清風学園チッタマニ灌頂(その1)
前エントリーで書いたように、グヒヤサマージャ(秘密集会)の砂マンダラの開壇式に列席した時、わたしは満月の日の成満を信じて疑うことはなかった。しかし、わずか二日後には状況は一変した。西早稲田の駅でケータイを確認したところ平岡先生の着信があったためかけてみると、沈んだ声で「家に帰られた時間に電話します」という。何かあったなと直感したが、家に帰ってかかってきた電話は想像のK点を越えていた。
宏一センセ「ダライラマ14世猊下の体調が思わしくなく、体力に負担のかかるグヒヤサマージャはキャンセルしたい、チッタマニ・ターラー尊の灌頂に変更してくれと言われました。センセ(私)にとってはかえってよかったかもしれませんね。」
私は四半世紀にわたり、宏一センセがグヒヤサマージャの研究と行を行っていたことを知っていたため、「えええ、でも砂マンダラつくってますよね。どうするんですか。そのためにお坊さんたちだってギュメから11人も呼んでいるし。本当なんですか。去年法王がいらした時は日本にいらしてから許可灌頂を本灌頂に変更されました。日本にこられたら気が変わられるかも知れませんよ」といってみたが、返事はない。しかし、砂マンダラは継続してしあげるようにと指令があったそうである。
灌頂初日、法王は開口一番「この二ヶ月の間に二度ヨーロッパにいって、それからインド国内でも法話会をやり正直疲れました」とおっしゃり、その表情を見ると確かにお疲れがみえていた。いつもは日本語通訳が話しをしている間は会場内をみまわして人々に笑顔を向けるのだが、今回はそれもあまりなさらなかった。
なにしろ、法王は81才である。世界中どこにいっても在外チベット人や仏教徒や政治家やその他もろもろの謁見希望者が殺到するため、側近の仕事は法王様の仕事をいかにセーブするかに重きが置かれている。しかし、法王様は自分を求めて集まってくる人をみると、必ず側によびよせ多くの人に会おうとされる。突然「車を降りてあそこまで歩く」などといいだし、本当に道ゆく人々に歩きながら笑顔で話しかけていくため、すぐに人だかりができ、予定もおしていく。あたかも、一人でも多くの人にあい、その心を慰めようとしているかのような、観音様そのもののような生き方である。
今回こんな話があった。宏一先生の弟君が、ホテルの前で法王の到着をまっていると、どこかで知ったのか一人のチベット人女性がホテルのまわりをマニ車を片手に巡拝していた。それを見ていて可哀想になった弟君は「××分くらいに法王が到着するよ。他の人にいっちゃだめだよ」と教えてあげると、そのチベット女性は「夫にだけは言っていいですか」と聞くので「夫ならいいよ」といったら、その夫婦は到着した法王をみるやボロボロ泣き始めた。こういう人たちが世界中にいるのである。法王が多くの人と会おうとする気持ちも分からないではない。
このような事情を良く知る立場にある宏一センセはグヒヤ・サマージャがキャンセルになったからといって、法王にあれこれいうこともなく、ただ心がばっきりと折れた。サマヤのYさんによると「スタッフでミーティングをやっていると、宏一先生がふらふら入ってきて、おかしなことをいいだしたんです。その異様さから『もしや来日が中止になったのか』と固唾をのんだら、チッタマニに変更されたとのことで、お坊さんたちは切り替えが早いから、じゃあこれからどうしようかと次の段取りを相談しはじめました」
しかし、後に宏一センセは「私のショックを理解してくれたのは、お袋と、マリアさんと石濱センセだけですよ」と寂しく笑っていた。何と言っていいやら・・・。
そして、スタッフも大変だった。内容が変更になったことにより、その通知。希望者のキャンセルの受付、問い合わせへの応答、日程表の組み替え、すでにできあがっていたテキストの差し替えなどにより何日も寝ない日が続いた。キャンセルの理由で一番すごかったのは「ダライラマが来られなくて、チッタマニというお坊さんが代わりにくるからキャンセルしたい」というものだった(爆笑)。
さて、法話の内容はまだ整理していないので、次回として小話を。
小話1
今回私がとまったのは宏一センセに予約して頂いた某高級ホテルであったのだが、偶然、法王様の真下の部屋だった。法王様の部屋はもちろんスイートで私はシングルであるから、部屋の半分か三分の一であり、私の真上はひょっとしたら側近のたまり場たったかもしれないが、それでも真下である。
宏一センセも「こういうことってあるんですねえ」と感心してた。チベット建築では法王様の部屋は最上階につくられ、誰も法王の上に足をおかないように作られている。かつて、かつてのチベットでは正月十五日に法王がパルコルの巡礼路を供物のトルマをみるために周遊する伝統があったが、その時も法王をみおろさないようにみな1階におりて拝礼した。なので、足下にいられるのはチベット的にいえば蓮華座を支える(えっへん)ことになるので実に光栄なことであった。そして最終日にシングル三日のお会計をみて、「さすがに法王様の部屋の真下」とそのプライスレスさに感心したのである。
小話2
今回、拙著の編集者が会場で拙著を販売してくれた。私より先に会場に入っていた彼女からメッセージがきて、そこには机の写真があり「先生がサインすると売れ行きがよくなります。机を準備しました。ここでサインしてください」とメッセがついていた。仕方無いので法話が終了するごとに、机に行き、ひたすら自著へサインをすることになった。初日にはあまり宣伝していなかったため、「護国寺・東大などの講演においても買いました。これで三冊めです」というヘビーユーザーかおみえになり、子供の発表会にきてくれる親戚や家族みたいな雰囲気であった(カツジさん、ありがとうございます!)。二〇〇〇〇年とか間違えてかいても喜んでうけとって下さる心の清い方々である。
二日目は退場の時間をつかって主催者が宣伝をしてくださったおかげで、私のことをこれまで知らないですんでいた人まで来て下さり、また、清風学園の先生方や一緒にギュメにいったみなさんや、旅行社の添乗さんまでいらしてくださった。いろいろな方にお会いできてとても楽しかった。
小話3
初日の晩、編集と私とサマヤのYさんと宏一センセで夕食をとったところ、衝撃の事実を知った。私の家の仏壇にはテンパゲルツェン師から拝領した観音菩薩・文殊菩薩・金剛手菩薩という仏の智・慈・力を象徴した三部の依怙尊がセットがあるが、最初に頂いた観音菩薩は何と平岡先生がダライラマ14世猊下から下賜されたものをテンパゲルツェン師に献上したものであった。つまり、うちの観音様、もとはダライラマ14世猊下のもの。
うちの観音様のタンカも去年法王様主宰の灌頂に使用して頂きサインもいれて頂いているし、チッタマニ尊(ターラー尊は観音様の分身)も2014年にギュメ密教大学から拝領した優品なので(ものすごく美しい。びびった)、それ相応の働きをしないと佛罰があたりそうで、超こわい。
小話4
去年の観音菩薩の灌頂は日本人に評判が悪かった。中国人、台湾人、モンゴル人の数が圧倒的に多く、彼らは式がおわったあと、壇上にあるお供えやダライラマ法王の周りあったものなどをすべてさらっていったからだ。(これは信仰心のあまりにしたことだが、日本人には略奪にしか見えなかった(笑)。
しかし、チベット人もダライラマ法王が顔をふいたタオルとかをそっと懐にいれたり、おいていった割り箸をそっと包んでもってかえったりして、法王様のふれたものをできるだけ手に入れようとする。
今回もガワン先生の弟子チューロ・リンポチェはステキなコップをもってきて、宏一センセに「機会があったらこのコップをつかって法王様にお飲みものをだしてください」と頼んでいた。それを返してもらって自分で宝物にするのかと思いきや、それを自分が帰ることのできないふるさとの人々の手元に送るのだ、という。泣ける話である。
2008年、ガワン先生が最後にインドにお帰りになる時に宏一先生に譲られた法具のでんでん太鼓は、サランラップにくるまれて大事に宏一先生の仏壇にしまわれている。サランラップはガワン先生以外の人の手が触れないようにしその法力を封印するためだ。
話変わって、このたびの二日目の朝、宏一センセから突然電話があり、「本日の昼ご飯ダライラマ法王の昼ご飯にMさんと一緒にどうですか」と言われ、拙著をもって伺ったところ、法王さまは拙著を手に取って写真をばらばらとご覧になって下さり、「中国はいろいろニセの情報を流しているから、真実に基づく話は重要だ」とおっしゃって机の上においた。食事のあと、私は法王が手にした拙著を手に取り、おもむろに給湯室に行くと、サランラップにくるんだのであった(爆笑)。
みなさまお疲れ様でした。
今気がつきましたが、この記事800エントリー目です。
宏一センセ「ダライラマ14世猊下の体調が思わしくなく、体力に負担のかかるグヒヤサマージャはキャンセルしたい、チッタマニ・ターラー尊の灌頂に変更してくれと言われました。センセ(私)にとってはかえってよかったかもしれませんね。」
私は四半世紀にわたり、宏一センセがグヒヤサマージャの研究と行を行っていたことを知っていたため、「えええ、でも砂マンダラつくってますよね。どうするんですか。そのためにお坊さんたちだってギュメから11人も呼んでいるし。本当なんですか。去年法王がいらした時は日本にいらしてから許可灌頂を本灌頂に変更されました。日本にこられたら気が変わられるかも知れませんよ」といってみたが、返事はない。しかし、砂マンダラは継続してしあげるようにと指令があったそうである。
灌頂初日、法王は開口一番「この二ヶ月の間に二度ヨーロッパにいって、それからインド国内でも法話会をやり正直疲れました」とおっしゃり、その表情を見ると確かにお疲れがみえていた。いつもは日本語通訳が話しをしている間は会場内をみまわして人々に笑顔を向けるのだが、今回はそれもあまりなさらなかった。
なにしろ、法王は81才である。世界中どこにいっても在外チベット人や仏教徒や政治家やその他もろもろの謁見希望者が殺到するため、側近の仕事は法王様の仕事をいかにセーブするかに重きが置かれている。しかし、法王様は自分を求めて集まってくる人をみると、必ず側によびよせ多くの人に会おうとされる。突然「車を降りてあそこまで歩く」などといいだし、本当に道ゆく人々に歩きながら笑顔で話しかけていくため、すぐに人だかりができ、予定もおしていく。あたかも、一人でも多くの人にあい、その心を慰めようとしているかのような、観音様そのもののような生き方である。
今回こんな話があった。宏一先生の弟君が、ホテルの前で法王の到着をまっていると、どこかで知ったのか一人のチベット人女性がホテルのまわりをマニ車を片手に巡拝していた。それを見ていて可哀想になった弟君は「××分くらいに法王が到着するよ。他の人にいっちゃだめだよ」と教えてあげると、そのチベット女性は「夫にだけは言っていいですか」と聞くので「夫ならいいよ」といったら、その夫婦は到着した法王をみるやボロボロ泣き始めた。こういう人たちが世界中にいるのである。法王が多くの人と会おうとする気持ちも分からないではない。
このような事情を良く知る立場にある宏一センセはグヒヤ・サマージャがキャンセルになったからといって、法王にあれこれいうこともなく、ただ心がばっきりと折れた。サマヤのYさんによると「スタッフでミーティングをやっていると、宏一先生がふらふら入ってきて、おかしなことをいいだしたんです。その異様さから『もしや来日が中止になったのか』と固唾をのんだら、チッタマニに変更されたとのことで、お坊さんたちは切り替えが早いから、じゃあこれからどうしようかと次の段取りを相談しはじめました」
しかし、後に宏一センセは「私のショックを理解してくれたのは、お袋と、マリアさんと石濱センセだけですよ」と寂しく笑っていた。何と言っていいやら・・・。
そして、スタッフも大変だった。内容が変更になったことにより、その通知。希望者のキャンセルの受付、問い合わせへの応答、日程表の組み替え、すでにできあがっていたテキストの差し替えなどにより何日も寝ない日が続いた。キャンセルの理由で一番すごかったのは「ダライラマが来られなくて、チッタマニというお坊さんが代わりにくるからキャンセルしたい」というものだった(爆笑)。
さて、法話の内容はまだ整理していないので、次回として小話を。
小話1
今回私がとまったのは宏一センセに予約して頂いた某高級ホテルであったのだが、偶然、法王様の真下の部屋だった。法王様の部屋はもちろんスイートで私はシングルであるから、部屋の半分か三分の一であり、私の真上はひょっとしたら側近のたまり場たったかもしれないが、それでも真下である。
宏一センセも「こういうことってあるんですねえ」と感心してた。チベット建築では法王様の部屋は最上階につくられ、誰も法王の上に足をおかないように作られている。かつて、かつてのチベットでは正月十五日に法王がパルコルの巡礼路を供物のトルマをみるために周遊する伝統があったが、その時も法王をみおろさないようにみな1階におりて拝礼した。なので、足下にいられるのはチベット的にいえば蓮華座を支える(えっへん)ことになるので実に光栄なことであった。そして最終日にシングル三日のお会計をみて、「さすがに法王様の部屋の真下」とそのプライスレスさに感心したのである。
小話2
今回、拙著の編集者が会場で拙著を販売してくれた。私より先に会場に入っていた彼女からメッセージがきて、そこには机の写真があり「先生がサインすると売れ行きがよくなります。机を準備しました。ここでサインしてください」とメッセがついていた。仕方無いので法話が終了するごとに、机に行き、ひたすら自著へサインをすることになった。初日にはあまり宣伝していなかったため、「護国寺・東大などの講演においても買いました。これで三冊めです」というヘビーユーザーかおみえになり、子供の発表会にきてくれる親戚や家族みたいな雰囲気であった(カツジさん、ありがとうございます!)。二〇〇〇〇年とか間違えてかいても喜んでうけとって下さる心の清い方々である。
二日目は退場の時間をつかって主催者が宣伝をしてくださったおかげで、私のことをこれまで知らないですんでいた人まで来て下さり、また、清風学園の先生方や一緒にギュメにいったみなさんや、旅行社の添乗さんまでいらしてくださった。いろいろな方にお会いできてとても楽しかった。
小話3
初日の晩、編集と私とサマヤのYさんと宏一センセで夕食をとったところ、衝撃の事実を知った。私の家の仏壇にはテンパゲルツェン師から拝領した観音菩薩・文殊菩薩・金剛手菩薩という仏の智・慈・力を象徴した三部の依怙尊がセットがあるが、最初に頂いた観音菩薩は何と平岡先生がダライラマ14世猊下から下賜されたものをテンパゲルツェン師に献上したものであった。つまり、うちの観音様、もとはダライラマ14世猊下のもの。
うちの観音様のタンカも去年法王様主宰の灌頂に使用して頂きサインもいれて頂いているし、チッタマニ尊(ターラー尊は観音様の分身)も2014年にギュメ密教大学から拝領した優品なので(ものすごく美しい。びびった)、それ相応の働きをしないと佛罰があたりそうで、超こわい。
小話4
去年の観音菩薩の灌頂は日本人に評判が悪かった。中国人、台湾人、モンゴル人の数が圧倒的に多く、彼らは式がおわったあと、壇上にあるお供えやダライラマ法王の周りあったものなどをすべてさらっていったからだ。(これは信仰心のあまりにしたことだが、日本人には略奪にしか見えなかった(笑)。
しかし、チベット人もダライラマ法王が顔をふいたタオルとかをそっと懐にいれたり、おいていった割り箸をそっと包んでもってかえったりして、法王様のふれたものをできるだけ手に入れようとする。
今回もガワン先生の弟子チューロ・リンポチェはステキなコップをもってきて、宏一センセに「機会があったらこのコップをつかって法王様にお飲みものをだしてください」と頼んでいた。それを返してもらって自分で宝物にするのかと思いきや、それを自分が帰ることのできないふるさとの人々の手元に送るのだ、という。泣ける話である。
2008年、ガワン先生が最後にインドにお帰りになる時に宏一先生に譲られた法具のでんでん太鼓は、サランラップにくるまれて大事に宏一先生の仏壇にしまわれている。サランラップはガワン先生以外の人の手が触れないようにしその法力を封印するためだ。
話変わって、このたびの二日目の朝、宏一センセから突然電話があり、「本日の昼ご飯ダライラマ法王の昼ご飯にMさんと一緒にどうですか」と言われ、拙著をもって伺ったところ、法王さまは拙著を手に取って写真をばらばらとご覧になって下さり、「中国はいろいろニセの情報を流しているから、真実に基づく話は重要だ」とおっしゃって机の上においた。食事のあと、私は法王が手にした拙著を手に取り、おもむろに給湯室に行くと、サランラップにくるんだのであった(爆笑)。
みなさまお疲れ様でした。
今気がつきましたが、この記事800エントリー目です。
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