身延山でチベット学会
先週末、身延山大で開催された日本チベット学会に参加してきた。
身延山は言うまでも無く日蓮聖人のご遺骨を祀る"棲神の地"。実は日蓮宗は伝統的な宗派としてもそれなりに大きいが、メジャーな新興宗教(創価学会、霊友会、立正公正会)なども日蓮系であり、マイナーなものも加えればそれはもう日本に日蓮系の宗派はゴマンとある。多くの人々に支えられているため伽藍はすごい立派。
身延は遠い。立川か八王子から特急あずさにのり、甲府で身延線特急ふじかわに乗り換えるのだが、この「ふじかわ」が二時間に一本しかない・・・。そして身延駅から久遠寺も車で15分かかる。都内を在来線でいく区間はたちっぱなしとなるので、感覚的には大阪に新幹線で行くより疲れる。さらに、旅立ちの朝は土砂降り。旅先で傘を忘れるだろうという揺るぎない自信があったため、さすのは小さな折りたたみ傘ではなく、大きめのビニール傘にする。忘れてきてもどなたかが有効利用して下さるだろう。
身延駅前から乗ったバスが身延山に近づくと両側から山が迫り、小林守先生をして「タルツェンド」(中国からチベットに入る境界の町で、ここからチベット高原ですということが体感できる地形の地)といわしめた渓谷に入る。山内は小さな門前町があるだけでコンビニはない。

大学の受付で懇親会費と参加費を払う段になり、同じバスで山についたIセンセが「石濱センセー、お金下ろしてくるの忘れました。お金貸してくれませんか」と言われたので、いいよ〜と快く財布だしてお金わたすが、よく見ると私もお金下ろしてない(笑)。仕方なのでK嬢から借りる。まさに借金の連鎖である。
しかし、主催校のホスピタリティは素晴らしく、宿坊にとまったのだが、万が一早稲田が開催校になったら、このレベルのおもてなしが私にできるのかと自問自答してみる。もちろんできない。
学会の最初はチベット情報交換会であり、岩尾一史さんは敦煌莫高窟に残るチベット文字で書かれた巡礼の落書きについての研究紹介、大場恵美先生はお釈迦様の数ある前世を描いたタンカセットの研究紹介、コーナー最後は今年で会長を退任される長野泰彦先生の任期中にクリアしていった課題についてのモノローグであった。
続いて放射線がとんできそうなタイトルのワークショップ「チベット学研究のホット・スポット」。私はこのコーナーの三番目の発表者。
開始前に、係の方がパワーポイントのテスト投射をするというのでマックをプロジェクターにつなぐと、愛鳥ごろう様の写真がスクリーンにでるもののパワーポイントはうつらない。会場から失笑がもれるので、「すいません、マックに詳しい方がいらっしゃいませんか」と呼びかけると、来年度からの新会長となる武内先生が「ミラーリングすればいいんですよ」と画面が写るようにしてくださった。しかし、本番でも同じ現象がおきたため、会場は再び失笑につつまれた(操作覚えろよ自分)。
本コーナー最初は別所裕介・海老原志穂両先生による遊牧民の強制定住をめぐる問題提起。世には大きく言って遊牧民に昔のままの生活を送らせろという意見と、定住させて近代化させろという二つの意見がある。それに対して、まず遊牧民自身がどうしたがっているかを受け止めて、伝統的な遊牧技術を残しつつビジネスとしても成立させているという三事例を紹介する。続いてが星泉先生の現代チベットの長編小説の内容・出版状況についての報告。三番目が私で、清朝皇帝が20世紀初頭、チベット・モンゴルの実効支配にふみきると、両地域は清朝皇帝を「菩薩王」失格とみなし、1909年にはダライラマ13世が中国と断交、1911年にモンゴルのジェブツンダンパ8世は独立を宣言。後者の即位式はダライラマ13世の即位式のパクリであった。当時のチベット仏教世界は、中央と地方、モンゴル人チベット人という地域性・民族性の対立はあったものの、総体としては、ロシア・清朝の弱体化にともない政教一致の神権国家が栄え、独自の人的交流もすすんだ非常に活発な時代であったという話。
初日はこれで終わり、総会で会長が長野泰彦先生から武内紹人先生に交代したことなどが報告される。武内先生は「私はアメリカのコロンビア大学在学中に国際チベット学会の第一回にでたのですが、その頃は35人くらいで、こじんまりした大会でした。そのチベット学会は今は巨大化してしまいました。日本チベット学会はこの規模でいいと思います」と就任のご挨拶。
初日は懇親会の後お開きで、各自予約した宿坊にひきあげていく(山内にホテルはない)。私は主催校の望月海慧先生の宿坊、樋之澤坊にお世話になり、先生の人格者ぶりとホスピタリティに驚く。

翌朝、久遠寺本堂では早朝5時から朝勤が始まった。睡眠薬を忘れた私はもちろん五時起きしていたものの、宿坊まで車で送られており、本堂までの道のりがわからないためあえなく参加を断念する。くっ。
夜が明けて外を見ると宿坊には美しい日本庭園が併設されており、その上を霧が通り過ぎていく。幽邃である。そこで朝食のあと、比較的宿坊から近い日蓮聖人の墓所にダッシュする。霧にぬれた参道の石畳につるつるすべりながら、高速で拝観し、再びダッシュで宿坊に戻り、身延山大学に向かう。
最初の三人は民族学及び歴史で、カザン氏は東北チベットの血縁集団「ツォワ」(tsho ba)の祭事などつにいて、手塚利彰先生は出版済みの法律文書10冊の成立の先後関係を論じ、石川巌先生は敦煌文献にある七女神の名前が、チベットの護法尊十二教母の名前と重なることを提示。次のお三方は仏教学で、ラモ・ジョマさん「ツォンカパ中観思想における「戯論」の位置付け」、崔境眞さん 「チャパ・チューキセンゲの刹那滅論証理解:Pramāṇaviniścayaに対する註釈を中心に」、石田尚敬さん「ゴク・ロデンシェーラップ著『五巻本の解説』(Bam po lnga pa’i bshad pa)の構成」など。近年カダム派の文献を集めたカダム派全集120巻が刊行され、この文献を用いてゲルク派の教義の原型についての研究が盛んになるであろうことが期待されている。
発表が終わると、ほとんどの人は山内観光にでかけたが、私は昨日仏殿も祖師殿も拝観していたのと睡眠不足で疲れ果てていたのですぐ辞去する。

●今回の旅で印象に残った歴史的なもの
宝物館にあった「蒙古退治旗」。黒字に金字で法華経が書き込まれたすごい旗だった。
●今回の旅で心に残った言葉
身延山三門にあった宮沢賢治の歌碑
塵点の劫をし過ぎていましこの(計り知れないほどの年月をへたいま今生で)
妙のみ法にあひまつりしを(法華経の貴い教えに出遭いました)
●今回の旅で聞いた笑えるエピソード。
東チベット(アムド)のおじさんが北京にきて、どこに行きたいかと尋ねると「毛沢東記念堂」と言った。意外に思ったけどついていくと、そのチベット人のおじさんに依ると、毛沢東はアムドでは魔除けのお守りなのだそうな。
身延山は言うまでも無く日蓮聖人のご遺骨を祀る"棲神の地"。実は日蓮宗は伝統的な宗派としてもそれなりに大きいが、メジャーな新興宗教(創価学会、霊友会、立正公正会)なども日蓮系であり、マイナーなものも加えればそれはもう日本に日蓮系の宗派はゴマンとある。多くの人々に支えられているため伽藍はすごい立派。
身延は遠い。立川か八王子から特急あずさにのり、甲府で身延線特急ふじかわに乗り換えるのだが、この「ふじかわ」が二時間に一本しかない・・・。そして身延駅から久遠寺も車で15分かかる。都内を在来線でいく区間はたちっぱなしとなるので、感覚的には大阪に新幹線で行くより疲れる。さらに、旅立ちの朝は土砂降り。旅先で傘を忘れるだろうという揺るぎない自信があったため、さすのは小さな折りたたみ傘ではなく、大きめのビニール傘にする。忘れてきてもどなたかが有効利用して下さるだろう。
身延駅前から乗ったバスが身延山に近づくと両側から山が迫り、小林守先生をして「タルツェンド」(中国からチベットに入る境界の町で、ここからチベット高原ですということが体感できる地形の地)といわしめた渓谷に入る。山内は小さな門前町があるだけでコンビニはない。

大学の受付で懇親会費と参加費を払う段になり、同じバスで山についたIセンセが「石濱センセー、お金下ろしてくるの忘れました。お金貸してくれませんか」と言われたので、いいよ〜と快く財布だしてお金わたすが、よく見ると私もお金下ろしてない(笑)。仕方なのでK嬢から借りる。まさに借金の連鎖である。
しかし、主催校のホスピタリティは素晴らしく、宿坊にとまったのだが、万が一早稲田が開催校になったら、このレベルのおもてなしが私にできるのかと自問自答してみる。もちろんできない。
学会の最初はチベット情報交換会であり、岩尾一史さんは敦煌莫高窟に残るチベット文字で書かれた巡礼の落書きについての研究紹介、大場恵美先生はお釈迦様の数ある前世を描いたタンカセットの研究紹介、コーナー最後は今年で会長を退任される長野泰彦先生の任期中にクリアしていった課題についてのモノローグであった。
続いて放射線がとんできそうなタイトルのワークショップ「チベット学研究のホット・スポット」。私はこのコーナーの三番目の発表者。
開始前に、係の方がパワーポイントのテスト投射をするというのでマックをプロジェクターにつなぐと、愛鳥ごろう様の写真がスクリーンにでるもののパワーポイントはうつらない。会場から失笑がもれるので、「すいません、マックに詳しい方がいらっしゃいませんか」と呼びかけると、来年度からの新会長となる武内先生が「ミラーリングすればいいんですよ」と画面が写るようにしてくださった。しかし、本番でも同じ現象がおきたため、会場は再び失笑につつまれた(操作覚えろよ自分)。
本コーナー最初は別所裕介・海老原志穂両先生による遊牧民の強制定住をめぐる問題提起。世には大きく言って遊牧民に昔のままの生活を送らせろという意見と、定住させて近代化させろという二つの意見がある。それに対して、まず遊牧民自身がどうしたがっているかを受け止めて、伝統的な遊牧技術を残しつつビジネスとしても成立させているという三事例を紹介する。続いてが星泉先生の現代チベットの長編小説の内容・出版状況についての報告。三番目が私で、清朝皇帝が20世紀初頭、チベット・モンゴルの実効支配にふみきると、両地域は清朝皇帝を「菩薩王」失格とみなし、1909年にはダライラマ13世が中国と断交、1911年にモンゴルのジェブツンダンパ8世は独立を宣言。後者の即位式はダライラマ13世の即位式のパクリであった。当時のチベット仏教世界は、中央と地方、モンゴル人チベット人という地域性・民族性の対立はあったものの、総体としては、ロシア・清朝の弱体化にともない政教一致の神権国家が栄え、独自の人的交流もすすんだ非常に活発な時代であったという話。
初日はこれで終わり、総会で会長が長野泰彦先生から武内紹人先生に交代したことなどが報告される。武内先生は「私はアメリカのコロンビア大学在学中に国際チベット学会の第一回にでたのですが、その頃は35人くらいで、こじんまりした大会でした。そのチベット学会は今は巨大化してしまいました。日本チベット学会はこの規模でいいと思います」と就任のご挨拶。
初日は懇親会の後お開きで、各自予約した宿坊にひきあげていく(山内にホテルはない)。私は主催校の望月海慧先生の宿坊、樋之澤坊にお世話になり、先生の人格者ぶりとホスピタリティに驚く。

翌朝、久遠寺本堂では早朝5時から朝勤が始まった。睡眠薬を忘れた私はもちろん五時起きしていたものの、宿坊まで車で送られており、本堂までの道のりがわからないためあえなく参加を断念する。くっ。
夜が明けて外を見ると宿坊には美しい日本庭園が併設されており、その上を霧が通り過ぎていく。幽邃である。そこで朝食のあと、比較的宿坊から近い日蓮聖人の墓所にダッシュする。霧にぬれた参道の石畳につるつるすべりながら、高速で拝観し、再びダッシュで宿坊に戻り、身延山大学に向かう。
最初の三人は民族学及び歴史で、カザン氏は東北チベットの血縁集団「ツォワ」(tsho ba)の祭事などつにいて、手塚利彰先生は出版済みの法律文書10冊の成立の先後関係を論じ、石川巌先生は敦煌文献にある七女神の名前が、チベットの護法尊十二教母の名前と重なることを提示。次のお三方は仏教学で、ラモ・ジョマさん「ツォンカパ中観思想における「戯論」の位置付け」、崔境眞さん 「チャパ・チューキセンゲの刹那滅論証理解:Pramāṇaviniścayaに対する註釈を中心に」、石田尚敬さん「ゴク・ロデンシェーラップ著『五巻本の解説』(Bam po lnga pa’i bshad pa)の構成」など。近年カダム派の文献を集めたカダム派全集120巻が刊行され、この文献を用いてゲルク派の教義の原型についての研究が盛んになるであろうことが期待されている。
発表が終わると、ほとんどの人は山内観光にでかけたが、私は昨日仏殿も祖師殿も拝観していたのと睡眠不足で疲れ果てていたのですぐ辞去する。

●今回の旅で印象に残った歴史的なもの
宝物館にあった「蒙古退治旗」。黒字に金字で法華経が書き込まれたすごい旗だった。
●今回の旅で心に残った言葉
身延山三門にあった宮沢賢治の歌碑
塵点の劫をし過ぎていましこの(計り知れないほどの年月をへたいま今生で)
妙のみ法にあひまつりしを(法華経の貴い教えに出遭いました)
●今回の旅で聞いた笑えるエピソード。
東チベット(アムド)のおじさんが北京にきて、どこに行きたいかと尋ねると「毛沢東記念堂」と言った。意外に思ったけどついていくと、そのチベット人のおじさんに依ると、毛沢東はアムドでは魔除けのお守りなのだそうな。
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