「ジャヤバルマン7世の寺」(カンボジア後編)
●バンテアイ・チュマル遺蹟
午後、タイ国境から22キロのバンテアイ・チュマル遺跡に到着する。入り口に記帳所があり、みながトイレにいってしまったので私が代表して記帳するが、日付が5日なので驚く。カンボジアに来てから時間がたつのが早い。これから帰る日までジャヤバルマン7世 (1181-1218) の遺構めぐりである。
ジャヤバルマン7世はクメール帝国最盛期の王であり、アンコール・ワットを占領するチャンパ軍(ベトナム)を追い出して56才で王位に就き、その領土をインドシナ半島全域に広げた。ジャヤバルマンは建築王であり、即位とともに、国家鎮護の僧院バイヨンをつくり、王宮を建設し、父を祀るブレア・カーン僧院、母を祀るタ・プローム僧院を建てた。ガイドさんによると、国家鎮護の寺はスメール山世界を模した立体的なプランに作るが、父母を祀る寺は平らな構造なんだそうな。このバンテアイ・チュマルはチャンパとの戦場でなくなった息子と四人の将軍に捧げられたものであるので比較的平らなのだそうな。
大乗仏教徒であった王は、慈善事業に熱心であり、王道を建設してその沿道に無料の宿舎や施薬院をつくって民生に尽くした。ここバンテアイ・チュマルもかつての王道沿いにある、北部の拠点都市である。
ベトナムを追い出して領土を拡大したこと、民生に尽くした慈悲深いイメージ、これが功を奏して、現在のカンボジア人はジャヤバルマン7世を最も愛している。しかしその死の様子は謎に包まれているため、ハンセン氏病にかかって顔をみせなくなったという伝説が生まれ、それが三島由紀夫にインスピレーションを与え『ライ王のテラス』(1969)という戯曲が生まれた。
ジャヤバルマン7世の死後に現れたジャヤバルマン8世(1243-1295)はヒンドゥー教徒であり、おそらくは政治的意図もあり、7世が残した仏教的なものを病的なまでに破壊した(石澤良昭『アンコール・王たちの物語』)。仏像の首をはね、壁から仏像を削り取り、残す場合もヒンドゥー神か、装飾模様に変えた。この文化大革命まがいの仏像破壊は、王都バイヨンにおいては徹底していたが、ここバンテアイ・チュマルは都から距離があるせいか、仏さまの姿はまだそこここに残っている。とくに西側の壁に残る巨大な千手観音像は圧巻である。境内を囲む回廊も、壁も、宇宙山を模した中央にある五つの塔も今はがたがたに崩れているものの、往事の盛んなる時の余威が十分伝わってくる。

大きな僧院はかならずその東西南北の四面に衛星寺院をもつので、時間の制約もあるので南側の寺だけを回ることにする。これらは小さな遺跡でジャングルに埋もれているため近所の村の子がヤブをかきわけて案内してくれる。「タータラッター、タタター♫」とインディー・ジョーンズのテーマを脳天気に唄って歩いていると、誰かがハーブをふんだのかいい香りがするなと思った瞬間に、指の間に痛みが走る。前から順番に三人が蜂に刺されたのである。私はすぐに毒を吸い出したが、ふくらはぎをさされた人は誰も目を合わさなかったので、翌日患部が腫れていた。K先生はフィールド・ノートに「蜂に刺される三人」と記録。かつては木の根を踏み抜いて足を怪我した学生もいたそうな。この半分自然に埋もれた遺跡のたたずまいは世界遺産として整備された中央部分よりもずっとロマンに満ちていた。ヤブをかきわけていく価値はある。蛇やムカデや蜂を気にせず後に続いて下さい。

このあと、ジャヤバルマンが建設した王道にそった国道六号線を走って、ひたすらクメール朝の王都(現シェムリアップ)に向かう。途中ジャヤバルマン7世の時代からの石橋がいくつも目にできる。
●バイヨンを巡る学説への疑問
9月6日 本日からはシェムリアップ周辺のジャヤバルマン7世関連遺跡をまわる。写真入りのパスをつくると遺跡ごとにいちいちお金を払わずに観光することができるが、このパスはカンボジア人の給料水準を考えるとものすごく高価。聞けば二月からはさらに値上がりするといい、ガイドさんによると、入場料はベトナム系のSochaグループに吸い上げられているという。カンボジア人の誇りであり、外貨収入の目玉であるアンコールワットが、宿敵ベトナムに牛耳られているのである。しかしそれが本当だとしても、カンボジアの資本家とか知識人を皆殺しにして、ベトナム人につけいる隙を作ったのはカンボジア人自身である。カンボジアの今の状況を見ていると、「知識人を殺すことは、亡国の始まり」としみじみ体感できる。
パスを作って遺跡ゾーンに入り、まず日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JASA Project)の拠点であるバイヨン・インフォメーション・センターにいく。ここではクメール王朝の歴史と遺跡発掘・保存の国際プロジェクトの紹介ととくに日本がメインで修復に携わっているバイヨン遺跡の詳細を知ることができる。バイヨンの修復チームは早稲田の建築科出身の方々を中心としており、Jasaに常駐している建築家の石塚さんも、カンボジア側スタッフで修復の専門家のチヤさんの日本人のおくさんも早稲田出身で、すべてのラスボスが早稲田大学創造理工学部建築学科の中川武教授であるという。確かに読売オンラインの記事にこのセンターが開店した時の中川先生の名前が見える。
しかし、センターで提示されていた学説は微妙なものであった。まず、「バイヨンの東西南北の各パーツは南が仏、北がシヴァ神、東がジャバルマン王家、西がビシュヌ神に捧げられており、この他にも地方神、祖先神の名前が碑文に列挙され万神殿の様相を呈している」、という旨の解説については、すべての塔の東西南北に観音様の顔が彫り込まれ、中央の塔の上にも仏陀が祀られていること、現在は削り取られてその姿を消しているものの東西南北どの面にも仏龕があること、とくに唯一削り残した四臂の世自在王仏(王形の観音菩薩)が北側破風にあることを考えると、ヒンドゥー教の神々を統括しているのは明らかに仏教の仏たちである。この寺から後期大乗仏教のマンダラ的思考を導きだすならまだしも、あらゆる宗教が互いを尊重しあって共存している現代的なイメージでまとめるのは何かずれているというか、表層的にすぎる気がする。

また、バイヨンの内部にある石像の顔を専門家が顔認証ソフトでスキャンしたところ、三種類の顔が抽出できる、それは阿修羅と神と天女である」というのだが、この三つをセットにする既存の思想とは何なのだろう。阿修羅と天人と人なら三善趣でセットにもなるけれど、文献的な裏付けはあるのだろうか。と疑問を懐きつつ、センターをでてから南側からバイヨン遺跡に入る。昨日のバンテアイ・チュマルと同じ人が作ったので構造がそっくりであるが、仏像は見事なまでに削り取られている。バイヨンを見終わった後は1053年建造の美しいパプーオンにいく。この寺院は裏から見ると涅槃仏になっている。この趣向はカンボジアが上座部仏教に染まった後に付け加えられたものである。その後、象のテラス、ガルーダのテラス、ライ王のテラスをよぎって再び車上の人となる。
午前中、付け焼き刃の勉強で、地上にある仏はヒンドゥー教徒のジャヤバルマン8世とカンボジアの庶民たちによってぶち壊されるか消されるかしていることが分かったので、お昼ご飯の後には、出土品を収蔵しているシアヌーク・イオン博物館(Sihanouk-Angkor Museum)に向かう。ちなみに、王の名前とスーパーの名前を並べるのが不遜とかで、近いうちに名前がかわるらしい。この博物館はジャヤバルマン7世がたてたバンテアイ・クディ寺の正門脇から上智大が発掘した首や胴体だけの仏陀像を展示している。「この首と胴体はつながらないんですか? 」と聞くと、首と胴体をわざわざ別の場所に埋めたのかセットにならないのだという。廃仏のヒンドゥー王は徹底して粘着である。
博物館の次には、首なし仏陀の出土地点であるバンテアイ・クディにいく。この寺はミニ・バイヨンともいうべき構造で、現存する建物には仏の姿はまったく確認できない。この時点で空が俄にかき曇り雷がゴーロゴロとなりはじめ嵐の前の不穏な風が吹きはじめた。バンテアイ・クディの門前にはこれまたジャヤバルマンの造成した広大な貯水池があり、この岸辺にたつとスコールの到来が全身で感じられる。そのあとは豪雨となり道路が冠水した。
そこで室内のアンコール国立博物館(Angkor National Museum)に向かう(パスを作ったのに別に入館料かかるとこばかりよっている笑)。最近新装開店した、大画面デジタル画像を多用した最新鋭の博物館である。ここには思った通り、四臂の世自在王仏像が山ほどあった。
●ジャヤバルマン7世の時代は「世自在王祭り」
9月7日 午前中はトンレサップ湖でクルージング。蛇をもった男の子が父親が操るボートで観光客ののる船をひたすらストーキングして写真をとらないかとついてくるのがうっとうしい。湖にはこの蛇親子以外にもたくさんの船が浮かび、水上集落をなしている。店も学校も倉庫も教会もみな船の上だ。
ガイドさんによると、「この水上生活者はみなベトナム人なんだ(また笑)。今ベトナムは景気がいいんだから、国に帰ればいいのに、ここに居座っているのはいずれこの地をベトナム化するための計画があるからだ」とすっかり陰謀論者となっている。とにかくベトナム人とくれば財閥から物乞いまですべて嫌いらしい。
船から下りると、湖の辺の山上にある10世紀のヒンドゥー寺院プノム・クロム(Phnom Krom)にいく。K先生は山上で地図をひろげて、この線が乾期の時の水辺で、雨期の今は山の麓まで水がきていると説明される。
それから昼食をとったあと、ひたすらジャヤバルマン7世の時代の建築物を回りつづける。まず、お堀の西に向かい、ジャヤバルマンの病院タプローム・ケルを見る、次にプラサート・ブレイ、そこから徒歩ですぐのバンテアイ・プレイにいく。
それから車にのってジャヤタターカ貯水池の中にたつ診療所、須弥山世界をかたどった寺、ニュック・ポアンへ。主尊は世自在王仏であり、ヴィシュヌに改変されたものの元は明らかに世自在王仏の像も随所に残っている。次に、クロルコ(Krol Ko)。ここも世自在王仏がたくさん。次にジャヤタタカー貯水池の東側にたつタソムに行く。ここはアメリカによって修復されかつては塔の上に蓮華座の上に座る仏陀がいたことを明らかにしている。ここにもヴィシュヌにするために二本手が削られた世自在王仏がどかどか現存していた。
この旅で最期に訪れた寺は、1191年にジャヤバルマン7世の父を祀るために作られたプリア・カーンである。その心は前述したようにこの寺の本尊は世自在王仏が王の父と習合したものだからである。ジャヤバルマン七世の時代は「世自在王仏祭り」状態であったのだ。

ジャヤバルマンの時代の主な信仰対象は明らかにシヴァとかヴィシュヌとかのヒンドゥー神ではなく、慈悲の象徴である世自在王仏と智慧(般若)の象徴である般若波羅蜜母であった。この二尊は仏になるために必要不可欠な二つの要素に慈悲と智慧の二資糧の仏格化である。また、寺の構造はマンダラの中央に描かれる仏の宮殿形そのままであることを考えると、やはりバイヨンは「万神殿」というよりは「マンダラ」のような後期大乗仏教すなわち密教的な解釈を施した方がしっくりくる。碑文よめないけど、時間があったらこのテーマを深掘りしてみたい。密教オタクの視点から言えることは必ず何かあるはず。
午後、タイ国境から22キロのバンテアイ・チュマル遺跡に到着する。入り口に記帳所があり、みながトイレにいってしまったので私が代表して記帳するが、日付が5日なので驚く。カンボジアに来てから時間がたつのが早い。これから帰る日までジャヤバルマン7世 (1181-1218) の遺構めぐりである。
ジャヤバルマン7世はクメール帝国最盛期の王であり、アンコール・ワットを占領するチャンパ軍(ベトナム)を追い出して56才で王位に就き、その領土をインドシナ半島全域に広げた。ジャヤバルマンは建築王であり、即位とともに、国家鎮護の僧院バイヨンをつくり、王宮を建設し、父を祀るブレア・カーン僧院、母を祀るタ・プローム僧院を建てた。ガイドさんによると、国家鎮護の寺はスメール山世界を模した立体的なプランに作るが、父母を祀る寺は平らな構造なんだそうな。このバンテアイ・チュマルはチャンパとの戦場でなくなった息子と四人の将軍に捧げられたものであるので比較的平らなのだそうな。
大乗仏教徒であった王は、慈善事業に熱心であり、王道を建設してその沿道に無料の宿舎や施薬院をつくって民生に尽くした。ここバンテアイ・チュマルもかつての王道沿いにある、北部の拠点都市である。
ベトナムを追い出して領土を拡大したこと、民生に尽くした慈悲深いイメージ、これが功を奏して、現在のカンボジア人はジャヤバルマン7世を最も愛している。しかしその死の様子は謎に包まれているため、ハンセン氏病にかかって顔をみせなくなったという伝説が生まれ、それが三島由紀夫にインスピレーションを与え『ライ王のテラス』(1969)という戯曲が生まれた。
ジャヤバルマン7世の死後に現れたジャヤバルマン8世(1243-1295)はヒンドゥー教徒であり、おそらくは政治的意図もあり、7世が残した仏教的なものを病的なまでに破壊した(石澤良昭『アンコール・王たちの物語』)。仏像の首をはね、壁から仏像を削り取り、残す場合もヒンドゥー神か、装飾模様に変えた。この文化大革命まがいの仏像破壊は、王都バイヨンにおいては徹底していたが、ここバンテアイ・チュマルは都から距離があるせいか、仏さまの姿はまだそこここに残っている。とくに西側の壁に残る巨大な千手観音像は圧巻である。境内を囲む回廊も、壁も、宇宙山を模した中央にある五つの塔も今はがたがたに崩れているものの、往事の盛んなる時の余威が十分伝わってくる。

大きな僧院はかならずその東西南北の四面に衛星寺院をもつので、時間の制約もあるので南側の寺だけを回ることにする。これらは小さな遺跡でジャングルに埋もれているため近所の村の子がヤブをかきわけて案内してくれる。「タータラッター、タタター♫」とインディー・ジョーンズのテーマを脳天気に唄って歩いていると、誰かがハーブをふんだのかいい香りがするなと思った瞬間に、指の間に痛みが走る。前から順番に三人が蜂に刺されたのである。私はすぐに毒を吸い出したが、ふくらはぎをさされた人は誰も目を合わさなかったので、翌日患部が腫れていた。K先生はフィールド・ノートに「蜂に刺される三人」と記録。かつては木の根を踏み抜いて足を怪我した学生もいたそうな。この半分自然に埋もれた遺跡のたたずまいは世界遺産として整備された中央部分よりもずっとロマンに満ちていた。ヤブをかきわけていく価値はある。蛇やムカデや蜂を気にせず後に続いて下さい。

このあと、ジャヤバルマンが建設した王道にそった国道六号線を走って、ひたすらクメール朝の王都(現シェムリアップ)に向かう。途中ジャヤバルマン7世の時代からの石橋がいくつも目にできる。
●バイヨンを巡る学説への疑問
9月6日 本日からはシェムリアップ周辺のジャヤバルマン7世関連遺跡をまわる。写真入りのパスをつくると遺跡ごとにいちいちお金を払わずに観光することができるが、このパスはカンボジア人の給料水準を考えるとものすごく高価。聞けば二月からはさらに値上がりするといい、ガイドさんによると、入場料はベトナム系のSochaグループに吸い上げられているという。カンボジア人の誇りであり、外貨収入の目玉であるアンコールワットが、宿敵ベトナムに牛耳られているのである。しかしそれが本当だとしても、カンボジアの資本家とか知識人を皆殺しにして、ベトナム人につけいる隙を作ったのはカンボジア人自身である。カンボジアの今の状況を見ていると、「知識人を殺すことは、亡国の始まり」としみじみ体感できる。
パスを作って遺跡ゾーンに入り、まず日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JASA Project)の拠点であるバイヨン・インフォメーション・センターにいく。ここではクメール王朝の歴史と遺跡発掘・保存の国際プロジェクトの紹介ととくに日本がメインで修復に携わっているバイヨン遺跡の詳細を知ることができる。バイヨンの修復チームは早稲田の建築科出身の方々を中心としており、Jasaに常駐している建築家の石塚さんも、カンボジア側スタッフで修復の専門家のチヤさんの日本人のおくさんも早稲田出身で、すべてのラスボスが早稲田大学創造理工学部建築学科の中川武教授であるという。確かに読売オンラインの記事にこのセンターが開店した時の中川先生の名前が見える。
しかし、センターで提示されていた学説は微妙なものであった。まず、「バイヨンの東西南北の各パーツは南が仏、北がシヴァ神、東がジャバルマン王家、西がビシュヌ神に捧げられており、この他にも地方神、祖先神の名前が碑文に列挙され万神殿の様相を呈している」、という旨の解説については、すべての塔の東西南北に観音様の顔が彫り込まれ、中央の塔の上にも仏陀が祀られていること、現在は削り取られてその姿を消しているものの東西南北どの面にも仏龕があること、とくに唯一削り残した四臂の世自在王仏(王形の観音菩薩)が北側破風にあることを考えると、ヒンドゥー教の神々を統括しているのは明らかに仏教の仏たちである。この寺から後期大乗仏教のマンダラ的思考を導きだすならまだしも、あらゆる宗教が互いを尊重しあって共存している現代的なイメージでまとめるのは何かずれているというか、表層的にすぎる気がする。

また、バイヨンの内部にある石像の顔を専門家が顔認証ソフトでスキャンしたところ、三種類の顔が抽出できる、それは阿修羅と神と天女である」というのだが、この三つをセットにする既存の思想とは何なのだろう。阿修羅と天人と人なら三善趣でセットにもなるけれど、文献的な裏付けはあるのだろうか。と疑問を懐きつつ、センターをでてから南側からバイヨン遺跡に入る。昨日のバンテアイ・チュマルと同じ人が作ったので構造がそっくりであるが、仏像は見事なまでに削り取られている。バイヨンを見終わった後は1053年建造の美しいパプーオンにいく。この寺院は裏から見ると涅槃仏になっている。この趣向はカンボジアが上座部仏教に染まった後に付け加えられたものである。その後、象のテラス、ガルーダのテラス、ライ王のテラスをよぎって再び車上の人となる。
午前中、付け焼き刃の勉強で、地上にある仏はヒンドゥー教徒のジャヤバルマン8世とカンボジアの庶民たちによってぶち壊されるか消されるかしていることが分かったので、お昼ご飯の後には、出土品を収蔵しているシアヌーク・イオン博物館(Sihanouk-Angkor Museum)に向かう。ちなみに、王の名前とスーパーの名前を並べるのが不遜とかで、近いうちに名前がかわるらしい。この博物館はジャヤバルマン7世がたてたバンテアイ・クディ寺の正門脇から上智大が発掘した首や胴体だけの仏陀像を展示している。「この首と胴体はつながらないんですか? 」と聞くと、首と胴体をわざわざ別の場所に埋めたのかセットにならないのだという。廃仏のヒンドゥー王は徹底して粘着である。
博物館の次には、首なし仏陀の出土地点であるバンテアイ・クディにいく。この寺はミニ・バイヨンともいうべき構造で、現存する建物には仏の姿はまったく確認できない。この時点で空が俄にかき曇り雷がゴーロゴロとなりはじめ嵐の前の不穏な風が吹きはじめた。バンテアイ・クディの門前にはこれまたジャヤバルマンの造成した広大な貯水池があり、この岸辺にたつとスコールの到来が全身で感じられる。そのあとは豪雨となり道路が冠水した。
そこで室内のアンコール国立博物館(Angkor National Museum)に向かう(パスを作ったのに別に入館料かかるとこばかりよっている笑)。最近新装開店した、大画面デジタル画像を多用した最新鋭の博物館である。ここには思った通り、四臂の世自在王仏像が山ほどあった。
●ジャヤバルマン7世の時代は「世自在王祭り」
9月7日 午前中はトンレサップ湖でクルージング。蛇をもった男の子が父親が操るボートで観光客ののる船をひたすらストーキングして写真をとらないかとついてくるのがうっとうしい。湖にはこの蛇親子以外にもたくさんの船が浮かび、水上集落をなしている。店も学校も倉庫も教会もみな船の上だ。
ガイドさんによると、「この水上生活者はみなベトナム人なんだ(また笑)。今ベトナムは景気がいいんだから、国に帰ればいいのに、ここに居座っているのはいずれこの地をベトナム化するための計画があるからだ」とすっかり陰謀論者となっている。とにかくベトナム人とくれば財閥から物乞いまですべて嫌いらしい。
船から下りると、湖の辺の山上にある10世紀のヒンドゥー寺院プノム・クロム(Phnom Krom)にいく。K先生は山上で地図をひろげて、この線が乾期の時の水辺で、雨期の今は山の麓まで水がきていると説明される。
それから昼食をとったあと、ひたすらジャヤバルマン7世の時代の建築物を回りつづける。まず、お堀の西に向かい、ジャヤバルマンの病院タプローム・ケルを見る、次にプラサート・ブレイ、そこから徒歩ですぐのバンテアイ・プレイにいく。
それから車にのってジャヤタターカ貯水池の中にたつ診療所、須弥山世界をかたどった寺、ニュック・ポアンへ。主尊は世自在王仏であり、ヴィシュヌに改変されたものの元は明らかに世自在王仏の像も随所に残っている。次に、クロルコ(Krol Ko)。ここも世自在王仏がたくさん。次にジャヤタタカー貯水池の東側にたつタソムに行く。ここはアメリカによって修復されかつては塔の上に蓮華座の上に座る仏陀がいたことを明らかにしている。ここにもヴィシュヌにするために二本手が削られた世自在王仏がどかどか現存していた。
この旅で最期に訪れた寺は、1191年にジャヤバルマン7世の父を祀るために作られたプリア・カーンである。その心は前述したようにこの寺の本尊は世自在王仏が王の父と習合したものだからである。ジャヤバルマン七世の時代は「世自在王仏祭り」状態であったのだ。

ジャヤバルマンの時代の主な信仰対象は明らかにシヴァとかヴィシュヌとかのヒンドゥー神ではなく、慈悲の象徴である世自在王仏と智慧(般若)の象徴である般若波羅蜜母であった。この二尊は仏になるために必要不可欠な二つの要素に慈悲と智慧の二資糧の仏格化である。また、寺の構造はマンダラの中央に描かれる仏の宮殿形そのままであることを考えると、やはりバイヨンは「万神殿」というよりは「マンダラ」のような後期大乗仏教すなわち密教的な解釈を施した方がしっくりくる。碑文よめないけど、時間があったらこのテーマを深掘りしてみたい。密教オタクの視点から言えることは必ず何かあるはず。
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