春のモンゴル学会雑感
5月20日(土)に東京外国語大学で行われた日本モンゴル学会に行ってみた。私はモンゴルゼミ出身なのでこの学会にいくと受付からはじまり、後輩がぞろぞろいて同窓会状態。みんな元気そうで何より。
聞いた分についてざっと演目をあげると(最後の部分はすいません、聞いてません!)、以下の通り、
●講演 O. バトサイハン (モンゴル国科学アカデミー国際研究所教授)「近代モンゴル政治の基盤を築いたボグド・ハーンの思想
●研究発表
1.額日登巴雅爾(エルドンバヤル)(内モンゴル大学)「内モンゴル人民共和国臨時政府の設立過程及びその目的」
2.哈木格図(ハムゴト)(広島大学大学院総合科学研究科)「近代内モンゴル民族主義運動とラマ勢力――近代内モンゴルの政教関係(1924〜1936 年)」
3.娜荷芽(ナヒヤ)(内モンゴル大学)
「「満洲国」期におけるモンゴル人留学事業について」
4.包宝海(バオ・バオハイ)(東京外国語大学大学院)「文化的記憶としての「ガーダー・メイレン蜂起」」
5.N. アムガラン(モンゴルガンダン寺)「あるモンゴル僧の未報告の著作の概要」
このうち講演のバトサイハン先生と、研究発表の2番のハムゴトさんと、5番のアムガランさんが仏教関係の発表。ちなみに、この後も含めて一人の日本人を除いて、発表者が全部モンゴル国か内モンゴル出身の方であるのには驚いた。
チベット学会ではまだ日本人研究者の発表の方が数多いが、これはやはり在日チベット人の数が少なく、そこから大学院に入るような学生はもっと少ないことが影響しているのだろう。喜んでいいのか悪いのか。
ご存じの通り、モンゴル人集団は現在モンゴル国以外にもロシア、中国と分断されている。1911年にジェブツンダンパ8世がモンゴルの独立を宣言した時には、中国国内のモンゴル人(内モンゴル)にも参加を呼びかけ、いくつかの集団はそれに応じたが、中国とソ連の政治的なかけひきの結果、内モンゴルは現在も中国の領域内にあり、年々漢化が進行している。厳密にいえば漢人移民の内モンゴルへの怒濤の移住は清朝末期の19世紀からすでに始まっており、1911年時点では中国人の集落があちこちにできていてもう足がぬけられない状態になっていた。
ハレー彗星のようにたまにしかモンゴル学会に参加しない私には今回がたまたまそうなのか、それとも毎回そうなのかは知るよしもないが、内モンゴルからきた人もモンゴル国からきた人も、とかく分断されていない理想的な一つ「モンゴル」について熱く語るのが印象的。バトサイハン先生は普段は実証的なご研究をされているのだが、講演になると
「精神文化の面で、民族の文化遺産をさらに豊にして、世界の文化遺産を国民の手の届くものとし、人々の精神的な能力や知恵を開花させ、全面的な教育を受ける条件を備え、民族芸術、文化を復興させ、宗教によって国家をまとめあげ、精神を平等に発展させることは、モンゴル民族の存続する根本要素の一つであり、ボグド・ハーン(ジェブツンダンパ8世)が実効していたモンゴル国の基盤を固める基本政策の重要事項であった」
みたいな感じで、何か政治演説臭というか、「モンゴル民族よふたたび」みたいな色が強く押し出される。日本の大学で学位をとった方は比較的たんたんと事実をのべる研究をされていたが、その場合でも「モンゴルはいかに近代国家として脱皮しようとしていたか」みたいな大テーマが通奏低音のようにあったりして、やはりそこはかとなく民族意識が感じられる。
一方、モンゴルに大きな影響を与えた他文化、たとえば、中国文化なり、チベット仏教文化なり、ロシア帝国とモンゴルの関係とか影響なりとを論じるような研究は、いまいち手薄だし、いまひとつ学術的な水準がこうアレに感じられた。
たとえば、ウランバートルのガンデン寺から参加されたアムガラン師は、ガンデン寺に所蔵されるモンゴル僧のチベット語で記された全集の紹介を行われた。しかし、その全集の作者であるお坊さんについて、所属していたお寺も、誰の先生だったのかも、誰の弟子だったのかもまったく分からないとのことで、ただ、粛正記録にのっている75才で死んだという情報のみしか分からないという。その全集の内容についてももちろん検討していない。この状態で発表をするのもアドベンチャーだと思うのだが、アムガラン氏は「モンゴル仏教」を明らかにする上で重要な資料だということで、高揚した声で語り続ける。
実は17世紀以後多くのモンゴル人は中央チベットや東チベットの僧院において学び、教え、そして研究成果をチベット語で記した。中央チベットの大僧院の僧院長の座にも多くのモンゴル人がついている。チベットからモンゴルに戻って、モンゴルの僧院で教授を行う高僧も多く、この人たちはの業績はチベットの仏典を網羅的に蒐集しpdf化を行っているBDRCに輯録されている。しかし、このようなグローバルに活躍したモンゴル人僧は現在のモンゴル人たちの目には入っていないようで、とにかく地元、地元限定で崇拝をうけた僧侶が「モンゴル仏教」の担い手として重要らしい。モンゴル外で活躍したモンゴル僧は彼らの目からみると「名誉チベット人」なのかもしれない。そんなことないのに。
まあ、ついこの間までモンゴル研究のフィールドではチベット語文献の利用は極めて低調であったことを考えれば、まだモンゴル人作者のチベット文献に日が当たっただけよしとすべきかももしれない。
しかし、会場を見回して集まっている人の数、また、理事の数をみても、チベット学会にくらべてほんと数が多い。ここにいる人の三分の一、いや一人でも二人でもいいから、チベット文化を理解した上でモンゴル史を研究してくれたらなあと、しみじみ思う。日本でも漢文を授業で教えると中国を尊敬するようになるから漢文の授業やめろとかいう人がいるが、そんなことをしたら日本人の残した文献のかなりのものが読めなくなる。朝鮮、ベトナムと近代以前の東アジアでは知識人は漢文で著作することが多く、じゃあ彼らはみな中国人でベトナム人、朝鮮人、日本人でないかといえば違うだろう。
現在朝鮮半島の若者たちは漢字が読めなくなったことにより、自分たちの国の先人が書き残した漢文文献がじぇんじぇん読めなくなってしまっている。中国でも古典漢文をよめる若者はすくない。東アジアはとくにナショナリズムが激しく、自国の歴史を自国民の言葉でのみ純化させようとするが、それにくみせず冷静に実証的に過去をみることができれば、それが結局は視野の狭い他国より上にたつことになる。なので漢文廃止は絶対やめた方がいい。
モンゴル人も僧侶はチベット語で読み書きし、官僚は満洲語・漢語を読み書きしているのが普通だった時代があるのだから、それらも含めて自分たちの愛する国の歴史をきちんと把握してほしい。相手の真の姿はおかまいなく、ただ自分たちの思う姿を一方的におしつけるのは愛とはいわない。
聞いた分についてざっと演目をあげると(最後の部分はすいません、聞いてません!)、以下の通り、
●講演 O. バトサイハン (モンゴル国科学アカデミー国際研究所教授)「近代モンゴル政治の基盤を築いたボグド・ハーンの思想
●研究発表
1.額日登巴雅爾(エルドンバヤル)(内モンゴル大学)「内モンゴル人民共和国臨時政府の設立過程及びその目的」
2.哈木格図(ハムゴト)(広島大学大学院総合科学研究科)「近代内モンゴル民族主義運動とラマ勢力――近代内モンゴルの政教関係(1924〜1936 年)」
3.娜荷芽(ナヒヤ)(内モンゴル大学)
「「満洲国」期におけるモンゴル人留学事業について」
4.包宝海(バオ・バオハイ)(東京外国語大学大学院)「文化的記憶としての「ガーダー・メイレン蜂起」」
5.N. アムガラン(モンゴルガンダン寺)「あるモンゴル僧の未報告の著作の概要」
このうち講演のバトサイハン先生と、研究発表の2番のハムゴトさんと、5番のアムガランさんが仏教関係の発表。ちなみに、この後も含めて一人の日本人を除いて、発表者が全部モンゴル国か内モンゴル出身の方であるのには驚いた。
チベット学会ではまだ日本人研究者の発表の方が数多いが、これはやはり在日チベット人の数が少なく、そこから大学院に入るような学生はもっと少ないことが影響しているのだろう。喜んでいいのか悪いのか。
ご存じの通り、モンゴル人集団は現在モンゴル国以外にもロシア、中国と分断されている。1911年にジェブツンダンパ8世がモンゴルの独立を宣言した時には、中国国内のモンゴル人(内モンゴル)にも参加を呼びかけ、いくつかの集団はそれに応じたが、中国とソ連の政治的なかけひきの結果、内モンゴルは現在も中国の領域内にあり、年々漢化が進行している。厳密にいえば漢人移民の内モンゴルへの怒濤の移住は清朝末期の19世紀からすでに始まっており、1911年時点では中国人の集落があちこちにできていてもう足がぬけられない状態になっていた。
ハレー彗星のようにたまにしかモンゴル学会に参加しない私には今回がたまたまそうなのか、それとも毎回そうなのかは知るよしもないが、内モンゴルからきた人もモンゴル国からきた人も、とかく分断されていない理想的な一つ「モンゴル」について熱く語るのが印象的。バトサイハン先生は普段は実証的なご研究をされているのだが、講演になると
「精神文化の面で、民族の文化遺産をさらに豊にして、世界の文化遺産を国民の手の届くものとし、人々の精神的な能力や知恵を開花させ、全面的な教育を受ける条件を備え、民族芸術、文化を復興させ、宗教によって国家をまとめあげ、精神を平等に発展させることは、モンゴル民族の存続する根本要素の一つであり、ボグド・ハーン(ジェブツンダンパ8世)が実効していたモンゴル国の基盤を固める基本政策の重要事項であった」
みたいな感じで、何か政治演説臭というか、「モンゴル民族よふたたび」みたいな色が強く押し出される。日本の大学で学位をとった方は比較的たんたんと事実をのべる研究をされていたが、その場合でも「モンゴルはいかに近代国家として脱皮しようとしていたか」みたいな大テーマが通奏低音のようにあったりして、やはりそこはかとなく民族意識が感じられる。
一方、モンゴルに大きな影響を与えた他文化、たとえば、中国文化なり、チベット仏教文化なり、ロシア帝国とモンゴルの関係とか影響なりとを論じるような研究は、いまいち手薄だし、いまひとつ学術的な水準がこうアレに感じられた。
たとえば、ウランバートルのガンデン寺から参加されたアムガラン師は、ガンデン寺に所蔵されるモンゴル僧のチベット語で記された全集の紹介を行われた。しかし、その全集の作者であるお坊さんについて、所属していたお寺も、誰の先生だったのかも、誰の弟子だったのかもまったく分からないとのことで、ただ、粛正記録にのっている75才で死んだという情報のみしか分からないという。その全集の内容についてももちろん検討していない。この状態で発表をするのもアドベンチャーだと思うのだが、アムガラン氏は「モンゴル仏教」を明らかにする上で重要な資料だということで、高揚した声で語り続ける。
実は17世紀以後多くのモンゴル人は中央チベットや東チベットの僧院において学び、教え、そして研究成果をチベット語で記した。中央チベットの大僧院の僧院長の座にも多くのモンゴル人がついている。チベットからモンゴルに戻って、モンゴルの僧院で教授を行う高僧も多く、この人たちはの業績はチベットの仏典を網羅的に蒐集しpdf化を行っているBDRCに輯録されている。しかし、このようなグローバルに活躍したモンゴル人僧は現在のモンゴル人たちの目には入っていないようで、とにかく地元、地元限定で崇拝をうけた僧侶が「モンゴル仏教」の担い手として重要らしい。モンゴル外で活躍したモンゴル僧は彼らの目からみると「名誉チベット人」なのかもしれない。そんなことないのに。
まあ、ついこの間までモンゴル研究のフィールドではチベット語文献の利用は極めて低調であったことを考えれば、まだモンゴル人作者のチベット文献に日が当たっただけよしとすべきかももしれない。
しかし、会場を見回して集まっている人の数、また、理事の数をみても、チベット学会にくらべてほんと数が多い。ここにいる人の三分の一、いや一人でも二人でもいいから、チベット文化を理解した上でモンゴル史を研究してくれたらなあと、しみじみ思う。日本でも漢文を授業で教えると中国を尊敬するようになるから漢文の授業やめろとかいう人がいるが、そんなことをしたら日本人の残した文献のかなりのものが読めなくなる。朝鮮、ベトナムと近代以前の東アジアでは知識人は漢文で著作することが多く、じゃあ彼らはみな中国人でベトナム人、朝鮮人、日本人でないかといえば違うだろう。
現在朝鮮半島の若者たちは漢字が読めなくなったことにより、自分たちの国の先人が書き残した漢文文献がじぇんじぇん読めなくなってしまっている。中国でも古典漢文をよめる若者はすくない。東アジアはとくにナショナリズムが激しく、自国の歴史を自国民の言葉でのみ純化させようとするが、それにくみせず冷静に実証的に過去をみることができれば、それが結局は視野の狭い他国より上にたつことになる。なので漢文廃止は絶対やめた方がいい。
モンゴル人も僧侶はチベット語で読み書きし、官僚は満洲語・漢語を読み書きしているのが普通だった時代があるのだから、それらも含めて自分たちの愛する国の歴史をきちんと把握してほしい。相手の真の姿はおかまいなく、ただ自分たちの思う姿を一方的におしつけるのは愛とはいわない。
曾祖父終焉の寺を訪ねて
3月中旬、下関出張の帰りのケータイに5月13日(土)に「触れ太鼓を聞きながら柳橋で天ぷらを食べませんか」というお誘いが入った。まだ冬のコートを着ていた時期で、五月の新緑の時期を思うとそれだけで明るいところに出たような気持ちになった。日が近づいてくると、江戸つながりでそのあと曾祖父が明治九年に命を終えた地、松が谷の海禅寺(合羽橋道具街の近く)を訪れようと計画した。
楽しみにしていた13日がやってきた。しかし、朝から土砂降りで想像していた雰囲気とはほど遠い。東日本橋で降りて柳橋まで歩く間にもスカートがびちょぬれになる。しかし、雨模様の新緑は晴れの日よりも深緑色でこれはこれで美しい。
めざすは柳橋のたもとにある老舗大黒屋である。柳橋は早稲田近辺を流れる神田川が隅田川に交わる地点にかかる橋で、お店は本当に橋のたもとの柳の木の前にあった。しかし柳橋もすぐそこの両国橋も情緒のかけらもない鉄橋である(写真)。江戸情緒どこ?


お店の看板の字があまりに達筆すぎて通り過ぎたので(写真)、お店に着くのが若干遅くなりもう他の皆様方は天ぷらをあげるお部屋に移動中。みな早稲田大学名誉教授の石居先生のお友達である。目の前で次々とあがっていく天ぷらをいただく。

じつは5月の2日に親知らずをぬき、何か予後がよくないなと思っていたら顎関節症になっていたので、痛み止めで痛みを押さえつつ、口があくだけのサイズに天ぷらをきって参戦。いろいろ想像していた絵と違う。歯はいじるものでない。
天ぷらを食し終わって、お座敷に戻りしばらくたった二時頃、玄関から相撲甚句が聞こえてきた。河の対岸にある両国から「呼び出し」の方たちが「明日から場所が始まりますよ~」と触れ歩く「触れ太鼓」の一行が到着したのである。

とはいってもどしゃぶりなのでみな合羽を着て、太鼓もビニールで覆われている。峰崎部屋の呼出し・弘行さんなどが明日の取り組みを読み上げる(写真)。最近は相撲部屋が両国から離れる傾向があり、触れ太鼓もすべての部屋は回れないそうで、ひいきのお店や報道機関を触れ歩く。
「相撲は明日が初日じゃぞえ~」という末尾の「ぞえ~」がいい(笑)。
太鼓が終わると、お店の人からご祝儀を戴いていた。これぞ江戸情緒である。石居先生ありがとうございました。
そのあとは単騎、曾祖父の臨終の地海禅寺に向かう。つくばエキスプレスの浅草からわりとすぐの合羽橋付近にあるのだが例によって迷走し、またびちょぬれ。海禅寺は江戸時代妙心寺派の四触頭(幕府と本山のパイプ役。宗派の江戸大使)の一つであった。
ご先祖岡田鴨里は娘しかいなかったため長女の息子である真を後継者としていた。賴山陽の弟子であった鴨里は山陽の死後も息子の賴三樹三郎と交わり、娘を天誅組の資金源となった古東領左右衛門に嫁がせるなど志士たちとのつながりが深かったが、基本は学者であり、古東領左右衛門にも自重を説いていた。しかし孫の真は行動派で明治二年の庚午事変にかかわったため廃嫡され、明治九年ここ海禅寺で30才の若さで没している。真の残した二人の娘、アイ、イマのうち、今が私の祖母である(にしても女系だよ)。
18時からの座禅会に会わせて本堂に風をいれるご住職から、お話を伺う。このお寺は徳島藩の殿様が庇護していたため、阿波(徳島藩)様寺とかつては言われていた。が、廃仏毀釈、関東大震災、東京大空襲で次々被害を受け、そのたびに境内はどんどん縮小し現在のような小さな寺域になってしまった。つまり、想定内であるが、今の海禅寺には曾祖父、岡田真が死んだ時のお堂も文書類もない。
東京大空襲でなくなったご住職までが戒律をまもった禅僧で、そのあとの住職たちは妻帯したが、禅寺なので今のご住職と先代の間には血縁関係にないそうな。過去帳は原典は燃えたが写しはあるとのこと。狭い墓域には古くからの墓石がいくつかあり、そこにはかつて阿波様寺と呼ばれた名残があった。享和2年の「故従四位下行侍従阿波淡路守××」とか、「阿波中将故妃鷹司藤原姓夫人之墓」とかの碑文や、藩主と同じ名字の「蜂須賀」とかの墓石がある。ちなみに、有名な写楽も徳島藩主お抱えの能楽師であったため、かつては墓石があったそうな。

また、新しくは安政の大獄(1858)によって獄死した梅田雲浜と但馬の守藤井尚弼の墓がある。明治の世の訪れと共に幕末の志士たちは名誉回復したが、同時に武士の身分もなくなってしまった。血の気の多い志士だった曾祖父真はしばらくは徳島県の官僚となり、年金生活者となった武士に新聞を発行させて生活をたちゆかせようという自助社の発起人にも名前を連ねている。そして安政の大獄から18年後の西南戦争の年、この阿波様寺でひっそりと生を終えた。
また座禅会にでもこようと思い、寺を後にする。
雨は小降りになっていた。
楽しみにしていた13日がやってきた。しかし、朝から土砂降りで想像していた雰囲気とはほど遠い。東日本橋で降りて柳橋まで歩く間にもスカートがびちょぬれになる。しかし、雨模様の新緑は晴れの日よりも深緑色でこれはこれで美しい。
めざすは柳橋のたもとにある老舗大黒屋である。柳橋は早稲田近辺を流れる神田川が隅田川に交わる地点にかかる橋で、お店は本当に橋のたもとの柳の木の前にあった。しかし柳橋もすぐそこの両国橋も情緒のかけらもない鉄橋である(写真)。江戸情緒どこ?


お店の看板の字があまりに達筆すぎて通り過ぎたので(写真)、お店に着くのが若干遅くなりもう他の皆様方は天ぷらをあげるお部屋に移動中。みな早稲田大学名誉教授の石居先生のお友達である。目の前で次々とあがっていく天ぷらをいただく。

じつは5月の2日に親知らずをぬき、何か予後がよくないなと思っていたら顎関節症になっていたので、痛み止めで痛みを押さえつつ、口があくだけのサイズに天ぷらをきって参戦。いろいろ想像していた絵と違う。歯はいじるものでない。
天ぷらを食し終わって、お座敷に戻りしばらくたった二時頃、玄関から相撲甚句が聞こえてきた。河の対岸にある両国から「呼び出し」の方たちが「明日から場所が始まりますよ~」と触れ歩く「触れ太鼓」の一行が到着したのである。

とはいってもどしゃぶりなのでみな合羽を着て、太鼓もビニールで覆われている。峰崎部屋の呼出し・弘行さんなどが明日の取り組みを読み上げる(写真)。最近は相撲部屋が両国から離れる傾向があり、触れ太鼓もすべての部屋は回れないそうで、ひいきのお店や報道機関を触れ歩く。
「相撲は明日が初日じゃぞえ~」という末尾の「ぞえ~」がいい(笑)。
太鼓が終わると、お店の人からご祝儀を戴いていた。これぞ江戸情緒である。石居先生ありがとうございました。
そのあとは単騎、曾祖父の臨終の地海禅寺に向かう。つくばエキスプレスの浅草からわりとすぐの合羽橋付近にあるのだが例によって迷走し、またびちょぬれ。海禅寺は江戸時代妙心寺派の四触頭(幕府と本山のパイプ役。宗派の江戸大使)の一つであった。
ご先祖岡田鴨里は娘しかいなかったため長女の息子である真を後継者としていた。賴山陽の弟子であった鴨里は山陽の死後も息子の賴三樹三郎と交わり、娘を天誅組の資金源となった古東領左右衛門に嫁がせるなど志士たちとのつながりが深かったが、基本は学者であり、古東領左右衛門にも自重を説いていた。しかし孫の真は行動派で明治二年の庚午事変にかかわったため廃嫡され、明治九年ここ海禅寺で30才の若さで没している。真の残した二人の娘、アイ、イマのうち、今が私の祖母である(にしても女系だよ)。
18時からの座禅会に会わせて本堂に風をいれるご住職から、お話を伺う。このお寺は徳島藩の殿様が庇護していたため、阿波(徳島藩)様寺とかつては言われていた。が、廃仏毀釈、関東大震災、東京大空襲で次々被害を受け、そのたびに境内はどんどん縮小し現在のような小さな寺域になってしまった。つまり、想定内であるが、今の海禅寺には曾祖父、岡田真が死んだ時のお堂も文書類もない。
東京大空襲でなくなったご住職までが戒律をまもった禅僧で、そのあとの住職たちは妻帯したが、禅寺なので今のご住職と先代の間には血縁関係にないそうな。過去帳は原典は燃えたが写しはあるとのこと。狭い墓域には古くからの墓石がいくつかあり、そこにはかつて阿波様寺と呼ばれた名残があった。享和2年の「故従四位下行侍従阿波淡路守××」とか、「阿波中将故妃鷹司藤原姓夫人之墓」とかの碑文や、藩主と同じ名字の「蜂須賀」とかの墓石がある。ちなみに、有名な写楽も徳島藩主お抱えの能楽師であったため、かつては墓石があったそうな。

また、新しくは安政の大獄(1858)によって獄死した梅田雲浜と但馬の守藤井尚弼の墓がある。明治の世の訪れと共に幕末の志士たちは名誉回復したが、同時に武士の身分もなくなってしまった。血の気の多い志士だった曾祖父真はしばらくは徳島県の官僚となり、年金生活者となった武士に新聞を発行させて生活をたちゆかせようという自助社の発起人にも名前を連ねている。そして安政の大獄から18年後の西南戦争の年、この阿波様寺でひっそりと生を終えた。
また座禅会にでもこようと思い、寺を後にする。
雨は小降りになっていた。
近々行われるチベット・イベント
ギリギリになってしまいましたが、もうすぐ行われるチベット・イベントです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『故郷チベットを見つめて ~日本在住ロディ・ギャツォさんの話~』
・日時: 5月14日(日) 午前10:15~12:30
・会場: 新宿歴史博物館 (講堂)
<新宿区三栄町22、四谷三丁目駅から8分>
・話者: ロディ・ギャツォさん (東チベット出身、埼玉県在住)
・会費: 1,000円 (チベット人無料、学生500円)
・主催: カワカブ会 (代表:小林尚礼 bakoyasi@gmail.com )
*案内チラシ http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/LodiKouenkai.pdf
*facebookお知らせ: https://www.facebook.com/events/252118225255240/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『東京で感じる天空の聖地「チベット」」の日帰りツアー』
・日時 5月27日(土)
・講師 石濱裕美子
・主催 日経カルチャー
・ツァー内容
新宿駅集合
↓
ダライ・ラマ法王事務所で代表のお話をうかがい、チベットの基本的な知識をえる
↓
大本山護国寺(江戸時代の美齢な十二神将が圧巻)で中村天風や大隈重信の墓参をし、講師よりこの二人にゆかりのチベット話を聞く。かつごダライ・ラマ法王がおくられた仏陀像を拝観
↓
都内唯一のチベットレストラン「タシテレ」で昼食
↓
河口慧海が住職をつとめた五百羅漢寺(羅漢さんは字圧巻)
↓
河口慧海顕彰碑のたつ九品仏浄真寺(巨大な九体阿弥陀像で有名。慧海終焉の地の近郊)
↓
新宿駅解散
※ お土産に拙著がつきます♥️
詳細はこちらから
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『故郷チベットを見つめて ~日本在住ロディ・ギャツォさんの話~』
・日時: 5月14日(日) 午前10:15~12:30
・会場: 新宿歴史博物館 (講堂)
<新宿区三栄町22、四谷三丁目駅から8分>
・話者: ロディ・ギャツォさん (東チベット出身、埼玉県在住)
・会費: 1,000円 (チベット人無料、学生500円)
・主催: カワカブ会 (代表:小林尚礼 bakoyasi@gmail.com )
*案内チラシ http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/LodiKouenkai.pdf
*facebookお知らせ: https://www.facebook.com/events/252118225255240/
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『東京で感じる天空の聖地「チベット」」の日帰りツアー』
・日時 5月27日(土)
・講師 石濱裕美子
・主催 日経カルチャー
・ツァー内容
新宿駅集合
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ダライ・ラマ法王事務所で代表のお話をうかがい、チベットの基本的な知識をえる
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大本山護国寺(江戸時代の美齢な十二神将が圧巻)で中村天風や大隈重信の墓参をし、講師よりこの二人にゆかりのチベット話を聞く。かつごダライ・ラマ法王がおくられた仏陀像を拝観
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都内唯一のチベットレストラン「タシテレ」で昼食
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河口慧海が住職をつとめた五百羅漢寺(羅漢さんは字圧巻)
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河口慧海顕彰碑のたつ九品仏浄真寺(巨大な九体阿弥陀像で有名。慧海終焉の地の近郊)
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新宿駅解散
※ お土産に拙著がつきます♥️
詳細はこちらから
ヒッピー文化の頂点で生み出されたドクター・ストレンジ
6日は六本木ヒルズ内で行われているマーベル展とインドの現代美術家N.S. ハルシャ展をみにいく。
どちらも非常に評判のよい展示で、前者マーベル展についてはコンビニでチケットをうけとる債にレジのお兄さんが「素晴らしかったです」とイチオシしてくれ、後者ハルシャ展については、かつてのゼミ生がFBで絶賛していたことが実証している。検索してみると数々の個人ブログにもハルシャ展の感動がつづられている。

しかも、22時までやっているので、夕方からでかけて閉館時間までねばれば大して混まない中で展示を見ることができる。

というわけで麻布十番でおりて、うどんの黒沢(黒澤明監督の家族経営らしい)でうどんを食べ、六本木ヒルズに向かう。実は。これまで興味なかったんで六本木ヒルズにいくのははじめて。
マーベル展は52階の展望室で行われているので、ヒルズにすむ億万長者と同じ景色をみながら、ヒーローを演じた俳優たちが映画の中できていた衣装や小物を見ることができる。
入り口には巨大なアイアンマンがたち、このアイアンマンととる無料記念撮影コーナーは長蛇の列。中国語がかなり聞こえるので海外からのお客も多そう。
最初の部屋は宇宙のヒーロー(マイティソー、ドクター・ストレンジ、ガーデアン・オブ・ギャラクシー、)、次が地球のヒーロー(アイアンマン、キャプテンアメリカetc.)で、最後が、わたしの町のヒーロー(スパイダーマンetc.)というマクロからミクロの視点で展開する。
このブログはチベット・仏教ブログなのでここではドクター・ストレンジに視点をあてる。彼はもちろん「宇宙のヒーロー」に区分されている。設定としてはアベンジャーズが物質世界の守護者だとすると、ドクター・ストレンジは精神世界の平和を守る「至高の魔術師」である(Sorcerer Supreme )。
アベンジャーズより高位なのよ。

彼の魔術の力はもちろんチベットで得たものだ(良い子は常識だよね?)。
ドクター・ストレンジがマーベルコミックに登場したのは1963年のこと。ヒッピーブームが最盛期の頃で、ベトナム戦争に疲弊するアメリカの若者たちは、こきたないヒッピーとなって世界を放浪し、ドラッグや×ックスに溺れながら「導師」を求めていた。折しも1959年、ダライラマ14世のインド亡命に伴いチベットは完全に中国の支配下に入り、多くのチベット人が難民となってインドになだれこんでいたため、彼らは容易にチベット世界に接することができた。
チベット人はこのようなヒッピーの群れをみて内心ドンビキしつつも、忍耐強く彼らに仏教のとく心の平和を教えようとした。そのため60年代のアメリカのコミックスには主人公がチベット・ヒマラヤにおいてチベット僧について問題解決する的な作品がたくさん生まれた。有名なところでは『タンタン、チベットをゆく』も1965年に描かれ、浮遊するチベット僧やシンクロニシティが描かれている。ドクター・ストレンジもそのような時代背景の中で生まれたアメコミである。
ストレンジは天才外科医であり、その技術を名声や金を手に入れるため、すなわち、自分のエゴを満足させるためだけにつかっていた。しかし。ある時自損事故で手に重傷をおい、外科医としての命脈をたたれる。よりどころを失ったストレンジは、奇跡をもとめてヒマラヤにいき、チベット人のエイシャント・ワン(古代の唯一神)に出会い、死にかけるような修業の末に、ついには時空をこえる力を体得する。

2016年には、BBc版 Sherlockでおなじみのベネディクト・カンバーバッチが主演で実写映画化された。日本公開は2017年一月でわたしはむろん見に行ったけど、忙しかったので直後に感想がかけなかった。すまん。
内容を雑にまとめると、60年代のLSDでトリップしているヒッピーの脳内。エインシャント・ワンは性別不明の女ボスをやらせたら右にでるもののないティルダ・スウィントンが演じておられました。『ザ・ビーチ』でレオナルド・ディカプリオを、『コンスタンチン』でキアヌ・リーブスを縮み上がらせた彼女の怪演は今回は若干さわやかになりつつも健在(爆笑)。
チベット人が配役されていなかったのはちょっと残念だったけど、ハリウッドに流れ込む中国マネーに気を遣って、原作のチベット臭を消したとかないですよね(笑)。
今回ストレンジをつとめたカンバーバッチはじつはSherlockのシーズン2と3の間にも原作に忠実にチベットで修業?している。その時にも話題になったが、カンバーバッチは若い頃リアルでもチベット世界を旅している。
以下彼のインタビューから。
――19歳でチベット仏教僧院で過ごした経験があるそうですが、今回その経験はどんなふうに役立ちましたか?
西洋の文化で育った若者が、初めて東洋の国に行って全く異なる文化に触れる、その体験自体が僕にとっては貴重なものでした。そういう意味でも、ストレンジという西洋人がチベットを訪れ、新しい世界に出会うというところがリンクしていますね。
僕は当時物理学にとても興味があって、ものすごく難解な本を読む努力をしていました。そんな本を読みながら東洋哲学や物理学にふけりつつ、バックパッカーのようにリュックを背負い、インドのデリーからいろんな所を旅して回っていたんです。それまで目に触れることのない文化的な儀式や日常生活などを肌で感じ取っていったことを覚えています。
――そこでの出会いも大きかったのでしょうか?
そうですね。そこで出会った人々は、山に囲まれ、人里離れた所にいながらも非常にユーモアのセンスがありました。インターネットも使うし、ポップカルチャーなど、意外と近代文化にも精通していたので驚いたこともありました。異文化交流ということでも、お互いに素晴らしい関係性を築けたし、とても面白い体験ができたんです。
僕が読んだ難解な本によると「1つの次元からもう1つの次元に移っていく」という感じで人間がステップを踏んで成長するためには「今の自分を知らなければいけない」とありました。物理学なのでたくさんの数式が出てくるのですが、残念ながら私は数学があまり得意ではなかったので「自分に物理学者は無理かな」と思って諦めてしまいました。ただ、数学や物理学などに興味があったので、とても面白かったんです。
(「『ドクター・ストレンジ』主演カンバーバッチが語る、チベット仏教僧院で過ごした過去」マイナビニュース 2017/2/2)
60年代のヒッピーたちも、その後の世代であるカンバーバッチも、異なる文化(精神文化優位)を理解することによって自分の文化(物質文化優位)を相対化しその問題点を克服しその結果新しい局面に踏み込んでいった。彼らはチベット文化での放浪を境に子供から大人になった。カンバーバッチがストレンジを演じるのはまさに適役だと思う。
個人的にはカンバーバッチのあの抑制のきいた繊細な声がいい。
ハルシャ展は疲れたのでまた今度。
どちらも非常に評判のよい展示で、前者マーベル展についてはコンビニでチケットをうけとる債にレジのお兄さんが「素晴らしかったです」とイチオシしてくれ、後者ハルシャ展については、かつてのゼミ生がFBで絶賛していたことが実証している。検索してみると数々の個人ブログにもハルシャ展の感動がつづられている。

しかも、22時までやっているので、夕方からでかけて閉館時間までねばれば大して混まない中で展示を見ることができる。

というわけで麻布十番でおりて、うどんの黒沢(黒澤明監督の家族経営らしい)でうどんを食べ、六本木ヒルズに向かう。実は。これまで興味なかったんで六本木ヒルズにいくのははじめて。
マーベル展は52階の展望室で行われているので、ヒルズにすむ億万長者と同じ景色をみながら、ヒーローを演じた俳優たちが映画の中できていた衣装や小物を見ることができる。
入り口には巨大なアイアンマンがたち、このアイアンマンととる無料記念撮影コーナーは長蛇の列。中国語がかなり聞こえるので海外からのお客も多そう。
最初の部屋は宇宙のヒーロー(マイティソー、ドクター・ストレンジ、ガーデアン・オブ・ギャラクシー、)、次が地球のヒーロー(アイアンマン、キャプテンアメリカetc.)で、最後が、わたしの町のヒーロー(スパイダーマンetc.)というマクロからミクロの視点で展開する。
このブログはチベット・仏教ブログなのでここではドクター・ストレンジに視点をあてる。彼はもちろん「宇宙のヒーロー」に区分されている。設定としてはアベンジャーズが物質世界の守護者だとすると、ドクター・ストレンジは精神世界の平和を守る「至高の魔術師」である(Sorcerer Supreme )。
アベンジャーズより高位なのよ。

彼の魔術の力はもちろんチベットで得たものだ(良い子は常識だよね?)。
ドクター・ストレンジがマーベルコミックに登場したのは1963年のこと。ヒッピーブームが最盛期の頃で、ベトナム戦争に疲弊するアメリカの若者たちは、こきたないヒッピーとなって世界を放浪し、ドラッグや×ックスに溺れながら「導師」を求めていた。折しも1959年、ダライラマ14世のインド亡命に伴いチベットは完全に中国の支配下に入り、多くのチベット人が難民となってインドになだれこんでいたため、彼らは容易にチベット世界に接することができた。
チベット人はこのようなヒッピーの群れをみて内心ドンビキしつつも、忍耐強く彼らに仏教のとく心の平和を教えようとした。そのため60年代のアメリカのコミックスには主人公がチベット・ヒマラヤにおいてチベット僧について問題解決する的な作品がたくさん生まれた。有名なところでは『タンタン、チベットをゆく』も1965年に描かれ、浮遊するチベット僧やシンクロニシティが描かれている。ドクター・ストレンジもそのような時代背景の中で生まれたアメコミである。
ストレンジは天才外科医であり、その技術を名声や金を手に入れるため、すなわち、自分のエゴを満足させるためだけにつかっていた。しかし。ある時自損事故で手に重傷をおい、外科医としての命脈をたたれる。よりどころを失ったストレンジは、奇跡をもとめてヒマラヤにいき、チベット人のエイシャント・ワン(古代の唯一神)に出会い、死にかけるような修業の末に、ついには時空をこえる力を体得する。

2016年には、BBc版 Sherlockでおなじみのベネディクト・カンバーバッチが主演で実写映画化された。日本公開は2017年一月でわたしはむろん見に行ったけど、忙しかったので直後に感想がかけなかった。すまん。
内容を雑にまとめると、60年代のLSDでトリップしているヒッピーの脳内。エインシャント・ワンは性別不明の女ボスをやらせたら右にでるもののないティルダ・スウィントンが演じておられました。『ザ・ビーチ』でレオナルド・ディカプリオを、『コンスタンチン』でキアヌ・リーブスを縮み上がらせた彼女の怪演は今回は若干さわやかになりつつも健在(爆笑)。
チベット人が配役されていなかったのはちょっと残念だったけど、ハリウッドに流れ込む中国マネーに気を遣って、原作のチベット臭を消したとかないですよね(笑)。
今回ストレンジをつとめたカンバーバッチはじつはSherlockのシーズン2と3の間にも原作に忠実にチベットで修業?している。その時にも話題になったが、カンバーバッチは若い頃リアルでもチベット世界を旅している。
以下彼のインタビューから。
――19歳でチベット仏教僧院で過ごした経験があるそうですが、今回その経験はどんなふうに役立ちましたか?
西洋の文化で育った若者が、初めて東洋の国に行って全く異なる文化に触れる、その体験自体が僕にとっては貴重なものでした。そういう意味でも、ストレンジという西洋人がチベットを訪れ、新しい世界に出会うというところがリンクしていますね。
僕は当時物理学にとても興味があって、ものすごく難解な本を読む努力をしていました。そんな本を読みながら東洋哲学や物理学にふけりつつ、バックパッカーのようにリュックを背負い、インドのデリーからいろんな所を旅して回っていたんです。それまで目に触れることのない文化的な儀式や日常生活などを肌で感じ取っていったことを覚えています。
――そこでの出会いも大きかったのでしょうか?
そうですね。そこで出会った人々は、山に囲まれ、人里離れた所にいながらも非常にユーモアのセンスがありました。インターネットも使うし、ポップカルチャーなど、意外と近代文化にも精通していたので驚いたこともありました。異文化交流ということでも、お互いに素晴らしい関係性を築けたし、とても面白い体験ができたんです。
僕が読んだ難解な本によると「1つの次元からもう1つの次元に移っていく」という感じで人間がステップを踏んで成長するためには「今の自分を知らなければいけない」とありました。物理学なのでたくさんの数式が出てくるのですが、残念ながら私は数学があまり得意ではなかったので「自分に物理学者は無理かな」と思って諦めてしまいました。ただ、数学や物理学などに興味があったので、とても面白かったんです。
(「『ドクター・ストレンジ』主演カンバーバッチが語る、チベット仏教僧院で過ごした過去」マイナビニュース 2017/2/2)
60年代のヒッピーたちも、その後の世代であるカンバーバッチも、異なる文化(精神文化優位)を理解することによって自分の文化(物質文化優位)を相対化しその問題点を克服しその結果新しい局面に踏み込んでいった。彼らはチベット文化での放浪を境に子供から大人になった。カンバーバッチがストレンジを演じるのはまさに適役だと思う。
個人的にはカンバーバッチのあの抑制のきいた繊細な声がいい。
ハルシャ展は疲れたのでまた今度。
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