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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/03/24(金)   CATEGORY: 未分類
虹の橋に行きかけた
火曜日の朝六時、めまいで目が覚めた。起き上がるとさらに症状はひどくなり、まっすぐ立てない。外はどしゃぶりの雨でこの気圧の変化が発症の原因かもと思う。この日、東京は全国に先駆けて平年より五日早くソメイヨシノの開花宣言があった。

 こりゃいかんととりあえず代謝をよくする漢方をのんで寝直すと、あまりにも体調が悪いので起きているのか寝ているのかもわからない意識状態となる。今の意識から言えばそれは夢であるが、その時はとてもリアルなものであった。

 夢の中で私は真ん中に広間があってその両側に小さな部屋のある大きな家にいた。夢の中の私はそこを私の家だと感じている。なぜなら、普通に廊下の先の方で愛鳥(ごろう様オカメインコ)が飛んでいるし、部屋から愛猫(茶虎)がすたすた出てきたりしているからだ。

 私は母を探していた。実は母は四半世紀前になくなっているが、夢の中の私は母は生きていると確信している。母の気配が玄関に感じられたのでいってみると、今しがた町内会の会費を払ったばかりなのか、何ヶ月分かの領収書が置いてあった。その領収書を手にとって「母は近所に出かけているのかな」と思い、その次の場面では私はいつもの布団の中にいてその手の中には領収書が握られていた。

 この時私はもう母の死んでいる世界にいて、手の中の領収書をみて「あれは夢じゃなかったんだな。」と思っていた。

 しかし、二度目に同じ布団の中で目が覚めた時にはもう手の中には何もなかった。夢の中で夢が覚めるという体験はこれが初めてだった。

 忘れないうちに家人に夢の話をし、あれは何だったんだろうと検討を行う。
 死んだ人間を死んでいないと感じていたこと、あそこにいた猫は先代の猫(当代と柄がまったく同じ)と先代の鳥(当代はオカメインコだが先代はセキセイインコ。しかし遠目でみえただけなので先代の可能性もある)であったとすれば、なくなった愛するものたちが我々のくるのをまっているというあの「虹の橋」を垣間見た可能性もあるのではないか(オノレは仏教徒だろw)。体調絶不調の私の意識はあの時、あの世に半分はいりかけていたのかも。あの時、母は気配しか感じられなかったが、面と向かって姿を見ていたら、いわゆる「お迎え」が来たことになるのか。

 翌日また不思議なことがあった。FB経由でYさんから「昨日東京女子医大にいませんでしたか。先生とすれちがったような気がするのですが」というメッセージを頂戴した。時間をきくと15:30である。当然家で伏せっていた時間である。じつは前にも「先生〜にいませんでしたか」と私が存在しえない場所での目撃談を聞いたことがある。この現象は可能性としては、

1. 他人のそら似。 
2. ドッペルゲンガー 
3. 修行の結果幻身が出現した。

 の三つが考えられる。 チベットでは高僧は衆生済度のために同時にいくつもの場所に存在することが可能であると言われ、グヒヤサマージャの法で成仏するとできあがる有名な幻身もそれである。
しかし、私は高僧でないし、グヒヤサマージャの灌頂は受けたけれど生起法はやってないので、そんな高度なワザをくりだすことはできない。なので、1. でなければ2.である。
 翌日は体調も回復し、二日経った本日はこのエントリーを書く気力が生まれた。とりあえずおきたこと、考えたことを備忘のために書き留めておく。
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DATE: 2017/03/17(金)   CATEGORY: 未分類
『チベット牧畜民の一日』と『天空の宗教都市』
●5月27日(土)に「東京で感じる天空の聖地「チベット」」の日帰りツアーの講師をいたします。

新宿駅→ダライ・ラマ法王事務所→中村天風や大隈重信が眠り、かつダライ・ラマ法王が講演された護国寺(江戸時代の美齢な十二神将が圧巻)→真正のチベットレストラン「タシテレ」での昼食→河口慧海が住職をつとめた五百羅漢寺(羅漢さんは字圧巻)→河口慧海終焉の地に近く顕彰碑のたつ九品仏浄真寺(巨大な九体阿弥陀像で有名)→新宿駅

 参加者にはもれなく拙著『ダライ・ラマと転生』がお土産につくそうです。
詳しくはこのサイトで。

 震災六年目の3月11日、東京外語大学アジア・アフリカ研究所にドキュメンタリー映画『チベット牧畜民の一日』を見に行った。同研究所で行われていたチベット遊牧民に関する三年の研究成果を発表する企画の最終日であり、同研究所の1階展示スペースには「チベット牧畜民の仕事」というパネル展も展示されていた。
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 このドキュメンタリーを見た人々が、「チベットの牧民の男がいかに働かないかが分かる。力仕事も何もみな女性がやっている」あるいは「あまりに男が働かないので、読経しているじいさんの頭を殴りたくなった」などの感想をネットにあげけていたので、男と坊さんをどのように描いているのかに興味があった。

 見てみると、確かに男が怠け者に見える。たとえば、雨が降り出すと、女性が慌ただしく干したヤクの糞(燃料に用いる)を雨に濡れないように取り込むのに、在家密教行者のおじいさんは雨の中座り込んで「雨雲を散らす瞑想」をしている(笑)。これを見て「天下国家を論じてばかりで目の前の仕事をしない」自分の夫なり何なりを思い出して、腹を立てる日本人の女性はいるであろう。

 しかし、本当に雨雲が散らせるのなら瞑想も密教行者の立派なお仕事である(笑)。

 ハインリッヒ・ハラーは『チベットの七年』の中で「なぜ雨が呼べるのか(あるいは止めるのか)、これだけはどうしてもトリックが分からなかった」といっているので、少なくとも中共が侵入してくる以前のチベットでは在家密教行者はきちんと仕事していた。

 そもそもこの映像は、遊牧民の家事労働を記録に残すべく、研究者たちがあらかじめ提出した18のトピックに基づいて、カシャ・ムジャ監督がとったものだ。そのトピックが家事労働、料理(とくに乳製品)、家畜など衣食住などであったため、結果として女性が仕事する映像が多くなった。また、一週間(2015年夏)という限られた期間に撮影されたためその制約もある。

 私はもともとモンゴル・ゼミだったので、大学に入って最初に読んだモンゴル語の論文が乳製品の加工であった。そのため、このフィルムにでてくるヤクの乳製品の加工を見て「モンゴルと同じじゃん」と思い、かつ、春夏秋冬彼らの生活に数十年にわたりよりそい、家畜の冬越し、春の繁殖、群のコントロール法、災害、季節による牧地の移動などを時間をかけて記録しないと牧畜民の生活は完全には記録できないだろうと思った。あと、モンゴルでの牧畜の民族誌の蓄積が参考になると思う。
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 上映後、研究グループの一人一人がフィールド調査での苦労話やこぼれ話を披露し、一般の方からの質疑応答を受けた。質問者にはチベットのおかしがご褒美に配られる。最近文科省は研究成果を専門家にだけ分かる言葉で発信せず、一般に還元するようにと通達しているが、この会には多くの一般人が聞きに来ており、質問も活発になされたので、文科省もお喜びのことと思う。フィールド調査は一般向けのプレゼンがもっともやりやすい学問ジャンルである。

同じチベット学でも、世界的に評価の高いチベットの存続を可能ならしめているチベット仏教の哲学については一般向けのプレゼンは難しい。チベットの仏教哲学はきわめて精緻で複雑なので、トレーニングを積んだ人でないと分からず、それは科学や物理の先端的な研究を一般の人に分かりやすく説明しろと言われても、無理なのを想像していただければ分かりやすい。今目の前でみているような形で人々に「ああわかった」という感じを持たせることは哲学ではできないだろう。
 
 仏教学よりは少しはましだが、歴史学もこういうフィールドに比べると一般うけがしない。ここに存在しない過去が舞台だから。「17世紀にタイムスリップしてダライ・ラマ五世にあってきました」とか言いでもしない限り臨場感のある話はできない。

会場からでた一般の方からの質問はざっとこんなもんであった。
質問(男):女性ばかりが働いているけど男は何か仕事をしているのか。
答え:男と女は分業していて、かつて男は羊の皮をなめして服を作ったりしていたけど、今は既製品を着ているため、男の仕事はへった。一方、女の仕事は電化したため多少は楽になったものの、減っていないため、これはチベット社会を考える上問題になっている。
 男は現金収入を得るため出稼ぎして街でタクシー運転手とか、肉体労働をやっている家庭も多い。

質問(女)::映像中で昔は羊の衣袋をつかってチーズを保存していたというが、ヤクしか写っていなかった。いつ頃から羊を飼わなくなったのか。
答え::草のキャパが少なくてヒツジは山の向こうの友人に預けている。秋になると360頭の羊が帰ってくる。それとチベット人は最近殺生を嫌って羊をトサツしなくなったので、ヒツジは減っている。
*これは面白かった。2006年ダライラマ14世が、法話の中で殺生して手に入れた毛皮を着て見栄を張るののは恥ずかしいことだ、といったら、チベット人は「うおおおおお。法王様ごめんなさぃぃぃぃ」と自らの着ていた毛皮を焚き火にほりこんでもやし、それをみた中国政府が牧畜民がダライ・ラマの言葉に従ったのを問題視し「毛皮を着なさい」と強要したという、あの話を思い出した。チベット人はダライ・ラマの非暴力思想をまじめに遂行しだしたのは、ある意味中国政府に支配されているからという側面もある。

質問(男):山の上の生活ではゴミはどう処分しているのですか。
答え:〔決まり悪そうに。〕何でもかまどにくべてもやします。ペットボトル何かをもやしたらダイオキシンがでるとか考えないようです。中国政府の定住化プログラムで集住した遊牧民のすみかでもゴミ問題は深刻になっています。

質問(女):チベット人は宗教・言をはじめとして自分たちの文化を護ろうとしてもいろいろ自由がないのではないか。
答え:チベット人のナムタルジャさんが決まり悪そうにだまりこむ。H先生が代わりにチベット語が重視されていないこと、漢族に飲み込まれていくことはチベット人にとってもちろん大きな問題として認識されています。と答える。ナムタルじゃさんが答えられないのは、むろん青海に家族がいるからである。

質問::若い女性が朝から晩まで重労働しているが、彼女らは都会にでたがっているのではないか。
答え:若い人を集めて聞き取り調査をしたが、父親がそばにいるからか、みな月並みなことしか言わない、芸能人の名前とかだして話を引き出そうとしたが、お父さんは突然「ハイ打ち切り~」と終わりにしてしまったため、彼女らの胸の内は計り知れない。でも誇りを持って自立して生きている人に、こちらの考え方をおしつけるのは野暮だろう。

質問(女):伝統的に遊牧していたのか。過去と今では変化はあるのか。
答え: 1959年以後は中共が侵入し,人民公社を作って集団化したため、個人所有はなくなった。1984年からは個人所有が許されるようになったが、1997年に家族の人数に合わせて分配することになった。過去は移動していたが、モンゴルほど長距離の移動ではなかった。村のなわばりがきまっているので、大体2キロから10キロか。

質問:チベット人の通常の食事はツァンパや肉だと思うけど、映像にははるさめとか、餃子がでてきた。後者は特別なの?
答え:冬は肉中心の食事になる。昔は小麦は手に入らず麺は作らなかった。春雨とか餃子は昔も作っていたけど最近はとくに流行っている。

質問::テントの中に機材があったがテレビ映るのか?チベット語のテレビ局はいくつあるのか?中国語の番組を子供が見たら漢化しないか?
答え:衛星の電波が入るので、西寧と同じ番組が見られる。しかし、内容はcctvをアムド語に直訳したりした番組である。子供は中国語のアニメを見るので、みな中国語できるようになった。学校は寄宿舎。チベット語が軽視されていて、チベット人は問題視している。
チベット人は中国人に飲み込まれていく危機感を覚えている。生業に基づく文化を失うのではないかとおそれている。
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最後にナムタルジャさんの博士獲得と震災からの復興を祈念してルンタがまかれた。ナムタルジャさんは元牧童であり、牧畜民初めての「博士」とのことであった。青海省や内蒙古のモンゴル人の元牧畜民の方はずっと昔に留学してみな博士号をとっているので、同じ牧畜民でもモンゴル人の方がチベット人より外界との接触がかなり早い。

帰宅して、その日の七時半から『天空の宗教都市』(BSプレミアム)を見た。これは、ラルン・ガロという東チベットのニンマ派の僧院に関するドキュメンタリーである。、ここ数十年で漢人の信者も含めて急速に大きくなり、当局がその拡大を阻止しようと去年僧坊の破壊を行った(詳しくは川田進先生の『東チベットの宗教空間』をご覧あれ)。かつてNHKの看板番組にシルクロード・シリーズというものがあり、流せば高視聴率がとれ、視聴者は仏教がインドから平城京にいたった古代のロマンに酔いしれた。そこにはこれらの地域の「現在」が描かれることはなかった。このシリーズは中国政府の検閲下で撮影され、編集されていたからである。

 それと比較すると今回の映像は可能な限りギリギリのところでチベット人の言葉と信仰を護る戦い、すなわち「現実」を描いていた。お坊さんの僧坊にガンジーやキング牧師やオバマ大統領のポスターがはってあって、ああ、間違いなくダライ・ラマのポスターもうつっていないどこかにあるな、と分かったり、彼らがチベットの子供たちの漢化を少しでも防ぐためにチベット語の野外講習をやっていること、彼らの肉も食べず、もちろん異性交際も行わないまじめな生活についてもきちんと伝えていた。中国政府が僧坊を破壊した件については「僧侶たちの姿が僧院から消えた」とナレーションがでて「嵐が過ぎ去るのを待て」とみながささやきあっていたなどと間接的にだけど、彼らが理不尽な目にあっていることを伝えていた。
 がんばったと思うよ、NHK。誰でも見られる地上波でも再放送してほしい。
 私の3月11日はラルン・ガロの僧院を拝んで終わった。
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DATE: 2017/03/11(土)   CATEGORY: 未分類
国際会議のホストをやってみて
長く生きているといろいろな体験をする。小さいながらも国際会議のホスト役をし、ここ二三日はその後片付けとその間渋滞していた諸事をこなして、今、ようやく落ち着いた。
 
 開催を引き受けた一年前から、まず、お金の調達。助成金の申請を各所に行い、それから準備。会議室は早稲田のどこにするか、ホテルとレストランはどこにして、その際の移動をどうするか、これらを足で探して、大体目星がついたら実際そのレストランでランチたべるなどの下調べをして、「まあいっか」となったものを予約した。

 開催日が近づくと非常識な参加者の宿泊や夕食のドタキャンなどの対応にあたり、それと平行して自分の発表レジュメを英作文し、当日の進行表、連絡先を周囲に共有してもらい、いよいよはじまると、進行に目配りしで、もうほとほと疲れた。こんな日々が続いたら研究なんてとてもできん。脳みそを使う部分が全然違う。
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↑演劇博物館

 一応、参加者からは「素晴らしいオーガナイズだった」というメールがとどいているが、西洋にもお世辞や、招待された相手を面罵するのは失礼とする文化はあるので、真意については不明である。

 東洋学はじつは日本が一番進んでいる。今回、この会議をもちかけられた時、相手が議論を中心とした構成にしようとしていたので、私は「待て。欧米よりも日本の東洋学の方が圧倒的に進んでいるのだから、日本の発表者の発表内容を聞いて、質疑応答くらいにした方がいい。それに日本人はそもそも議論できるほどの英語力はない」と主張したのに、何ていったと思います?

「西洋人は20分以上人の話を座って聞けません。議論はハズセマセーン」

 「東洋と西洋は決してわかり合えない」と私はキプリングの箴言をつぶやいていた。
で、今回学会が終わってみてやっぱり私の言った通りだった。

 満洲語、モンゴル語、漢語がよめる日本人の発表ははばひろい領域の史料に基づき事実をつみあげ、実証的な研究を行うので、議論の余地のないものとなり、欧米人は実質質問しかできない。一方、欧米人の発表はそれぞれのケースによって異なる問題を自分のできる言語から概論的な祖述をするだけなので、つっこみどころは満載。

 それぞれのケースによって異なることを概説するから、日本人から「Evidence(証拠)は」とつっこまれたり、反証をだされると、答えられない。そこで結局欧米人同士が証拠不十分のテーマについて答えの出ない議論をするだけで、日本人は死んだ目をして聞くこととなった。

 そもそも、昔も今も東アジア研究は日本が一番なのじゃ。日本語はウラルアルタイ語だから、満洲語もモンゴル語もトルコ語も容易に習得できるし、漢字は書き文字に使うし、そのうえ仏教・儒教が伝統宗教だから、キリスト教をバックグラウンドとしている人々よりも東アジアの文化の諸側面についてははるかに理解がはやい。

 かつ、東アジアでもっとも早く近代化し、中共が破壊する前の文化遺産の調査・研究の蓄積もあり、かつ、戦後も民主化して学問の上でも政治の制約がないことから、国の政策やナショナリズムによって歴史研究がゆがむことはなかった(cf. 個人の能力によるゆがみはもちろんある)。結果として、日本で現代フランス思想を日本語に翻訳・紹介することで教授の地位を得る人がいるように、外国では日本の東洋学の研究を基礎に(ある時はパクって)自分の地位を築く人は結構多い。

 20世紀の70年代までは中国には西側欧米人の入国が難しかったので、東洋を研究する人はもっぱら日本に来て学び、日本語を理解できる西洋人は多かった。しかし、最近は直接中国に留学して東洋学を学ぶため、日本語をできる人は少なくなった。彼らは中国の学者を通じて日本人の研究のだしがらを味わい、それに基づいてざっぱな図式化を行う(やらないまじめな人もいる)。

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↑會津八一博物館

 このような現状を見ていると、世界の東洋学の発展のためには日本人が自分たちの業績を英語で発信することが必要であることは自明だが、いかんせん私を含めて日本人の大半には英語力がない。

 今回私が『会議英語』を片手に作文していたら、それを手にとった欧米人の研究者が、笑いながら「これはクラッシックですね。今時こんなもってまわった言い方しませんよ」と言われ、日本人同士はお互いのしゃべるヘタクソな英語を自虐で笑い合い、實に空しかった。

 それを象徴するエピソードがこれである。
 私は議論が盛りあがらないことを念頭におき、会議の合間に、大学内にある博物館の参観や図書館での関係古文書の閲覧を日程にいれた。具体的には会津八一博物館で一月三十一日までとされていたチベットの仏様の展示を無理矢理この時期まで置いてもらうこととし、図書館では大隈重信伯に寺本婉雅がおくった書簡の現物を閲覧するのである。ところが、図書館にいく時間が多少早まったので、一行を演劇博物館(著名なシェークスピア研究家坪内逍遙の時代からたつシェークスピア劇場つきの博物館である)で待っててもらって図書館に準備ができているか確認しに走った。確認が終わって演劇博物館に戻ると、みなが爆笑している。

 見ると「日本の民俗芸能」(Folk Art)を展示する部屋の説明プレートが、日本の「日本のフォーク芸能」(Fork Art)となっていた。

 つまり、図らずも日本人の英語力の低さを大学をあげて証明することとなってしまったのである。

 日本の東洋学の学威を海外に示すためには、まず英語での発信が必要。しかし、その英語力がないという悲しい現実がそこにはあった。
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