、顔と胴体は平安仏であることが分かった。そこで、平安仏の部分は白木のままにして、朽ちた手足の部分は補いきれいに彩色し、光背、台座ももちろんきれいに色つきで新調し、古い姿を残すと同時に信仰の対象としても痛々しくない姿に復元した、というありがたいお話。
さらに面白いのは、その過程で本尊様の脇士となつていた十二神将もすす払いをしてみたら鎌倉時代のものであることが判明したという。栄福寺の歴史よりも古い仏像があるということは、過去の栄福寺のご住職が近所で廃寺になったお寺の仏様をひきとって、その時代時代の修理をほどこして代々お祀りしていたとしか解釈しようがない。それは竹藪にうもれていた鴨里三代のお墓を整備してくださった当代のご住職の精神にも通いあう。
何度もやけた海禅寺とは異なり、戦災のなかった(1995年の震災はあったけど)淡路島には、まだまだ古いものが埋もれている可能性がある。ご住職は修復なったお釈迦様のご真影と、境内にあったヤマモモの木からつくった念珠を参加者に下賜してくださった。

このあと、洲本でうちあげがあったのだが、時間があったので海をみにいったら、サーファーが五人ほど波をまっていた。瀬戸内海だし防波堤内なのでまともな波はきていなかったが、翌日NHKつけたら洲本港で台風中継をやっていた。本当に一日ずれたらこの企画は悲惨なことになっていた。会長先生が「何かに護られている」というのも宜なるかなである。
うちあげ後、太田先生に徳島空港まで送っていただき、一時間前に空港についたものの、台風で徳島にくる飛行機が羽田にも戻っていないというふざけたアナウンスがある。「ちょっと待て、これ最終便だよ。これが神戸空港なら新幹線で帰ることもできるけど、徳島空港だよ、どうするんだよ、ご先祖様、何とかしてください」とお願いしたら、とりあえず一時間半以上おくれて飛んでくれて、零時ちょっと過ぎに家にたどりついた。
ご先祖様ありがとうございました。そして、関係者のみなさまお疲れ様でした。
会長先生曰く、「自分が、自分が、という人がおらず、皆が自然に動いて協力してくれて本当に助かります。」。
今回バス旅行は訪問先の三カ所でも近在の方にスポット参加していただける構成になっており、事務局の高田さんは、「町内会でチラシを配布しましたが、農繁期でもあるし、何人集まるのか本当に読めない」と心配しておられる。
わたしは会長先生のお車にのせていただいたので、最初のスポットである天明志士の碑に直接いく。今回「益習の集い」の役員の方たちは、そろいのハッピをあつらえており、何か本格的になってきている。
最初の訪問ポイントは「縄騒動」と呼ばれる1782(天明二年)におきた淡路最大の百姓一揆の蜂起のあった場所。四国大学の太田剛先生によると、当時悪徳役人が税として収めさせていた縄の品質管理をいやがらせに細かくしたため、百姓たちが蜂起したのだが、役人の方が悪かったので、一揆を呼びかけた百姓(才蔵、清左衛門)たちは罪を問われないと決まった。にもかかわらず、徳島藩からの連絡が遅れたため、二人は処刑されてしまった。人々は自分たちのために命をおとした才蔵たちを忘れないため、人形浄瑠璃で語り継いでいたが、さすがに幕末にはみな忘れかけていたところ、明治の世になり自由民権運動が勃興すると、地域の百姓一揆は民主主義精神の萌芽として再評価されるようになり、ここ淡路の縄騒動の才蔵たちを顕彰する碑文が、板垣退助ならびに蜂須賀最期の殿様茂韶公によって建設されるとなったという。

何と才蔵の直系の子孫鯉森さんがお見えになられていた。人々のために命をなげうった方のご子孫だけあって穏やかで性格のよさそうな方であった。写真は碑文の前の太田先生と鯉森さん。
次の目的地である延命寺においては、再び太田先生から沼田存庵(1825-99)の書「死人口上」についての解説を伺う。存庵は鴨里の実兄砂川藍谷の弟子で、華岡青洲に西洋医術も学び、彼の四男ならびに門下生11人は新政府の私費留学生となって明治維新に貢献した。

存庵の弟、苔堂はイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の日本語教師で、アーネスト・サトウの記した『一外交官の見た明治維新』にも登場する人。その関係でサトウは徳島藩主にも謁見している。沼田存庵のパパ丈庵は漢方医であったが、ご先祖、鴨里が伝を書いている。
で三番目のポイントがいよいよご先祖の眠る栄福寺である。まず、鴨里、真、文平の岡田家三代のお墓のある山にあがる。三年前はじめて太田先生とこのお墓をおとずれた時は、墓は竹林の中にうもれていて、文平の墓石は真っ二つにおれて地面に落ちていた。しかし、ご住職はその後、このお墓を整備してくださったため、今回は見違えるように美しく生まれ変わっていた。ふもとのため池と掃部の地が見渡せるように、周辺の竹も刈られていた。

ここで鴨里の孫、真の墓誌を見ていた太田先生が「よくみたら真の墓誌は存庵の書です」とおっしゃる。存庵の書をみたあとでここにきたので結びついたのであろう。云われてみれば筆跡が同じだ。
続いて本堂で賴山陽と岡田鴨里の歴史的意義と、ご先祖お導きネタについて私が話す。高田さんの懸念にも関わらず、本堂は人で一杯。台風で農作業できないもんな。
ご先祖パワーネタについてのみ要約すると、曾祖父終焉の地は東京浅草の海禅寺である。このお寺は振袖火事で焼けたあと、徳島藩主の蜂須賀公が再建資金をだしたことから、阿波様寺と呼ばれていた。しかし、関東大震災で焼け、東京大空襲でさらに焼けもう何も残ってないだろうと放置していたのだが、今年に入ってふと訪問しようという気になった。五月、アポイントも何もとらずふらっとお寺にはいると、丁度ご住職が禅堂に風をいれていたので、突撃取材をした。すると、江戸時代の過去帳は燃えたものの写しがあるので調べてみますと暖かいお言葉を頂戴し、この経緯は前のエントリーで話した。これからあとは書いてなかったが、数日後に、本当に曾祖父真の過去帳の記録をその部分だけコピーして送って下さったのである。
そこには、明治九年
覺心院尚古顒斎(ぎょうさい)居士 十一月一日死
岡田真殿事元阿州旧臣
朱引内ニ付智光院エ埋葬佛×
之義者当山ニ而可致事
と書いてあったため、智光院(昔は海禅寺の境内にあったが、現在は高円寺の方へ移転)にうかがつた所、こちらは戦災に遭わなかったため、当時の過去帳がそのまま残っていた。
智光院のご住職によると「院号がついているということは高い格式で葬られた」とのことなので、真は若干30才でなくなったにもかかわらず、大学者鴨里の孫ということで、大事に送られであろうことが分かった。
そして、6月11日、益習の集いの会長先生が所用で上京された。上野の林光院に蜂須賀家の江戸屋敷からうつしした唐門があるので、それをご覧になりたいというので、「笹乃雪」で昼ご飯した後、海禅寺も上野から歩いて15分なので、蜂須賀ゆかりのお寺だから参拝してみませんか?とお誘いしてみた。
ご住職によると海禅寺の境内は江戸の頃よりもはるかに狭小になっており、墓地もみな整理して蜂須賀家のお墓は昔は大きな納骨堂があったが今は老朽化したのでそれも取り壊したとのこと。
前のエントリーでも書いたように、このお寺には梅田雲濵のお墓と、亀にのった享和二年(1802)の碑文があったので「会長、会長、この亀古いんですよ」とご案内する。
亀の碑文はかなり損傷が激しく、戦災や震災に何度も焼かれた感じであり、後ろの方は剥落がはじまっている。会長は「村井道明さんが亀趺のついた碑文を研究されているので、喜ぶわ」と写真をとりまくっていた。すると翌日、会長から
「村井さんによるとその亀碑文は10代目徳島藩主重喜の奥立花氏の墓ですよ。屋代弘賢(1758-1847)の著した『白金荘記』(蜂須賀家家の白銀台の屋敷の様子について記した書)という稀覯本に、この碑文がで出てくるそうです」とのメールがきた。村井先生は「かつては蜂須賀家の屋敷内にあったその碑文は、今どこにあるのか探していた」とのことで、そんな亀であったとは。相変わらずご先祖様が絶好調である。
私の次は奈良の仏師の松永忠興さんの講演。栄福寺様が所有のお釈迦様をこの方の工房に修理にだされたところ、顔と胴体は平安仏であることが分かった。そこで、平安仏の部分は白木のままにして、朽ちた手足の部分は補いきれいに彩色し、光背、台座ももちろんきれいに色つきで新調し、古い姿を残すと同時に信仰の対象としても痛々しくない姿に復元した、というありがたいお話。
さらに面白いのは、その過程で本尊様の脇士となつていた十二神将もすす払いをしてみたら鎌倉時代のものであることが判明したという。栄福寺の歴史よりも古い仏像があるということは、過去の栄福寺のご住職が近所で廃寺になったお寺の仏様をひきとって、その時代時代の修理をほどこして代々お祀りしていたとしか解釈しようがない。それは竹藪にうもれていた鴨里三代のお墓を整備してくださった当代のご住職の精神にも通いあう。
何度もやけた海禅寺とは異なり、戦災のなかった(1995年の震災はあったけど)淡路島には、まだまだ古いものが埋もれている可能性がある。ご住職は修復なったお釈迦様のご真影と、境内にあったヤマモモの木からつくった念珠を参加者に下賜してくださった。

このあと、洲本でうちあげがあったのだが、時間があったので海をみにいったら、サーファーが五人ほど波をまっていた。瀬戸内海だし防波堤内なのでまともな波はきていなかったが、翌日NHKつけたら洲本港で台風中継をやっていた。本当に一日ずれたらこの企画は悲惨なことになっていた。会長先生が「何かに護られている」というのも宜なるかなである。
うちあげ後、太田先生に徳島空港まで送っていただき、一時間前に空港についたものの、台風で徳島にくる飛行機が羽田にも戻っていないというふざけたアナウンスがある。「ちょっと待て、これ最終便だよ。これが神戸空港なら新幹線で帰ることもできるけど、徳島空港だよ、どうするんだよ、ご先祖様、何とかしてください」とお願いしたら、とりあえず一時間半以上おくれて飛んでくれて、零時ちょっと過ぎに家にたどりついた。
ご先祖様ありがとうございました。そして、関係者のみなさまお疲れ様でした。
「香りの館」と高田屋嘉兵衛
「益習の集い」さんから、「淡路島偉人探訪」というバス旅行を計画したので、ご先祖岡田鴨里のねむる栄福寺でお話してくれないか、との依頼があり、気軽にひき受けた。しかし、その時は前後に淡路島でゆっくり過ごす気でいたが、ごろう様が他界され、その後、里子にでていた二羽の雛オカメを育てることとなったため、二日間の弾丸ツアーとなった。
濃い二日間だった。
バスは朝9:30洲本港出発なので、前の日に淡路島に入っていなければいけない。そこで前日、15日に羽田空港につくと、空港ロビーのテレビはNHKの北朝鮮のミサイル発射のニュースを報じている。確か「東京上空に飛ばす」とかぬかしていたが、すわ飛行機遅れるかとおもいきや、北海道の上空を飛んだため私の便には影響なかった。いい加減にしてほしい。
飛行機が神戸に近づくと上空から、淡路島、紀伊半島、神戸などが一望できる。この風景を見る度、海上交通が主流だった江戸時代淡路島の港は今でいうハブ空港だった地政学的な理由が体感できる。
飛行機から降りてバスに乗り込み、まずは、淡路島の北にある「パルシェ香りの館」に向かう。オカメインコ友達のYさんからカイヴァリヤダム・ヨーガ研究所(KaivalyaDham Yoga Institute)のジャガディッシュ医師(jagdish bhutada)が来日講義のためにここに滞在されているので、本場のアーユルヴェーダの脈診をしていただいてはとお誘い戴いたためである。
香りの館のアクセスは異常に悪い。高速バスでつく場合、遠田というバス停から車で五分と書いてあったので、歩けば30分くらいかと気軽に歩き出してみたら、意外に遠い。時速何キロで五分なんだよ。しかし、GPSで自分のいる場所を確かめてみて気づく。「ここ、うちのご先祖のうまれた地(岡田鴨里は養子でもとは津名郡王子の庄屋砂川の四男)の近くだよ。」ということは今私がみている風景、遠目にみえる郡家の街も淡路島の西海岸もご先祖が日々目にしていた風景ではないか。そう思うと、うねうねした農道を歩くのもまた一興である。
「パルシェ香りの館」は香りをテーマにした体験型テーマパークである。『日本書紀』推古天皇3年(595年)夏4月の条に淡路のこの地に香木が漂着し、それが日本におけるお香の起源とされていることにちなんだもので、日本の田舎に突然ドイツやオランダの町並みを作ろうとすることよりは条理にかなっている。しかし、アロマキャンドルとか、ポプリとかの洋風なノリなところが残念である。ここは一つ香道でもやって和風に徹した方が観光客も喜ぶ。
パルシェにつくとジャガディッシュ医師が観光から帰るのをまちつつYさんとお話しする。Y さんは幼い頃から魚釣りをする父親につられてこの淡路島のサンタモニカ(笑)にきていたそうで、四歳の頃を皮切りにこのビーチで不思議なビジョンをみていたそうである。香木が流れ着いたとの伝のある地にたつ枯木神社で昼寝をすると、海の中からいー男があがってくる夢をみるのだそうである。Yさんによるとこの「香りの館」のあるあたりが淡路島で一番気がいいのだという(写真は一人10本までお持ち帰り無料の百日紅)。そこで、なんとついこの間この香りの館に接した土地を購入されたそうで、いずれアーユルヴェーダとヨーガを体験できる宿泊施設を作るとのこと。巫女(女シャーマン)ついに拠点をもつ。

そこで、せっかくきたので、「香りの湯」にもつかってみる。お風呂からは西海岸が一望にみわたせる。ここには日本最古の神社といわれる伊弉諾神宮もあり、ご先祖の歴史意識はこういう土地柄もあって培われたのかとも思う。それにしても、、いー湯である(写真は香りの館から郡家方面をのぞむ風景)。
お風呂からあがって、観光から戻ってこられたジャガディット医師に脈診をしていただく。主訴は喘息。私はヴァータ、ピッタ体質であり、午後七時以後に食事をするなとか、運動しろとか、オイル水をのんで翌日吐くとか食事療法とかいろいろなアドバイスを賜る。

16:00に益習の集いのKさん(元街の職員さん)がお迎えにきてくださり、五色町にある高田屋嘉兵衛公園に向かう。Kさんは現役の頃、この公園の整備のために奔走されたそうで、スポットを案内してくださる。実は阿久悠はこの地の出身で、公園内には彼の「あの鐘をならすのはあなた」にちなんだ鐘がある。私がとりあえずならして喜んでいると、K さん曰く「6000万円かかった」とのこと。
そして野球少年たちのブロンズ像のところまでくると、
Kさん「これ何だか分かりますか?」
私「『24の瞳』ですか? あれは、小豆島か。」
Kさん「瀬戸内少年野球団(阿久悠の自伝小説)ですよ。」
私「じゃあこの真ん中の女の人夏目雅子ですか? に、似てませんね。」
Kさん「でもって後ろの男の人は郷ひろみです」
私「(ノーコメント) その隣の像はわかります。隣に時代がかったロシア人がいるから高田屋嘉兵衛ですね」
Kさん「あちらの建物は、菜の花ホールです。この公園の整備には20億かかっています」
ここで一句。「ふるさとや〔創生金〕バブルは遠くなりにけり」
(本歌: 降る雪や 明治は遠くなりにけり)
そして、われわれは閉館時間間際の高田屋嘉兵衛記念館にすべりこむ。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』で一躍有名になった、淡路の一漁民から船もち豪商にへと成功し、それだけでも十分すごいのに、ロシアに拉致られたことを契機に民間外交官をかってでて、日露の外交紛争を解決に導いた人。当時の鎖国下の身分制度のかっちりした日本においては、ありえないくらい数奇な運命を歩んだ人で、司馬遼太郎好みである。
岡田鴨里はこの高田屋嘉兵衛の最古の伝を書いており、高田家に所蔵される嘉兵衛像には藤沢東畡(石濱純太郎先生の姉君がこの方の孫に嫁入りしている)が賛をつけている。ていうか、この賛の解読、四国大学の太田先生がしてらっしゃる(笑)。

館長さんと益習の集いの会長さんが昵懇だとのことで、むりくりに館長さんを休日・時間外出勤させてしまっていた。ごめんなさい。
館長の斉藤さんは嘉兵衛とロシア側との交渉を欧文文献で追跡しており、仏文出身でであるにもかかわらず、ロシア語を一生懸命習得してゴローニンの日本幽囚記を全訳をだし、ゴローニンの子孫との交流も行われていて、非常に熱心に館の運営を行っておられ、学究的で尊敬できる方。
http://www.takataya.jp/nanohana/miyage/kahe_book.htm
どこの資料館とはいわないけど、自治体がハコモノつくっても中にいる人にやる気がないと、特別展はおろか、常設展示品ですら万年同じもの、研究会も開かれず、出版物もでず、だから人も入らず、はては閉館なんて流れはザラである。この記念館はその逆である。
私たちがホールで映像をみてでてくると、館長さんとんできて、私がさしあげた拙稿をご覧になり
「稲田騒動の檄文とかありますね」と言われたので、
私「すいません、私の曾祖父が徳島藩側で、ちょっと大村純安さんとやらかしちゃったので、あっでも現場にはいってません。」
益習の集いの会長さん「うちの祖先は稲田のやられた側です」
というと、びっくりされていた。
その晩は会長先生のお宅にとめていただき、暖かいおもてなしをしていただいた。私が愛鳥がなくなって菜食になっていますともうしあげれば、日本旅館で野菜料理を注文してくださり、朝はぐーすか寝ている間に朝ご飯の準備もしていただくなど、本当に尊敬できる心の広い方である。
というか私が変人で適当すぎるのかもしれない。関係各位、すみません。

長くなったので二日目は後編に。
濃い二日間だった。
バスは朝9:30洲本港出発なので、前の日に淡路島に入っていなければいけない。そこで前日、15日に羽田空港につくと、空港ロビーのテレビはNHKの北朝鮮のミサイル発射のニュースを報じている。確か「東京上空に飛ばす」とかぬかしていたが、すわ飛行機遅れるかとおもいきや、北海道の上空を飛んだため私の便には影響なかった。いい加減にしてほしい。
飛行機が神戸に近づくと上空から、淡路島、紀伊半島、神戸などが一望できる。この風景を見る度、海上交通が主流だった江戸時代淡路島の港は今でいうハブ空港だった地政学的な理由が体感できる。
飛行機から降りてバスに乗り込み、まずは、淡路島の北にある「パルシェ香りの館」に向かう。オカメインコ友達のYさんからカイヴァリヤダム・ヨーガ研究所(KaivalyaDham Yoga Institute)のジャガディッシュ医師(jagdish bhutada)が来日講義のためにここに滞在されているので、本場のアーユルヴェーダの脈診をしていただいてはとお誘い戴いたためである。
香りの館のアクセスは異常に悪い。高速バスでつく場合、遠田というバス停から車で五分と書いてあったので、歩けば30分くらいかと気軽に歩き出してみたら、意外に遠い。時速何キロで五分なんだよ。しかし、GPSで自分のいる場所を確かめてみて気づく。「ここ、うちのご先祖のうまれた地(岡田鴨里は養子でもとは津名郡王子の庄屋砂川の四男)の近くだよ。」ということは今私がみている風景、遠目にみえる郡家の街も淡路島の西海岸もご先祖が日々目にしていた風景ではないか。そう思うと、うねうねした農道を歩くのもまた一興である。
「パルシェ香りの館」は香りをテーマにした体験型テーマパークである。『日本書紀』推古天皇3年(595年)夏4月の条に淡路のこの地に香木が漂着し、それが日本におけるお香の起源とされていることにちなんだもので、日本の田舎に突然ドイツやオランダの町並みを作ろうとすることよりは条理にかなっている。しかし、アロマキャンドルとか、ポプリとかの洋風なノリなところが残念である。ここは一つ香道でもやって和風に徹した方が観光客も喜ぶ。
パルシェにつくとジャガディッシュ医師が観光から帰るのをまちつつYさんとお話しする。Y さんは幼い頃から魚釣りをする父親につられてこの淡路島のサンタモニカ(笑)にきていたそうで、四歳の頃を皮切りにこのビーチで不思議なビジョンをみていたそうである。香木が流れ着いたとの伝のある地にたつ枯木神社で昼寝をすると、海の中からいー男があがってくる夢をみるのだそうである。Yさんによるとこの「香りの館」のあるあたりが淡路島で一番気がいいのだという(写真は一人10本までお持ち帰り無料の百日紅)。そこで、なんとついこの間この香りの館に接した土地を購入されたそうで、いずれアーユルヴェーダとヨーガを体験できる宿泊施設を作るとのこと。巫女(女シャーマン)ついに拠点をもつ。

そこで、せっかくきたので、「香りの湯」にもつかってみる。お風呂からは西海岸が一望にみわたせる。ここには日本最古の神社といわれる伊弉諾神宮もあり、ご先祖の歴史意識はこういう土地柄もあって培われたのかとも思う。それにしても、、いー湯である(写真は香りの館から郡家方面をのぞむ風景)。
お風呂からあがって、観光から戻ってこられたジャガディット医師に脈診をしていただく。主訴は喘息。私はヴァータ、ピッタ体質であり、午後七時以後に食事をするなとか、運動しろとか、オイル水をのんで翌日吐くとか食事療法とかいろいろなアドバイスを賜る。

16:00に益習の集いのKさん(元街の職員さん)がお迎えにきてくださり、五色町にある高田屋嘉兵衛公園に向かう。Kさんは現役の頃、この公園の整備のために奔走されたそうで、スポットを案内してくださる。実は阿久悠はこの地の出身で、公園内には彼の「あの鐘をならすのはあなた」にちなんだ鐘がある。私がとりあえずならして喜んでいると、K さん曰く「6000万円かかった」とのこと。
そして野球少年たちのブロンズ像のところまでくると、
Kさん「これ何だか分かりますか?」
私「『24の瞳』ですか? あれは、小豆島か。」
Kさん「瀬戸内少年野球団(阿久悠の自伝小説)ですよ。」
私「じゃあこの真ん中の女の人夏目雅子ですか? に、似てませんね。」
Kさん「でもって後ろの男の人は郷ひろみです」
私「(ノーコメント) その隣の像はわかります。隣に時代がかったロシア人がいるから高田屋嘉兵衛ですね」
Kさん「あちらの建物は、菜の花ホールです。この公園の整備には20億かかっています」
ここで一句。「ふるさとや〔創生金〕バブルは遠くなりにけり」
(本歌: 降る雪や 明治は遠くなりにけり)
そして、われわれは閉館時間間際の高田屋嘉兵衛記念館にすべりこむ。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』で一躍有名になった、淡路の一漁民から船もち豪商にへと成功し、それだけでも十分すごいのに、ロシアに拉致られたことを契機に民間外交官をかってでて、日露の外交紛争を解決に導いた人。当時の鎖国下の身分制度のかっちりした日本においては、ありえないくらい数奇な運命を歩んだ人で、司馬遼太郎好みである。
岡田鴨里はこの高田屋嘉兵衛の最古の伝を書いており、高田家に所蔵される嘉兵衛像には藤沢東畡(石濱純太郎先生の姉君がこの方の孫に嫁入りしている)が賛をつけている。ていうか、この賛の解読、四国大学の太田先生がしてらっしゃる(笑)。

館長さんと益習の集いの会長さんが昵懇だとのことで、むりくりに館長さんを休日・時間外出勤させてしまっていた。ごめんなさい。
館長の斉藤さんは嘉兵衛とロシア側との交渉を欧文文献で追跡しており、仏文出身でであるにもかかわらず、ロシア語を一生懸命習得してゴローニンの日本幽囚記を全訳をだし、ゴローニンの子孫との交流も行われていて、非常に熱心に館の運営を行っておられ、学究的で尊敬できる方。
http://www.takataya.jp/nanohana/miyage/kahe_book.htm
どこの資料館とはいわないけど、自治体がハコモノつくっても中にいる人にやる気がないと、特別展はおろか、常設展示品ですら万年同じもの、研究会も開かれず、出版物もでず、だから人も入らず、はては閉館なんて流れはザラである。この記念館はその逆である。
私たちがホールで映像をみてでてくると、館長さんとんできて、私がさしあげた拙稿をご覧になり
「稲田騒動の檄文とかありますね」と言われたので、
私「すいません、私の曾祖父が徳島藩側で、ちょっと大村純安さんとやらかしちゃったので、あっでも現場にはいってません。」
益習の集いの会長さん「うちの祖先は稲田のやられた側です」
というと、びっくりされていた。
その晩は会長先生のお宅にとめていただき、暖かいおもてなしをしていただいた。私が愛鳥がなくなって菜食になっていますともうしあげれば、日本旅館で野菜料理を注文してくださり、朝はぐーすか寝ている間に朝ご飯の準備もしていただくなど、本当に尊敬できる心の広い方である。
というか私が変人で適当すぎるのかもしれない。関係各位、すみません。

長くなったので二日目は後編に。
| ホーム |